May 12, 2008
加賀乙彦の講演を聴く。
加賀乙彦は一九二九年四月生まれ、現在七九歳。小説家で精神科医。
一九四五年九月、東京府立第六中学校に復学。一九四五年十一月、旧制都立高等学校理科に編入学。一九四九年三月、旧制都立高等学校理科卒業。同年四月、東京大学医学部入学。一九五三年三月、東京大学医学部卒業。
東京拘置所医務部技官を経た後に、フルブライト奨学金を獲得してフランス留学を果たす。パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、一九六〇年帰国。同年医学博士号取得。東京大学附属病院精神科助手、東京医科歯科大学助教授、一九六九年から上智大学教授。一九七九年から文筆に専念。一九八七年のクリスマス(五八歳)に遠藤周作の影響でカトリックの洗礼を受ける。
講演のテーマは(仮題)という括弧付きで「ハンセン病文学」についての講演でした。「文学」を括ることはとても困難なことです。「癩」という永い歴史を考える時に、どこを切り取って語ればいいのか?加賀乙彦氏は、見えない豊かな知識の引き出しを胸のなかに抱いて、聴衆の前に現れました。時と場を読む。それからゆっくりと引き出しを開けて、語り出したという風であったような気がします。
これらの文学の歴史的資産、あるいは資料は放置されれば散逸する。国家機関に預ければ、都合の悪いものが隠滅させられる危機があります。これらを「癩」の歴史の証言として、すべてを残すことに努力していらっしゃる方々の組織が主催した講演でした。しかし加賀氏はこのようにもおっしゃいました。「現実に療養所内に保存された図書資料も過去百年足らずのもの。しかし癩は聖書の時代からあるもの。」と。。。
さらに加賀氏は日本の古い文献については、詳しくおっしゃることはしませんでしたが、日本では「法華経義疏」(六一五年)に「白癩」と記されていますが、これは大陸から伝来した経典の注釈です。最初の日本人の記述は「日本書紀」に「白癩」と記されたもの。「今昔物語集」にも奈良時代の僧が「白癩」にかかった話があります。要約すれば以上にようなことではないでしょうか?
ここで加賀氏の講演の出だしについて書いてみます。それは日本という風土と人間性の問題です。それは「ぼんやり」という言葉で表現されました。「ハンセン病」に限らず、たとえば「死刑」「戦争」など、人々が国家の危機とすら思わなければならないこと、あるいは急いで止めなければならないことを、日本人は「ぼんやり」としか受け止めることができないことへの不安でしょう。いつでも認識が外国に遅れるということです。そこで、わたくしは数年来嫌ってきた言葉の意味をようやく理解しました。それはかつて友人から教わった言葉です。
敵を恐れるな─彼等は君を殺すのが関の山だ。
友を恐れるな─彼等は君を裏切るのが関の山だ。
無関心な人びとを恐れよ─彼等の沈黙の同意があればこそ
地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。
(ヤセンスキー著「無関心な人びとの共謀」巻頭文より)
最後の加賀氏の希望としては、北條民雄を超えることのできる作家を待っているということでした。北條民雄の「いのちの初夜」の時代から、引き継いで次の歴史を書く優れた作家が現われなければならないということではないでしょうか?
*五月十一日・多磨全生園福祉会館にて。
May 03, 2008
極私的にコアの花たち 鈴木志郎康

二日夜、新宿パークタワー3Fの映像ホールにて、「イメージフォーラム・フェスティバル2008」のDプログラムの、鈴木志郎康さんの五十分の映画「極私的にコアの花たち」を観ました。ドキュメンタリー映画と名付ければいいのか?いや、違うかな?これは志郎康さんの詩の映像化かもしれません。(←志郎康ファンとしての極私的解釈。笑。)鈴木志郎康さんは詩人であり、映像作家でもある方です。
二〇〇六年の一年間、ご自宅の中庭にある花たちの芽吹き、開花、落花、枯死を、カメラで追い続けた作品でした。この年の春には志郎康さんは多摩美術大学を退職されています。またお体を悪くされて、加圧リハビリ、骨格矯正と交流磁気シャワーの治療に今でも繰り返し通われているというお体で、制作された映画です。
ナレーションも志郎康さん。BGMは少々。ラジオやテレビの音声が挿入されたり、大掛かりなものはなにもない。一番効果的だったのは志郎康さんの呼吸音でした。
決して広大ではない庭で、花がない時には花を買ってきたり、送られてきた花が写されたり、花が志郎康さんの一年を写しているようでした。この花は全部「灰皿町南波止場1 ・鈴木志郎康のblosxom Weblog」に掲載された画像です。このブログが毎日更新されていることにも、実はずっと驚かされてきました。
この志郎康さんの「極私的にコアの花たち」の前に、短い映像作品が三つ放映され、全部放映された後で、それぞれの製作者の挨拶と制作動機、主張あるいは意図するものが語られました。最後の志郎康さんの挨拶は、これまた魅力的(^^)。
「僕は空っぽなんだね。」・・・・・・。 わたくしがこの境地に至るのはいつのことやら。。。
【おまけのおはなし】
