Jul 28, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ4

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 今日、リルケの「オルフォイスへのソネット・田口義弘訳・2001年・河出書房新社刊」が古書店から届きました。翻訳された「ソネット」の部分は、395ページのうちの最初の123ぺージまでで、あとの部分の大半は「註解」に費やされています。そして「あとがき」「索引」となっています。この1冊の大半を占める「註解」はとても読みやすい。

 この「註解」では、「ドゥイノの悲歌」の書かれた時期と「オルフォイスへのソネット」が書かれた時期がわずかにクロスしていることがわかります。またさらに再度ここで言っておかなければならないことは、以前に「ドゥイノの悲歌」でも少しだけ書きましたが、「悲歌・1」「悲歌・2」が書かれた後には、第一次世界大戦の勃発、この「悲歌」の進行に大きな打撃を受けています。リルケは彼の生涯のうちで、最も苦しい日々を生きたのです。この時代背景を抜きにして「ドゥイノの悲歌」を語ることは許されないことでしょう。



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 無駄話をすれば(^^)、この本には「謹呈・著者」と書かれた栞がはさみこまれたままでした。さらに栞紐はページ内で折り曲げられたままだったということは、この本を贈られた方は、ほとんどお読みになっていないと言うことですね。おかげで新品同様の本でした。お値段も新品よりもお安いのでした。ラッキー♪
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Jul 27, 2009

ポルトガル文・続

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 ポルトガルの尼僧「マリアンナ・アルコフォラド」の5通の手紙については、すでに書きましたが、これは「マルテの手記ーメモ4」だけではなくて、「ドゥイノの悲歌ーメモ3」にも書いたように、2つの著書のなかで、この女性は取り上げられているのです。リルケにとって、どれほど大きな存在だったか?が、深く理解できます。
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ポルトガル文 

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ドイツ語訳:リルケ
邦訳:水野忠敏


 これを短編小説と言うべきだろうか?「マルテの手記ーメモ4」で取り上げましたように、ポルトガルの尼僧「マリアンナ・アルコフォラド」が、彼女を置き去りにして、帰国してしまったフランスの武人に宛てて書いた5通の手紙ですので、虚構の短編小説ではありません。まずはフランス語に翻訳されて、それをリルケがドイツ語訳をしたのですが、元の手紙はフランス語訳の後で、行方不明です。リルケはこの手紙を、ドイツ語訳をする際に、この手紙を1つの文芸作品として高めることをしたように思えてなりません。

 「マリアンナ・アルコフォラド」は、尼僧とは少し違う立場を生きた女性のようです。アルコフォラド家は名門であり、恵まれた環境のなかで1640年に生まれました。当時の戦乱の時代には、子女を修道院に預けることが最も安全な道だったのです。彼女は、ベジャーのクララ教会修道院に入れられました。その上、財産家の父は娘のために、修道院の敷地内に、街路に面した特別な建物を建て与えたそうです。「マリアンナ・アルコフォラド」は、今日では想像もつかないほどに自由な生活だったわけです。

 彼女の恋の相手は、数々の武勲に輝く、若くして大佐となったフランス軍の「シャミリー・ノエル・ブトン・1636年生まれ」。スペインの支配から脱しようとしていたポルトガル軍を助けるために、彼の属する部隊がベジャーの町に進駐したことがはじまりでした。この時期ポルトガルの子女がフランス軍人に強い関心を抱くことは、必然のことだったのでしょう。

 その美しい武人に去られた彼女の5通の手紙は、悲嘆と怨み事に終始していましたが、すべての思いを書きつくし、最後の5通目の手紙できっぱりと別れを告げています。ここをリルケは「マルテの手記のなかで「男を呼び続けながらついに男を克服したのだ。去った男が再び帰らなければ、容赦なくそれを追い抜いていったのだ。」と書いているのでしょう。

 この5通の手紙が当時の社交界で話題になったことは当然のことで、彼女を置き去りにした武人の手紙があったとされたり、5通以後の手紙が創作されたりと、この手紙にはたくさんの逸話もどきが流布しましたが、おそらく「リルケ」がこの5通のみの手紙を、彼の「愛する女性像」の1人として、翻訳されたのでしょう。それにしましても、この5通の手紙が、1編の小説のごとく何故ここまで時を超えて残されたのでしょうか?

