Dec 22, 2007

ちゃんこ、あるいは藤井氏の講演会

 昨日は親父が家に来てくれたので、一緒にちゃんこ鍋を食べた。そのちゃんこやの天井には関取衆の手形がいっぱいあった。(そうすると、相撲部屋のリンチ殺人のことも思ったりする。死亡との因果関係は捜査中だろうけれど、どのような事情であれ、一人のものを大人数で、虐待、暴行するようなことは私は単純に嫌いである)なぜか格闘家佐竹雅昭の提燈もあった。ちゃんこの味つけは、さっぱりしている。胡麻をすって、そこにおつゆをいれるとツケダシの完成。親父はレモン酢をどばどば入れていた。酸っぱいものが好きなのだ。親父はいつものようにたくさん自慢話をして帰った。小学校の校門の前で子どもに挨拶するボランティアをやっているから、その話をしていた。立派な話をするのだけど、あれこれ毎回聞いているので、「そんなに正義の人なら政治家になったら」と皮肉をいってみる。すると、「そんなんしたら、お母さんが怒って別れるわ」と笑っていた。
 今日は、立命館大学で、13時より藤井貞和氏の講演会があるので、行ってきます。
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Dec 20, 2007

グニャグニャな年末

  最近は、いくつか仕上げないといけないことがあるのだが、いっこうに進んでいないのです。その一番は学校のレポートで四つ出題されています。明けの十日前くらいには提出しないといけない。やらなあと思うんですが、ぱっと手が出ません。ヤル気が出ればと思うし、いつもヤル気が出たら(ギリギリですが)やるのですが、正月早々レポートに苦しめられるのは嫌なので、ある程度まで片をつけておきたいのです。しかし、なかなか億劫であります。グニャグニャです。

 最近の出来事といえば、こないだ実習に必要なので、健康診断を受けました。幸い異常はなかったのですが、背が2cm伸びました。まあ、計測器の誤差なのだろうと思いますが、30過ぎても背がのびるというのは、慶賀なことなのだろうか。あと、昨日寝ていたら、突然鼻血が流れ出して枕を汚しました。鼻血は、もう何年も出ていないので、背といい鼻血といい、僕の体は何かありあまっているのでしょう。

   ありあまっているといえば、最近ドストエフスキーの小説『白痴』を読んでいるのです。純文学に抵抗のある方や、長編が嫌いな方は抵抗があるかもしれません。また、通というのが適当かわからないけれど、詳しい方は、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、果ては『永遠の夫』あたりをすすめるかもしれません。
 なぜ、『白痴』なのか?勘なのです。この小説はまだ第一編までしか読んでませんけれど、主人公のムイシュキンがどんどん事件に巻き込まれていくのです。いや、すすんで修羅場に出向いていって、さらに話をややこしく、過激に進行させる車輪になっているのです。これは、難しい小説が嫌いな方でも面白いと思います。ドキドキなんです。
 ムイシュキンは不思議な人物。知らないところや招待されていないところへいっても、奇妙なやわらかい雰囲気と、なにをいいたいかわからないんだけど、誠実な感じの物言いでうけいれられていくのです。しかし、一方で「白痴」ともいわれてうさんくさがられます。僕ももしやムイシュキンは、悪人ではないのかと思っています。実は、悪人と善人はそれほど隔たりのないものかもしれません。善も悪も何らかの価値を前提にしているわけで、そういうものをグニャグニャにしてしまう何かがある。もしかしたら、悪っていうのは、みなが前提にして、さらにそのことすら忘れている価値を根底から、ぐにゃぐにゃにするものなのかもしれません。そんな風にも思います。
 ありあまっているといえば、ムイシュキンだけでなく、出てくる人みんなが濃い上によく話します。どんどんしゃべる。しゃべることによって、秘密まで話して、また事態が展開して、どんどん、物事が思わぬ方向に転がっていく。これも、物事の筋をへし折るグニャグニャの醍醐味です。
 ムイシュキンは、みんなが普段言わないことを話させる雰囲気の持ち主なので、ムイシュキンが聴いたことをまたしゃべったりしてしまうことで、どんどんおかしな方向に行く。その結果、いろんな事情があけぴろげになって、これからどうなるんだろうという感じです。