この映画鑑賞のあとで、志郎康さんを中心に約十人のお仲間とお話する席に参加しました。そこでお目にかかったことはあっても、多分ほとんど会話を交わしたこともなかった詩人で映像作家のF氏のお話にはびっくり。。わたくしの詩集「空白期」を、ワークショップに使って下さったとのことでした。素直に嬉しいです(^^)。
詩人の講座のテキストにわたくしの詩作品を使われる方は、以前にも何人かはいらっしゃいましたが、このようなお話をお聞きする度に、わたくしの詩が、ささやかながらどのような役目をになっているのか?ということを知らされる思いがいたします。(本当にささやかながら。←ここを強調。笑。)
Apr 28, 2008
没後50年 モーリス・ド・ヴラマンク展
二十三日午後、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館にて、「ヴラマンク展」を観てきました。「 モーリス・ド・ヴラマンク(一八七六年~一九五八年)」の画家の道に入るまでの経歴はちょっと変わっています。パリで音楽教師の子として生まれましたが、十六歳の時には家を出てシャトゥーに行きます。十八歳の時に結婚し、自転車選手をしたり、オーケストラでバイオリンを弾いて生計を立てていました。独学で絵を学び、一九〇〇年、シャトゥー出身の画家、アンドレ・ドランと偶然知り合って意気投合し、共同でアトリエを構え、画家として本格的な活動を開始しました。
ゴッホなどの影響から、鮮やかな色彩と骨太な筆致を学び、マティスやドランなどと共に「フォーヴィズム」の中心人物として評価されました。第一次世界大戦後は「フォーヴィスム」から離れて、ポール・セザンヌの影響を受けて、構図に変化がおこり、沈んだ色合いの作品に変わり、画家を志してから約二十年後には、独自の画風を確立しています。しかし決して抽象画へ移ることのない画家だったようです。
風景画がほとんどで、次には静物画、人物像は自画像一枚だけでした。(これは今回の展覧会にあったものだけの印象ですので、「ヴラマンク」の全作品についてはわかりかねます。)繰り返し、よく似た構図の村の風景があったり、それには季節があって、その上の空の描写には深い思いいれがあるようでした。それは雲と光の作り出す、片時も静止することのない流れる風景です。人間が日々空に囲まれて生きていることを、改めて思うのでした。
空に対して、地上には水がありますね。そこには逆さまの風景が映る。そして揺れる。日常の親しい風景、揺れる、あるいは流れる感覚が絵画になったようでした。
Apr 24, 2008
つぐない

監督:ジョー・ライト
原作:イアン・マキューアン著 『贖罪』
キャスト:
ブライオニー:シーアシャ・ローハン・・・ロモーラ・ガライ・・・ヴァネッサ・レッドグレイヴ
セシーリア:キーラ・ナイトレイ
ロビー:ジェームズ・マカヴォイ
まずは、フィリップ・クローデルの小説「灰色の魂」から引用したい言葉があります。
『人はひとつの国に暮せるように、悔恨のなかで生きられるものだということだ。』
この映画の舞台は第二次世界大戦前のイングランド。ある政府官僚一家には、大学を卒業したばかりの美しい長女「セシーリア」と、作家を夢みる十三歳の次女「ブライオニー」の二人の娘がいる。二人は共に、使用人の息子で幼なじみの「ロビー」に恋していたが、彼はまだ幼い「ブライオニー」の気持には気付かずに、「セシーリア」との恋におちる。
そんな折に、屋敷内で「強姦事件」が起きる。被害者は屋敷に同居していた親戚の娘。その強姦犯人が「ロビー」だと「ブライオニー」が偽証する。十三歳の少女の嫉妬がここまでの大きな罪を犯してしまう。。。しかしここでちょっと疑問なのは、この十三歳の少女の証言だけで、彼が刑務所に入ることだ。政府官僚の娘の証言がそこまでの力を持っていた時代だったのだろうか?しかしこの「偽証」が「つぐない」というドラマの出発点の役割は果たしているのだ。なんとも居心地が悪いなぁ。。。
そして時代は急速に第二次世界大戦に突入してゆく。刑務所よりも戦場を希望した「ロビー」は、当然困難な兵役につくことになるが、「セシーリア」に束の間逢える時間はわずかに持てた。ここで思いがけなく、古いロシア映画(一九五九年作)「誓いの休暇」を思い出す。
成長して看護婦になった「ブライオニー」は二人の前で謝罪をするが、彼は汚名が晴れないままに戦病死。姉も戦禍で死亡する。二人に赦されないままに「ブライオニー」の罪は生涯のものとなる。生き残った彼女は作家となるが、いのちの汀で絶筆とも処女作とも言える小説のなかで、すべてを告白する。「墓場まで持っていく秘密」とはしないことがキリスト教的な考え方なのか?その老作家を演じたのが「ヴァネッサ・レッドグレイヴ」・・・素敵な老女優(^^)。。。
ざっと、あらすじはこのようなものですが、映画を観終わってから、しばし考えました。この映画のメイン・テーマはなんだったのか?戦争が「ブライオニー」の「つぐない」を阻んだ?「戦争」という人類最大最悪の罪と、十三歳の少女の犯した罪とが、秤にかけられるものではない。これが小説だとすると、「戦争」は時代背景にすぎないのか?この戦争が一人の少女をどのように成長させていったのか?ということが中心ではなく、戦争と少女の偽証とが、恋人たちの運命を翻弄し、そして殺した、ということだろうか?
