May 09, 2008
アクセルとブレーキとなんとかと
車で買い物なんか行くと、いやわたしゃ運転しないけどね。まあ、助手席でいろいろ感じることがある。
確実にかなりご高齢と見えるドライバーがいる。
地方もそうだが、大阪もその零落ぶりからいって
多くの地域は地方だ。
やから、年寄りにとっては、大型スーパーに行くのに
車を使うんだろうと思う。年寄りに車は必須だったりする。荷物重いし。
見るとけっこう動体視力や反応速度が落ちてるようで
急発進したりのろのろだったり
意外と左右もみてないのである。
スーパーの駐車場で、運転してくれる彼女と恐い思いをする。
批判ではなくて、この苛酷な交通砂漠の中では
きつそうである。
だが車というのは大きくて速度も速いから
加害者になりうるわけである。
それから大阪だからかなんなのか一部の女性ドライバーの
蛮勇な運転もかなりびびる。周りがよけると思うのか
歩行者のいる右折なんかでも、猛スピードでつっ込んでくる。
また女性だけではなく見るからに横柄な感じの男のドライバーは
携帯で話しながらタバコくわえて運転してたりしてびびる。
けっこうな音量のカーステなんかかけてね。
こういうと口うるさいおっさんなんだがしかも運転もしないのにえらそうなんだが
その上車の恩恵はちゃっかり受け取ってて誠にすまんのだが。。。
云いたいのは車って危ないのに過信してるのかなんなのか
加害者に自分はならないと思っている人が多い気がすること。
日本人は真面目な民族だと思っているのか
自分が横柄な運転をしていても周りがよけたり配慮するのが当然だと思っている気も。
私もそんな要素はたぶんにあるから、そう思う。
しかし、携帯でタバコで急になんか出てきたら、西部警察並みに
避けれるのかなと思う。
その背景には車の通る道路が人が暮らしている住宅街に入り込んでいたりして
これでかなり事故ってるのかなと。
私が見る限り、多くの場所で生活地域の中にどんどん車両や大きな道があるから
中学生のちゃりが車道の真ん中で走ってたりするし。
奈良なんかだと文化財がある観光地だからか歩道がやたらでかい。
けど、文化財があるという理由ならそうなって
普通の町だって人が生きているのにそうならないのですよ。
車の音や緊急車両の音やなんかは
デカイ道の近くに住んでいた頃など夜の睡眠がわるくなってしんどい。 空気も悪い。
路地なんかが多いところは無理なのはわかるんだけど
でも、恐いんだよな。
今までうちの父ちゃんの世代もそうだけど
大阪の中心街に仕事にいってて、住宅街は帰って寝るところだった。
けど、そういう人たちもどんどん定年して
住宅街で多くの時間を過ごす。
今はうちの父ちゃんなんかも、元気だけど 足腰が弱ったりしたら、どうするんだろう。
今でも年寄りや子どもにとって、住みにくい町は
津々浦々にあって
年寄りはこれからあふれかえるから(田舎は限界集落がいっぱいある)
エコな観点だけでなく、単純に住むのが辛くない町って
どうつくるんだろ。
こないだジャズストリートで、車の交通を制限したりするとね
町が広く感じたからこんなこと書いている。
ほんとにのびのびするのです。
人間の体にも町にも車にも、アクセルとブレーキだけじゃなく
ハンドルや変速機もあるのだ。
どういうことかっていうと
生き物やものは止まるか動くか、働くかひきこもりかでない。
年寄りも、定年=老人ホームでない。
微妙に速度や方向を調整して動いている。
町だって、子供のとき見た町と若い時の町と年取ってからの町はちがう。
町だって生きている。そこには建物や木々や空や土があって
元気な町や疲れた町がある。
けれど、ある街に色んな表情や匂いや、速度があって
それって、人間の健康にとって大事だと思うんよ。
