Jul 31, 2005

『どんな目に遭ってもいい』

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 二〇〇四年十二月、詩人石垣りんさんは、心不全のため八十四歳で逝去されました。二〇〇五年五月に「現代詩手帳特集版・石垣りん」が出版されました。当然ながら、石垣りんさんはわたしの「大切な詩人」の一人でした。あらためてこの特集号を読みましたが、そのなかで「天声人語」のかつての執筆者である栗田宣氏の追悼文に立ち止まりました。栗田氏は石垣りんさんの詩を愛し、「天声人語」に引用しながらも、石垣りんさんにお目にかかることをこわがっていらしたようです。
 しかし幸いにも新聞社に石垣りんさんが訪問される機会に恵まれて、お話をなさったそうです。その時栗田氏は石垣さんに「なぜ詩を書くのか。」と問うたようです。その石垣りんさんの答えは、大変わたしには鮮烈でした。そしてそれはとてもあたりまえなことなのだとも思いました。

 「長いこと働いてきて、人のしたで、言われたことしかしてこなくてね。でも、ある時点から自分の言葉が欲しかったんじゃないかな。何にも言えないけれど、これを言うときはどんな目に遭ってもいいって」

 栗田氏はこの言葉に対して「私などは生涯吐かないし吐けない」と書いていらっしゃいますが、わたしはこの詩作者の決意はまっすぐに同感できました。それは卑屈さの匂う言葉ではなく、「個」として立つための清潔な言葉の響きでした。
 石垣りんさんの詩を何年もの間、繰り返し読んできました。そしてわたしの生きた時間のなかで共振できる詩はわずかづつ違ってゆきました。今、わたしの心をとらえているのは「島」という詩です。その最終連はこう書かれています。

   姿見の中でじっと見つめる
   私――はるかな島。
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Jul 29, 2005

昼顔と蝶&ナナフシ

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 (撮影 ガラクタ箱さん)

 この写真に出会ったのは昨年の七月でした。ずっと忘れられなくて、今年はお願いしてこの写真の転載許可を頂きました。ありがとうございました。ガラクタ箱さんのホーム・ページはここです。


     昼顔や神の一日のたなごころ

     昼顔の咲きのぼりゆく天の端

     nanafusi

 ガラクタ箱さんから、ナナフシ(カマキリではありません。)の画像も頂きました。これは今年撮影されたものです。まさに「擬態」ですね。木の枝か竹のように見えますが、虫です(^^)。
 ナナフシは『七節』で、節足動物のナナフシ目に属する昆虫の総称のようです。「七節」は体節が七つだからではなく、「七=たくさん」ということで「たくさんの節を持つ」昆虫と言う意味らしいです。
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Jul 25, 2005

海のおみやげ

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 鱗造さん、桐田さんの式根島と新島旅行のおみやげのさまざまな貝です。この貝さがしは結構ご苦労なさったとのこと、まことにあいすみませぬ(^^)。
 ほぼ中央に写っている紫色の貝は指輪(ちょっと大きいかしらん?)にしたいほどきれいです。あんまりきれいなので、実はお二人ともおみやげにくださるのに、悩んだらしいのです(^^)。重ね重ねあいすみませぬ。この貝の名前を聞きわすれました。目下問合せ中です。

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 貝の裏表はどちらなのかわかりません。少しピンボケですが、このような感じです。
 桐田さんにお聞きしましたら、貝の名前は、タカラガイ(宝貝)だそうです。模様がきれいなので、古代中国では貨幣の替わりに使われ、ハチジョウタカラと呼ばれるものなど大型の種類は「コヤスガイ(子安貝)」とよばれて、安産のお守りにされたらしいとのことです。ネットでいろいろと調べてみましたが、こんなにきれいな貝は見ませんでした。なんとなくありがたさが増した感じなり(^^)。

ここに宝貝の歴史などが書かれています。ご参考までに。。
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Jul 23, 2005

地震メモ

 今日の午後4時35分頃、おおきな地震がありました。わたしのところでは震度5弱、本棚は無事、しかし本棚に入りきらずに床に積み上げていた本は雪崩をおこしました。台所は無事。タンスの上に置いてある小さな仏壇は位置がずれましたが、落ちることはまぬがれました。とうさま、かあさま、ねえさま、ごめんなさい。それからテレビの上の時計が落ちました。回転木馬付きのちいさなからくり時計です。

 わたしの人生のなかでは一番おおきな地震体験でした。震源地は千葉です。

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Jul 22, 2005

モンゴル

 1999年の8月に行ったモンゴルの写真を、スキャンしてみました。その頃は、多分パソコンは持っていましたが、こんなことはできなかったし、スキャナーも使えませんでした。新しく設置したばかりの電話機と繋ぐと、スキャンが楽にできるようになりました。パソコンで書いた原稿はそのままファックスで送れるらしいし、新機能搭載電話。使いこなすのがまたタイヘンである(^^;)。。。

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 このゲルはモンゴル草原の人々のものではなく、旅行者用に用意されているものです。後ろに見える建物はレストランやトイレ、バスなどが設置されています。ゲルの中には、ベッド、戸棚、テーブル、椅子、ストーヴなどがあるだけです。草原の人々のゲルは、このように密集していなくて、遠い距離をおいて点在しています。

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Jul 20, 2005

詩人の食卓  高橋睦郎

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 これは詩人高橋睦郎の七月から(何故七月からなのかはわからない。)六月までの、月一回の献立、それに添えられるお酒、さらに使用された器と、それらにまつわるエッセーという形になっている。食材、料理はうつくしく季節を語っている。またそれに関わった親族や友人とのエピソードなども書かれている。さらに「あとがき」に代えて、民族や宗教による「食物禁忌」に触れているが、高橋氏の知識の豊かさに今更ながら驚かされる。

 わたし個人のおおきな興味としては、一月のページに書かれている、高橋氏の祖母の厨についてである。この厨はわたしの理想とする形であった。それは母屋から独立した別棟の、叩き大工が板を打ち付けただけの安普請の小屋にすぎないし、煤だらけの戸棚や竈や流し台があるだけなのだ。わたしはこういう厨がほしいのである。そこで思い切り煙を出しながら、秋刀魚や鯖や鰯を焼いてみたい。大きなステーキを油をジュージュー飛ばしながら焼いてみたい。昨今流行の対面キッチン、オーブン・グリルなどは、わたしにとっては本当はクソ食らえなのである(^^)。

   この詩人の「食」と「詩」と「生」とを結びつけるものが何だったのか?それについてのみ記しておこうか。それはどうやら高橋氏の産土と深く繋がっているように思えるのだ。
 高橋睦郎は鉄の町八幡に生まれるが、六歳で母親と二人きりの貧しい生活がはじまる。そこは九州の門司であった。海の町である。「海」それはその果てしなさにおいて「詩」と似ているのだった。さらに戦時下の海は時として、瀕死の海の幸を岸辺にどっさりと届けた。これは申し訳ないほどにおいしかったと高橋氏は述懐する。海の幸は、地上の生き物との比較において人間と似ていない。人間の存在との類似性が遠いほど、人間は「食する」という「罪」を遠く感じるものであるらしい。また、母親と二人きりの生活のなかで、高橋少年は炊事も余儀なくされたわけである。これらのさまざまな記憶が「詩人の食卓」となったようである。

(1990年・平凡社刊)
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Jul 17, 2005

レオノール・フィニ展

 7月14日、渋谷Bunkamuraにて、レオノール・フィニ展を観ました。午後3時に同行者と、ハチ公口改札で待ち合わせしましたが、予定よりも早く着いてしまったので、わたしは同行者はまだ来ていないと思い込んでいました。改札口を出てから、Suicaをお財布にしまいつつ、うつむいて歩いていましたら、人にぶつかってしまった。なんとその方は同行者であった(^^;)。。。
 「まだ来ていらっしゃらないだろうと思っていたものですから。。。」などと言い訳しながら、お財布を鞄にしまうことに気をとられていたら、今度はころんでしまった。道に段差があることに気付かなかった。。「あなたは改札を出てすぐにSuicaをお財布にしまう癖があるでしょう。それが危険なのですよ。」とお説教を頂く。
 これから絵画を観るのに1時間くらいは歩くだろう。幸い足はくじいていない。お気に入りの黒のパンツも被害は被っていない。やれやれ。前書きが長い!

 さて、レオノール・フィニである。この自画像のように個性的でうつくしい女性画家である。「○○派」「○○ニズム」というものに常に距離を置いて、独自の世界を築いた画家であり、舞台衣装家であり、仮面作家でもあった。
 また、時代の変遷、自身の生き方の転換の時、見事なほどに作風を変えていった画家であったと思う。

付記:この画像は、会場で買い求めた一筆箋にあったものをスキャンしました。 fini-s fini2

 向かって左側が「自画像」、右側は「沐浴する女たち」です。
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Jul 16, 2005

夏の海

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   海辺に立つと
   わたしの内の羅針盤が
   ぐらりと傾く
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Jul 15, 2005

人間は。。。

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 人間はかくも哀しく残酷なものである。


 人間よ、汝、微笑と涙とのあいだの振り子よ。   バイロン
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Jul 07, 2005

七夕

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 笹に短冊、願い事。お供え物ってあったかしらん?杏はいかが?

     無事逢えた?天の水音さささらら   昭

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 七月三日のわたしのお誕生日以後に、過去約一年間に書いた「読書感想文」と「映画感想文」と「雑記」を一挙にここに引越しをさせて、「高田昭子日記」を閉じました。どうぞよろしく。
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センセイの鞄  川上弘美

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大分以前に読んだこの小説は、定年退職して数年、そして妻に出奔されてから数十年の元教師と、そのかつての教え子である独身三七歳の女性との遅々とした恋物語である。おそらく大方の読者はこの素朴で実直な教師の人間像に好感の目を向けたことだろう。しかし、わたしは男性の「性愛」に対する考え方の大きな間違いを見る思いがした。初老の元教師は自身の性的能力への衰えと不安から、「恋」へなかなか進めないでいる。女性は「そんなこと。」とこだわらない。女性が求めたものは「男性の性的能力」などではなく「心を満たす安らかな抱擁」だけだったのではないか?

イギリスの作家D・H・ロレンスは、性のキリスト教的な考え方への反論として、「性交とは、人間的感情の交歓、男女の対等な文化の交流である。」と主張していました。またアメリカのジョン・ノイズは「性愛は生殖とは分離されうる。」という考え方を示しています。さらにポリネシアの人々のあいだでは「先祖の霊が目覚めて我々の結合を祝福してくださる時間を待つ。」という考え方もあります。性愛の根底に男性が「性的能力」を意識するのは、そこに「生殖能力」と重ね合わせてしまうという非常に原始的な感覚から脱しきれていないからではないではないか、と思ってしまう。

ともあれ紆余曲折ののち二人は突然肉体的に結ばれる時が訪れるが、それも束の間、ドラマの最後はセンセイの「天寿全う」とは言い難い死で終る。なぜ作者はこの主人公を死なせて、女性を一人生き残したのか?わたしはドラマの結末を「死」で終らせる作家がすごく嫌いなのだ。二人が共に老いさらばえてゆく過程をやさしく見守り、書きついでゆく作家の心と眼が欲しい。(こんな時代だからこそ。)センセイは愛用の鞄を彼女に残したが、なかは空っぽだった。一人生き残された彼女のこれからの人生は永い。あっけなくセンセイの死でドラマを締めくくるな。
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スキャンダル

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いいえ、わたしのことではありません(笑)。映画のタイトルです。NHKで放送されている連続ドラマ「冬のソナタ」の主人公「ヨンさま」が、挑んだ18世紀の朝鮮時代の架空の物語です。退廃的な上流社会を厳しく暴いたフランス映画「危険な関係」を朝鮮に置き換え、試みた映画でした。
「ヨンさま」演じる領主はプレイボーイで、「ゲーム」のように次々に女性を虜にし、その女性の裸体や性愛の様子を絵にするという日々を送っている。そして未亡人の清楚な女性をおとすゲームに挑み、女性の頑なな拒否をなんとかクリアして、彼は目的を果たし、そしてその女性を捨てようとする。しかしそれが真実の愛であったことに気づいた領主は彼女に逢いに行こうとするが、彼に嫉妬する男の怒りを買い殺されてしまう。それを知った彼女は後追い自殺をして終る。
領主が残した絵のなかで、彼女だけは衣装を纏った清楚なままの姿であった。

恋をゲームだと思う人間、恋を命がけけのものだと思う人間、どちらも救いがたく哀しい。


チマチョゴリとハングル語

過日電車のなかで、チマチョゴリを着た中年女性と中高生とおもわれる男子(こちらはワイシャツ、ズボン姿だが。)2名とが、ハングル語で語り合っているのを聴いていた。もちろん意味はわからないが、わたしはこの3人は母子だろうと思っていた。
しかし、わたし達が池袋で下車した折、その2人の男子だけが後から下車してきた。その途端に彼等は日本語で語り出したのだ。わたしの連れはそれに気付いて「ふふっ」と笑った。「なに?」とたずねると「あのチマチョゴリ姿の女性は母親ではないな。教師だよ。おそらく彼等は学校内では日本語を禁じられているんだろう。」と言う。ああ、そうか。言葉の統制が民族にとってどのようなことなのか?さまざまな思いが込められていることだろう。

わたしはチマチョゴリを着た女性を見ながら、あの服装の構造が知りたくなっていた。「チマ」は日本語で言えば「裳」のことか?今で言えば「スカート」の部分だが「チマ」はどうやら胸から下を覆うもののようだ。「チョゴリ」はとても短い上着で、到底胸の部分が隠せるようなものではない。ちなみに男性の服は「バジ・チョゴリ」と言うそうだ。

その「チマチョゴリ」の構造の謎は、映画「スキャンダル」が見事に解明してくれた。なにせ主人公のプレイボーイの領主が、次々に女性の「チマチョゴリ」を脱がせていくシーンが出てくるんですものね。
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びろう樹の下の死時計

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これは、谷川雁のエッセー集「工作者宣言」の最後に収録されているものです。ちなみにこの本は先輩からお借りしたものですが、発刊は昭和34年、文庫版で130円です。煙草のヤニと歳月によってかなり「バッチ―」状態。しおりの紐も千切れて短くなっている。よくぞご無事で……。でありますのでカバーをかけてからうやうやしく拝読いたしました。

これは「臥蛇島―がじゃしま」への紀行文です。「臥蛇島」は鹿児島県鹿児島郡十島村、東シナ海にあるトカラ列島の一つで、昭和45年からは無人島となっています。昭和34年(この本の発刊年。)14戸60人の暮らす「臥蛇島」へ谷川雁は訪れているわけです。月に一回不定期な汽船が通うだけのこの島に降りた途端に、死時計のように時間は茫洋とひろがるだけ。そこは極小の極限の寡黙な人間世界であった。約1ヶ月後にこの「臥蛇島」から帰った谷川は逆説のように「漂着」という言葉でそれを表現した。

「臥蛇島」の「食物」と「言葉」について少しだけ書いてみます。
このエッセーのなかで、わたしはふたたび「蘇鉄粥」という言葉に出会った。「どがき」「どうがき粥」あるいは「なりがい」とも読むらしい。土地によってはまた別の読み方もあるやもしれぬ。
数年前、わたしはある療養所にいらっしゃる方々(その半分以上はすでに鬼籍に入られた。)の書かれた過去70年間くらいの詩や俳句や短歌をたくさん読むという仕事をしたことがあります。その時に、沖縄の療養所の方の作品のなかで初めてこの言葉に出会いました。その折に、わたしは沖縄在住の詩人I氏にメールを送り、この「蘇鉄粥」について教えていただきました。

蘇鉄の幹と赤い実は澱粉質を含んでいるが、有毒なフォルムアルデヒドも含んでいるので、よく水にさらして澱粉質だけを採って、粥や団子や味噌として食したそうです。これは飢饉の時や、島の食糧が尽きて他島から食糧が運ばれてくるのを待つまでの非常食としてあったようです。この毒抜きが不充分な場合、それによって命をおとした人もいたようです。これは、沖縄に限らず、瀬戸内、奄美諸島、そしてこの「臥蛇島」にもあったのです。

さて当時の「臥蛇島」は灯台があるということが唯一の現金収入、あとは漁業、自然なままの林業、牛や山羊の牧場主なき牧畜(つまり、島全体が放牧場なのです。)そして収穫の乏しい農業と採取で人々の暮らしは成り立っていました。テレビは学校に1台あるだけ、そこはある意味での「コミューン」だったのかもしれません。しかしこう定義するのは外部の人間であり島民ではない。ここで谷川雁の言葉を引用すれば「そこで私たちは日本現代文明に対する黙々たる判決文を読むことができる。」のである。一つの文明国家の法律など及ばない未開の地域というものは必ず存在する。そこでは収穫された食糧は平等に分配され、老いた者や、男手を失った母子は壮健な働き手によって守られているのだ。そして大自然の掟に従順であることによって、そのコミューンは「文明の進歩」とは異なる独自の世界が成り立っている。おそらく「貧しさ」という言葉すら存在しないのだろう。これは「他者」との比較によって生まれる言葉だと思う。

ところで話は少し飛ぶが、ある詩人から、チベットの奥地の山村には「寂しい」という言葉がない、とうかがったことがある。「寂しい」とは文明社会が生んだ言葉なのだろう。人間が初めて発した言葉とはなんだったのか、というところまで想いは飛んでしまいそうだ。ちなみに「臥蛇島」の言葉はT音が未熟で「美しい」は「うちゅくしい」となり、「水」は「みじゅ」と発音されていたとのこと。

付記:この本の後にある「新刊案内」には「一億総白痴化」という言葉を生んだ加藤英俊の著書「テレビ時代」、そして「デモ・シカ先生」という言葉を生んだ永井道雄の「新教育論」がある。こんな時代に書かれたものなのだ。
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ハリー・ポッターと賢者の石

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この映画は2001年に作られている。この頃のわたしはどんなふうに生きていたのだろうか?と思ってみた。たしかこの映画の大きな看板(だったかな?)を新宿で見た記憶はある。「観たいな。」と思った記憶もある。本も拾い読みをした記憶はある。しかし、そのまま時は過ぎた。わたしは変わっただろうか?実は少しも変わっていなかったと、この映画が教えてくれた。

わたしにとってこの映画を観ることは「不安」の連続だった。その「不安」をこの魔法学校の少年少女たちは「勇気」とか「友情」とか「正しさ」とか「愛」に、それとは気づかずに導かれながら一つの生き方を掴んだのだった。そして晴れやかに新しい出発の列車に乗ったのだった。

しかしわたしのなかには「不安」だけが、産まれ出ることのない胎児のように残った。それは多分ハリー・ポッターの年齢だった頃から続いていること。いまさら始まったことではないが、それを眠っていた子供を起こしてしまったように、この映画が呼び戻したというだけだ。生きる「不安」は深く、砂の寝台のようなものだ。

2001年は母を亡くした年だった。すでに父は逝き、姉も逝ってしまっていた。なんだかとても辛い仕事をしていたような記憶もある。生きていることが、スカスカに寂しく頼りない時期だったような気憶もある。話題の映画を観ようと思う時期ではなかったようだ。

うむ。映画の感想がないな。魔法学校の少年少女たちの美しかったこと。「不安」を「勇気」や「友情」によって突破したことのまぶしかったこと。そして「愛」「限りあるいのちのいとおしさ」という基本命題のようなもの……かな?無論これを軽んじるつもりは絶対にない。
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母の日傘

 我が愛する(?)おじさまから古い貴重な本をいただいた。「をんなの四季―中村汀女、昭和31年・朝日新聞社刊」、汀女書き下ろしのエッセー集である。俳句はそのなかに配されている。つまり俳句の成り立ちがわかる仕組になっているのだ。
おじさま曰く「句集よりもこういう本がいいね。読者と書き手との自然な対話が成立する。」読みながらこの言葉を納得しました。主婦としての汀女の日々の出来事が丁寧な描写とおだやかな感性によって、とても美しい文章になっている。汀女は明治33年(1900年)生まれ。熊本第一高女卒。昭和63年(1988年)没。虚子の主宰する句誌「ホトトギス」が女性俳人輩出のために設けた投句欄「台所雑詠」から誕生した俳人の一人である。

この本のなかには、句会に出席してもいつも途中で抜け出して急いで帰宅する汀女がいる。それに不満や無念を抱きながらも、家族の夕餉を整えられたことに安堵する彼女もいる。また幼い子供が重い病にかかり、病院で手厚い治療を受けている最中、罪の意識にかられながらも、それを書かずにはいられない汀女がいる。静かな病室では鉛筆の音さえ響くのだった。