原作がどこまで書きこんでいるのかは未読なのでわかりかねる。「ブライオニー」の生涯がこの映画だけでは見えにくいようだ。多くの小説や映画の背景には「戦争」がある。言い換えればそれほどに人間の歴史は戦争の歴史かもしれないのだ。その歴史のなかに、もみくしゃにされ、ひきちぎられた一通の手紙のように十三歳の少女の罪が暗い風のように時間を覆っていたようだった。
第八十回アカデミー賞作曲賞受賞作品
本年度アカデミー賞の作品賞候補作
【追記】
ある先輩女性詩人の言葉も思い出しました。「あなたは悪意の言葉に傷つけられた。その原因がわからないと?一番わかりやすい原因はあります。それは大方は嫉妬です。」その時は驚きましたが、やがて納得しました。なんだか思い出すものの方が多かったようですね。
Apr 13, 2008
イタリアの詩人たち 須賀敦子
この本は、須賀敦子が選んだ、十九世紀から二十世紀を生きた五人の詩人についてのエッセーであり、それぞれの代表的な作品の紹介ともなっています。彼女の細やかな、そして真摯な眼差しが感じられる心地よい文章です。しかしながら読み手のわたくしはそこに紹介されている詩の原文にあたることはできない。「完璧な韻律」と言われても、わたくしは須賀敦子によって日本語に翻訳された詩を読むしか手立てがない。これがもどかしい。
ウンベルト・サバ(一八八三年~一九五七年)
「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら・・・・・・なにげなく選んだ道を、サバと歩くことができたなら・・・・・・」と、一九五八年(サバの亡くなった翌年。)に言ったのはジャコモ・デベネデッティだが、その同じ思いを抱いて須賀敦子は「サバ」について書きはじめる。この思いが彼女のエッセー「トリエステの坂道」にも繋がっているのだろう。
「サバ」はヘブライ語で「パン」を意味する。母親はユダヤ人だったが、彼女は「サバ」誕生の前に、「美しくて軽薄な」白人の夫に捨てられ、幼い「サバ」はこの町のゲットーで育つ。父親のイタリア名はすすんで捨てて、「サバ」というペンネームとする。
彼の詩作の源泉は「トリエステ」と妻の「リーナ」、時代に遅れた詩人と見られる傾向もあり、ユダヤ人であることの孤独などから、孤高の詩人でもあったが、須賀敦子は彼の貧しさのなかで育った誠実なやさしさ、韻律の美しさに注目した。
ジョゼッペ・ウンガレッティ(一八八八年~一九七〇年)
「ウンガレッティ」はエジプトのアレキサンドリア生まれ。両親はルッカ(トスカーナ)出身。二歳で両親を亡くし、二十四歳でアレキサンドリアからパリに出る。「アフリカ人」の彼が、フランス文化とイタリア文化の坩堝に巻き込まれることになる。「ウンガレッティ」の詩作は彷徨し、姿勢が整わないままに、ヨーロッパは第一次大戦の舞台と変わる。この「死の時代」のなかで皮肉にも彼の詩は生命に肉迫するものとなる。そうして新しいイタリア詩の誕生を迎える。季節をめぐるように「ウンガレッティ」の詩作は充足の秋へと向かう頃に兄を失い、九歳の息子を失う。「死は生きることで贖われる。」と、二十八歳の「ウンガレッティ」は戦場でうたったが、秋の終わりには「挽歌」とともに、詩人の冬の季節が来てしまった。
エウジェニオ・モンターレ(一八九六年~一九八一年)
オペラ歌手を目差したこともあった彼は、彼の詩の重要な特徴となった音楽的ともいえる韻律として詩のなかに活かされている。さらにフランス語、スペイン語、英語 などを独学で学び、外国文学を原語で親しんでいる。音楽評論、外国の詩のイタリア語訳など、彼の活動の範囲は広く、それが詩人「モンターレ」の豊かな土壌ともなっている。
一九三八年に、ファシスト政党党員になることを拒否。翌一九三九年に出版された第二詩集「機会」は、前線に送られた若きインテリ兵士の限られた荷物のなかには、しばしばこの詩集があったという伝説をもつ詩集となっています。
彼は「サルヴァトーレ・クワジーモド」とともに「ノーベル文学賞」受賞者でもあるが、「サルヴァトーレ・クワジーモド」の受賞は否定論者が多かったのに対して、「モンターレ」の受賞は否定論者はなく賞賛されている。
また、人生の大半を精神病院で過ごした「ディーノ・カンパーナ」の死後の評価はさまざまに拡散するばかりであったが、その彼に確固たる評価を与えたのも「モンターレ」だった。
ディーノ・カンパーナ(一八八五年~一九三二年)
「ディーノ・カンパーナ」は精神分裂病者で、生涯の大半を放浪と病院で過ごしていることによって、彼の二十世紀詩人としての存在そのものが特異なものとなっています。この難しい詩人に向き合い、須賀敦子は粘り強く彼の作品と生涯を書いていらっしゃいました。「ディーノ・カンパーナ」がこの地上に残した詩集は「オルフェウスの歌」(自費出版である。)一冊だけであったが、彼の残したものの特異ともいえる大きな存在感は、のちのち文学評論家を迷わせるものとなる。
死後「オルフェウスの歌」は再評価され、復刻されます。さらに「初稿」「未完詩集」、「評伝」「注釈」など、続々と出版されます。須賀敦子は最後にこのように記しています。
『彼は狂気に守られて、純粋詩の世界だけを追求することができた、数少ない幸福な詩人であったとさえいえるのではないか。その意味からも、彼は、やはり《見者》の群に属する、光彩を放つ存在だったと、私は考えたい。そして《見者》はいつも不幸である。』
サルヴァトーレ・クワジーモド(一九〇一年~一九六八年)
さて。須賀敦子も苦しみつつ書いているようで、この詩人の評価は難しい。「ノーベル文学賞」受賞者ではあるが、この受賞そのものが不評であったという詩人です。
シチリア島のラグーサという小さな町で、駅長の子として生まれる。文学仲間に出会うのはパレルモの中学時代。その出発点からスムーズに一九三〇年詩壇に登場してゆくことになる。幸運ともいえる道筋だったように思えます。しかし須賀敦子の「クワジーモド」への言及には厳しい言葉が並ぶ。何故か?
