Dec 29, 2007
ミンボーの女

監督&脚本 :伊丹十三
井上まひる:宮本信子
小林総支配人:宝田明
鈴木勇気:大地康雄
若杉太郎:村田雄浩
プールの老人(ホテルの会長):大滝秀治
フロント課長:三谷昇
ホテルマン:松井範雄
(彼はわたくしの従弟です。オーディションに強い俳優です。特別に紹介しました。笑。)
いやはや、ヤクザの恐い場面ばかりの映画、ハッピーな結果は約束されているとはいえ、恐い場面は目を伏せて観ました。観終わってつくづくと「伊丹十三」の「暴力に屈しない正義」を観たと思いました。この映画のおかげで、彼自身も現実の場面でヤクザに襲われて、大怪我をしたというニュースを改めて思い出しましたが、それも覚悟していたのではないかと思いました。
ここで「暴力に屈しない正義」をくさい言葉だと思ってはなりません。この言葉が本気で表現された稀有な映画だと言っても過言ではありません。ヤクザ映画は数々あれど、どこかで彼等の「任侠」などが美化されている映画ばかりのなかで、これはヤクザの本質(ゆすり、たかり、暴力)を暴いています。
それと法的に戦った女性弁護士「井上まひる」、刑事と裁判官の適切なバックアップ、それに導かれながら成長してゆくホテルマンたちの自覚と勇気、映画を観終わった途端、わたくしの脳裡に浮かんだ言葉は「正義」でした。しつこく繰り返します。「正義」は「不当な暴力」に勝つのです。この映画は、その「法的な勝ち方」をはっきりと教えて下さるものでした。
こうして、ヤクザにゆすられ続ける「ホテル・ヨーロッパ」は、ヤクザの脅しに屈して簡単に金を出してしまう体質と、危機管理の甘さを脱却してゆきます。経理部の「鈴木勇気」、ベルボーイの「若杉太郎」の二人をヤクザへの対応役として任命。彼等を勇気あるホテルマンに育ててゆくのが、民事介入暴力(民暴)を専門とする弁護士「井上まひる」でした。宮本信子演じる弁護士の啖呵が見事でしたね。ほれぼれしました(^^)。
Dec 23, 2007
冬の新宿御苑

なんと昨日の二十二日は「冬至」ではないか。しかも朝の窓辺では雨音。天気予報より早い。半分元気なくして傘をさしてとにかく新宿に向かいました。南口を出る頃には雨はあがっていました。御苑散歩中には一滴の雨も降らない。誰の心掛けがよかったのかな?

御苑にお住まいの猫たち。風格がありますね。負けそう。。。

空にはゆったりと飛行船が。乗ってみたいなぁ。



まだ残っていたあざやかな紅葉、花はスイセンのみ。温室は当分の間改築工事のために閉館。あのなかの花や樹木や水中植物はどこに移動したのでしょ?御苑を出る頃には、ぽつぽつと雨が。紀伊国屋で本を買う。そこで合流したメンバーと共に「ぼーねんかい」でした。
Dec 21, 2007
となりのカフカ 池内紀
「池内紀」はドイツ文学者。エッセイスト。ゲーテやカフカの翻訳者でもある。この著書は「カフカ初級クラス」向けのカフカ論であって、とてもわかりやすい。悪い夢に出てきそうなカフカ・イメージを解体して、カフカを身近な人間存在として持ってきたという貴重な本と言ってもいいかもしれません。
カフカは一八八三年七月三日、チェコのプラハで生まれる。(わたくしと誕生日だけが同じです。)チェコ国籍。ユダヤ人。小説はドイツ語で書くが、チェコ語ももちろん話せる。一九〇八年、二五歳のカフカは「ボヘミア王国労働者障害保険協会プラハ局」に採用される。幹部は全部オーストリア人、ドイツ語を使用した。「書記見習い」から「書記官」になった有能なサラリーマンだったと言える。
二十世紀到来とともに、工場の近代化がはじまり、工場労働者の事故は多発する。「労働者障害保険」の先駆けの時期と思われます。
カフカの勤務時間は午前八時から午後二時まで。家に帰ると自室にこもり、睡眠不足になるほどに執筆に集中したと思われます。壁の薄い家で、家族の声や日常の音に囲まれながらも、唯一個室を持った長男カフカの執筆は続きます。しかし病弱なために、仕事を休んで転地療養を何度か繰り返しています。そのような時でもカフカは執筆することは休まなかったようですね。
また勤勉な書記官としてのカフカには、いわゆるサラリーマンの憂鬱や嘆きのようなものが作品に投影することがなかったように思います。仕事と執筆とのストイックとも見える生活ぶりは、カフカにとってはごく自然なものだったのではないか?小説世界での奇異性は、カフカの夢の中の世界から生まれているようですが、それを単純に夢判断的に解釈することもはばかれる。これらはすべてカフカ自身の淡々とした精神世界だったように思われます。
カフカの度重なる婚約破棄、あるいは恋愛遍歴は有名なお話ですが、カフカの四十一年の生涯は、結局「新しい家族」を持つことはなかった。これはユダヤ人としては決してよい生き方ではなかったということです。ユダヤ人はみずからの宗教を強固なものとして定着させて、広めてゆくためにはユダヤ人口を増やすことに力を注いでいたのですから。
カフカが生きている間に本となって世に出たものはわずかな「短編小説」だけでした。「死んだ後はすべて焼却するように。」というカフカの遺言を「誠実に裏切って」友人はすべての日記や小説を整理して、世に送ったために、わたくしたちは、長編小説を含めてのカフカ小説を読むことができたのです。日記と小説はノートに混在して書かれていたものも多く、主人公が別の小説の名前と入れ替わっているという混乱すらありましから、カフカのよき理解者がいなければ、これらは形をなさなかったのかもしれないとさえ思われます。
また、たくさんの恋人にめぐりあったとしても、カフカ文学の寛大な理解者はそこには一人もいなかった。それは大きな哀しみのように、わたくしの心に残りました。
(二〇〇四年・光文社刊)
Dec 20, 2007
幸福な詩集

一冊の詩集を出して、その運命は様々です。これは「批評」とか「受賞」とかいう運命ではないし、そのような運命など、ほとんどどうでもいいことだと思ってきた。一編くらいの詩がどなたかの記憶に残ったり、共鳴できたりすればそれでいいのだと思う。
上の画像は、昨日はわたくしの詩集「空白期」に着せてあげてくださいと、京都のYさんから贈られてきた手作りのブックカバーです。「幸福な詩集」という言葉がすぐに浮かびました。


↑これは、詩集「空白期」を作って下さった「水仁舎」のキタミさんが、作ってくださった「保護ジャケット」です。これを頂いた時にも、「空白期」は幸福な生まれ方をした詩集だと思ったのでした。そしてずっとその「幸福」が続いていたようです。ありがとう。
Dec 19, 2007
ピアノのバットフレンジ交換修理

四月の引越しとともに、今まで住んでいたところに娘が一人暮らしとなって、当然ピアノもそこに置いてあるのですが、調律師さんが娘一人の家で一日中かかる作業に気がかりな気分があるようで、しきりに「お母さんも一緒に見に来て下さい。」と言う。家は近い(自転車で五分の距離)ので承諾する。
そういえば、ピアノを買ってから二十数年、調律師さんに会っているのはわたくしだけだったのだと気付いた。当然ピアノの解体現場を見ていたのもわたくしだけ。娘ははじめて自分(のですよ!)のピアノの中を見て、興奮気味になって「写真撮らせて。」と言い出した。それにつられてわたくしも写真を撮りました。
今回は毎年行う二時間ほどの「調律」だけではなく、一日がかりの大仕事「バットフレンジ交換修理」なのです。
・バットフレンジ新品に七五本交換
・その他、フレンジセンターピン交換
・ピアノ調律、全八十八鍵整音
いくらなんでも一日中いることもないだろうと、正午前に「一旦戻ります。終わる頃にまた来ます。」と調律師さんに申し上げたら、不安そうなお顔(^^)。まぁ、とりあえず作業は夜七時に無事に終わりました。来年からはまた普通の調律を繰り返すことになります。
そんなわけで、ピアノとの長い日々を思ったものでした。現在ピアノがある家に引越しする時には、ピアノを以前の家の玄関から出せず、一階の居間の一間分のガラス戸を外して、そこからクレーン車で引っ張りだして、引越し先の二階の部屋には男性二人、方向指揮の男性一人、計三人の力持ちの男性三人が手動で持ち上げて下さったピアノでした。娘はあらためてピアノへの思いに目覚めたようでした。めでたい(^^)。
Dec 14, 2007
ムンク展

