Mar 29, 2008

ベルト・モリゾ    坂上桂子

morizo

 サブ・タイトルは「ある女性画家の生きた近代」となっています。ベルト・モリゾが日本に本格的に紹介されたのは意外にも最近のことでした。二〇〇四年一月東京都美術館で開催された「マルモッタン美術館展」であり、モネとベルトを中心としたもので、ベルトの作品は四〇点展示され、その後京都、仙台、名古屋を巡回しています。

 この展覧会のカタログの監修にあたったのが、この本の著者であり、日本で初めて書かれた「ベルト・モリゾ論」となったわけです。坂上桂子がこの執筆にあたり、最大限の資料に触れ、研究された足跡がまとめられたものです。多くの関係者や研究者の協力があったことも明かされています。

 ベルト・モリゾは一八四一年生まれ。ルノワールと同じ年に生まれています。三人姉妹の三女として、裕福な家庭に育つ。この時代のこの階級の娘たちの「花嫁修業」の一環として、「美術」もあったということで、特別な出会いではない。母親は娘たちのさまざまな修業のためには、よき師を捜す。そのモリゾ家の次女エドマと三女ベルトが、「絵画」に強く惹かれ、才能を開花させたが、この時代に女性が「画家」となることはとても困難なことで、美術学校にすら入学できない。個人的に画家に指導を受け、ルーブル美術館で「模写」による勉強などに専念した。

 エドマは結婚とともに「絵画」をあきらめるが、ベルトはあきらめずに絵を描き続け、当時「印象派」といわれたグループに入る。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めたこともあります。マネとの恋仲を噂されることもあったが(これに関してはこの本では触れていないが。。。)、一八七四年に彼の弟ウジェーヌ・マネと結婚、一八七九年に娘ジュリーを出産。ウジェーヌは一八九二年に亡くなるまで、ベルトのよき理解者であった。ベルトは画家としても、女性としても幸福な人生であったのではないかと思える。それは画風にも表われて、「メアリー・カサット」とは対照的な位置に立った画家とも言えるかもしれない。まだ男性中心の十九世紀における女性画家ということもあって、フェミニズム研究の対象とも言えるだろう。

 モリゾの画家としての視線はさまざまであり、まず結婚とともに「絵画」をあきらめた姉と子供。夫と娘。家で働く女性たち。舞踏会や観劇などで、男性の注目にさらされた女性ではなく、出掛ける前の女性の支度の様子などなど、女性の目でしか見えない女性(夫以外は。)を描いた作品が多い。上に挙げた「自画像」は一八八五年、四十四歳のベルトだが、華やかさを極端なほどに排除し、意志の強さが表出された作品となっている。これがベルトの女性画家としての姿勢であろうと思われます。風景画ももちろん描いていますが、長くなりますのでここでは省きます(^^)。

 モリゾは一八九五年、娘の看病によって、五十四歳の若さで亡くなっています。モリゾの死後、マラルメ、ドガ、ルノワールは、十六歳で孤児となったジュリーの後見人となる。ジュリーは同じく「印象派」の画家アンリ・ルアールの息子エルネストと結婚している。最後まで読んで、わたくしが思うことは「女性画家としての創作の苦しみは終生続いたとしても、母子共に、とても人々から愛された人生だった。」ということ。これはとても大切なことだと思えます。

 しかしながら、これは「坂上桂子」による「ベルト・モリゾ」像であることに注意深くありたいとも思いました。

 (二〇〇六年・小学館刊)
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Mar 06, 2008

ルノワール+ルノワール展

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 渋谷のBunkamura・ザ・ミュージアムにて、「ルノワール+ルノワール展」を観てまいりました。だんだん春めいてゆく季節に、この展覧会は楽しみに待っていました。素朴で愛らしく、ふくよか、ひかりを纏ったようなうつくしい肌の女性たちと子供たち、そしておだやかな風景・・・・・・ルノワールの絵の前に立つと、女性に生まれたことを祝福したいような気持になります。うつくしい女性画、風景画なら他にもたくさんあるのを知らないわけではありませんが。。。

 今回は、印象派を代表する画家の一人、ピエール=オーギュスト・ルノワールと、彼の次男であり、映画監督のジャン・ルノワールとの「ルノワール+ルノワール展」というわけで、父の絵画と息子の映画を同時に紹介するものでした。二〇〇五年パリで開催されたもので、オルセー美術館の総合監修とのことです。

 画家ルノワールは、家族の肖像を好んで描き、妻アリーヌ・シャリゴ、後に俳優となる長男ピエール、次男で映画監督となるジャン、三男の陶芸家となるクロードの姿が何度も登場します。「家族の肖像」「モデル」「自然」「娯楽と社会生活」と四つにわけて、二人の作品を同じテーマで絵画と映画を対比させることで、親子間の根底に流れる共通性を明かしています。ジャンが残した映画には、父が愛したひかりや色彩がそのまま投影されているかのようでした。投影ではなくて、ジャンの映画には父の絵画のひかりと色彩が再現されている、という方が適切でしょうか?目に見えない父と息子の絆、そして「画家の家族の肖像」を見るようでした。