「クワジーモド」は詩壇で、それ相当の評価をほぼ持続的に維持していたが、いつでも「疑惑」がついてまわった。それは彼の作品の言葉の美しさとは裏腹に見えてくる、ものごとの本質性に対する徹底した無関心による非情さだった。
彼にも戦争は無縁ではなかった。しかし戦前の若い時代のみ、彼の詩は熱く息づいていたが、戦後の「クワジーモド」は「水子の儚さにも似た世界にしかもとめられない。」ような「夢の職人」だったという厳しい言及となっていました。
* * * * *
以上五人のイタリア詩人について読んできましたが、読了後に驚かされたのは、このタイプの異なる詩人たちの生涯についてよりも、須賀敦子が詩人をみつめる時のやさしさと同時にある「厳しさ」の方でした。それは「権威」に阿ることのない視線の確かさだったように思います。
(一九九八年・青土社刊)
Apr 11, 2008
ゆずり葉

人間の三歳までの記憶は確かなものではないだろう。祖父母や父母が長い時間をかけて語り続けた物語のなかで、わたくしの三歳までの記憶は確かな形として支えられてきたのではないだろうか。それほどに大人たちが語り続けたことの意味が、今のわたくしにははっきりとわかる。三歳になってから、やっと歩き出したわたくしが一家にとっての戦後の復興の具体的な形であったということだ。歩きはじめた小さないのちは、きっと家族の希望の形をしていたはずだ。この思いに何度も帰りながら、わたくしはとにかくここまで生きてきたようだ。
三月十一日、息子のところに第一子が産まれた。男児である。十二日に娘と共に病院に会いに行く。初対面を果たして、娘と息子と三人でイタリア・レストランにて、早々の、即席のワイン付きの祝宴となった。このメンバーで話す機会もおそらく長い間なかったことだ。
息子は父に、娘は伯母になったわけだ。その娘の話を聞きながら胸があつくなった。娘曰く「大人になってから、双方のおじいちゃん、おばあちゃん、それからおばちゃん(わたくしの姉。五六歳で亡くなった。)と、わたしを可愛がってくれた人たちを失うばっかりだった。人間はみんなこうしていなくなってしまうのだと思っていたの。でも甥っ子と対面して、やっとその思いから開放された。このようにあたらしいいのちの誕生があるのね。」と。。。
ちちははを送りしのちの春の児よ 昭子
この「河井酔茗」の詩は、娘の小学校の国語の教科書に載っていたものです。覚えているだろうか?
ゆずり葉 河井酔茗
子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずってー
子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。
かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー。
世のお父さん,お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの,よいもの,美しいものを,
一生懸命に造っています。
今,お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい,花のように笑っている間に
気が付いてきます。
そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。
子供たちにゆずられるもののなかに、武器や爆弾がないことを祈ります。
Apr 05, 2008
モディリアーニ&ガレ
(若い娘・モディリアーニ・1917年頃) (ランプ「ひとよ茸」・ガレ)
四月のあたたかな午後に「国立新美術館」で「モディリアーニ展」を、さらに徒歩五分ほどで行ける「サントリー美術館」で「ガレとジャポニズム」を観てきました。至近距離とはいえ、「梯子」は「基軸を変える。」という精神的な作業がありますので、やはりちょっぴり疲れました。どちらを先に観るか?も問題点・・・・・・わたくしは迷わず「モディリアーニ」を主張、これに決まりました。すみませぬ。
「モディリアーニ展」を観て、画集や絵葉書や小物などを購入。美術館を出てから最初の言葉は「よかったね。」でした。何故よかったのか?シンプルで地味な服装の女性が美しく描かれている。アンバランス、細長い顔立ちでありながら、そこからこちらに流れ込んでくるものは「しずかなやさしさ」「やすらぎ」のようなもの。また同行者の言葉をお借りすれば「画家もモデルも主張しない静かさ。」だろうと思います。あるいは寂しさ、哀しさ、すべてが静かにそこに在る。一人の女性として。画家はそこに主張を流し込まない。モデルから静かに溢れてくるものを受け止めて描いているようでした。
さらのその時代は、画家は「サロン」から「画商」によって育てられ、方向性を示される時を迎えていました。生活のため、あるいは健康上の理由から、モディリアーニは彫刻を断念、油絵に移行、またその絵画の歴史には何度かの影響の変化、絵画の変化もみられます。下記のような「モディリアーニ」の絵画の変遷の結果に生まれた作品が、どなたでも思い浮かべるあのやさしい女性像ではないでしょうか?
