Dec 29, 2007

ミンボーの女

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監督&脚本 :伊丹十三

井上まひる:宮本信子
小林総支配人:宝田明
鈴木勇気:大地康雄
若杉太郎:村田雄浩
プールの老人(ホテルの会長):大滝秀治
フロント課長:三谷昇

ホテルマン:松井範雄
(彼はわたくしの従弟です。オーディションに強い俳優です。特別に紹介しました。笑。)

 いやはや、ヤクザの恐い場面ばかりの映画、ハッピーな結果は約束されているとはいえ、恐い場面は目を伏せて観ました。観終わってつくづくと「伊丹十三」の「暴力に屈しない正義」を観たと思いました。この映画のおかげで、彼自身も現実の場面でヤクザに襲われて、大怪我をしたというニュースを改めて思い出しましたが、それも覚悟していたのではないかと思いました。

 ここで「暴力に屈しない正義」をくさい言葉だと思ってはなりません。この言葉が本気で表現された稀有な映画だと言っても過言ではありません。ヤクザ映画は数々あれど、どこかで彼等の「任侠」などが美化されている映画ばかりのなかで、これはヤクザの本質(ゆすり、たかり、暴力)を暴いています。
 それと法的に戦った女性弁護士「井上まひる」、刑事と裁判官の適切なバックアップ、それに導かれながら成長してゆくホテルマンたちの自覚と勇気、映画を観終わった途端、わたくしの脳裡に浮かんだ言葉は「正義」でした。しつこく繰り返します。「正義」は「不当な暴力」に勝つのです。この映画は、その「法的な勝ち方」をはっきりと教えて下さるものでした。

 こうして、ヤクザにゆすられ続ける「ホテル・ヨーロッパ」は、ヤクザの脅しに屈して簡単に金を出してしまう体質と、危機管理の甘さを脱却してゆきます。経理部の「鈴木勇気」、ベルボーイの「若杉太郎」の二人をヤクザへの対応役として任命。彼等を勇気あるホテルマンに育ててゆくのが、民事介入暴力(民暴)を専門とする弁護士「井上まひる」でした。宮本信子演じる弁護士の啖呵が見事でしたね。ほれぼれしました(^^)。
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Dec 23, 2007

冬の新宿御苑

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 なんと昨日の二十二日は「冬至」ではないか。しかも朝の窓辺では雨音。天気予報より早い。半分元気なくして傘をさしてとにかく新宿に向かいました。南口を出る頃には雨はあがっていました。御苑散歩中には一滴の雨も降らない。誰の心掛けがよかったのかな?

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 御苑にお住まいの猫たち。風格がありますね。負けそう。。。

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 空にはゆったりと飛行船が。乗ってみたいなぁ。

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 まだ残っていたあざやかな紅葉、花はスイセンのみ。温室は当分の間改築工事のために閉館。あのなかの花や樹木や水中植物はどこに移動したのでしょ?御苑を出る頃には、ぽつぽつと雨が。紀伊国屋で本を買う。そこで合流したメンバーと共に「ぼーねんかい」でした。
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Dec 21, 2007

となりのカフカ   池内紀

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 「池内紀」はドイツ文学者。エッセイスト。ゲーテやカフカの翻訳者でもある。この著書は「カフカ初級クラス」向けのカフカ論であって、とてもわかりやすい。悪い夢に出てきそうなカフカ・イメージを解体して、カフカを身近な人間存在として持ってきたという貴重な本と言ってもいいかもしれません。

 カフカは一八八三年七月三日、チェコのプラハで生まれる。(わたくしと誕生日だけが同じです。)チェコ国籍。ユダヤ人。小説はドイツ語で書くが、チェコ語ももちろん話せる。一九〇八年、二五歳のカフカは「ボヘミア王国労働者障害保険協会プラハ局」に採用される。幹部は全部オーストリア人、ドイツ語を使用した。「書記見習い」から「書記官」になった有能なサラリーマンだったと言える。
 二十世紀到来とともに、工場の近代化がはじまり、工場労働者の事故は多発する。「労働者障害保険」の先駆けの時期と思われます。

 カフカの勤務時間は午前八時から午後二時まで。家に帰ると自室にこもり、睡眠不足になるほどに執筆に集中したと思われます。壁の薄い家で、家族の声や日常の音に囲まれながらも、唯一個室を持った長男カフカの執筆は続きます。しかし病弱なために、仕事を休んで転地療養を何度か繰り返しています。そのような時でもカフカは執筆することは休まなかったようですね。

 また勤勉な書記官としてのカフカには、いわゆるサラリーマンの憂鬱や嘆きのようなものが作品に投影することがなかったように思います。仕事と執筆とのストイックとも見える生活ぶりは、カフカにとってはごく自然なものだったのではないか?小説世界での奇異性は、カフカの夢の中の世界から生まれているようですが、それを単純に夢判断的に解釈することもはばかれる。これらはすべてカフカ自身の淡々とした精神世界だったように思われます。

 カフカの度重なる婚約破棄、あるいは恋愛遍歴は有名なお話ですが、カフカの四十一年の生涯は、結局「新しい家族」を持つことはなかった。これはユダヤ人としては決してよい生き方ではなかったということです。ユダヤ人はみずからの宗教を強固なものとして定着させて、広めてゆくためにはユダヤ人口を増やすことに力を注いでいたのですから。

   カフカが生きている間に本となって世に出たものはわずかな「短編小説」だけでした。「死んだ後はすべて焼却するように。」というカフカの遺言を「誠実に裏切って」友人はすべての日記や小説を整理して、世に送ったために、わたくしたちは、長編小説を含めてのカフカ小説を読むことができたのです。日記と小説はノートに混在して書かれていたものも多く、主人公が別の小説の名前と入れ替わっているという混乱すらありましから、カフカのよき理解者がいなければ、これらは形をなさなかったのかもしれないとさえ思われます。

   また、たくさんの恋人にめぐりあったとしても、カフカ文学の寛大な理解者はそこには一人もいなかった。それは大きな哀しみのように、わたくしの心に残りました。

 (二〇〇四年・光文社刊)
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Dec 20, 2007

幸福な詩集

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 一冊の詩集を出して、その運命は様々です。これは「批評」とか「受賞」とかいう運命ではないし、そのような運命など、ほとんどどうでもいいことだと思ってきた。一編くらいの詩がどなたかの記憶に残ったり、共鳴できたりすればそれでいいのだと思う。

 上の画像は、昨日はわたくしの詩集「空白期」に着せてあげてくださいと、京都のYさんから贈られてきた手作りのブックカバーです。「幸福な詩集」という言葉がすぐに浮かびました。

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 ↑これは、詩集「空白期」を作って下さった「水仁舎」のキタミさんが、作ってくださった「保護ジャケット」です。これを頂いた時にも、「空白期」は幸福な生まれ方をした詩集だと思ったのでした。そしてずっとその「幸福」が続いていたようです。ありがとう。
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Dec 19, 2007

ピアノのバットフレンジ交換修理

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 四月の引越しとともに、今まで住んでいたところに娘が一人暮らしとなって、当然ピアノもそこに置いてあるのですが、調律師さんが娘一人の家で一日中かかる作業に気がかりな気分があるようで、しきりに「お母さんも一緒に見に来て下さい。」と言う。家は近い(自転車で五分の距離)ので承諾する。

 そういえば、ピアノを買ってから二十数年、調律師さんに会っているのはわたくしだけだったのだと気付いた。当然ピアノの解体現場を見ていたのもわたくしだけ。娘ははじめて自分(のですよ!)のピアノの中を見て、興奮気味になって「写真撮らせて。」と言い出した。それにつられてわたくしも写真を撮りました。

 今回は毎年行う二時間ほどの「調律」だけではなく、一日がかりの大仕事「バットフレンジ交換修理」なのです。

・バットフレンジ新品に七五本交換
・その他、フレンジセンターピン交換
・ピアノ調律、全八十八鍵整音

 いくらなんでも一日中いることもないだろうと、正午前に「一旦戻ります。終わる頃にまた来ます。」と調律師さんに申し上げたら、不安そうなお顔(^^)。まぁ、とりあえず作業は夜七時に無事に終わりました。来年からはまた普通の調律を繰り返すことになります。

 そんなわけで、ピアノとの長い日々を思ったものでした。現在ピアノがある家に引越しする時には、ピアノを以前の家の玄関から出せず、一階の居間の一間分のガラス戸を外して、そこからクレーン車で引っ張りだして、引越し先の二階の部屋には男性二人、方向指揮の男性一人、計三人の力持ちの男性三人が手動で持ち上げて下さったピアノでした。娘はあらためてピアノへの思いに目覚めたようでした。めでたい(^^)。 
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Dec 14, 2007

ムンク展

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 十三日(木)午後には雨があがり、曇り空の上野公園に到着。いつもの如くまずは猫のいるカフェ・テラスへ。以前いた盲目の猫はどこへいったのだろう?姿が見えない。代りに妙に人なつこい猫に出会う。友人のカバンに頭を出していた、折畳み傘の取っ手にいきなり噛り付く。なにが入っているのやら猫はそのカバンに興味しんしん、まさか「鯵の干物」は入っていなかったと思うけど(^^)。。。

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 「ムンク展」はまさに三度目の正直。一回目は臨時休館、二回目は、ある催し物の後でしたので、ちょうど連休中にあたってしまって、あまりの混雑に頓挫。十三日はとりあえず雨も上がり、館内もちょうどいい混み具合でした。

 ノルウェーの画家「ムンク」と言えばあの「叫び」のような陰鬱な作品のイメージが強かったのですが、今回集められた作品は「装飾」というプロジェクト作品が多いことに意外な思いがいたしました。オスロ市立ムンク美術館などから一〇八点の作品が展示されていました。

第一章:〈生命のフリーズ〉 装飾への道
第二章:人魚 アクセル ハイデルベルグ邸の装飾
第三章:〈リンデ・フリーズ〉 マックス・リンデ邸の装飾
第四章:〈ライン・ハルト・フリーズ〉 ベルリン小劇場の装飾
第五章:オーラ・オスロ大学講堂の壁画
第六章:〈フレイヤ・フリーズ〉 フレイヤ・チョコレート工場の壁画
第七章:〈労働者フリーズ〉 オスロ市庁舎のための壁画プロジェクト

 ざっとこんな感じで、今回は公共的な仕事が多く見られる。第三章では、医師マックス・リンデ邸の子供部屋を飾る絵という条件で受けた仕事ですが、下絵の段階でマックス・リンデ氏の「子供部屋にふさわしくない。」と、描き直しの注文が出たのですが、「ムンク」はそれを無視したとのことで、絵画を買ってもらえなかったというエピソードも紹介されていました。

 フレイヤ・チョコレート工場の社員食堂の壁画は映像としても紹介されていました。見ていたお隣のご婦人が「贅沢な社員食堂ですねー。」と、わたくしに声をかけて下さったのですが、わたくしは実はお返事に困りました。チョコレート工場の社員ではないのですから、その気分は想像しかねますもの(^^)。

 例によって、一番好きだった絵「The voice/Summer Night」です。ムンクの恋人です。

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Nov 28, 2007

荒地の恋    ねじめ正一

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 「荒地」の詩人たちの実名を使ったこの「小説」はかなり危ういところにあるのではないでしょうか?主人公は北村太郎。初出は雑誌「オール讀物」二〇〇三年二月号から二〇〇七年一月号にかけて、十三回にわたり連載されたものです。そして主人公の詩人「北村太郎」の没後十五年という短い時間で、単行本となっています。それ以後の時間を生きていらっしゃる北村太郎の関係者に「連載」の度に、目を通していただいて承諾を得て、書かれたものだそうですが、それが「小説」と言えるのだろうか?という疑問が残ります。

 しかしこれは評伝でもノンフィクションでもない。「これは事実ですか?」と問われた時には、筆者は「いえいえ、これはあくまでも小説です。」という逃げ道が用意されているような気がして、釈然としない。

 「そこが、ねじめさんのやさしさ」という声も聞こえてきますが、それも納得いくものではありません。某俳人のスキャンダルがその後の二代に渡って封印されているということの方がむしろ「真実」に思えてくるから不思議です。この釈然としないという思いは、この小説のなかに描かれた「荒地」の男性詩人たちの生き方、恋人への向き合い方も同じことだった。もちろんこの小説の書き手も男性詩人の一人だということも興味深い。みんな同様にエゴイストだと思うわ。暴言多謝(^^)。。。

   だからあなたは
   あたしを〈愛する〉なんてけしていわなかった
   あたしと〈愛をする〉といっただけ


 この詩は、北村太郎十三回忌を記念して出版された「北村太郎を探して・二〇〇四年・北冬社刊」のなかの「未刊行未収録詩集」として収録されている作品のなかの一編『悲恋「恋」(抜粋)』です。

 北村太郎は十九歳の若さで結婚した最初の奥様と八歳のご子息を事故で同時に亡くしていらっしゃいます。その時の「哀しみ」や「無常感」のようなものがその後の生きる日々の底に流れ続けていたように思います。

   あなた わたしを生きなかったわね

 これは北村の詩集「冬の当直・一九七二年・思潮社刊」のなかに収められている作品「牛とき職人の夜の歌」のなかの一行です。小説のなかでは亡くなった奥様や別れた奥様の「つぶやき」となって再現されています。

  *    *    *

 この小説の世界は「荒地」という詩人グループの狭い世界で繰り広げられています。再婚した北村太郎が二人の子供に恵まれ、順調な家族の日々があり、それを壊すきっかけとなったのは、田村隆一の奥様「明子」との出会い。泥沼のような二人の恋、田村隆一の際限のない女性関係、そして結果としての二組の夫婦の崩壊。友人鮎川信夫が生涯隠し続けた奥様は、同人加島祥造の恋人だったなどなど、男女関係は息苦しいものだった。「恋」というタイトルがついているのですから、当然小説の世界は恋愛沙汰に終始するわけで、「荒地」の詩人全体の歴史的証言のわずかな部分でしかないでしょう。

 「明子」との一時的な別離の期間に、北村太郎には「阿子」という若い看護婦との恋が始まりますが、彼女だけが「性。愛。死。狂気。」の「詩人の世界」ではないところから来て、またそこへ帰ってゆくことが、この小説の最後の救いだったかもしれません。「阿子」は北村の死の前に、すでに新しい家族を出発させていたのでした。

   たしかにそれは
   スイートなスイートな、終わりのない始まりでした。


 この詩は死んだ奥様とご子息へ送られた北村太郎の詩の一行です。人間の愛に「終わりのない」ということは「死」によってしかもたらされることはないのでしょうか。

 (二〇〇七年・文藝春秋刊)
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Nov 26, 2007

年月の記録 スケッチ帳より 堀文子展

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 ぼんやりと日々を過ごしていましたら、十八日が展覧会の最終日でした。午後からは同人の合評会が控えているのですが、無理をしてその前に観ようと「ニューオータニ美術館」に駆けつけました。このわたくしの突然の計画の決行に同行して下さった同人の心やさしい紳士お二方に感謝いたします(^^)。

 展示された作品はほとんどがスケッチで、わずかな彩色がされているだけの作品でしたので、展覧会場全体はこじんまりとした地味な雰囲気でしたが、堀文子の世界のあらゆる「いのちあるもの」への、しっかりとした視線と愛おしさが観られました。その後での合評会の場では、「堀文子のような事物への視線は、詩作にも通じるものがあるのではないか?」という話題を提供して下さった同行者の言葉も嬉しく共感いたしました。

 上に掲載した画像は二〇〇一年二月に描かれた「私を生かした手」の一部です。一九一八年に生まれていらっしゃるので、この時の堀文子さんの手は八九歳の手ということになりますね。人間が生きているということは、限りなく美しいものです。人間に限らず、ですね。。。

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Nov 19, 2007

天上草原

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監督:麦麗絲(マイリース)
一九五六年生まれ。モンゴル族。内蒙古師範大学と北京電影学院の監督学科を卒業。現在、内蒙古電影制片廠に所属。

監督:塞夫(サイフ)
一九五四年生まれ。モンゴル族。吉林大学と北京電影学院を卒業。内蒙古電影制片廠の所長を務めている。麦麗絲の夫。

音楽:三宝(サンパオ)
一九六四年生まれ。内蒙古自治区の出身。モンゴル族。中央音楽学院の作曲学科を卒業。

脚本:陳坪(チェン・ピン)

 母親に捨てられ、失声症に陥ってしまった少年「フーズ」の父親は監獄にいる。先に出所する父親の友人であるモンゴル族の「シェリガン」に託された「フーズ」は草原にやって来た。自分が全く知らない草原での生活が始まった。「フーズ」をあたたかく迎えたのは、「シェリガン」が監獄に入った五年前に離婚した草原の女性「バルマ」とシェリガンの弟「テングリ」だった。町から来たフーズにとって広大な大地とゲルでの生活は戸惑いばかり。しかし、そんな彼を「シェリガン」は荒々しく育てようとする。「フーズ」は「テングリ」に心を開いていくが、「バルマ」に想いをよせる「テングリ」は、彼女の気持ちが兄から離れないことを知り、解放軍に入隊する。

 「シェリガン」と「バルマ」は再び結婚する。「フーズ」の心は次第にほどけてゆく。「テングリ」が少年に残してくれた馬もいて、草原の生活の中で「フーズ」は除々に回復の兆しを見せていた。そして、祭典の日。「フーズ」は騎馬に出場し、一位でゴールする。わきあがる歓声の中、彼はついに馬上で「テングリ!」と幾度も声を発したのだった。子供の心が開かれる瞬間というものはひかりのような時間だった。三人は家族になったのだった。

 その幸福も束の間、本当の父親の出所の知らせがくる。「バルマ」は「フーズ」を約束通り父親の元に返さなければならない。「モンゴルの男は約束を守るもの。」。また哀しい別れであったが、映画はそこで終わる。

 子供は心を病んではならない。病んだら癒えるまで見守る。それだけが大人が子供に与える幸福ではないだろうか?厳しい自然と、広大な草原は黙ってそれを教えてくれたのではないか?
 印象的な場面が二つある。羊を狼に殺された時に、「シェリガン」と「テングリ」は狼を追って森へ行く。殺すのかと思ったが、投げ縄で捕まえてから、少しの時間狼をこらしめただけで放してやる。狼は二度と羊を殺さないと彼等は信じたのだ。もう一つは、「バルマ」が草原の鳥の巣から卵を盗んできた「フーズ」を叱ることだ。そして卵を返しに行く。彼女は天に向かって鳥に謝罪の言葉を叫ぶのだった。ここではすべての命が守りあっていたのだった。
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Nov 17, 2007

