Jul 31, 2005

『どんな目に遭ってもいい』

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 二〇〇四年十二月、詩人石垣りんさんは、心不全のため八十四歳で逝去されました。二〇〇五年五月に「現代詩手帳特集版・石垣りん」が出版されました。当然ながら、石垣りんさんはわたしの「大切な詩人」の一人でした。あらためてこの特集号を読みましたが、そのなかで「天声人語」のかつての執筆者である栗田宣氏の追悼文に立ち止まりました。栗田氏は石垣りんさんの詩を愛し、「天声人語」に引用しながらも、石垣りんさんにお目にかかることをこわがっていらしたようです。
 しかし幸いにも新聞社に石垣りんさんが訪問される機会に恵まれて、お話をなさったそうです。その時栗田氏は石垣さんに「なぜ詩を書くのか。」と問うたようです。その石垣りんさんの答えは、大変わたしには鮮烈でした。そしてそれはとてもあたりまえなことなのだとも思いました。

 「長いこと働いてきて、人のしたで、言われたことしかしてこなくてね。でも、ある時点から自分の言葉が欲しかったんじゃないかな。何にも言えないけれど、これを言うときはどんな目に遭ってもいいって」

 栗田氏はこの言葉に対して「私などは生涯吐かないし吐けない」と書いていらっしゃいますが、わたしはこの詩作者の決意はまっすぐに同感できました。それは卑屈さの匂う言葉ではなく、「個」として立つための清潔な言葉の響きでした。
 石垣りんさんの詩を何年もの間、繰り返し読んできました。そしてわたしの生きた時間のなかで共振できる詩はわずかづつ違ってゆきました。今、わたしの心をとらえているのは「島」という詩です。その最終連はこう書かれています。

   姿見の中でじっと見つめる
   私――はるかな島。
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Jul 29, 2005

昼顔と蝶&ナナフシ

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 (撮影 ガラクタ箱さん)

 この写真に出会ったのは昨年の七月でした。ずっと忘れられなくて、今年はお願いしてこの写真の転載許可を頂きました。ありがとうございました。ガラクタ箱さんのホーム・ページはここです。


     昼顔や神の一日のたなごころ

     昼顔の咲きのぼりゆく天の端

     nanafusi

 ガラクタ箱さんから、ナナフシ(カマキリではありません。)の画像も頂きました。これは今年撮影されたものです。まさに「擬態」ですね。木の枝か竹のように見えますが、虫です(^^)。
 ナナフシは『七節』で、節足動物のナナフシ目に属する昆虫の総称のようです。「七節」は体節が七つだからではなく、「七=たくさん」ということで「たくさんの節を持つ」昆虫と言う意味らしいです。
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Jul 25, 2005

海のおみやげ

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 鱗造さん、桐田さんの式根島と新島旅行のおみやげのさまざまな貝です。この貝さがしは結構ご苦労なさったとのこと、まことにあいすみませぬ(^^)。
 ほぼ中央に写っている紫色の貝は指輪(ちょっと大きいかしらん?)にしたいほどきれいです。あんまりきれいなので、実はお二人ともおみやげにくださるのに、悩んだらしいのです(^^)。重ね重ねあいすみませぬ。この貝の名前を聞きわすれました。目下問合せ中です。

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 貝の裏表はどちらなのかわかりません。少しピンボケですが、このような感じです。
 桐田さんにお聞きしましたら、貝の名前は、タカラガイ(宝貝)だそうです。模様がきれいなので、古代中国では貨幣の替わりに使われ、ハチジョウタカラと呼ばれるものなど大型の種類は「コヤスガイ(子安貝)」とよばれて、安産のお守りにされたらしいとのことです。ネットでいろいろと調べてみましたが、こんなにきれいな貝は見ませんでした。なんとなくありがたさが増した感じなり(^^)。

ここに宝貝の歴史などが書かれています。ご参考までに。。
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Jul 23, 2005

地震メモ

 今日の午後4時35分頃、おおきな地震がありました。わたしのところでは震度5弱、本棚は無事、しかし本棚に入りきらずに床に積み上げていた本は雪崩をおこしました。台所は無事。タンスの上に置いてある小さな仏壇は位置がずれましたが、落ちることはまぬがれました。とうさま、かあさま、ねえさま、ごめんなさい。それからテレビの上の時計が落ちました。回転木馬付きのちいさなからくり時計です。