一章・プリミティヴィスムの発見:パリ到着、アレクサンドルとの出会い
二章・実験的段階への移行:カリアティッドの人物像ー前衛画家への道
三章・過渡期の時代:カリアティッドからの変遷ー不特定の人物像から実際の人物の肖像画へ
四章・仮面からトーテム風の肖像画へ:プリミティヴな人物像と古典的肖像画との統合
「エミール・ガレ」ですか?上のきのこのランプを将来において、買い取るつもりです。ゆめゆめ忘るることなし。忘るることなかれ(^^)。彼の日本美術への傾斜は想像を超えていました。生物学者でもあった「ガレ」の生き物、植物への視線は細密でもありました。下絵から立体へ移す創作作業の見事さに沈黙。。。
Mar 29, 2008
ベルト・モリゾ 坂上桂子
サブ・タイトルは「ある女性画家の生きた近代」となっています。ベルト・モリゾが日本に本格的に紹介されたのは意外にも最近のことでした。二〇〇四年一月東京都美術館で開催された「マルモッタン美術館展」であり、モネとベルトを中心としたもので、ベルトの作品は四〇点展示され、その後京都、仙台、名古屋を巡回しています。
この展覧会のカタログの監修にあたったのが、この本の著者であり、日本で初めて書かれた「ベルト・モリゾ論」となったわけです。坂上桂子がこの執筆にあたり、最大限の資料に触れ、研究された足跡がまとめられたものです。多くの関係者や研究者の協力があったことも明かされています。
ベルト・モリゾは一八四一年生まれ。ルノワールと同じ年に生まれています。三人姉妹の三女として、裕福な家庭に育つ。この時代のこの階級の娘たちの「花嫁修業」の一環として、「美術」もあったということで、特別な出会いではない。母親は娘たちのさまざまな修業のためには、よき師を捜す。そのモリゾ家の次女エドマと三女ベルトが、「絵画」に強く惹かれ、才能を開花させたが、この時代に女性が「画家」となることはとても困難なことで、美術学校にすら入学できない。個人的に画家に指導を受け、ルーブル美術館で「模写」による勉強などに専念した。
エドマは結婚とともに「絵画」をあきらめるが、ベルトはあきらめずに絵を描き続け、当時「印象派」といわれたグループに入る。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めたこともあります。マネとの恋仲を噂されることもあったが(これに関してはこの本では触れていないが。。。)、一八七四年に彼の弟ウジェーヌ・マネと結婚、一八七九年に娘ジュリーを出産。ウジェーヌは一八九二年に亡くなるまで、ベルトのよき理解者であった。ベルトは画家としても、女性としても幸福な人生であったのではないかと思える。それは画風にも表われて、「メアリー・カサット」とは対照的な位置に立った画家とも言えるかもしれない。まだ男性中心の十九世紀における女性画家ということもあって、フェミニズム研究の対象とも言えるだろう。
モリゾの画家としての視線はさまざまであり、まず結婚とともに「絵画」をあきらめた姉と子供。夫と娘。家で働く女性たち。舞踏会や観劇などで、男性の注目にさらされた女性ではなく、出掛ける前の女性の支度の様子などなど、女性の目でしか見えない女性(夫以外は。)を描いた作品が多い。上に挙げた「自画像」は一八八五年、四十四歳のベルトだが、華やかさを極端なほどに排除し、意志の強さが表出された作品となっている。これがベルトの女性画家としての姿勢であろうと思われます。風景画ももちろん描いていますが、長くなりますのでここでは省きます(^^)。
モリゾは一八九五年、娘の看病によって、五十四歳の若さで亡くなっています。モリゾの死後、マラルメ、ドガ、ルノワールは、十六歳で孤児となったジュリーの後見人となる。ジュリーは同じく「印象派」の画家アンリ・ルアールの息子エルネストと結婚している。最後まで読んで、わたくしが思うことは「女性画家としての創作の苦しみは終生続いたとしても、母子共に、とても人々から愛された人生だった。」ということ。これはとても大切なことだと思えます。
しかしながら、これは「坂上桂子」による「ベルト・モリゾ」像であることに注意深くありたいとも思いました。
(二〇〇六年・小学館刊)
Mar 06, 2008
ルノワール+ルノワール展
渋谷のBunkamura・ザ・ミュージアムにて、「ルノワール+ルノワール展」を観てまいりました。だんだん春めいてゆく季節に、この展覧会は楽しみに待っていました。素朴で愛らしく、ふくよか、ひかりを纏ったようなうつくしい肌の女性たちと子供たち、そしておだやかな風景・・・・・・ルノワールの絵の前に立つと、女性に生まれたことを祝福したいような気持になります。うつくしい女性画、風景画なら他にもたくさんあるのを知らないわけではありませんが。。。
今回は、印象派を代表する画家の一人、ピエール=オーギュスト・ルノワールと、彼の次男であり、映画監督のジャン・ルノワールとの「ルノワール+ルノワール展」というわけで、父の絵画と息子の映画を同時に紹介するものでした。二〇〇五年パリで開催されたもので、オルセー美術館の総合監修とのことです。
画家ルノワールは、家族の肖像を好んで描き、妻アリーヌ・シャリゴ、後に俳優となる長男ピエール、次男で映画監督となるジャン、三男の陶芸家となるクロードの姿が何度も登場します。「家族の肖像」「モデル」「自然」「娯楽と社会生活」と四つにわけて、二人の作品を同じテーマで絵画と映画を対比させることで、親子間の根底に流れる共通性を明かしています。ジャンが残した映画には、父が愛したひかりや色彩がそのまま投影されているかのようでした。投影ではなくて、ジャンの映画には父の絵画のひかりと色彩が再現されている、という方が適切でしょうか?目に見えない父と息子の絆、そして「画家の家族の肖像」を見るようでした。