季節柄「日傘」にまつわる一文について書いてみよう。
炎暑のなか、日傘をさした見知らぬ母子の姿に出会う。その必死な姿に、汀女は自らの若い母親だった頃を思い、遠い土地に暮らす娘もこんなであろうかと思い、さらに母上の日傘の思い出へと、その想いの道のりを伸ばしてゆく。
麦刈りに忙しい村に帰省した汀女が、日傘をさした母上と別れてふたたび戻ってゆくときに歩くのは「堤」であった。この「堤」での別れは辛いものだ。お互いの相手の姿が見えなくなるまでに大層時間のかかることになる。しかし視力の衰えた母上の方が汀女よりもその時間が短いであろうことに不思議な安堵を覚える。「ここまで。」という地点も見つけにくい。母上が汀女と別れがたく送ってくれる道のりの長さは、母上の戻って帰る道のりの長さにもなるのだ。

そうして別れて戻ってゆく母上と汀女の間に、麦の穂束を満載した荷車が現れ、彼女は母上の後姿が見えないことにわずかに救われていた。そして村全体が麦刈りに忙しく活気に満ちていることにも救われている。手には母上と女中さんが作ってくれた車中の弁当が少し重い。

炎天を歩けばそゞろ母に似る   中村汀女
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夜学生  以倉紘平

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 これは、詩人以倉紘平氏の数編の散文詩とエッセーを収めた著書である。以倉氏は一九六五年から一九九八年までの三十三年間、大阪の釜が崎に隣接する府立今宮工業高校の定時制に国語教師として在職された。この著書は若かった以倉氏が「夜学生」と熱く関わり合い、その時間の経過とともに以倉氏が深い思いをこめて呼称した「夜学生」という言葉の風化と変貌をも見るに至るまでの記録である。それは、隣接する釜が崎の「ドヤ」の構造の変遷と連動しているかに見える。かつての木造の「ドヤ」は、宿泊者が雑魚寝できる広間があり、そこで彼等は呑み、語り合い、社会への怒りを結集させることもできた。しかし、それらの古い建物は次々に建て替えられて、狭い個室と蚕棚のような部屋とに分かれ、共有の広間を失ったかわりに部屋の差別が生まれ、彼等の怒りを組織することを阻んでいったのである。

以倉氏が熱く「夜学生」と呼ぶとき、そこに現れるのは、一九九〇年以前の苦学生の姿であろうか。実名を挙げて以倉氏が紹介している数名の生徒は、貧しく困難な家庭環境に育ち、家族を助けて働き、学び、それを「不幸」と受け止めずに生きた、様々な年齢の方々である。さらにその困難を超えて、社会人として必死に働き、新たに「聖家族」を築いていった人々である。ここで以倉氏は主張する。『口さがない評論家たちは、夜学生の夢の成就が〈小市民的な幸福〉にあったことに、皮肉や嘲笑をあびせるかも知れぬ。下積みの労働の何たるかも知らず、定職に就く忍耐力も持たず、おのれが〈選民〉たる妄想によって(略)左翼づらした言辞を弄してきたエセ文学者のなんと多いこと。』と。

以倉氏の教師生活の後半期である一九九〇年前後を境に「夜学生」の人数が徐々に減少してゆく過程で、定時制高校は全日制高校から逸れてしまった若者(あるいは高齢者の生涯教育の)の場となってゆく。背後にある家庭の貧しさも薄らいだ。さらに定時制から通信制への移行の動きも見えてくる。そこにはもうかつての「夜学生」は存在せず、人間関係を組織することの困難な生徒の「しらけ」が蔓延し「苛め」も起こってくる。「先生」も振り出しに戻されたかのように思える。しかし哀しいことだが、この生徒たちは、あの「聖家族」から育った子供の世代にあたるのではないだろうか?

   音もなく星の燃えゐる夜学かな   橋本鶏二

   翅青き虫きてまとふ夜学かな    木下夕爾

   悲しさはいつも酒気ある夜学の師  高浜虚子
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春日井健の「病」と「言葉」と「死」

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 歌人春日井健、1938年12月20日生まれ。2004年年5月22日、中咽頭癌のため死去、65歳であった。8月、思潮社より「現代詩手帖特集版・春日井健の世界」が発刊された。

太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ
愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河のありき

春日井健22歳の時の第一歌集「未成年」より。繊細と若い野性とが息づいているようだ。1960年という象徴的な時代にデビューしている。

さて、治癒することが困難とされてきた病には「結核」「ハンセン氏病」「癌」あるいは「被爆」また「風土病」や「環境汚染による病気」など、時代によってさまざまにある。これらの病は「不治」「遺伝」「伝染病」などという風説によって絶望的な時代をくぐりぬけた歴史もあり、病原菌の発見、新薬や治療法の開発によってその歴史を塗り替えられたこともある。しかし、病に苦しみ、自己の肉体の「生」と「死」を切り岸でみつめなくてはならないという状況が、人間には必ず訪れるということはいつの時代でも変わることはない。

そのような状況のなかで、「言葉」がどこまでそれを追い詰めることが出来るのか?あるいは現世と異界とを「言葉」がどのように交信できうるのか?「言葉」がどこまで肉体の生死から自立できうるのか?その答えのようなものを、春日井健の後期の歌集「井泉」「朝の水」から受け取ることができたように思う。それを3段階に分けて書いてみよう。

【闘病初期】
エロス――その弟的なる肉感のいつまでも地上にわれをとどめよ
扁桃(アーモンド)ふくらむのどかさしあたり襟巻をして春雪を浴ぶ
朝鳥の啼きてα波天に満つうたの律呂もととのひてこよ

【闘病中期】
井泉に堕ちしは昨夜(よべ)か覚めしのち生肌すこし濡れてゐたりき
太初(はじめ)に言葉ありしといへり伴へる声ありとせば明るかりけむ
濃き闇へ消えたる奔馬ふたたびを日表に出で光蹴立てよ

【闘病後期】
死の場所は聖められしかしろたへの乙女の泉湧きいでにけり
時じくの香菓の実われの咽に生れき黄泉戸喫(よもつへぐい)に齧り捨つべき
のどは暴(あば)ける墓とぞ嚥下できかぬる一句が夜のしじまをふかむ
宇宙食と思はば管より運ばるる飲食(おんじき)もまた愉しからずや
舌の根はもはや渇けりわれは神を知らぬ持たぬと呟きしゆゑ

以上11首を書きながら、思い出すのは「ハンセン病」を生きた歌人明石海人(1902〜1939)のこの短歌である。このときすでに海人はすでに失明している。

いづくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ  明石海人

人間が「病」「死」を見つめなければならなかったとき、その苦痛や不安や絶望感から「言葉」はどこまで透明となれるのか?そのいのちがけの言葉の作業の結果を死後に見つめるという、なんとも哀しい作業をわたしはしているのである。誰のために?誰のためでもない、いつか訪れるわたしの死のために。
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吉本隆明の読む明石海人その1&2

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吉本隆明の読む明石海人―その2


(つづく)と前期してしまった以上、書かずばなるまい。何故こんな大変なテーマについて、無力なわたしがあえて書くのか、自分でもわからないのだが、無力を承知で書くしかないのだ。少しだけ明石海人についての簡単なメモも書いておこうか。海人は1901年生まれ、1926年頃にハンセン病を発病、1933年作歌を始める。1939年逝去。下記は歌集「白猫」に書かれた明石海人自身の言葉です。(抜粋)

『第一部白描は癩者としての生活感情を有りの儘に歌ったものである。けれども私の歌心はまだ何か物足りないものを感じていた。あらゆる假装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思いの儘に飛躍させたい、かういう気持ちから生まれたのが第二部翳で、概ね日本歌人誌に発表したものである。が、仔細にみれば此處にも現實の生活の翳が射してゐることは否むべくもない。この二つの行き方は所詮一に帰すべきものなのであろうが、私の未熟さはまだ其處に至ってゐない。第一部第二部共に昭和十ニ年乃至十三年の作で、中には回想に據ったものも少なくない――昭和十四年一月、長島愛生園にて。』
この歌集が出版されたのは2月、この年(1939年)の6月に明石海人にこの世を去った。

さて、吉本隆明は一旦は明石海人の短歌の昇華を見たようだが、さらに別の視点から考察を続けた。たとえば短歌的声調をを整えてはいるが、修辞的な統合を欠いた作品が海人の短歌に頻出することが、吉本にはどうしても気がかりだったらしいのだ。下記の短歌は吉本がその例としてあげた作品の一部である。

(1)銃口の揚羽蝶(あげは)はついに眼(ま)じろがずまひる邪心しばしたじろぐ
(2)水銀柱窓にくだけて仔羊ら光を消して星の座をのぼる

(1)については、わたし自身は、詩「韃靼海峡と蝶―安西冬衛(1898〜1975)」の最後の一節である『すると一匹の蝶がきて静かに銃口を覆うた』をふと思い出すが、この関連性については残念ながら、わたしには裏付けはとれない。

そして、吉本隆明は一気に明石海人の短歌から彼の散文詩へと飛ぶ。この散文詩こそが明石海人が自己についても自己の死についても、非常によく相対化されていると吉本隆明は断言するのである。海人の短歌の特徴である「過剰性」は、短歌のなかに散文的な資質が内包されていたことに起因するのかもしれない。

明石海人が生きた時代は、ハンセン病は絶望的な病気であり、さらに社会からの隔離、隠蔽が強いられた時代である。作歌の手法としても、過剰と思えるほどの意味づけへの欲求がありながら、それを押しとどめることを余儀なくされたという「理不尽」が明石海人の短歌の混迷を生んだのではないだろうか?ともわたしには思える。その理不尽の一例はこれだ。

そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる

みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

ふぅ〜〜疲れた。とても書ききれるものではないなぁ〜。わたしの未熟さはわたしが一番よくわかっているが、それでも書いておかなければ先へ進めないという思いがあるので、書いておきました。最後にこの一首を置いて、とりあえずこの項を終わることにする。

いずくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ



吉本隆明の読む「明石海人」―その1


吉本隆明著「写生の物語・講談社・2000年刊」は、短歌と和歌に関する評論集である。このなかで吉本は歌人「明石海人」について書いている。この章はわたしがここ数年胸のうちで「病と言葉との関係」について揺れ続けていた疑問への解答をいただいたような気がするのだ。吉本は海人の作品を「療養所文学」あるいは「ハンセン病」という括りのなかで読んだのではなく、「困難な病と言葉との均衡関係」について書いているのだ。……と言ってもこれについて書くことはちょっとしんどいけれど、ま、書いてみようか。わたしは下記の一首が明石海人の歌人としての個性をもっともよく物語っていると思うが、どうだろうか?

あかあかと海に落ちゆく日の光みじかき歌はうたひかねたり

まず、吉本隆明は明石海人の短歌を、ハンセン病の初期症状の段階と非常に病状が進んだ時期に書かれたものを、分けて批評している。初期の明石海人の短歌は、病への恐怖と絶望感のなかにあっても精神の均衡は整っていたので、作品の透明感はこの段階では保たれていると吉本は見るのだ。まず初期の短歌を。

人間の類を遂はれて今日も見る狙仙(そせん)が猿のむげなる清さ
診断を今はうたがはず春まひる癩(かたい)に堕ちし身の影をぞ踏む

しかし、吉本は海人の病状が進み、意識不明に陥るような状況が頻発する時期に書かれた短歌は、その痛切さのために短歌にあるべき音韻とリズムの乱れが見えてくるというのだ。この時期の海人の短歌にはたしかに一首に盛り込むことが不可能と思われるものを盛り込んでしまったという「過剰性」が見られる。この特徴が海人自身の個性によるものか、彼のおかれた状況の痛切さによるものなのかを「解体」するために、吉本は海人の「叙景歌」のみを引き出してきて考察を試みるこというもしている。そこから吉本は海人の歌人としての資質を探ろうとする。下記の短歌(1)(2)は病状の深刻な時期に書かれたもの。(3)は叙景歌として抜き取ったものである。


(1)しんしんと振る鐸音に我を繞りわが眷族(うから)みな遂はれて走る
(2)息つめてぢゃんけんぽんを争ひき何かは知らぬ爪もなき手と
(3)庭さきにさかりの朱(あか)をうとみたる松葉牡丹はうらがれそめぬ

そして吉本は下記のこれらの短歌に出会って、ようやくほっとする。ここには音韻とリズムが充たされたのちに、明石海人の短歌は天上に届いたと一旦は断言するのだが……。

鳴き交すこゑ聴きをれば雀らの一つ一つが別のこと言ふ

嚔(はなび)れば星も花瓣もけし飛んで午後をしづかに頭蓋のきしむ

(つづく)
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Jul 06, 2005

海の仙人 絲山秋子

05-6-30kutinasi

 わたしはたくさんの書物を読むことのできない人間ですので、よい出会いをした書物には深く関わりたいと常に思います。これはとても「よい出会い」の物語でした。「ハッピー・エンドで終わる物語がいい。」これもわたしの基本。

 一旦読了して、わたしの心にはじめによぎった思いは、ひととひととの間にはお互いへの「愛」に気づく最も適切な時間が用意されているわけではない、大抵は遅れてくるもののようだということでした。さらにまた「死を待つ」こと、あるいは「愛する死者に追いつくこと」が人間の生きる希望に外ならないのではないかと。人間が「愛を生きる。」ということは、永い人生のなかのほんのわずかな時間、しかもそれは終末期なのではないか、とも思いました。

 詩人天野忠には「端役たち」という作品があります。これは地獄の門の前でやっと出会う男女が互いに「お変わりありませなんだか?」「おかげさまで。」と深々と挨拶を交し、鬼の小役人にやさしく「おいで。」と招かれるというものです。この詩は永いあいだわたしの心の奥に棲んでいて、事あるごとに表れるのです。「海の仙人」もまたそれを呼び出しました。

 さて、この小説の主人公とは、海辺の町で仙人(アウトロー)のように暮らしている男性河野です。実は宝くじに当たり、今までの平凡なサラリーマン生活にピリオドをうち、次に生きる場としてそこに棲みついたのです。さらにそこにふわりと棲みつき、あるいは消える「ファンタジー」という神様(のような……。神通力皆無。)との共同生活を軸にして、河野の二人の独身女性とのセックスレスの交流を静かに展開させています。河野の棲んでいる「水晶浜」と「水島」とを繋ぐ唯一の船主村井の存在も静かであたたかい。

 この「海の仙人」とその棲家を「安息の場」として「かりん」と「片桐」という二人の女性(と言っても二人の間には具体的な交流はないのだが。)は訪れる。共にキャリアを積んだワークウ―マンです。「安息の場」が女性ではなく、仙人暮らしの男性であるという物語の設定は不思議に無理がない。「かりん」は乳癌で亡くなる。その看病期間が「かりん」と河野とのわずかな「愛の時間」だった。その後、河野は落雷による失明、ラストシーンは「かりん」が現れるずっと以前から河野を愛し続けていたもう一人の女性「片桐」が河野の元に来る。空には雷雲が……。

 この物語のなかでは誰一人として心は傷つかなかった。「かりん」の死による河野の悲しみ、「片桐」の河野への片恋の淡い哀しみは、決して「傷」ではなかった。読了後の心地よさはここにあったと思うのです。そしてなによりもこの「海の仙人」という物語とわたしの出会いは最も適切な時間に実現したのです。女性という片側の性だけを生きてきたわたしが、ひととの関係性のなかで身篭ってしまった「孤独」「叶わぬ願い」「傷」、それが癒されたわけではないのですが、どうやらこれからの日々を生きるための「やさしい背骨」を頂いたようです。この物語に連れていって下さった方に感謝いたします。

(2004年8月・新潮社刊)
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袋小路の男  絲山秋子



 この小説の扉には、ロレンス・ダレルの「ジュスティ―ヌ」の一節が置かれている。『「女に対してすることは三つしかないのよ」そうクレアはある時言った。「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」』……これを「女」を「男」に置き換えてみるのはどうだろうか?

 『あなたは、袋小路に住んでいる。つきあたりは別の番地の裏の塀で、猫だけが何の苦もなく往来している。』……と始まる小説である。主人公は「私」。『それでもくじけない。どこかの作家が言っていた。「もっともゆたかな愛は時の仲裁に服するものである」って。私の味方は時間だ。今はだめでもきっといつか。』……中間部では「私」はこんなつぶやきをもらした。
 
 読み終えてわたしはこの「私」を哀しんだ。愛している「あなた」は約束を次々に破ってばかり、長い期間放っておかれたり、気まぐれに呼び出されたり、すべてを「時の仲裁」に服して生きている「私」。これは「純愛」ではない。「私」の生きている「存在証明」を「あなた」に仮託しているだけではないのか?しかもこの「あなた」は「私」が無意識に作りあげた「袋小路」から抜け出ることをしないのだ。「私」は傷だらけの自分に気づいていない。

 この本にはもう一編「小田切孝の言い分」が収められている。主人公は「あなた」から「小田切孝」に代わる。そして「私」は「大谷日向子」として登場する。「袋小路の男」の物語が裏がえされたように展開する。ここでわたしの「哀しみ」は少しだけ救済される。物語の最後では「小田切孝」は「大谷日向子」の愛を受け入れるからだ。決して「結ばれる」という形ではないが……。

 女性が仕事を持ち、一人で生きてゆける時代は来たが、しかしこの女性たちの生き方が真の自立というものではないのだと思えてくる。出会う男性がやはり女性の生き方に大きく影を落しもするし、振りまわされもする。かつての「男尊女卑」の色濃い時代を生きた女性たちよりも、はるかにあやうい生き方をしているように見える。彼女たちは決して「新しい女性」でも「自立した女性」でもないようだ。

 この本にはさらに短篇「アーリオ オーリオ」が収められている。主人公「松尾哲」は清掃工場の機械制御室に勤務する中年男性。「美由」は哲の姪(中学3年生)である。ある日二人はプラネタリウムを観に行く。その時の哲のランチ・メニューが「アーリオ オーリオ エ ペペロンチーノ」だった。これはオリーヴオイル、ニンニク、唐辛子だけで作るスパゲティー料理の名前である。それから二人は文通を始める。すべてが「宇宙」についての話題であった。「破壊」や「消滅」をこわがる少女、「今我々が見ている星の光は、すでに破壊した星の光ではないだろうか。」と思う男とのやさしさに満ちた文通だった。この三篇目でわたしはようやく微笑むことができたようだ。

 この三篇に共通するテーマは、ある意味では社会の背面のようなところで生きている男性が、女性の生き方を目には見えないようだが、しかし大きく揺さぶりをかけているというところにあるように思える。

(2004年10月29日・講談社刊)
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『またの日の知華』

 

 これは、ドキュメンタリー映画の鬼才といわれる映画監督の原一男さんが初めて挑戦した劇映画です。製作と脚本は原一男さんのパートナーの小林佐智子さんです。この小林さんからのお誘いを戴き、2004年11月30日に桐田真輔さんに同行をお願いして、マスコミ試写会を観てまいりました。

 原一男さんと小林佐智子さんが設立した「疾走プロダクション」の代表作品は「ゆきゆきて神軍」「全身小説家」などのドキュメンタリー映画、「映画監督・浦山桐郎の肖像」「ドキュメント・七三一部隊中国遺族の証言」などのテレビ・ドキュメンタリーなど、その他にも。

 「またの日の知華」は、ヒロイン知華の青春期から最後の恋人に殺されるまでの十数年を時間の経過に沿って丹念に描かれたドラマである。四人の男たちとの愛のドラマは四章に分かれていて、それぞれの章で「知華」を演じる女優が代わるという仕掛けがあった。原監督は「男たちから見たヒロインは、それぞれ違って見えるはずだ。」という観点から、この仕掛けへの初挑戦を試みている。子供時代から老婆までを演じるという永い時間の経過がないなら、一人の女優がすべてを演じることは可能だとは思うのですが、原監督はあえてこの仕掛けを選んだようです。このドラマの時代的背景には、「六〇年・七〇年安保闘争」「連合赤軍あさま山荘事件」「東大の学園闘争事件」「セクトの内ゲバ事件」「三菱重工爆破事件」などのニュース映像が挿入されています。「東京オリンピック」などはない。

 ヒロイン知華は、少女時代から体操選手として将来を期待されていたのですが、小さな事故によって挫折する。そして中学の体操教師となる。そこから彼女の生きる意識は「張り詰めていた糸がぷつんと切れたみたい。永遠に落ちてゆく感じ……。」を拭うことが出来ない。結婚し、子供を産み、仕事、妻、母を賢明に生きながらも、子供への授乳の折に「いのちを吸い取られるような感じ……。」となる。そして夫の病気と長期入院、その間に起こる同僚の教師との不倫、退職、そこから彼女は「永遠に落ちてゆく……。」子供も夫も置き去りにして。この映画のパンフレットに挟みこまれていた作家柳美里さんの批評の言葉をお借りすれば「このやりきれなさはどこへ向かうのだろう。」という感覚が観終わってもひきずるような感覚として残る。

 わたしは「授乳」という女性だけに与えられた行為は、子供が産まれ出る時に胎内から持ち出した唯一の記憶と、女性がそれとは知らずにからだのなかに眠っていた原初からの記憶との「初めての出会いの時」なのだと思ってきました。それはもっとも自然な「いのちのシンフォニー」であり、授乳後に訪れる母親の空腹感は透明な清清しい感覚でさえあったと記憶しています。この知華の「授乳発言」シーンは、この映画完成前のフラッシュとして、すでに観せて戴いていました。その折にわたしは原監督に対して「異議を申し上げたい。」と言いましたが、「完成まで待って下さい。」というお答だったと記憶しています。しかし完成した映画を観て、わたしはやはりこの知華の発言には違和感を拭いきれませんでした。女性というものは、根源的に男性よりも「生きる」ということに肯定的なのだというのがわたしの考え方です。しかし知華は否定に向かい続ける。

 一章で、知華の夫となる男は六〇年安保闘争時代の元機動隊員、二章は同僚の体育教師、三章では教師時代の教え子、四章では恋人を殺した過去を持つ男、という設定である。この四人の男との関わりのなかで、知華からは「母性」「潔癖性」「魔性」などがかすかに炙り出されるのみであり、非常に個性の乏しい女性でした。、この物語の底流はやはり「不毛」であり「低迷」であり「貧困」であったように思えます。
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からすのいたずらにおこるな

05-5-18karasu

 わたしの「詩日記2002ー2005」のなかにある一編「しんしゅけしゃん」は、藤富保男さんの詩集「客と規約」を知らずに書いていたのです。この作品を書いた後で、桐田真輔さんからこの詩集をお借りして読みました。そのなかの作品「客」にわたしのこの作品はシチュエーションがとても似ていたのでした!

