Jul 06, 2005

イッツ・オンリー・トーク  絲山秋子

  

この小説については、どこから手をつけたらよいものやら苦慮していました。どこからか執筆依頼をされたわけでもなく、わたしが書かなければならないものでもないのに、何故か「書かなければ。」と心が急くのでした。
 絲山秋子の「袋小路の男・2004年10月29日・講談社刊」の扉には、ロレンス・ダレルの「ジュスティ―ヌ」の一節が置かれていましたが、この引用の意味はもう一つあったように思えます。「袋小路の男」に同時収録されていた「小田切孝の言い分」との二編の重複構造のような展開法は、ロレンス・ダレルの「ジェスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーヴ」「クレア」の四部作から成る「アレキサンドリア・カルテット」の多重構造の展開方法に似ているように思えたのです。これについてはまだ確信はもてませんが、「ジェスティ-ヌ」だけをかじり読みをして、ちょっと気持が落ち着いたので、今日は「イッツ・オンリー・トーク」について書いてみます。やれやれ前書きが長すぎるわね。

主人公「橘優子」は蒲田在住の売れない絵描きです。彼女の周囲には四人の男性が登場する。まず都議会議員の「本間俊徳」、彼は典型的なマザコンであり、優子との肉体関係を結ぶことができない。次は「痴漢K」、彼とは合意のもとで痴漢的な性的関係だけを結ぶ。そして「林祥一」は優子のいとこだが通常の社会生活が営めず、優子は自分の部屋に同居させながら面倒をみている。四人目は「安田昇」という鬱病のやくざであり、彼女は同病者としてネットを通して出会うことになる。一見して淫らな男女関係のように見える。「イッツ・オンリー・トーク」「すべてはムダ話だ。」とは、エイドリアン・ブリュ―の歌の一節らしい。たしかに読み終わった直後は正直言って「ムダ話」を読んだという気分だった。

 一つの季節に一人の男性に思いを寄せるというのは、ごく普通の恋愛の形だろう。その時の女性は心もからだもすべてを注ぎこんでゆくだろう。これが幸福な結果を生むならばそれでいい。しかしこの視野狭窄的な行為がやがては孤独や狂気を産み、崩壊を招き、深い哀しみとともに次の季節への移ろいをも産み出すことにもなるだろう。「優子」はその恋愛の残酷な構造を柔らかく補強するかのように、あるいは避けるために、このような愛の構築法を無意識に行っているのではないだろうか?「純愛」「性愛」「母性愛」「友情」をそれぞれの男性に振り分けたのではないだろうか?わたしは時間を経てそのような考えにやっと辿り着いたようだ。

 一人の女性が生きてゆくためには何が必要なのだろうか?絲山秋子の描き出す女性像は複雑であり、しかし非常に単純な姿をしている。そしてしなやかで、壊れることのない「竹籠」のような人間の絡み合いがそこには見えてくる。この小説を読みながら、わたしがしきりに思い出した小説は十代の終わり頃に出会った柴田翔の「されどわれらが日々」でした。あの時代の若者たちのひりひりとした剥き出しの痛覚のようなものは、すでにもう絲山ワールドには存在していないようだ。だからって「昔はよかった。」なんて言わない。わたしが絲山秋子を読むのは、おそらく「今はどうなの?」という問いのためなのだ。 

(2004年・文藝春秋社刊)
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