シュルレアリスムと美術

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 十三日(火)はJR桜木町駅で待合せて、横浜美術館にいきました。「まさに快晴。雲一つない空♪」とうかれているわたくしに同行者は「あそこに小さな雲が。。。」と。。。

 展示された作品はさまざまでした。観終わってから「どうだった?」と聞かれても、一言では言えない。一人の画家の展覧会ではその流れに沿ってゆく見方ができます。しかし一つの時代に「シュルレアリスム」という思想のもとに括られたさまざまな画家の描いた作品の展示ですから、観る側は意識の転換を何度も繰り返しながら、作品を観ることになります。

 サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、パブロ・ピカソ、ジョルジオ・キリコ、マン・レイ、アンドレ・マッソン、などなど、絵画と写真の入り混じった作品たちでした。絵の具もさまざま、立体表現もあり、という多様性でした。表現者たちはそれぞれに独自の表現のあり方を追求しているわけです。「シュルレアリスム」と括ってしまってよいのかな?とも思います。

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 例によって、一番気に入った作品は大事に観ます。今回は「サルバドール・ダリ」の「ガラの測地学的肖像」でした。「ガラ」は「ダリ」にとって大切な存在の女性です。その後姿、少しあらわな肩、首のひねり、などを「測地学的」に表現するとは、なんでしょうか?「ガラ」そのものが一つの地球だということかしら?うつくしい稜線のような肩ですね。

 横浜まで行きますと、美術館以外の楽しさも当然ありますね。美術館を出た途端にみた美しい夕焼け、そして海が近いこと。そこから中華街までの散歩。。。

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Nov 06, 2007

真珠の耳飾りの少女

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監督:ピーター・ウェーバー
主演:スカーレット・ヨハンソン

 一六六五年、オランダのデルフト。タイル職人(白いタイルに青色の絵付 けをする。)の父親の失明により、十七歳の「グリート」は、画家「ヨハネ ス・フェルメール」の家へ奉公に出されることになる。
 フェルメール家は、気位の高い妻の「カタリーナ」、彼女の母で家計を取 り仕切っている「マーリア」、そして六人の子供という大家族でした。入り 婿の「フェルメール」多作の画家ではない。家計はつねに逼迫した状態にあ った。当然フェルメール家には、パトロンの「ファン・ライフェン」がいる 。こいつは下品な男だ。張り倒してやりたい(^^)。

 しかし「フェルメール」の新作を描き始めるきっかけを与えたのは、「グ リート」だった。彼女がアトリエの窓を磨いている時に生まれた微妙な光と 色彩の変化が「フェルメール」を創作に駆り立てたのだ。
 やがて「グリート」が優れた色彩感覚の持ち主であることに気づいた「フ ェルメール」は、アトリエのロフトで絵の具を調合する仕事を手伝わせるよ うになる。この場面は非常に興味深い。科学実験室のような不思議な世界だ った。骨灰、鉱石、金銀、お酒、油などさまざまな材料を練りあわせる場面 には目を奪われました。
 「グリート」は家事労働の合間のわずかな自由時間を、絵の具の調合に費 やすようになる、やがて二人の関係は、芸術上のパートナーとなっていまし た。それは一家にとってはおだやかな状況ではない。しかし「フェルメール 」の創作意欲に対するグリートの影響力を見抜いていた「マーリア」は、「 グリート」の存在を容認する立場を取っていた。
 デッサンは、「マーリア」以外の家族には秘密で行われた。「グリート」 は使用人としての頭巾を外し、青いターバンを巻き、キャンバスの前でポー ズを取るが、何かが足りないと感じた「フェルメール」は、「カタリーナ」 の「真珠の耳飾り」を「グリート」に着けさせようとする。それは「カタリ ーナ」の留守に、「マーリア」が「真珠の耳飾り」を用意することで実現し ました。

 しかし、この後に「グリート」はフェルメール家から解雇される。別の家 で働いている彼女の元に、かつて使用人の先輩格であった女性(この女性は 、「牛乳を注ぐ女」のモデルのような。。。)によって「真珠の耳飾り」が 届けられる。果たしてこの送り主は誰だろうか?わたしの推測は「マーリア 」ですが。

 主演の女優「スカーレット・ヨハンソン」はとても美しい女優、まるでこ の絵画のために生まれてきたような方でした。そしてこの映画そのものも、 おそらく実話でも伝記でもなく、想像の世界だと思った方がいいのかもしれ ません。「フェルメール」を愛した人々それぞれに「フェルメール物語」は あるのですから。。。
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Nov 03, 2007

こんなに近く、こんなに遠く

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監督:レザ・ミル・キャリミ(イラン)

 テヘランの有能な脳外科医アーラムは、多忙な医師として日々を過ごしている。その最中で彼はこうつぶやいた。「わたしが患者の命を助けた時には神はいなかった。しかし患者の死の時には神が現われるのだ。」と。。。

 大晦日でありながら、アーラム、その妻、息子はばらばらな関係になっていた。息子に約束したプレゼントの天体望遠鏡を渡す時間すらない。しかも息子は助からないであろう病気に犯されていることに父親は気付く。そして天体観測の為に砂漠へと旅立った息子を追って父親は望遠鏡を届けるために砂漠を車を走らせる。

 なかなか縮まらない息子との距離。これがタイトルとなっているのだろう。旅はアーラムの予想をはるかに超えて困難を極める。砂漠の民とのさまざまな交流のなかで、欧米的な都市生活者アーラムの旅が続く。最新型の乗用車、ビデオカメラ、携帯電話、これは砂漠との違和感を見せる道具だ。

 星の光が地球に届くまでに何万光年とかかる。偶然と思われる砂漠の旅での人々との出会い、出来事の全ての背景には「神の大きな存在」があるようにも感じる。イスラムでは、自分自身を見失ってしまった人は、アッラーの神によって自分の居場所を見つけるために旅に導かれるという言い伝えがあるそうです。

 途中でアーラムは、車のエンストで立ち往生して砂嵐に巻き込まれ、車内に閉じ込められてしまう。意識を失う直前にアーラムに、車の天窓が開けられて、父親を捜していた息子の手が差し伸べられる。アーラムは最後の力をふりしぼって弱弱しい手を差し伸べる。ここで映画は終わる。このシーンはミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画「アダムの創造」そのものだった。

 これを一つの家族ドラマと考えてもいいかもしれない。また砂漠の神の大いなる試練だという見方もあるだろう。
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Oct 28, 2007

ホルトの木の下で  堀文子

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 これは画家「堀文子」の自伝です。堀文子は一九一八年(大正七年)東京生まれ、現在八九歳になられました。ご両親ともに中央大学で西洋史を教えていらしたという環境のもと、六人兄姉の四番目の子供、待ち焦がれていたすぐ上の兄の誕生の後に生まれた娘ということで、堀文子には期待されずに生まれたという感覚があったようです。
 わたくしは三人姉妹の三女、父親を絶望させた娘です。この感覚は生涯ぬぐいきれるものではありませんが「恨み」というものではないのです。それが「家族」というものに対して、生まれついてからずっと客観的であり続けるという感性も同時に育てる、豊かな土壌となるからです。まず思春期に一旦親を捨てる。独立する。自由に生きることを無茶を承知でやる。孤独と向き合う。そんなことを行動に移すエネルギーともなったのですから。

 堀文子はわたくしの亡母より五歳年下です。ほぼ同じ時代を生きています。と言うことは「戦争」を見ている。「いのち」というもののはかなさや哀しみは、これを見た者にだけある視点が育てられます。たくましい生き方もからだに覚えさせられる世代でもありました。
 さらに、一九四六年、二八歳の時に結婚した病弱な外交官の夫との生活は、一九六〇年の夫の病死で終わる。夫の箕輪三郎は妻の画家としての活動の理解者でありました。と同時に戦争の結末には自責の念が拭えず、学者の道を目指し、生涯最後の仕事は、岩波書店の「平和への訴え・エラスムス著・箕輪三郎訳」でした。この訳書への堀文子の協力も多大なものだったようです。
 また堀文子は大切な画友「柴田安子」の夭逝という悲しみにも出会っています。それは結婚の前年のことでした。

 堀文子の画家としての生き方は旺盛で、自由で、その足跡を追うだけで、わたくしは緊張いたしました。女子美術専門学校を卒業後、東京帝国大学の農業部作物学教室で、拡大鏡を使っての農作物の記録の仕事を皮切りに、彼女は絵本、挿絵、日本画を旺盛に描き続け、日本に留まらず、世界を歩いたという行動力から生まれたものなのでした。「留まらない。」ということが堀文子の生涯を貫いているのでしょう。

  *  *  *

 「ホルトの木」とは一説には「ポルトガルの木」という意味もありますが、ここでは「オリーブ」の別称です。八十歳半ばの堀文子の向かいの屋敷には樹齢五〇〇年の「ホルトの木」がありましたが、この屋敷が売りに出される折にこの巨木が切り倒されることになり、その反対運動にことごとく失敗したあげく、堀文子自身がこの屋敷ごと買うことになったのです。これに大半の彼女の働いた分は費やされ、そこが彼女の最後のアトリエとなっています。

 (二〇〇七年九月・幻戯書房刊)
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Oct 26, 2007

小さな中国のお針子

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監督・原作・脚本  ダイ・シージエ
プロデューサー   リズ・ファヨル

 「ダイ・シージエ」は一九五四年、中国福建省生まれ。両親は医者。一九七一年から一九七四年まで、「下放政策」により四川省の西康の山岳地帯で再教育を受ける。解放の後、高校に戻る。毛沢東の死後、中国の大学で美術史を学び、一九八四年に中国の給費学生としてフランスに渡り、パリ大学に留学し、美術史を専攻する。その後「パリ映画高等学院」に入学し、数本の短編を中国で撮る。
 初の長編作品『中国、わがいたみ』は一九八九年に数々の高い評価を受ける。ほかの長編作品に「タン、11番目の子」と「月を食べる人」などがある。

 この映画『小さな中国のお針子』は自ら書いた初小説「バルザックと小さな中国のお針子」の映画化である。自伝的な要素もある小説は、フランスのガリマール社から出版され、約四十万部のベストセラーを記録し、日本では早川書房刊。世界三十ヶ国で翻訳された。中国ではいまだ出版されていない。

  *  *  *

 一九七一年、中国の文化大革命の最中、医者を親に持つ十七歳のマーと十八歳のルオは、「下放政策」のため、チベットとの国境沿いにある、手つかずの自然とけわしい山々がそびえる村に送られる。雲に至る石段を上がると、小さな村と湖がひっそりと姿を現わす。村人は読み書きを知らなかった。二人の再教育生活は、屈辱的な仕事や、つらい畑仕事、未開の鉱山の過酷な作業だった。

 ある日二人は、老仕立て屋と美しい孫娘のお針子に出会う。ルオはたちまちお針子に恋をする。そして文盲のお針子に物語を語り聞かせる。彼女が一番気にいった作家が「バルザック」だった。
 お針子は「バルザック」の小説を通して「自由」という意識に目覚めていく。「バルザック」は彼女に四川省の山々の向こう側には、もっと自由な大地が拓けていると思わせるのだった。

   そして二七年後、すでに有名なヴァイオリニストとなったマーは、パリで生活している。ある日、あの村が三峡ダム建設のため、まもなく水に沈むというニュースを知る。思い出の地へ向かうマー。お針子の行方はわからない。次にマーは上海へ行き、現在では名医として知られるルオを訪ねる。青春時代の思い出を語りあう二人。

  *  *  *

 この「下放政策」には、イスラエルの「キブツ」も同時に思い出す。また日本のかつての戦時下では、軍人を除いて男子は徴兵された。入隊すればかかつての社会的地位は平等となる。下層階級にあった者が上流階級の人間を部下にできる社会がここで構成される。当然ながら「下放政策」に似た状況があったはずだ。人間はそれほどにおろかしい。そんなことも思う。
 人間に貧富の差ができる社会はおそらく間違っている。しかし、精神の貧富の差は一体どのように向き合えばいいのだろうか?そんな思いが心をよぎる。

 大分以前に観た映画ですが「芙蓉鎮」があります。この映画も忘れずにいたい。
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Oct 22, 2007

フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展

 二十一日午後、六本木の国立新美術館で、「『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』を観てきました。この美術館は今の日本では一番新しい美術館でしょう。建物の規模も大きく、警戒も厳重なところでした。「国威の建造物?」という説も(^^)。

sinbijutukan

 十七世紀オランダの市民や農民の生活を描いた「風俗画」というよりも「日常画」と言った方がふさわしいのではないか?と思われる絵画がまとめてみられる展覧会でした。全体の絵画のサイズが小さいのも特徴でしたね。
 これは、オランダという国は庶民には比較的豊かな生活がありましたので、これらの絵画は特権階級ではなく、庶民が買えるほどの絵画だったということもありますね。そんなことを思いながら、それぞれの絵画を観てゆきますと、何故か懐かしい思いがします。「針仕事」「糸繰り」「料理」「授乳」「酒場」などなど、身近な自分のからだが体験した風景のようでした。
 フェルメールは「牛乳を注ぐ女」一点だけの展示でしたので、ちょっと淋しい。でもどのような絵の具が使われたのでしょうか?工夫された証明のなかで、画面の金色の粉のような光沢がきれいでした。

Vermeer

 これらの絵を観ながら、しきりに思い出していたのは、小田実の「中流の復興」に書いてあった一文でした。ここに再掲しておきます。

 『私は世界のいろいろな国に行くたびに、外国人、とくに差別されたり抑圧されたりしている外国人がその国をいかに受け止めているかが、一番大きな指標になると思って、オランダでも、肌の黒い人など、普通ならすぐに差別されたり抑圧されたりする対象となる外国人たちに聞いてみるのです。すると、多くの人が、この国が一番いい国じゃないかと、と言います。(中略)
 理由は一つあります。まずオランダの人たちが、私の言う中流の暮らしの土台を形成していることにあります。経済的な問題を解決せずに政治的な問題をせっかちにやると、強制力を伴ってかつての社会主義のようにもなるけれど、普通に人間が中流の暮らしを形成していれば、生活にゆとりができて、その上で政治的な問題が解決できるようになるでしょう。』
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Oct 15, 2007

エディット・ピアフ  愛の賛歌

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 監督 脚本 脚色  オリヴィエ・ダアン
 主演        マリオン・コティヤール

 大分以前のことですが、古い「エディット・ピアフ」の映画を観た記憶があります。内容も配役もほとんど忘れているのですが、たったワン・シーンだけ鮮烈に覚えています。それはまだ無名の「エディット・ピアフ」が、幼い子供をベンチに置いてから、夜の公園のような場所でたった一人で歌いだすシーンでした。新たに制作されたこの映画を観たあとで、この鮮明な記憶が彼女の生い立ちと生涯を象徴するようなシーンであったのではないかと気付きました。

 「エディット・ピアフ」の母親も同じように、歌うことに憑かれた女性で、幼いピアフの世話をしないために父親の実家である娼館に預けられる。そこでは祖母と娼婦たちに愛され、束の間の幸福な時間であったのかもしれない。(そうしてピアフはどうやら生き延びて大人になるのですが、ピアフの少女時代と同じようだった彼女の娘はピアフが路上で歌っている間に病死しています。)

 ピアフはその後、また大道芸人の父親に連れ出されます。小さな彼女を愛していた娼婦は泣きながら引き止めますが、とても切ないシーンでした。売れない芸人の父親について歩くなかで、小さな彼女は自分の歌声が父親の大道芸よりも「お金」をいただけることに気付くのでした。ここから「エディット・ピアフ」としての人生はすでに始まっていましたね。

 主役を演じた女優「マリオン・コティヤール」は十代後半から、晩年の四七歳までを演じるのですが、その演技力は見事でした。物語は時間の急速な移動と展開の繰り返し、そして「麻薬」「お酒」「恋人の死」などなど、心やすまる間のないシナリオ展開で、ほっとする間がなく、とても疲れました。四七年の人生はたしかに短い。いつも孤独と貧しさとの背中合わせの人生にはおだやかな時間は稀なことだったではありましょうが。。。

 晩年の背中のまるくなった「エディット・ピアフ」は海辺でこう語りました。

 「愛しなさい。」「愛しなさい。」「愛しなさい。」と。。。

 【おまけ】
 この映画のなかの「エディット・ピアフ」に、ちょっとわたくしが似ていると言った友人がいます。映画を観たわけではなくオフィシャル・サイトを見ただけのようですが、晩年の「エディット・ピアフ」に似ているのかな???まぁ。どっちでもいいけど、上の写真をアップしておきます(^^)。それにしても久しぶりに映画を観ました。上野で「ムンク」を観る予定だったのですが、普段なら月曜日休館ですが、祝日月曜日の翌日の火曜日は休館だったのでした。つまり「ムンク」にフラレての、怪我の功名というところ。。。
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Oct 07, 2007

「悲惨」をどのように表現したらよいのだろう?