この藤富さんの詩「客」は女性が家のなかに上がり込んできて、主人の戸惑いにも無頓着に家中を歩きまわり、それが済むとカラスになってみずから鳥篭に入ってしまうのです。もう一編はこの成行きを逆転させて、カラスが鳥篭から出て、女性に変身して家中を歩きまわり、そして外へ出ていってしまうのです。

この詩集はそれだけでは終っていません。この「客」一編をもとにして、さまざまな言葉遊びを展開させているのでした。たとえば詩の各行から一文字づつ抜き取って空白を作り、その空白を繋いでゆくと「からすのいたずらにおこるな」となったりするのです。とっても楽しい詩集で一気に読んでしまいました。詩はこれくらい楽しんでいい、ばらけてもいいのだと思いました。しかし「詩を遊ぶ」ということは、本当は大変に優れた力量がいるのだと、反省もした次第です。この詩集に出会った日には大きな地震がありました。
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イッツ・オンリー・トーク  絲山秋子

  

この小説については、どこから手をつけたらよいものやら苦慮していました。どこからか執筆依頼をされたわけでもなく、わたしが書かなければならないものでもないのに、何故か「書かなければ。」と心が急くのでした。
 絲山秋子の「袋小路の男・2004年10月29日・講談社刊」の扉には、ロレンス・ダレルの「ジュスティ―ヌ」の一節が置かれていましたが、この引用の意味はもう一つあったように思えます。「袋小路の男」に同時収録されていた「小田切孝の言い分」との二編の重複構造のような展開法は、ロレンス・ダレルの「ジェスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーヴ」「クレア」の四部作から成る「アレキサンドリア・カルテット」の多重構造の展開方法に似ているように思えたのです。これについてはまだ確信はもてませんが、「ジェスティ-ヌ」だけをかじり読みをして、ちょっと気持が落ち着いたので、今日は「イッツ・オンリー・トーク」について書いてみます。やれやれ前書きが長すぎるわね。

主人公「橘優子」は蒲田在住の売れない絵描きです。彼女の周囲には四人の男性が登場する。まず都議会議員の「本間俊徳」、彼は典型的なマザコンであり、優子との肉体関係を結ぶことができない。次は「痴漢K」、彼とは合意のもとで痴漢的な性的関係だけを結ぶ。そして「林祥一」は優子のいとこだが通常の社会生活が営めず、優子は自分の部屋に同居させながら面倒をみている。四人目は「安田昇」という鬱病のやくざであり、彼女は同病者としてネットを通して出会うことになる。一見して淫らな男女関係のように見える。「イッツ・オンリー・トーク」「すべてはムダ話だ。」とは、エイドリアン・ブリュ―の歌の一節らしい。たしかに読み終わった直後は正直言って「ムダ話」を読んだという気分だった。

 一つの季節に一人の男性に思いを寄せるというのは、ごく普通の恋愛の形だろう。その時の女性は心もからだもすべてを注ぎこんでゆくだろう。これが幸福な結果を生むならばそれでいい。しかしこの視野狭窄的な行為がやがては孤独や狂気を産み、崩壊を招き、深い哀しみとともに次の季節への移ろいをも産み出すことにもなるだろう。「優子」はその恋愛の残酷な構造を柔らかく補強するかのように、あるいは避けるために、このような愛の構築法を無意識に行っているのではないだろうか?「純愛」「性愛」「母性愛」「友情」をそれぞれの男性に振り分けたのではないだろうか?わたしは時間を経てそのような考えにやっと辿り着いたようだ。

 一人の女性が生きてゆくためには何が必要なのだろうか?絲山秋子の描き出す女性像は複雑であり、しかし非常に単純な姿をしている。そしてしなやかで、壊れることのない「竹籠」のような人間の絡み合いがそこには見えてくる。この小説を読みながら、わたしがしきりに思い出した小説は十代の終わり頃に出会った柴田翔の「されどわれらが日々」でした。あの時代の若者たちのひりひりとした剥き出しの痛覚のようなものは、すでにもう絲山ワールドには存在していないようだ。だからって「昔はよかった。」なんて言わない。わたしが絲山秋子を読むのは、おそらく「今はどうなの?」という問いのためなのだ。 

(2004年・文藝春秋社刊)
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僕の叔父さん 網野善彦    中沢新一

 読了後、一番はじめにぼんやりと感じとったことなのですが、一人の学者が育ってゆくこと、あるいは育てられてゆくためには、わずかな人数でいいのだが他者の大きな愛がいる。また一筋の思想が頑なでもなく偏りもなく育ってゆくためには、人間の根源から涌き出るような深い愛の力がいるのだということでした。網野善彦の言葉を借りれば「彼はたいへんしゃれた、うまいいい方のできる人で、なかなか本質的な表現で私がぼんやり考えていることをいってくれます。」というような中沢新一の美しい文体とともに、そのような深い感銘を受けました。

 まず、哲学者であり宗教学者の中沢新一を育てた親族を記してみよう。すべて山梨県出身者でることにも注目して下さい。父親の中沢厚は在野の民族学者、コミュニストである。叔父の中沢護人も「鉄の歴史家」と言われた在野の研究者です。そして中沢新一が五歳の時に、父中沢厚の妹の真知子叔母の婚約者として登場するのが、この本のタイトルとなっている歴史学者「網野善彦」です。この四人の真摯で豊かな対話の積み重ねが、さらに思考のおおきな流れをつくっていったようです。

 この網野善彦は若き日の中沢新一にこのように語っています。『貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まない土地だと言われてきたけれども、そのおかげで、ほかのところでは消えてしまった原始、未開の精神性のおもかげが、生き残ることができたともいえるなあ。貧しいということは、偉大なことでもあるのさ。』この一冊に貫かれているものはこの網野の言葉に集約されているようです。

 中沢厚の著書に『つぶて・一九八一年・法政大学出版局刊』がある。「飛礫(つぶて)あるいは(ひれき)」の歴史の再発見がテーマとなった著書のようだ。この論考の発端となった厚の意外な視点についての、新一の記述部分は心が躍り出すほどに面白かった!  一九六八年一月、佐世保港にアメリカの原子空母「エンタープライズ」が給油のため入港する。それを阻止しようとした「反代々木系」の学生たちはヘルメット、角棒、旗竿を持って機動隊に激突、そして彼等のとった行動は「投石」であった。機動隊はおおいにたじろいだ。このテレビ報道を食い入るように観ていた父親が最初に語ったことは、父親の少年期の、笛吹川の対岸の万力村や正徳寺村の子供たちと、こちら側の加納岩村の子供たちとの「投石合戦」だったのだ。「投石」という人類の根源的な衝動の働きかけを厚はそこに感じとったのである。原初の人間から引き継がれている行為は、消えることなく現代の人間たちに内在されていたということだろうか?中沢厚のこの研究はそこから出発したらしい。

 この中沢厚の「つぶて」は網野善彦の著書『蒙古襲来』に引き継がれる。この著書の章のタイトルは「飛礫、博奕(ばくえき)、道祖神」から始まった。難しいことはわからないが、わたしが感覚的に理解できたことは「アジール」的な精神世界の存在が、歴史の根底にはいつもしっかりとあって、その上で人間の侵略戦争、反権力闘争は続いてきたのだろうということでした。

 これ以後、網野善彦と中沢新一の仕事は弛むことなく続くのですが、以上書いたことは、この一冊から極私的にわたしの心の琴線に触れた部分だけです、と責任放棄しておきます(^^;。

(2004年・集英社新書)
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シルヴィア

05-6-22murasakihana

 人間は「詩」なんてなくても、きっと生きてゆける。けれども「詩」はありつづける。「詩」という魔物のためにいのちを捧げた人間もいる。過去においても未来においても「詩」を離れることはいつでもありえたし、またありうると、わたしは思っているのだけれど……。

 二月三日午後、立春の前日とはいえ風は頬に痛く冷たく、空は見事に晴れていて、白い雲が美しく浮んでいた。いつものように空ばかり見ながら駅への道を歩いた。この時間がとても好きだ。渋谷着午後三時二〇分、渋谷の方が少しあたたかく、風もおさまっている。ここに来ると空は見なくなる。駅の人混みのなかから見つけた同行者の最初の笑顔を見るのが好きだ。わたしたちは「渋谷ぶんかむら」にて、映画「シルヴィア」を観る。

 「シルヴィア」のヒロインは詩人シルヴィア・プラスのこと。映画は、フルブライト奨学生として、イギリスのケンブリッジ大学に留学中のシルヴィアと詩人テッド・ヒューズとの電撃的な恋からはじまる。結婚してからはテッドの女性問題に嫉妬し、さらに家事と育児に翻弄されながら詩作に苦しみ、作品が世に認められないことに苛立つ、かなり世俗的な描き方がされている。わたしは詩作の停滞はそうした具体的な事情によるものではない、それはもっと内面的なものに起因するのではないかと思う。映画がそれを描ききることはやはり無理なことだったのだろうか。

 シルヴィアは結局夫と別れ、幼い二人の子供を残して、ガス・オーヴンにて自殺、三〇年の短い生涯を閉じている。映画のエピローグあたりからわたしのからだは震えはじめた。シルビアは、深夜に同じアパートに住む老教授から切手を譲ってもらい、友人宛ての遺書(多分)を送る。眠っている幼い二人の子供の部屋の窓を半分だけ開けて、二人分の朝食用のバターつきパンとミルクを置き、子供部屋のドア―に目張りをしてからキッチンへ。シルヴィアは静かな死に顔だった。映画はそこで終わる。

 かつてわたしにも幼い子供と暮らした時間はあった。その時期わたしは強いて詩に拘ろうとは思わなかった。しかもある時には自分の書棚をすべて空にしたこともあった。(この事情は子供が原因ではないが。)幼い子供と過ごすことは、心身ともに困窮の時間でもあり、また至福の時間でもあった。そして「この幼い子供のためにわたしは死ねない。」という、いのちの原郷にわたしは無意識に立っていたのだった。幼い子供がわたしを生かし、育んでくれた時間でもあったのだ。

 それでも幾度も同じ夢をみた。幼い子供を置いてわたしはふいに旅立つ。しかし旅の途中で、母親の不在に泣き叫ぶ幼い子供の声を聴いて、わたしは大急ぎで帰ろうとするのに、どうしたことか道に迷ったり、行先の違う列車に乗ってしまったりする。疲れ果てて目覚めて、それが夢だったことに安堵する。
 一方、子育てに疲れた母親による「子殺し」事件に共振するわたしもいたし、理由もわからず泣きやまない子供を、窓から放り出したい衝動にかられたこともあった。しかしそれらのことは「詩」との繋がりを産む出来事ではなかった。むしろ子供の心に「傷」として残存することを恐れ続けた。

 上の子供が十歳を迎えた時、わたしは自然に詩に向き合う時を迎えた。その時のわたしは子供の詩から書きはじめた。わたしは三度(一度目はわたし自身の子供の時間)の子供の時間を生きて、それを過去に送った。

 シルヴィアは八歳で深く愛した父親を亡くしている。それが彼女の短い生涯に影を落とし続けているのではないか?シルヴィアが「父の蘇えり」とさえ思い込み、結婚した夫テッド・ヒューズとの別離、彼女の詩の理解者である編集者アル・アルヴァレズからの愛の拒否。人間は人生のある時期に一つの心の「躓き」があると、同じ「躓き」を繰り返すものではないだろうか、とふと思う。映画のなかで、死の数ヶ月前に、シルヴィアが泣きながら書いた詩「Daddy=おとうちゃん」はそれを象徴してはいないだろうか?
   それに加えて、少女期からその才能を高く評価されたがために、少女シルヴィアの心がそれに追いつけなかったということ、さらに大学の一回だけの不合格、その後の自殺未遂(これも父のもとへ行こうとしたと思えます。)など、すべて見えないものに繋がれてゆく「躓き」だったのではないだろうか?

 このようなシルヴィアの事情があったにせよ、わたしは映画「シルヴィア」にからだが震えたのだった。それは幼い子供のために、何故生きることを選択できなかったのかという、シルヴィアへの密かな怒りだったかもしれない。幼い子供へは「生きる」ことを望み、シルヴィアは「死」を選ぶ。それは生き残された幼い二人の子供にとって、やがて人生の一回目のもっとも大きな「躓き」になったことだろう。シルヴィアが「詩」に支払った代償はあまりにも大きすぎる。それはほとんど「恐怖」となって、わたしに襲ってきたのだった。

 この「からだの震え」は、映画の後に同行者と話をする時間の前半まで続き、その時間を過ぎてからまた深夜まで続いた。深夜同行者にメールを書いた。「迷惑メールだなぁ。」と思ったが送信してしまった。返信がなかったとしても仕方がないと思っていたが、さらに深夜に返信は届いた。『あの映画から、あまり過大なものをうけとると、虚像を相手にしてしまうことになりますよ。』

 どうやらわたしは映画「シルヴィア」について書きながら、結果はみずからを曝しただけだったようです。以下にシルヴィアの作品を紹介いたします。この作品は同行者が入力してくださいました。ありがとうございます。


おとうちゃん  シルヴィア・プラス

あなたはおしまい、もうおしまいよ、
あわれな足のように、その中であたしが
三十年間、貧しく白く
呼吸(いき)することも、くしゃみもできずに、
がまんを重ねた黒い靴は、もうおしまいよ。

おとうちゃん、あなたを殺さねばならないといつも思ってたの。
間に合わないうちに、あなたが死んじゃったものだから。
大理石みたいに重くて、神さまがつまった鞄さながら、
サンフランシスコのあざらしのように
大きな灰色の足一つを持って
気まぐれな大西洋に頭を浮べた恐ろしい像のよう。
そこでは美しいノーセットの沖合の
波間で青に緑が混ぜられているわ。
あたしはあなたを取り戻すようにお祈りしてたの。
ああ、ドイツ人のあなたを。

ドイツ語でお祈りを続けたわ、
戦争、戦争、戦争と言うローラーに
ぺしゃんこにされたポーランドの町で。
でも町の名は珍しくもないもので、
あたしのポーランドの友だちに言わせると

一ダースも二ダースもそんな町があるそうよ。
だからあたしには判らなかったの、
どこにあなたが、足を、根っこをおいたのか。
あたしはあなたに話しかけることもできなかった。
舌があたしのあごの中で動かなくなり、

ひげ文字のような、有刺鉄線の中に囚われた。
あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)は。
あたしはドイツ語で話せなかった。
ドイツ人はみんなあなただと思っちゃた。
そしてあのみだらな言葉は

機関車なのよ、機関車なの、
あたしをユダヤ人みんなのように駆り立てて行く。
ダッハウへ、アウシュヴィッツへ、ベルゼンの悲劇へとまっしぐら。
あたしはユダヤ人みたいに話し始めた。
あたしはユダヤ人だと言ってもいいわ。

チロル地方の雪も、ウィーンの澄んだビールも、
そんなに純粋でも真実でもないわ。
ジプシー女の御先祖と不幸を担って、
タロット・カードの予言を受けて、
あたしはユダヤ人の端くれと言ってもいい。

あたしはずっと「あなた」を恐れて来たの、
ナチの空軍を持ち、わけのわからぬ言葉をしゃべるあなたを。
それに小ぎれいな口ひげと
青くきれいなゲルマンの眼とを。
戦車兵、戦車兵、ああファシスト、

神ではなくてかぎ十字、
影が真黒、青い空さえすり抜けられない。
女は誰でもファシストを讃える、
凶暴な長靴(ブーツ)のような顔、野獣みたいな
あなたのような凶悪な男たちを。

あなたは黒板に向かっているわ、おとうちゃん、
あたしが持ってる写真の中でね。
足の代りにあごに裂け目、
それでもやっぱり悪魔のかたわれ、
あの腹黒い男と同じ仲間ね、

あたしの可憐な赤い心を真二つに裂いた奴。
あなたの埋葬の時に、あたしは十歳のはず。
二十歳(はたち)の時には、あたしは死んで
あなたのもとへぜひ戻ろうと志す、
骨だけだって何とかなると思ったの。

だけどあたしは引き出され、
にかわで接着されました。
それからわたしは手段(てくだ)を知った。
あなたのモデルを作ったわ。
黒服を着て総統のほまれ、

それに拷問も好きな男。
それを夫に迎えたの。
ねえ、おとうちゃん、やりとげたのよ。
黒い電話は根元で切れて、
しつこい声ももう伝わらないわ。

一人の男を殺したのなら、あたしは二人殺したわけよ。
自分があなただと言い張ったあの吸血鬼、
あたしの血を一年間吸った男、
本当を言えば七年にもなる。
おとうちゃん、やっとあなたは休めるの。

あなたの肥った黒い心臓に呪いのくいが打たれる。
村人たちはあなたを嫌った。
躍り廻って、みんなあなたを踏みつける。
それがあなただといつもみんな知ってたの。
おとうちゃん、やくざなあなた、あたしはすっかりやりとげたのよ。

皆見昭訳『シルヴィア・プラス詩集』(鷹書房)より。
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オニババ化する女たち 三砂ちづる

   

 この著書の感想を書く前に、まず申し上げておきます。女性には子供を「産まない。」と主張する人生と、「産めない。」という喪失の人生があります。後者の女性にとって、これはまことに残酷な著書だと思えます。この著書の趣旨は「女性よ、性をできうる限り幸福な営みとして受け入れ、子供を産みなさい。それもできるだけ早期に。」というものなのです。これはまさに酒井順子の著書「負け犬の遠吠え・講談社・2003年刊」の対極にあるかのようだが?

 さて、女性が仕事を持ち、自立できる時代が来たことは、おおいに喜ぶべきことです。しかしここでいつも問われるのは「母」と「子供」の問題なのでしょう。「母」が自立するために「子供」の存在は大問題となってしまった。まず今の出産適齢期にいる女性たちは「子供を産むか否か?」を考えるようになり、その後で「出産と育児の困難さ」に直面し、そして「仕事との両立は可能か否か?」という構図で考えるようになってしまったようです。

 しかし本来「子供」が産まれ、育ってゆくことは原初から引き継がれたものであり、特別なできことではない。無意識下にあった自然ないのちの営みを、女性の生き方の「大テーマ」として考えなければならない時代になってしまったということではないだろうか?元より「子供の生誕」と「女性の現代の生き方」とを並列して考えることには無理があるのではないだろうか?

