Nov 28, 2008

死にゆくものの叡智に・・・

momiji

 あるお方のサイトに森茉莉のエッセーの一節である、父上「森鴎外」の言葉が記されていました。孫引きで申し訳ありませんが引用させて頂きます。

「鴎外は私が倫敦にいた時、私が出発した頃から弱っていた体が、再び起きられぬようになった。鴎外は母に”茉莉は今、欧羅巴にいる。一生の中で一番楽しい刻だ。俺の体が弱ったことを報せるな。危篤になっても報せるな。死んだという電報も打つな”と、言った。」

 私事を書くことはなるべく避けていたいのですが、この言葉に出会ってしまったら、やはり書いておこうと思いました。これはかつて父と姉との「死の宣告」を受けた時に、当人に告知できなかったわたくしの判断に対する後悔かもしれません。また何故できなかったのか?を改めて考えてみました。

 *   *   *

 近所の開業医に定期的に通っていたにも関わらず、一向に回復しない父を無理矢理に大きな別の病院に連れていった途端に、父の「末期癌」の宣告を言い渡されました。「長くて一年、短くて半年、何故そのドクターは見抜けなかったのか?」とそのドクターに言われました。一九九五年の暮れでした。一ヶ月の入院の後に、自宅療養に切り替わりました。ドクターの仕事はもう何もないのでした。同時に母の痴呆も加速していました。わたくしは家族を離れて、かつての家族に戻るように父母との生活に入りました。


冬の父  (一九九六年二月)

横たえられたままの
枯れた一本の樹のような父の
その浅い眠りの繰りかえしは
やがて深い闇のなかへ向かってゆくのだろう

真昼
父がおだやかに目を覚ました
やさしい目をして
わたしをみつめて
「もう 休んでもいいか?」といった
わたしは黙ってうなずいた
そしてまた父は目を閉じた

窓の外では
静かに雪が降りはじめた
父の希薄な呼吸音
雪も音を持たない

冬の午後の
わたしたちの決意
わたしはもう父を呼び戻さない
父はわたしを置いてゆく
童女となった母も置いてゆく
「それでいいか」と
父はまたうっすらと目を覚まし
わたしをみつめている

わたしは父のまぶたを
あたためた手の平で覆う
「もうすこし眠って」
「それから……」

窓辺では
母が小声で「ゆきやこんこん」を
歌っている
(詩集「砂嵐」より。)


 一九九六年八月、父はたった十日間の入院で亡くなりました。「宣告」から八ヵ月でした。人間の死は生き残った者の祭りです。わたくしはその賑わいのなかで、ただ腰が抜けたような自分を支えているだけでした。ただただ父はいつから自らの死を覚悟したのか?という思いだけでした。

 *   *   *

 父の葬儀のたった二ヶ月後には、独り身の姉(近所に暮して、半家族でした。)も、癌の再発と同時に「死の宣告」でした。一九九七年二月まで入院したまま、亡くなりました。毎日病院に通いました。そしてまた、わたくしは姉に「死の宣告」は言いませんでした。言い訳が許されるなら、父の死から無理矢理に再び立ち上がったわたくし自身のこころの力量不足でした。

 最も身近な者の死に、結局わたくしは口をつぐんでいたまま、「死にゆくものの叡智」にすがっていたのかもしれません。二人もわたくしになにかを問いつめることをしませんでした。そしてその死までの困難な日々を二人は寡黙に生きていました。姉とわたくしは、何度も病室で、先に逝った父のやさしい呼び声を聴いたような気がしてなりませんでした。

 *   *   *

 どこまで書いても、自分が本気で書いているような気がしません。また森鴎外の言葉に帰結するしかないようです。上記の言葉を超えることができません。

 痴呆の母は、父の看取りの困難な時期から施設に預けました。引き取る暇もなく姉の看病に入り、その間に母の痴呆は急速に進み、もうわたくしの力量を超えていました。そもそも施設に預けることは痴呆の速度を速めるだけなのです。できることなら預けたくはなかった。そして苦渋の決断でそのまま施設にいてもらいました。家族から「母を引き取れば、今度は自分自身が狂うだろう。」とも言われました。
 施設からの緊急連絡で駆けつける前にあっけなく二〇〇一年十二月に母は亡くなりました。癌に侵されることもなく、足腰が不自由になることもなく・・・。