私にとって車と人の関係はそういうのを考えさせるんだ。
生き物の轢死体を見るとやはり苦しいよね。俺も人間の一員だから
共犯なんだが、苦しい気持ちになるのは単に同情だけでないと思うよ。
May 07, 2008
遅ればせながらジャズストリート報告及び連休
5月4日は高槻ジャズストリートに行った。参加ミュージシャン4000人、47会場という高槻市の中心街の各所がステージと化す大イベント。もう10年も続いている。けれど商売っ気もなく、ジャズストリートTシャツ販売と募金といくつかのスポンサーのみであとは市民参加の地域密着イベント。入場料はなく、喫茶店の場合はお茶を飲んで演奏が気に入ったら投げ銭という感じか。子どもから年寄りまで、ジャズ好きからただ音楽を楽しみたい人までいろんな人が街のあちこちに繰り出している。阪急高架下やら、公民館のスペースや喫茶店などがライブ会場で、てづくり感がよい。また音環境に格別の工夫はないのに、それぞれの音空間が手触りのあるもので、親しみやすく演者との距離も近い。
市民会館では日野皓正がよく来てる。また高槻城跡公園や、市民グラウンドでは、フリマも開かれ、ビールを飲みながらジャズも聴けます。久しぶりに行ってとてもよかった。
5日はのんびりして、6日は友達の犬と遊ぶ。さびしかったようで、いっぱい甘えてきて、顔中なめられました!動画①場所;阪急高架下みずき自動遊園(演者;森田葉月&森川七月カルテット)②場所;JKカフェ(演者;Tacto Tango)③場所;城内公民館1Fロビー(演者;サボン)※いずれも携帯での撮影のため15秒間 0001.3GP 0002.3GP 0003.3GP
May 03, 2008
マテリアル
山のあなたの空遠くはっきりはっきり目が覚める
布団を押し上げて
燃えてしまっている
あなたが幸いではなく
きがかりだ
何の関係もなくきがかりだ
そう
そういうこと
きがかりだ
みることは
みえないのだから
みようとするのだが
みえないのだから
きいているのよー
きこえていないから
きいたことにしてしまうけれど
あなたの秘密を
きいたことにしてしまうけれど
それでははじまらない
にせものなんだから
余の思いはにせもんなんだから
にせもんをあなたになすりつけて
素敵な風景をきどっている
じょうろ
あなたが花だと思ってみて
水をやる
葉と葉のあいだに
つぼみをつけた茎が伸びている
まだ咲いていない
山のあなたの
咲いていない
贈り物です ピンポーン
空の配達です
知らない人々のおもいでのつらなり
金の模様である
雲がいずる場所
その地点にはおどろくほど
おどろくほど
おちていこうとする水の
つぶつぶがフリーズしている
山のあなたの
固まっている
それは器
器でない
攻撃できない
何もないようだ
水があるというのに
それは一瞬で
凝固したアトムさんの集合
よりあつまって激しく静かに
聖している
精している
そうだおちかかっていこう
おちかかる
棚から牡丹餅
2階から目薬
仕方ないのだから
こうでもしないと
山のあなたの
あえないのだから
強い風は山にぶちあたり
激しく渦を巻き
山のあなたの幸いの町を
こなごなにしてあなたを取り出すまで
余はふりつづけよう
ふりつづけよう
May 02, 2008
tab8号初出散文「人身犠牲について」
