Feb 29, 2008

まとまりのない散歩

 今日は久しぶりに梅田に出ました。北摂出身者なので、梅田というか大阪駅周辺は馴染みです。悩める時や色々考えたい時、10年位前はよく梅田界隈をぶらぶらしていました。だから今も時々無性にぶらぶらしたくなります。当時は今よりもさらに金がなく、ジュースを時々買うくらいで本屋で立ち読みか、歩き。あとウインドウショッピング。



 今日は悩みがあったというか実は自分はカウンセリングに時々通っているんですが先生とそろそろ潮時ですかねみたいな話をしていました。それで何となく物思いにふけっていたんです。今日でバイバイってわけではなく、あと数回だと思うのですが感慨深いというかさみしいです。
 そんな気分で梅田へGO!いきなり鶴橋の近鉄とJRの連絡改札で切符を取り損ねた!見ると切符がない。どうも誰かがもっていったようで切符がないんです。近鉄の駅員さんに言ったら「大阪駅で言ったら通してくれます」というのです。切符代は?と聞くと「たぶん事情を話せば通してもらえます」というのです。不安でした。
 なぜかこういうときに隣の席の人に「この電車内回りですか?」って訊かれました。「へっ?」っていったら「大阪に行きますよね」というのです。何か鼻息荒いお姉さんでしたが、きっと悪い人ではないです。
 大阪に着くと駅員さんに話しました。なんかあっさり通してくれました。なあんだ。でもよかった。それで少し気分がマシになったのです。
 大体こういうときはお決まりなんで紀伊国屋か旭屋に行きます。なぜかジュンク堂はコースではないのです。今日は紀伊国屋。川上未映子の『乳と卵』山積みです。地元ですからねえ。横には町田康の『告白』の文庫もあった。でも適当に眺めてついつい文芸誌のコーナーに行ってしまう。石畑さんが詩と思想の詩誌評に出ているという噂を耳にしたので読みましたらありました。石畑さんおめでとうさんです。
 『ユリイカ』も見ました。川上未映子さんはユリイカ編集部に直電して小説の掲載をお願いしたそうです。なかなかいろんな意味で出来るものではありません。ユリイカは詩というより完全にちがう方向の雑誌ですね。でも詩の投稿欄はちゃんと残っています。今は辻井喬さんが選者なんですね。知らなかった。小池昌代さんの時は何回か読みました。知人が投稿しているかもしれないので。僕はミッドナイトプレスに投稿したことがあります。
 『現代思想』もなんとなーく見ましたが眩暈がしました。よく見ると司馬遼太郎特設コーナーがどっかいっていました。なんで?



 すいません。本屋の棚紹介みたいになりました。実は詩の本のコーナーが移動していました。それで、詩の本少なくなっているかなあと哀しい予感がしたけれど何か前より増えているような気が…出版社が営業がんばっているのでしょうか。なんとtabの後藤美和子さんの詩集もありました。知っている方の本があるとめでたいです。
 で更に僕はというと現代詩文庫のバックナンバーを凝視していました。そしたら『続宗左近詩集』がありました。探していたのです。宗左近さんについては実はあんまり知らないのです。けれどこないだ宗左近選のアンソロジー『あなたにあいたくて生まれてきた詩』(新潮文庫)を読んだんです。これは題名はイマイチですが、立ち読みしてピンときました。セレクションがかなり渋いのです。絶対いいにちがいないと。子どもの詩も有名じゃない人の詩も作者未詳の詩もすばらしいんです。しかも名の通った詩人でも何かあまり代表的でないけれどいいなって詩を選んでいる。鑑賞文が驚くほどすばらしいです。



 ちょっと段落変えて詩の話です。宗左近編纂のアンソロジーに北野和博さんの詩が載っています。兵庫生まれの方なのですね。引用します。「家族」です。

氷のお家ができました
氷のお父さんができました
氷のお母さんができました
氷の犬ができました
もう少し待っててくださいね
氷の僕ができあがるまで



 見かけは単純そうなのですが実作しているとこういう感じの詩は案外書けません。僕の感じでは。あざとくなりそうになるスレスレで真実を暴露する。そのことによってより謎を残しています。でも、僕は宗左近さんの鑑賞を読んだからそんなふうにわかった口をきけるのかもしれません。宗左近さんの言葉を後半部分引用。「作品『家族』は、こわい。氷の家ができた。そこに、氷の父、氷の母、氷の犬。でも、これ死体ではない、生体。いわば冷凍庫の中のお話(中略)生きている死体がそろえば、家族ができあがる。でも誰の家族?もしもみんなが、高度成長文明社会という冷酷な大冷凍庫のなかにいれられてしまっているのだとしたならば?被害者だよと、被害者に気付かせない工夫の完成しているのが現代社会なのでしょうか。

 かなり凄いです。「生きている死体が…」から「誰の家族?」でもうやられました。「被害者に気付かせない」というのと「氷」の寒々しいイメージが、でもキラキラもしている。自分の子どもの頃の家族の郊外の団欒のなぜかさみしい感じが浮かんできます。さみしいのは何かが死なされているからだったかもしれません。でも、何が死んだのでしょう。



 カウンセリングで先生と考えてたことのひとつに今の詩の問題に近いものがあった気もします。しかし先生はそんなに甘くなくて答えはくれない。じゃあいわゆるカウンセリング然として「傾聴」しているかといえば、そうでもない。鋭く肺腑を柔らかく何回も掠る質問がきました。あまり持ち上げる気はしませんが、まあそれも先生の腕なのでしょう。
 僕はカウンセリングに懐疑的でもあるわけです。知り合いに話せばいいだろうって。そう思ったときもありました。でも家族や知り合いや友人に話しても尽きないすごくうっとしくて、けれど無くてはならないものがあの頃あったのです。今は形を変えていますが止みがたいものが今度は僕を突き動かしているように思うのです。抱えてて死ぬほど辛かった何かが実は僕を生かしめている。その何かは葛藤とか無意識とか言い方はいろいろなのでしょうけれど。先生は、たった一人ではないけれど、そんな時期に共にいてくれた方々の中の一人です。『続宗左近詩集』の「落ちたがらない氷柱」より最後の一行引用

 ああ春 折られているのに落ちたがらない氷柱



(本屋をあとにしてマクドで飯。どんどん歩いてスカイビルで映画を見るには遅くて(始まりまでけっこうあり終わったら夜9時過ぎてしまう)ネットカフェに数年ぶりに寄ろうとしたら人気がなくて恐くて辞めました。それからタワーレコードでいっぱい試聴しました。何か少し気分転換になりました)  
Posted at 02:16 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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