 結局、介護したはずのわたくしが、死にゆくものの叡智と愛に守られていたのではないでしょうか?あんなに辛かった日々をここに改めて文章にしてみますと「死にゆくものの叡智」に辿りつくだけでした。そして「森鴎外」の言葉に出会わせて下さった方に感謝いたします。ここで未熟な自らのペンを置きます。


お茶の時間

空の上には
花の咲く野原があって
やせ細った父と母が微笑んで
並んでござの上に浮かんでいる

お茶の時間ですよ と
わたしが訪ねてゆくと
空のもっと上から
半分消えかけた茶箪笥が
傾いて吊り下げられている

茶布巾を取り出そうと引き出しを開けると
小さく折りたたまれた姉がいる
引っ張り出すと ほぐれて笑う
膝のあたりを折り直して
父母のそばに座らせる
三人そろっていい笑顔だ

ほこりを被った急須をすすぎ
茶葉を入れ
お湯を注いでいると
急に雨音がする

懐紙の上の桜色の菓子が溶けてゆく
茶箪笥が消えてゆく
ござが消え
父も母も姉も小さくなってゆく

真昼 ひとり……
わたしは泣きながら目覚めた
窓の外はにわかに暗い
はげしい雨音が聴こえる
わたしは
今 どこにいるのか?
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Nov 25, 2008

言霊の天地 宇宙・神話・魂を語る 中上健次&鎌田東二

kotodama

 中上健次(一九四六年~一九九二年)は、四六歳の若さでこの世を去っていますが、この鎌田東二との対談は、中上の死の一年前(一九九一年七月五日~七日)のことでした。そしてこの本が出版された時には不帰の人となり「根の国」の人となりました。その孤独のなかから鎌田東二は「あとがき」を書いています。

 この対談は、わたくしの貧しい読書体験のなかではありますが、最も衝撃的なものであったと思いました。箱根湯元の「平賀邸」において、ほとんどお酒を呑みつづけながらの対談ですので、これはまさに一触即発の様相を呈していました。しかも対談の三日間は嵐だったそうです。鎌田東二はその後までも中上健次を「台風の人」だと思っているようです。「あとがき」から引用します。

 『思い出す。対談の最初の夜のことを。なごやかな雰囲気でなぜか蛇の話から始まった対話が、いつしかギリシャの話に及んだとき、中上健次は語気荒く私のギリシャ体験を罵倒した。どうして日本人のおまえがギリシャの神、しかもアポロンの神殿の廃墟で祈るのか、おまえの神道とはいったい何なのだ、ナチズムと同じシステムにおまえは仕えるのか、折口信夫ならそんなことはしなかったはずだ。」

 こういう対談はいいなぁ。これでおわかりのように二人の出会い、対談の内容はすべて「折口信夫」から始まりました。そしてお二人の産土は、中上健次は「根の国」に一番近かった郷、和歌山県の「熊野」であり、鎌田東二は徳島県の「阿南」であり、ここはまさに「海やまのあいだ」でした。

  対談は三章に分けて構成されています。

第一章「蛇をめぐる想像力」
第二章「シャーマニズムをめぐる想像力」
第三章「森羅万象をめぐる想像力」

この三章は、さらに各章に十五乃至十六の一文字の漢字に分けられています。「蛇」 「胎」「祭」「生」「歌」「木」「夢」「呪」「恋」etc。。。この対談のまとめ、中上健次の会話の微調整は、奥様の「中上かすみ・筆名=紀和鏡」がされています。こうして「言霊の天地」にふさわしい本として、無事に完成したのでした。ひしひしと「追悼」の意味もこめた、この一冊の本の完成の困難さを思うのでした。

 さて、この対談についての自らの考え方を書くことは、ほとんど不可能でしょう。お二人の熱気のこもった対談は、際限もなくさまざまな土俗の神の話題が拡大してゆくのですから。地図を辿り、かつての海山の在り様と今日のそれとは歴史のなかで大きく変化しています。神はさまざまなところに存在し、その政(まつりごと)もさまざまで、それは権力の側に移行したもの、民間の側に遺されたものとに分かれてゆくのです。そうした永い歴史のなかで、神々の言葉の起源が語られています。

 中上健次は被差別部落の出身です。そこから培われた直観力、高度な抽象度と密度は、類のないものかもしれません。反面では、鎌田東二は学問的に神々について思考しますので、このお二人の距離を対談の密度で埋めることは、お互いに疲労困憊したのではないでしょうか?これらの対談はまさに「対決」とも言えるかもしれません。しかし充分に楽しんでいらっしゃったようでもありました。生き残された鎌田東二の、今後の研究の大きな背景、あるいは壁として中上健次は存在し続けるのではないでしょうか?