十三日(木)午後には雨があがり、曇り空の上野公園に到着。いつもの如くまずは猫のいるカフェ・テラスへ。以前いた盲目の猫はどこへいったのだろう?姿が見えない。代りに妙に人なつこい猫に出会う。友人のカバンに頭を出していた、折畳み傘の取っ手にいきなり噛り付く。なにが入っているのやら猫はそのカバンに興味しんしん、まさか「鯵の干物」は入っていなかったと思うけど(^^)。。。


「ムンク展」はまさに三度目の正直。一回目は臨時休館、二回目は、ある催し物の後でしたので、ちょうど連休中にあたってしまって、あまりの混雑に頓挫。十三日はとりあえず雨も上がり、館内もちょうどいい混み具合でした。
ノルウェーの画家「ムンク」と言えばあの「叫び」のような陰鬱な作品のイメージが強かったのですが、今回集められた作品は「装飾」というプロジェクト作品が多いことに意外な思いがいたしました。オスロ市立ムンク美術館などから一〇八点の作品が展示されていました。
第一章:〈生命のフリーズ〉 装飾への道
第二章:人魚 アクセル ハイデルベルグ邸の装飾
第三章:〈リンデ・フリーズ〉 マックス・リンデ邸の装飾
第四章:〈ライン・ハルト・フリーズ〉 ベルリン小劇場の装飾
第五章:オーラ・オスロ大学講堂の壁画
第六章:〈フレイヤ・フリーズ〉 フレイヤ・チョコレート工場の壁画
第七章:〈労働者フリーズ〉 オスロ市庁舎のための壁画プロジェクト
ざっとこんな感じで、今回は公共的な仕事が多く見られる。第三章では、医師マックス・リンデ邸の子供部屋を飾る絵という条件で受けた仕事ですが、下絵の段階でマックス・リンデ氏の「子供部屋にふさわしくない。」と、描き直しの注文が出たのですが、「ムンク」はそれを無視したとのことで、絵画を買ってもらえなかったというエピソードも紹介されていました。
フレイヤ・チョコレート工場の社員食堂の壁画は映像としても紹介されていました。見ていたお隣のご婦人が「贅沢な社員食堂ですねー。」と、わたくしに声をかけて下さったのですが、わたくしは実はお返事に困りました。チョコレート工場の社員ではないのですから、その気分は想像しかねますもの(^^)。
例によって、一番好きだった絵「The voice/Summer Night」です。ムンクの恋人です。
Nov 28, 2007
荒地の恋 ねじめ正一
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「荒地」の詩人たちの実名を使ったこの「小説」はかなり危ういところにあるのではないでしょうか?主人公は北村太郎。初出は雑誌「オール讀物」二〇〇三年二月号から二〇〇七年一月号にかけて、十三回にわたり連載されたものです。そして主人公の詩人「北村太郎」の没後十五年という短い時間で、単行本となっています。それ以後の時間を生きていらっしゃる北村太郎の関係者に「連載」の度に、目を通していただいて承諾を得て、書かれたものだそうですが、それが「小説」と言えるのだろうか?という疑問が残ります。
しかしこれは評伝でもノンフィクションでもない。「これは事実ですか?」と問われた時には、筆者は「いえいえ、これはあくまでも小説です。」という逃げ道が用意されているような気がして、釈然としない。
「そこが、ねじめさんのやさしさ」という声も聞こえてきますが、それも納得いくものではありません。某俳人のスキャンダルがその後の二代に渡って封印されているということの方がむしろ「真実」に思えてくるから不思議です。この釈然としないという思いは、この小説のなかに描かれた「荒地」の男性詩人たちの生き方、恋人への向き合い方も同じことだった。もちろんこの小説の書き手も男性詩人の一人だということも興味深い。みんな同様にエゴイストだと思うわ。暴言多謝(^^)。。。
だからあなたは
あたしを〈愛する〉なんてけしていわなかった
あたしと〈愛をする〉といっただけ
この詩は、北村太郎十三回忌を記念して出版された「北村太郎を探して・二〇〇四年・北冬社刊」のなかの「未刊行未収録詩集」として収録されている作品のなかの一編『悲恋「恋」(抜粋)』です。
北村太郎は十九歳の若さで結婚した最初の奥様と八歳のご子息を事故で同時に亡くしていらっしゃいます。その時の「哀しみ」や「無常感」のようなものがその後の生きる日々の底に流れ続けていたように思います。
あなた わたしを生きなかったわね
これは北村の詩集「冬の当直・一九七二年・思潮社刊」のなかに収められている作品「牛とき職人の夜の歌」のなかの一行です。小説のなかでは亡くなった奥様や別れた奥様の「つぶやき」となって再現されています。
* * *
この小説の世界は「荒地」という詩人グループの狭い世界で繰り広げられています。再婚した北村太郎が二人の子供に恵まれ、順調な家族の日々があり、それを壊すきっかけとなったのは、田村隆一の奥様「明子」との出会い。泥沼のような二人の恋、田村隆一の際限のない女性関係、そして結果としての二組の夫婦の崩壊。友人鮎川信夫が生涯隠し続けた奥様は、同人加島祥造の恋人だったなどなど、男女関係は息苦しいものだった。「恋」というタイトルがついているのですから、当然小説の世界は恋愛沙汰に終始するわけで、「荒地」の詩人全体の歴史的証言のわずかな部分でしかないでしょう。
「明子」との一時的な別離の期間に、北村太郎には「阿子」という若い看護婦との恋が始まりますが、彼女だけが「性。愛。死。狂気。」の「詩人の世界」ではないところから来て、またそこへ帰ってゆくことが、この小説の最後の救いだったかもしれません。「阿子」は北村の死の前に、すでに新しい家族を出発させていたのでした。
たしかにそれは
スイートなスイートな、終わりのない始まりでした。
この詩は死んだ奥様とご子息へ送られた北村太郎の詩の一行です。人間の愛に「終わりのない」ということは「死」によってしかもたらされることはないのでしょうか。
(二〇〇七年・文藝春秋刊)
Nov 26, 2007
年月の記録 スケッチ帳より 堀文子展
ぼんやりと日々を過ごしていましたら、十八日が展覧会の最終日でした。午後からは同人の合評会が控えているのですが、無理をしてその前に観ようと「ニューオータニ美術館」に駆けつけました。このわたくしの突然の計画の決行に同行して下さった同人の心やさしい紳士お二方に感謝いたします(^^)。
展示された作品はほとんどがスケッチで、わずかな彩色がされているだけの作品でしたので、展覧会場全体はこじんまりとした地味な雰囲気でしたが、堀文子の世界のあらゆる「いのちあるもの」への、しっかりとした視線と愛おしさが観られました。その後での合評会の場では、「堀文子のような事物への視線は、詩作にも通じるものがあるのではないか?」という話題を提供して下さった同行者の言葉も嬉しく共感いたしました。
上に掲載した画像は二〇〇一年二月に描かれた「私を生かした手」の一部です。一九一八年に生まれていらっしゃるので、この時の堀文子さんの手は八九歳の手ということになりますね。人間が生きているということは、限りなく美しいものです。人間に限らず、ですね。。。
Nov 19, 2007
天上草原

