Jan 08, 2007

マザーテレサのところになかなか辿りつけない(もちろん比喩)

 彼女に、「マザーテレサは、全員平等にやさしく奉仕していたんだろうか?」と云ってみた。僕の頭の中のマザーテレサだが、そこんとこどうだったんだろう。そんなたくさんの人に優しくしていたら、感情疲労が起こらないのだろうか?それとも「本物の使命感」(なんだそりゃ)なんだろうか?とか考えていた。そうすると彼女が答えた。「マザーテレサのところに行けた人はやさしくされたんじゃないの?」と。僕は、そうだなー、関わりを持てること自体有限であるなーと思ったのである。やりとりとしては、この程度だが、関わりというか関係性について考えたのである。出会うということ自体奇跡に近いが、そんな出会いとも関係なく歩いている人がいるだろうと。
 僕が「○○さんに嫌われてない?」と聞くと、彼女は、「あなたは、好かれたい気持ちが強いから、そうおもうんやで」と云われてしまった。そうかもしれない。僕は独占欲が強いのだ。自分が関心をもった人には、好かれていたい。しかし、人の心は変わるものであるし、濃密な関係性を求める人あらば、そうでない人もいるのである。この自分と関わってくれたかということに、僕は一番関心がいく、普通にみみっちい人間なのである。それは僕が人並みに排他的であるのでもあろうし、マザーテレサで云ったように、関わる限度というものがあって、結局何が大事かということに話はいくのである。
 僕は、好き嫌いははっきりしているほうだと思うのだが、乗れる文脈と乗れない文脈みたいなのがある。なるべく色んなものを取り込んだ上でお話したいと考えているが、何しろぼんくらで、最近ではものすごく感動するということが少なくなってしまった。たぶん、僕のぼんやりした勘みたいなものが文脈を選んでいるのだと思う。迂闊には、近づくことはできないでかい問題もある。何の気なしに文脈にからんだら、とてつもなくでかかった、乃至は本質的で、考えるのに時間がかかってしまうということもあろう。しかも、たぶんどの問題も考えれば本質的なので、視野には入れるが宿題になって、そのままなりっぱなしということもあるのだ、実際。
 と云うわけで、色んなことをスルーしているので、何か悪いなあと思うのだが、情報化社会というのは、そんな心境に追い込まれるなあと思った。そんなの関係なく好きなことや人にもっともっとかかわりたいと思いながら、おっかなびっくりやっていて、自分の中に何枚も壁があり、なかなか辿りつけないのであった。ネットを見ているといつもそんな気持ちになる。
 この話は「作品」に対する関わりの問題とも酷似している。特にネットで膨大な作品を見る場合には。
Posted at 17:23 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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