     最後になりますが、「折口信夫」は、その後の研究者たちが超えることのできない存在であったことを認めざるをえないようです。かつてわたくしが書いた拙い「死者の書」の感想文のなかで、「これは音楽のようだ。」と書きましたが、それがこの対談のなかで語られたことと一致したことは嬉しいことでした。これを未熟ながら要約しますと、折口信夫説では「マレビト」は神であり、「オトズレビト」すなわち「音連れ人=訪れ人」であって、その音は神の言葉であり、芸能であること。言い換えれば「マレビト」とは「言霊」を発する人だったのでした。

 (平成五年・主婦の友社刊)
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Nov 24, 2008

端役たち  天野忠

bear

    破れた去年の蝿叩きをふりふり
   雪積む中を
   男が歩いて行く

   壊れた湯たんぽを抱きしめながら
   夏の炎天裡
   女が歩いて行く ひとりぼっちで

   野越え
   山越え
   ……………

   地獄の門の前で
   彼らは しみじみと
   お辞儀をした

   ――おかわりありませなんだか
   一人が云った
   ――おかげさまで、どうやら
   一人が答えた
   それから門があいた

   ――おいで とやさしく
   鬼の小役人が招いた。

――『動物園の珍しい動物・1966年・文童社刊』より。

 詩人「天野忠(1909~1993)」の、この詩を何故か思い出した事件だった。

 元厚生事務次官宅を相次いで襲撃し、三人の死傷者を出した事件である。出頭した四六歳の男性の犯人の犯行動機がよく理解出来ない。様々なその方面の評論家の話を聞いても、ニュースや新聞を見ていても、分かりにくい人間です。そして、わたくしの胸をよぎった言葉は「主役」と「端役」だった。彼はどのような形であれ、「主役」を生きようとしたのではないか?(←この解釈は犯人の犯行への擁護ではありません。念の為。)

 おおかたの人間は人生の「端役」を生きているのだろう。しかしこの詩の「端役」たちは驚くほど見事なものである。男は雪の季節に、破れた去年の蝿叩きを持っている。女は炎天裡に、壊れた湯たんぽを抱いている。なんとも頓馬、間抜け、ずり落ちそうな人生の山坂を二人はそれぞれにとことこと歩いて生きてきた。その末に、やっと二人の男女は地獄の門の前で巡り合うことができたのだ。お互いに深々とお辞儀を交わし、過去など嘆くこともなく、それぞれを思いやりながら……。このようにしてしか再会することのできない男女もこの世にはたくさんいることだろう。

 いのちの水際で、ひとにはほんの少しだけ、とても心の内が自由になれる時間が与えられているのかもしれない。その時間のなかに、人間は果たせるか果たせないかわからないが、できることなら果たしてみたい約束や夢を預けることがゆるされているのではないか?

 最後に、天野忠はそこにやさしい鬼の小役人を登場させて、やっと読者を微笑ませてくださるのだ。その門の向こうに行った二人は、季節ごとに蝿叩きと湯たんぽを共に譲り合いながら暮らすのだろうか?地獄も悪いところではなさそうだな。

 四六歳・・・まだ人生の半分しか生きていないだろう。。。
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Nov 13, 2008

〈うさぎ穴〉からの発信 河合隼雄(その三)

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 この本の後半部では、子供の「アイデンティティー」の確立。子供の「内的世界」と「外的世界」。特に「臨死体験」「病気」などを通過した子供の内面などについて書かれています。こうした問題は「ファンタジー」に委ねられてゆくことで、子供はなにかを見つけるのですね。読みながら思い出したのは、この「リルケ」の言葉でした。