監督:麦麗絲(マイリース)
一九五六年生まれ。モンゴル族。内蒙古師範大学と北京電影学院の監督学科を卒業。現在、内蒙古電影制片廠に所属。
監督:塞夫(サイフ)
一九五四年生まれ。モンゴル族。吉林大学と北京電影学院を卒業。内蒙古電影制片廠の所長を務めている。麦麗絲の夫。
音楽:三宝(サンパオ)
一九六四年生まれ。内蒙古自治区の出身。モンゴル族。中央音楽学院の作曲学科を卒業。
脚本:陳坪(チェン・ピン)
母親に捨てられ、失声症に陥ってしまった少年「フーズ」の父親は監獄にいる。先に出所する父親の友人であるモンゴル族の「シェリガン」に託された「フーズ」は草原にやって来た。自分が全く知らない草原での生活が始まった。「フーズ」をあたたかく迎えたのは、「シェリガン」が監獄に入った五年前に離婚した草原の女性「バルマ」とシェリガンの弟「テングリ」だった。町から来たフーズにとって広大な大地とゲルでの生活は戸惑いばかり。しかし、そんな彼を「シェリガン」は荒々しく育てようとする。「フーズ」は「テングリ」に心を開いていくが、「バルマ」に想いをよせる「テングリ」は、彼女の気持ちが兄から離れないことを知り、解放軍に入隊する。
「シェリガン」と「バルマ」は再び結婚する。「フーズ」の心は次第にほどけてゆく。「テングリ」が少年に残してくれた馬もいて、草原の生活の中で「フーズ」は除々に回復の兆しを見せていた。そして、祭典の日。「フーズ」は騎馬に出場し、一位でゴールする。わきあがる歓声の中、彼はついに馬上で「テングリ!」と幾度も声を発したのだった。子供の心が開かれる瞬間というものはひかりのような時間だった。三人は家族になったのだった。
その幸福も束の間、本当の父親の出所の知らせがくる。「バルマ」は「フーズ」を約束通り父親の元に返さなければならない。「モンゴルの男は約束を守るもの。」。また哀しい別れであったが、映画はそこで終わる。
子供は心を病んではならない。病んだら癒えるまで見守る。それだけが大人が子供に与える幸福ではないだろうか?厳しい自然と、広大な草原は黙ってそれを教えてくれたのではないか?
印象的な場面が二つある。羊を狼に殺された時に、「シェリガン」と「テングリ」は狼を追って森へ行く。殺すのかと思ったが、投げ縄で捕まえてから、少しの時間狼をこらしめただけで放してやる。狼は二度と羊を殺さないと彼等は信じたのだ。もう一つは、「バルマ」が草原の鳥の巣から卵を盗んできた「フーズ」を叱ることだ。そして卵を返しに行く。彼女は天に向かって鳥に謝罪の言葉を叫ぶのだった。ここではすべての命が守りあっていたのだった。
Nov 17, 2007
シュルレアリスムと美術
十三日(火)はJR桜木町駅で待合せて、横浜美術館にいきました。「まさに快晴。雲一つない空♪」とうかれているわたくしに同行者は「あそこに小さな雲が。。。」と。。。
展示された作品はさまざまでした。観終わってから「どうだった?」と聞かれても、一言では言えない。一人の画家の展覧会ではその流れに沿ってゆく見方ができます。しかし一つの時代に「シュルレアリスム」という思想のもとに括られたさまざまな画家の描いた作品の展示ですから、観る側は意識の転換を何度も繰り返しながら、作品を観ることになります。
サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、パブロ・ピカソ、ジョルジオ・キリコ、マン・レイ、アンドレ・マッソン、などなど、絵画と写真の入り混じった作品たちでした。絵の具もさまざま、立体表現もあり、という多様性でした。表現者たちはそれぞれに独自の表現のあり方を追求しているわけです。「シュルレアリスム」と括ってしまってよいのかな?とも思います。
例によって、一番気に入った作品は大事に観ます。今回は「サルバドール・ダリ」の「ガラの測地学的肖像」でした。「ガラ」は「ダリ」にとって大切な存在の女性です。その後姿、少しあらわな肩、首のひねり、などを「測地学的」に表現するとは、なんでしょうか?「ガラ」そのものが一つの地球だということかしら?うつくしい稜線のような肩ですね。
横浜まで行きますと、美術館以外の楽しさも当然ありますね。美術館を出た途端にみた美しい夕焼け、そして海が近いこと。そこから中華街までの散歩。。。

Nov 06, 2007
真珠の耳飾りの少女
監督:ピーター・ウェーバー
主演:スカーレット・ヨハンソン
一六六五年、オランダのデルフト。タイル職人(白いタイルに青色の絵付 けをする。)の父親の失明により、十七歳の「グリート」は、画家「ヨハネ ス・フェルメール」の家へ奉公に出されることになる。
フェルメール家は、気位の高い妻の「カタリーナ」、彼女の母で家計を取 り仕切っている「マーリア」、そして六人の子供という大家族でした。入り 婿の「フェルメール」多作の画家ではない。家計はつねに逼迫した状態にあ った。当然フェルメール家には、パトロンの「ファン・ライフェン」がいる 。こいつは下品な男だ。張り倒してやりたい(^^)。
しかし「フェルメール」の新作を描き始めるきっかけを与えたのは、「グ リート」だった。彼女がアトリエの窓を磨いている時に生まれた微妙な光と 色彩の変化が「フェルメール」を創作に駆り立てたのだ。
やがて「グリート」が優れた色彩感覚の持ち主であることに気づいた「フ ェルメール」は、アトリエのロフトで絵の具を調合する仕事を手伝わせるよ うになる。この場面は非常に興味深い。科学実験室のような不思議な世界だ った。骨灰、鉱石、金銀、お酒、油などさまざまな材料を練りあわせる場面 には目を奪われました。
「グリート」は家事労働の合間のわずかな自由時間を、絵の具の調合に費 やすようになる、やがて二人の関係は、芸術上のパートナーとなっていまし た。それは一家にとってはおだやかな状況ではない。しかし「フェルメール 」の創作意欲に対するグリートの影響力を見抜いていた「マーリア」は、「 グリート」の存在を容認する立場を取っていた。
デッサンは、「マーリア」以外の家族には秘密で行われた。「グリート」 は使用人としての頭巾を外し、青いターバンを巻き、キャンバスの前でポー ズを取るが、何かが足りないと感じた「フェルメール」は、「カタリーナ」 の「真珠の耳飾り」を「グリート」に着けさせようとする。それは「カタリ ーナ」の留守に、「マーリア」が「真珠の耳飾り」を用意することで実現し ました。
しかし、この後に「グリート」はフェルメール家から解雇される。別の家 で働いている彼女の元に、かつて使用人の先輩格であった女性(この女性は 、「牛乳を注ぐ女」のモデルのような。。。)によって「真珠の耳飾り」が 届けられる。果たしてこの送り主は誰だろうか?わたしの推測は「マーリア 」ですが。
主演の女優「スカーレット・ヨハンソン」はとても美しい女優、まるでこ の絵画のために生まれてきたような方でした。そしてこの映画そのものも、 おそらく実話でも伝記でもなく、想像の世界だと思った方がいいのかもしれ ません。「フェルメール」を愛した人々それぞれに「フェルメール物語」は あるのですから。。。
Nov 03, 2007
こんなに近く、こんなに遠く
監督:レザ・ミル・キャリミ(イラン)
テヘランの有能な脳外科医アーラムは、多忙な医師として日々を過ごしている。その最中で彼はこうつぶやいた。「わたしが患者の命を助けた時には神はいなかった。しかし患者の死の時には神が現われるのだ。」と。。。
大晦日でありながら、アーラム、その妻、息子はばらばらな関係になっていた。息子に約束したプレゼントの天体望遠鏡を渡す時間すらない。しかも息子は助からないであろう病気に犯されていることに父親は気付く。そして天体観測の為に砂漠へと旅立った息子を追って父親は望遠鏡を届けるために砂漠を車を走らせる。
なかなか縮まらない息子との距離。これがタイトルとなっているのだろう。旅はアーラムの予想をはるかに超えて困難を極める。砂漠の民とのさまざまな交流のなかで、欧米的な都市生活者アーラムの旅が続く。最新型の乗用車、ビデオカメラ、携帯電話、これは砂漠との違和感を見せる道具だ。
星の光が地球に届くまでに何万光年とかかる。偶然と思われる砂漠の旅での人々との出会い、出来事の全ての背景には「神の大きな存在」があるようにも感じる。イスラムでは、自分自身を見失ってしまった人は、アッラーの神によって自分の居場所を見つけるために旅に導かれるという言い伝えがあるそうです。
途中でアーラムは、車のエンストで立ち往生して砂嵐に巻き込まれ、車内に閉じ込められてしまう。意識を失う直前にアーラムに、車の天窓が開けられて、父親を捜していた息子の手が差し伸べられる。アーラムは最後の力をふりしぼって弱弱しい手を差し伸べる。ここで映画は終わる。このシーンはミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画「アダムの創造」そのものだった。
これを一つの家族ドラマと考えてもいいかもしれない。また砂漠の神の大いなる試練だという見方もあるだろう。
Oct 28, 2007
ホルトの木の下で 堀文子
これは画家「堀文子」の自伝です。堀文子は一九一八年(大正七年)東京生まれ、現在八九歳になられました。ご両親ともに中央大学で西洋史を教えていらしたという環境のもと、六人兄姉の四番目の子供、待ち焦がれていたすぐ上の兄の誕生の後に生まれた娘ということで、堀文子には期待されずに生まれたという感覚があったようです。
わたくしは三人姉妹の三女、父親を絶望させた娘です。この感覚は生涯ぬぐいきれるものではありませんが「恨み」というものではないのです。それが「家族」というものに対して、生まれついてからずっと客観的であり続けるという感性も同時に育てる、豊かな土壌となるからです。まず思春期に一旦親を捨てる。独立する。自由に生きることを無茶を承知でやる。孤独と向き合う。そんなことを行動に移すエネルギーともなったのですから。
堀文子はわたくしの亡母より五歳年下です。ほぼ同じ時代を生きています。と言うことは「戦争」を見ている。「いのち」というもののはかなさや哀しみは、これを見た者にだけある視点が育てられます。たくましい生き方もからだに覚えさせられる世代でもありました。
さらに、一九四六年、二八歳の時に結婚した病弱な外交官の夫との生活は、一九六〇年の夫の病死で終わる。夫の箕輪三郎は妻の画家としての活動の理解者でありました。と同時に戦争の結末には自責の念が拭えず、学者の道を目指し、生涯最後の仕事は、岩波書店の「平和への訴え・エラスムス著・箕輪三郎訳」でした。この訳書への堀文子の協力も多大なものだったようです。
また堀文子は大切な画友「柴田安子」の夭逝という悲しみにも出会っています。それは結婚の前年のことでした。
堀文子の画家としての生き方は旺盛で、自由で、その足跡を追うだけで、わたくしは緊張いたしました。女子美術専門学校を卒業後、東京帝国大学の農業部作物学教室で、拡大鏡を使っての農作物の記録の仕事を皮切りに、彼女は絵本、挿絵、日本画を旺盛に描き続け、日本に留まらず、世界を歩いたという行動力から生まれたものなのでした。「留まらない。」ということが堀文子の生涯を貫いているのでしょう。
* * *
「ホルトの木」とは一説には「ポルトガルの木」という意味もありますが、ここでは「オリーブ」の別称です。八十歳半ばの堀文子の向かいの屋敷には樹齢五〇〇年の「ホルトの木」がありましたが、この屋敷が売りに出される折にこの巨木が切り倒されることになり、その反対運動にことごとく失敗したあげく、堀文子自身がこの屋敷ごと買うことになったのです。これに大半の彼女の働いた分は費やされ、そこが彼女の最後のアトリエとなっています。
(二〇〇七年九月・幻戯書房刊)
Oct 26, 2007
小さな中国のお針子