こないだ藤井貞和氏の立命館大学での講演会に行ってきた。「詩と戦争」というテーマは非常に語るのが困難な課題だ。残念ながら湾岸戦争における詩人たちの論争を私は詳しくしらない。そこから様々な論者がどのような課題をこれまで展開してきたか、そしてそれに対して自分がどのような立場をとれるかは今はわからない。ただ、藤井氏が「人身犠牲」について論じていたことに特別の興味を覚えたので、自分の想念を書いておきたい。私にとっても「人身犠牲」は大きなテーマだった。自分が学生時代受けた暴力(いじめ)には犠牲の構造があるのではないかと思ってきた。しかしそれをあまり大きく学問的に考えるよりも、私は自分とみんな(全体)との関係の一例として考えたいと思った。最初は自分だけがこのような目にあうのはなぜかという理不尽な感覚から考えた。しかし実は中野富士見中での「葬式ごっこ」を始め自分より大きな社会にたくさん存在していることを知った。「葬式ごっこ」とは何か。長い間同級生から殴られたり精神的に苦しめられたある中学生がいた。死んでもいないその子が教室に来る前に同級生のあるグループが机の上に花瓶を供え、クラス大勢の寄せ書きをおいたのである。当時は軽薄な時代で、その子も同級生も悪い冗談として受け答えしていたが、深いショックを受けたその子は自殺してしまったのである。それからというもの、知らない間に死んだものとして扱われる、つまり殺される、それが儀式の形をとるということが頭から離れなくなった。なんといってもその子が私と二才しか変わらないのが大きかった。
単に自殺した子に同情するだけでない、その構造を変える考えはないかと思った。それから大まかにいじめにおける犠牲の構造を考えた。少し整理するとこうである。人が集まっている場所がある。それが自由を奪う(例えば先の話だと学校)いびつなものだとしたら、様々ないびつさが問題や不満を生み出す。ここで、その場所の前提をみなで変えることができれば問題ない。しかし、それをしない・できないから、なかったことにするために象徴的に誰かを血祭りにするという解消法を思いつくのだと考えた。
我々は「日本人が和を大切にする民族だからそのような暴力はしない」という感覚がないだろうか。しかし、全く逆で、和を大切にするからこそそのために誰かを犠牲にしてことを済ますという構造が存在するのではないかという考えが私の頭をかすめるのである。
犠牲の構造は人類が生み出した一つの知恵である。それは我々が今や想像もできないような苦闘によってできたのだろう。藤井氏は実は戦争も「人身犠牲」というやり方では内部の問題が処理できなくなったとき、それを外化する一つの知恵かもしれないという。それは更なる犠牲を生み出した。しかしそれらの方法がなぜとられたかを考えないと戦争という仕組みを変えることはできないと。私が思いだすのは「聖なるもの」と戦争や犠牲がどこかで関わっているのではないかというバタイユの問いだ。
ただし、犠牲の構造によって消された問題はその時点で解決が難しいから犠牲を引き出してしまったのだ。とすれば依然問題は残っているはずだ。消された場所から問題の痕跡を取り出すことで、問題を知り誰かを抹殺しない方向で問題を考えることは可能ではないかと思う。それが誰かが死んでしまった後にできる、せめてものことかもしれない。恐らくそれが暗いけれど希望の内実かもしれない。
※初出からブログに掲載するために一部文章を変えています。ご了承ください。初出=詩誌tab8号2008.1.15 この文章は私がファンである上山和樹さんのブログに刺激され、当ブログに掲載しました。上山さんは「ひきこもり経験者」として、ひきこもりをめぐる様々な状況に果敢に切り込んでいます。上山さんは恐らく生きていく苦しみの中で感じられたであろう「何かがおかしい」という感覚を手放しておられない。それを手に分析や批判的検証を続けておられるように思います。そしてそれは、単なる人任せの批判ではなくご自身の身をかけてのように感じています。私も「何かがおかしい」という感覚がこの社会で封殺されるのを感じたことを拙ないながら覚書としてこの文章に書きました。私が上山さんのように身を賭けて書けているかはわかりません。ただもし上山さんがどこかで読んでおられたらうれしいなと思っています。上山さんがどのような方なのは、実際存じ上げないので、本とブログの印象ですが。