幼年時代を持つということは、
一つの生を生きる前に、
無数の生を生きるということである。   (リルケ)


 子供は親の心配や力の及ばないところで、たくさんの心のエネルギーを持っているものです。たとえ小さくても子供は大人と同じくらいに(あるいは、それ以上に。)「生きること」も「死ぬこと」も考えることが出来るのです。(その一)で書いたように、「生」も「死」もすでに受け入れて生きているのです。「死」への不安はもちろんあるでしょう。その時、親の存在によって不安を乗り越えるかもしれませんが、そういう親ばかりではありません。子供は沈黙を守りつつ、その生きる不安と向き合うのでしょう。そこに「ファンタジー」や「アイデンティティー」が働きかけるのでしょう。それがなくて、どうして子供が生きてゆけるでしょうか?

 最後に子供時代の私事ですが。。。
 父に付いていった、ある年配の方のお葬式で、死者を密室に入れた後で、会葬者たちは一室に集まって飲食を始めました。「お父さん、あの人はどこに行ったの?」というわたくしの質問に父は「死者の火葬」の話をしてくれました。火のなかで焼かれる肉体を想像して、小さなわたくしはジュースすら飲めませんでした。大人たちは涙したり、あるいは思い出に微笑んだりしながら飲食していました。「何故、大人はこわくないのだろう?」・・・これは数年続いた疑問でしたが、両親には言いませんでした。
 それではどのように考えたか?まずは「死なない大人になる」こと。次の段階では、「大人になれば、あの火に焼かれる苦痛に耐えられるのかもしれない。」という期待。それでも納得いかない。残されたものは子供が大人になるまでの「猶予の時間」しかない、ということでした。その「猶予の時間」のなかで、どうやら小さなわたくしは「生きて」大人になったようでした。

 (一九九〇年、マガジンハウス刊)
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Nov 10, 2008

〈うさぎ穴〉からの発信 河合隼雄(その二)

usagi

 まず、ここに「読むこと・書くこと」の項より引用します。

 『一歳二ヶ月のころ、脳性小児麻痺と診断され、それ以後六歳まで機能訓練に通い、養護学校の高等部を卒業した吉村敬子は、自分の体験に根ざした文を書き、「絵本のテキスト」としてどうかと、児童文学者の今江祥智に見せた。それは《わたしいややねん》と題されて、吉村敬子の車椅子による生活体験から生み出されたものであった。そのときのことを、今江は「おずおずとさしだされた《わたしいややねん》を読んで、わたしは背筋がきゅんとなった。叫びやなぁ、テキストちゅうもんやあらへんなぁ・・・・・・、としかいえずにいた」と述べている。これに対する吉村の答えが素晴らしい。「わかってます。ちゃんと《作品》を書いてきます・・・・・・(中略)次にもってきてくれたのは《ゆめのおはなしきいてェなあ》だった。」

 その結果この二冊は共に出版されました。困難な人生を「書くこと」と、それを「読むこと」との関係には、とても語りつくせないほどの問題が横たわっています。ここに橋を架ける「あるもの」が必要ではないか?と思えてならなかった。これはおそらくわたくしが約八年間抱えている問題だったともいえます。今でも答えは出ませんが、ここに書かれた今江氏の言葉で、どうやら言葉にしていただいたような気がします。

 不特定多数の人間に向けての個人の「叫び」が誰かに届いた時から、「書くこと」は次のステップへのぼることができます。それがきっと「作品としての昇華」というものになるのでしょう。そして作品は見えない読者へ向けての「叫び」ではなく、話相手の登場する「語り」の作品へと変容してゆくのでした。作品のなかに「もう一人の私」を置くことで、世界を客観視することができる。これが文学における「普遍性」と言われるものに繋がってゆくのではないかと思います。・・・・・・と言いつつ、断定できない「揺らぎ」は消すことはできませんが。

 (つづく)

 (一九九〇年、マガジンハウス刊)
Posted at 10:48 in book | WriteBacks (0) | Edit

Nov 07, 2008

ヴィルヘルム・ハンマースホイ・静かなる詩情

Hammershoi-1
 結婚後の後姿の妻イーダ。婚約中のイーダ・イルステズの肖像(これを観た詩人リルケはハンマースホイに会いに行ったそうですが)。この違いは???