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 まず考えられることは「象徴性」か?「具体性」か?ということの二極性として。。。

 九月末に広島にお住まいの詩人Kさんから、詩誌を頂く機会に恵まれました。今号の「あとがきにかえて」を拝読しました時に、わたくし自身の詩作の時、あるいは他者の作品をある必然性から選択しなければならない時に、わたくしをいつでも揺らしている正体不明なものに「言葉」が与えられたような気持がいたしました。それはこのような言葉でした。

 『もしこの充分な説明がなかったなら、果たしてこれほどの感銘を受けるだろうかと、余計な事を思っていました。具体的な説明をどう抑えると良いのか、詩を書く時、私には分からないのです。』

 これは、広島の被爆者、ベトナム、コソボ、アフガニスタンなどの人々の絶望から立ち上がり、生き抜く姿を撮った、ある写真展を丁寧にご覧になった折のKさんのご感想だったようです。
 その後、わたくしは十月四日午後、東京国立近代美術館で開催されている「平山郁夫・祈りの旅路」を観る機会に恵まれました。こうした偶然が、長い間答えを見出せないままに抱きつづけているわたくしの詩歌への読み手として、あるいは書き手としての「内面の揺れ」に答えが出たわけではありません。しかし「揺れつづける。」ままでいいということまでは、どうやら辿りついた気持です。
 平山郁夫は被爆者です。その苦しみを「人間としての釈迦」の苦行に重ね、さらに平山は「シルクロードの旅」へと絵画の世界を広げてゆきます。この心の長い道のりから生まれた作品は静謐であり、むしろうつくしいものでした。

 ここで最初に書いた「二極性」に戻ります。平山郁夫が唯一「原爆」をテーマとして描いた「広島生変図」と丸木伊里&俊ご夫妻の描いた「原爆の図」との違いです。
 あるいは詩人石原吉郎の「葬式列車」と鳴海英吉の「夢」は、それぞれのシベリア抑留体験の詩における表現法の違いなどを考えるだけでも、わたくしは揺れます。本当にわからないのです。でも、おぼろげにわたくしを導く言葉として、これを記しておきます。

 『私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。 石原吉郎』
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Sep 30, 2007

南の華  堀文子画文集

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 一九八八年三月からの三年間のトスカーナと日本との往復生活以前、住み慣れた東京から大磯へ、アトリエを軽井沢に、というように堀文子の「渡り」の生活は留まることはなかった。そして一九九五年三月堀文子はアマゾンからメキシコへと中南米の旅に出る。その時に描かれたものがこの一冊です。

   『生物はその環境に順応して生きる。私にとっても住む場所から受ける影響はどんな知識からも強いのだった。自分を変えたければ住処を変えるか、せめて旅に出るのが、私にとってどんな努力もおよばぬ自己改造の方法であった。新しい住処や旅先はわたしの中に眠る未知の因子に火を点した。』

 大自然のなかの鮮やかな草木と生き物たちの色彩、人々の素朴な生活の色彩を堀文子は見事に描きわけているようでした。「トスカーナの花野」とこの画文集を背後から支えている人々にも注目すべきかもしれない。アマゾン行きは、森林の復元の研究をされていらっしゃる植物学者「宮脇昭」博士のその地への同行という形で実現している。さらにあの有名な絵『孤絶の花ブルーポピー・二〇〇七年作』が描かれた背景には、高名な登山家がヒマラヤに同行しているはずだ。堀文子という画家の魅力あってこそのことではあるが、「うらやましいなぁ~。」と無名のわたくしは溜息がでるのであった。ぐすっ。。。

 その後、堀文子はご病気をされて、さすがに旅は無理になっていらっしゃるようです。軽井沢のアトリエも手放されていらしゃる。最近の堀文子はここでどうぞ。

 (一九九八年・JTB刊)
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トスカーナの花野  堀文子画文集

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 七十歳の堀文子は人間社会のさまざまな義理を欠いても許される年齢になったという。「老年万歳」とも。そこで日本脱出を企てることとなった。一九八八年三月、ローマに長く住んでいる友人が、広い田園を持つ貴族の古いヴィラを捜してくださって、イタリア語を学ぶ時間もないままにトスカーナに旅立った。三年の歳月、ここでの二ヶ月ほどの滞在と日本での生活とを繰り返しながら、堀文子は自然のおおらかな胸のなかで、たくさんの絵を描いたようです。

 春には金色の麦畑とオリーブ畑、夏にはひまわり畑、秋には葡萄畑、冬の聖夜。そしてたくさんの樹々、花々、言葉のなかった頃の子供に戻ってひたすらに描いたようです。このように生きられた彼女をただまぶしく思うのみ。。。

 (一九九一年・JTB 日本交通公社出版事業局刊)
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Sep 23, 2007

杉田久女と高浜虚子

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汝を泣かせて心とけたる秋夜かな   杉田久女

足袋つぐやノラともならず教師妻    同上

 大正から昭和にかけて、杉田久女からはじまり、竹下しず女、中村汀女、星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女などが、句誌「ホトトギス」が設けた女性俳人のための投稿欄「台所雑詠」から輩出された時代がありました。
 しかし杉田久女は一九三六年(昭和十一年)の「ホトトギス」十月号紙上で、「除籍」を告げられるという屈辱的な場面に遭遇しています。久女は虚子への敬愛というものを、おそらくは「師弟愛」と「恋愛」とを混同し、錯覚したということが原因だったのではないでしょうか。これが「杉田久女」たる個性でもあるでしょう。

虚子留守の鎌倉に来て春惜む    杉田久女  

張りとほす女の意地や藍ゆかた   同上

虚子ぎらひかな女嫌いのひとへ帯  同上

 「女流」という言葉の規範の上に立たされ、「台所雑詠」という枠のなかで、俳句を続けることは困難な時代であったに違いない。しかし、それよりずっと以前の一九一一年 (明治四十四年)には女性の文芸誌「青鞜」が発刊されていることを思えば、フェミニズム意識は、すでに歩き始めていた時代なのです。

  *  *  *

 今日においても、明治、大正、昭和の時代においても、男女の性差と差異性は逃れようもないことです。しかし女性の内なるもの(あるいは言語表現への情熱?)が、そうした男性優位の社会構造のなかにおいても、決して消えるものではなかったのだと思います。
 ただ一つ、わたくしが「杉田久女」に拘るのは、「師弟愛」と「恋愛」の混同によって、虚子から除籍されたことは、一人の女性としての否定だけではなく、「俳人」としての資質や才能も否定されたという悲しみです。「恋愛」であったとしたら、ここを分離して考えられるものではありません。彼女は全存在を否定されて、そこからまた立ち上がらなければならなかったという不幸です。

 それでは現代の女性の文筆家たちが、許された自由をどこまで身の内に入れ、その自由を確かに生かせているのか?といえば、それもまた諸手を挙げて「イエス」とは言いがたい時代ですね。
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Sep 21, 2007

小さな白い鳥   ジェイムズ・M・バリ

The Little White Bird

    翻訳=鈴木重敏   挿画=東逸子 

 「ジェイムズ・M・バリ」は一八六〇年スコットランドの地方都市キリミュヤに生まれる。地方記者を務めた後に、ロンドンに出て、作家への道に進む。小説と戯曲を手掛けているが、その作風は広範囲に及びます。この小説を最後にかれは戯曲の方へむかったようです。
 この物語は第一次世界大戦の最中に書かれています。「ジェイムズ・M・バリ」は徹底的な中立の立場をとっているという点にも注意したい。さらに注目したいことは、一回も執筆の体験のない女性が、このタイトルで本を書こうとしていた、という話を聞いて、彼はその女性を励ますつもりで、「貴女が書かなければ私が書きますぞ。」と脅したのですが、結局その脅しを実行する破目になったそうです。

 この物語にはさまざまな子供が登場します。その中心的な子供は「ディヴィド」です。この物語はその母親が書くはずだったのですが、「私」という紳士が書き上げてしまったのです。さまざまな大人と子供を結ぶものは、この紳士です。ちょっと皮肉屋さんですが、彼は「ポーソス」という愛犬と共に暮らす独身者ですが、この愛犬の賢さとやさしささえも高く評価しています。子供も愛犬もこの紳士にとっては、素晴らしく楽しい存在であったのでせう。

 『人間の子供も、まだ小鳥だった頃には、妖精たちとかなり親しくしていた。だから人間になったあとも、まだ赤ん坊の間は、妖精のことをたくさん覚えている。残念ながら赤ん坊は字が書けないし、そのうち大きくなるにつれて忘れてしまう。それで、妖精なんか見たことの無いなどと、平気で断言する子供が出てくるというわけだ。』

 「ピーター・パン」は、そのなかの一人として登場します。ここに登場する子供たちは、すべて「ケンジントン公園」の鳥たちの取り締まり役の「ソロモン爺さん」の魔法によって小鳥の化身として母親のもとに生まれ、そして人間の子供として育つ間に、おおかたの子供は小鳥だった時の記憶を失くしてしまうのでした。

 昼間の「ケンジントン公園」は、小鳥だった記憶を失くした子供たちと、その母親や乳母の遊び場であり、散歩の場でもありましたが、夜になると妖精たちの世界になります。
 小鳥だった記憶を辿って、もう一度「ケンジントン公園」に母親を離れて戻ってしまうのが「ピーター・パン」だったのです。そういう子供たちだけが、妖精との遭遇も体験できるのです。「ピーター・パン」の不幸、それは母親に忘れられた、あるいは諦められた子供ということ。小鳥の記憶を忘れることのできない子供の幸福と言ってもいいのでせうか?

 (二〇〇三年・パロル舎刊)
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Sep 11, 2007

人生の実りの言葉   中野孝次

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 中野孝次は、一九二五年(大正十四年)生まれ。この本が単行本として出版されたのは一九九九年、中野が七四歳の時となります。中野の最も古い蔵書は十五、六歳ころに求めた「論語」であり、十八歳ではアリストテレスの「ニコマコス倫理学」だそうです。その若き日に、その本に傍線を引き、感想を書き込んだ箇所に、七四歳の中野はもう一度同意しているのですね。ここが中野孝次の一貫した純粋性なのかもしれませんね。

  子ののたまわく、後世畏るべし。
  いずくんぞ来者の今に如かざるるを知らんや。
  四十五十にして聞こゆること無くんば、
  斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。
   (論語)

  相手かたにとっての善を相手かたのために願うひとびとこそが、
  最も充分な意味における親愛なるひとびとたるのでなくてはならない。
   (アリストテレス「ニコマコス倫理学」)

 ここで中野によって取り上げてられている言葉たちは、どれも純粋であり、生真面目であります。そして、これらの言葉たちは長い時間の中野孝次の読書メモのエッセンスの集約なのです。(1)の「愛」から始まり、最後の(40)では「災難と死」で終わっています。その(1)で取り上げられた言葉が下記の詩です。この言葉は最初に置く言葉として最もふさわしいと中野は書いています。

  わたしの誕生を司った天使が言った
  喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
  行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも。
   (ウイリアム・ブレイク・・・中野孝次訳)

   (40)での良寛の言葉は、文政十一年(一八二八年)秋、越後に起きた、マグニチュード7,4という大地震の折に、友人の山田杜皐宛てに書いた手紙の一部です。良寛の住む島崎あたりは被害は少なかったとのこと。

  しかし、災難に逢時節には 災難に逢がよく候
  死ぬ時節には 死ぬがよく候
  是ハこれ 災難をのがるゝ妙法にて候

 今日の新潟の方々を思う時には複雑な思いがありましょう。良寛の生死に関するすさまじいまでの達観と思うほか、凡々たるわたくしにはできませぬ。
 ここに取り上げられた言葉は、まさに古今東西の文学者、哲学者の言葉が選ばれていますが、ケストナー、シェークスピアが全く見当たりませんでした。どうして?

 (二〇〇二年・文春文庫)
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Sep 10, 2007

贈答の詩⑥ 白井明大詩集『くさまくら』への挨拶詩

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 この物語は詩集『心を縫う』(二〇〇四年)からはじまったように思えます。そして二〇〇七年の『くさまくら』に物語は続いているようです。ささやくような愛の物語、窓辺を流れるかすかな風のような哀しみ。そうして日々は続く。白井明大さんの詩集『くさまくら』にささやかな祝福の詩を。。。


  わたしの誕生を司った天使が言った
  喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
  行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも。

   (ウイリアム・ブレイク・・・中野孝次訳)


ちいさなひと

二人で歩き出した時間のとなりで
いつのまにか
四分の一くらいの歩幅で
歩いているちいさなひとは誰?

太古からの時間を潜り抜けて
それから進化の時間を
生きているような
桃色の産毛のあるひとは誰?

あのうつくしいひとの
僕たちは序章なのかもしれない
ゆっくりと歩いてみよう
あのちいさなひとの歩幅くらいに

 *   *

あたたかな夜の闇のなかで
ふいに泣きだしたちいさなひとを
こわがらせるものはなんだろう?
僕たちがふと君の存在を忘れたのか
それとも闇の重さ
それとも窓辺の風の音

生きている。
汗をかいてミルクをのんでいるひと
生きていることはこわくないと
僕たちはちいさなひとにささやく
ささやきながら
僕たちはおそれる。
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Sep 07, 2007

物語と人間の科学   河合隼雄

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 この本は河合隼雄の五つの講義を収録したものです。実は河合隼雄は講義もしくは講演を筆録されることを極力遠ざけてきた方らしい。講演はあくまでも聴衆との関係において成り立つもの、それを不特定多数の読者に向けて本として差し出すことへの躊躇がある。しかし講義ならば、聴衆との関係をこえて、ご自分の伝えたいこととなる。この考え方から「講義録」として本にされることに同意したとのこと。ここには京都大学における最終講義「コンステレーション」も含まれています。しかし表紙のサブタイトルは「講演集」となっていますね。(岩波さん、騙し討ちは、なしにしてよ。)

 この本の読者として嬉しいことは、河合隼雄の「講義」はいつも「物語」の姿をしているということです。それはあたかも「語り部」の役割をなさりながら、充分すぎる「聞き手」の役割もなさるという二重構造になっていて、そこに河合隼雄の「講義」の魅力があるのでしょう。

 第一章【物語と心理療法】

 「先生は易を信じらてますか?」「易は益ないことです。」と笑って答えてしまっては対話は終わります。その最初の一言から、話し手と聞き手の間にはすでに物語がはじまっているのですね。その物語への道筋が見えない方が話し手、想像する方が聞き手、事実はすでに存在している。その話し手と聞き手との共同作業のなかで、事実から真実が呼び出されるということでしょうか。

 第二章【コンステレーション】

 「コンステレーション」とは星座という意味だそうです。これは彼の研究分野である「ユング」が使った言葉だそうです。ここでは河合隼雄の言葉を引用します。

 『われわれの人生も、言ってみれば一瞬にしてすべてを持っている。例えば、私がいま話している一瞬に、私の人生の過去も現在も全部入っているかもしれない。それは、時間をかけて物語ることができると考えられまして、私が心理療法の仕事をしているのは、来られた方が自分の物語を発見して、自分の物語を見出していかれるのを助けているのではないかな、と思っています。私がつくるのではなくて、来られた方がそれを見出される。』

 第三章-1【物語にみる東洋と西洋・・・隠れキリシタン神話の変容過程】

 一九四九年、フランシスコ・ザビエルの来日からはじまったキリスト教の布教は、徳川秀吉、家康によってキリシタン厳禁の歴史は二五〇年もに及びます。その時代を「隠れキリシタン」はずっと存在していました。「聖書」は「天地始之事」として口承され、のちに書き物となったそうです。
 このなかでは、おそらく未熟な翻訳とともに、西洋の宗教を日本の宗教として民間に定着させるまでには、さまざまな言い換えと書き換えがありますね。そこに河合隼雄は東洋の物語性をみつけられたようです。

 第三章ー2【物語にみる東洋と西洋・・・『日本霊異記』にみる宗教性】

 『日本霊異記』は五世紀の半ば、雄略天皇の時代から年代順に書かれているようですが、この天皇の時代には、まだ仏教が入ってきていません。その後から仏教が入ってきて、約三百年の歴史が書かれています。この中から河合隼雄は「冥界往還」にお話を限定しておられます。
 それは「臨死体験」「遊体離脱」などのお話から、「善行」「悪行」によるあの世での人間の遭遇するさまざまな仕打ちなどが語られています。「浦島太郎」の物語も幾通りかのパターンがありますが、基本的には「善行」の典型なのでしょう。
 医療の未熟な時代では「死」の決定は引き延ばされました。そこにさまざまな「臨死体験」「遊体離脱」の物語が生まれるわけですが、どれ一つとして類型がない。それはとりもなおさず「生き方」にも同じことが言えるのでしょう。

 第四章【物語のなかの男性と女性】

 ここではサブタイトルに「思春期の性と関連して」とあります。テキストとして「源氏物語」と「とりかえばや」という現代の文学ではないものが取り上げられています。そこには欧米文化に見られるような「男らしさ」「女らしさ」という規範を超えた、ゆるやかな男女のあり方が見られるからでしょう。「性」や「精神」の純粋性と不純性を問うよりも、それ全体を「魂」の問題として考えることなのだろうと思われます。

 第五章【アイディンティティの深化】

 「アイディンティティ」とは「同一性」「主体性」などと訳されますが、河合隼雄は「非常に簡単に言えば、私は私です。」と言っていらっしゃいます。加えて「私は私以外のすべてのものである。」というファンタジー性によって「アイディンティティ」という言葉はやっとそれらしい姿を見せはじめるとも。。。この現実的な方法として河合隼雄は「箱庭療法」を試みたのですね。しかしおそらく世界全体がこの「アイディンティティ」の過程にあると言えるのでしょうか?