 わたし個人の過去の体験を思うとき、出産後に、みずからのからだに内包されていた「人間の原初」を見たという鮮明な記憶があります。そして赤子は、母親の胎内で人間の進化の永い歴史を十月十日でやり遂げて、その時代に産まれてきたのです。口元に触れてくるものを「吸う」という記憶行為だけを母親の胎内からたずさえて……。そしてその行為の力強さも驚嘆に値するものでした。さらに四足歩行から二足歩行のいきものに変わるまでには約一年の期間があり、それらの過程は母と赤子の「蜜月時間」となるわけです。この相互の関わりが母と子供とのいのちの連鎖を自然に取り結ぶのではないでしょうか。そこは「フェミニズム」も「ジェンダー」も介在できない「アジール」的な世界なのではないかと思われます。

 この著書にはさまざまな事例が挙げられていて、列挙することは到底無理なことですが、お雛祭りも近いので「京言葉」についての事例のみご紹介いたします。わたしにとっては一番興味深いところでもありましたので。  「おいど」は通常「おしり」と解釈されていますが、実は「肛門、膣、子宮、外性器」全体を表現する言葉だそうです。また「おひし」は「女性性器」を表わす言葉で、お雛祭りの「菱餅」はこの「おひし」に由来するもの。ですから上方では「正座しなさい。」は「おいどをしめなさい。」となり、正座を崩すと「おひしが崩れますえ。」というお叱りを受けることになります。このなにげない日常の躾が、実はとても大切な女性の身体性を強靭に育てあげる教訓だったのです。

 また、著者はさまざまな提言の根拠として、世界各地での母子に関する取材や保険活動の現状や統計報告もたくさん提出しています。また著者自身の「気付き」にすぎないものも記されています。この混在がこの著書の「生煮え」状況をつくっていることも否めません。この著書は「ジェンダー」「フェミニズム」の流れに「投げられた小石」の一つだと受け止めます。

「オニババ」を三砂ちづるはこのように定義しています。性と生殖にきちんと向き合えないまま、その時期を逸してしまった女性を昔話の「山姥」や「オニババ」に喩えたにすぎません。子供を持たぬ女性たちよ、早急に解釈して憤怒するなかれ。女性が「子供を産まない自由」について考えることのできる今日に至るまでには、過去の女性たちの永い永い歴史があるのだと考えてみてはどうか?ということなのですから。

(光文社新書・2004年刊)
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オペラ座の怪人

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 過日、映画「オペラ座の怪人」を観ました。新宿紀伊国屋書店で待ち合わせた同行者に「何故この映画を?」と聞かれたけれど、特に理由があったわけではない。あまりにも有名なのに原作も読まず、舞台でも映画でも観たことがなかったからです。ですからこの映画が原作に忠実であるかどうかもわかりません。怪人ファントム説もさまざまですし。

 原作は、フランスの作家ガストン・ルルーが一九一〇年に発表した小説。この小説誕生には、どうやら二つのヒントがあるらしい。一つはオペラ座で実際に起こった巨大シャンデリアの火災、落下事故。二つ目がこのオペラ座建築の際に、そこが湿地帯であったことから排水作業に困難を極め、結果それは地下の防火用貯水池となったこと。このオペラ座の不思議な事件が生み出した小説によって、オペラ座はさらに絢爛たる歴史を繋ぐことになったのでしょう。

 その小説はさまざまな舞台や映画となっています。今回のミュージカル映画の監督と脚本はジョエル・シュマッチャーです。一九八五年のアンドリュー・ロイド=ウェバーのミュージカル舞台脚本を少し変えてあるようです。

 舞台は十九世紀のパリ。でも台詞はすべて英語でした(笑)。オペラ座に乗りつける観客の馬車(これはわたしの個人的な熱い好み♪)、オペラ座の室内外の贅沢な建築、舞台の衣装の見事さ。馬や羊などは本物が出演していた!群舞の少女たちのうつくしさ♪そこからやがてプリマに選ばれてゆくヒロインのクリスティーヌのうつくしかったこと♪

 映画を観終わって、夜の新宿の街に出たとたんに、「ららら~ら~らら~♪」と映画のなかで何度も繰り返されたメロディーを、歌い出したのは同行者である。わたしももちろん歌い出したけれど(^^)。この映画はファンタジーなのです。ヒロインを愛した二人の男の命がけの闘いの物語なのであります。溜息であれ、楽しかったであれ、まずは歌ってしまうことでありました。

 でも一つだけ不満がある。それはファントム役のジェラルド・バトラーの歌声です。クリスティーヌは、亡父からファントムは「謎の師」「音楽の天使」と伝えられていたという存在なのですから、もっと澄んだ美しい歌声の方がよかったなぁ。ファントムがクリスティーヌをオペラ座のプリマにまで育てあげる役割をしているはずなのですから。

 翌日になって、ファントムとラウルの二人の愛の間で揺れ動くクリスティーヌを思った時、寺山修司の詩をふと思い出した。うるおぼえなのだが……。


   女のからだは お城です
   なかに一人の少女がかくれている
   もういいかい?
   もういいかい?
   逃げてかくれたじぶんを さがそうにも
   かくれんぼするには お城はひろすぎる


 「音楽の天使」怪人ファントムは、長い間、その醜い顔ゆえにオペラ座の地下洞窟で秘密に生活をしていた。その境界には湖があり、そこには不思議で美しく残酷な幻想世界が広がっていた。そこでファントムはひそかにずっとクリスティーヌを愛し続けていたのだが、ラウルの出現によってクリスティーヌを失うことになると思った時からファントムの行動も醜いものとなる。しかし最後にファントムはクリスティーヌを手放す。

 人間がうつくしいということ。醜いということ。それは人間の生きるうえの大きなテーマではないだろう。おそらくは「どのように愛したか。」ということが一番大きなテーマであるはずだ。人間が生きるということはそれだけ。クリスティーヌの死後、ラウルは、ファントムが終生語り合ったと思われる「シンバルを叩くモンキー」のからくり人形を彼女の墓前に飾る。そしてそこにはひっそりと紅薔薇も。これはファントムがどこかで生きているという証だった。
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Jul 05, 2005

映画「血と骨」

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 監督は崔洋一、原作は梁石日、主演はビートたけし、鈴木京香。

 この映画を観ることになるとは思ってもいませんでしたが、たまたま観ることになってしまった。この映画のDVD&VIDEOの発売の記念試写会があるということで、不運(?)にもそのチケット二枚が転がりこんできたのです。ビートたけし演じる主人公「金俊平」の破壊的な暴力シーンの続出。後半部はついに観ることが出来なくて、音が静かになるまで目を覆っていました。疲れた……。崔洋一は何故このような映画を作りたかったのだろう?過剰なリアル性を求める表現方法というものは、映画に限らず詩においても当然ある。しかしそれが表現方法として最上のものとは、わたしは決して思わない。

 『血は母より骨は父より受け継ぐ。』これは一九二〇年代の大阪へ「ここより他のところ」を求めて、済州島から渡ってきた出稼ぎ労働者の若者の半生であり、朝鮮人集落という舞台で繰りひろげられた過酷な「家族物語」なのでしょう。「愛」とか「やさしさ」などという、なまやさしいものはひとかけらもない。並外れた腕力と体力を持った冷酷な男の半生であった。子供にとっても「恐怖」の存在だった男。娘を自殺に追い込んだ男。

 「金俊平」に関わる女性は三人登場する。鈴木京香演じる一番目の女性は、強引に俊平との生活に引きずりこまれ、二人の子を産む。俊平の失踪と帰宅、その後に続く俊平の女性問題に翻弄されながらも、自らの生き方を通した。二番目の女性は俊平の強引さに「うち、死んでしまいそうやわ。」と応えてゆく。道路を隔てた別宅で暮らし、やがて子をなさないままに病に倒れ(最期は俊平の手によって「楽にしてやった。」)、その女性の看護役として三番目の女性が現れる。彼女は看護のかたわらに、五人の子供を産む。そして俊平が体の自由がままならない状況を迎えた途端、家中のお金を持って子供とともに別宅を出てゆく。それぞれが全く異なる個性の女性だが、俊平が女性たちに望んだものは「骨を受け継ぐ者」だったのではないか?

 しかし、この主人公「金俊平」とは、男性のエゴイズムの深い暗部だけを取り出してきて、そこを拡大し、具象化して見せた一人の「巨人像」だったのではないかとも思える。そこに視点を当てると、この映画(あるいは原作)のテーマは民族や歴史や家族というものを超えたところにもあるようだ。以上の感想は極私的なものです。
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贈り物としての言葉

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 「相聞・あいぎこえ」のページを作ってしまってから、その確認作業のように「すらすら読める伊勢物語(高橋睦郎著 二〇〇四年・講談社刊)」と「贈答のうた(竹西寛子著 二〇〇四年・講談社刊)」を並列するように読んだ。
 竹西著「贈答のうた」には、「勅撰和歌集」「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「源氏物語」「伊勢物語」などから抜粋され、紹介されている。竹西寛子の解釈は穏やかですっきりとしていて、深く納得できるものだった。高橋著「すらすら読める伊勢物語」は、高橋睦郎の独自の解釈により、「段」を抜き出し、さらにその「段」の順番を、物語がわかりやすいように組み変えられている。「伊勢物語」から一対の歌を引いてみる。

  老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな

  世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため

 これは、京にのぼった一人息子に宛てて、老いた母宮が寂しさ故に送った歌に対して、その息子が切なく応えて送った歌です。母子関係においても、ましてや男女関係においても、女性はひたすら「待つ」だけの時代でした。愛の関係に避けがたく伴う残酷さを、歌の「雅び」が和らげる働きをしていたように思います。
 また、その時代にあったであろう礼の衣を纏いながらも、自制がひそかに育てる激情というものがあったように思う。他者を得て開かれてゆく心の世界、あるいは相互の働きかけによって広げられる表現領域、贈る歌のもたらすものはとても大きい。わたくしたちにはこのような豊かな文学世界が、もうとっくに用意されていたのだと改めて深く思いました。竹西寛子の序文から、もう一度この言葉を引いておきたい。

  うたはあのようにも詠まれてきた。

  人はあのようにも心を用いて生きてきた。
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イロイロテスト

これはふつーの日記のカテゴリに分類されるはずです。
目下、かつてあった「高田昭子日記」とこのブログ「ふくろう日記」の統合工事中です。

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Jul 04, 2005

小人の世界

  

 メアリー・ノートンの「床下の小人たち=The borrowers」「野の出た小人たち=The borrowers A field」は、この原題からわかりますように、「小人たち」は「借りる人」なのですね。この小人たちは普通のサイズの人間の世界の片隅で、人間の暮らしからさまざまな、暮らしに必要なものを借りて生きているのです。ひっそりと。 たとえば糸巻きは椅子に、マッチ箱は引き出しに、安全ピンはドアーの錠前に、編み上げ靴は野の家に、切手は額縁に入れて壁に飾る絵画に、石鹸箱の蓋は舟に、という風に。そういえばわたしが失くした、たくさんの「まち針」は小人の仕業だったのかしらん?  「借りる」と、小人たちは言っておりますが、実は普通サイズの人間社会では「盗む」ということになりますね。でもほんのわずかですから、ほとんど人間は気付かれないし、影響もない。そうして人間の家の床下で暮らしていたのですが、ある日みつかってしまう。そして野に出て暮らすことになるのです。床下の暗い生活から、陽の明るい、しかし風雨も雪もある暮らしが待っているのです。

 この小人たちは、なんの魔力も霊力もない、普通の人間が小さくなっただけなのです。読みながら同じ気持でドキドキしたり、ほっとしたり、おなかをすかせたり、疲れたりしている自分がいるのです。この小人たちにもしも触れることができたなら、きっと体温もあるのでしょうし、時には汗くさいかもしれません。これを書いているわたし自身も実は小さいのです。しかし体重は40キロあるぞー。小さいがために、スチュアーデスと女優とモデルの職業は断念せざるをえなかった。あ、断念の事情は他にもありますが、細かいことは聞かないで下さい。ゆえに、ジャイアント馬場と並んだら、きっと世界の見え方が違うはずだよーと思ってしまう。ちなみに、かつて東京駅の新幹線のホームで、ジャイアント馬場とすれ違った実体験があるのです。あの時のわたしの感覚としては、彼のお腹のあたりとすれ違ったような・・・・・・。わはは。

 この二作を何故読みきることができたのか?と思う時、「ハリー・ポッターと賢者の石」を思い出します。わたしは「ハリ・ポタ」は実は楽しくなかったのです。後で言い知れぬ不安ばかりが残った。そしてあの魔法使いの少年少女たちは、この先もわけのわからない魔物に遭遇し続けるのだろうと思うと不安でならなかったのです。不安や恐怖の対象がなんであるかわかるということと、わからないということの違いはとっても大きい。わからない面白さを楽しむという人は多いかもしれませんが。

 わたしが子供時代に読んだ物語の代表は、フィリパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」でした。真夜中に十三時を告げる時計、現在の少年と過去の少女が時を超えて逢うお話です。トムと少女のどちらが幽霊なのか?そうでないのか?物語の楽しさはきっと、ほんの少しだけ日常を超えることのできる楽しさなのでしょう。そして「ほんの少し」と思うことが実は「途方もなく遠い」ということなのでしょうか。
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大人の素敵な嘘

  

 桐田真輔さんからお借りして、メアリー・ノートンの「床下の小人たち」を読みました。貸してくださる前に桐田さんも再読されたようです。この本は「岩波少年少女文学全集・全三十巻」の十巻目にあたり、刊行年が昭和三五年となっている貴重な古書です。お父上が真輔少年のために買い揃えて下さったことなどを勝手に想像すると、なんだか微笑んでしまう。数箇所紙面が破れていましたが、破れているだけで千切れてはいませんでしたので、物語の欠損はありませんでした。少年がヘンな(^^;)おじさんになるまでの四十数年時間がこの一冊に流れているわけですね。この時間のどこかで少年はお父上の背丈を越えられたのでしょう。これも不思議な物語(^^)。

 このシリーズはにまだ「野に出た小人たち」などなどの続編があるのですが、これだけを読み終えた時点で、今メモしておきたいことを書いておきます。このお話を書いたのは「ケイト」であり、ケイトにこのお話をしてくれたのは「メイおばさん」ということになっています。

 このお話がいつどんな時に語られたのかといえば、それはメイおばさんがケイトに編み物を教えながら、なのでした。この編み物は鈎針編みで、小さなモチーフをいくつも編んで、それを繋ぎ合わせて大きな毛布にする作業ですから、時間はたっぷりかかります。その時間が同時に二人のお話の時間だったわけです。女性の単純な手仕事の楽しさは、手は忙しくても、空想したり、考えたり、会話したりする時間もあるということです。この時間のなかで、メイおばさんはケイトにたくさんのことを伝承したはずです。編み物と物語のほかにも。これはメイおばさんの素敵な本当と嘘のお話と、ケイトの想像力が産んだ物語なのかもしれません。

 大人は時として幼い子供に楽しい嘘をつきます。それを受け止める子供の感性によって、その嘘は楽しい物語になったり、哀しく残酷な物語になったりするのです。ちなみにわたしは「拾われた子供」でした。これは父の楽しい嘘でした。

 広い草原にたった一本の樹がたっていた。(これはおそらく、今の内モンゴル自治区だろうと想像しています。)お父さんが馬に乗ってそこを通りかかると、枝に小さな小さな女の子が腰掛けていた。あんまり可愛かったので、馬に乗せて連れて帰った、というのです。二人の姉たちは母から産まれたはずなのに、年子の姉たちから三年遅れて産まれたわたしだけが「拾われた子供」だったのです。この父の嘘をわたしが一度も哀しいと思わなかったのも不思議でした。わたしは広い草原や、馬に乗って走る小さなわたしや、草原のかわいた風まで想像して楽しんでいました。時には友達にまで話していたのです。その感覚は今でも色褪せることがないのです。そしてそれを語ってもらった時の父の胡坐居の上の安定した座り心地とか、わたしの頬にしてくれたキスなども。
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高田昭子日記 2005年4月

2005/4/30(sat)
春の一日


 二十九日は浜松町まで出かけました。ある展示会の見学、わたしはまたしても「金魚のふん」でした。そこで二時間ほど過ごしてから、「旧芝離宮恩賜庭園」へ。入ってすぐに見えたのは咲き始めた藤棚でした。藤天井の下に佇むと花のかおりに全身がつつまれるようです。湖面のひかる漣も美しい。花水木、満天星、躑躅、石楠花、あやめ、春のおびただしい開花にはいつでも心が追いつけないという想いがある。


  


 切り株にすわると、木漏れ日とおだやかな風が交差する、恩寵のような時間。足元の草々には見えない小人や精霊たちが佇んでいるような錯覚に陥る。お供のふくろうたちも木の枝に遊ばせてみました。白いふくろうは「ふくろう日記」のライター「ホワイト」、もう一匹のふくろうは「おたすけ君」です(^^)。


  



2005/4/21(thu)
課外授業


  
   (季節の花 300 より)


 二十日午後十一時十五分より放映されたNHKの「課外授業」は、著名人が母校(小学校)を訪問して、みずからの専門分野の授業をするという企画である。この日は詩人の佐々木幹郎が大阪にある母校を訪問した。以前、詩人ねじめ正一の授業も観たことがあるが、これほど読者に恵まれていない「詩」を、それまでほとんど知らなかったであろう子供にどのように入り口を開くのか?という興味から観たことがあったが、佐々木幹郎とねじめ正一の授業の進め方はとてもよく似ていたと思う。(出発点においてのみ詩人側が苦しむという点においても。笑。)
 まず、一つのテーマを与えて子供に書かせてみる。そこから詩人は子供の視点やまだ引き出されていない感性を見出して、それに気付かせる。次には「言葉遊び」に入る。「連詩」である。「個」と「グループ」とがわいわいと言葉を遊ぶ。書く時は「個」だが、出来上がったものが「グループ」という作品になる喜びを知る子供たち。佐々木氏の引き出し方は見事だった。子供たちとの浪速弁の会話もテンポが心地よい。
 無事に授業を終えて帰る佐々木幹郎は涙ぐんでいた。これは佐々木幹郎の詩の出発と、一貫した詩作の姿勢が「いかに言葉を伝えるか。」というところにあったからだろう。これを契機に詩を書く子供もいるのかもしれない。(しかし佐々木さん、泣かんでもええやろ〜。)


 これにわたしが何故興味をもったのかといえば、わたしに「言葉による表現」の楽しさを教えて下さったのは、小学校四年の時の担任教師だったから。ただし教師が特に何かを教えて下さったというものではない。入学以来わたしを最も苦しめた宿題や授業は作文だったのだが、四年になった時の担任教師は、この作文教育に非常に熱心だったため、作文を書く機会はさらに増えたのだ。この「作文地獄」から抜け出す方法を、十歳のわたしは真剣に考えなければならなくなった。
 たとえば「遠足」というテーマを出されると、それまでのわたしは、出発から帰宅までを克明に追い書きしていたのだ。そこからもっと身軽になるためには「ある時間だけを切り取る」という作業に切り替える必要があると思ったのだ。それが一回目から効を奏して(笑)担任教師はおおいに褒めて下さった。そこからわたしは突然「作文地獄」から脱出して、「書く」ことが大好きな少女になったのだ。そのままここまで来てしまった。。。うう〜む。



2005/4/20(wed)
デリー


  
   (季節の花 300 より)


 先日、有働薫さんに「相聞歌に該当するフランス語はありますか?」とお聞きしました。「フランス語にはないけれど・・・。」とおっしゃっていましたが、その数日後には「モーリス・セーヴ」の詩集「デリー」の数編と、「ペルネット・デュ・ギエ」の詩集「韻」の数編のコピーをいただきました。ペルネットについては、有働さんがかつて「詩学」に書いていらっしゃいます。モーリス・セーヴ(1501〜1560)
とペルネット・デュ・ギエ(1520〜1545)とは師弟関係にあり、プラトニックな愛を育み、ベルネットは一冊の詩集を残して夭逝、セーヴはそれに心を痛めて詩壇から遠ざかり、晩年の消息ははっきりしないそうです。セーヴの詩集「デリー」はペルネットに捧げられた愛の詩集でした。有働さんが、一九八三年十二月号の「詩学」に取り上げられたペルネットの詩の四行はとても魅力的でしたので、ここにご紹介
いたします。これはおそらくモーリスに向けて書かれたものでしょう。


   もし欲望が報いに値いするなら
   そして報いは欲望を終わらせてしまうから
   わたしの歓びの終わりがこないように
   思うよりもいつも仕えたいと願うだろう


この詩行から、すぐに連鎖反応のように思い浮かべたのは、下記の詩行でした。


   ソノゼンタイニナッテミル
   ソレシカ モウ
   アイシカタガワカラナイカラ


この三行は新井豊美詩集『切断と接続・2001年・思潮社刊』に収められている「石の歌」の最終連です。


 「相聞」と名付けていいものかどうかはわからないが、岡井隆の短歌と佐々木幹郎の詩、および書簡から構成された「組詩・天使の羅衣(ネグリジェ)・一九八八年・思潮社刊」、新川和江と加島祥造との詩の往復書簡による「潮の庭から・一九九三年・花神社刊」などが思い浮かぶ。こうした「言葉による往来」というものは、万葉集、伊勢物語、源氏物語などなどの日本の古典文学の世界には、すでにいきいきとして在った。それをわたしはこれからの「詩作」のなかに息づかせることができるだろうか?