(昭和36年初版・平成2年再販・角川書店刊)
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Jul 24, 2009

マルテの手記ーメモ4

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 ここでは「愛する女性」について書かれたところを引用します。

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 彼女たちは幾世紀もの間、ただ愛だけに生きてきたのだ。いつも一人で愛の対話を、たった一人で二人分の長い対話を続けてきたのだ。男はへたにただそれを口まねするだけだった。男はうかうかしていたし、ひどく物ぐさだったし、嫉妬深かった。(嫉妬は物ぐさの1つに違いない。)男はむしろ彼女たちの真実な愛の邪魔ものにすぎなかったと言わねばならぬ。それに彼女たちは夜も昼もじっと耐えて来たのだ。愛と悲しみをじっと深めてきたのだ。無限な心の苦しみと重圧におしひしがれながら、いつのまにか彼女たちは根強い「愛する女性」になってしまった。男を呼び続けながらついに男を克服したのだ。去った男が再び帰らなければ、容赦なくそれを追い抜いていったのだ。

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 この「愛する女性」の代表的な人物として、マリアンナ・アルコフォラド(ポルトガルの尼僧)とガスパラ・スタンパ(イタリアの詩人)が登場します。

 リルケの著作に「ポルトガル文」というものがありますが、この作品の元となったものは、あるポルトガルの尼僧が、自分を捨てて、遠い国へ帰ってしまったフランスの武人に宛てて書いた5通の手紙です。そのもとの原文書はすでになく、1669年フランス語に訳されて出版されたものが唯一残されたもので、武人の名も「マリアンナ・アルコフォラド」の名前もなかったものですが、大変な評判となったのでした。それをドイツ語に翻訳したのが「リルケ」でした。まだこの「ポルトガル文」には尾ひれのついたお話がありますが、それは省きます。

 イタリアの詩人「ガスパラ・スタンパ」については、「リルケの手紙」のなかに登場しますが、「ガスパラ・スタンパは少なくとも1部分でも翻訳したいと常に考えています。ベネチアの女で1550年ごろ、コラルティノ・コラルトオ伯爵に愛の手紙や詩を贈っているのが、彼女の名前を純粋な永遠なものにしたのです。」と書かれています。

 この2人は代表的な方たちで、リルケが思う「愛する女性」は、追い詰められた困難のなかで、ぶくぶく太った女性、意識的に男と同じになってしまった女、8人もの子供を産まされて、産褥で死んだ女、場末の酒場の女、などなど手紙や詩さえ残すことのなかった女性などを含めて「愛する女性」と言っています。

 さてさてリルケ(マルテ?)は、このあとで「こんどは僕たちが少しばかり苦しい坂道を切り開き、だんだんに、ゆっくりと、少しずつ愛の仕事の一部を引き取ってゆかねばならぬのかもしれぬ。」と書いていますが、どうなったことやら。。。
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Jul 22, 2009

マルテの手記ーメモ3

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 しつこく「メモ」を書きます。この下記の引用部分には、そのなかに挙げられている、ボードレエルの詩「死体」をみつけるために詩友からのご協力をいただきました。この大山定一訳の「マルテの手記」のなかではタイトルが「死体」となっていますが、この詩は翻訳者によってさまざまなタイトルの翻訳がなされています。ボオドレエルの詩集『悪の華』のなかの「憂鬱と理想」の章に収められた作品で、「腐肉」「腐れ肉」「腐屍」といろいろな翻訳がありますので、「踊る蛇」の次に置かれた詩編であると記憶しておきましょう、と丁寧に教えていただきました。お蔭さまでなんとかこの詩をさがせました。 ありがとうございます。まずは「マルテの手記」の引用から。。

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 ボードレエルの「死体」という奇態な詩を君は覚えているか。僕は今あれがよくわかるのだ。おしまいの一節は別として、彼は少しの嘘も書いてはおらぬ。あんな出来事が起こった場合、彼はいったいどうすればよいのだ。この恐怖の中に(ただ嫌悪としか見えぬものの中に)あらゆる存在を貫く存在を見ることが、彼にかけられた負託だったのだ。選択も拒否もないのだ。