監督・原作・脚本 ダイ・シージエ
プロデューサー リズ・ファヨル
「ダイ・シージエ」は一九五四年、中国福建省生まれ。両親は医者。一九七一年から一九七四年まで、「下放政策」により四川省の西康の山岳地帯で再教育を受ける。解放の後、高校に戻る。毛沢東の死後、中国の大学で美術史を学び、一九八四年に中国の給費学生としてフランスに渡り、パリ大学に留学し、美術史を専攻する。その後「パリ映画高等学院」に入学し、数本の短編を中国で撮る。
初の長編作品『中国、わがいたみ』は一九八九年に数々の高い評価を受ける。ほかの長編作品に「タン、11番目の子」と「月を食べる人」などがある。
この映画『小さな中国のお針子』は自ら書いた初小説「バルザックと小さな中国のお針子」の映画化である。自伝的な要素もある小説は、フランスのガリマール社から出版され、約四十万部のベストセラーを記録し、日本では早川書房刊。世界三十ヶ国で翻訳された。中国ではいまだ出版されていない。
* * *
一九七一年、中国の文化大革命の最中、医者を親に持つ十七歳のマーと十八歳のルオは、「下放政策」のため、チベットとの国境沿いにある、手つかずの自然とけわしい山々がそびえる村に送られる。雲に至る石段を上がると、小さな村と湖がひっそりと姿を現わす。村人は読み書きを知らなかった。二人の再教育生活は、屈辱的な仕事や、つらい畑仕事、未開の鉱山の過酷な作業だった。
ある日二人は、老仕立て屋と美しい孫娘のお針子に出会う。ルオはたちまちお針子に恋をする。そして文盲のお針子に物語を語り聞かせる。彼女が一番気にいった作家が「バルザック」だった。
お針子は「バルザック」の小説を通して「自由」という意識に目覚めていく。「バルザック」は彼女に四川省の山々の向こう側には、もっと自由な大地が拓けていると思わせるのだった。
そして二七年後、すでに有名なヴァイオリニストとなったマーは、パリで生活している。ある日、あの村が三峡ダム建設のため、まもなく水に沈むというニュースを知る。思い出の地へ向かうマー。お針子の行方はわからない。次にマーは上海へ行き、現在では名医として知られるルオを訪ねる。青春時代の思い出を語りあう二人。
* * *
この「下放政策」には、イスラエルの「キブツ」も同時に思い出す。また日本のかつての戦時下では、軍人を除いて男子は徴兵された。入隊すればかかつての社会的地位は平等となる。下層階級にあった者が上流階級の人間を部下にできる社会がここで構成される。当然ながら「下放政策」に似た状況があったはずだ。人間はそれほどにおろかしい。そんなことも思う。
人間に貧富の差ができる社会はおそらく間違っている。しかし、精神の貧富の差は一体どのように向き合えばいいのだろうか?そんな思いが心をよぎる。
大分以前に観た映画ですが「芙蓉鎮」があります。この映画も忘れずにいたい。
Oct 22, 2007
フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展
二十一日午後、六本木の国立新美術館で、「『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』を観てきました。この美術館は今の日本では一番新しい美術館でしょう。建物の規模も大きく、警戒も厳重なところでした。「国威の建造物?」という説も(^^)。
十七世紀オランダの市民や農民の生活を描いた「風俗画」というよりも「日常画」と言った方がふさわしいのではないか?と思われる絵画がまとめてみられる展覧会でした。全体の絵画のサイズが小さいのも特徴でしたね。
これは、オランダという国は庶民には比較的豊かな生活がありましたので、これらの絵画は特権階級ではなく、庶民が買えるほどの絵画だったということもありますね。そんなことを思いながら、それぞれの絵画を観てゆきますと、何故か懐かしい思いがします。「針仕事」「糸繰り」「料理」「授乳」「酒場」などなど、身近な自分のからだが体験した風景のようでした。
フェルメールは「牛乳を注ぐ女」一点だけの展示でしたので、ちょっと淋しい。でもどのような絵の具が使われたのでしょうか?工夫された証明のなかで、画面の金色の粉のような光沢がきれいでした。
これらの絵を観ながら、しきりに思い出していたのは、小田実の「中流の復興」に書いてあった一文でした。ここに再掲しておきます。
『私は世界のいろいろな国に行くたびに、外国人、とくに差別されたり抑圧されたりしている外国人がその国をいかに受け止めているかが、一番大きな指標になると思って、オランダでも、肌の黒い人など、普通ならすぐに差別されたり抑圧されたりする対象となる外国人たちに聞いてみるのです。すると、多くの人が、この国が一番いい国じゃないかと、と言います。(中略)
理由は一つあります。まずオランダの人たちが、私の言う中流の暮らしの土台を形成していることにあります。経済的な問題を解決せずに政治的な問題をせっかちにやると、強制力を伴ってかつての社会主義のようにもなるけれど、普通に人間が中流の暮らしを形成していれば、生活にゆとりができて、その上で政治的な問題が解決できるようになるでしょう。』
Oct 15, 2007
エディット・ピアフ 愛の賛歌
監督 脚本 脚色 オリヴィエ・ダアン
主演 マリオン・コティヤール
大分以前のことですが、古い「エディット・ピアフ」の映画を観た記憶があります。内容も配役もほとんど忘れているのですが、たったワン・シーンだけ鮮烈に覚えています。それはまだ無名の「エディット・ピアフ」が、幼い子供をベンチに置いてから、夜の公園のような場所でたった一人で歌いだすシーンでした。新たに制作されたこの映画を観たあとで、この鮮明な記憶が彼女の生い立ちと生涯を象徴するようなシーンであったのではないかと気付きました。
「エディット・ピアフ」の母親も同じように、歌うことに憑かれた女性で、幼いピアフの世話をしないために父親の実家である娼館に預けられる。そこでは祖母と娼婦たちに愛され、束の間の幸福な時間であったのかもしれない。(そうしてピアフはどうやら生き延びて大人になるのですが、ピアフの少女時代と同じようだった彼女の娘はピアフが路上で歌っている間に病死しています。)
ピアフはその後、また大道芸人の父親に連れ出されます。小さな彼女を愛していた娼婦は泣きながら引き止めますが、とても切ないシーンでした。売れない芸人の父親について歩くなかで、小さな彼女は自分の歌声が父親の大道芸よりも「お金」をいただけることに気付くのでした。ここから「エディット・ピアフ」としての人生はすでに始まっていましたね。
主役を演じた女優「マリオン・コティヤール」は十代後半から、晩年の四七歳までを演じるのですが、その演技力は見事でした。物語は時間の急速な移動と展開の繰り返し、そして「麻薬」「お酒」「恋人の死」などなど、心やすまる間のないシナリオ展開で、ほっとする間がなく、とても疲れました。四七年の人生はたしかに短い。いつも孤独と貧しさとの背中合わせの人生にはおだやかな時間は稀なことだったではありましょうが。。。
晩年の背中のまるくなった「エディット・ピアフ」は海辺でこう語りました。
「愛しなさい。」「愛しなさい。」「愛しなさい。」と。。。
【おまけ】
この映画のなかの「エディット・ピアフ」に、ちょっとわたくしが似ていると言った友人がいます。映画を観たわけではなくオフィシャル・サイトを見ただけのようですが、晩年の「エディット・ピアフ」に似ているのかな???まぁ。どっちでもいいけど、上の写真をアップしておきます(^^)。それにしても久しぶりに映画を観ました。上野で「ムンク」を観る予定だったのですが、普段なら月曜日休館ですが、祝日月曜日の翌日の火曜日は休館だったのでした。つまり「ムンク」にフラレての、怪我の功名というところ。。。
Oct 07, 2007
「悲惨」をどのように表現したらよいのだろう?
まず考えられることは「象徴性」か?「具体性」か?ということの二極性として。。。
九月末に広島にお住まいの詩人Kさんから、詩誌を頂く機会に恵まれました。今号の「あとがきにかえて」を拝読しました時に、わたくし自身の詩作の時、あるいは他者の作品をある必然性から選択しなければならない時に、わたくしをいつでも揺らしている正体不明なものに「言葉」が与えられたような気持がいたしました。それはこのような言葉でした。
『もしこの充分な説明がなかったなら、果たしてこれほどの感銘を受けるだろうかと、余計な事を思っていました。具体的な説明をどう抑えると良いのか、詩を書く時、私には分からないのです。』
これは、広島の被爆者、ベトナム、コソボ、アフガニスタンなどの人々の絶望から立ち上がり、生き抜く姿を撮った、ある写真展を丁寧にご覧になった折のKさんのご感想だったようです。
その後、わたくしは十月四日午後、東京国立近代美術館で開催されている「平山郁夫・祈りの旅路」を観る機会に恵まれました。こうした偶然が、長い間答えを見出せないままに抱きつづけているわたくしの詩歌への読み手として、あるいは書き手としての「内面の揺れ」に答えが出たわけではありません。しかし「揺れつづける。」ままでいいということまでは、どうやら辿りついた気持です。
平山郁夫は被爆者です。その苦しみを「人間としての釈迦」の苦行に重ね、さらに平山は「シルクロードの旅」へと絵画の世界を広げてゆきます。この心の長い道のりから生まれた作品は静謐であり、むしろうつくしいものでした。
ここで最初に書いた「二極性」に戻ります。平山郁夫が唯一「原爆」をテーマとして描いた「広島生変図」と丸木伊里&俊ご夫妻の描いた「原爆の図」との違いです。
あるいは詩人石原吉郎の「葬式列車」と鳴海英吉の「夢」は、それぞれのシベリア抑留体験の詩における表現法の違いなどを考えるだけでも、わたくしは揺れます。本当にわからないのです。でも、おぼろげにわたくしを導く言葉として、これを記しておきます。
『私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。 石原吉郎』
Sep 30, 2007
南の華 堀文子画文集
一九八八年三月からの三年間のトスカーナと日本との往復生活以前、住み慣れた東京から大磯へ、アトリエを軽井沢に、というように堀文子の「渡り」の生活は留まることはなかった。そして一九九五年三月堀文子はアマゾンからメキシコへと中南米の旅に出る。その時に描かれたものがこの一冊です。
『生物はその環境に順応して生きる。私にとっても住む場所から受ける影響はどんな知識からも強いのだった。自分を変えたければ住処を変えるか、せめて旅に出るのが、私にとってどんな努力もおよばぬ自己改造の方法であった。新しい住処や旅先はわたしの中に眠る未知の因子に火を点した。』
大自然のなかの鮮やかな草木と生き物たちの色彩、人々の素朴な生活の色彩を堀文子は見事に描きわけているようでした。「トスカーナの花野」とこの画文集を背後から支えている人々にも注目すべきかもしれない。アマゾン行きは、森林の復元の研究をされていらっしゃる植物学者「宮脇昭」博士のその地への同行という形で実現している。さらにあの有名な絵『孤絶の花ブルーポピー・二〇〇七年作』が描かれた背景には、高名な登山家がヒマラヤに同行しているはずだ。堀文子という画家の魅力あってこそのことではあるが、「うらやましいなぁ~。」と無名のわたくしは溜息がでるのであった。ぐすっ。。。
その後、堀文子はご病気をされて、さすがに旅は無理になっていらっしゃるようです。軽井沢のアトリエも手放されていらしゃる。最近の堀文子はここでどうぞ。
(一九九八年・JTB刊)
トスカーナの花野 堀文子画文集
七十歳の堀文子は人間社会のさまざまな義理を欠いても許される年齢になったという。「老年万歳」とも。そこで日本脱出を企てることとなった。一九八八年三月、ローマに長く住んでいる友人が、広い田園を持つ貴族の古いヴィラを捜してくださって、イタリア語を学ぶ時間もないままにトスカーナに旅立った。三年の歳月、ここでの二ヶ月ほどの滞在と日本での生活とを繰り返しながら、堀文子は自然のおおらかな胸のなかで、たくさんの絵を描いたようです。
春には金色の麦畑とオリーブ畑、夏にはひまわり畑、秋には葡萄畑、冬の聖夜。そしてたくさんの樹々、花々、言葉のなかった頃の子供に戻ってひたすらに描いたようです。このように生きられた彼女をただまぶしく思うのみ。。。
(一九九一年・JTB 日本交通公社出版事業局刊)
Sep 23, 2007
杉田久女と高浜虚子