2005/4/4(mon)
「心を用いて……」


 エイプリル・フールの日には、それにふさわしく「自称・祝杯」をあげるために新宿へ出る。まず伊勢丹で春のスカートを買って、それに早速はきかえて紀伊国屋書店へ。目的の本「贈答のうた・竹西寛子」を買う。その後同行者とおちあってコーヒータイム。それから夕方の花園神社の桜の様子を観に行きました。(夕刻、曇天、携帯電話のカメラには最悪の条件でしたが。)


   


「ソメイヨシノ」はまさに桜前線「わたしはここよ。」と言っているようでした。


   


 こちらは園芸種のコヒガンザクラです。神社のわきにひっそりと満開。ちいさな樹でした。このくらいの花のような「祝杯」をあげに新宿の街へ。



 贈答のうた  竹西寛子


 物や事に感じて平静を乱された時に、その心の揺れをととのえようとする手立ては人次第であろう。何によって惹き起こされた心の揺れか、その原因と、人それぞれの性情や素養との関係によって、手立てのあらわし方もおのずから定まってゆく。もし仮りに言葉を頼むとすれば、言葉は原因との折り合いをつけようとする働きの中に、誰かに向って、あるいは何かに向って訴えようとする働きも兼ねることになろう。
 人は又その心の揺れを、沈黙に封じ込め得る存在である。けれども私がこれから付き合ってゆこうとしているのは、沈黙を守り通せなかった人々であって、頼られている言葉は詩歌、すなわち「うた」が中心である。


  うたはあのようにも詠まれてきた。


  人はあのようにも心を用いて生きてきた。


 帰宅後すぐにこの本を開きました。以上の文章はこの著書の「はじめに」のなかから抜粋しました。大変に魅力的な導入の言葉です。ふいに涙がこぼれそうになりました。読み通すには時間が必要でしょう。しかし大切な本になるであろうというたしかな予感があります。


(講談社刊・二〇〇二年第一刷、二〇〇四年第二刷)

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高田昭子日記 2005年3月

2005/3/31(thu)
相聞(あいぎこえ)


   


 「相聞(あいぎこえ)」という新しいページを作っていただきました。桐田真輔さん、ありがとうございました。わたしはこれらの作品を何も考えずに書きはじめてしまいました。走り出してしまったと言ってもいいかもしれません。そのわたしの盲滅法な詩作業を追うようなかたちで、桐田さんが論理付けをして下さったように思います。桐田さんが書いて下さった「相聞によせて」を拝読しますと、それがよくわかりました。エマーソンの「日記」のなかにある「男は苦労のあげくに結論に達するが、女は共鳴だけでそこに達する。」という言葉が、今、わたしの脳裏を横切っていきました。ビューーン(^^)。



2005/3/14(mon)
横浜へ。


  


 もう長い間行っていない。わたしの住んでいるところから行くと、ちょっとした小旅行のようなところ。そこへ行くことになって、八年前の中国旅行の折に買い損ねた「チャイナドレス」の夢が再来する。同行者とは「関内駅」で、午後三時に待ち合わせる約束をした。
 寒い曇天の日ではあったけれど、雨や雪が降らないことは幸いでした。同行者は、寒いと機嫌の悪くなる御仁でありますが、駅の案内板を見ながら待っていてくれた彼の表情はとりあえず笑顔のようで、やれやれ。なにしろ横浜は、わたしにとっては「知〜らな〜い街」を歩くようなもの。


 まずは「元町」へ。ここはブティックの多い町に変わっていました。ぶらぶら歩いて、気になるお店に入るという散歩。可愛い小物ばかり売っているお店で見事な卓上ピアノをみつけました。わたしたちの子供時代にあったものとは大違いで、自動演奏装置が付いていたり、同じ鍵盤を叩くだけで一曲が弾けるという優れもの。お値段も安い。「もう一度ここに来ることがあったら、きっと買うであろう。」というのが二人の共通意見(^^)。
 歩いているうちにからだもだんだんとあたたかくなってくる。「帽子屋さんがあるよ。」と同行者が言う。冬帽子を即決で買う。被っていたベレー帽を包んでいただいて、新しい帽子を被って、ふたたび歩き出す。こういう時の気分は楽しい。おのこにはわかるのかしらん?


 次は「中華街」へ。念願の「チャイナドレス」を求めて三軒ばかりのお店をのぞいたけれど、結局気に入ったものはなかった。素材、色、柄ともにわたしがどうしても欲しいと思えるものには出会えなかった。ま、いいか。白い湯気を立てているおおきなまるい蒸籠の置いてあるお店、「立ち食いの肉まんあります。」とある。大きな肉まんをほおばりながら歩く。なんだか楽しいけれど、これは大きすぎた(^^;)。


 この日の収穫は「冬帽子」一つだったけれど、暦の上ではもう春、この帽子を被る機会はあと何回だろうと思った。「寒さ」に騙されたかしらん?新しい詩集を出す頃までには、やっぱり「チャイナドレス」を捜してみよう。詩集を出す予定は未定。詩集と「チャイナドレス」となんの関係があるのかしらん?コーヒータイム二回。(以後略)


    冬帽子言えぬひとこと持ちかえる



2005/3/12(sat)
春の夢



    春眠に置きわすれたる夢ひとつ





小石川植物園の藪椿の画像を送って頂きました。ありがとうございます。



2005/3/10(thu)
春の使者


  


 二日続いたあたたかな日に椿もようやく応えて下さったのでしょうか。自然の営みはいつでも正直でうつくしい。この椿は「朴半」という名前だそうです。今朝、この写真を送って下さった方に「ありがとう。」を。


 昨日の九日夕暮れ時から、奇妙なとり合わせで友人たちがめぐりあった。その繋ぎ役は多分わたしなのですが、わたしの関知するところではない展開になりましたので、その責任は放棄いたします。しかし、それぞれの個性がつぶされることもなく、詩人「鮎川信夫」という存在を、それぞれの若き詩作時代のどこに置いたのか?という世代の相違を傷つけあうこともなく、はたまた無責任でもあったけれど……。「生きてるといろんなことがありますね(^^)。」とは、この今朝の椿の送り主の感慨でありました。
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高田昭子日記 2005年2月

2005/2/26(sat)
「踊るサテュロス」と「春の雪」


 


 二月二四日の午後の上野公園は曇天の静かな空でした。池の噴水はかき氷のように真っ白で、寒緋桜(緋寒桜とも言う。)、紅椿、白梅、紅梅などが、まだ冬枯れ一色の樹々の世界にわずかな灯りのように咲いていました。わたしたちは真っ直ぐに東京国立博物館の表慶館に向かいました。二千年の眠りから覚めた「踊るサテュロス」に会うために。


 「サテュロス」は、ギリシャ・ローマ神話に登場する「森の精」で、葡萄酒と享楽の神「デュオニュソス(バッカス)」の従者です。このブロンズ像は古代ギリシャ最高の彫刻家プラクシテレスの作品と言われています。
 一九九九八年イタリア南部シチリア島沖で漁船の網にかかり、奇跡的に発見されました。この像は二千年以上前にギリシャで制作され、アテネから輸送中に船もろとも海に沈んだものと考えられているそうです。両腕、軸足となるはずの右足がなく、頭部中央も欠けていますが、お酒に酔い、舞い踊るサテュロスのからだのうつくしい躍動感、なびく髪は、その欠損を感じさせないほどでした。この像は海から引揚げられた後、ローマの中央修復研究所で、四年にわたる修復を経ています。同行者は「美しいね。」とつぶやきましたが、それ以外の言葉はなかったとわたしも思います。


 観終わってから、寒い公園を少し歩いて、都美術館のティー・ルームであたたかいコーヒーを飲みながら休憩。なんとなくまだ言葉がみつからない精神状態でした。二千年という時間を超える心の作業が簡単にできるはずがないのです。わたしにはたった数十年の時間さえ超えることができないのですから。


 そこを出て「動物園に行ってみようか?」となったのですが、動物園はもう入場時間を過ぎていました。「では、アメヤ横丁へ行こう。」ということになり、ブラブラとあちこちをのぞきながら、わたしは「ロッテ・ラミー・チョコレート」を十箱買いました。このチョコレートは冬季限定販売の上、最近は近所のマーケットで入手不可能になってしまった、わたしだけの「マイブーム・チョコレート」なのです。同行者は少々あきれた顔をしていましたが、これはわたしの大切な越冬用食糧なのです。その後、新宿に出て、いつもの面子でいつもの場所でいつものごとくお酒を呑んで、「サテュロス」の報告やら、ネットのお話やら、遅いバレンタインもどきやら。


 帰路、春の雪が盛大に降りました。牡丹雪でした。白い道を歩きながら、降りかえっては自分の足跡を見ていました。あれは数十秒前のわたしの足跡。もっと向こうには数分前のわたしの足跡がすでに消されそうになっているのだろう。このわたしの一日のなかに流れた二千年の不思議な時間。






2005/2/2(wed)
太陽の不思議


    

今年に入ってから撮った二枚の写真です。
二枚とも、意識的にまぶしい陽射しに携帯電話のカメラを向けて撮ってみました。その時のカメラの画面はほとんど真っ暗に近い状態ですので、当てずっぽうに数枚撮ってみるしかありません。そのなかから良く撮れたものを後で選びました。画像を見てから気付いたのですが、二枚とも小さな黒い点があります。「ゴミ」ではありません(笑)。わたしはこういう知識がありませんので、どなたかご存知でしたら、教えて下さい。

かつてあるカメラマンが、太陽に真っ直ぐにカメラを向けてしまって、片目を失ったというお話を読んだことがあります。また、三島由紀夫の小説(タイトルは忘れました。)に、太陽を直視することにこだわり続けた若者のお話もあったような気がします。

『太陽も死もじっと見つめることはできない。・・ラ・ロシュフコー箴言集』より。
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高田昭子日記 2005年1月

2005/1/31(mon)
夕空の贈り物





十日程前にプレゼントされた空です。送り主さんのお名前は……。


上の空 空色 空箱 虚空 空中 空間 空耳 空似 身空 etc.
うううーん。寿限無ではありませぬ。 



2005/1/29(sat)
三度目の雪


  


 26日朝に窓の外を見たら、この冬三度目の雪が降っていました。「午後からの外出があるのにこまったな。」とつぶやきつつ、テレビや新聞の天気予報を何度も確認しましたが、予報通りに午後には雪は止み、まもなく晴天となりました。わたしの心がけのよいこと♪


 さて、夕方から法政大学市ヶ谷キャンパスの「ボアソナード・タワー」において、岡村民夫教授ゼミ主催による映画上映と関係者によるトークという試みに参加。またしてもわたしは桐田真輔さんの「金魚のフン?」でした(^^)。上映された映画は、詩人稲川方人監督『たった8秒のこの世に、花を――画家福山知佐子の世界』、その後のトークでは稲川氏は出席されていなかったのですが、画家福山知佐子さん、この映画の企画をされた詩人吉田文憲氏、さらに詩人吉増剛造氏、のトーク、司会進行役は岡村民夫教授でした。お二人の詩人は映画のなかにも登場なさっていました。


 この映画についての感想は書けません。実は思うこと、思い出したことが、たくさんありすぎて、それらがみんな細い道で繋がっていて、うまく整理できません。きっと桐田さんが日曜日に「吸殻山日記」にお書きになると思います。そちらをお読みください。てへへ♪



2005/1/24(mon)
陶器


  
   


この二点の陶器は、過日友人の陶芸家Iさんから頂いたものです。「辰砂」のコーヒーカップとソーサー、「焼締」の急須です。「お気軽にお使いください。」とおっしゃってくださいましたが、ちと緊張いたします。


★ 辰砂(しんしゃ)とは、還元炎焼成により、銅化合物が辰砂のような朱色になったもの。
★ 焼締(やきしめ)とは、成形した器を釉(うわぐすり)にかける前に乾燥させ、無釉で素地(きじ)を強く焼き締めること。



2005/1/8(sat)
午後の冬陽


  七日の午後、今年初めての耳鼻咽喉科の診察に行きました。順調に快方に向かってはいるものの、完全な快復には辿り着けない。ドクターもさすがに「時間がかかりますねぇ。」とおっしゃる。元の声になかなかもどらないというだけのことなのですが。しかしお薬は三種類から一種類に減りました。ドクターには内緒ですが、「禁酒」だけは自主的(?)に、ささやかに「解禁」しましたけれど(^^)。病院の待合室は、一角が全面ガラス窓になっていて、大きな温室にいるようなのです。冬陽がフロア―に美しい模様を描いていました。


2005/1/2(sun)
あけましておめでとうございます。


  


   新年


   真夜中の庭には
   過去からの雪が降っています。
   わたくしたちは ゆっくりと
   少年と少女の時間へかえってゆきましょう。


   往きついたところから
   もう一度歩きはじめましょう。
   夢のつづきのような朝への道に
   灯りをかかげながら。


★ 新年のご挨拶が遅くなりました。これがわたしのペースかな?

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高田昭子日記 2004年12月

2004/12/31(fri)
大晦日の雪

 
  


   地の涯に倖せありと来しが雪   細谷源二


29日と大晦日の今日、2度も雪が降った。不思議な年末である。
思えば1日から咽喉の軽い痛みから始まり、6日には声がかすれ、7日には声帯ポリープと診断をされた。ポリープの治癒後も、声は完全に元にもどらないままの越年となったが、とりあえず元気ではある。


28日だけは、病後初で年内1回だけの私的な外出をする。買い物、映画「ハウルの動く城」鑑賞、そしてお酒を呑んだ。異常なし、というよりは悪化はなし、というべきだろうか。雪の降る日よりも1日前の晴天にめぐまれた1日であった。

これで今年にはさよなら。来年よこんにちは。


2004/12/30(thu)
初雪


  


29日朝から初雪が降りました。夜まで降り続きました。あまりよい写真ではありませんが、初雪記念です。



君かへす朝の鋪石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  白秋



2004/12/27(mon)
定点観測(^^)。


この数日間、同じ空ばかり撮っていました。






2004/12/24(fri)
聖夜


   
   (マッチ売りの少女)

どこにも出掛けられないクリスマスでした。
今年最後の病院の診察でした。確実に快方に向かっています。二週間分の薬が処方されて、これがプレゼント(^^)。
でも、手作りのケーキの写真をメールで送って下さった方(あ〜〜ん、食べられないよー。)、クリスマスカードを送って下さった方、ありがとうございました。



2004/12/23(thu)
冬の虹


  

  (今日の午後に撮った写真です。)

    玻璃ごしにくちづけせしや冬の虹



2004/12/22(wed)
回復期・サンタさんは本当にいるのです♪


  

  (この寒空に健気に咲いているパンジー)


 17日に声帯のポリープ消滅という朗報にやれやれと思っていましたが、19日は午前中から頭痛、夕刻から腹痛、夜には発熱(37,8度)。18日朝には熱は平熱に戻る。頭痛、腹痛はまだ軽い症状として残る。念のために耳鼻咽喉科に相談に行く。耳鼻咽喉科の問題ではない、毎日の吸入ももういいだろうという診断。内科にまわされる。お腹の薬と頭痛解熱の薬のみ処方される。これ以上の薬は御免こうむりたい(^^)。


 幸いにもそれ以後は一日で平常に戻る。20日には思いきって少し外出に挑戦。少し遠いお店まで買い物に出掛ける。冬物の買い物、化粧品など。無事帰宅。何事もなし。


 この病気の期間、詩友Kの過去30年間の作品の流れを読むという幸運に恵まれた。この詩人とは、「ささやかな奇跡」のように、同じものを見つめているという詩行に何度も出会った。そのことを共に歓びあうこともできた。これはさりげないわたしへのお見舞いだと、勝手に思うことにしている。当人は過去の紙版の作品を改めて、パソコンに入力保存する作業の「お裾分け」にすぎないのだろうが(^^;。わたしはもともとノー天気なのである(^^)。


 さらにこの病気の時期に、わたしがこの詩友とともに必死にさがしていた、もう復刻版を捜すのさえ難しいと思っていた本四冊を、お見舞いも兼ねて進呈して下さるというお話が舞い込んだのです。これは夢のようなお話です。わたしが一方的にご迷惑惑も考えずに詩集をお送りしていた、とても好きな詩人からの贈り物だったのです。ちなみに面識もありません。本はすぐに送っていただけましたが、まだ夢のなかにいる気分です。ありがとうございました。


 先日の発熱は、このあまりにも夢のような本の贈り物にびっくりしたので、「知恵熱」だったのかもしれません(^^)。この病気のお陰でわたしはかかえきれないほどの「やさしさ」に触れることができました。ありがとうございます。これからはさらによく読み、きちんと書くことをあらためて、やってゆきます。完全な声の回復まであと一歩です。



2004/12/19(sun)
沈黙生活ー終末期

  
  


 17日、病院の耳鼻咽喉科で内視鏡検査を受ける。声帯ポリープはほとんど消滅。手術に至らずに済んだ。やれやれ。声帯の内視鏡検査は鼻から咽喉へカメラをいれるのだが、その度にドクターは「小さいですねぇ。」とおっしゃるのだ。わたしの鼻の穴のことです。大きな鼻の穴ってどんなものかと考える。なにかいいことがあるの?わたしはこの鼻で??年生きてきて別に不便はなかったわ。


 あら、お話が逸れた。声がれ、咳がまだ回復していないので、しばらくは「沈黙生活」を続けるけれど、「回復」という感覚が掴めてきた。しかし不思議な病気です。熱は出ない。食欲も平常。行動を妨げるものは何もない。ただ「沈黙」「毎日の吸入」「煙草の煙を吸わない」「薬を飲む」「禁酒」を守るだけです。



2004/12/16(thu)
沈黙生活―2


  


    唄を忘れた金糸雀は、後の山に棄てましよか。
    いえ、いえ、それはなりませぬ。


    唄を忘れた金糸雀は、背戸の小薮に埋けましよか。
    いえ、いえ、それもなりませぬ。


    唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましよか。
    いえ、いえ、それはかはいさう。
 

    唄を忘れた金糸雀は、象牙の船に銀の櫂
    月夜の海に浮べれば、忘れた唄を思ひだす。


 「沈黙生活」も日を重ねてゆくと、普段の生活のなかではほとんど忘れているようなことを思い出すもの。まずは「へレンケラー」と「サリバン先生」、彼女たちがお互いに理解と伝達に一番苦しんだという「Water」と「Glass」という言葉など。そしてへレンケラーが「Water」を手のひらの感触と言葉で憶えた時から、彼女は世界を理解した。「Glass」は入れ物にすぎなかったことも。彼女の知識欲はそこから急速に花開いた。サリバン先生の咽喉の震動に触れながらへレンケラーは言葉の発声法を理解する。そのためにサリバン先生は幾度も嘔吐に苦しんだそうだ。


 上記の童謡「かなりあ」は詩人西条八十が、詩が書けなくて悩んでいた時期の自分をカナリヤになぞらえた歌だという。声の出なくなった「かなりあ」ではなかったのだ(^^)。童謡というのは唱歌ではない。唱歌は明治時代に教育のために国が主導して作られた歌であり、童謡というのは大正時代に、鈴木三重吉、北原白秋など唱歌に飽きたらぬ文学者や詩人たちによって作られた子供のための文学なのだそうです。


 わたしの病気はいずれ直り、またいつもの日常が帰ってくるだろう。少し用心深い日常になるのかもしれない。今はわたしに関わる人にも心に重い負担をかけているのだろうと思う。そして哀しませてもいるのだろう。「かなりあ」はまた歌う。初めに「Water」と歌ってみようかな。



2004/12/14(tue)
沈黙生活


  

(病院の庭のさざんか)


 一応経過を書いてみよう。
11月30日、映画の試写会を観る。その後詩画展を観る。
12月1日、咽喉の痛みを覚える。市販の薬を服用。
12月4日、痛みは治まる。
12月5日、PSPの会出席。その帰り道に声がかすれる。
12月7日、内科へ行く。改善されず。
12月10日、耳鼻咽喉科へ、検査の結果声帯にポリ―プがあるという診断。


 以後、治療法は「沈黙」「煙草の煙を吸わないこと」「毎日病院で吸入」「薬を飲む」「禁酒」だけ、そのまま今日に至る。これは声楽家やアナウンサーなどがよくかかる病気、わたしが何故かかったのかはわからないが、咽喉風邪が引き金だったことはたしかなことだ。平熱、食事も平常、からだのだるさもない。何のバチやらわからない?