さっき書いた上山さんのブログ。Freezing Point
May 01, 2008
思い出
あついす。朝から地元で野暮用があり行ってきました。Tシャツにながそでのボタンシャツ羽織ってるだけやのに軽く汗かく。
久しぶりに阪急に乗る。小豆色の車体にうすみどりのシート非常になつかしい。
野暮用自体は簡単な手続きで、すぐ済んだ。
市立某図書館に入る。高槻にいたころは、中央と小寺池と天神山の3図書館にはお世話になったす。
そこで長谷川四郎訳ブレヒト詩集、ハイデガー『芸術作品の根源』、アルチュセール『哲学について』を借りる。十年くらいまえによく来ていたときにいた司書の女性が今もいたので感動した。こういうとストーカーめくが、当時素敵な感じの印象があって、今も綺麗な人だった。みんなそんなに面子が変わってなかった。
当時は時折いやいやバイトする以外、図書館か淀川の河原でひなたぼっこするか、本屋くらいしか行かなかったから、ほとんど人と話した記憶がない。仕事が続かないから、親と会話するのも気詰まりで。やから、図書館の司書の人は覚えていたのかも。僕が好きな感じの人だったという理由が大きいけど。
そんな感じで今風にいうと、フリーターとヒキニートの中間みたいだったなあ。
家族以外、誰ともしゃべってなかったし、昼間はブラブラしていたし、意味わからん文章書いて、焦りまくっていたし、ニーチェにはまってたし、悩内がけったいなもんでつまっていて、大忙し。
内容は本人にも不明だが、根拠のない自信(妄想?)もあり。けっこうやばい感じの人じゃった。
今は単なるしゃべりのおっさんである。
本返しにいくの面倒やけど三週間借りられるから、まあ里帰りした折りに返そうかな。というか読みきれるか?ゴールデンウイークは高槻JAZZストリートもあったな!あれいいよ~
今年はどうすっかな。
高槻ジャズストリートHP
Apr 30, 2008
鞍替え
昨日は2か月に1回開いている恒例の合評会に行ってきた。全部で4作の合評も終わりいつものように2次会に。といつもの居酒屋に行くとシャッターが閉まっている!休み?ちがう。「さる○月×日をもちまして閉店いたしました」の張り紙が…。ガーン。
というのは安かったからである。いつも同じお姉さんがレジを打つのだが、いくらかまけてくれてるか、打ち間違いなのか、非常にお得なプライスなのであった。
ちょっとみんなで呆然としていたが、これは仕方ないとなった。きょろきょろ振り向いてみると、向かい側の通りに飲み屋があった!あそこいってみようとなって、入ると食い物がおいしい・さらに前の店と同じくらい安いので、今度からはこっちにしようということになった…と思う。
Apr 25, 2008
しわしわの話
自分の芯のほうを気づかってやらないと。そうしないといとも簡単に私はしわしわになるだろう。
しわしわに気づいてしまったらもうその感じが
触りたくてかなわない。
見ることも聞くこともかなわない、どうしようもないところに
ずっと押し込んだら
どこにいったか忘れて忘れたこと自体
姿をあらわさなくなるのだけど。
だから、かなわないながら、時々はしわしわのまま
どこかで夢を見る必要がある。
しわしわで耐えられるのは10年とかはたまた100年くらいで
しわしわのまま、死んでしまって
しわしわらしきものが、どこかで持ち越され
曲がり角とか、ドアの外にでる時に
うつしみに入っていく。
うつしみはそういうしわしわを生きている。
しわしわはずっと何か呼んでいるはずなのだから
だから、この服を買いたいとか
この空は20年は持つと思うというような