汝を泣かせて心とけたる秋夜かな 杉田久女
足袋つぐやノラともならず教師妻 同上
大正から昭和にかけて、杉田久女からはじまり、竹下しず女、中村汀女、星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女などが、句誌「ホトトギス」が設けた女性俳人のための投稿欄「台所雑詠」から輩出された時代がありました。
しかし杉田久女は一九三六年(昭和十一年)の「ホトトギス」十月号紙上で、「除籍」を告げられるという屈辱的な場面に遭遇しています。久女は虚子への敬愛というものを、おそらくは「師弟愛」と「恋愛」とを混同し、錯覚したということが原因だったのではないでしょうか。これが「杉田久女」たる個性でもあるでしょう。
虚子留守の鎌倉に来て春惜む 杉田久女
張りとほす女の意地や藍ゆかた 同上
虚子ぎらひかな女嫌いのひとへ帯 同上
「女流」という言葉の規範の上に立たされ、「台所雑詠」という枠のなかで、俳句を続けることは困難な時代であったに違いない。しかし、それよりずっと以前の一九一一年 (明治四十四年)には女性の文芸誌「青鞜」が発刊されていることを思えば、フェミニズム意識は、すでに歩き始めていた時代なのです。
* * *
今日においても、明治、大正、昭和の時代においても、男女の性差と差異性は逃れようもないことです。しかし女性の内なるもの(あるいは言語表現への情熱?)が、そうした男性優位の社会構造のなかにおいても、決して消えるものではなかったのだと思います。
ただ一つ、わたくしが「杉田久女」に拘るのは、「師弟愛」と「恋愛」の混同によって、虚子から除籍されたことは、一人の女性としての否定だけではなく、「俳人」としての資質や才能も否定されたという悲しみです。「恋愛」であったとしたら、ここを分離して考えられるものではありません。彼女は全存在を否定されて、そこからまた立ち上がらなければならなかったという不幸です。
それでは現代の女性の文筆家たちが、許された自由をどこまで身の内に入れ、その自由を確かに生かせているのか?といえば、それもまた諸手を挙げて「イエス」とは言いがたい時代ですね。
Sep 21, 2007
小さな白い鳥 ジェイムズ・M・バリ
翻訳=鈴木重敏 挿画=東逸子
「ジェイムズ・M・バリ」は一八六〇年スコットランドの地方都市キリミュヤに生まれる。地方記者を務めた後に、ロンドンに出て、作家への道に進む。小説と戯曲を手掛けているが、その作風は広範囲に及びます。この小説を最後にかれは戯曲の方へむかったようです。
この物語は第一次世界大戦の最中に書かれています。「ジェイムズ・M・バリ」は徹底的な中立の立場をとっているという点にも注意したい。さらに注目したいことは、一回も執筆の体験のない女性が、このタイトルで本を書こうとしていた、という話を聞いて、彼はその女性を励ますつもりで、「貴女が書かなければ私が書きますぞ。」と脅したのですが、結局その脅しを実行する破目になったそうです。
この物語にはさまざまな子供が登場します。その中心的な子供は「ディヴィド」です。この物語はその母親が書くはずだったのですが、「私」という紳士が書き上げてしまったのです。さまざまな大人と子供を結ぶものは、この紳士です。ちょっと皮肉屋さんですが、彼は「ポーソス」という愛犬と共に暮らす独身者ですが、この愛犬の賢さとやさしささえも高く評価しています。子供も愛犬もこの紳士にとっては、素晴らしく楽しい存在であったのでせう。
『人間の子供も、まだ小鳥だった頃には、妖精たちとかなり親しくしていた。だから人間になったあとも、まだ赤ん坊の間は、妖精のことをたくさん覚えている。残念ながら赤ん坊は字が書けないし、そのうち大きくなるにつれて忘れてしまう。それで、妖精なんか見たことの無いなどと、平気で断言する子供が出てくるというわけだ。』
「ピーター・パン」は、そのなかの一人として登場します。ここに登場する子供たちは、すべて「ケンジントン公園」の鳥たちの取り締まり役の「ソロモン爺さん」の魔法によって小鳥の化身として母親のもとに生まれ、そして人間の子供として育つ間に、おおかたの子供は小鳥だった時の記憶を失くしてしまうのでした。
昼間の「ケンジントン公園」は、小鳥だった記憶を失くした子供たちと、その母親や乳母の遊び場であり、散歩の場でもありましたが、夜になると妖精たちの世界になります。
小鳥だった記憶を辿って、もう一度「ケンジントン公園」に母親を離れて戻ってしまうのが「ピーター・パン」だったのです。そういう子供たちだけが、妖精との遭遇も体験できるのです。「ピーター・パン」の不幸、それは母親に忘れられた、あるいは諦められた子供ということ。小鳥の記憶を忘れることのできない子供の幸福と言ってもいいのでせうか?
(二〇〇三年・パロル舎刊)
Sep 11, 2007
人生の実りの言葉 中野孝次