 さて、「沈黙」生活は初体験。以前、もしも「聴く」「視る」「話す」のいずれかを神さまに捧げなければならない時が来たとしたらという仮想の話をしたことがある。その時わたしは「話す」を差し上げてもいいと言った記憶がある。その通りの生活が始まっている。「伝達手段」としての「話す」は「筆談」や「手話もどき」にとって変わる。憂鬱になってしまってはその期間を空しくさせるだけだ。電話はダメでもFAXがある。メールもある。BBSもある。まめにメールを頂くという嬉しいことも起こる。I love you ♪


 スーパー・マーケット、銀行は会話なしでも用は足りる。病院などの外出にはメモ用紙とサインペンを持っていく。自宅でも、わたしは大半は一人で過ごしているから、必要最低限の連絡はメモ用紙でやる。これが幾日続くのか、まだわからない。しかし過ぎてしまえば、きっとば笑い話になるような日々だろう。そう思うとその日々の自分を書きとめておこうと思いたった。いやこれは初体験の不思議で、ロマンチックな世界かもしれないのだ。「言葉」は書かれるもの、そして読まれるもの、というあたりまえのことにも気付く。一応「詩人」としては。


 ふと「オンディーヌ」を思い出す。オンディーヌは、地上に住む愛する人のもとへ行くために、怒る海神に「うつくしい声」を差し出した。う〜〜ん、やっぱりロマンチックじゃないの。 



2004/12/9(thu)
子守歌


 風邪をひいている。熱もないし、食事もとれるのだが、声がかすれる。一人でいる時、声を出してみて確かめる。声はとりあえず出る。しかし急に不安になって叔母に電話をかけた。叔母は死んだ母と16歳も歳が離れていたので、母がこの叔母をほとんど育てたそうだ。母が旧満州にいた父に嫁いだ後は毎日泣きながら手紙を書いたのだそうだ。それ故に叔母はわたしにとって母だったり姉だったりという存在。母の死後、嬉しい出来事、辛い出来事などはみんなこの叔母に話してきたのだった。


 かすれ声で近況報告をする。叔母は幼い頃に、母が歌ってくれたという「子守歌」の話をしてくれた。その楽譜と題名と歌詞が全部知りたいと言う。楽譜はみつからなかったが、ネット検索で歌詞と題名はみつかった。メロディーが聴けるので、電話をとおして聴かせてあげました。叔母は大変喜んでくれた。


 老いて痴呆になってしまった母は、わたしとこの叔母の区別がつかなくなったことがあることを思い出した。その度に叔母は「ごめんなさいね。」と言ったが、わたしはそれを寂しいと思ったことはなかった。そしてこの「子守歌」をわたしが知らなかったことにも叔母は「ごめんなさいね。」と言う。しかしそれも寂しいとは思わなかった。わたしが幼い頃は母が「子守唄」を唄えるような時代ではなかったからだ。


    あさね


   作詞者 村上至大  作曲者 弘田龍太郎 


   とろろん とろろん 鳥がなく
   ねんねの森から 眼がさめた
   さめるにゃさめたが まだねむい


   とろろん とろろん 鳥がなく
   鳥のなく声 きくほどに
   わたしのお眼(めめ)が まだねむい


   舌を切られた雀なら
   ちゅうっちゅ ちゅうっちゅと なくけれど
   とろろん小鳥は 何(なん)の鳥


   御飯はたべたし まだねむし
   学校にゃ行きたし まだねむし
   とろろん小鳥が ないている




   
    声枯れやアダムのりんごなき身にて 



2004/12/1(wed)
女王さまのスリッパ





この花の名前です。(写真は桐田真輔さんから頂きました。)


11月28日に、新宿御苑にいきました。御苑の温室にありました。素敵ななまえ♪その日はとてもよいお天気。あたたかくて風もおだやか。沼の近くに少し傾斜面の芝草に坐っていると、時々転げ落ちそうになる。背中があたたかくて翼が生えてくるような気がする。「日々はただ静かに過ぎてゆけばいい。」

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高田昭子日記 2004年11月

2004/11/25(thu)
秋空

 

  


2004/11/18(thu)
美しい秋の一日



17日の秋晴れの一日、国立に行って、銀杏と桜が交互にならんでいる並木道を歩いて、一橋大学のキャンパスを散歩しました。わたしの住んでいるところはすでに銀杏は散り始めているのに、国立の銀杏の黄葉、葉桜の紅葉はまだはじまったばかり。キャンパスには欅の見事は巨木があって、その下をサクサクと欅の落ち葉を踏んで歩くのは、とても気持がいいものでした。ベンチにすわって晴れた空を見上げる。空に差し伸べられている樹々の枝々、わたしも樹々に抱かれて、そこに腰をおろしているようにも思える。陽は次第に西に傾き、西空は金色に変わる。美しい一日、こういう日は一人で過ごさないこと♪



2004/11/3(wed)
鏡の街


先日、銀座で友人と待ち合わせて画廊へ行く約束をしました。前回の約束では、わたしが予定の電車に乗り遅れて10分近く遅刻をしてしまったので、今回は絶対に遅刻はすまいと早めに出た。約束の場所に早く着いてしまったので、しばらくブラブラしてから、また約束の場所に戻ってきたが、20分待っても友人は現われない。携帯電話への着信履歴もない。この駅に着くまでのわたしはずっと地下鉄の中だったから、受信できなかったのだろう。それとも昨夜のメールで失礼なことを書いてしまったのかしら?という不安もよぎる。しかしそれくらいで黙って約束を破るような人ではないという信頼はあったが、実はわたしは「約束」という言葉にはかなり過敏反応するという「トラウマ」をかかえているのです(^^;…。こまったもんだ。


20分経ってから、方向音痴のわたしはあきらめて行動をおこすことにした。さて友人を頼っていたから画廊への道がわからない。かろうじて持っていた画廊の住所を便りに、ちょうど居合わせた郵便配達人らしき人に道を尋ねて、とにかく途方にくれながら歩きはじめた。ゆっくりと。友人が追いついてくれることを密かに願いながら……。


しかし背後ばかり気にしながら歩いていたら、なんと友人はわたしの前方から走ってくる!「鏡」という言葉がはじめに浮んだ。風景画が反転したような錯覚である。事情を聞けばあっけないことで、自宅からではなく、出先から回ることになってしまったために時間がはかれなかったとのこと。そして地下鉄ではなくJR駅から約束の場所まで走っていたのだった。しかも友人の走ってきた途中に目的の画廊はあったというのに……。携帯電話も使わずに……。


でも「失望」が「失望」のままで終わらなければ、それはドラマのような素敵なシーンになるものです。メロドラマ「鏡の街」♪
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高田昭子日記 2004年10月

2004/10/25(mon)
宮沢賢治&高橋昭八郎

奇妙なとり合わせと言ふなかれ。

23日午後2時から、広尾の東江寺本堂で行われた「宮沢賢治朗読会」を聴いた後に、コーヒーを飲んで休憩をとってから、神宮前のワタリウム美術館で展示されている「高橋昭八郎展」の「はしご」をしたのでした。方向音痴のわたしはひたすら同行者の後をついてゆくだけでした(^^)。

東江寺の本堂では、まず住職とそのご子息(かわいい小坊主♪)による「あめにもまけず」をお経を唱えるリズムで朗読という試み。宮沢賢治はたしか法華経だったと思うが、ここのお寺の宗派は禅宗の一派である「臨済宗」である。ま、いいか。
その後で、吉田文憲氏によるレクチャーです。いろいろと彼なりの賢治の「鹿踊りのはじまり」論をお聞きしましたが、こころに残ったものは「すすきの穂の輝く波」とか「赤い夕日」とか「ハンの木」だった。
「鹿踊りのはじまり」の朗読はオペラ経験のある野口田鶴子さん。彼女は宮沢賢治の高校の後輩にあたる方です。美しい声の岩手弁ってわかるかなぁ〜。子供が小さかった頃に「読み聞かせ」をしてあげた経験は覚えているが、あの感覚とまったく逆なのね。子供になったわたしが「読み聞かせ」をしてもらっているような気分になった。目を輝かせて聞いている子供のようなわたしがたしかにそこにいた。知っているお話なのに「また聞かせてよ。」と繰り返しせがんでいる子供がその時間のなかにたしかにいたの。不思議な時間だったな。

さて次は「高橋昭八郎展 」です。書店の一角にある展示場でした。さまざまなペーパー・クラフトによる小さな本、巻物、折り物。ああ、今度は納得のいく装丁の小さくて可愛い詩集が作りたいなぁ〜と思ってしまう。その後は書店内をうろうろ……欲しいと思えば全部欲しい、どれか選べといわれたら選べないから見てきただけ♪

その後は前記の「地震体験」に続きます。思えば子供の時間から死の時間までの感覚を生きた一日でした。(ちとオーバーかな。)



2004/10/24(sun)
地震の時思うこと。


地震の被害にあわれた方々には大変失礼なお話ですが、どうかお許しください。

昨夜の地震の時には、友人とともにビルの九階にいました。かなり長く強い揺れを感じました。隣席にいらした見知らぬ若い女性が携帯電話で収集して下さった情報によると新潟が震度6強、被害は大きいだろうと想像はできました。こんな時には急に見知らぬ隣人と親しくなったりする。


あわてて、恐がるわたしを見ながら友人は悠然としている。「なるようにしかならない。」という。それはそうかもしれない。でも「今度こそ死ぬかもしれない。」と思うと、その時一緒にいた人とか場所がわたしの最後の人生の舞台になるのだと思ったり、苦しい思いや痛い感覚が少ないことを願ったりする。きれいな(?)顔でいたいと思ったりする。友人は笑うけれど……。

そしてまた、わたしは無事怪我もなく生きていて、深夜の駅ですこやかに友人と「また!」と言って別れて、どうやら順調に動き出した電車に乗って帰った。電車のなかでは友人がかしてくださった、とっても楽しい詩集を笑いながら読んでいたわたしだった。人生にいつか来るかもしれない死は思うもの、惨事に対しては強靭な想像力がいるもの。



2004/10/16(sat)
父母の手記


このHPにある『声「非戦」を読む』のページのはじめに、わたしは父母の敗戦時から祖国引揚げまでの手記を掲載しました。二人の手記を入力しながら、わたしは父母の記憶に「ずれ」がないことにとても驚きました。同時に嬉しかった。父母はともに亡くなりましたが、わたしのこのいのちは父母が守り、祖国へ無事に連れかえってくれたものだと再確認した次第です。


この二人の手記を読んで下さった方から、メールにて感想をいただきました。まず、わたしより年長の女性詩人Sさんはこのように書いて下さいました。(抜粋)

『高田さま。HPの『声「非戦」を読む』を拝読いたしました。大変な記録ですね。戦後の混乱期にご苦労なさった方は多くあるでしょうが、そんな中、ご家族全部が無事にご帰国なされた事は、お父様の賢さ、運のよさ、などでしょうけれど、貴女、という書き手をお遺しになられたこと、大きな意味の一つでしょうね。』

嬉しかった!ささやかながらものを書き続けていてよかったと思いました。そして父母はインターネットの世界など知らないままこの世を去りましたが、今頃天上からここを覗いているやもしれません。ねぇ〜Sさん。

次に、わたしより少し若い(多分…?)K氏からもメールを頂きました。(これも抜粋)

『危機的状況になったとき、助けてくれるひともいれば、保身に走るひともいるし、群衆心理で暴徒になる人たちもいる。そういうこともよくわかりますね。
それから、手記にかかれているようなことは、今でも世界中のあちこちで起きていることですね、とくにイラクの状態をうつす鏡みたいなところもあると思います。そういう想像力も大切にしたいと思いました。』

そうですね。Kさんありがとう。「想像力」はとっても重い言葉なのですね。



2004/10/2(sat)
新米


米農家の長男として産まれ、その農業を継ぎ、生涯のほとんどを米農業に生きた詩人Y氏から、今年も新米が送られてきました。宅急便の品名欄にはいつもの通りに「野産物」と記してありました。米の代表的な産地は新潟、秋田、宮城などと言われていますが、Y氏は埼玉在住である。そのお米は素朴さと甘味のある実に美味しいお米なのです。つまりお米の美味しさとは土地や風土や水で決まるのではなく、作り手の適切な判断と丹精によって決まるということです。ただし決してかなわないのは「棚田」のお米だそうで、それは山を降りてきたばかりのミネラルの豊富な水を田水として使えるからです。
埼玉のような平野では、それは望めないことですが、まず大切なことは肥料の配合で「チッソ、リン、カリウムの配合のバランス」。それから一反あたりの収穫量が多ければ、それが優れているお米であるということではない。また米粒が大きいことも優れたお米であるということではない。(これはクズ米の出る割合も多いのだそうです。)米粒が多少小さくとも、全体の米粒の大きさが揃っていることの方がお米のおいしさに繋がるそうです。


それから今年の猛暑の記録的な長さは、米の収穫を早めました。米には「積算温度」というものがあって、それが満たされてしまえばお米は実ってしまうのです。こういう気象条件のもとでは、この暑さからお米自身の「保身作用」も働いて、籾殻は厚くなり、米粒はその分小さくなり、お米の白い部分が増え、半透明な部分がわずかに減るそうです。これはお米の味にも影響します。Y氏曰く「今年の新米はわずかに味が落ちるかもしれない。」とのこと。


俳句の季語に「田水落す」「落し水」などがありますが、これは秋に稲が成熟して刈り入れをする前に田を乾かすためです。また「堰外す」という季語は春に稲の花の咲く頃、つまり穂が実りはじめる前に、稲が土の栄養と酸素を必要とするために、一旦田水を抜き、酸素と肥料を補給してやるため。


「米は果実とも違う。野菜とも違うのですよ。水稲という作物なのです。」なるほど。それから稲は三度枯れるそうです。それが「栄養を下さい。」という稲のメッセージだと。その時にきちんと答えることだそうです。そして三度目に枯れ色を見せた時が「刈り入れ」の時となるわけです。

以上はY氏へお礼の電話を入れて、メモを片手にお聞きしたお話です。

以前にY氏からお聞ききした、忘れられないお話もあります。まだ農業が機械化されず、牛馬に頼っていた頃のこと。代掻きのために牛馬に馬鍬を引いてもらわなくてはなりません。一日中田のなかを行ったり来たりを繰り返し、夕方近くまで働けば人間も牛馬も疲れてくる。その頃になると牛馬は自分の家のある方角へ向かって馬鍬を引く時の足取りは速く、その反対の方角へ引く時は鈍くなるのだそうです。少年期のY氏のやさしい視線を思いました。それから「活着」という言葉を初めて知ったのもY氏のお話からでした。

   新米の其一粒の光かな    高浜虚子

Y氏の言葉をまた思い出す。「米の形は炎に似ていますね。これはアジアの希望なのですよ。」

05-6-22aota
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高田昭子日記 2004年9月

2004/9/26(sun)
女といふものはみな戦争が嫌ひなのです。



与謝野晶子(1878〜1942)は日露戦争の始まった1904年に、あの有名な「君死にたまふことなかれ」を雑誌「明星」に発表した。この詩への反論は勿論あった。上記のタイトルはその折の晶子の言葉の一つである。


オルレアンの少女「ジャンヌ・ダルク(1412〜1431)」は、イギリスとフランスの間に長く続いた「百年戦争(1337〜1453)」の終結期に「神の啓示を受けた者」として突然にシャルル王太子の前に現われる。しかし両国の利害争いに巧みに利用され、最後は「魔女」として火刑に処せられ、たった19年の生涯を閉じた。魔女であるか、神の啓示を受けた聖女であるか、という問いかけのために「処女性」について屈辱的な行為を受けることもあった。シャルルの載冠式は無事に終わり、少女ジャンヌ・ダルクはイギリスの捕虜となり幽閉されて、フランスから見放された。それからのジャンヌ・ダルクは、自らの神からの啓示の誤読に悩み、さまざまな宗教裁判における審問に混乱したまま、神への懺悔の機会もないままに火刑台に上った。それから永い時間を経て、ジャンヌ・ダルクには「聖女」という敬称が与えられる。彼女は「魔女」でも「聖女」でもないと思うけれどね。

どうやら「戦争」と「歴史」というものは、男たちのためにあるんだね。



2004/9/24(fri)
文楽



日記とは、その日にあったことを書くものだと思うけれど、わたしの日記はいつでも「先日は……」になってしまう。ま、いいか。
先日、大阪育ちで現在東京在住の友人から「国立劇場に文楽を観にいきませんか?」というお誘いを戴いた。「文楽」はテレビでしか観たことのないわたしであるが、よい機会を戴いたのだからお断りする理由はない。友人は大阪の高校時代から「映画」を観る感覚で「文楽」や「歌舞伎」に馴染んでいたとのこと。う〜〜んそうか、わたしが、ナタリー・ウッドの『草原の輝き』なんぞにうっとりしていた代わりに、そういうものを観ていたのねぇ〜。


観たものは「通し狂言・双蝶々曲輪日記」、これはお相撲さん「濡髪長五郎」が主人公のお話。そして人形が踊る「関寺小町」「鷺娘」、休憩をはさみながら約五時間の公演であった。物語の見せ場の少ない平坦な場面ではさすがに少しだけ眠くなった(笑)。さらに舞台右脇にいる「大夫」の声と「太棹」の音に気をとられて(観たことないけど、活弁映画に似ているな。)、人形とどっちを観ればいいのか悩んじゃうのだ。「人形を観るものです。あっちはBGMです。」「はいはい。」物語も時々わかりにくくなる。そんなわたしに、友人はきれいな大阪弁で時折解説を入れてくださる。この大阪弁が文楽に妙にマッチするのだ。「つまりこれは舞台と観客との予定調和の世界なんです。水戸黄門の印籠みたいなものです。これを楽しむことです。」うんうん。「大学時代に、友人にカフカの芝居を観せられて翌日寝込んだという体質ですから。」あ〜〜あはは。なるほど。


感動したのは「関寺小町」「鷺娘」!舞台装置、照明、人形の衣装と顔立ち、すべてがとても幻想的な美しさだった。老いた小町の寂しい姿、鷺娘の白い衣装から桜模様の衣装に早代わりする初々しさは、対照的であった。


一体の人形を三人の人間が操るわけだが、その中の一人の太夫だけが顔を見せていて袴姿、後のサポート役の二人は黒子姿で顔も見えない。(イラクの捕虜を思い出してしまって複雑な気持にもなったが…。)当然ながら人形より人間の方が大きくて、人数も多いわけだが、不思議なことに目障りな感じにならないものだ。表情の変わらない人形をいきいきと動かせる「文楽」とは不思議な芸術である。一体いつから「人形」に演じさせるということは始まったのだろう。


   人形の足音聴こゆ秋舞台   昭子



2004/9/16(thu)
巨きな顔・ちいさな顔 


   
    こどもが病む   八木重吉

   
    こどもが せきをする
   このせきを癒そうとおもうだけになる
   じぶんの顔が
   巨きな顔になったような気がして
   こどもの上に掩(おお)いかぶさろうとする


子供が殺される事件が頻発する。それについて「母親として何か書いてみなさい。」と言われたが、どこから手をつけていいのかわからない。「フェミニズム」だとか「教育」だとか「ジャーナリズム」だとか「漫画」や「テレビ」だとか、その原因をさぐっていってもどれもちがうような気がする。それで思い出したのが八木重吉の詩だった。


この詩だけはわたしの「実感」というか「実体験」があって、忘れられないものです。
かつて子供が一歳にもならない頃高熱をだした。一晩中、夫と一緒に子供の両側に寝て見守っていた。幼い子供を見つめていて、ふと見なれたはずの夫の顔を見ると「鬼瓦」みたいに大きく見えてくるのね。それほどに子供の顔はちいさいのよね。すると夫も突然「君の顔、可愛くないね。」。ムッ!!!