 (一九九三年・岩波書店刊)
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Sep 02, 2007

三木成夫記念シンポジウム

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 九月一日、東京芸術大学において、生物学者三木成夫のシンポジウムに行ってまいりました。この会は十六回目にあたりますが、今年は三木成夫没後二十年にあたるそうです。午前十時から午後四時半まで、総計六名の講師によるシンポジウムでしたが、午後のみの聴講を致しました。ちなみに講座スケジュールは以下の通りです。

 10:10-10:50 西原克成(西原研究所) 「内臓が生み出す心」
 10:50-11:30 宮木孝昌(東京医科大学) 「臍(へそ)のはなし」
 11:30-12:10 坂井建雄(順天堂大学) 「魯迅の「藤野先生」で書かれなかったこと」

  (昼食)

 13:40-14:20 植田工(デザイナー)「ピノキオと三木生物学」
  14:20-15:00 中村るい(東京芸術大学)「ギリシャ美術の身体イメージを読む」

  (コーヒーブレイク)

 15:40-16:30 三木桃子 「三木成夫の思い出を語る」聞き手:後藤仁敏

 「ピノキオと三木生物学」は、植田工さんの芸大大学院の卒業論文となったものが再現されたようです。植田さんは今春卒業したばかりの若者でした。彼の基本テーマは、「ピノキオ」を例にとって、アニメのキャラクターの形態の造形のプロセスのなかで、作り手の心になにが起きて、どのような形態を目指しているのか?ということを、三木生物学との照合から探ってみようとしたのでしょう。
 そこで「アニメには生殖によっていのちが生まれないのだ。」という彼の発言がありました。わたくしは内心では「若いなぁ~。」と苦笑しました。ゼベットおじいさんには子供がいなかった。そこへの着眼がないのですね。「おやゆび姫」も子供のいない家に授けられた。それは妖精からの贈り物ではないですか?日本のお話なら「桃太郎」「かぐや姫」などなど。。。

 中村るいさんは、かつて三木成夫の芸大時代の教え子にあたる。「ギリシャ美術の身体性」を、三木生物学に重ねようと試みたのだろうか?筋肉の描かれ方と内臓との関係、重心の置き方によって変わる肉体表現などなど。。。

 最後は、没後二十年を記念して奥様の桃子さんが、映像を見ながら、インタビューに答えるかたちで、若き日の三木成夫との出会い、結婚、子育てについてお話くださった。とても美しくかわいい女性でした。三木成夫との年齢差は十五歳もあったのですね。
 十五歳の桃子さんに「二十歳になっても気持が変わらなかったら結婚して下さい。それまでは、あなたは自由です。」とおっしゃったそうです。無事結婚なさってお二人の子供に恵まれましたが、子供の成長は三木にとっては、楽しい生物学研究だったようですね(^^)。とても心あたたまるお話でした。
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Aug 23, 2007

中流の復興  小田実

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 「小田実」というお名前だけは若い日から存じ上げている。「べ平連」と言う言葉と共に。しかし、今日まで一冊も読まなかった。とうとうご逝去されたあとで、やっとこの著書を開きました。遅い出会いでした。やはり荒削りな文章に馴染めない感は拭えませんが、しかし小田実の言う(書く、ではないような。。。)言葉は、まっすぐに届きます。はっきりとした意思表示がありました。「語録」と言いたいような言葉が多く、それをここに挙げてみませう。(太字部分は引用です。)

 『ただ、ベトナム戦争は勝ったけれども「惨勝」です。惨敗という言葉があるけれど、彼らの場合は「惨勝」、完全に惨めな勝利です。「惨勝」という言葉をつくったのは中国で、一九四五年の日中戦争で使われました。あの時の中国は勝ったけれども、日本に侵略されて、滅茶苦茶にやられた「惨勝」なんです。』

 「戦争はやってはいけない。」というのは、考えてみるまでもなく、あたりまえの基本思想でありながら、何故人間は戦争の歴史を断つことができないのか?凡々たるわたくしの変わらぬ「人間の摩訶不思議」です。
 八月になると、テレビは必ず「戦争番組」を企画する。やらないよりはいいが。。。偶然見たNHK番組では「憲法九条」の改定の是非について世代を問わずに、スタジオでの討論と街頭インタビューとを放映していました。「否」を主張する方々がほとんど戦争体験者であることは痛ましい限りでした。体験者にとっては「二度と戦争はやらない。」という約束は夢のようなことだったろうと思います。この「九条」の成立の背景が真っ白なものであったとしたら。。。
 また街頭インタビューでは、貧しさから抜け出せないフリーターの若者が「是」を主張していました。これにはかつての「満蒙開拓団」の方々が重なりました。このような危険を孕んでいるのではないでしょうか?

 『私は世界のいろいろな国に行くたびに、外国人、とくに差別されたり抑圧されたりしている外国人がその国をいかに受け止めているかが、一番大きな指標になると思って、オランダでも、肌の黒い人など、普通ならすぐに差別されたり抑圧されたりする対象となる外国人たちに聞いてみるのです。すると、多くの人が、この国が一番いい国じゃないかと、と言います。(中略)
 理由は一つあります。まずオランダの人たちが、私の言う中流の暮らしの土台を形成していることにあります。経済的な問題を解決せずに政治的な問題をせっかちにやると、強制力を伴ってかつての社会主義のようにもなるけれど、普通に人間が中流の暮らしを形成していれば、生活にゆとりができて、その上で政治的な問題が解決できるようになるでしょう。』


 ここにこの著書の「中流の復興」の意味が浮き彫りにされますね。小田実は平和産業で復興した日本が、軍事国家に向かってはならないと言っているのでしょうか?さらにオランダでは「尊厳死」への規制をゆるやかにしています。これも注目するべきところですね。

   「あとがき」にかえて、と題された四十ページにもなる長い文章は、「恒久民族民衆法廷=PPT(二〇〇七年三月二十一日~二十五日、オランダ、ハーグ)」が調査したフィリピンの惨い状況の報告書です。ここには小田実の最期の叫びが聴こえます。本当に惨い。言葉を失います。これはわたくしにはとても書ききれるものではないと思いましたが、リベルさんのコメントを頂きましたので、やはり拙いながら加筆いたします。小田実はここにも重い「語録」を残していかれました。この言葉にわたくしの思いを託します。

 『どの国家でも、その成長と発展は農民、漁民、労働者、先住民族、女性、そして彼らの勤勉な労働にある。しかしこのような民衆が極度の貧困、飢え、失業、土地およびすべての資源の喪失に直面するなら、暮らしそのものが脅かされ、社会が破壊されるため、発展は無意味である。これがフィリピン人の過酷な現実である。』 

 【付記】

 これはわたくし個人の考え方ですが、わたくし個人としては「組織」というものが嫌いです。一つの運動を起すには個人の力では弱すぎて出来ないから、その個人の力を結集したら強い力となるのではないか?という理念は理解します。しかし「組織」となると、そこはもう階級社会となる。リーダーがいる、幹部がいる、兵隊がいる、その兵隊にも階級がつく。経済面でも「塩と水」だけでは闘うことはできない。組織のなかでの人間間の考え方のずれ、そして近親憎悪、異種人間への排除意識、見えないところでは男女間の諍いなどなど。あらゆる場面から腐敗がはじまる。これは文学の世界でも同じことです。あまり理解できていない「べ平連」や「PPT」などについて言っているのではない。身近に起きているささやかな運動組織にそのような状況を垣間見るからです。

 わたくしは、ささやかながら「非戦」というコーナーを作った。これはわたくしの父母、祖父母への鎮魂のためです。そしてやがて子供達も読む。個人での行動はここまでです。それぞれ一人の人間が両親の歴史を小声で語り継ぐこと、これで充分ではないか?大きな運動ではない。ひたすら自らの足元を雪ぎ続けることでいい。

 あああ。疲れた。慣れないことを書きました。(汗。汗。汗。。。)

  (二〇〇七年六月・NHK出版・生活人新書224)
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Aug 16, 2007

女性詩史再考  新井豊美

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 女性詩の歴史について書かれたのは、おそらく新井豊美さんしかいらっしゃらないのではないだろうか?戦前戦後そして現代に至るまでの女性詩人の流れ、主張、表現の変化について、わかりやすく、しかも偏りなく書かれた貴重な著書です。
 与謝野晶子からはじまり、今の若手詩人までの足跡を丹念に読み込み、社会における女性のあり方、あるいは抑圧と開放、そして開放後の拡散、しかしそこに見出される一本の流れを新井さんは静かな視線で丹念に追い続けたと思えます。そこには「女流詩人」から「女性詩人」への流れへと移行する「空白期」もありました。

  山の動く日   与謝野晶子・「青鞜」 

  山の動く日きたる、
  かく云へど、ひとこれを信ぜじ。
  (中略)
  すべて眠りし女、
  今ぞ目覚めて動くなる。 


  焔について   永瀬清子

  (前略)
  年毎の落葉してしまう樹のように
  一日のうちにすっかり身も心もちびてしまう私は
  その時あたらしい千百の芽の燃えはじめるのを感じる。
  その時私は自分の生の濁らぬ源流をみつめる。
  その時いつも黄金色の詩がはばたいて私の中へ降りてくるのを感じる。
  (後略)


  怒るときと許すとき   茨木のり子

  女がひとり
  頬杖をついて
  慣れない煙草をぷかぷかふかし
  油断すればぽたぽた垂れる涙を
  水道栓のように きっちり締め
  男を許すべきか 怒るべきかについて
  思いをめぐらしている
  (後略)


 書き出したらきりがない。白石かず子、富岡多恵子、石垣りん、新川和江、吉原幸子そしてこの本の著者である新井豊美、etc、ここまでの詩人がわたくしにとっての先達詩人となるのでしょう。

 女性・・・それは「産む性」である。言い換えれば「産まない選択肢もある性」でもある。この与えられた片側の性は、永瀬清子の「グレンデルの母」という詩語が見事に代弁していますので、今さら書くこともないでしょう。

 この一冊は、一九九九年「現代詩手帖」の十二月号に書かれた「空虚から不透明の感覚へ」を中心として、二〇〇〇年以後の状況を書き加えたものです。ここには「女性詩」から、さらに「女性性への詩」という予感を残していました。

 (二〇〇七年・思潮社・詩の森文庫E11)
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Aug 11, 2007

まどのそとの そのまたむこう モーリス・センダック

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 これはアメリカの絵本作家モーリス・センダック(作&絵)のものを、「わきあきこ」が翻訳したものです。前日に、大江健三郎の小説「取り替え子 チェンジリング」について書きましたが、そのなかで「古義人」の妻「千樫」が、示唆を受けた絵本として取り上げられているのは、多分この絵本でしょう。

 父親は船に乗って遠くへ行っている。空ろな眼をした母親。赤ちゃんのおもりをする長女アイダ。ゴブリンに氷の赤ちゃんとすりかえられて、連れていかれてしまった赤ちゃんを、知恵と勇気をもって取り返すのもアイダだった。この無力な空ろな母親とアイダに「千樫」はあまりにも深いものを感じとってしまったのだと、痛ましい思いになる。

 (一九八三年初版・二〇〇二年第九刷・福音館書店刊)
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Aug 10, 2007

取り替え子・チェンジリング  大江健三郎

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 自死した映画監督の「吾良」がカセットテープに残した、主人公の作家「古義人」へのメッセージを聴くヘッドホンを「古義人」は「田亀」という昆虫の名前に例えていますが、これはともに少年期を過ごした村にいた、ごく見慣れたものだったのでしょう。なるほど旧式(?)ヘッドホンの形に似ています。わたくしはこれを昆虫であることさえ知らずに「デバガメのもじりですか?」と思ってしまい、なんとも奇妙な読み出しでした。すみませぬ。以後、「古義人」はすべてヘッドホンを「田亀」と呼んでいます。

 確認のために、対談集「大江健三郎・再発見・・・二〇〇一年・集英社刊」のなかの、井上ひさし&小森陽一&大江健三郎の対談のなかで「田亀」を理解した次第です。「田亀」は「田鼈」とも表記されます。小森氏は「鼈=すっぽん」というところまで想像を拡大しています。実際に小説の中ではベルリンから帰国したばかりの「古義人」が、読者から送られてきた「鼈=すっぽん」とキッチンで大格闘する場面がありますが、大江健三郎にはそこまでの拡大した比喩ではなかったということでした。

 そして「古義人」の「田亀」との対話は、ベルリンへの旅の前まで続きました。ベルリンからの帰国後は「吾良」の映画化されなかった「シナリオ」と「絵コンテ」に移っていきます。それは登場人物が「古義人」を中心とした、周囲の人間がモデルとなっています。

 しかし途中から、なぜタイトルが「取り替え子・チェンジリング」なのか?という疑問(愚問?)になかなか答えが見出せないという焦燥感に陥りました。大江健三郎の小説は一見私小説のように見えますが、実はまったくの小説なのです。惑わされずに読まなければ、わたくしたちは大きな過ちをおかすことになります。さらに現実には、大江健三郎が障害者の父親であるということを前提として読むことも控える方が懸命な読者となるだろうと思います。彼はあくまでも小説家なのですからね。

 最終章に入って、ようやくそのタイトルの意味が浮上します。「古義人」の妻「千樫」は「吾良」の妹です。「千樫」は「古義人」を父として「吾良」をふたたび我が子として産もうとしていたのだという思いがあったことに初めて気付くのでした。そのきっかけは「古義人」がベルリンから持ち帰った、彼がセミナーのテキストとして取り上げた「モーリス・センダック」の絵本と、みずからの少女期(母、「吾良」弟妹を含めた)にあまりにも深く重なったからでした。以下は引用です。

 『古義人と結婚して最初の子供が生まれるのを待っている時、千樫が考えたことは――これもいまセンダックの絵本を読んだことで初めて妥当な表現を与えることができる。アイダのような勇敢さでふるまって――本来の吾良を取り返すと同じことをしよう、ということだった。私がお母様の代わりに、もう一度、あの美しい子供を生もう。(中略)しかし古義人は私の企てのなかで、どんな役割だったのだろう?そう考えて、千樫は答えを導くことができなかった。』

 ここから「吾良」の自死は「古義人」から「千樫」の心の喪失の問題として移行してゆきます。これが「取り替え子・チェンジリング」なのです。これに加えて、ベルリンにいた時に書いた講義録のなかには、少年期の「古義人」の記憶が書かれています。それは医者すらも希望を失ったほどの状況から救いあげた彼の母の言葉がありました。

 『――もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから、大丈夫。
  ――・・・・・・けれどもその子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?
  ――いいえ、同じですよ、と母は言いました。あなたが私から生まれて、いままでに見たり聞いたりしたことを、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。』


 読者としては、「古義人」と「千樫」との長いこころの道のりを歩いてきたような気持でした。小説家として生きること、その傍らに生きること。それ自体が至福であり、かつ受難ではないか?

 (二〇〇〇年・講談社刊)
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Jul 27, 2007

犠牲〈サクリファイス〉わが息子・脳死の11日  柳田邦男(続)

07-7-21cafe

 七月二四日に、すでにこの本については書きました。文章が長すぎることを避けるために、一つだけ書くことを取りやめた部分があります。それが気がかりなまま数日が過ぎましたが、今日、わたくしの書きやめた部分を補うかのように、友人Fさんからのメールが届きました。Fさんもわたくしの少し前にこの本を読まれたとのことでした。その読むきっかけとなった言葉をここで見つけたからだったそうです。その柳田邦男の言葉をまずご紹介いたします。

 【柳田邦男の言葉】

 最近、私がすごく大事にしているのは「意味のある偶然」ということです。これはユングの言葉で、河合隼雄先生から教えられたキーワードなのですが、われわれの周りにはいろいろな偶然が満ちていて、それをふと考えるとものすごく深い意味を持っていて、ある意味で言うと必然的な物語性を持っている。 シンクロニシティ(共時性)は、その中心にあるものだと思うのです。

 私自身が経験した象徴的な出来事をお話ししますと、次男の洋二郎が脳死を経て亡くなり、腎臓を提供して帰宅し、遺体を自宅の居間に安置し、長男がテレビ をつけると、生前、洋二郎が最も傾倒していたタルコフスキーの「サクリファイス」という映画の最終場面をたまたま放映していて、バッハの「マタイ受難曲」 のアリアが流れました。そのことは私にとってとても衝撃的でした。
 息を引き取った息子を連れ帰った時に、その映画は終幕になり、そしてバッハの曲が流れ る。「あわれみ給え、我が神よ」という曲です。
 それが偶然だとと言ってしまえばそれまでですが、私にはどうしても偶然だとは思えない、何かそこには必然に近い意味が含まれていると思います。最近、こういう話を聴くことが少なくないのです。

 一九九六年、作曲家の武満徹さんががんで亡くなられましたが、病院で治療を受けていて、そのとき日記をかいておられた。奥様もそのことを知らなかったのですが、武満さんが亡くなられて半年ぐらいしてから、その日記は発見されたそうです。それを、武満徹著「サイレントガーデン---滞院報告・キャロティン の祭典」(新潮社)としてお出しになったばかりですが、それを読んで本当に劇的な場面に出逢いました。

 亡くなる二日前、たまたま奥様もお嬢さんもお見舞いに行かなかった日に、ラジオでバッハの「マタイ受難曲」を放送していたそうです。武満さんは「マタイ 受難曲」にとても傾倒していたので、いつかゆっくりと聞きたいと思っていたそうです。普段ですと、奥様が来ていると、ラジオは聞かないそうですが、その時 は降りしきる雪を窓越しに眺めながら、じっくりと全曲を聴かれたそうです。

 その後意識がだんだんと薄れていって、翌々日に亡くなったのですが、本当に最期 の場面にこの曲が放送され、その時間に誰も訪れることなく、一人で全曲を聴くことが出来たということは、ものすごい偶然だと思います。おそらくそれは武満 さんの人生の最期のとても大事な時間だったと思います。

 奥様は「あとがき」の中で、「たまたま雪が降ったために、そして見舞い客も私もいなかったために、静かな病室で独り大好きだった「マタイ」を全曲聴けた こと、私は何か大きな恩寵のようなものを思わずにはおられません」と書いておられます。こういう偶然には深い意味があるのだと思います。それによって人間 は何かに気づき、豊かになり、心がふくよかになり、高くなるのだろうと思うのです。

 それが忙しい社会生活をしていると、身の周りで起こっているはずの「意味のある偶然」にほとんど気がつかなくて、とても大事なことを見落としてしまい、 一方では科学と合理性にとらわれて、論理的な説明ができないととそれを否定して排除してしまう、というのが現代なのだろうと思います。

  柳田邦男&川越厚:対談「生を通していのちを見る」
  (信徒の友・二〇〇〇年六月・日本基督教団出版局)


 対談相手の川越厚は、癌のターミナルケアーの医師であり、Fさんの今は亡きご親友の主治医であり、その親友の方の日記と俳句の遺稿集を纏める時には、医学用語を点検していただいたという経緯もあるのでした。「意味のある偶然」がわたくしたちを結んでいることに大変驚きました。

 もう一つ、の「意味のある偶然」は、実は武満徹が病床で聴いていたラジオを、作家大江健三郎も聴いていたのです。(なにかの本で読んだ記憶がありますが、本のタイトルは忘れました。。)きっと同じ雪の日だったのではないでしょうか。そしてFさんとわたくしがほぼ同じ時期に同じ本を読んでいたことも「意味のある偶然」だったのではないでしょうか。Fさん、ありがとうございました。

・・・・・・というわけで、毎日バッハの「マタイ受難曲」ばかり聴いています。
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ポビーとディンガン  ベン・ライス  雨海弘美訳

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 ベン・ライスは一九七二年生まれ、オックスフォード大学院在学中に本書でデビューしています。これはベン・ライスの恋人モリーが語った少女期の思い出話のなかにいた「空想の友人」がべースになっています。そしてこの本はそのモリーへ捧げられています。ここまでで、すでに物語は始まっています。

 舞台は、オーストラリアのオパール鉱山のある「ライトニング・リッジ」という町です。オパールを求める採掘者がほとんどで、人口が一定していない町でもあるのです。
 オパール採掘の夢のためにこの町へ来た父親、家計を助けるためにマーケットで働く母親、兄のアシュモル、八歳の妹の「ケリーアン」の四人家族です。この「ケリーアン」には空想の二人の友人「ポビーとディンガン」がいるのでした。この二人の友人のために母親は、「ケリーアン」に三つのキャンディーをあげたり、三人分の食事の用意までするのですが、兄のアシュモルはこの友人の存在を信じませんでした。

 しかし、「ケリーアン」は「ポビーとディンガン」を見失った時から、病気になり、なかなか回復しない妹のためにアシュモルは町中の人々に捜索依頼をするのでしたが、「ポビーとディンガン」はすでに採掘場の瓦礫のなかで死んでいました。その証拠は「ディンガンのお臍」と妹が言っていたオパールの原石があったことでした。

 「ポビーとディンガン」のお葬式を町中の人々が行い、その一週間後には「ケリーアン」も亡くなりました。その日からアシュモルは妹の死を信じられず、妹に語り続ける日々、そして町中の人々も「ケリーアン」に語りかける日々を過ごすことになるのでした。この物語は、捜しても捜しても見つからないものを捜し続けることを知らない人々への「オパール」に託した、痛いような問いかけだったのではないでしょうか?「夢見る力」が物語をつくるのです。しれがアシュモルの大切な役割だったのです。

 「ケリーアン」はなぜ一人ではなく「ポビーとディンガン」という二人の空想の友人を作り出したのでしょうか?それは「一人ぼっち」という状況を誰にもつくってはいけないという彼女の願いだったのではないでしょうか?