 六日午後、上野の西洋美術館にて観てまいりました。快晴の比較的あたたかな日ではありましたが、何故か館内の空気は乾燥していて寒いほどでした。これから行かれる方はどうぞ温かくしていらしてくださいね。(目が乾き、喉が痛かったです。)画家ヴィルヘルム・ハンマースホイの国デンマークは寒い国なのでしょうか?などと思いつつ、静かな絵画たちとお目にかかれました。ようこそ日本へ。

 十九世紀末のデンマークを代表する画家「ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864-1916)」は、コペンハーゲン美術アカデミーで学んだ後、「自由展」と呼ばれる分離派に参加、アカデミーとは一線を画する活動によって生前にヨーロッパで高い評価を受けた、北欧の象徴主義美術を代表する画家でしょう。

 没後は忘れ去られましたが、一九七七年~七八年にコペンハーゲンのオードロプゴー美術館長アネ=ビアギデ・フォンスマークが監修したオルセー美術館、グッゲンハイム美術館の回顧展によって復活しました。二〇〇三年にはフェリックス・クレマーによってハンブルク美術館でハンマースホイ展が開催され、開館以来最大の入場者数を記録したとのことでした。

 十七世紀オランダ絵画に強い影響を受けたハンマースホイの画風は、「フェルメール!!」に似た静謐で古典的な室内表現を特徴とし、デンマークはもとより、ドイツやフランス、イタリアにおいても高い評価を得ました。オランダ風の写実主義で表わされたハンマースホイの住居「ストランゲーゼ三十番地のアパート」を舞台に、妻のイーダは顔を鑑賞者に向けることなく、その後姿ばかりが繰り返し描かれています。さらに、ドイツ・ロマン派の巨匠カスパー・ダーヴィット・フリードリヒの影響もあるようです。

Hammershoi-2
 (室内、フレズレクスベア・アリ)窓辺からおとずれる光りが生かされていますね。

 女性の後姿(ほとんどが妻のイーダです。あるいは身近な人。)がある室内風景画、あるいは人間が一切描かれていない建物や木々、水辺の風景、その絵画は無音の世界を思わせます。オランダ風の写実主義とドイツ・ロマン派的な要素の融合の中に、ヴィルヘルム・ハンマースホイの世界が創りあげられたのでしょう。さらに彼は注文に応じて、知らない人を描くことはなかったのでした。

 【つぶやき】
 ヴィルヘルム・ハンマースホイは、ほとんど妻イーダの後姿ばかり描いていますが、そのうなじの美しいことよ。たった一枚あった妻の前向きの顔は三十代でありながら、何故か疲労したような、放心したような、決して美しい顔ではありませんでした。彼はなにを伝えようとしたのでしょうか?
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Nov 04, 2008

さらば、わが愛 覇王別姫 (1993)

tenanmon

監督: 陳凱歌
脚本: 李碧華
製作国: 香港&中国
上映時間: 約一七二分

《キャスト》
程蝶衣〈チョン・ティエイー〉:張國榮(レスリー・チャン)
段小楼〈トァン・シャオロウ〉:張豊毅(チャン・フォンイー)


 日中戦争や文化大革命など近代中国の五十年の時代に翻弄された京劇役者の段小樓と程蝶衣の生涯を描いた映画です。「覇王別姫」とは、四面楚歌で有名な項羽と虞美人を描いた京劇であり、この役で人気を得た二人であった。また、わたくし自身が産まれ、生きてきた日々は、ほとんどこの時代に当てはまるという事実にも深く考えさせられることとなりました。

 「京劇」について少しだけ書いておきます。これは日本の「歌舞伎」ととてもよく似ていて女性の役者はいません。「女形」です。多分この映画が描きだした時代の五十年に限って言えば「歌舞伎」は世襲制だったのではないでしょうか?しかし「京劇」の役者は、男子の孤児や貧民の子や捨子ばかりです。京劇の養成所では、暴力的かつ残酷な訓練が日々繰り返され、やがて役者として育てられます。その教育過程は目を覆いたくなるほどの残酷なものでした。
 さらに驚愕したことは、娼婦の母親に連れられてきた私生児の程蝶衣(本名=は小豆子。)は、片手の指が六本あるという奇形でしたので入所を断られます。母親は息子の行く末を思い、その余分な指を自分の手を下して切断してまでも、強引に養成所に入れるのでした。