それから子供は大人になって、書物などを読むようになった。ある日愛娘が本を閉じてニコニコしながらこう言った。「お母さん、人間や動物の子供が何故あんなに可愛い姿をして生まれてくるのか?それはあまりにも小さくて一人では生きていけないから、大人に可愛がってもらうためなんですって。」というの。本の名前は忘れたけれど。


ちいさな子供はこの世で「ガリバー旅行記」をしているのよね。その旅行は楽しい冒険だった?こわい記憶だった?

   


   母の瞳


   ゆうぐれ
   瞳をひらけば
   ふるさとの母うえもまた
   とおくみひとみをひらきたまいて
   かわゆきものよといいたもうここちするなり


   
   母をおもう


   けしきが
   あかるくなってきた
   母をつれて
   てくてくあるきたくなった
   母はきっと
   重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう



この二編の母の詩は「すでに忘れ去られた母の原風景」をみる思いがする。「男女同権」「フェミニズム」「ジェンダー」さまざまな動きがあるが、これは逆利用されている「弊害」も出てきているような気がしてならない。こういうと反論がありそうだね。しかし幼い子供の命は誰かが守らなければ生きていけない、基本的にはこれだけなんだと思う。



2004/9/2(thu)
床の軋む音 雨の音


先日、娘が谷中にある彫刻家朝倉文夫の住居とアトリエであったという台東区立「朝倉彫塑館」を見てきた。おみやげの根岸芋坂の「羽二重団子」を食べながら「どうだった?」と聞くと「おじいちゃんとおばあちゃんの家を思い出したわ。」と言う。「おいおい、あたしの実家はあんなに立派な家ではなかったぞよ。」と驚くと、娘はおもむろに話しだした。

「つまりね。廊下を歩くと軋む音が聴こえるのよ。この家は高層住宅だから、そういう音はしないでしょ。その代わり上の階の音は聞こえたりするけれど。おじいちゃんたちの家はそういう音のする家だったのよ。」「なるほど。そういうことだったの。ここに住んでいると、雨の音に気付くのも難しいものね。」「うん、なんだか懐かしい音を久しぶりに聴いたのよね。」「うん、うん。」

もうすでに父母は逝き、老朽化した実家は取り壊された。おそらくその不動産の権利を譲り受けた姉は土地も売り払うだろう。なにも残らない、さっぱりとそれでいいと思っていたのだが、我が娘からそんなことを言い出されるとは……。しかしいい思い出を抱いていてくれてよかった。

さて、お話は「羽二重団子」に移る。感傷より団子♪
お団子は餡子のとお醤油のと……どっちもさらりとしておいしい、やわらかい。このお団子はさまざまな文人の著書のなかに登場する。
正岡子規の「道灌山」「仰臥漫録」、夏目漱石の「我輩は猫である」、司馬遼太郎の「坂の上の雲」、泉鏡花の「松の葉」、田山花袋の「東京近郊」など。

   芋坂も団子も月のゆかりかな    正岡子規
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高田昭子日記 2004年8月

2004/8/23(mon)
夏の名残り



桐田さんからの定期便「断簡風信」187号が届く。彼の膨大な読書メモである。その本の紹介文を読んでいると、わたしも読んだような錯覚に陥るほど、彼の解説は適切である。しかし今回の封筒の手触りはいつもの違う。予告通り桐田さんはその便箋の間に「線香花火」をしのばせていたのだった。便箋はかすかに「火薬」の匂い……う〜〜む。「爆発物取締り法違反」にひっかかりそうな(はは!)贈り物である。もしも警察犬がいたら噛みつかれるやもしれぬ。


夜、外に出るととても涼しい。もう秋がきているようだ。夏の名残りの花火遊びをしながら、「うふふ!これは燃えるようなお便りだな。」とひそかに思う。ただし、わたしだけに送ったものではないのだ。念の為。



   手花火を命継ぐごと燃やすなり   石田波郷



2004/8/14(sat)
高校野球


「高校野球」はどこも応援しない(笑)けれど、懐かしい思い出がある。わたしの亡父は県立高校の教師でした。父の在職中まぐれ当たりみたいに2回ほど甲子園出場がありました。もちろん2回とも1回戦負け。それでも選手たちの出場費用捻出のため、父は地元の事業主、商店会などに頭を下げてまわりました。応援旗はこれまた祖父の機屋から布地の寄付を頂いて、母が縫いました。ずいぶん大きな旗を作ったと思ったのに、テレビで見たら、応援団長の洋服店主の振っていたその応援旗は地味で小さなものだった。宿泊先の旅館の試合前日のメニューは「ビフテキ」と「とんかつ」つまり「敵に勝つ」だそうです。
1回戦で帰ってきても商店街では選手たちを車に乗せて市中パレードもしました。選手は泣いていましたよ。
何故か父はいつも引率担当でした。


それでいつも高校野球の季節がくると心配になるの。優勝まで勝ち進む高校では、どうやってそのたくさんの費用を捻出しているのかな?って……。



2004/8/13(fri)
「詩屋さん」ってどうだろう?


一人の詩人が著名であるか否かの判断はできない。とりあえず思潮社の現代詩文庫のシリーズに入った詩人は「著名」であるという「線引き」をしておこうか?この「線引き」だって相当危ないものだけれど、とりあえず。あ、それとも「選者」とか「講演」とか「教授」とかも???


過日、ある初対面の方から「あなたはプロの詩人ですか?」と質問されました。返事に困ったわたしは、そばにいらした詩人Y氏(この方はかなり著名です。)に「プロの詩人っていますか?」とお話をふってしまいました。Y氏曰く「詩人にプロはいません。」そうです。「詩でメシが食えないのですから、プロではありません。」そうです。そうです。


大方の詩人は詩集を自費出版している。運良く受賞して賞金などを頂いたとしても元が取れないのが現実である。言いかえれば、出版資金さえあればどんな贅沢な詩集も思いのままに出版できるし、優れた才能を持ちながら詩集を出せない貧乏な詩人もいるということです。知人の編集者から、この詩集の自費出版という現状にこんな批判を頂いた。


T氏曰く「誰でも出せるという自費出版が横行するから、詩の世界は底辺ばかりが増大するのだ。自費出版には節操がない。それを食い物にしている自費出版専門の出版社など《ゴミ》だ。くだらん詩集ばかりを氾濫させるな。」貧乏詩人のために安価で詩集を作って下さる有難い出版社だってあるぞー。


A氏曰く「たった300冊乃至500冊程度の詩集の自費出版に、なんの疑問も抱かない詩人たちは一体何を考えているんだ。しかもその詩集のほとんどは詩人の狭い世界を「謹呈」という形で巡っているのが現状だ。一度、ベストセラーの詩集などありえないという固定観念を捨てて、挑戦してみる気はないのか?詩をメシの種にしてみろ。」月に一編の詩を書いたら、メシ食える生活!ああ、夢みたいだ。その夢を実現させてよー。


編集者もさまざまである。言いたいこと言ってろ。


しかし、わずかながら詩集は売れているのだが「印税」というものを頂いたことがないのだ。その点については、T氏もA氏も「まぁ、仕方がないよ。」と寛大になるのだ。矛盾していないか?


   その明るくて暗闇みたいな詩屋さん
   日暮れどき
   ご隠居さんになりたいと思いながら
   店番している


(詩集「砂嵐」の作品「詩屋さん」より抜粋。)



2004/8/11(wed)
念の為。


8月4日のやんまさんの俳句の掲載は、事前にご本人の許可を頂いております。



2004/8/8(sun)
お祝いの会


8月6日夜、国立の旭通りにある音楽茶屋「奏」にて、水島英己さんの詩集「今帰仁で泣く・思潮社刊」の「山之口獏賞」の受賞のお祝い会があり、出席させていただきました。出席者のほとんどがお名前は存じ上げているけれど、お目にかかったことのない方々なので、少し緊張。第一本人の水島さんもBBS上でお話をしただけで、お目にかかったことがないのです。けれども彼の詩に対する姿勢の熱さ、真摯さが奇妙に気になる方だったこと、お世話役になっておられる方のなかに知り合いの関富士子さんがいらしたことが出席を決心させてくれました。


それでも何故?それは多分、詩人団体にはほとんど所属せず、「個人詩誌」しか発行せず、それすら休刊して、HPだけで発信している「ひきこもり」のわたし自身を、新しい人間世界に出してやろうという気持だったのだと思う。「一人でいいか?」と自問するために人に会いに行ったのかな?


途中の乗り換え駅でバッタリ関さんに会って、ホッとした。二人で少しだけ迷いつつ「奏」に無事つきました。帰りも一緒、わたしは「金魚の糞」でした。
水島さんのお祝いには、20数人の方がいらした。水島さんは真面目であたたかな方だった。そしてお名前とお顔がやっと一致した方々ともお話をして、とても居心地のよい会でした。水島さんのお人柄のためでしょう。水島さんの言葉は、山之口獏の故郷である琉球の熱い太陽と独自の歴史と風土性が産んだように思う。以前からわたしは一人の詩人の言葉の感性を方向づけるものは「産土」ではないかと思っていたが、それを確信したような気持だった。人間はみずからの「生い立ち」からは逃れられない。諦念としてではなく、ね。


  生い立ちは誰も健やか龍の玉    村越化石


改めて、水島英己さんおめでとうございます。
新しく出会えた方々、幾度か出会っている方々、小さなわたしを覚えていてね。



2004/8/4(wed)
こひぶみ


7月31日、俳句文学館において、清水哲男さんが続けていらっしゃる「増殖する俳句歳時記」の八周年を記念して、初めての懇親句会が催されました。その折に俳人の「やんま」さんに初めてお目にかかりました。やんまさんは、哲男さんが午前零時を境に毎日一句挙げられる俳句のなかから言葉を選んで、早朝にはその言葉を織り込んだ一句を作られるという離れ業を続けてこられた方です。そのやんまさんにわたしの詩集「砂嵐」を読んでいただきました。


31日に詩集をお渡しして、翌日8月1日には、その詩集の全作品32篇に俳句を付けて下さって、2日には投函、4日にはわたしの手元に届きました。メールではなくてお手紙ですよー。嬉しい嬉しい韋駄天走りの「こひぶみ」でした。ではその32句をご紹介いたします。俳句は詩集の目次順になっています。念の為。


  「砂嵐」拝読芽藻  やんま


   水色の水へ落ちゆく月うさぎ
   言の葉の楽し悲しと夏の凪
   水の音楽しと思ふ秋ひとり
   詩屋さんへ夏の性器をくださいな
   赤頭巾ふかふかのパン木の芽合へ
   誰ですか春の一日鳴きくらす
   収穫のぶどうの種を呑み込みぬ
   幾度の春の暦のほろ苦し
   夜の更けて羊を打てばめへと泣く
   羽ばたきを片陰に聞く淋しさよ
   知らぬ間に春の海辺に泣いている
   もふ遠ふに忘れた駅や夢おぼろ
   眼差しや愛の仕方へ晩夏光
   爪切って猫背をあげて葡萄吸う
   花茎にある不整脈とつとつと
   雨季の花色定まらぬ爪の色
   ふたりして見てる黄色砂嵐
   百年を叩く驟雨の破れ船
   空席に果実が一つ終列車
   死にたまふ母も私も春の修羅
   砂のくに記憶の海の大夕焼け
   骨のこと耳に残りて春の潮
   母もまた春の鼓動を恐れしか
   冬の父許し許され息ふかし
   古井戸に少女の西瓜浮かびけり
   冬の火事消えてしずしず消防車
   みんなゐてお茶の時間ににわか雨
   赤ちゃんの列の記憶や花の下
   川はまた橋と交叉し夏の渦
   水とめてひとり夜食に向かひけり
   ぶらんこをゆすればこの世軋みけり
   空の耳聞こえませんか合歓の風

   
以上です。やんまさま、ありがとうございました。

 
   花茎にある不整脈とつとつと
   母もまた春の鼓動を恐れしか


この2句にやんまさんのお母様ゆずりのご病気が心配されます。暑い日々ですので、どうぞご自愛くださいませ。

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みすゞ

  

 パソコンを新しくして、初めてのDVD鑑賞はこの映画でした。今まで一度もDVDを観たことがないというわたしにあきれてというか、哀れんでというか、ともかく貸して下さった奇特なお方のお陰で観ることができました。深謝。

 この映画は、詩人金子みすゞ(1903~1930)の二十歳から二十六歳で自死するまでの約六年間のドラマです。本名は「テル」、山口県大津郡仙崎通村(現・長門市仙崎)で産まれています。ここは日本海に面した漁港で、向かい側には青海島があり、海にかこまれた土地です。そしてまた、みすゞの生活は少女期からずっと本にもかこまれていたようです。母もみすゞも書店を営んでいたので、書籍が多く映像として出てくるのですが、夏目漱石の「こころ」がそこに見えた時にちょっと驚いた。今わたしの書棚にある「漱石全集全十六巻・1965年~1967年刊」の装丁と全く同じものでした。それは布張り、燈色の上にうすい緑色の旧漢字(多分。。。)が並んでいるものでした。ううむ。我が書籍は復刻版だったのかしらん?

 この金子みすゞの短い生涯を思うとき、同時に思い出すのは、シルヴィア・プラス(1932~1963)です。時代は三十年ほどずれていますし、日本と米国との違いもありますが、ほぼ同じ年齢で結婚し、夫の生き方に翻弄され、子供を残して自死したという共通点は、どうしても見逃せないものになってしまいます。シルヴィアについては「愛の詩を読む」に書きましたので、そちらをお読みください。

 金子みすゞの人生は、日本のその時代の女性の例にもれず、みすゞの母親もふくめて、親族や周囲の状況に合わせるように、流れに逆らわずに生きてゆくことでした。ましてやみすゞの産まれた土地である長州は「男尊女卑」の根強い風土です。「家」という形を整えるためにもっともふさわしい場所に女性は配置されてゆくのです。そこでひたすら心やさしい者として生きてゆかなくてはならない。しかし、みすゞの置かれた場所はあまりにも不幸だった。そこから救済される時間が、みすゞのいのちの時間に間に合わなかったというしかありません。

 みすゞは、病院から処方された薬を半分だけ残して、それを自死のためにためておいた。死はゆっくりと準備されていたのです。それをとうに知っているかのように、執筆しているみすゞの後姿を見ながら、おとなしく一人遊びをしている小さな娘。この光景からは、岡本かの子が執筆のために息子の太郎を柱に繋いでおいたという話を思い出したりもしました。映画の最後には「星とたんぽぽ」が引用されていました。これはきっと小さな娘への遺書なのだと思えてなりません。

   青いお空のそこふかく、
   海の小石のそのように、
   夜がくるまでしずんでる、
   昼のお星はめにみえぬ。
     見えぬけれどもあるんだよ、
     見えぬものでもあるんだよ。
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エレ二の旅

 これはギリシャ人監督デオ・アンゲロプロスの映画である。「一言でジャンルを。」と問われれば「反戦映画です。」ですと答えることになるのでしょうか。これはわずか三歳で戦争によって孤児になったヒロインのエレニが、その後の人生のなかで、またもや戦争によって夫と二人の子供を失い、人生の孤児になる生涯を描いた物語です。この物語の時代背景は「ロシア革命・1917年」にはじまり「第二次世界大戦・1939~1945)」までの約三十年間です。

 この映画には血生臭い戦場シーンはまったくない。上映時間は長かったが、シーンの展開が非常にゆるやかな速度で進められているためでしょう。この速度はわたしにはちょうどここちよい。映画の登場人物はみな哀しく、貧しい人々ばかりだが、美しい音楽がたえずわたしの耳を満たしていました。

 ロシアのオデッサに移民したギリシャ人たちは、革命の勃発と赤軍のオデッサ入城により、1919年頃には難民としてギリシャのテサロニキ湾岸の荒野に戻る。その一行の長はスピロス、病弱な妻ダナエ、息子のアレクシス。そのアレクシスの手を離さない孤児の少女がエレニだった。エレニはこの長の家族として育つ。やがて一行は、河の近くに「ニューオデッサ」という村を築く。
 人間の暮らしの場はいつでも「水辺」から始まるものだが、その暮らしを崩壊させるものも、実はいつでも「水」なのであり、この村は水害をきっかけに水没する運命を辿ることになる。このコミューンのなかに、監督は「エディポスの神話」や「テーパイの神話」の痕跡を残そうとしているのだろうと思われます。わたしが「なぜ?」という思いにかられる物語の展開の裏には、これらの「神話」の仕掛けがあるようでした。

 やがてエレニの夫となるアレクシスはアコーディオン奏者、仕事を求めて「夢のアメリカ」へ行き、エレニと双子の息子たちを呼び寄せるはずだったが、国籍取得のために米軍兵士となり、「オキナワ」にて戦死。双子の息子は、皮肉な運命を辿り(これがわたしの最も深い哀しみだった。。)、ギリシャ国軍兵士と反乱軍兵士とに生き方をわかち、そして共に戦死。エレニ自身も投獄される数年があった。映画の最後のシーンは反乱軍兵士の息子の遺体のそばで号泣するエレニの姿だった。その姿は、オデッサの路上で死んだ母親にすがりついて泣いていた、三歳のエレニに重なる。その後のエレニはどう生きるのだろか?

 かつて若かったエレニとアレクシスとの約束「いつか二人で、河のはじまりを探しに行こう。」は、ついに果たされることはなかった。二人は「地に降る涙のように」流れる時代の大きな河に押し流されてしまったのだ。

 観終わってから、わたしはあの荒涼たるテサロニキの風景と美しい音楽に、ただぼんやりとしていた。同行者に促されて席を立ち、明るいロビーに出てから、わたしが一番先にさがしたものは、この映画音楽のCDであった。この原稿を書く間もいつもこの音楽と一緒でした。

ereni
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Jul 03, 2005

高田昭子日記 2004年7月

2004/7/29(thu)



わたしは杏が大好物。先日、哈爾浜の旅について書いたが、父母の暮らした家のまわりには杏の樹がたくさんあったそうだ。わたしたちが訪れた時は、近くには大きなアパートが建っていて、果樹園の形跡はまったく見られなかったのだが……。室生犀星の小説「杏っ子」は有名だが、彼の「哈爾浜詩集」のなかには「杏姫」という詩がある。


   杏の実れる枝を提げ
   髫髪(うない)少女の来たりて
   たびびとよ杏を召せ
   杏を食べたまへとは言へり。
   われはその一枝をたづさへ
   洋館の窓べには挿したり。
   朝のめざめも麗はしや
   夕べ睡らんとする時も臈たしや
   杏の実のこがねかがやき
   七人の少女ならべるごとし
   われは旅びとなれど
   七人の少女にそれぞれの名前を称へ
   七日のあひだよき友とはなしけり。
   あはれ奉天の杏の
   ことしも臈たき色をつけたるにや。


父の従姉妹たちのあいだで後々までの「語り種」となった父の言葉がある。「僕の妻になるひとは、床の間に飾って置きたいほど可愛い。」うん、たしかに。セピア色の母の写真を見るにつけ、それを思い出す。まさに「杏姫」であった。し〜か〜し〜〜〜。その後のことは「ソクラテスの妻」には少し(?)負けていたが……。(笑)



2004/7/25(sun)
中国への旅


   天を航く緑濃き地に母を置き     野沢節子


父母はすでにこの世にいないし、共に旅をした姉もいない。
8年前の初秋に姉と二人で、父母が新婚時代を過ごし、敗戦の時まで暮らしたという中国東北部の哈尓浜へ北京経由で旅をしたことがある。飛行機が中国大陸の上空まできたとき、下界の広大な緑の田園風景は圧倒的に広かった。新藤凉子の詩「曠野」に、幼いころの大連から蒙古までの列車の旅の詩がある。そこに「もう三日もこの景色は変らない」という詩行があるが、あれは本当のことなのだ。


飛行機のまわりには、羊雲が点在している。そのずーっと下に緑の田園風景が広がっている。その雲はまるで地上の様子を見守っている神の足場のようだった。そしてふと、人間は傲慢にもこの飛行機というものの発明によって「神の位置」を手に入れてしまったのではないかと思った。時には飛行機は厚い雲を突き抜けて、雲の上へ行くこともある。ふと、飛行機を嫌う「高所恐怖症」の人間とは、この「神の高さ」を犯すことの恐れではないだろうかとも思う。だからこそ、しょっちゅう遭遇できるものではないこの「高さ」の感覚を覚えておきたくて、「高所大好き」なわたしは窓の外ばかり見ていた。