いい気分が呼び起こされ
そのしわしわが、暗やみの部分を支えて
ずっと苦労することになるのだ。
しわしわにはなれない。
しわしわだからなあ。私のそのまた私の
どうしようもなく私が明け渡しなら
渡しだから
しわしわはそこに住まうこと自体をさすわけで。
貧しいや、異邦とか、そういうものは
ものではなく
しわしわの変異形態である。
しわしわはしわしわでしかありえず
しわしわは何者にもなることができ
ついになんでもないような気になり続ける
そんな声を発し続ける。
美味しいご飯を食べて
しわしわで
しわしわは、変わらないことで
どんな味付けもできるふりかけかもしれない。
しわしわがうづくと
もうどうしようもない。
果てしなく夢をみて
夢を生きてだらだらと寝たまま
生きていき
記憶は用意され、人生山あり谷ありで
しわしわだけが、それを握って放さない。
そういうとき人は夢中で自在に
一切の中に放下して、ああええなあと
どんどん自在自動の境地に達するとかどうなのか。
Apr 24, 2008
今日の発見
おおきく身体をうごかすと意外に疲れないようだ。今日そう思った。肩や足腰のコリが少ないのだ。
掃除の仕事をやっているとどうしても
しんどくない身体の動かし方を探るようになった。
結果、あまりジタバタせずにこじんまり呼吸をおちつけて
動かすようにした。
だから逆にちじこまって身体が凝って息ぐるしかったのかもしれない。
便所はそんなに広くないから小さく動く。
けれども、大きく動いた方がいい。
逆にストレスがたまらない。
なんで大きく動いた方がいいかと思ったかいうと
今日は作業員の人数が少なくて
僕と職員とやらざるをえず
早く終わらせたいからてきぱき動いた。
大きく流れる感じで、さっさと。
すると、意外に身体がごりごりにならなかった。
僕は病気してから落ち着いて呼吸することを
念頭に置いてきたような。だから、ゆっくり落ち着いて
動くといいと思ってきた。
けれど、さっさと活動した方が
身体に空気が入って、汗かいて、いいときもある。
息もちょっと上がり目で。
もちろん、くたくたのときにそんなことやってはいかんのだが。
それが今日の発見です。
Apr 22, 2008
ドイツ名詩選
友達がドイツ語を学んでいるので刺激を受けて、梅田の紀伊国屋をぶらぶらしていた。しかしやはり語学というように固く考えてしまうと緊張してきたので、岩波文庫の「ドイツ名詩選」を買ってみて、テキストに親しむことから始めてみようと思った。前から哲学書を読むと語学力が必要なことをぼんやりと感じていたのである。昔は語学が好きで結構英検の勉強なんかもやったが準一級に受からず止めてしまった。大学ではドイツ語を選択していた。ニーチェやカフカが好きだったのだが、授業をきちんと受ける以外それほど力を入れていなかった。しかし、最近翻訳で哲学や詩や小説に親しむようになるたび、この人たちは自分たちの言葉でどのように書いていたのかその息吹が気になってはいたのだった。
ドイツ名詩選は安くて小さい本ながら、詩人の略歴・全体の解説がついており、見開きで原文と訳文が並んでいる。非常にお得である。ゲーテからシラー、ヘルダーリン、ハイネ、リルケ、ブレヒト、トラークル、ツェランとここ300年くらいのメジャー詩人はおさえてある。もちろんドイツ文学のマンやヘッセのペーパーバックは置いてあったのだが、当然全部ドイツ語なので、久々に外国語に触れるものにはハードルが高いし。
ほとんどすべての物から感受への合図がある、
向きを変えるそのたびに、思い起こせと吹きよせるものがある。
わたしたちがよそよそしく通りすぎた一日が、
未来において決然とした贈り物となる。
(リルケ「ほとんどすべての物から」抜粋ドイツ名詩選岩波文庫より)
素敵だ!