 (二〇〇〇年・アーティストハウス刊)
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Jul 24, 2007

犠牲〈サクリファイス〉わが息子・脳死の11日  柳田邦男

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 このタイトルは、「天才映画詩人」と云われているタルコフスキーの遺作映画「サクリファイス」からとられています。この映画のなかで、ギリシャ正教の修道僧パンヴェの伝説が語られます。パンヴェは山に枯れた木を植えて、弟子に毎日水をやるように命じます。弟子は三年欠かさずそれを忠実に続けて、枯れ木は再生するというお話です。これを父親が幼い息子に語るのです。これは不毛なものを「希望」に変え続ける人間の意志への賛歌とも言えるのかもしれません。
 柳田邦男の二五歳の次男洋二郎は「犠牲」と「再生」を求めて「死」の世界を選んだのでした。この本はその息子洋二郎への心をこめた哀悼の書です。

 心を病んだ次男洋二郎の自死から、医学的再生によって与えられた十一日間の「脳死」の時間のなかに流れた、父親と母親(洋二郎への心労から、彼女もとうに病んでいる。この現実を受け止める力はない。)、長男賢一郎との濃密で真剣な「いのち」との会話でした。それはまた医療者と親族との「いのち」への向き合い方への真剣な問い直しだとも言えるでしょう。

 柳田はこの本のなかで「二人称の死」という言葉を差し出してくる。「脳死=死」という「死が始まったところで終点とする。」という一人称から、「死が完結するまで待つ。」という「二人称の死」、つまり普通の人間の感性によって、家族、恋人、友人などが「死」を納得できる時間をおくということ。これは別の言い方をすれば「グリーフ・ワーク=悲嘆の仕事」という最も大切な、生き残された人間の時間となるはずだ。また「三人称の死」とは戦争、災害、テロなどによる見知らぬ人々の大量のいたましい死のことです。

 この表題の「犠牲」には、もう一つの意味がある。どうしてもこの世では生き難い洋二郎は、自らの「死」と引き換えに「骨髄バンク」へのドナー登録をしていたことにもある。この望みは果たせなかったが、考えぬいた末に父と兄は、腎臓移植を待つ患者二名に洋二郎のいのちを託したのだった。

 「脳死」「尊厳死」など、人間の「死」にはいまだうつくしい結論などはない。しかし、愛する者を「死」によって失うことの深い悲しみを救えるものはなにか?この世に生き難い洋二郎が愛読したさまざまな本のなかから、大江健三郎の言葉をお借りしてみよう。わたくしにはこれ以上は語ることができない。

 「文学はやはり、根本的に人間への励ましをあたえるものだ。」

 「まだいるからね。」・・・・・・・・・

 (一九九五年・文藝春秋刊)
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Jul 15, 2007

憂い顔の童子  大江健三郎

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 小川洋子の「物語」という言葉に拘っている内に、わたくしの記憶のなかから、この本が呼び出されました。このなかで主人公の小説家「古義人」の母親が、ある文学研究者のインタビューに答える言葉が蘇ってきました。大変に見事な言葉ですが、これも「ウソ」でせうか?以下は引用です。

   「古義人」の書いておりますのは小説です。小説はウソを書くものでしょう?ウソの世界を思い描くのでしょう?そうやないでのすか?ホントウのことを書き記すのは小説よりほかのものやと思いますが・・・・・・

 あなたも『不思議な国のアリス』や「星の王子さま』を読まれたでしょ?あれはわざわざ、実際にはなさそうな物語に作られておりますな?それでもこの世にあるものなしで書かれておるでしょうか?

 「古義人」は小説を書いておるのですから。ウソを作っておるのですから。それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、と御不審ですか?それはウソに力をあたえるためでしょうが!

 ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙一枚差し出して見せるでしょうか?死ぬ歳になった小説家というものも、難儀なことですな!

   ここまでが引用です。大分以前、朝日新聞に高橋源一郎が書いた大江健三郎の書評も同時に思い出します。新聞の切り抜きが行方不明なので、うる覚えのメモですが「事実にほんの少しの嘘を加えることで、より真実に近ずくのではないか。」というような言葉でした。

 なぜ「童子」なのか?小説家「古義人」の幼少年期、こころのなかに二人の童子がいました。一人は故里の山の樹に行ったまま帰らず、もう一人の残された淋しい童子は故郷を離れてたくさん勉強をしましたし、旅をしたり、友や家族を愛したり、一生懸命に「ウソ」の小説を書いたのでした。それはきっともう一人の童子のためでしょう。それで淋しい童子は、もっと淋しくてなってしまうのでした。

 (二〇〇二年・講談社刊)
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Jul 09, 2007

深き心の底より  小川洋子

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 この本を読みながら、わたくしのなかでしきりにある古い友人の言葉が浮上してきました。それはこのエッセー集のなかに頻繁に登場する「物語」という言葉のせいだろうとおもいます。それについて少し書いてみます。

 その友人と初めて会ったのは、偶然にわたくしの七月の誕生日でした。(ホラ。ここからもう物語がはじまっている。)友人の事務所を訪問して、語り合っているうちに、ふと壁にかかったカレンダーを見ると、七月某日に「誕生日」と書いてあったのでした。それから長い空白をおきながらも細々と交友は続きました。そしてある時に初めて二人の合同誕生日祝いをやったのでした。その時わたくしは、過去に何度か繰り返した質問を改めて言ってみました。

「八十歳のおばあさんになっても、会いに来て下さいますか?」
「もちろん。」

 いつでも同じ即答がかえってきました。八十歳の自画像を、わたくしのなかで確かに描けるわけではない。生きていないかもしれない。友人もおそらく同じこと。即答できる友人の無頓着さを思うとともに、生きることへの躊躇の言葉を押しのけてゆく圧倒的な力を感じました。そうして押しのけられ、作られた空間のなかで、わたくしは幾通りもの物語を自由に作ることが許されていると思えるようになったのです。

 抱えきれないほどの淋しさや悲しみや苦しみ、あるいは溢れでてしまう思い、それを放置すればひとの心は壊れる。それについて小川洋子はこう書いています。『背負うには過酷すぎる現実と対面した時、人がしばしばそれを物語化することに気づいたのは最近だ。現実逃避とは反対の方向、むしろ現実の奥深くに身体を沈めるための手段として物語は存在する。』

 数冊の小川洋子の著書を読んできましたが、この著書によって、わたくしは初めて彼女の生い立ちの背景に「金光教」があることを知りました。彼女の父方の祖父の家は教会であり、母親の両親も熱心な信者でした。小川洋子はそこに生まれおちたのです。宗教の選択の余地はない。しかし強い拒絶もなかったようです。その祖父の生きる支柱は「金光教」であり、そのご祈念の後で歌われるのが西田幾太郎の短歌だったそうです。この本のタイトルはその西田の短歌の一節でした。

  わが心深き底あり喜も憂の波もとゞかじと思ふ

   (一九九九年・海竜社刊)
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Jul 06, 2007

黄金探索者  J・M・G・ル・クレジオ  中地義和訳

Argo

 開くたびに、この一冊の本からは絶え間ない潮騒が聴こえています。聴こえない時には主人公アレクシスは戦場にいました。

 この物語のモデルはル・クレジオの祖父です。本の扉の裏には「わが祖父レオンのために」と書かれています。ル・クレジオはこの物語を執筆しながら、ずっと遠い昔からの海の音を聴きながら、祖父の仮説の人生を生き直してみたのでしょう。

 この探索の舞台となった島は、マスカリン諸島の一つであるロドリゲス島であり、モーリシャス島、レユニオン島からなるこの諸島は高温多湿の火山性風土です。十六世紀はじめにポルトガル人によって発見されたモーリシャス島(ここで主人公は少年期を過ごしています。)は、十六世紀末から十八世紀初めまでオランダの支配下に入る。一七一五年から約一世紀の間はフランス植民地となる。奴隷の反乱、海賊の跋扈、フランスとイギリスとの抗争の時代を経て、次にイギリス領となります。  モーリシャス島は一八三五年奴隷廃止制度後、サトウキビ栽培と精糖業の発展がみられるが、イギリス支配は長期に渡り、モーリシャス島が独立を果たしたのは一九六八年でした。こうした歴史的背景は多民族文化、さまざまな言語、そしてさまざまな文学も誕生することになります。またこの間には、第一次世界大戦(一九一四年~一九一九年)がありました。

 モーリシャス島の「ブーカンの谷」に暮らす主人公アレクシスは両親と姉のロール、黒人少年の友人ドウニ(彼の祖先もおそらく奴隷。)など、やさしい人々に囲まれて、海の音のなかで幸せに暮していた。永遠に続くかと思われるその日々は長くは続かない。父の事業の失敗、そして死。聖書をいつも読んでくれた母親は、もうアレクシスとロールにとって心の休まる場所ではなくなった。この「ブーカンの谷」から三人は離れることになる。

 それからのアレクシスの孤独な日々を慰めたものは、父親の残した「黄金の地図」。それを信じて彼はついにロドリゲス島の探索に行くことになる。そこで山の民の娘ウーマに出会い、恋をする。ウーマの祖父は凄惨な殺され方を受けた脱走奴隷でした。第一次世界大戦勃発とともにアレクシスは志願兵となり、探索は中断する。

 終戦とともに探索を再開した彼は、その地図が架空のものでありながら、その意味するところに気付くことになる。それは、イギリス湾が宇宙の形態をあらわしていること。地図のすべての方角や位置はそこにあったようです。さらに、ギリシア神話「アルゴの大遠征」が大きな影響を与えていることなどにに気付かされることになった。その神話とは、イオルコス国の王子イアソンが、アルゴ船に乗って50人の勇士とともに金の羊の毛皮を求めて旅立つという物語です。

 すべては終わった。。。最後はこう書かれています。「今は夜だ。僕は押し寄せてくる海の激しい轟きを、体の隅々まで染み渡るように聞いている。」さて、物語のはじめに戻ろうか。書き出しは「思い出すかぎり遠い昔から僕は海の音を聞いてきた。」と。。。

 (一九八五年刊行・一九九三年・新潮社刊)
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Jun 22, 2007

とりつくしま  東直子

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 東直子(一九六三年生まれ)はどうやら歌人のようです。エッセーも書く。小説はこれが二作目らしい。わたくしには初対面の方なのです。なぜ彼女の本を読もうかと思ったかは、偶然に埼玉テレビを見ていたら、「おすすめの本」の紹介番組で、この本を紹介していたからでした。紹介者も知らない人でした。ですから一冊読んでみてから、この番組のレベルみたいなものを測ってみようという、イジワル(^^)な気持からでした。

 読みやすさと言う点では○。題材の面からみたら平凡で△。同じテーマで纏めた十編の短編集(プラス番外編一編)ですので、一編づつでは○や△というところ。テーマは、死んであの世に行った人には「とりつくしま係」があらわれて、もう一度現世に戻りたいのなら、命なきものにとりついて戻してあげようという展開です。

 野球少年の息子を残して死んだ母親は「ロージン」に、若い夫を残して死んだ妻は「トリケラトプス」の絵がついたマグカップに、死んだ少年は青いジャングルジムに、書道家の若い女性は、密かに慕っていた師匠の白檀の扇子に、図書館の受付嬢にひそかに憧れていた中年男性は、受付嬢の胸に付ける名札に、母を残して死んだ娘は、母の補聴器に、妻を残して死んだ夫は妻の日記帳に、家族を残して急死した父親は、居間のマッサージ機に、一四歳で死んだ少女は好きだった先輩の恋人のリップクリームに、ここまでは、望んだものになれました。

 十編目の死んだおばあさんは孫息子に買ってあげたカメラになったのですが、そのカメラは売られていて、中古カメラ店で、やさしいおじいさんに買われるという運命をたどる。民話のような番外編では、娘の死に際の願いを聞いて、母親は娘の髪をびわの木のそばに植えます。その髪は宿り草となって、びわの木にからみつき、びわの木は枯死します。びわの木は娘の恋する人の木でしたが、別の女性と結婚していました。びわの木の枯死とともに、その男性は突然死んで、宿り草も宿る木をなくして、二つはともに死ぬことになって、娘の願いは「とりつくしま係」の手を借りることなく果たされたのでした。

 「とりつくしま」と言えば当然「取り付く島がない」という否定語が想定される。「とりつくしま」として選ばれたものにもおそらく寿命がある。あるいは忘れさられたり、引き出しの奥にしまわれたままになるという運命も待っていることだろう。死者の切ない願いも短いいのちだ。その時間のなかで生き残されたもののあらたな生き方が選択されてゆくということではないだろうか?

 ありえない「もしも・・・」という仮定法の物語には、読者を思わぬ方向へ連れてゆく道筋が必要ではないだろうか?この物語の展開は思わぬ意外性が欠如しているのではないだろうか?そこが不満として残る。
 しかし、この本を図書館にリクエストした時点では「入手まで時間がかかります。」といっていたわりには、意外に早く用意された。そしてすでに借り手はわたしの後に待機していることもわかった。多分読者の多い本となるのだろうという予感。。。

 (二〇〇七年・筑摩書房刊)
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Jun 18, 2007

海  小川洋子

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 これは七編の短編集です。小川洋子という作家の天性のものではないか?と、わたくしが思っているものがここには凝縮されているような気がするのでした。それは「やさしさの魔力」と言えばいいのだろうか?それは「悪魔」の「魔」ではなく、妖精の「魔法」でもない。この「やさしさの魔力」によって、七編の作品のなかでは、世代をこえて人々が出会い、お互いの心のなかに美しい漣を置いていく過程がファンタジックに展開されています。

 【海】
 海辺にある恋人の実家を共に訪れた若者が、その弟の部屋で眠る時、その弟はまぼろし(あるいは架空の・・・)の楽器「鳴鱗琴」の奏者だという展開です。海風とともに奏でられる不思議な楽器。。。

 【風薫るウィーンの旅六日間】
 海外への観光ツアーで同室になった老婦人のために、みずからの旅の目的を果たせず、老婦人の昔の恋人に会うために養老院で過ごした若い女性。。。

 【バタフライ和文タイプ事務所】
 大学近くにある和文タイプの請負会社の新人タイピストと、その活字の管理人との小さな窓口を通しての、「活字」だけの会話です。一文字の「漢字」の意味が途方もない想像力のなかで、まるで生き物のようになってゆく。。。

 【銀色のかぎ針】
 電車で隣席になった老婦人の一本の糸が編み出してゆく美しい模様への賛歌。この表現は「博士の愛した数式」にも比喩として頻繁に登場します。小川洋子の少女期の記憶に関連したもののように思えます。

 【ひよこトラック】
 口のきけない六歳の娘がいる家に下宿することになった中年の独身のドアーマン。その二人の言葉のない交流です。蝉やヤゴ、蛇などの抜け殻をはじめとして、「ひよこトラック」に出会ってからは玉子の殻にまで二人の蒐集遊びは続く。やがて少女がふたたび言葉を取り戻す時がやってくる。。

  【ガイド】
 観光ツアーで出会った少年と、もとは詩人、今は「題名屋」をしている老人との一日の出来事です。少年の「なぜ、詩人をやめちゃったんですか?」という質問に、老人は「詩など必要としない人間は大勢いるが、思い出を持たない人間はいない。」と応えます。その「思い出」の題名を付けてあげるのが老人の仕事なのです。少年のこの一日の思い出に付けられた題名は「思い出を持たない人間はいない。」でした。ふうむ。。。

 *  *  *

 小川洋子の作品を読む度に思うことですが、人間が生きるためには「愛される」という根源的ものが必要ではないか?ということです。「愛する」ことが先だという反論がくることを覚悟の上で、わたくしはあえて「愛される」ことを優先順位としたい。

 (二〇〇六年・新潮社刊)
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Jun 11, 2007

妖精学入門  井村君江

fairy

 一冊の本を読むということは、数冊の本やたくさんの思い出を、そして一編の詩を呼び出すという行為でもあるのでしょうか。。。

   ひとつの沈黙がうまれるのは
   われわれの頭上で
   天使が「時」をさえぎるからだ

   二十時三十分青森発 北斗三等寝台車
   せまいベッドで眼をひらいている沈黙は
   どんな天使がおれの「時」をさえぎったのか

    (田村隆一「天使」より抜粋)

 五世紀頃までは、ヨーロッパの大部分、バルカンまで居住していた民族「ケルト」は、ローマの支配、ゲルマンの圧力により衰退。現在はアイルランド、スコットランド、ウェールズ、ブリュターニュに散在する。こうして次にはキリスト教の布教により、土着の宗教とそれにまつわるさまざまな神話や伝説が風化してゆく例が欧米諸国には多々ある。しかしアイルランドの「ドルイド教」は「ドルイド教にキリスト教を接ぎ木する。」という、聖パトリックの布教の緩やかさによって、ケルトの「ドルイド教」の神話と伝説はここまで永い歴史のなかに生き残ることができたようです。
 それは、絵画、物語、音楽、舞踏、演劇などのあらゆる分野に影響を与え、そこからさまざまな「妖精」がさらに生まれ、豊かな歴史の源となったと言ってもいいのではないだろうか?