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腐肉  ボオドレエル  齋藤磯雄訳 (悪の華・「憂鬱と理想」・29)

戀人よ、想ひ起せよ、清かなる
  夏の朝(あした)に見たりしものを。
小徑の角の敷きつめし砂利の褥に
  忌はしき屍一つ。

淫婦のごとく、脚空ざまに投げやりて、
  熱蒸して毒の汗かき、
しどけなくこれ見よがしに濛濛と
  湯気だつ腹をひろげたり。

太陽は腐肉の上に照りつけて、
  程よくこれを炙りし、
「自然」の蒐めし成分を百倍にして
  返さむと務むるごとし。

大空はこの麗しき亡骸の
  花と咲く姿を眺め、
漂ふ臭気の烈しさに、危く君も
  草の上(へ)に倒れむばかり。

靑蝿(さばへ)の翼高鳴れる爛れし腹より
  蛆蟲の黒き大軍
湧きいでて、濃き膿のどろどろと
  生ける襤褸を傳ひて流る。

なべてこれ寄せては返す波にして、
  鳴るや、鳴るや、煌くや、
そことなき息吹に五體はふくらみて、
 生き、肥ゆるかと訝まる。

斯くて此処より立ち昇る怪しき樂は、
  流るる水か風の音(ね)か、
はた穀物を節づけて篩の中に、
  覆し、ゆする響か。

形象(かたち)は消えても今はただ一場の夢、
  ためらひ描く輪郭の、
畫布の面(おもて)に忘れられて、繒師は唯
  記憶をたどり筆を執るのみ。

巌かげに心いらだつ牝犬ありて
  怒れる眼(まなこ)にわれらを睨み、
喰ひ残せし肉片を、またも骸より
  奪はむと隙を窺ふ。

――さはれこの不浄、この凄じき壊爛に、
  似る日來らむ君も亦、
わが眼の星よ、わが性(さが)の仰ぐ日輪、
  君、わが天使、わが情熱よ。

さなり、亦斯くの如けむ、都雅の女王よ、
  終焉の秘蹟も果てて、
沃土に繁る草花のかげに君逝き、
  骸骨(むくろ)に雑り苔むさん時。

その時ぞ、おゝ美女(たをやめ)よ、接吻(くちづけ)をもて
  君を咬はむ地蟲に語れ、
分解せられしわが愛の形式(かたち)と真髄
  これを我、失はざり、と。


(ボオドレエル全詩集「悪の華」「巴里の憂鬱」・昭和54年東京創元社刊)

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 「ボードレエル」という表記は「マルテの手記」の翻訳者「大山定一」であり、「ボオドレエル」はこの全詩集の翻訳者「齋藤磯雄」の表記です。一応出典に合わせて書きました。ううむ。これだけで疲れたなぁ。読む方々もお疲れでしょうね。では簡単にメモします。

 つまりこのメモは「マルテの手記ーメモ1」に引用した文章の前の部分なのです。「フロベエル」が書いた「修道僧サン・ジュリアン」についての引用文は、上記の引用文に繋がるのです。何故、順序を前後させてしまったのか?それは「ボオドレエル」の詩「死体」を特定するのに手間どったからでした。「それなら、待っていなさい。」と言われそうですが、後者の引用を何故急いだのか?それは「癩者」という言葉に立ち止まったからでした。これについての私的な事情は省きますが、この言葉の歴史は深く重いもので、語り尽くすことはできない程です。


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 リルケの10年をかけて書かれた「ドゥイノの悲歌」は、6年余をかけて書かれた「マルテの手記」執筆後、2年の空白を経て書かれたものです。ここで気付いたのですが、「ル・アンドレス・ザロメ」の言葉 『結局それは絶えざる受苦であり、殉教であり、同時にまた人知れぬ昇天でもあった。」は、この2冊の流れのなかにあるような気がします。
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Jul 21, 2009

マルテの手記ーメモ2

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 以下に引用する文章は、名言集や定義集などでおなじみのところですが、「詩」というものの再確認のために、あえて書いてみます。

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 詩は人の考える感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩は本当は経験なのだ。1行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。(中略)さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。静かなしんとした部屋で過ごした一日。海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海。ここの海。空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。それらに詩人は思いめぐらすことができねばならぬ。いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人々の枕元についていなければならぬし、(中略)・・・・・・追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。(中略)一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生まれてくるのだ。