Apr 21, 2008
長谷川四郎訳カフカ傑作短編集より『彼』
彼がさからって泳いでいる流れはたいへん急なので、ときどき、ふとぼんやりしたりすると、彼は空々寂々たる静けさの中で水をはねかえしていて、その静けさに絶望するのである。彼が一瞬断念したあいだに、それほど果てしもなく遠く、彼はあとへ流されていたのである。(『彼』の中の一節-カフカ傑作短編集長谷川四郎訳福武文庫1988より)
*
私が20代ヤノーホの『カフカとの対話』やカフカの短編集・手紙には救われる思いがした。
池内紀さんの翻訳は読みやすかった。『カフカとの対話』の訳者吉田氏もよいと思う。しかし優れた文学者で翻訳者の長谷川四郎は、カフカの体温をつかんでいるのではないかと思わせる部分がある。
流れが急なことと「空々寂々たる静けさ」は矛盾しない。また自分の居場所がわからなくなり所在を失っている。にもかかわらずその所在のなさを逆に穿つ執拗さは諦念スレスレである。どこだろう、ここはなんだろうという問いを身に引き受け、そこから生ずる苦しさをさめざめとしたおかしみに変えているからだろうか。『彼』は箴言集とも詩ともどれともちがう奇妙なフラグメントである。けれども、区切りのみえない無際限の中に途方にくれていることでカフカの居場所がほの見えるようでもある。
形式が詩に見えにくくとも、ふと書いてしまう言葉が詩的であるということもある。なので普通詩人と呼ばれないカフカの作品を引いてみた。カフカは詩や文学が20世紀以降生きうるその培地であるように思う。
長谷川四郎は自分のシベリア体験をもとに、小説を書きながら優れた翻訳を静かに出してきた。たしかブレヒトやボブロウスキの翻訳もあると聞く。シベリヤ体験のある石原吉郎や香月泰男らとの硬質であったりある地点にとどまるだけでない茫洋とした感覚を長谷川四郎は持っていたように思う。長谷川と詩の関係は考えてみるなら興味深いだろう。
今日ドイツ名詩選の中にボブロウスキの詩を見つけた。「カフカ傑作短編集」の解説の中にもあったので、できれば紹介したい。
Apr 20, 2008
僕の思ういい男
前から云っていますが僕は奥田民生や河島英五のファンです。全然ちがう2人ですが、男のしょうもなさや情けなさを深く感じているから彼らは結果的にすごくカッコいいのだと思います。僕も弱虫の男子なので、どうやったら憧れの二人に近づけるかなと思っていますが、結局とりあえず生きてみて色んな情けなさやうまく行かなさを感じてそこに沈静するってこと。その深さを体にしみこませること。さらにそういうあれやこれやを吹っ切って「やるときはやるってこと」。
この最後の行為というか決断が僕はなかなかできません。けれど思い返すと彼らのまっすぐさは父性と意外なほどの繊細さ=母性からできていると思います。僕自身介護の仕事に就いたとき、まめまめしく世話や洗濯をやっていたら、「丁寧だ」「お母さんみたいだ」と同僚からからかわれ?ました。けど、際限なく丁寧だとしんどい。
お父さん見たいってのは云われることがあります。よく子どももいないのに、「お子さんいらっしゃいますね?」といわれます。まあもう30過ぎだから仕方ないけれど。けっこうお節介ですね。それが実は父性の正体です。実は僕の父もそうですがえらそうにいいたがりなんですね。鍋奉行とか。僕もそうです。それが理屈っぽいのでいやがられます。しかし、うちの親父もそうなんで非常にガキっぽい。だからお節介なんです。見守っていて落ち着いているようで気が気ではない。実は心の中に少年がいるのが「父性」かなと思います。
最初の2人にもどるとやはり少年のように一途なのを照れくさそうに隠している。それがいい男の正体かなと思います。自分もそうなりたいなあと思います。40過ぎてアジア放浪とかライブとかそんな体力もないし、そもそも彼らはアウトドア派。僕めっちゃインドアじゃないですか!結局僕はうじうじ男らしさにこだわっているだけなのかな~
集まりに行く
昨日はある詩の集まりに行きました。西成区が会場。大先輩詩人の木澤さんに誘っていただいたのです。木澤さんの新詩集について感想をお送りしたことがきっかけでした。車両事故で環状線のダイヤが乱れ少し遅れてしまいました。けれど他の方もそのあおりをくらったようでした。