 「妖精」という言葉が日本に定着したのは大正時代です。明治三十四年、上田敏は「Fairyに好訳字なし。仮に『仙女』と呼ぶ。」とした。大正末期から昭和にかけて、西条八十は「妖女」、大正十三年、芥川龍之介は「精霊=フエアリー」、大正十四年、松村みね子は「フエヤリー」「妖精」、菊池寛は「仙女」「女の魔神」、同時期に「愛蘭土文学界」を作った吉江喬松、日夏耿之助たちが「妖しい自然の精霊」として「妖精」という訳語を定着させたとのこと。
 「仙女」はすでに一三三二年の「元亨釈書」に用いられ、「風土記」では超自然の存在を「天女」「西王母」「乙姫」と呼んでいる。「妖精」たちは古今東西を超えて、飛び交っていたのではないのでしょうか?限りある人間のいのちを豊かにするものがあるとしたら、それは「想像力」が生み出した「妖精」の飛翔ではないでしょうか?

 この著書は、「妖精辞典」という感じがして、お借りした本では覚えきれなくて、それが淋しくて、手元に置きたくなって、同じ本を買いました。お借りした本は「一刷」ですが、わたくしの手元に届いた本は「六刷」その間には八~九年の時間が流れています。。。

 (一九九八年初版/二〇〇六年六刷・講談社現代新書)
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May 30, 2007

あなたが、いなかった、あなた  平野啓一郎(2)

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 あのね。啓一郎クン。あなたの若さと多彩な才能は認めますけど、「これでもか。これでもか。」と一編づつ書き方変えなくてもいいでしょ。お母さんはとっても楽しかったけど、とっても疲れました。「僕って、こんなにいろいろな書き方ができるんだよ。」と言いたいのかどうか邪推はいたしませんが、若き作家の立たされている苦しい位置をひしひしと感じました。それとも楽しんでいるのでしょうか?それなら安心しますけど。。。(1)ですでに冒頭作品について書きました。その他に十編収録されています。気がついたことだけメモします。

「鏡」はたった一行の作品です。「私がいない間にも、私の不在を生真面目に映し続けているのだろうか?」これだけ。リチャード・ブローディガンの詩集「ロンメル進軍」を何故か思い出します。

 「フェカンにて」はほとんど自画像でしょう。日本での多忙なスケジュールをこなして、「フェカン」への旅に出る。勿論仕事をかねての旅だが、その海辺の断崖で自殺する青年という小説の構想を固めるための旅のようでもある。彼の小説の構想源は若く絶えることがない。時にはあやうく主人公と同化する。しかし構想を捨てることにも躊躇いがない。

 「女の部屋」は言葉のジグゾー・パズルです。藤富保男の詩法に似ています。

 「クロニカル」。これは作家に対する女性の語りだけで構成されています。二人の恋人について語っているだけです。これもまた、リチャード・ブローティガンの遺作「不運な女」を思い出しますね。

 「母と子」。これは双六的小説形態です。二段組の各ページの文章の下には(1-1~16)というような番号が付けられて、それを追って読んでいきます。それは四種類のストーリーとなっています。その四つのストーリーは似ていますが、細部が微妙に変わります。それは、多分これから子供と共に家を出ようとしている母親の逡巡、あるいは死への誘惑、それらをこうした文体構成にしたのでしょうか?
 この小説の(1-1)の舞台設定は公団住宅がコの字型に取り囲む駐車場と公園から始まります。その高層住宅の同じ形のそれぞれの窓辺に、ひっそりとあるかもしれない、ありふれた日常のなかの出来事なのでしょうか?

 「慈善」。この作品がこの一冊のなかで、一番小説らしい(?)作品ですね。四二歳の妻、中学生、小学生、幼稚園児の三人の娘がいる、文房具メーカーに勤める四六歳の男。中流家庭の経済の動きと、国外のテロが引き起こす経済の動きが、実は繋がっているようで、どこかでずれてしまう感覚を何気ない様子で書いています。


 「あなたが、いなかった、あなた」というタイトルはどこから生まれたのでしょう?「あなた」とは誰ですか?この十一篇の小説のなかで、ついにとらえることのできなかったひとのことでしょうか?「書く」ということは「あなた」をさがす旅なのでしょう。
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May 24, 2007

あなたが、いなかった、あなた  平野啓一郎(1)

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 万緑の五月、家を出る度に、風花が舞うようにふわふわとやわらかく漂っているものが見える。それはタンポポをはじめとする、さまざまな野花の綿毛が飛んでいるのだ。音もなくわたくしのからだのまわりをすり抜けてゆく。これは「死」でありながら、次の「生」への営みであり、その「生」への確率がきわめて低いゆえに、綿毛たちはおびただしい数となって風に乗る。行き先の選択もできないままに。。。

 この季節に、平野啓一郎の短編集「あなたが、いなかった、あなた」を読んでいる。その冒頭の作品は「やがて光源のない澄んだ乱反射の表で・・・・・・/『TSUNAMI』のための32点の絵のない挿絵」は、三二ページの一ページ毎に「文字で表現された絵」がページの下の部分に横書きされて置かれているというレイアウトになっている。
 この物語は、中年初期にさしかかった主人公の男性のからだから、「砂」が少しづつこぼれ落ちる現象が表れるということから始まる。少年期に見た祖父母や父母もおなじことが起きたと回想する。その「砂」への処し方がその人間の生き方であったかのように。。。恋人(主人公より三歳年上。)との性愛の時間にも、その二人のからだから、おびただしい「砂」が降るというのだ。いのちは成熟する。その成熟の頂点を終える時、いのちは繰り返し降りつづける「砂」となってゆく。。。

   ふたりの上に砂嵐が
   いくにちも いくにちも 吹いて
   わたしたちが
   そこに眠りながら
   次第に埋もれてゆく風景を思う  

   (砂嵐・高田昭子/抜粋)

 誰の詩だったろうか?老父が風呂に入ると、浴槽につかった老父の首のまわりから、白い粉のようなものが水面に拡がってゆく、という詩があった。そしてわたくしも、かつて老父母の介護の時期に、それぞれのからだから降る白い粉を幾度か見たことを思い出す。人間のいのちとは固体のようでありなから、実は「砂、あるいは粉」の集合体にすぎないのではないか?とふと思う。「風化」という言葉がわたくしのなかをよぎる。

 今朝もベランダに出ると、野花の綿毛たちが風の行方を知らせてくる。五月・・・いのちの交代は絶え間なく続くのみだ。子供が産まれて三十余年の歳月を育ちゆくいのちと共に暮らし、反面死者を看取る日々もそこにあった。若いいのちとの暮らしに別れを告げ、新しい住処に移住して、約一ヶ月が経った。

 (二〇〇七年・新潮社刊)
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May 17, 2007

ストリングス~愛と絆の旅路

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監督:アンダース・ラノウ・クラーランド(デンマーク)
日本語版監督:庵野秀明
脚色:長塚圭史
配給:エイベックス・エンタテイメント+ジェイ・ドリーム
制作:ジェイ・ドリーム

 ストリングス(strings)とは弦楽器のことであり、(string)は弦の意味です。このタイトル通り、映画はあやつり人形を使ったドール・ムービーでした。そしてさらにこの(strings)とは、この映画の大きなテーマ「愛と絆」ともなっています。ここに登場する人間(人形?)たちは、生まれた時(それはあたかも、願いを込めてピノッキオを作ったジェベットおじいさんの思いに似て。)、天から降ろされる紐(弦あるいは絆)を手足や頭に繋ぐことによって、はじめていのちを吹き込まれるのです。ですから「死」とはこの紐を切られるということになります。それぞれのいのちは天に守られているということです。ここが、今までのあやつり人形劇には見られなかった視点と言えるかもしれません。

 しかし、天から降ろされるこれらの膨大なあやつり紐は、絡み合えば、地上の人間の混沌を生むことにもなります。この映画の制作過程もデンマークで一旦出来上がって、カンヌ映画祭で上映されて、それを観た庵野秀明監督が「ジャパン・バージョン」編集したという経緯があります。この経緯によって、観る者は物語の筋道にわずかに迷うことになるのです。

   物語の舞台は権力争いの絶えることのないへバロン王国。国王カーロはそれを嘆き、王子ハル・タラに国の平和を託して自害しますが、それは反国王派による暗殺であるという誤解によって、王子も観る者も混乱と殺戮とに向かってしまうのです。王子の妹ジーナ姫は幽閉の後紐を切られます。そして戦いの旅で出会い、王子が愛する異民族の娘ジータの住む豊かな緑の森が焼き払われ、多くの戦死者が出たあとでやっと戦いの日々は終わります。神の絆では守るきることのできない地上の平和の困難さを観る思いです。

 映画館を出た後に見た、うつくしい夕焼け。天の紐は見えません。。。

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 この映画は五月十五日、さいたま新都心駅前の「MOVIXさいたま」という映画館で観ました。この「MOVIX」を都心周辺地で見かけるようになったのは最近のことのように思います。たとえば新しい電車の路線が出来る、そして新しい駅が出来る、その駅に大きなショッピング・モールが展開される。そこに参入しているのが、どうやらこの「MOVIX」のようです。一五〇人から二〇〇人ほどの座席数のある映写室が十数室並んでいて、それぞれの映写室でそれぞれの映画を選んで観られるというシステムです。上映期間もいわゆる今までのロードショウのように長くはない。おそらく映画フィルムが映画館を回るというシステムではなく、巨大DVDなのでは??
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May 16, 2007

とりかえばや、男と女  河合隼雄

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 「とりかえばや」という古い日本の宮廷物語がある。姉が男子として、弟が女子として育てられるというお話です。このような物語は時を超えて世界中にあるのは何故でしょう?それはとりあえず簡単に言ってしまえば、かつてさまざまな「神話」から生まれた人間の男女の在り方が、ほとんど「男尊女卑」を基底にしているからではないでしょうか?(無茶な言い方ですね。申し訳なし。。。)

 例として、旧約聖書における「女性が男性のあばら骨から生まれた。」という説だけではとどまらないのです。タイのカレン族では「世界の初めに仏陀が一人の男をつくり、その男のふくらはぎから男女の一対が生まれた。」とあり、ジャワの神話では「創造主は男を作ったあとで粘土がなくなり、月の丸み、蛇のうねり、蔓のからみ、草のふるえ、大麦のすらりとした形、花の香り、木の葉の軽やかさ、ノロ鹿のまなざし、日光の快さとたのしさ、風のすばやさ、雲の涙、わた毛の華奢なこと、小鳥の驚きやすいこと、密の甘さ、孔雀の虚栄心、燕の柳腰、ダイアモンドのうつくしさ、雉鳩の鳴き声、これらを混ぜ合わせて女を作り、男に妻としてあたえた。」とあります。ふぅ~。書き写すだけでも大変なこと。なんと女性は多くのものを神から与えられたのでしょう。しかし、どのような神話も「女性が産む性」であり、いのちの源であることには逆らえないのです。神話とはどうしてこのように作られたのでしょうか?

 それらの神話によって社会的権威、あるいは家族的規制も成り立ってきたのです。その基底に揺さぶりをかけるために、物語の書き手たちはさまざまな形で「とりかえばや」を書きついできたのではないでしょうか? 

  オウィディウス「変身物語」
  山本周五郎「菊千代抄」
  岡本かの子「秋の夜がたり」
  ラディン・ケレーニイ・ユング「トリックスター」
  シェイクスピア「十二夜」
  塩野七生「女法王ジョヴァンナ」

 河合隼雄は、主に上記の物語を手掛かりとして、また吉本隆明、富岡多恵子との対談なども紹介しながら、「男性」と「女性」という存在が、くっきりと二極分化できない関係であるということを主題として書いていらっしゃいます。また精神科医としての見解も交えながら、わかりやすく書いて下さった著書でした。

 (平成六年・新潮文庫 かー27-1)
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Apr 09, 2007

ふたりの老女 ヴェルマ・ウォーリス 亀井よし子訳

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 ヴェルマ・ウォーリスは、一九六〇年にユーコン川とポーキュパイン川の合流する地点に位置する「アサパスカ語亜族の村」である「フォート・ユーコン」に生まれ、アラスカ・インディアンの伝統にのっとって育てられました。このユーコン川流域のほとんどの集落でこのふたりの老女の伝説は語りつがれていました。それをヴェルマ・ウォーリスは一冊の物語として書いたのでした。
 この原稿は、アラスカ・フェアバンクス大学教師「ラエル・モーガン」と、その教え子達による「ヴェルマ・ウォーリスの友人たち基金」とエピセンター・プレス社の協力によって世に送り出されたのでした。

 この物語はアラスカ・インディアン版「姥捨山」と言えるかもしれません。酷寒の地に生きる狩猟の民は、寒さと飢餓との戦いの日々です。先日書きました「ヘヤー・インディアン」のなかでは飢餓のために死者を食べること(カニバリズム)さえあったのでしたから。。。その冬は獲物も少なく、飢えに苦しむ一行を率いるリーダーの苦渋の決断は、二人の老女を置き去りにすることでした。その二人の老女とは、七五回の夏を経た「サ」と八十回の夏を経た「チディギヤーク」でした。

 置き去りにされた二人の老女は当然失望のなかで「死」を迎えることを考えました。出発した一行もそう思ったに違いないのです。しかし彼女たちはその失望から立ち上がり、永い経験のなかで蓄えた豊かな生活の知恵が蘇り、食料の調達が豊かだったと記憶していた土地へ移動して、獣や魚の捕獲、食料としての保存、防寒衣類の作成、生活用具の作成、燃料の調達、そしてさらに保存できるほどの食料や、二人では多すぎるほどの防寒衣料なども蓄えたのでした。それは老いた肉体にとって決して楽な暮らしではありませんが、「生きる」と彼女たちは決めたのです。「若さゆえの体力」ではなく「老女ゆえの知恵」が彼女たちの命を救ったのです。

 一方、先へ進んだ一行にはさらなる困難に遭遇して、二人の老女を置き去りにした土地まで戻るのでした。老女たちの死の形跡すらない土地で、彼等は必死に老女を探し出す。無事に生きていたことを確認し、さらに一行は二人の老女に飢えと寒さから救われたのでした。おはなしはこれでおしまい。語り継がれた「教訓」と単純に思うなかれ。。。

 (一九九五年・草思社刊)
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Mar 23, 2007

心ときめかす  四方田犬彦

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 いやはや、驚きましたね。古今東西の文学者、哲学者、思想家、映画関係者、音楽家たちを呼び集め、それらの歴史を今の時間軸に立って、かるがると語る四方田犬彦の筆力とそれを裏付ける膨大な知識によるエッセー集でした。当然浅学のわたくしには、知らない方々も登場しますが、それについての予備知識がなくても、彼の簡略な解説や適切な引用から、未知の世界に触れることができるのでした。しかもその方々への興味までわたくしから引き出す力がありました。

 最初に取り上げられているのは清少納言の「枕草子」です。この著書は千年前に書かれた美しいエッセー集「枕草子」へのオマージュだそうです。このエッセー集もその「枕草子」の構成法に倣っているようですね。

 時折辛辣なことも書いていますが、「なるほどね。」と新しい局面を考えさせて下さることもありました。たとえばこのようなことを書いています。かつての詩人たちへのノスタルジアは現代のキッチュ産業になる??この考え方はこの著書の本髄になっているようにも思えますので、長いですが引用しましょう。

 『ありていにいって、廃墟を最初に訪問するのは考古学者である。彼らは測量と発掘を通して、その年代を測定する。次に到来する歴史家は文献を渉猟し、対象がいかなる意味において、われわれの住まうこの世界と連続的なところにあるかを、物語を通して解釈しようとする。やがて権力者が廃墟を訪れ、そこに国家なり、民族の起源の巨大な物語が封じこめられていると発言し、その場所に仮初の神聖さを付与する。最後に匿名の観光客が束をなしてやって来る。彼らはあらかじめ準備された単純な神話的物語を受け入れ、その巨大な時間の展がりと自分たちの卑小な時間とのあいだになんとか虚構の連続性を築きあげたいという欲望に促される。(中略)われわれが通常に訪れることのできるのは、どこまでも観光地化された廃墟、すなわち廃墟の廃墟にすぎない。』

 中間部には「吉岡実 はやわかり」という章があります。それは吉岡実の没後に出版された全集へのレクイエムと言えばいいだろうか?四方田犬彦が簡略にまとめた年譜は魔術師のように見事で、全部読んだような気分にさせます(^^)。。戦後まもなく吉岡実が書いたと言われる言葉が最後に引用されていました。さりげなく、そして深い詩人の言葉ですね。

    多くのもの
   犬には不用のもの
   一人の男にとっては少ないが
   意味のあるもの


 こんな感想を書き連ねていてはきりがありませんので、この位にしておきましょう。最後にこの本から、わたくしが最も興味を持ったポルトガルの詩人「フェルナンド・ペソア(一八八八年~一九三五年)」の言葉を記しておきます。彼はこの名前の他に「カエイロ」「レイス」「カンポス」という三つ筆名を持った詩人だったのです。

 『わたしは自分のなかにさまざまな人格を作りあげた。そして休みなく人格を作りあげる。わたしの夢は、夢として現れたそのときから、別の人格のかたちをとる。その人格はみずからを夢見るが、わたしが夢見ているわけではない。』

 四方田犬彦は「あとがき」の最後に、ロラン・バルトの言葉を引用しています。いやはや「引用」の多い感想となりました。申し訳ございませんが、これが最後です。

 『愛するものについては、本当のところ人はいつも語り損ねてしまうものだ。』

 (一九九八年・晶文社刊)
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Mar 11, 2007

物語の役割  小川洋子

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 この本は小川洋子がご自分の「物語」の生まれてゆく過程についての講演を一冊に纏めたものです。
 小川洋子の感性は、他者を驚かせたり、哀しみや苦しみを読み手に押し付けてくることがない。いつもそっと開かれた窓のように謙虚です。問えば静かに答えてくださるでしょう。そしてなによりも彼女の心が病んでいないこと。あたりまえのようですが、これは決してあたりまえではないのです。そして少女期からの出合った本、先達者の言葉などを丁寧にあたため、それをご自分の慰めや同意という安易な受け止め方をせずに、心の小箱にしまって大切にしていることでした。

 物語は作家の魔術のように生まれてくるものではない。特権的な知識を並べることでもない。生きている人間の足跡、風景、風、ひかり、思い出、そして死者からの贈り物、言葉にならないものを丁寧に掬い取り、それにふさわしい言葉や名前を与えて、さらに消えてしまいそうな道筋をなんとか描いてゆく。物語の誕生とはそんな心の作業なのでしょう。

 子供は大きくなるためには、なにかおおきな「守り」が必要です。老人が生きていくためにも同じこと。そして人間が生きてゆくためには「愛されている」こと。それは平和な時代でも、凄惨な時代においても同じこと。それが物語の水源ではないでしょうか?そしてこうして書いてしまえば、おそらくとても普通で平凡に思えること。それが実は物語なのではないでしょうか?