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 以上の言葉は自身(マルテあるいはリルケ?)のために書かれたものであって、けっして教訓として書かれたものではありません。これは自らの「詩」に対する考え方であり、さらに過去において書いた自らの「戯曲」への失敗と反省も込められています。
 さらに「マルテの手記」に、あるいは「ドゥイノに悲歌」にも「リルケ」が登場させる「妊婦」という言葉は素通りできないものとなります。それは「いのちのはじめ」であり、時には天使が宿る瞬間を、あるいは生きることの「回復期」をこの「妊婦」に託したのでしょうか?
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Jul 20, 2009

マルテの手記ーメモ1

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 前日に「マルテの手記」について全体の大雑把な感想を書きましたが、あらためてわたくしがこころに留めておきたいメモを書いてゆきます。こうした手段を使わなくては、どうにもこの1冊を読み終えたことにはならないでしょう。いやいや、これでも「読みました。」というところには多分到達できないでしょう。まず引用から・・・。

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 君はフロベエルが「修道僧サン・ジュリアン」を書いたのが偶然だと信じるか。癩者のベッドに寝て、恋人の閨のぬくもりと同じ心の暖かみで患者を暖める――そこまで思いきれるかどうか、が最後の決着だと僕は思っている。その決意はきっとすばらしいものをもたらしてくれるのだ。
 僕がパリで悲しんでいると思ってもらっては困る。(中略)僕は進んで、現実のためだったらすべての夢を葬ることができるのを自分ながら驚いているくらいだ。ああ、これが少しでも君に書いてやれるのだったら!しかしいったい現実というものは友達と分けあうものだろうか?いや、いや、現実は孤独の中へ閉じこめておかねばならぬ。

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 ここの引用部分は「手紙の書きつぶし」だそうです。つまり友達に宛てて書いた手紙でありながら、「マルテ」は出さなかったということで、結局「独り言」ということですね。「修道僧サン・ジュリアン」の魂のぎりぎりの純粋性を友達へではなく、自らに突きつけたということになります。さらに「現実」を孤独のなかに閉じこめるところまでみずからを追い込んでいます。
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Jul 19, 2009

マルテの手記  リルケ

Rilke

 「マルテの手記」はリルケの書いた唯一の長編小説です。モデルとなったのは、リルケが敬愛した「ヤコブセン」の国であるデンマークの「オプストフェルダー」というほとんど無名の作家であり、30歳前後で夭逝しています。
 しかし、リルケは彼の評伝小説を書いたわけではありません。またリルケの自伝小説でもありません。リルケのパリでの日々は、1903年にはじめて近代都市の渦のなかに投げ込まれたことから始まりますが、「マルテ」に仮託して、リルケのパリにおける孤独で貧しい日々や少年期の思い出などを書いたものでもありません。

 「マルテ」と「リルケ」の孤独な精神的危機は、どちらが運命として背負おうとしたのか?この小説は「死」におびえ、その「死」と引き換えに書かれたのではないか?と思えるほどに疲弊したものでした。そしてこの小説(あるいは長い散文の集合体?)のリルケ自身の自己評価も無残なものでした。
 しかし、この「マルテの手記」は、リルケの作家としての再出発でもあり、6年余の歳月を費やし、その後の「ドゥイノの悲歌」執筆の10年間に入る前には、2年の空白と精神的回復が必要なほどでした。そして結局「マルテの手記」は最後の小説となりました。晩年「ドゥイノの悲歌」と「オルフェイウスに捧げる14行の詩」によって、リルケはようやく高い境地を切り開いたのかもしれません。

 さて、「マルテの手記」は、第1部と2部に分けられているだけで、章分けは一切ありません。それは堅牢で隙間のない散文の連なりとなっていますので、読者にとって辛い読書となります。日付けすらない日記、断片的感想、書きつぶしの手紙の残片、散文詩めいた文章、少年期や過去の追想、備忘録の切れ端、今みている風物と人間などなどが順序も脈絡もなく書かれているのでした。小説という時間の流れや人間の心の移ろいなどを見出すことは不可能でした。