中野孝次は、一九二五年(大正十四年)生まれ。この本が単行本として出版されたのは一九九九年、中野が七四歳の時となります。中野の最も古い蔵書は十五、六歳ころに求めた「論語」であり、十八歳ではアリストテレスの「ニコマコス倫理学」だそうです。その若き日に、その本に傍線を引き、感想を書き込んだ箇所に、七四歳の中野はもう一度同意しているのですね。ここが中野孝次の一貫した純粋性なのかもしれませんね。
子ののたまわく、後世畏るべし。
いずくんぞ来者の今に如かざるるを知らんや。
四十五十にして聞こゆること無くんば、
斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。
(論語)
相手かたにとっての善を相手かたのために願うひとびとこそが、
最も充分な意味における親愛なるひとびとたるのでなくてはならない。
(アリストテレス「ニコマコス倫理学」)
ここで中野によって取り上げてられている言葉たちは、どれも純粋であり、生真面目であります。そして、これらの言葉たちは長い時間の中野孝次の読書メモのエッセンスの集約なのです。(1)の「愛」から始まり、最後の(40)では「災難と死」で終わっています。その(1)で取り上げられた言葉が下記の詩です。この言葉は最初に置く言葉として最もふさわしいと中野は書いています。
わたしの誕生を司った天使が言った
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも。
(ウイリアム・ブレイク・・・中野孝次訳)
(40)での良寛の言葉は、文政十一年(一八二八年)秋、越後に起きた、マグニチュード7,4という大地震の折に、友人の山田杜皐宛てに書いた手紙の一部です。良寛の住む島崎あたりは被害は少なかったとのこと。
しかし、災難に逢時節には 災難に逢がよく候
死ぬ時節には 死ぬがよく候
是ハこれ 災難をのがるゝ妙法にて候
今日の新潟の方々を思う時には複雑な思いがありましょう。良寛の生死に関するすさまじいまでの達観と思うほか、凡々たるわたくしにはできませぬ。
ここに取り上げられた言葉は、まさに古今東西の文学者、哲学者の言葉が選ばれていますが、ケストナー、シェークスピアが全く見当たりませんでした。どうして?
(二〇〇二年・文春文庫)
Sep 10, 2007
贈答の詩⑥ 白井明大詩集『くさまくら』への挨拶詩
この物語は詩集『心を縫う』(二〇〇四年)からはじまったように思えます。そして二〇〇七年の『くさまくら』に物語は続いているようです。ささやくような愛の物語、窓辺を流れるかすかな風のような哀しみ。そうして日々は続く。白井明大さんの詩集『くさまくら』にささやかな祝福の詩を。。。
わたしの誕生を司った天使が言った
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも。
(ウイリアム・ブレイク・・・中野孝次訳)
ちいさなひと
二人で歩き出した時間のとなりで
いつのまにか
四分の一くらいの歩幅で
歩いているちいさなひとは誰?
太古からの時間を潜り抜けて
それから進化の時間を
生きているような
桃色の産毛のあるひとは誰?
あのうつくしいひとの
僕たちは序章なのかもしれない
ゆっくりと歩いてみよう
あのちいさなひとの歩幅くらいに
* *
あたたかな夜の闇のなかで
ふいに泣きだしたちいさなひとを
こわがらせるものはなんだろう?
僕たちがふと君の存在を忘れたのか
それとも闇の重さ
それとも窓辺の風の音
生きている。
汗をかいてミルクをのんでいるひと
生きていることはこわくないと
僕たちはちいさなひとにささやく
ささやきながら
僕たちはおそれる。
Sep 07, 2007
物語と人間の科学 河合隼雄