 わたしの人生のなかでは一番おおきな地震体験でした。震源地は千葉です。

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Jul 22, 2005

モンゴル

 1999年の8月に行ったモンゴルの写真を、スキャンしてみました。その頃は、多分パソコンは持っていましたが、こんなことはできなかったし、スキャナーも使えませんでした。新しく設置したばかりの電話機と繋ぐと、スキャンが楽にできるようになりました。パソコンで書いた原稿はそのままファックスで送れるらしいし、新機能搭載電話。使いこなすのがまたタイヘンである(^^;)。。。

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 このゲルはモンゴル草原の人々のものではなく、旅行者用に用意されているものです。後ろに見える建物はレストランやトイレ、バスなどが設置されています。ゲルの中には、ベッド、戸棚、テーブル、椅子、ストーヴなどがあるだけです。草原の人々のゲルは、このように密集していなくて、遠い距離をおいて点在しています。

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Jul 20, 2005

詩人の食卓  高橋睦郎

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 これは詩人高橋睦郎の七月から(何故七月からなのかはわからない。)六月までの、月一回の献立、それに添えられるお酒、さらに使用された器と、それらにまつわるエッセーという形になっている。食材、料理はうつくしく季節を語っている。またそれに関わった親族や友人とのエピソードなども書かれている。さらに「あとがき」に代えて、民族や宗教による「食物禁忌」に触れているが、高橋氏の知識の豊かさに今更ながら驚かされる。

 わたし個人のおおきな興味としては、一月のページに書かれている、高橋氏の祖母の厨についてである。この厨はわたしの理想とする形であった。それは母屋から独立した別棟の、叩き大工が板を打ち付けただけの安普請の小屋にすぎないし、煤だらけの戸棚や竈や流し台があるだけなのだ。わたしはこういう厨がほしいのである。そこで思い切り煙を出しながら、秋刀魚や鯖や鰯を焼いてみたい。大きなステーキを油をジュージュー飛ばしながら焼いてみたい。昨今流行の対面キッチン、オーブン・グリルなどは、わたしにとっては本当はクソ食らえなのである(^^)。

   この詩人の「食」と「詩」と「生」とを結びつけるものが何だったのか?それについてのみ記しておこうか。それはどうやら高橋氏の産土と深く繋がっているように思えるのだ。
 高橋睦郎は鉄の町八幡に生まれるが、六歳で母親と二人きりの貧しい生活がはじまる。そこは九州の門司であった。海の町である。「海」それはその果てしなさにおいて「詩」と似ているのだった。さらに戦時下の海は時として、瀕死の海の幸を岸辺にどっさりと届けた。これは申し訳ないほどにおいしかったと高橋氏は述懐する。海の幸は、地上の生き物との比較において人間と似ていない。人間の存在との類似性が遠いほど、人間は「食する」という「罪」を遠く感じるものであるらしい。また、母親と二人きりの生活のなかで、高橋少年は炊事も余儀なくされたわけである。これらのさまざまな記憶が「詩人の食卓」となったようである。

(1990年・平凡社刊)
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Jul 17, 2005

レオノール・フィニ展

 7月14日、渋谷Bunkamuraにて、レオノール・フィニ展を観ました。午後3時に同行者と、ハチ公口改札で待ち合わせしましたが、予定よりも早く着いてしまったので、わたしは同行者はまだ来ていないと思い込んでいました。改札口を出てから、Suicaをお財布にしまいつつ、うつむいて歩いていましたら、人にぶつかってしまった。なんとその方は同行者であった(^^;)。。。
 「まだ来ていらっしゃらないだろうと思っていたものですから。。。」などと言い訳しながら、お財布を鞄にしまうことに気をとられていたら、今度はころんでしまった。道に段差があることに気付かなかった。。「あなたは改札を出てすぐにSuicaをお財布にしまう癖があるでしょう。それが危険なのですよ。」とお説教を頂く。
 これから絵画を観るのに1時間くらいは歩くだろう。幸い足はくじいていない。お気に入りの黒のパンツも被害は被っていない。やれやれ。前書きが長い!

 さて、レオノール・フィニである。この自画像のように個性的でうつくしい女性画家である。「○○派」「○○ニズム」というものに常に距離を置いて、独自の世界を築いた画家であり、舞台衣装家であり、仮面作家でもあった。
 また、時代の変遷、自身の生き方の転換の時、見事なほどに作風を変えていった画家であったと思う。

付記:この画像は、会場で買い求めた一筆箋にあったものをスキャンしました。 fini-s fini2

 向かって左側が「自画像」、右側は「沐浴する女たち」です。
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Jul 16, 2005

夏の海

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   海辺に立つと
   わたしの内の羅針盤が
   ぐらりと傾く
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Jul 15, 2005

人間は。。。

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 人間はかくも哀しく残酷なものである。


 人間よ、汝、微笑と涙とのあいだの振り子よ。   バイロン
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Jul 07, 2005

七夕

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 笹に短冊、願い事。お供え物ってあったかしらん?杏はいかが?