 リルケはこのような手法を自覚的にやりとげ、この1冊から読者に「マルテ像」を作り出してくれることを委ねたのだろうか?しかしここで大切なことは、「マルテの手記」は痛ましく孤独なものだと断定してしまうことは用心深く避けなければならない。「孤独」や「不安」というものは、文学を目指す若い未熟な者にとっては、麻薬のように魅惑的だからです。リルケは「マルテ」を通して、その時代に読者に伝えたかったことは「人間はいかに生きるか?」ということであって、人間の危うさ、死についての無力感、愛の哀しみではなかったと思います。

 それにしても、「マルテ」がパリで見たものは、どうしてこのように悲惨なものばかりなのだろう?行路病者、重たい体を運ぶ妊婦、街のヨードフォルムと油脂と不安の匂い、電車と自動車の騒音、火事場、瀕死の病人を乗せて駆ける馬車、突然目前で死ぬ酒場の男、廃屋、盲目の新聞売り、乞食、不具者・・・・・・近代都市パリの裏側とはこのようなものかもしれぬと、読者は奇妙に得心がいく。
 「マルテ」はこれらを能動的に見ることによって、それらすべてを受容したのだろう。そしてそこから「人間の死」について考えることに繋がってゆくようでした。

 最終部分で、「愛の女性たち」が書かれはじめることが救いとなる。サフォー、ベッティナ、マリアナ・アルコフォラド(ポルトガルの尼僧)、エロイーズ、アベローネ・・・・・・そして「ドゥイノの悲歌」にも登場する詩人の「ガスパラ・スタンパ」などなどです。

 「ル・アンドレス・ザロメ」の言葉を最後に引用します。

 『結局それ(マルテの手記)は絶えざる受苦であり、殉教であり、同時にまた人知れぬ昇天でもあった。」と・・・。


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 わたくしが「ドゥイノの悲歌」に引き続き、この「マルテの手記」について書くことは、到底無理なことで、それでも書かずにいられなかったのは何故だろう?それは多分長い間「詩」というものを書き、かつ読んできたわたくし自身を、詩の源のようなところまで自分を引き戻してみたかったということかもしれません。新しい詩は産まれ続けています。読みきれないほどに・・・。しかし時を超えて読まれ続けるものたちにわたくしはどうしても遭いにゆきたいのです。

 (2007年・新潮文庫・57刷)
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Jul 13, 2009

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トランペットを吹くジェルソミーナ

監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ
音楽 ニーノ・ロータ

アンソニー・クイン
ジュリエッタ・マシーナ


昨夜、娘が録画しておいた映画「道」を観ました。


おお~ ジェルソミーナ
あわれな子
口笛ふいておどけてみせる~♪


あの有名なトランペットの曲が流れると、自然と歌っていましたが、娘に「誰が歌ったの?」と聞かれて、あらためて思いなおすと、誰がこの日本語の歌を歌っていたのかわかりませんでした。

「いい映画だったでしょ?」と娘に聞きましたら、「あんまりだわ。ジェルソミーナが可愛そうすぎるわ。」と言いました。今夜になってから「あの映画の良さはジェルソミーナの天使のような優しさ、繊細さ、にあるのですよ。」と再度問いかけましたが、「相手の男がひどすぎる。」と言うのでした。たしかにジェルソミーナの優しさに気付くのが遅すぎましたね。

  *   *   *

この女優さんがチビで目が大きくて、娘から「お母さんにそっくり。」ともいわれました。喜ぶべきか?否か??? そうです。お母さんも笑顔でいろんなことに耐えてきたのだよー♪
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Jul 09, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ3

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 (ガスパラ・スタムパ)