 数日前から、ルノワールと同じく「印象派」の時代を生きた女性画家「ベルト・モリゾ」の評伝を読みはじめたのは全く偶然の出来事です。二人は同じ一八四一年生まれです。これはおそらくまだ女性画家が認められていなかった時代を生きた「女性画家の家族の肖像」となるかもしれません。いずれまた、この本について書いてみたいと思います。
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Mar 03, 2008

自由死刑   島田雅彦

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 人間が「自殺」に最も縁が深いのは思春期であり、その次が四十代だと言われています。この小説は島田雅彦(一九六一年・東京生まれ)が、その四十代を迎える前の精神上の危機管理を図るために、自らが「自殺」を考えること自体に飽きておく必要性から生まれたものだったようです。

 理由もわからずに「自由死刑」を言い渡された三五歳の独身男性が主人公。それまでの仕事は健康食品のセールスマン。言い渡される理由もない。言い渡した人間も居酒屋にいた赤ん坊であり、法廷ではない。人間は誰しも罪深いものですが、この「自由死刑」を宣告されるほどの罪は犯していない。そしてその死に方は強制的な「死刑執行」ではなく、一週間の間に自分で死ぬことでした。これを「何故?」と訊かれても困る。つまりそれからの一週間、三五歳の独身男性がたどる物語を作家が書き始めなくてはならないからでしょうね。。。

 ここからが作家の想像力が試されるわけで、一週間という制限のなかで人間がどのように生ききるのか?あるいは死にきれるのか?一章の金曜日夜からはじまって、曜日毎に次の金曜日夜まで、そしてそのあとに「SOMEDAY」、合計九章の小説になっています。
 これを特異な世界とはせずに、木曜日までは書いた。平凡な三五歳の男性が、多分死ぬ前にやっておくであろうと思われる出来事にすぎない。あるいは「死」を覚悟すれば、人間はこれくらいのことは出来るであろうというほどの日々である。「生命保険屋」「秘密の臓器移植売買業者」「外科医兼殺人鬼」の登場。そして百万円ほどの預金を持った三五歳の男の「ありふれた酒池肉林」などなど。。。

 しかし予定の金曜日に、車ごと海に飛び込む「自殺」に失敗した(つまり、半自殺状態です。)男性が、本当の「死」に向き合う「SOMEDAY」が書き加えられています。ここで人間は初めて「死」の困難に遭遇するわけです。しかしこの小説の最後は「主人公は死んだ。」とは書かれていません。「ヘリコプターの音」「人の声」という暗示。そして最終行は「ここは何処だ。まだ”あいだ”か?」でした。

 ここでわたくしは島田雅彦の弁護人になり(^^)、最後に彼の一文を引用しておきます。

 『もし、虚無が癌や免疫不全を引き起こすウィルスの仲間であるならば、宿主の細胞に忍び込み死に至らしめてくれるものならば、歓迎もしよう。でも虚無は何もないってことだ。何もないくせにあらかじめ全ての結論にするのは詐欺だ。その時、虚無には怪しい実体がつきまとっている。本当の虚無は死に結びつくことはない。ただ清らかなゼロとして、無限の彼方に漂っているはず。虚無と諦めは違う。思考停止と虚無も別物だ。(中略)それは虚無と死の本来の結びつきではない。あいだになにか邪魔が入っている。そいつをつまみ出してから、清らかな無限のゼロと一体化したい・・・・・・(中略)虚無は汚れている。虚無の発見以来、人はわけのわからない衝動やモヤモヤした気分を全て虚無に委ねてきた。結果、虚無はファンシーグッズになった。』

   (一九九九年・集英社刊)
Posted at 16:00 in book | WriteBacks (0) | Edit

Mar 01, 2008

世界らん展日本大賞 2008

 今年で十八回目なるという比較的長い歴史を持つこの展覧会に、去年より幸運にも招待状を頂けるようになって、二度目の「らん展」に行ってまいりました。会場は東京ドームですので、かなり大掛かりな展覧会です。一度目の感動新たに、という気持がありましたが、どういうわけかそうはいきませんでした。「花酔い」あるいは「花疲れ」というような状況に陥った自分自身に驚きました。
 一年歳をとったせいなのか?あるいは体調不良か?二度目ということの重複する感覚の重さなのか?会場を出てからお酒を呑む気分にもなれず、軽い食事とコーヒーで済ませました。幸い相手が禁酒中でよかったけれど(^^)。。。

 これでは必死で期間中咲いている蘭たちに申し訳ないと思います。幸いにしてここは撮影自由ですので、しっかりとカメラにおさめてまいりました。膨大な量の画像を整理しながら、アップで撮影した花には、美しさの毒のようなグロテスクさに再会したりして、また疲れてしまって捨ててしまった画像も多くでました。ごめんなさいね。花の美しさ、華麗さ、豪華さ、こういったものは過ぎたらいけませんね。花は本来「生殖器」なのだと奇妙に実感した時間でした。あああ~~。

 ではほんの一部だけの紹介ですが。。。

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Posted at 14:34 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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