数日前から、ルノワールと同じく「印象派」の時代を生きた女性画家「ベルト・モリゾ」の評伝を読みはじめたのは全く偶然の出来事です。二人は同じ一八四一年生まれです。これはおそらくまだ女性画家が認められていなかった時代を生きた「女性画家の家族の肖像」となるかもしれません。いずれまた、この本について書いてみたいと思います。
Mar 03, 2008
自由死刑 島田雅彦
人間が「自殺」に最も縁が深いのは思春期であり、その次が四十代だと言われています。この小説は島田雅彦(一九六一年・東京生まれ)が、その四十代を迎える前の精神上の危機管理を図るために、自らが「自殺」を考えること自体に飽きておく必要性から生まれたものだったようです。
理由もわからずに「自由死刑」を言い渡された三五歳の独身男性が主人公。それまでの仕事は健康食品のセールスマン。言い渡される理由もない。言い渡した人間も居酒屋にいた赤ん坊であり、法廷ではない。人間は誰しも罪深いものですが、この「自由死刑」を宣告されるほどの罪は犯していない。そしてその死に方は強制的な「死刑執行」ではなく、一週間の間に自分で死ぬことでした。これを「何故?」と訊かれても困る。つまりそれからの一週間、三五歳の独身男性がたどる物語を作家が書き始めなくてはならないからでしょうね。。。
ここからが作家の想像力が試されるわけで、一週間という制限のなかで人間がどのように生ききるのか?あるいは死にきれるのか?一章の金曜日夜からはじまって、曜日毎に次の金曜日夜まで、そしてそのあとに「SOMEDAY」、合計九章の小説になっています。
これを特異な世界とはせずに、木曜日までは書いた。平凡な三五歳の男性が、多分死ぬ前にやっておくであろうと思われる出来事にすぎない。あるいは「死」を覚悟すれば、人間はこれくらいのことは出来るであろうというほどの日々である。「生命保険屋」「秘密の臓器移植売買業者」「外科医兼殺人鬼」の登場。そして百万円ほどの預金を持った三五歳の男の「ありふれた酒池肉林」などなど。。。
しかし予定の金曜日に、車ごと海に飛び込む「自殺」に失敗した(つまり、半自殺状態です。)男性が、本当の「死」に向き合う「SOMEDAY」が書き加えられています。ここで人間は初めて「死」の困難に遭遇するわけです。しかしこの小説の最後は「主人公は死んだ。」とは書かれていません。「ヘリコプターの音」「人の声」という暗示。そして最終行は「ここは何処だ。まだ”あいだ”か?」でした。
ここでわたくしは島田雅彦の弁護人になり(^^)、最後に彼の一文を引用しておきます。
『もし、虚無が癌や免疫不全を引き起こすウィルスの仲間であるならば、宿主の細胞に忍び込み死に至らしめてくれるものならば、歓迎もしよう。でも虚無は何もないってことだ。何もないくせにあらかじめ全ての結論にするのは詐欺だ。その時、虚無には怪しい実体がつきまとっている。本当の虚無は死に結びつくことはない。ただ清らかなゼロとして、無限の彼方に漂っているはず。虚無と諦めは違う。思考停止と虚無も別物だ。(中略)それは虚無と死の本来の結びつきではない。あいだになにか邪魔が入っている。そいつをつまみ出してから、清らかな無限のゼロと一体化したい・・・・・・(中略)虚無は汚れている。虚無の発見以来、人はわけのわからない衝動やモヤモヤした気分を全て虚無に委ねてきた。結果、虚無はファンシーグッズになった。』
(一九九九年・集英社刊)
Mar 01, 2008
世界らん展日本大賞 2008
今年で十八回目なるという比較的長い歴史を持つこの展覧会に、去年より幸運にも招待状を頂けるようになって、二度目の「らん展」に行ってまいりました。会場は東京ドームですので、かなり大掛かりな展覧会です。一度目の感動新たに、という気持がありましたが、どういうわけかそうはいきませんでした。「花酔い」あるいは「花疲れ」というような状況に陥った自分自身に驚きました。一年歳をとったせいなのか?あるいは体調不良か?二度目ということの重複する感覚の重さなのか?会場を出てからお酒を呑む気分にもなれず、軽い食事とコーヒーで済ませました。幸い相手が禁酒中でよかったけれど(^^)。。。
これでは必死で期間中咲いている蘭たちに申し訳ないと思います。幸いにしてここは撮影自由ですので、しっかりとカメラにおさめてまいりました。膨大な量の画像を整理しながら、アップで撮影した花には、美しさの毒のようなグロテスクさに再会したりして、また疲れてしまって捨ててしまった画像も多くでました。ごめんなさいね。花の美しさ、華麗さ、豪華さ、こういったものは過ぎたらいけませんね。花は本来「生殖器」なのだと奇妙に実感した時間でした。あああ~~。
ではほんの一部だけの紹介ですが。。。




Feb 19, 2008
アマデウス ディレクターズカット スペシャル・エディション(2002)
監督:ミロス・フォアマン
原作・脚本:ピーター・シェーファー
音楽・指揮:サー・ネヴィル・マリナー
NHK・BSにて十六日夜、三時間放映。これが二度目のこの映画鑑賞となるのだろう。
映画の舞台は精神病院から始まる。訪れた若い神父の前で、かつては皇帝ヨーゼフ二世(一七四一年~一七九〇年。在位は一七六五年~一七九〇年。)に仕える宮廷音楽家で、今や老いて車椅子生活者となった「アントニオ・サリエリ」の告白からはじまる。二六歳の若きヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの稀有な才能に驚き、嫉妬し、それを超えることのできないサリエリは、モーツアルトを殺害したと語る彼の回想という設定。ストーリーはあまりにも有名ですから、ここでは省きます。 ちなみにモーツアルトの生涯は(一七五六年~一七九一年)、サリエリは(一七五〇年~一八二五年)です。