古井由吉訳の「ドゥイノ・エレギー訳文 1」のなかの2連目を引用します。この連は何度読んでも溜息がでるほど魅力的です。繰り返し読みました。

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 たしかに、春はお前をもとめる。幾多の星もお前に、その徴(しるし)を感じ取ることを望む。過去から波が立って寄せる。ひらいた窓の下を通り過ぎると、弦の音がお前に寄り添う。すべて、何事かを託したのだ。しかし、お前はそれを果たしたか。そのつど、すべては恋人の出現を告げているかのような、期待にまだ紛らわされていたのではないか。大きな見知らぬ想いの数々が出没して、しばしば夜まで去らぬという時に、恋人をどこに匿うと言うのか。それでも憧憬の念の止まぬものなら、愛を生きた女たちのことを歌うがよい。かの女(おんな)たちの名高き心はひさしくなお十分の不死の誉れを得てはいない。男に去られながら、渇きを癒された者よりもはるかに多くを愛したあの女たちを見れば、お前は妬まんばかりになるはずだ。けっして十全な称賛とはなりきらぬ称賛を、繰り返し新たに始めよ。考えてみるがよい。英雄はおのれを保つ。滅びすら彼にとっては生きながらえるための口実にほかならず、じつは究極の誕生にひとしい。しかし愛の女たちは究め尽くした宿命を、内へ納め戻す。あたかも二度と、これを為し遂げる力も尽きたかのように。かのガスパラ・スタムパの生涯をお前は十分に思ったことがあるか。恋人に去られたどこかの娘がこの愛の女の、高き手本に接して、わたしももしや、あの人のようになれるのではと感じる、そんな学びもあるということを考えたか。これら往古よりの苦悩を、われわれにとってついに稔りあるものと成すべきではないのか。愛しながらもなおかつ、愛する人のもとから身を解き放たんとして、その解放の境に震えつつ堪えるべき、その時が来たのではないか。矢が弓弦(ゆんづる)に堪えて、放たれる際(きわ)に力を絞り、おのれ以上のものにならんとするように。滞留は何処にもないのだ。

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ふぅ~。まずはこれを書いた自分を誉めてあげようかな(^^)。

「ガスパラ・スタムパ(Gaspara Stampa)・1523年~1554年」という女性は、イタリアの詩人です。「ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)1875年~1926年」よりも350年以上前に生まれた方ですね。この女性詩人をここに蘇らせたリルケの功績は大きなもののようです。

『しかし愛の女たちは究め尽くした宿命を、内へ納め戻す。』

この「納め戻す」という表現は記憶しておきましょう。時を超えて読まれつづける詩や小説に登場する女性というものは、いつでも過去の時間から、今の時間までを生き生きと生きているのです。決して古びることがない。天使のように。。。
 流れ出てしまったものを、そのもののうちへと取り戻して、旧に復する、あるいは恢復することは、リルケの一貫した考え方、感じかたですとは、I氏が教えて下さった解釈です。
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Jul 08, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ2

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 手塚富雄訳と古井由吉訳両方の読み合わせをしなくてはならないでしょうが、古井だけにしぼりましたのは、何故か古井の訳が好きなのです。翻訳の合間でぶつぶつと私語でつぶやく古井の翻訳の困難さや、それでも訳してみたい「悲歌」の魅力のありかがわかりやすいからでしょうか?

 あちこち順不同に読みながら、わかってきたことは、この悲歌の中心は天使への呼びかけだと言うことでした。だからこそ「悲歌」なのかもしれないとさえ思います。そうしてなぜか「天使の階段」を思い出しました。これはこの写真のような気象現象にすぎないと言えばそれまでですが、雲の隙間から光が線となって降りてくる現象です。長い間そう言ってきたのですが、この言葉の由来はよくわかりません。あるいは「ヤコブの梯子」とも言います。

 季節のなかで、時としてこの「天使の階段」は天からおろされます。それに遭遇した時には、わたくしは「恩寵」という言葉をいつも思い出しました。そういう時には、聴こえるか聴こえないか、その境目あたりの音調の天使の笑い声を聴いたような気がするのでした。その時天使は束の間降りてくるようでした。

Bath Abbey
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ドゥイノの悲歌ーメモ1

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 リルケの「ドゥイノの悲歌」につきましては、以前に簡単なメモを書きましたが、再びこの「難物」を小さな力を振り絞って、少しずつメモを書くことにしました。テキストは主に古井由吉の「詩への小路」の後半部にある「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」といたします。このメモをまた書くきっかけとなったのは、原文を読み解ける詩友のI氏の「ドゥイノの悲歌」の翻訳と解釈への挑戦によって、飛び火を浴びた(?)状態の中で、ドイツ語がまったくわからないわたくしは、新たな展開を目にする機会に恵まれたからなのです。感謝いたします。