 小川洋子が子供時代に出会い、心に残った本は「ファーブル昆虫記」、フィリパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」、思春期に出合った本は「アンネの日記」だった。彼女の著書「博士の愛した数式」はイスラエル版として海を渡ることになりましたが、レバノン侵攻のために停戦を待っている間に、小川洋子は改めて自分の物語が人間の現実と無関係ではないことを思うのでした。エージェントのメールには「同じ本で育った人たちは共通の思いを分かち合う。」という一文があったそうです。ちなみに「博士の愛した数式に登場する少年「√」の誕生日は九月十一日です。こんなところにも小川洋子の密かな願いが込められているのですね。

     願いとは
    日毎の「時間」が
    永久なものと
    小声でかわす対話。  (リルケ)


 (二〇〇七年・ちくまプリマー新書053)
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Mar 08, 2007

ヘヤー・インディアンとその世界  原ひろ子

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 原ひろ子は文化人類学者、一九三四年ソウル生まれ。一九五九年から一九六四年アメリカ留学中に「ヘヤー・インディアン」のフィールド・ワークに入る。そこから出発して、この著書が初版されるまでに三十年の時の流れがあります。そして、わたくしがこの著書に出会うまでに、さらに二十年近い歳月が流れているわけです。この時間の経過をどう埋めればいいのかと思いつつ読み進めました。

 そして原ひろ子自身にも二十五歳から始まったフィールド・ワークからの時間の階段が螺旋のようにあったのではないでしょうか?女性の身での極北の狩猟民族のフィールド・ワークの困難さを助けたのは、さまざまな先達の学者、スタッフなどがいらっしゃったことでしょうが、本当に彼女を助けたのは、日常的に「飢え」と隣席している「ヘヤー・インディアン」の人々だったのでしょう。
 この膨大な一冊の調査報告は、文章のうつくしさと共に読む者を圧倒します。原ひろ子のたゆみのないフィールド・ワーク、その綿密な調査報告書は紛失を防ぐために、カーボン紙を使って二重三重に防いだこと、そして一通は即刻留学先の大学に届けられたことなど。

   「ヘヤー・インディアン」とは「The Hare Indians」、「Hare」とは「野うさぎ」のこと、これはかれらが最も多く食するものです。カナダ北部、北極圏線を跨いでいる地域に暮らす狩猟の遊牧民です。東端には「グレート・ベアー湖」のほとりに「フォート・グッド・ホープ交易所」があります。彼等の移動地には「マッケンジー河」が流れていて、魚も多く食しています。この河の凍結と氷解が彼等の生活を大きく支配します。わたくしたちが「数年前」と言うように、彼等の時間の表現には「数夏前」「数冬前」と言う言葉があるのです。こういう美しい自然表現の言葉に出会えることが、わたくしの「ネィティヴ・アメリカン」への接近の要因なのではないかと思います。

 改めて言うまでもないことですが「ヘヤー・インディアン」がキリスト教と無縁であったわけではありません。十九世紀にあるヘヤー・インディアンがフランスのカソリック神父に語った物語は「創造主は、白人の素晴らしい土地をまず創り出した。そのとき、役に立たぬ粘土がたくさん余っておった。どうにもならぬ粘土に腹を立てて、それを投げ棄てた。そのいちばん悪いところが、ヘヤー・インディアンのカントリーとなったのだ。」というものでした。十九世紀に侵入してきた白人の話から、彼等は初めてみずからの土地の貧しさに気付かされ、この物語を思いついたのでしょう。

 また、一八六一年から四十年間、カナダ北部の布教にあたった「セガン神父」の報告によると、日常的な「飢え」との戦いがあるヘヤー・インディアンには、人肉を食べる(カニバリズム)ことによって生き延びた例があります。これは「キリスト教」ではどう解釈できますか?できないでしょう。ヘヤー・インディアンは、この「カニバリズム」から自らを守るものは「強い守護霊」だとしているのです。
 こんな時には、ナイジェリアの詩人で劇作家の「ウォーレ・ショインカ=Wole Soyinka」の言葉を、わたくしはよく思い出します。それは「人間には二つの宗教が必要です。」と言うこと。

 もちろん、この著書のなかでは、カナダ政府からのヘヤー・インディアン救済はすでに始まっていました。政治、宗教、文明が彼等を救い、反面落とした影について、もうわたくしには書き尽くせないことでしょう。ここで著者とヘヤー・インディアンへの深い敬意とともにペンを落します。

 (一九八九年・平凡社刊)
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Feb 25, 2007

マグヌス  シルヴィー・ジェルマン  辻由実訳

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 この本に贈られた賞についてまず記しておきます。フランスの文学賞に「ゴンクール賞」がありますが、もう一つ注目したいものに「高校生ゴンクール賞」があるのです。この小説は二〇〇五年にその「高校生ゴンクール賞」を受賞しています。毎年約二千人の高校生によって決定される賞で、これは日本では考えられないような試みですが、この賞は今年で二十年の歴史をもつもののようです。はなから「賞」などという話題で申し訳ありませんが、「高校生」ということにわたくしはちょっと驚いたのでした。

 この物語は第二次世界大戦末期のドイツから始まります。五歳の少年がひどい病気にかかり、高熱によって言葉も記憶も焼き尽くされ、母親は少年の過去の五年を埋めるように、言葉によってその少年をもう一度産み直そうとするのでした。父親は熱狂的なナチス党員。その時の少年の名前は「フランツ」だった。

 敗戦と同時に一家の逃亡生活、父親は亡命先で生死不明、母親は病死、「フランツ」を引き取ったのは母親の兄。かつて彼はその両親とは全く異なる生き方を選び、イギリスに亡命した牧師であり、妻はユダヤ人だった。ここで彼の名前は「アダム」となる。

 そして二十歳には彼の意志によって「マグヌス」と名乗ることになった。この名前は記憶を失くした時から抱いていたクマのぬいぐるみの名前。大人から詰め込まれた記憶ではない、唯一の彼の本当の記憶を共にしたのはこの「マグヌス」だけだったのではないでしょうか?なにも語らない者こそ真実であると。。。

 「マグヌス」と名乗った時から、彼の人生は自らの意志によって歩き出すことになるのですが、彼のもっとも幸福と思われた愛の成就も、その不幸な運命によって失われる。しかし最後には、彼は丹念に孤独を生きることに人間の本来の姿を見出したように思えてならない。

 この小説の構成も興味深い。「章」の変わる毎に「断片=フラグマン」、「注記=ノチュール」、「絶唱=セカンス」、「挿入記=アンテルカレール」が挿入されていて、そこに小説の補足説明、歴史的背景、詩歌の引用などがなされて、この小説に歴史的な意味合いとファンタジー性をもたせて、ふくらみのある作品となっているように思えました。

  旅立とう! 旅立とう! これぞ生きている者の言葉!
  旅立とう! 旅立とう! これぞ放蕩者の言葉!


  (サン=ジョン・ペルス  「風」)

 この本を閉じた時に、わたくしの耳にいのちの羽音が聴こえてきました。それは「マグヌス」がこの物語のなかで最後に出会い、その死も見送ることになった、戸外を遊ぶ老いた修道士であり養蜂家のジャン士がわたくしに残したメッセージだったようです。それは多分、いのちは導かれるべきものによって導かれ、その死もまたそのように訪れる。なにも恐れるものはないと。。。

 (二〇〇六年・みすず書房刊)
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Feb 20, 2007

ハルビンの詩がきこえる  加藤淑子著 加藤登紀子編

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 加藤淑子は、加藤登紀子(歌手)の母上です。この母上が一九三五年四月から、夫幸四郎と共に過ごし、三人の子供に恵まれて、敗戦によって日本に引揚げて来るまでの旧満州国ハルビンでの十一年間の思い出を綴ったものです。このなかに登紀子の作詞作曲した歌「遠い祖国」が数箇所に挿入されています。冒頭の四行を引用してみます。その下にわたくしの詩「河辺の家」の一部も引用します。登紀子とわたくしの年齢差は一年足らず、わたしがわずかに遅い生まれのようです。共に三番目の子供であり、「ハルビン」の具体的な記憶がない年齢です。申し遅れましたが、わたくしもハルビン生まれです。この本を読み、当時の古い地図を見ていますと、この加藤一家とわたくしたち一家はどこかですれちがっているのではないか、と思うくらい共通するのです。


  生まれた街の話をしよう
  そこは遠い北の街
  戦争の中で生まれてそして
  幼い日に追われた街   (加藤登紀子・遠い祖国)


  占領国の子として そこに産まれ
  敗戦国の子として そこを追われた
  その家は いつも
  記憶の届かないところに佇んでいた   (高田昭子・河辺の家)


 おわかり頂けるでしょうか?その時わたくし達の親の世代は占領者だったということです。財部鳥子の小説「天府 冥府・二〇〇五年・講談社刊」にもありますように、占領者としての「天府」のような生活(この小説の舞台となるのはジャムスですが。)、「冥府」のような敗戦国民としての異国の生活がそこにはあったということです。

 それでも何故あのハルビンは、そこで暮した人々の心に美しい街として記憶に残り続けるのでしょうか?列車が走っても走っても続く同じ風景の続く広大な大地、そこに落ちてゆく大きな赤い夕日、温かい人々との思い出、杏や林檎の樹、おいしい食べ物、キタイスカヤ通りの石畳、風と光、スンガリー河の流れ、太陽島の休日。。。

 加藤淑子の書くさまざまなお話のほとんどは、わたくしの幼い日々からずっと母が語ってくれたことと重なりました。たとえばこんなこと。。。

●牛乳はしぼりたてのものなので、一回沸騰させてから飲んだり、保存したりしたこと。

●「ペチカ=ロシア語」をわたくしの母は「オンドル=朝鮮語」と言っていましたが、これは暖炉の熱を利用した壁床暖房です。零下二〇度、三〇度となる酷寒のハルビンでは、縦に細長い形の二重窓とともに重要な暖房だったのです。燃料は薪と石炭でした。

●上記のオンドルは調理用コンロにもなるのですが、朝は火が焚けるまでに時間がかかるので、街にはお湯売りが(日本の納豆売りのように。)いつもいました。

 このような母としてのハルビンでの日々の記述の共通性は書いたらきりがありません。たった一つ、加藤一家とわたくしたち一家と違っていたことは、敗戦後約二ヶ月くらいで、わたくしの父は家族のもとに命の危険をおかしてまで、釜山からハルビンまで帰ってくることができたこと。そして酷寒のハルビンでは、貧しい敗戦国民となった一家が暮してゆくのは困難だと判断した父が、すぐに新京に南下して、そこで働きながら引揚げの日を待ったことでした。この引揚げ船の出る場所も加藤一家と同じく「葫蘆(コロ)島」でした。そこまでの列車が「無蓋車」であったことも同じでしたが、わたくしの父が団長を務めた引揚げ団では、無蓋車は一両五十人の割り当て、真夏なので直射日光を遮蔽するため、みんなで日除けを作ったり、トイレを作ったりして出発の日を待ったそうです。

 どうもこの本の紹介ではなかったようですね。あまりにも共通することが多くて、わたくし事ばかり書きましたことをお詫びいたします。最後に加藤淑子の素晴らしい言葉をご紹介して、これを終わりといたします。

 『人は生きるためにはどんな限界も超えることができる。』

 (二〇〇六年・藤原書店刊)
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Feb 09, 2007

兄中原中也と祖先たち   中原思郎

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 わたくしの昨年の十一月二六日の日記に書いてありますように、一九七三年には講談社より、「私の上に降る雪は・わが子中也を語る 中原フク述・村上護編」が出版されています。この本は四男思郎によってその三年前に出版されたものです。前半の兄の中也に関する記述においては大岡昇平などの協力が大きいのですが、後半の「祖先」に関する記述は天正年間(一五七三年)まで遡って書かれておりますので、この協力者は膨大な方々に及びます。「祖先」の後半部からは「「近い祖先」となって中也たちの祖父母からのことについて書かれています。

   わたくしが古本まで取り寄せて読んだのは、一つの点だけ確認したかったことがあったのです。思郎がこの本を書く時に、「その話はやめて欲しい。」と母親のフクが頼んだ、ある事件です。しかし思郎は「それでも兄貴がぼくにそう話しておったから。」と答えたそうです。フクは口述のなかではこの事実を否定しています。これが中也独自のアイロニーであったのか、実話であるのかは知るよしもありません。しかしこの本では思郎は書いていました。それは中也へのお仕置きとして、厳格な父親謙助が中也を庭の松の木に吊るしたという事件です。しかしこれは母親フクと祖母によって行われたことのようでした。

   何故わたくしがこれに拘るのかはちょっと説明できないのですが、「恐怖」への感受性においては、子供は大人の何十倍ももっているのではないのか?という考え方からかもしれません。だから子供だけは大人に守られるべき時間を充分許されていると思うのです。

  わが生は、下手な植木師らに
  あまりに夙く、手を入れられた悲しさよ!
  由来わが血の大方は
  頭にのぼり、煮え返り、滾り泡だつ。

  (これは中也の詩「神童」の一節です。)

 極論が許されるなら、中原家の生命は母親フクに集約されているかのようです。フクは百歳近くまで生きましたので、養父母、実母、夫、息子、孫にいたるまでの臨終をみとっているのです。思郎の言葉を引用すれば「中原家はすなわちフクであり、フクが生きている限り中原家はある。」のだと。。。

 中也の死については、思郎は「中原家から『聖なる無頼』が消えた。」と記述しておりますが、母フクは中原中也の詩碑の除幕式において「チュウちゃんが、中原家四百年の歴史のなかで一番偉かったのじゃろうか。」と言い、中也の写真の前に打伏して動かなかったと。。。

 (一九七〇年・審美社刊)
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Feb 02, 2007

祭り裏  島尾ミホ

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 これは島尾ミホの少女期の回想録と受け取っていいのだろうか。しかしこの七編の随筆は、そのまま短編小説とも言えそうです。舞台は郷里の奄美大島の南端にある「加計呂麻島=かけろま島」です。そこの「長」の娘として、特権階級の生活者としての記録ではありますが、島の風景、日常、まつりごと、学校生活、子供たち、大人たち、などなどがおおらかに活写されていまして、それは輝くような開放された筆力でした。

 夫である「島尾敏雄」の「死の棘」は衝撃的な私小説であり、そこに描き出された妻の有り様には、女性として大変に心惹かれるものがありました。この「死の棘」が書かれる過程で、妻は何度も夫の原稿のチェックをしていたとのこと。それはむしろ島尾敏雄の執筆に対する躊躇を払いのけるものではなかったのかと思われます。

 また、この本、さらに以前に書かれた「海辺の生と死」など、島尾ミホの本の出版に対して、我が事以上に夫の敏雄が興奮し、「あとがき」を書き、喜んだということも、この夫婦の間を流れる奔流のような「愛」を思うのでした。この「祭り裏」の出版打合せには立ち会えたものの、残念ながら出版される時期には島尾敏雄は亡くなっています。

 島尾ミホは、多分一九二〇年生まれ、一九四四年に、海軍特攻隊隊長として加計呂麻島に赴任した島尾敏雄と出会っています。その時ミホは小学校教員でした。


 【祭り裏】
 猛暑をやり過ごして、八月中頃の島には実りの季節が訪れて、さまざまな村祭りが行われる。会話はすべてこの土地の方言をカタカナで表記して、脇に訳が付けられている。  この祭りの華やぎと喧騒の裏側で、血族の命がけの争いという、荒々しい事件が描かれています。この時代のこの土地のおおらかさを表すように「癩病やみのニジロおじ」もそこに特殊な存在として描かれていないことでした。この時代には癩者の「強制隔離」があったはずです。

 この点につきましては、F氏にお願いしてご意見を頂きましたので、追記いたします。氏に感謝致します。
 『偏狭では中央の及ばない文化があったのだと思います。地方名は忘れたけれど、療養所にいくと帰ってこられなくなるからと村ぐるみ(役場も含めて)匿ってくれたという記述を読んだ記憶があります。特に共同体の意識の強い離島では、大いにありうるというより、普通だったと思います。』


 【老人と兆】
 竹細工に秀でた「ギンタおじ」は、村の端の粗末な小屋で乞食のように暮している独居老人であり、唯一のシャーマン的な存在です。村の子供やその家族とのあたたかな交流があり、「ギンタおじ」だけが「死神」から人々を救い出せる力を持っているのだった。

 【潮鳴り】
 ミホが小学三年生の時に、新しく赴任してきた若く美しい女性教師はやさしく、子供たちに愛されていたのでした。しかし彼女が密かに恋をして、人目を忍んで逢瀬を続けた島は、かつての流刑の島であった。それを村人にみつかり、彼女は村人からも子供(特に男児)からも侮辱を受けて、ついに授業に来なくなった教室では、さらに大きな事件が起こる。まだ下穿きやシュミーズなど一般の人々が身につけていない時代に、ミホがレースのついた下着を身につけていることを知った男児たちは、教室から女児を全部追い出して、ミホの下着を見ようとした。必死で身を守るミホ。。。ここでは「島」のおおらかさとは裏腹に、女性だけにある古い因習がのしかかっているようだった。この章は哀しい。しかし隠さずに書く島尾ミホの執筆への姿勢がうかがえる。

 【あらがい】
 ここでは前章の男児へのミホの反逆が始まります。子供世界を生き抜くためには、それなりの「仁義?」があるようです。しかし特権階級にいるミホは、大人社会がらみの子供の不平等もあることに気付くのでした。