     他聞に漏れず、僕もうっかり口をすべらしたり、感情をあらわにしてしまう方です。実はそうではないのかもしれませんが、わりかた言ってしまうほうなのです。なぜなら、云わないことにより後悔したくないからです。けれど、云ってしまって後悔することも多く厄介です。

 昨日、田中宏輔さんより、新しく出た2冊の詩集(一冊は詩論集として読める。The Wasteless Land.ⅡとⅢ)が届きました。宏輔さんありがとうございます。美しい装丁です。昨日いろんなものが「咳」をしだす詩を読んだり、ページをくって、ちょこちょこ眺めていました。以前、宏輔さんとぽえざるで会った時、僕の「ふたつのキ」という詩をみて、「木と気を使って僕も詩を書いたことがある」と仰ってました。それに該当するだろう部分を見つけて、あの時仰っていたものはこれかなと思っていました。年末から1月は忙しいですが、じかんを見つけて少しずつ読んでいこう。
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Dec 13, 2007

読中感想メモ『詩的分析』

  藤井貞和氏の『詩的分析』を読んでいる。「複屈折修辞」の節を読み終えて、「万葉本文論」に入ったところ。

 「複屈折修辞」について。そもそも「複屈折修辞」という言葉を知らなかった。掛詞などが一つの歌の中で、一筋縄ではいかない意味作用と余韻の効果をもたらすもの?だろうか。無知なせいもあって説明が難しい。縷々書いて行く。掛詞などについて、僕の受けた古典の授業ではある種の「シャレ」として説明されているにすぎなかったが、藤井氏は、詩の生成に関する重大なヒントとダイナミズムをここに感じている。その記述や歌の現代語訳が誠にダイナミックかつ精妙なので、古典文学に関して不明の私もひたすら心動かされて読むことができた。

 きみにけさあしたの霜の起きていなばこひしきごとに消えやわたらむ(仮名序)

 藤井氏の解説を引用する。
「霜が置くことと、起きて辞去することとのあいだに、懸け橋として、同音(あるいは類音)と、朝であることとがあるだけで、ひらいた懸隔は、消えいる思いと、霜の消えることとのあいだで、ふたたび交錯する。しかし意味上、表裏二つがかさなるということはなく、あえて言うなら、表と裏とがもう一度いれかわるという感覚だろう。霜が置く、消えるという、自然な現象をまさに懸け、焦点にしたところに古代の詩があり、そこから心情にも物象にもひろがる。」(『詩的分析』228㌻)

 表裏の次元の移動や、心情と物象の交感について注意したい。後学のため自分なりに反芻してみる。「起きていなば=愛人の出立」と「霜を置くこと」が同音であることで朝の情景という広がりを描く。しかし「いなば」というように仮定だから、そうなったらどうしようと思っているのだ。そのようなことになったとき、やがて昼になり霜が消えていくように、自分の気持ちも消え入るような(心細い)気持ちになって行くとしたらと。心は古い言葉で「うら=裏」という。別れのときの気持ちを想像する「うら=こころ」は、霜のように寒い朝だけにあらわれる実在(表)であると同時に消え入りそうな不確かさを持っている。(なんだかまちがっているかもしれない。)

 さらに藤井氏の解説をさらに自分に引き寄せてみる。「愛してくれているだろうか」「私の気持ちは確かなものだろうか」という誰もが感じたことのある何かに、確かにアクセスしてくるものがある。このアクセス性は重要だろう。
 藤井氏は述べる。
「どう受けとるか、どんな民俗や感情を盛りこんで読者が納得するかには、個人差があるものの、懸けたことばなら誰もが納得できるのではないか。」(先の引用部続き)