昨日は打ち合わせということで、言葉の音や声について考える会にしようということになりました。世界には鳥や風や車や話し声、くしゃみ、ありとあらゆる音が満ちています。その中で聞くということ。私たちはある音のつらなりを選択して聴いているから、音楽や話、朗読が聞けるのです。木澤さんの補聴器の体験、清水さんのジョン・ケージの話が印象的でした。
木澤さんは耳が悪くなって始めて補聴器をつけて音楽を聴いたとき、いままで聞いていた音楽が実は様々な深みで成り立っていると気づいたと言います。また清水さんは大阪万博の時にドイツ館に入ったら、ジョン・ケージがいて大きな砂嵐のようなノイズを聴かされ、演奏が終わると皆出て行ったといっていました。
私たちは音の海の中から無意識にある音を選択しているのですが、そこには実は様々な制約があること。音を発する側と聞く側にお互いの交流がないと、を使った芸術は見るも無残なこと。これはつまらないライブや朗読会でかんじることがあるのではないでしょうか。
音環境のほかに、お互いがシンクロしてしまう瞬間がある。私が思ったのは実はリラックスして聞いているほうがよく集中できるからより深みを経験できるし、更に言うと私たちは気まぐれに程よい雑さをもって聴いたり聴かなかったり、声を出したり出さなかったりしている。皆さんで一致していたことは程よい雑さに目覚めることが意外に音の体験を深くするのではないかということでした。
これからはお互いの声を確かめるということで詩歌に縛られず、様々なジャンルの本を皆で音読しあってみようということになりました。
Apr 18, 2008
浪をくりかえすのは-中野重治の「浪」を考える
浪 中野重治人も犬もいなくて浪だけがある
浪は白浪でたえまなくくずれている
浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は再び走つてきてだまつてくずれている
人も犬もいない
浪のくずれるところに不断に風がおこる
風は磯の香をふくんでしぶきに濡れている
浪は朝からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
浪はこの磯にくずれている
この磯はむこうの磯につづいている
それからずつと北のほうにつづいている
ずつと南の方にもつづいている
北の方にも国がある
南の方にも国がある
そして海岸がある
浪はそこでもくずれている
ここからつづいていてくずれている
そこでも浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は朝からくずれている
浪は頭の方からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
風が吹いている
人も犬もいない
*
タイピングすると僕のパソコンは使用した変換とか文章を記憶 するので、ある意味うつのが楽だ。
しかし中野重治は手書きで書いたはずでどんな気分だったんだろうな。
ぼーっとしてるように見えるんだが けっこう冷え冷えとした熱いものが(語義矛盾だが)
高まるんだけどすぐに崩れるような。
海というと小説では安吾を思い出してしまった。
「私は海を抱きしめている」ってあった。
でもなんとなくドラマチックである。
しかし中野重治はドラマを拒絶してもっとどうしようもない
反復の風景に出来事を見ているような気がする。
「くずれている」の意外に起伏に富む繰り返し。
イタロ・カルヴィーノが「パロマー」という小説を書いている。
主人公の元インテリっぽいおっさんが海をぼーっとみつめて
形而上学的な思索をする。カルヴィーノはレジスタンス活動の中に
いた人で、中野重治との関連もいえなくもない。
パロマーの主人公は海の波に幾何学的な何かを見るわけだが…
中野重治の記述は大またで書いている。
じっと観察するよりはもっと「見えてしまっている」
もっと「聞こえてしまっている」
そのことをそのまま書くと恐いなあと感じる。
ただし中野重治はきっと韻律をこの詩でもかなり深く考えている
ように思える。いいぐあいに繰り返しに変な引っかかりがあるのだ。