この本は河合隼雄の五つの講義を収録したものです。実は河合隼雄は講義もしくは講演を筆録されることを極力遠ざけてきた方らしい。講演はあくまでも聴衆との関係において成り立つもの、それを不特定多数の読者に向けて本として差し出すことへの躊躇がある。しかし講義ならば、聴衆との関係をこえて、ご自分の伝えたいこととなる。この考え方から「講義録」として本にされることに同意したとのこと。ここには京都大学における最終講義「コンステレーション」も含まれています。しかし表紙のサブタイトルは「講演集」となっていますね。(岩波さん、騙し討ちは、なしにしてよ。)
この本の読者として嬉しいことは、河合隼雄の「講義」はいつも「物語」の姿をしているということです。それはあたかも「語り部」の役割をなさりながら、充分すぎる「聞き手」の役割もなさるという二重構造になっていて、そこに河合隼雄の「講義」の魅力があるのでしょう。
第一章【物語と心理療法】
「先生は易を信じらてますか?」「易は益ないことです。」と笑って答えてしまっては対話は終わります。その最初の一言から、話し手と聞き手の間にはすでに物語がはじまっているのですね。その物語への道筋が見えない方が話し手、想像する方が聞き手、事実はすでに存在している。その話し手と聞き手との共同作業のなかで、事実から真実が呼び出されるということでしょうか。
第二章【コンステレーション】
「コンステレーション」とは星座という意味だそうです。これは彼の研究分野である「ユング」が使った言葉だそうです。ここでは河合隼雄の言葉を引用します。
『われわれの人生も、言ってみれば一瞬にしてすべてを持っている。例えば、私がいま話している一瞬に、私の人生の過去も現在も全部入っているかもしれない。それは、時間をかけて物語ることができると考えられまして、私が心理療法の仕事をしているのは、来られた方が自分の物語を発見して、自分の物語を見出していかれるのを助けているのではないかな、と思っています。私がつくるのではなくて、来られた方がそれを見出される。』
第三章-1【物語にみる東洋と西洋・・・隠れキリシタン神話の変容過程】
一九四九年、フランシスコ・ザビエルの来日からはじまったキリスト教の布教は、徳川秀吉、家康によってキリシタン厳禁の歴史は二五〇年もに及びます。その時代を「隠れキリシタン」はずっと存在していました。「聖書」は「天地始之事」として口承され、のちに書き物となったそうです。
このなかでは、おそらく未熟な翻訳とともに、西洋の宗教を日本の宗教として民間に定着させるまでには、さまざまな言い換えと書き換えがありますね。そこに河合隼雄は東洋の物語性をみつけられたようです。
第三章ー2【物語にみる東洋と西洋・・・『日本霊異記』にみる宗教性】
『日本霊異記』は五世紀の半ば、雄略天皇の時代から年代順に書かれているようですが、この天皇の時代には、まだ仏教が入ってきていません。その後から仏教が入ってきて、約三百年の歴史が書かれています。この中から河合隼雄は「冥界往還」にお話を限定しておられます。
それは「臨死体験」「遊体離脱」などのお話から、「善行」「悪行」によるあの世での人間の遭遇するさまざまな仕打ちなどが語られています。「浦島太郎」の物語も幾通りかのパターンがありますが、基本的には「善行」の典型なのでしょう。
医療の未熟な時代では「死」の決定は引き延ばされました。そこにさまざまな「臨死体験」「遊体離脱」の物語が生まれるわけですが、どれ一つとして類型がない。それはとりもなおさず「生き方」にも同じことが言えるのでしょう。
第四章【物語のなかの男性と女性】
ここではサブタイトルに「思春期の性と関連して」とあります。テキストとして「源氏物語」と「とりかえばや」という現代の文学ではないものが取り上げられています。そこには欧米文化に見られるような「男らしさ」「女らしさ」という規範を超えた、ゆるやかな男女のあり方が見られるからでしょう。「性」や「精神」の純粋性と不純性を問うよりも、それ全体を「魂」の問題として考えることなのだろうと思われます。
第五章【アイディンティティの深化】
「アイディンティティ」とは「同一性」「主体性」などと訳されますが、河合隼雄は「非常に簡単に言えば、私は私です。」と言っていらっしゃいます。加えて「私は私以外のすべてのものである。」というファンタジー性によって「アイディンティティ」という言葉はやっとそれらしい姿を見せはじめるとも。。。この現実的な方法として河合隼雄は「箱庭療法」を試みたのですね。しかしおそらく世界全体がこの「アイディンティティ」の過程にあると言えるのでしょうか?
(一九九三年・岩波書店刊)
Sep 02, 2007
三木成夫記念シンポジウム
九月一日、東京芸術大学において、生物学者三木成夫のシンポジウムに行ってまいりました。この会は十六回目にあたりますが、今年は三木成夫没後二十年にあたるそうです。午前十時から午後四時半まで、総計六名の講師によるシンポジウムでしたが、午後のみの聴講を致しました。ちなみに講座スケジュールは以下の通りです。
10:10-10:50 西原克成(西原研究所) 「内臓が生み出す心」
10:50-11:30 宮木孝昌(東京医科大学) 「臍(へそ)のはなし」
11:30-12:10 坂井建雄(順天堂大学) 「魯迅の「藤野先生」で書かれなかったこと」
(昼食)
13:40-14:20 植田工(デザイナー)「ピノキオと三木生物学」
14:20-15:00 中村るい(東京芸術大学)「ギリシャ美術の身体イメージを読む」
(コーヒーブレイク)
15:40-16:30 三木桃子 「三木成夫の思い出を語る」聞き手:後藤仁敏
「ピノキオと三木生物学」は、植田工さんの芸大大学院の卒業論文となったものが再現されたようです。植田さんは今春卒業したばかりの若者でした。彼の基本テーマは、「ピノキオ」を例にとって、アニメのキャラクターの形態の造形のプロセスのなかで、作り手の心になにが起きて、どのような形態を目指しているのか?ということを、三木生物学との照合から探ってみようとしたのでしょう。
そこで「アニメには生殖によっていのちが生まれないのだ。」という彼の発言がありました。わたくしは内心では「若いなぁ~。」と苦笑しました。ゼベットおじいさんには子供がいなかった。そこへの着眼がないのですね。「おやゆび姫」も子供のいない家に授けられた。それは妖精からの贈り物ではないですか?日本のお話なら「桃太郎」「かぐや姫」などなど。。。
中村るいさんは、かつて三木成夫の芸大時代の教え子にあたる。「ギリシャ美術の身体性」を、三木生物学に重ねようと試みたのだろうか?筋肉の描かれ方と内臓との関係、重心の置き方によって変わる肉体表現などなど。。。
最後は、没後二十年を記念して奥様の桃子さんが、映像を見ながら、インタビューに答えるかたちで、若き日の三木成夫との出会い、結婚、子育てについてお話くださった。とても美しくかわいい女性でした。三木成夫との年齢差は十五歳もあったのですね。
十五歳の桃子さんに「二十歳になっても気持が変わらなかったら結婚して下さい。それまでは、あなたは自由です。」とおっしゃったそうです。無事結婚なさってお二人の子供に恵まれましたが、子供の成長は三木にとっては、楽しい生物学研究だったようですね(^^)。とても心あたたまるお話でした。
Aug 23, 2007
中流の復興 小田実
「小田実」というお名前だけは若い日から存じ上げている。「べ平連」と言う言葉と共に。しかし、今日まで一冊も読まなかった。とうとうご逝去されたあとで、やっとこの著書を開きました。遅い出会いでした。やはり荒削りな文章に馴染めない感は拭えませんが、しかし小田実の言う(書く、ではないような。。。)言葉は、まっすぐに届きます。はっきりとした意思表示がありました。「語録」と言いたいような言葉が多く、それをここに挙げてみませう。(太字部分は引用です。)
『ただ、ベトナム戦争は勝ったけれども「惨勝」です。惨敗という言葉があるけれど、彼らの場合は「惨勝」、完全に惨めな勝利です。「惨勝」という言葉をつくったのは中国で、一九四五年の日中戦争で使われました。あの時の中国は勝ったけれども、日本に侵略されて、滅茶苦茶にやられた「惨勝」なんです。』
「戦争はやってはいけない。」というのは、考えてみるまでもなく、あたりまえの基本思想でありながら、何故人間は戦争の歴史を断つことができないのか?凡々たるわたくしの変わらぬ「人間の摩訶不思議」です。
八月になると、テレビは必ず「戦争番組」を企画する。やらないよりはいいが。。。偶然見たNHK番組では「憲法九条」の改定の是非について世代を問わずに、スタジオでの討論と街頭インタビューとを放映していました。「否」を主張する方々がほとんど戦争体験者であることは痛ましい限りでした。体験者にとっては「二度と戦争はやらない。」という約束は夢のようなことだったろうと思います。この「九条」の成立の背景が真っ白なものであったとしたら。。。