 【潮の満ち干】
 思いを遂げて結婚したはずの夫婦が、生活に疲れて子供を連れて実家に帰った妻。一人取り残された夫は狂気の果てに放火をします。たった一人の警官が暇をもてあましているような島で起きた大事件でした。島の代表者たちの相談の結果、村に初めての「牢屋」が村人たちの手によって作られる。その「牢屋」は「ギンタおじ」の小屋の隣でした。「ギンタおじ」をはじめとして村人たちが交代で食事などの世話をしますが、その男は徐々に狂っていくだけでした。

 あと二篇は省きます。おおらかな風土と、そこに育つ激しい人間の情念は、島尾敏雄の私小説「死の棘」に描かれた女性の原風景のようにここにあったように思います。

 (一九八七年・中央公論社刊)
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Jan 24, 2007

約束の旅路

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 監督・ラデュ・ミヘイレアニュ(フランス)
 脚本・アラン・ミシェル・ブラン&ラデュ・ミヘイレアニュ
 上映時間・二時間四五分


 これは昨日の夜に「TOKYO FMホール」で観た試写会です。ロードショーは三月から岩波ホールで始まるようです。久しぶりというのか、あるいは初めてのことかもしれませんが、わたくしはこの映画のラストシーンで泣いていました。映画制作という点から採点するとすれば、この映画はどちらかというと未熟かもしれません。それでもこの映画制作にかけた熱意や深い愛は観る者にまっすぐに伝える力を持っていました。うつくしい叙事詩です。さて、この映画を語る前に二つの事柄について注意深く書いておかなければならないような気がします。これは思考回路がすぐに混乱するわたくしのためです。あしからず。。。

 【モーセ作戦】

 これは旧約聖書「出エジプト記」の「鷲の翼にのせて」・・・「乳と蜜の流れる地へ」に倣った、イスラエルの救出作戦の一つです。アフリカが旱魃に襲われた一九八四年から八五年までに、エチオピア系のユダヤ人をイスラエルへ飛行機で移送救出することでした。その難民キャンプはスーダンにあり、ここへ辿りつけなかった難民も多かったのですが、また無事救出されたユダヤ人は一日に四二〇〇人にのぼるともいわれています。イスラエルではこの救出された人々を「ファラシャ」と呼んでいます。

 【出エジプト記】

 この第一章、第二章では「モーセ」の子供時代のことに触れています。イスラエル人の人口増加をおそれたファラオは、産まれてくるイスラエル男児をすべて殺すことを命じます。しかし男児を産んで三ヵ月の間密かに育てた女性がいて、ある日ナイル河畔の葦の繁みに隠します。それを見つけたファラオの王女は、その母親を乳母としてその男児を預け、成長してから王女の子となります。これが「モーセ」です。この後のことは省きます。この「モーセ」の子供時代と、この映画の主人公「シュロモ」の運命には、どこか重なるものがあるように思えるのです。


 さて、一九八四年のスーダンの難民キャンプに九歳の黒人少年「シュロモ」と母親は辿り着きました。二人はクリスチャンです。同じキャンプではユダヤ人の「ハナ」という女性の子供が体力尽きて亡くなりました。「モーセ作戦」でイスラエルに渡れる「ハナ」に母親は「シュロモ」を託します。「ハナ」の子供は死んではいないということとして、「シュロモ」はその時からのエチオピアのユダヤ人としての名前です。

 イスラエルに無事到着後、やさしかった「ハナ」も亡くなりますが、その後に、エジプトからイスラエルへの移民である養母「ヤエル」養父「ヨラム」に愛情深く育てられますが、「肌色による人種差別」と「秘密」そして「母恋い」に苦しむのです。学校を離れ「キブツ=集団農場」に入ったこともありましたが、彼は最後はパリに出てドクターになるのでした。その十年間ほどの青春期を支えた女性「サラ」と結婚します。「秘密」は「サラ」の懐妊の時にやっと明かされるのでした。

 『アダムは神の手によって土からつくられた。だから肌の色は黒でも白でもない。赤だ。』

 ドクターとしてスーダンの難民キャンプで働く「シュロモ」のところへ「サラ」から電話が入ります。産まれた子供の「パパ」という声とともに。。その直後に彼はやっと歳老いた母親を見つけ出したのでした。。。靴を脱ぎ、素足で砂の上を母親へ向かって歩き、「シュロモ」はやっと「約束の旅」を終えたのでしょう。

 映画の前に、監督挨拶がありました。監督のこの映画のテーマは「三人の母の愛だ。」とお話くださいました。この映画には宗教問題、人種問題、飢饉、難民問題と多くの要素が込められていますが、その底流となっていたものは、「シュロモ」を手放した実母の愛、託された「ハナ」の命がけの愛、そして養母「ヤエル」の時間をかけた愛でした。

 泣いた自分に気持の整理をさせようとして、一気に書きました。宗教の面で誤りがありましたら、どなたかお教え下さると嬉しいのですが。。。よろしくお願い致します。
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Jan 22, 2007

朗読者  ベルンハルト・シュリンク  松永美穂訳

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 最後まで読み終えて、久しぶりに良い本に出会ったと思いました。

 十五歳のミヒャエル・ベルクが、学校帰りにバーンホーフ通りで具合の悪くなった時に、助けてくれた三十六歳の女性ハンナとの恋におちるところからこの物語ははじまります。ハンナは市電の車掌。彼女の勤務時間に合わせて、二人は毎日数時間を彼女のアパートで過ごす生活がはじまるのですが、ハンナはミヒャエルに愛し合う前に本の「朗読」をさせるのでした。また、ハンナが眠っている間に、黙って置手紙をして買い物に出たミヒャエルに、ハンナはひどく怒ってベルトでミヒャエルの頬を傷付けるシーンなどから、わたくしにはハンナの実像が少しづつ見えてくるのでした。おそらくミヒャエルが気付くよりも先に。。。

 そしてハンナはミヒャエルに告げることもなく姿を消しました。その後の再会は法学部のゼミの学生として傍聴席にいるミヒャエルと、四十三歳になった被告人のハンナとして、「法廷」という場所でした。かつてのミヒャエルに出会う前のハンナはベルリンのジーメントで働いた後に、一九三四年秋に親衛隊に入り、収容所の看守だった。これはドイツによるドイツ国民の裁判です。裁判はハンナに不利な方向へと向かうのでした。
 ここでハンナが文字の読み書きが出来ないことが明らかになる。アウシュビッツに送られる前に収容される囚人のなかから少女を選び、ハンナはやはり「朗読」をさせていたのでした。それはたった一人の少女を苦役から短期間救える方法でもあったのです。

 ハンナに終身刑が下るまで、ミヒャエルは毎日法廷に通いました。その後、ミヒャエルは同じ法学生だったゲルトルードと結婚し、娘ユリアを授かりましたが、ミヒャエルの法学の道は定まりません。ゲルトルードは裁判官となり、結局三人の家族は愛し合いながら、別れることになるのです。

 『決断は難しかった。ハンナに対する裁判で法律家たちが演じた役割のどれにも、自分を当てはめることができなかった。告発という行為は、弁護と同じくらいグロテスクな単純化に思えたし、裁くことは単純化の中でそもそも一番グロテスクな行為だった。』

 そうしてミヒャエルは法史学教授となる。そして彼はハンナに「朗読テープ」を送り続ける。手紙は書かない。ハンナはそのテープのテキストとなった本を入手して、テープを何度も聴きながら文字を覚えてゆき、ミヒャエルに手紙を書けるようになったのでした。この生真面目なドイツ人法史学者の一貫したハンナへの思い、それに応えるハンナ、「続けること。」「繰り返すこと。」その美しさ。。。

 ハンナの恩赦が決まり、身元引受人となったミヒャエルは、その準備に追われ、面会にも行ったのだが、ハンナは出所前日に縊死する。ハンナの残したお金はユダヤ人識字連盟に送られました。

 戦争を繰り返す歴史のなかでは、権力者側あるいはそこにいる以外に生きる手立てがなかった人間と、それによって苦しめられた人間、その立場が逆転した時には「裁く者」と「裁かれる者」は逆転するということは繰り返されてきた人間の愚行です。そうした時代に引き裂かれた一つの愛が、生涯をかけて修復に向かうことによって、人間の尊厳と信頼の確かさをくっきりと描き出したドイツ小説でした。

 (二〇〇〇年・新潮社刊)
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Jan 19, 2007

「辻」・ふたたび。。。

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 古井由吉のこの短編集について、もう一度考えてみました。短編集であっても、寄せ集めた作品集ではなく、この一冊には底流はしっかりとあって、一編ごとに時間を追うように展開されていました。テーマがなんであるかも、初めて古井由吉の著書に触れるわたくしにも、はっきりと見えるのでした。これはわたくしの感受性の問題ではなくて、古井由吉自身の筆力によるものでしょう。これは認めざるをえないことでしたが、しかし今後さらに彼の著書を追いかけるか?と自問する時、わたくしは「はい。」とは言わないでしょう。これは不思議な読書体験でした。

 この「辻」を読みながら、しきりに島尾敏雄の「死の棘」を思い出していたわたくし自身の心の動きも説明が難しい。おそらくこの二冊の小説の書かれ方、視点の置き方に、全く異なる「極」をわたくしが感じていたとしか説明のしようがありません。こんな思いを、この本を薦めて下さった方にお伝えしましたら、今度は島尾ミホの「祭り裏」を薦められました。ぎょっ!
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Jan 15, 2007

辻  古井由吉

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 まずはじめにお断りしておきます。この「辻」は本当は「しんにょう」に「点二つ」の「つじ」ですが、わたくしのパソコンでは入力できませんのでご容赦くださいませ。

 この本を読み出した頃から、季節はすでに「真冬」という季節に入っていました。「寒さ」はその源郷としての「眠り」も連れてくるものだと思うのはわたくしだけだろうか。それともこの本のせいなのか?この本には「辻」をはじめとした十二編の短編小説が収録されています。初出は「新潮」に二〇〇四年七月から二〇〇五年九月までに掲載されたものです。「辻」という短編は一編だけですが、十二編全体に「辻」というテーマは少年期の原風景のように在りました。それは父との暗い決別を象徴していると言えばいいのでしょうか。

 「辻」・・・それはひととき佇んで、あるいは考える暇もなく、選びとってしまった一個の人間の生きる道筋へのプロローグであり、引き返すことのできないものとしての象徴だと言えばいいのでしょうか。引き返すとしても、「辻」がどのあたりであったのか、思い出すことのできない場所でもあるのでしょう。また主人公が現実に立った「辻」は、そのまま夢の暗部へのもう一つのプロローグにもなっているようです。ここに「眠り」が導きだされているように思えるのです。これらの小説に登場する人間たちはほとんど青春期を過ぎた男女あるいは老人です。

 まず「男女の出会い」という普遍的な人間ドラマを、作者はこの「辻」を起点として書いてゆきます。またその「辻」に辿りつくまでの男女の生きてきた過去の道筋が、背後の影のように常にあります。ある長い時間を生きてきて、もう充分に大人といえる男女の出会いがあったとする。その互いの人格に「光」と「影」を与えた者は過去のさまざまな人間たち、あるいは死者たちではないだろうか。それらは男女が互いに向きあった時に、お互いの背後に立ちあらわれるのではないか。どうにもならないその状況が、最も深く現在を支配している。時間の止まったものに対して、生きつづける人間の思いが超えることができるのだろうか。生きている者の敗北すら思わずにはいられない。


 古井由吉は一九三七年生まれ。これらを書いた時期は六十代の終わりと思える。「人間の老いあるいは死」ということを考える時、ふたたび人間はみずからの「辻」を思うのではないか。後半の短編になると老人問題がテーマとなってくる。老いの道は「辻」へ戻る道でありながら、そこからは異界へのプロローグにもなるのだ。この「老い」を身近なものとして見つめているのは中高年世代ですが、そこにもまた彼等が踏み込む「辻」があるのでした。

 ちょっと奇妙な表現かもしれませんが、これらは中高年男性の「ファンタジー」小説とも言えるのではないだろうか。ここに登場する人々は人並みはずれた人生を生きたわけではない。適切な時期に女性を愛し、結婚し、子供を育て、次第に老いてゆく人々の生活です。「辻」にさしかかる毎に少しづつ生じてくる心の歪に、かすかに沁み込み続ける狂気や夢が現実との境界をあやうくする。そのような生活。。。
 「ドッペルゲンゲル現象」「ちいさな失踪」など、現代の中高年サラリーマンの抱いている、慢性的な心労が引きおこす心の病など、一つの社会問題提起とも言えるのかもしれません。それにしても、主人公はすべて男性であり、補助的存在として女性は表現されている。この高齢にさしかかった男性作家の造り出した人間構造には、読了後には拭いきれないような疲労としてわたくしのうちに残るのだった。。。

 (二〇〇六年・新潮社刊)
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Jan 05, 2007

詩の履歴書 「いのちの詩学」  新川和江

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 この一冊は「日本のうたごえ全国協議会発行の季刊誌「日本のうたごえ」に一九九三年から二〇〇四年までに連載したものをまとめられたものです。そこではご自身の詩がどのように歌われ、どのような雑誌や新聞に掲載されたか、また詩人や編集者や音楽家との交流などが書かれています。

 新川和江さんは一九二九年茨城県生まれ。少女期からすでに身の回りにはない、書物のなかにある世界や言葉に憧れを抱き、詩を書いていらっしゃいましたが、一九四四年、十五歳の時に隣町に疎開してきた西条八十に出会い、そこから新たに詩作は本格的にはじまりました。それから今日まで、絶えることのない詩作の日々を送られていらっしゃいます。

 昨年の十二月に新川さんにお目にかかった折に、リルケの「マルテの手記」が話題になりましたが、とりわけ新川さんが拘り、今でも大切に抱いている言葉を改めて読みかえしてみました。新川さんが繰り返しおっしゃった言葉も同時に思い出されます。それは「たくさん読みなさい。たくさん見なさい。」でした。「マルテ」が二十八歳の時のメモを引用します。

 『詩は、年若くして書いたものでは何ほどのものでもない。それには待つことが必要だ。一生のあいだ、しかもできるだけ永い一生をかけて、意味と甘美を集めることが必要だ。そうしてはじめて、まったくの終わりに、あるいはりっぱな十行の詩が書けるかもしれない。なぜなら、詩は、人々が思っているのとは違って、感情ではない(感情なら、早くにも十分持てる)、詩は体験なのだ。詩の一行を書くために、人は多くの街を見なければならない。人々や、物や、獣たちを識らなければならない。鳥たちの飛翔の仕方を感じ取らなければならず、小さな草花たちが朝開くときの身振りを知らなくてはならない。見知らぬ土地の道を、思いがけない邂逅を、おもむろに近づき来る別離を、思い起こすことができなくてはならない。――まだ解き明かされていない幼かった日々を、(中略)人は多くの愛の夜々の、一夜一夜がそれぞれに違っていた愛の夜々の思い出を、陣痛の苦しみに喘ぐ女たちの叫びや、肉の閉じるのを待ちつつ眠る、かるがると白い産褥の女たちの思い出を、(中略)しかしまた、臨終の者たちの枕辺にいたころもなければならないし、(中略)そしてそれらの思い出が忘却のかなたからふたたびよみがえる時を待つ、大きな忍耐を持たなければならないのだ。』

 新川さんは近代詩の時代から詩作の出発をされて、「荒地」を中心とした「戦後現代詩」に移行する流れのなかで、戸惑いつつも、女性だけの持ちうる感性の豊かさを守りつつ、繰り返し「愛」を問い続け、書き続けていこうとなさったようでした。そしてそれは女学校が軍需工場と化し、校庭はカボチャ畑となり、勉強よりも勤労を強いられた時代からの開放でもあったわけです。

 また新川さんは作詞家ではありませんが、多くの作曲家に愛されて、書かれた詩が「歌われる詩」となったことでした。また校歌作詞の依頼も多く、それもかなり自由に書くことが許された詩となっています。また少年少女雑誌への詩の連載、新聞への詩の連載など、「多くの読者へ届く詩」を書かれた詩人なのです。これはとても詩人として大切なことだと思います。街のレコード屋さんで、偶然に聴いたご自分の「歌われた詩」を聴いた時の歓び、あるいは中学校へ招かれての講演の折に、新川さん作詞の校歌を歌う会場いっぱいの生徒たちに迎えられたことの歓びなどを書かれています。

 さてこのサブタイトルとなっている「いのちの詩学」は、新井豊美さんがこの著書に寄せられた六ページの新川和江論のタイトルなのです。新井さんはここでこのように書かれています。

 『新川さんが「戦後現代詩」に感じた違和は、一言で言えば生きている人間の「いのち」という確かな手ざわりを欠いた、その意味で空なる「観念」の言語に対する違和であり、それに向かって彼女は「愛」という「いのち」そのもの、その全体性を提出してみせたのだ。』

 さらに続いて石原吉郎の言葉が引用されています。

 『新川和江にあって、愛とは地軸の傾きと同義であって、修正の余地のないものである。』
 この石原吉郎の言葉は美しい。

 最後にこれに触れなければ、わたくしが書く意味はありません。それは一九八三年から十年間、吉原幸子さんとともに主宰された季刊誌「ラ・メール」の存在とその大切な十年の時間です。この「ラ・メール」は「現代詩手帖」と良い意味での拮抗した存在として誕生しました。そこに集う女性たちは、ある時には赤子を負ぶって出席する方がいらして、赤子が泣き出すとあわてて部屋を出ようとするその女性を皆が引き止めるという光景があったり、フロアーで赤子のむつきを取り替えるという光景もありました。こうしてわたくしは新川和江さんから、たくさんのことを学びました。新川さんのもとから生意気にも「自主卒業をします。」と告げて離れたのは七年くらい前だったでしょうか?新川さんがわたくしの唯一の師であったからなのです。詩を書きながら今でもそばに新川さんの気配を感じます。最後にわたくしの一番好きな新川和江さんの詩をご紹介致します。


   胡桃   『はね橋・一九九〇年・花神社刊』より

   梨畑では梨が甘くなってゆく
   葡萄園ではむらさきの房がずっしりと重くなってゆく
   それらと釣り合う甘味と水気と重さを内に蓄えることが
   世界と調和するわたしの唯一の方法だった
   けれども深まりつつあるこの秋には
   わが脳髄よ 森の胡桃のように
   よく乾いて落ちることを考え 企てなさい
   こまやかに山河を刻んだミニチュアの地球儀になって
   草むらで この天体と同じリズムで
   ひっそりと
   回り続けるであろうこれからの日と夜を夢みなさい


    (二〇〇六年・思潮社・詩の森文庫E08)
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