 心理的になるかもしれないが、私なりのアクセスを試みる。この歌は全体が心の産毛のようなもので出来ていて、それを「文=綾、彩」と呼ぶのかもしれない。その産毛が私に触れることによって、私の中の心の産毛がそよぐようにも思えるのだ。私も恋をしたことがあるから、この人の気持ちはどうなんだろうとか、そう思う私は相手を本当のところで信じているのだろうかと悶々とすることがある。よく考えてみれば、産毛と霜はどちらも細く頼りないものだ。この歌に出てくる人は、「あの人が出て行ったとき、わたしの心はどうなるのだろうか」という仮定の形で、相手にたいする気持ち、関係について、それらが自分をどこに連れ去るのか思いをめぐらしている。そのときの揺れる感じや次々と浮かぶ想念は、「霜」のように頼りなく儚い。自分がふとふわふわして、しかし奥底では醒めているのだ。(霜のように)しかし、光と風と土と水と大気(朝=自然)というその大きなものに照らされて、ささやかな思いがどういう未来を迎えるのか。そのような遠景からの巨大な視点もあるのだ。とてつもなく様々な魂の面に触れてくる奇妙にありありとした幻のような時間だ。それに触発されて私は、その確かさと不確かさの間を思い出す。それはもしかしたら別れがくるかもしれないという事実性を持った恋心の時間である。霜のように信と不信という対立ほどでもない何かが繰り返し朝の光のように反射(リフレクト)しつづける。もうあなたとの時間に入っているが「決定不可能」な心の瞬間を描く。その限りない反射が私をふるわせる。藤井氏の文と歌の感動からこういう感想を抱いた。そしてこれは虚実の交錯する表現空間の謎の一端ではないかと。

 たしかにひとつの「文」がこのような心の原初への働きを示すことを、藤井氏が語っているとすれば、(たぶんに私の想像も入っているが)それはまさに詩だといえるように思う。まだ途中なのだが、言葉と人が触れ合うとき一体何が起こるのかは、まさに文学の全身の問題であろうと思った。

 ※無知な上につい興奮しておおげさなところが見られますが、ご容赦ください。
 ※「心の産毛」という表現は精神医学者中井久夫氏が精神疾患患者(おもに統合失調症)の心の働きのデリケートさについて語ったとき使った言葉です。
 ※アイヌ神謡の四人称の問題も面白かったです。誰が語っているか という問題はどこの世界でも確かに見落とされがちでした。大江氏が一時ナラティブの問題について語って小説を書いていましたが少しわからないところもあったのです。
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Dec 07, 2007

近況、麦朝夫氏の近作

 きのう、友達と待ち合わせして、大阪の地下街「ディアモール」に行ってきた。FM大阪の公開録音があったのだ。Salyuという女性シンガーがゲストの回であった。地下街の真ん中にステージがあって、前には百人ほどあつまり、DJとトークしている。ジョニ・ミッチェルをカバーしているようでうれしくなった。
 その後に、堂島のジュンク堂に行った。編集工房ノアの本が特設の棚においてあて、天野忠さんの詩集が何冊か置いてあり、欲しくなったが今月は出費が多いので泣く泣く今度来ようと思った。
 なぜ出費が多いかというと、ひとつはレポートのひとつが不合格になり再提出しなくてはいけない。これについては、友達や、色んな人に愚痴を云った。そのひとつの理由に再提出に2000円かかるということがある。
 次に、来月実習なので、健康診断を受けないといけない。老人ホームに行くのでO157やサルモネラ菌を持ち込むとお年寄りの生命に関わるからだ。これは致しかたないけれど。

 今回のtabについて送っている方から、感想のおはがきが時々届いてそれが助けになっている。僕の今回の詩は「戦争」について書いているので、戦中に学校教育を受けた大阪の詩人麦朝夫さんから温かいお手紙が届いた。さらに近作を送ってくださった。叢生という詩誌の151号より「えらいおがってたなあ」より後半部を引用。





ニホンが焼けて 中学生になったらまた先頭で
マエヘーススメッ とおがったら
号令はいかん ハヨイケイケ
と担任がハエでも追うように手を振った 広い空
またドッと傾く世やけど あとは母を見送るだけやと
ヒヤーッと笑う
いちめんの 静かな いてへん者(もん)眺めたら

隣の部屋か 床の下や 誰か
おがって おがって おがって 寝られへんねん!
(麦朝夫「えらいおがってたなあ」より)

感想として軽妙なアイロニカルな感じの大阪弁で、麦さんが生きて
叩き込まれた矛盾が語られている。
麦さんは短い詩をよく書いておられるが
このような形でコンパクトに伝えることも
彼のひとつの切実さのあり方だと思った。

>いちめんの 静かな いてへん者(もん)眺めたら

ここに非常に打たれる。
次の連は生きているものの声(よがり声?)なのか
死んだものの声かわからないけれど
その間にはさまれて
麦さんの魂は、休むことができないのだ。
僕はベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を思い出した。
麦さんの中にも過去の廃墟が生きており
もうすぐ自分は死ぬとしても
何かを語り伝えたいという風が廃墟から吹いていて
彼を語らしめているのだと思う。
Posted at 18:38 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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