また街頭インタビューでは、貧しさから抜け出せないフリーターの若者が「是」を主張していました。これにはかつての「満蒙開拓団」の方々が重なりました。このような危険を孕んでいるのではないでしょうか?
『私は世界のいろいろな国に行くたびに、外国人、とくに差別されたり抑圧されたりしている外国人がその国をいかに受け止めているかが、一番大きな指標になると思って、オランダでも、肌の黒い人など、普通ならすぐに差別されたり抑圧されたりする対象となる外国人たちに聞いてみるのです。すると、多くの人が、この国が一番いい国じゃないかと、と言います。(中略)
理由は一つあります。まずオランダの人たちが、私の言う中流の暮らしの土台を形成していることにあります。経済的な問題を解決せずに政治的な問題をせっかちにやると、強制力を伴ってかつての社会主義のようにもなるけれど、普通に人間が中流の暮らしを形成していれば、生活にゆとりができて、その上で政治的な問題が解決できるようになるでしょう。』
ここにこの著書の「中流の復興」の意味が浮き彫りにされますね。小田実は平和産業で復興した日本が、軍事国家に向かってはならないと言っているのでしょうか?さらにオランダでは「尊厳死」への規制をゆるやかにしています。これも注目するべきところですね。
「あとがき」にかえて、と題された四十ページにもなる長い文章は、「恒久民族民衆法廷=PPT(二〇〇七年三月二十一日~二十五日、オランダ、ハーグ)」が調査したフィリピンの惨い状況の報告書です。ここには小田実の最期の叫びが聴こえます。本当に惨い。言葉を失います。これはわたくしにはとても書ききれるものではないと思いましたが、リベルさんのコメントを頂きましたので、やはり拙いながら加筆いたします。小田実はここにも重い「語録」を残していかれました。この言葉にわたくしの思いを託します。
『どの国家でも、その成長と発展は農民、漁民、労働者、先住民族、女性、そして彼らの勤勉な労働にある。しかしこのような民衆が極度の貧困、飢え、失業、土地およびすべての資源の喪失に直面するなら、暮らしそのものが脅かされ、社会が破壊されるため、発展は無意味である。これがフィリピン人の過酷な現実である。』
【付記】
これはわたくし個人の考え方ですが、わたくし個人としては「組織」というものが嫌いです。一つの運動を起すには個人の力では弱すぎて出来ないから、その個人の力を結集したら強い力となるのではないか?という理念は理解します。しかし「組織」となると、そこはもう階級社会となる。リーダーがいる、幹部がいる、兵隊がいる、その兵隊にも階級がつく。経済面でも「塩と水」だけでは闘うことはできない。組織のなかでの人間間の考え方のずれ、そして近親憎悪、異種人間への排除意識、見えないところでは男女間の諍いなどなど。あらゆる場面から腐敗がはじまる。これは文学の世界でも同じことです。あまり理解できていない「べ平連」や「PPT」などについて言っているのではない。身近に起きているささやかな運動組織にそのような状況を垣間見るからです。
わたくしは、ささやかながら「非戦」というコーナーを作った。これはわたくしの父母、祖父母への鎮魂のためです。そしてやがて子供達も読む。個人での行動はここまでです。それぞれ一人の人間が両親の歴史を小声で語り継ぐこと、これで充分ではないか?大きな運動ではない。ひたすら自らの足元を雪ぎ続けることでいい。
あああ。疲れた。慣れないことを書きました。(汗。汗。汗。。。)
(二〇〇七年六月・NHK出版・生活人新書224)
Aug 16, 2007
女性詩史再考 新井豊美
女性詩の歴史について書かれたのは、おそらく新井豊美さんしかいらっしゃらないのではないだろうか?戦前戦後そして現代に至るまでの女性詩人の流れ、主張、表現の変化について、わかりやすく、しかも偏りなく書かれた貴重な著書です。
与謝野晶子からはじまり、今の若手詩人までの足跡を丹念に読み込み、社会における女性のあり方、あるいは抑圧と開放、そして開放後の拡散、しかしそこに見出される一本の流れを新井さんは静かな視線で丹念に追い続けたと思えます。そこには「女流詩人」から「女性詩人」への流れへと移行する「空白期」もありました。
山の動く日 与謝野晶子・「青鞜」
山の動く日きたる、
かく云へど、ひとこれを信ぜじ。
(中略)
すべて眠りし女、
今ぞ目覚めて動くなる。
焔について 永瀬清子
(前略)
年毎の落葉してしまう樹のように
一日のうちにすっかり身も心もちびてしまう私は
その時あたらしい千百の芽の燃えはじめるのを感じる。
その時私は自分の生の濁らぬ源流をみつめる。
その時いつも黄金色の詩がはばたいて私の中へ降りてくるのを感じる。
(後略)
怒るときと許すとき 茨木のり子
女がひとり
頬杖をついて
慣れない煙草をぷかぷかふかし
油断すればぽたぽた垂れる涙を
水道栓のように きっちり締め
男を許すべきか 怒るべきかについて
思いをめぐらしている
(後略)
書き出したらきりがない。白石かず子、富岡多恵子、石垣りん、新川和江、吉原幸子そしてこの本の著者である新井豊美、etc、ここまでの詩人がわたくしにとっての先達詩人となるのでしょう。
女性・・・それは「産む性」である。言い換えれば「産まない選択肢もある性」でもある。この与えられた片側の性は、永瀬清子の「グレンデルの母」という詩語が見事に代弁していますので、今さら書くこともないでしょう。
この一冊は、一九九九年「現代詩手帖」の十二月号に書かれた「空虚から不透明の感覚へ」を中心として、二〇〇〇年以後の状況を書き加えたものです。ここには「女性詩」から、さらに「女性性への詩」という予感を残していました。
(二〇〇七年・思潮社・詩の森文庫E11)
Aug 11, 2007
まどのそとの そのまたむこう モーリス・センダック
これはアメリカの絵本作家モーリス・センダック(作&絵)のものを、「わきあきこ」が翻訳したものです。前日に、大江健三郎の小説「取り替え子 チェンジリング」について書きましたが、そのなかで「古義人」の妻「千樫」が、示唆を受けた絵本として取り上げられているのは、多分この絵本でしょう。
父親は船に乗って遠くへ行っている。空ろな眼をした母親。赤ちゃんのおもりをする長女アイダ。ゴブリンに氷の赤ちゃんとすりかえられて、連れていかれてしまった赤ちゃんを、知恵と勇気をもって取り返すのもアイダだった。この無力な空ろな母親とアイダに「千樫」はあまりにも深いものを感じとってしまったのだと、痛ましい思いになる。
(一九八三年初版・二〇〇二年第九刷・福音館書店刊)
Aug 10, 2007
取り替え子・チェンジリング 大江健三郎
自死した映画監督の「吾良」がカセットテープに残した、主人公の作家「古義人」へのメッセージを聴くヘッドホンを「古義人」は「田亀」という昆虫の名前に例えていますが、これはともに少年期を過ごした村にいた、ごく見慣れたものだったのでしょう。なるほど旧式(?)ヘッドホンの形に似ています。わたくしはこれを昆虫であることさえ知らずに「デバガメのもじりですか?」と思ってしまい、なんとも奇妙な読み出しでした。すみませぬ。以後、「古義人」はすべてヘッドホンを「田亀」と呼んでいます。
確認のために、対談集「大江健三郎・再発見・・・二〇〇一年・集英社刊」のなかの、井上ひさし&小森陽一&大江健三郎の対談のなかで「田亀」を理解した次第です。「田亀」は「田鼈」とも表記されます。小森氏は「鼈=すっぽん」というところまで想像を拡大しています。実際に小説の中ではベルリンから帰国したばかりの「古義人」が、読者から送られてきた「鼈=すっぽん」とキッチンで大格闘する場面がありますが、大江健三郎にはそこまでの拡大した比喩ではなかったということでした。
そして「古義人」の「田亀」との対話は、ベルリンへの旅の前まで続きました。ベルリンからの帰国後は「吾良」の映画化されなかった「シナリオ」と「絵コンテ」に移っていきます。それは登場人物が「古義人」を中心とした、周囲の人間がモデルとなっています。
しかし途中から、なぜタイトルが「取り替え子・チェンジリング」なのか?という疑問(愚問?)になかなか答えが見出せないという焦燥感に陥りました。大江健三郎の小説は一見私小説のように見えますが、実はまったくの小説なのです。惑わされずに読まなければ、わたくしたちは大きな過ちをおかすことになります。さらに現実には、大江健三郎が障害者の父親であるということを前提として読むことも控える方が懸命な読者となるだろうと思います。彼はあくまでも小説家なのですからね。
最終章に入って、ようやくそのタイトルの意味が浮上します