 わたくしはこの悲歌を正しく理解できているという自信はまったくありません。けれども理解の困難な詩に出会った時に、自らに用意するものは漁師のように「潮流を読む。」というような視線ではないか?といつでも思います。それから詩は必ず「人間の孤独あるいは絶望」から生み出されるものではないかと思っています。その孤独をどこまで見つめ、熟成させて、言葉にするまでの「再生の時間」が「詩作」ではないかと思っています。これは「天使」にもっとも遠いところで行われることであって、「天使」と隣接する世界で行われる営為ではないと思います。

 過日、ある詩友が「神との境界」に隣接する者のみが、芸術家たりうる、というようなことをおっしゃっていましたが、これには違和感があります。この違和感の記憶がこれを書かせているのかもしれません。


 「ドゥイノ・エレギー訳文 2」のなかで、古井由吉はこう書いています。

『訳すとなると時制(テンス)の自在さに躓く。(中略)しかし、原詩の「時」はさわらぬほうがよい。』

 作家である古井は、おそらくリルケの詩のなかにおける時間の自在さ、悲痛ともいえる時間の跳躍に振り回されることになったような気がします。「さわらぬ方がいい。」というのは、小説や散文としてでは成立させることはできない、詩という魔物をそのまま生かしておけ、そして自由なまま動かしてみるしかないだろう、という意味かもしれません。

 この悲歌は、1912年から1922年まで、10年かかって書き上げられたもので、その間には「第一次世界大戦・1914年~1918年」がありました。この時代背景を見逃すわけにはいかないでしょう。「若い死者」のイメージを肥大させた大きな要素ではないだろうか?

 さらに関連することは「マルテの手記」が1904年から1910年の6年間で書かれています。この「マルテの手記」の主人公の光と影が「ドゥイノの悲歌」に尾を引いているように思えますが、いかがなものだろうか?それは「天使」であり、「死者」であり、生きている自分自身なのであって、この混在が光と影を織り成してゆく。時を超えながら。。。
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Jul 01, 2009

奇想の王国 だまし絵展

 6月30日、天気予報は当らず(^^)。雨は出掛ける時間には止んで、帰宅時間寸前で降っただけでした。心がけのよいわたくしです。季節のせいではないにしても、鬱状態でどこかへ出掛けたかったのでした。それならおもしろい美術展へ、ということになって、澁谷Bunkamura ザ・ミュージアムに行きました。
 とりあえず、1番好きだったのは、ヤーコブ・マーレルの「花瓶の花」です。この美しい花瓶に写っているのは、絵を描いている画家なのです。

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 目玉の展示作品は、初来日のスウェーデンのジョゼッペ・アルチンボルドの「ルドルフ2世」だそうです。63種の野菜、果物、花、木の実などで構成された王様のお顔です。さぞや王様はお怒りになったのではないか?と思うのですが、意外や王様は大喜びだったそうです。

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 17世紀、静物画におけるオランダの画家の優れた細密描写の究極の遊びと言えばいいのか?「トロンプルイユ・目だまし」と呼ばれる絵画の系譜が確立し、やがてアメリカにも広がっていきました。そして、ダリ、マグリット、それからエッシャーへ。。。

damasie

 日本でも「だまし絵」は特に幕末から明治の高名な画家が、まるで座興のように描いたものがあります。お化けの掛け軸、影絵遊び、歌川国芳の「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」などが代表的でしょうか。

kunuyosi

 さらに時代は新しくなって、多様なイリュージョニズムの時代に入ります。これは最も新しい絵ではなくて写真です。本城直季の「small planet」シリーズの1つです。高所から街の風景を撮っていますが、それがまるでフィギアのように見える写真となっています。わたくしたちが歩いた澁谷の駅付近のようです。

shibuya

 138点の作品ですが、このような絵画はどうしても1枚毎に立ち止まってしまいます。観終わって時計をみたら2時間以上絵画とにらめっこしていたのでした。お疲れさまでしたが、なんとも楽しい時間ではありました。ただし「トロンプルイユ・目だまし」だけでよかったような気もします。ダリ、マグリット、エッシャーなどは個別に美術展を観ていますし、日本の「だまし絵」との同居も(テーマは似ているかもしれませんが。)ちょっと不自然でした。
Posted at 14:13 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
November 2017
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