北京への滞在は「紫禁城」と「天安門広場」と少々の買い物のみとして、哈尓浜を中心に動いた。父母が新しい所帯を持ち、そしてわたしたちが生まれたという家を捜すことからはじまった。その家はまだあった。姉の記憶にはあっても、わたしの記憶にはない家だったが、わたしが想像していたものとあまりにも似ていたので驚いた。スンガリー河畔、母が買い物によく訪れたというキタイスカヤ通りも歩いた。父の勤務したという学校も見た。哈尓浜は急速な近代化と、それに取り残されている過去の文化との雑居状態にあった。だだっ広い公道は、市電が走り、バスやタクシーが走り、自転車が走る。そして馬車も走る。従って馬糞も落ちている。8年前の哈尓浜はこんな状態だった。ホテルは日本のどこにでもあるような米国式のホテルであったが、夜間につけっぱなしにしておいたトイレの電球は朝には切れてしまった。申し訳なし。


父母はわたしたちの旅の帰りを首を長くして待っていた。父は一度だけ中国を訪れているが、母は引揚げ後とうとう一度も中国へ行かなかったのだ。「一緒に行こう。」と言っても母は同行しなかった。帰国後できるだけ早くわたしたちは父母のもとへ、たくさんの写真を持って訪れた。母は真っ先にその写真をむさぼるように見て、涙ぐんでいた。


おそらくわたしは父母の思い出のなかをさまよう旅をしたのだと思う。哈尓浜を旅したのはわたしではなく多分「わたしのなかの父母」なのだろう。


2004/7/21(wed)
悪法も法なり。


「脱走米兵」とされるジェンキンスさんの「「訴追問題」について思う時、二人の人間がわたしの弱い頭の中をよぎるのだ。わたしの手に負える問題ではないので書かずにいようと思ったのだが、この結びついてしまったイメージを消し去ることはできそうにもないので、やっぱり書いておくことにする。


まずはじめに思い出したのは、1968年頃から行動を起こしたAIM(アメリカ・インディアン運動)の活動家デニス・バンクス(1936年・ミネソタ州北部の森林地帯リーチ・レイク・インディアン居留地生まれ)である。彼は誇り高き「アニシナベ=最初の人間」の子として生まれる。「アニシナベ」とは合衆国軍騎兵隊の軍事侵略から土地を守りぬいた民族である。
このAIMの活動によって、デニス・バンクスは「騒乱罪」「暴行罪」の罪を負い、追われる身となったが、FBIも保安官も手が出せない強い自治区「オノンダガ」によって守られることになった。しかしそこでの10年間、彼は愛する家族と共に暮らすこともままならず、行動範囲の制約が当然あったわけです。そしてデニス・バンクスは再びの「自由」を手にするために、サウス・ダコタ州への投降を決意する。その時彼はこう公言した。


『何が起ころうとも、私たち家族が望む所に住み、望むように子供たちを育てられる自由を求めるのみだ。』


そして幼い娘のトカラにはこう伝えた。


『ダディはね、白人とインディアンが仲良く暮らせるようにしようとしたんだけれど、そうするのが嫌な人たちが、ダディを刑務所に入れるんだ。でもこわがることはないよ。ダディは必ずトカラの所に帰ってくるから。そしてその時はもう二度とこんなふうにバイバイしなくてもいいようになってるさ。だから強い子でいるんだぞ。マミと一緒にダディに会いに来てくれるね。』


18日夕刻日本政府のチャーター機で、曽我ひとみさん、チャールズ・ロバート・ジェンキンスさん、美花さん、ブリンダさんの一家はとりあえず日本に帰っていらした。ジェンキンスさんは日本の高度な医療によっておそらく最善の検査治療を受けることができるだろう。ともかくは安心であるが、問題はまだ山積している。この一家は国や法に翻弄されているのだ。一日も早く一家が安らかに暮らせることを祈るのみだ。


トカラよ。一緒に祈ってください。


※「デニス・バンクス」については、森田ゆり著「聖なる魂・1989年・朝日新聞社刊」を参考にしました。



2004/7/19(mon)
影絵遊びをする猫のお話


新宿西口側に「ヴォルガ」という古い居酒屋がある。かつてはは双子のおじいさんの流しがいて歌を聴かせてくれたという。「ヴォルガ」ってロシア民謡からとった名前だろうか?そういえば若者達の間でロシア民謡が歌われて時代もあったね。「歌声喫茶」なんていう場所もあって、「ライブ」じゃなくてみんなが「合唱」していたね。


17日の夜、その居酒屋に詩友に連れていってもらった。初めて訪問したその店の一階は、曇りガラスの大きな窓があって、外の様子がぼんやりとわかる。窓の外には塀があって、その塀の上を猫が行ったり来たりしている。それに気付いたのは猫好きのSさんだった。猫が現われるたびに「あ、また来た。」とつぶやくので、しばしわたしたちは猫の影絵に見入っていた。どうやら白黒の猫らしい。


そのうち、猫は塀の上に座り込み、店内の様子をうかがっている。窓際にいた若い女性が、窓ガラスを指でなぞると、猫は首を廻してその指の動きを正確に追ってくる。いつまでもやめない。女性がやめると、猫はまだ遊びたくて座って待っている様子だけれど、女性は連れの男性との会話に戻ってしまって、猫は寂しそうだった。そしてトボトボと消えた。


「影絵遊び」の好きな猫に出会ったことが、妙に嬉しい夜だった。もしかしたら、この猫は夜毎現われては「影絵遊び」をしているのかしらん?うふふふ♪



2004/7/9(fri)
キス


素敵なキスだった。
今日、北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさんが、インドネシアのジャカルタ郊外にあるスカルノ・ハッタ空港で、一年九ヵ月ぶりに家族と再会できた。飛行機のタラップを降りてくる夫の元米兵のチャールズ・ロバート・ジェンキンスさん、長女美花さん、次女ブリンダさん。そしてタラップの下で待ちうける曽我ひとみさん、そして走り出したひとみさんとそれを抱きとめたジェンキンスさんは熱いキスをして、しっかりと抱きあった。それから、ひとみさんは二人のお嬢さんを抱きしめた。これからどのような運命に翻弄されようとも、この瞬間を忘れることはないだろう。テレビは何度もこの瞬間を報道した。その度に目頭が熱くなった。


一生の暗きおもひとするなかれわが面の下にひらくくちびる                 (篠 弘)


ひとみさんとジェンキンスさんの初めてのキスを思ってみる。拉致被害者の日本人女性と元米兵の男性が、北朝鮮という国でめぐりあい、共に生きてゆこうと決心した瞬間、それは「希望」だったのだろうか?「断念」という翳りはなかったのか?これはなんとしてもわたしの想像が届かない。すべてはこれからまたはじまるのだ。どうか幸福になってください。



2004/7/7(wed)
七夕

  akiko

笹の葉さらさら軒端に揺れる
お星様きらきら金銀砂子


五色の短冊私が書いた
お星様きらきら空から見てる


七歳の夏休み、つまり学校というものに通い始めての初めての夏休みに、わたしはそのお休み中ずっと病気だった。宿題もまったくできなかった。毎日床に臥せっていて、定期的にお医者さんがいらして、足にものすごく痛くて大きな注射を打って、その日は歩くこともできなかった。夏だというのにわたしは厚いふとんにくるまって寝ていた。暑かったという記憶はない。後で聞いた話によると、わたしは本当は「隔離」されなくてはならない伝染病だったらしい。まだ七歳のわたしを「隔離病棟」に入れることを不憫に思った祖父母と父母と医者の話し合いの結果、母の必死の看病と衛生管理のもとにわたしは「自宅治療」を受けることになったのだった。


そんなわたしのために二人の姉と、近くに住んでいる二人の従兄弟が七夕かざりを作ってくれた。従兄弟が郊外の農家から竹をもらってきて、それに四人が飾り付けをしてくれたのだった。


夏休みが明けて、登校する時期が来てもわたしはまだやっと歩けるくらいの体力にしか回復していなかった。久しぶりに外へ出ると、残暑の光と暑さにクラクラした。ホッとした母は過労で倒れた。これがわたしの七夕の思い出である。
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孤島  ジャン・グルニエ (見れば一目で・・・)

05-6-28ran

 この本のはじまりで、わたしは「虚無」を読みとってしまいましたが、この終章でどうやらそこから抜け出すことができたように思えます。けれども、この本の奥深くにまで、どうしても届かない「もどかしさ」、あるいは「断念」と言うものは拭いきれない。それは、わたしがこの一冊の本のなかに描かれている土地も海も訪れたことがないからかもしれません。それが「旅への憧れ」という心に軽やかな羽根をつけることには、ついにならず、静かな湖のようにわたしのこころの底にとどまることになってしまったのは何故だろう?「地中海」・・・何故そこを遠いと思うのだろうか?訪れることはないだろうと何故思うのだろうか?いつでも行けるところなのに。

 『はじめて私は地中海を見た。私が知っている大洋は、つねに動き、たえず懐妊の状態にあるもの、私の懸念と不安の心象でしかなかった。私自身のまんなかに、どっかりと腰をおろすには、そのような青い巨体が必要であった。変化のないその海岸は、あなたを悠久の観念にさそう、――修正のないデッサンがあなたに完璧を思わせるように。』

 「青い巨体」・・・「海」というものへの名付け方をわたしは初めて知ったように思う。ジャン・グルニエは幾度もこの本のなかで、非常に美しいものや、大きすぎるもの、心の最も深いところなど、名付けようもないものへの名付け方を教えて下さった。

 『私を呼ぶこのおびただしい光りに答えるには、私のなかにはまだまだ影が多すぎる。生の力がおそろしいまでに私にせまって見えるのだ。しかし、この生のはじまりは、じつに美しい!私の生は毎日新しくはじまる。』

 この本の最後はこのように終わっています。そしてこの章のはじまりは『どこかほかのところへ!』でした。これはどうやらロンサールのこの詩を踏まえているらしい。

  旅立とう、ミュレよ、ほかのところへ求めに行こう、
  もっとよい空を、もっとよい他の魅力を・・・
  のがれよう、のがれよう、いずこかへ・・・
  ほかのところに、永遠の休らいに生きるために。

 生きているわたくしたちは、そこに留まることはできない。日々は、美しい小さな旅立ちの連続であり、後へ引きかえすこともできない。今日はわたしの誕生日です。
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孤島  ジャン・グルニエ (幸福の島)

  

 この本について書くのは三度目となる。我ながらあきれていますが、このように分割しながらでないと書いてゆけない。その上、わたしの言葉も想像力もまったくこの本に書かれたものに追いついていないことも自覚しています。すでに手厳しいご批判を頂いておりますが、それは「理解の差異」だと思うことに致します。ニンゲンが長く生きていれば、同じ一冊の本を読む時の理解や感動の質は当然違う。それは共有できない。拙いながらも、わたしの生きた貧しい時間と立ち位置から書くしかありません。(色文字の部分は引用です。)

 ひとはなぜ旅に出るのか?この「幸福の島」は、どこにでも名付けることができるでしょう。フランスやイタリアやギリシャ、どこでもいい。大聖堂や美術館や劇場や城や美しい墓地、大庭園あるいは湖や海をみることだけではない。あてもなくさまよい、陽射しや風を感じ、花の香りに出会う。あるいはベンチに腰をおろして人々が行き交う様子をみているだけでも充分「旅」と言えるだろう。以下はわたしがかつて書いた詩の抜粋、未発表のものです。

   荒れ果てた世界の片隅にある小さなベンチ
   置き忘れられたような二人は道ゆく人々を見ていた

   あなたが世界に名前をつける
   道ゆく人々の物語を作る
   わたしは笑ったり 哀しんだり
    その続きを作り直したり……

 『大景観の美は、人間の強さにつりあわない。ギリシャの神殿が比較的小さいのは、それが人間たちの避難所として建築されたからだ。希望のない光り。度はずれた光景は人間たちを途方に暮れさせたであろう。』

 ささやかな旅もあれば圧倒的な旅もある。かつて訪れたモンゴル草原を思う。そこは空に接していた。いや足元からすでに空だったのだ。この広大さのなかに自分を立たせることだけがわたしのこの旅の目的だった。しかし広大さは豊かさではない。貧しい土地だからこそ広さが必要だったのだ。遊牧の人々の住む小さなゲルは集落をなさず、気の遠くなるような距離を隔てていた。わたしを途方に暮れさせる光景はそこにあったと思う。言葉はなかった。無力な自分に出会うだけ、そうして「死」が親しいもの、なつかしいものに変わってゆく感覚が産まれた。「島」から離れた話題になっていますが、ご容赦を。

  『至上の幸福感は、悲劇的なものの頂点なのだ。激情のざわめきが最高潮に達するとき、まさにその瞬間に、魂のなかに大きな沈黙がつくられる。(中略)そのような瞬間のあと、ただちに、人生はふたたびもとにもどるだろう。――だが、さしあたってひととき人生は停止して、人生は無限に越える何物かにまたがるのだ。何か?私は知らない。その沈黙には多くのものが宿っている。そこには、物音も、感動も、欠けてはいない。』

 生きるということは、沈黙の虹をかけるようなものかもしれません。繰り返し繰り返し、虹をかけること。人間も自然も、あまたのいのちあるものすべて。それを決してやめないこと。虹は消える。しかし幾度でも生まれるもの。ここで、ふいに「虹」を持ち出してしまったのは、おそらく『人生は無限に越える何物かにまたがるのだ。』からのわたしの連想でしょう。念の為。ラ~~ララ~ララ~~ラ♪♪

 『ああ、それら私の幸福の島々よ!朝の偶然のおどろき、夕べの思いがけない希望、――きみたちに、まだときどき私はあうことができるだろうか?きみたちだけが、私を解放してくれる、そしてきみたちだけのなかに、私は自己を知ることができる。錫をつけない鏡、光りを出さない空、対象をもたない愛よ・・・。』
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孤島 ジャン・グルニエ (空白の魔力)

  

 すでに、ジャン・グルニエの「孤島」のなかの「消え去った日々」について少しだけ書きました。この本は1968年初版、1969年第四版、竹内書店刊です。翻訳は井上究一郎、すでにセピア色になっています。これはわたしが望んだものではなく、ふいに差し出された本ですので、少々戸惑いがありました。この本の伝えようとしたもの、あるいは貸して下さった方の意図について、わたしは間違いなく受け取れるのだろうか?と・・・・・・。しかし、それはわたしの勝手な気構えかもしれません。さりげなく読めばいいのでしょう。また、わたしがまったく「フランス」という土地に立ったことがないという「断念」から出発するということも前記しておきます。以下は冒頭の章より。『 』で括られた青文字の文章はこの書からの引用部分です。念の為。


 【空白の魔力】

 この本を受け取った日の深夜、帰宅してからすぐにこの第一章だけを読みました。まず「虚無」という言葉に出会ってしまいました。その日の午後はある絵画展を観て、夕刻からお酒を呑み、さまざまなとりとめのない会話をしました。正体不明の哀しみ(のようなもの)をかかえたまま帰宅しましたので、この「虚無」はその時にはとても辛いものでした。冷静に受け止めることができずに、涙ぐむという始末の悪さでした。我ながら情けない。。。

 『私はこの世の「むなしさ」について人からきかされる必要はなかった。それについては、それ以上のものを、つまり「からっぽ」を感じていたのである。』

 『六歳か七歳だったと思う。菩提樹のかげにねそべり、ほとんど雲一つない空をながめていた私は、その空がゆれて、空白のなかにのみこまれるのを見た。それは、虚無についての私の最初の印象だった。』

 これはグルニエの少年期の感性であり、これが彼の思索の出発点であろうかと思われます。この「空白の魔力」がグルニエをさまざまな旅へいざなうことになるのでしょう。この旅によって、その欲望が満たされようとする瞬間こそ美しい。この美しい瞬間にのみ生きてきたのだとグルニエは言いたいのでしょうか?

   『私は海を愛していたとはいえない。私は海の力にじっと耐えていたのだ。』

 このグルニエの少年期の「空白」は、グルニエに親しいブルターニュの海に起因するようです。「海の力に耐える」――それに似た心の作業がこれからのわたしにはたくさんあるでしょう。今までもずっとありました。それに、とてもふさわしい言葉を与えられただけなのだと思います。それらが苦しみとしてではなく、心の根源への接近であることは確かなことです。この章を読みながら、しきりに思い出される詩集がありました。それは有働薫さんが翻訳された、ジャン=ミッシェル・モルポアの「青の物語」です。

 『人は、自分をとりまく物を拒み、ある中立した領域にとじこもることができる。その領域は、われわれを孤立させ、しかもわれわれを守っている。つまり、自分を愛し、エゴイズムによって幸福に暮らせる、ということだ。』

 この文章に出会った時には心が凍るようでした。わたしは永い間「幸福」という言葉の魔法にかかっていたのでしょうか?その魔法から解かれて、わたしは「幸福」から激しい報復を受けたのだと思います。そして「エゴイズム」はわたしが最も憎悪していたものでした。「幸福」と「エゴイズム」とは、わたしの心のなかで大きな配置転換を迫られていますが、この心の作業はまだ終わっていません。
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孤島 ジャン・グルニエ (消え去った日々)

  

 ジャン・グルニエの「孤島」を読みました。アルベール・カミュは「アルジェで、はじめてこの本を読んだとき、私は二十歳だった。」と、この本とのよき出合いについて序文をよせています。これは十三章の作品から構成されていますが、そのなかの「消え去った日々」について少しだけ書いてみます。これはグルニエの誕生日(二月六日)の過ごし方について書かれています。今日はわたしの誕生日ですので、それへの願いもこめて。。

 『その誕生日に、私は自分の一日のヴァカンスを――空いた日を――もうけようと工夫した。(中略)私は空白をつくろうとつとめ、時間を中断しようと欲した。』

 『睡眠と覚醒とのあいだの、あの薄明の状態。それは昼と夜との専制的な王位継承からまぬかれている状態、抗しがたい時の分割からぬけ出るという幸福な意識を失わせない状態。』

 この二つの抜粋した文章は、とりわけ魅力的でありました。わたしの誕生日もこんな一日であればいいと思いました。どのような一日であっても、振り返ってみればおそらくは同じような表情をしていたのだろうと思えます。そんな日々をわたしは生きてきたのでしょう。狂気寸前まで哀しんだ記憶も、死ぬほどの寂しさの記憶も、あるいは甘やかな幸福の束の間の記憶も、潔く過去に流してしまえば死に絶えるもの、いつまでも抱いていれば腐乱するだけのもの。そして未来はまだ形をなしていないが、そのあたりから新鮮な果実のような香りがすでに漂ってくるように思えるのだ。

 その記憶の時間と未知の時間とのあいだに、一年に一度くらいは「十三時」とか「二十五時」とか、どこにも所属しない、時間ではない時間があるに違いない。そんな時間をわたしはわたしの誕生日にプレゼントしたいと思う。とりあえずは「薄明の祝福」とでも名づけておきましょうか。名づけようもない時間かもしれませんが。そしてわたしは一編の詩を書くことでしょう。
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Jul 02, 2005

高田昭子日記 2004年6月

2004/6/22(tue)
貧乏神


梅雨の初日、二人の貧乏詩人が場末の居酒屋で飲む約束をした。しかし午後六時半、店はまだ開店していなかった。店の前で「どうしようか?」と思案していたら雨が降り出した。傘もなく、別の店に入る気にもなれない二人は近くにある神社に非難することにした。雨宿りの軒先を借りるには、神社の賽銭箱の奥しか場所がない。そこに腰を下ろして二人はまだ明るさを残す新宿の空を眺めながら、半時間ばかり物語つくりを楽しんだが、話の結末はいつでも「心中」とか、「失恋」とか、暗いのだ。


その時、一人の美しい女性がお参りにきた。「これはまずいのでは。」と気づいて二人はこっそりと神社を出て、目的の居酒屋に向かった。店はすでに開いていた。店の主人に、神社の雨宿りの一件を話すと、「あそこは商売繁盛の神様だよ。そのお参りの女性は恐らく開店前のお参りなんだろう。」という答えがかえってきた。「それは悪いことをしてしまった。その女性は我々のような貧乏神に願い事をしてしまったのだ。」災いのないことを祈る。


2004/6/6(sun)
俳句


   蛍囲う武骨なおのこの掌のたわみ

   睡蓮や夜毎にのべる死のしとね

   紫陽花やまぐわいひそと吃水線

   朝顔やつる伸び出づる夢の垣
   
   泉汲む水輪に落ちるイヤリング

   首飾り吾の復路を冷やしおり

   夏祭素足にきつい鼻緒かな

   わたしくに浮力ありたふ蓮の花

   半夏生さざなみ聞こゆ君の胸

   青嵐いとしきひとへののぼり坂

Posted at 10:05 in diary_2004 | WriteBacks (0) | Edit

Jul 01, 2005

いい香り。。。

05-6-30kutinasi2

 夜の散歩。。。
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