  *   *   *

 ここで気になりますので、ざっと日本の「歌舞伎」の歴史に触れてみます。もとよりこの方面には疎いわたくしですが、必要最小限の範囲でメモしておきます。

 一六〇三年に北野天満宮興行において、京都の出雲阿国(いずものおくに)の演じたものが「歌舞伎」の発祥というのが定説でしょうか?阿国は出雲大社の巫女であったとも河原者でもあったとも。。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また男装するなどして当時最先端の演芸を生み出した。
 阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)や、前髪を剃り落としていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎がおこなわれていたが、風紀を乱すとの理由から前者は一六二九年に禁止され、後者も売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから一六五二年に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となる。歌舞伎において「女形」が存在するのはその理由からであろう。それは江戸時代に洗練され完成した。このあたりから「世襲制」となったのだろうか?

  *   *   *

 新入りの小豆子(のちの程蝶衣)は他の子供たちからいじめられたが、彼を弟のようにかばったのは小石頭(のちの段小楼)だけだった。二人は成長し、女性的な小豆子は女形に、男性的な小石頭は男役に決められる。やがて成長して京劇『覇王別姫』のコンビとして人気役者となりますが、段小楼は娼婦の菊仙(鞏俐)と結婚、ひそかに彼を慕い続けた程蝶衣の孤独感は深いものとなった。ここでコンビの決別。程蝶衣の人生は頂点から次第に奈落へと。。。

 その時期に北京は日本軍に占領された。理不尽な風の吹くなかで、深く傷ついてゆく三人の運命。程蝶衣はアヘンに溺れることも、刑務所に入ることもありました。日本軍の敗退で抗日戦争は終わりますが、一九四九年に共産党政権樹立。一九六六年には「文化大革命」。共産党の厳しい政治的圧力を受け、「京劇」は堕落の象徴として禁止され、三人ともがまたまた精神的に極限まで追い詰められ、生き延びるために醜く罵りあうことすらあった。この時期に菊仙は自殺。

 一九七七年、程蝶衣と段小楼は無人の体育館で、十一年ぶりに二人だけで最後の「覇王別姫」を演じる。舞い終わった時、程蝶衣は自らの命を断った。なんと言えばよいのだろうか?約三時間のこの映画を観るのは辛かった。辛いからこそ、次の幸福を求めながら観続けるのでしたが、最後まで辛い映画でした。戦争や権力がいかに人間の運命を翻弄することか。今までも何度思ったことか。。。

 この映画は一九九三年の第四六回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞。
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Nov 03, 2008

〈うさぎ穴〉からの発信 河合隼雄(その一)

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 約四十冊の「児童文学」を例にあげながら、河合隼雄は、ここから発信されるものに耳をすましていました。まず「児童文学」とは大人の書き手が子供に向けて書くものではないということ。子供の目を通してみた世界が表現されているものだと書いていらっしゃいます。そして、河合隼雄の一貫したお考えは「子供は大人以上に、いのちの誕生と死について考えている。」ということだったように思われます。
 〈うさぎ穴〉はもちろん「ふしぎの国のアリス」です。

 いつもなら、本の紹介と感想などを書くのですが、今回は自らの体験を、少し書いてみたいと思います。

 まずは、自分自身のことから。
 記憶としてはありませんが、祖父母や父母の「物語り」のなかでは、わたくしは三歳まで歩けない子供だったそうです。敗戦色濃き時期にハルビンに産まれ、何事かに備え、いつも母の背中に負ぶわれて引揚げ(つまり自らの足でよちよちと歩ける機会がなかった。)、さらに栄養失調、帰国直後に即入院、ドクターの説明によると「あと二日、帰国が遅れたらこの子は死んでいたろう。」とのことでした。この三歳までのわたくしの「物語り」はこうして大人たちによって確かな形となったわけですね。これがわたくしのいのちの物語の序章でした。