連想したのは童謡の「海」である。
海は 広いな / 大きいな / 月が のぼるし / 日が しずむ
海は おおなみ / 青いなみ / ゆれて どこまで / つづくやら
海に おふねを / うかばせて / 行ってみたいな / よそのくに
意外とこの歌に通ずる無限の感覚があるような。
この歌はもっとふわふわしているが。
Apr 17, 2008
芋づる式思い出映画「エンドレスワルツ」
若松孝二の映画「実録 連合赤軍」を何となく見ようかな、どうしようかなと思っている。何しろ、あさま山荘事件は僕の生まれる前の出来事。親父が「ずっとテレビ中継してたな」と云ってた。けれど前見た若松監督の「エンドレスワルツ」はけっこう面白かったので。やはり見ようかな。役所広司がでてたあさま山荘の映画はどうも見る気になれなかったし。思想の問題として重要な点はあるだろうから迂闊にはいえないんだけれど、思いつきだけどいじめとか排除と関係あるのかもしれないな。グループとか関係の中での排除の機制を自分の中にもあるものとして自覚しないと、そこで発生する力は暴力として駆動するのだろうか。なぜか坂口弘の本を図書館で借りた覚えがある。あの人はうたを書いていたんだったな。でも内容あまり覚えてないな。永山則夫は小説書いてたし。宗男と連座した佐藤優の本はバンバン売れているし。刑務所や拘置所って実は文学空間なのだろうか。
「エンドレスワルツ」について。あれは確かジャズ奏者阿部薫と鈴木いづみの関係を描いたものだった。どちらもリアルタイムでは知らない。阿部薫は町田康、鈴木いづみは広田玲於奈が演じていた。 印象:町田康はあの映画で非常に男前だと思った。けれど小説はあまり読んでない。とにかく男前だった。あの映画での阿部薫はかなり壊れてる人だった。ほんまはどうかわからんけれど、とにかく壊れた人で散々女を振り回すのであった。けれど、どこかにイノセントな凄さがあってやはりいい男に見えてしまうのだろうなとも思った。「男は身勝手」みたいなお話のような気もしてしまったのだが、どうもそれだけではなくそのいい男さと演奏が渾然一体となって彼の魅力を形成していたようだ。とにかく僕は阿部薫と鈴木いづみが一種のカルチャスターだったことしか知らないのだけど。
幽霊になって奥さんの前にあらわれるところはいい。色々映画について調べたら幻覚という感じの記述もあったが僕はある種魂のようなものを感じたため「幽霊」と書く。「鉄道員」で娘の幽霊が高倉健の前にあらわれる感じとはまったくちがう。僕は幽霊を見たことがない。そういえば小学生の時盲腸で入院していたら隣のおばさんが「だんなの幽霊が枕元にたった話」をしてくれた。おばさんは素敵な感じの人だったので幽霊の在非在以前に「そうなんだ」と得心してしまった。
結局「鉄道員」は何となく「交感」がないような気がするのだ。愛といってもいいかもしれないがそういうものが空間に満ちる感じ。「エンドレスワルツ」にはあったんだよな。部屋の感じとかも好きだった。
で、若松孝二の映画情報を調べていたら、なんと詩人福間健二さんの名前が!福間さんは若い時若松プロで映画製作にたずさわっていたのか。知らなかった。福間さんが訳したブローディガン「東京日記」は覚えている。ブローディガンは生前日本に来たそうなのだが、なんかトイレでオシッコをする詩もあったような気がする。(あったかな?自信なくなってきた)最近「アメリカの鱒釣り」をぱらぱらめくっていたら「俳句」について書いてるんだよな。ブローディガンの文章も短詩と短編のハイブリットみたいで読むと適度にさらさらしていてしんとした気持ちになる。非常に落ち着く。(根底にはいっぱいしんどい感じがあるのだと思うが)それでいつも居眠りをしてしまうのだが。
※石原さんの日記で福間さんの映画「岡山の娘」が告知されていました。予告編を見る限り、いい感じかな。大阪だと十三の七芸あたりでやってくれぬかな。
※町田康の第一詩集「供花」はよかったように思う。大阪弁の詩があって、僕は関西人なので親近感がある。ただし他の作品は知らない。
※石井聰互の映画「エンジェルダスト」にでていた若松某という怪優と若松孝二を勘違いしてた時期がある。なんでだ。
「実録・連合赤軍」予告編