翌日の十七日には、日本語によるオペラ「J・シュトラウス二世」の「こうもり」を観るという、偶然も重なって、言語と音楽との調和が気になってきました。さらに前の一月には「プラハ国立劇場オペラ」の「魔笛」を字幕入りで観るという体験も繋がって、あまりオペラ通とも言えないわたくしでも、言葉の音質と音楽との調和は気にかかります。まず日本語はオペラには似合わない。詩や小説ですら日本語に翻訳することは難しい。それを音楽に合わせるというのは、かなり無理にちがいないと感じました。
映画のなかでも、皇帝ヨーゼフ二世からモーツアルトに「オペラはドイツ語で。」という注文が出るシーンがありました。実際には、この映画では脚本家の「ピーター・シェーファー」自身が訳した英語の訳詞になっています。あああ。ややこしい。
言葉の問題でもう一つ考えさせられたこと。それはオペラというものは「先に脚本ありき。」なのです。その脚本を、音楽と踊り、歌と台詞の配分、そして長時間に及ぶオーケストラの演奏とともにオペラは舞台に展開されるわけですね。気の遠くなるような仕事です。鳴りやまない拍手は単なる観客の礼儀を超えたものでしょう。
【付記】
「ドン・ジョバン二」に登場する石の騎士長は厳格だったモーツァルトの亡き父「レオポルト」の亡霊として、「魔笛」の「夜の女王」の有名は超絶技巧のアリアは、仕事がなく酒に溺れるモーツァルトを激しく叱責する姑の姿にヒントを得ている。身近な人間の存在すら、モーツアルトは「音楽」に昇華できたのでしょう。
Feb 15, 2008
一茶 藤沢周平

この本を読むきっかけは、江戸学者の「田中優子」が「江戸文化の多くを、この本から学んだ。」という言葉からでした。
小林一茶(一七六三年~一八二七年)江戸後期の俳人。名は弥太郎。信濃柏原出身。継母と異母弟との折り合いが悪く、それほど貧しくはない農家の長男でありながら、十五歳で江戸に出て奉公先を転々としながら、「俳諧」の世界を知ることになります。俳諧の宗匠「二六庵竹阿」の弟子と言う説がありますが、この小説のなかでは僭称であるとなっています。
江戸前期には、俳人松尾芭蕉(一六四四年~一六九四年)は、「俳諧」に高い文学性を賦与してはいますが、短歌が宮廷文学から出発したのに対して、もともと「俳諧」は庶民(博打に似たものとして。)の遊びから出発していることが、わかりやすく書かれていました。幕府が禁止令を出した俳諧遊びの「三笠付け」は、さまざまに形式を変えながらも密かに続いていました。
一茶の俳諧の出発点はそういう世界だったわけです。思わぬ才能が一茶に「賞金」をもたらし、それが奉公先を転々とする一茶の生活費ともなったわけです。しかし、この時期の一茶の経歴はどこにも書き記されていません。その時代の農民出身の若者の記録などあるはずもないことでしょう。これはあくまでも作家の創作でありましょうが、この時代の「俳諧」に自らの生き方を求めた若者の姿とは、このようなものであったことでしょう。一茶は「俳諧」の世界で、農民から脱却して一流の俳諧師をめざしたのですね。
しかし、江戸で一茶が一流の俳諧師(家を構え、人並みに家族生活を営み、宗匠として弟子を多く抱えて、生活にゆとりがあること。)になることはありませんでしたし、江戸俳諧の傾向と信濃出身の貧しい一茶との句には、お互いに相容れないものが「障壁」のようにいつでもあり、一茶の俳諧師としての日々は、地方を回りながら草履銭で、なんとか「食い繋ぐ・・・・・・あまり好きな言葉ではありませんが、ここにはある意味これしかない、と言う言葉ですね。」生活の連続でした。
やがて不本意ながら、一茶を江戸へ奉公に出した郷里の父親が病に倒れる。看病に帰郷する一茶の先々の生活を思い、父親は直筆の遺言状を書きます。「山林、田畑、家、すべて半分を長男弥太郎(=一茶)に譲渡する。」という思いがけないものでした。この時代から直筆の遺言状が大きな権利を持つということはあったのですね。
この遺言状が実現するまでには、かなりの歳月を要しましたが、最後には遺言状以上のものを手に入れるという一茶の強引さ、狡猾さもここに表出します。その期間に一茶は徐々に江戸俳諧から離れ、北信濃周辺の門人との繋がりを準備、地方の俳諧師として信濃に帰郷するのでした。この時の一茶は五一歳でした。その後結婚、三人の子に恵まれながらも三人とも幼くして病死、妻の菊も病死しました。後、再婚と離婚、三度目の子連れの妻と継母に看取られて、六五歳で亡くなります。俳句は二十万句と言われています。
継母の言葉が心に残ります。
『旅ばっかりしてらったひとでなえ。もう出かけることもなくて、眠ってるようだなえ』
さて、一茶という人間をどのようにとらえるか?難しいところです。それぞれの人間の生きている足場から、とらえるしかありませんね。水上勉が「良寛」に自らの境涯を重ねるように愛しい思いで書いたように、藤沢周平もそのような「愛しさ」を一茶に抱きつつ書いたのでしょう。歴史上実在した人間を「評伝」としてではなく「小説」として書く時、そこにどこまでの「嘘」と「真実」が錯綜し、小説となるのか?そのようなことも考えさせられる一冊でした。
(一九八一年初刷・二〇〇七年三四刷 文藝春秋・文春文庫)
Feb 14, 2008
レンブラントの夜警

監督:ピーター・グリーナウェイ(Peter Greenaway,1942年- )。イギリス(ウェールズ)出身。
音楽:ジョヴァンニ・ソリマ ヴウォテック・パヴリク
レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz, van Rijn 1606-1669)と ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675)は、オランダの十七世紀の代表的な画家であり、膨大な作品が残されている。この時代のオランダはスペインからの独立を果たし、経済的繁栄を極めていました。東インド会社との交易によって、世界中からさまざまな品物が集まり、人々は蒐集熱に浮かされていました。絵画は「チューリップの球根」と同じように「投機」の対象だったのでした。この時代の画家に作品が多いのはそのような時代でもあったのでしょう。「作品が多い」ということの裏には「注文が多い」ということで、多くの弟子の助けがあったということでもあるのでしょう。
また、別の側面からこの時代のオランダを見ますと、独立後のオランダはプロテスタント中心の市民社会が確立していたため、オランダの絵画市場は、同時代の「フランス」「イタリア」とは異なり、大きなサイズの神話画や宗教画ではなく、小さめの風俗画や風景画の注文があって、その結果さまざまな絵画のジャンルが確立した時代でもありました。
さて、一六四二年に手がけたこの絵画『フランス・バニング・コック隊長の市警団の集団肖像画』、通称『夜警』は、市警団からの依頼であり、資金は彼等が分担したのであろうと思われます。夜警』は大きなサイズの絵画です。この絵画によって、レンブラントの地位、名声は一気に破局に向かうことになります。その時期には産まれたばかりの子供を残して、妻の「サスキア」が亡くなり、レンブラントは深い悲しみにも遭遇するのでした。
「集団肖像画」はそれぞれの人間を平等に並列的に描くという常識がありましたが、レンブラントはその常識を破りました。何故破ったのか?それはモデルとなる市警団の人間たちの裏に潜む「悪」を見てしまったからでしょう。少女だけが収容されている孤児院では「売春」が黙認されていたこと、また「陰謀」「殺人」など、さまざまな権力の行う「悪」を見たレンブラントは、その「告発」を絵画としたからでした。
『画筆は画家の武器だ。なんでもできる――侮辱も告発も。』
「アムステルダム国立美術館のサイト」では大きな絵画をみることができます。リベルさんに教えていただきました。色彩、明暗もきれいです。
また「サスキア」を失った悲しみを埋めるように、レンブラントにもスキャンダラスな女性関係が浮上します。依頼主たちからの絵画の不評とスキャンダルによって、レンブラントは彼等の暴力に遭い、視力すら失うことになる。ここで彼の名声は終わる。映画のラストシーンもここに照準を合わせて終わりました。
監督の「ピーター・グリーナウェイ」は、レンブラントが「夜警」を描くことによって、市警団のさまざまな人間達を告発したように、映画「レンブラントの夜警」を制作することによって「レンブラント」を告発しようとしたのだろうか?ちょっとそのような思いが頭上をかすめます。
【付記】
当たり前のことですが、映画鑑賞と読書は異質な行為だと、つくづく思います。映画のストーリーのテンポに、わたくしの心理的なテンポが著しく追いつかない状況に陥っても、映画は待っていてくれないのです。
Jan 25, 2008
緑の影、白い鯨 レイ・ブラッドベリ著 川本三郎訳
この小説は、当時三十三歳の若き作家だった、レイ・ブラッドベリ(Raymond Douglas Bradbury, 一九二〇年・アメリカ・イリノイ州ウォーキガン生まれ。)のアイルランドにおける体験の自伝的小説であり、かつて短編であった作品も含めた長編小説となっています。
何故彼がアイルランドに呼ばれたのか?それは、メルヴィルの『白鯨』という難解な小説を映画化しようと計画したアメリカ映画界の巨匠、ジョン・ヒューストン監督に、脚本を依頼され、一九五三年、当時ヒューストン監督が住んでいたアイルランドにわざわざ呼び寄せられたのです。この作品は一九五六年に完成しました。
繊細な抒情詩人としても知られるブラッドベリと、アメリカ文学史上もっとも手ごわいと評価されている『白鯨』、そして怪物のようなヒューストン監督という組み合わせから生まれた小説だと言えるかもしれない。アイルランド滞在は約半年、その体験をもとに、四十年後に書かれたものです。ヒューストンは当時アメリカで荒れ狂った赤狩りを嫌って、アイルランドに住んでいました。
この小説は、別の面を見れば、ブラッドベリのアイルランド賛歌になっているようです。雨の多いアイルランドは、ひかり輝く緑の自然を観ることは稀なことです。そこに貧しいながら、たくましく暮らす庶民たちのさまざまな姿も見事に描かれていました。狡猾な乞食、優れた路上音楽家、下町のバーの人々、個性的な牧師、それにまつわる祝福と死などなど、アイルランド人のユーモア、抒情、幻想性、息をのむほどに濃密な描写でした。笑ってしまった牧師の言葉(^^)。。。
『いまここで、二人を夫と妻と認めます。汝ら行きて、さらなる罪を犯せ。』
この小説を読みながら、しきりに思い出していたのは、トム・クルーズ主演の映画「はるかなる大地へ」でした。アイルランドの暗い寒村の貧しい農家の若者が、西部開拓に沸き立っていたアメリカを目指す物語で、この小説とは全く逆の視点から描かれた映画だったと思います。主人公の最後の言葉はこうでした。
『教会がアイルランドを跪かせ、雨がアイルランドを溺れさせ、政治がアイルランドを地に埋めてしまう・・・・・・しかし、それでもなおアイルランドは、あの遠い出口に向かって走る。そして、おわかりでしょう、神かけて私は思うんです。アイルランドはきっとたどり着くって!』
(二〇〇七年・筑摩書房刊)