 次は子供たちのこと。
 二人の子供は普通に育ち(多分。。。なにしろ母親がこのわたくしですから。笑。)、普通の社会人となり、次世代も産まれましたが、この子供たちの時代にも忘れられない出来事はありました。
 息子が四歳の時に、近所のお友達の弟さん(まだ赤ちゃん。)が、一夜にして亡くなりました。小さな柩、泣き叫ぶ母親、葬儀に息子とともに出ましたが、息子は小声でこう言いました。「ママ、子供も死ぬの?」わたくしは一瞬絶句しましたが、「あなたは死なない。ママが守ってあげるから。」と答えました。これが嘘だとは小さな息子は気付いたことでしょう。
 また、娘は四歳くらいから、日常的に「一人語り」をしていました。そのなかから一つ。「ママのおなかには二つの卵がありました。一個目をママが産んで○○(娘=姉です。)になりました。二個目を産んで●●ちゃん(弟)になりました。」
 この二つの出来事は、まさに「死」と「生誕」を見つめた二人の子供の物語でした。世界には膨大な「児童文学」がありますが、これがわたくしの一番大切な作品だったかもしれません。

(つづく)

 (一九九〇年、マガジンハウス刊)
Posted at 20:35 in book | WriteBacks (0) | Edit

Nov 02, 2008

イル・ポスティーノ(1994)

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監督:マイケル・ラドフォード
原作:アントニオ・スカルメタ

《キャスト》
マリオ:マッシモ・トロイージ
パブロ・ネルーダ:フィリップ・ノワレ
ベアトリーチェ:マリア・グラッツィア・クチノッタ


 「イル・ポスティーノ」は英訳すれば「ザ・ポストマン」となりましょうか。

 一九五〇年代の一時期、祖国を追われた実在の詩人、外交官・国会議員(さらに共産主義者)のパブロ・ネルーダがカプリ島に亡命した史実にもとづき、架空の漁村を舞台にこの物語ははじまります。

 島民の殆どの男たちが漁師であるこの漁村の島で、内気な青年マリオは、漁師の父親に背いて、文字が読めることから郵便配達の仕事に就く。島は権力者の怠慢と傲慢のもとで、慢性化した水不足と貧しさのなかにあった。届け先は、チリから亡命してきた詩人パブロ・ネルーダの家だけでした。識字率の低いこの村で、これは偶然の出来事ではないかもしれません。亡命詩人のもとには、毎日たくさんの世界中からのファンレター、贈り物などが、届けられました。つまり二人は毎日のように会い、次第に会話は広がり、二人の間にはゆっくりと友情が育てられてゆきます。

 パブロ・ネルーダとの交流のなかで、マリオは「詩の隠喩」を理解します。ここからマリオの詩作へ向けての新鮮な一歩が始まりました。この詩は密かに愛する女性「ベアトリーチェ」の心を動かしました。紆余曲折はあったものの、二人は結婚します。

 マリオは、パブロ・ネルーダが妻マチルデに送った詩を、ベアトリーチェに捧げますが、「他人の詩を使うことは感心せん。」と言うネルーダに、マリオは「詩は書いた人間のものではなく、必要としている人間のものだ。」と詩の本質を突くまでになっていました。

 やがて、二人は結婚、もちろん祝いの席にはパブロ・ネルーダもいました。その最中に、彼の追放令が解除されたとの知らせが入り、ネルーダ夫妻は帰国。喪失感のなかで、マリオはやっと詩人との真の心の交感を理解してゆくことができた。翌日から彼は、島の自然の音(波の音、風の音、星空の音さえも。。。)を録音し始め、彼の心の世界は広がった……。それがマリオのパブロ・ネルーダへ届ける詩ではなかったのか?

 数年後、ネルーダ夫妻が島を訪れた時、そこにはベアトリーチェとマリオの息子パブリートの姿しかなかった。マリオは共産党の大会に参加し、パブロ・ネルーダに捧げた詩を労働者の前で発表するために大衆の中をかき分けて進んだ時、暴動が起きてその混乱の中で命を落としたのだった。

 「革命」と「詩」とが、互いに言葉を求め合い、共振した時代がここにはありました。それは激しい戦いの時代が生み出した「静かな叙事詩」であったように思えてなりません。

 【付記】

 この映画の丁寧な感想を桐田真輔さんが書いていらっしゃいます。詳細をお読みになりたい方は、是非こちらをお読み下さい。わたくしにはこれほどのことは書けませんので。
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