     無事逢えた?天の水音さささらら   昭

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 七月三日のわたしのお誕生日以後に、過去約一年間に書いた「読書感想文」と「映画感想文」と「雑記」を一挙にここに引越しをさせて、「高田昭子日記」を閉じました。どうぞよろしく。
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センセイの鞄  川上弘美

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大分以前に読んだこの小説は、定年退職して数年、そして妻に出奔されてから数十年の元教師と、そのかつての教え子である独身三七歳の女性との遅々とした恋物語である。おそらく大方の読者はこの素朴で実直な教師の人間像に好感の目を向けたことだろう。しかし、わたしは男性の「性愛」に対する考え方の大きな間違いを見る思いがした。初老の元教師は自身の性的能力への衰えと不安から、「恋」へなかなか進めないでいる。女性は「そんなこと。」とこだわらない。女性が求めたものは「男性の性的能力」などではなく「心を満たす安らかな抱擁」だけだったのではないか?

イギリスの作家D・H・ロレンスは、性のキリスト教的な考え方への反論として、「性交とは、人間的感情の交歓、男女の対等な文化の交流である。」と主張していました。またアメリカのジョン・ノイズは「性愛は生殖とは分離されうる。」という考え方を示しています。さらにポリネシアの人々のあいだでは「先祖の霊が目覚めて我々の結合を祝福してくださる時間を待つ。」という考え方もあります。性愛の根底に男性が「性的能力」を意識するのは、そこに「生殖能力」と重ね合わせてしまうという非常に原始的な感覚から脱しきれていないからではないではないか、と思ってしまう。

ともあれ紆余曲折ののち二人は突然肉体的に結ばれる時が訪れるが、それも束の間、ドラマの最後はセンセイの「天寿全う」とは言い難い死で終る。なぜ作者はこの主人公を死なせて、女性を一人生き残したのか?わたしはドラマの結末を「死」で終らせる作家がすごく嫌いなのだ。二人が共に老いさらばえてゆく過程をやさしく見守り、書きついでゆく作家の心と眼が欲しい。(こんな時代だからこそ。)センセイは愛用の鞄を彼女に残したが、なかは空っぽだった。一人生き残された彼女のこれからの人生は永い。あっけなくセンセイの死でドラマを締めくくるな。
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スキャンダル

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いいえ、わたしのことではありません(笑)。映画のタイトルです。NHKで放送されている連続ドラマ「冬のソナタ」の主人公「ヨンさま」が、挑んだ18世紀の朝鮮時代の架空の物語です。退廃的な上流社会を厳しく暴いたフランス映画「危険な関係」を朝鮮に置き換え、試みた映画でした。
「ヨンさま」演じる領主はプレイボーイで、「ゲーム」のように次々に女性を虜にし、その女性の裸体や性愛の様子を絵にするという日々を送っている。そして未亡人の清楚な女性をおとすゲームに挑み、女性の頑なな拒否をなんとかクリアして、彼は目的を果たし、そしてその女性を捨てようとする。しかしそれが真実の愛であったことに気づいた領主は彼女に逢いに行こうとするが、彼に嫉妬する男の怒りを買い殺されてしまう。それを知った彼女は後追い自殺をして終る。
領主が残した絵のなかで、彼女だけは衣装を纏った清楚なままの姿であった。

恋をゲームだと思う人間、恋を命がけけのものだと思う人間、どちらも救いがたく哀しい。


チマチョゴリとハングル語

過日電車のなかで、チマチョゴリを着た中年女性と中高生とおもわれる男子(こちらはワイシャツ、ズボン姿だが。)2名とが、ハングル語で語り合っているのを聴いていた。もちろん意味はわからないが、わたしはこの3人は母子だろうと思っていた。
しかし、わたし達が池袋で下車した折、その2人の男子だけが後から下車してきた。その途端に彼等は日本語で語り出したのだ。わたしの連れはそれに気付いて「ふふっ」と笑った。「なに?」とたずねると「あのチマチョゴリ姿の女性は母親ではないな。教師だよ。おそらく彼等は学校内では日本語を禁じられているんだろう。」と言う。ああ、そうか。言葉の統制が民族にとってどのようなことなのか?さまざまな思いが込められていることだろう。

わたしはチマチョゴリを着た女性を見ながら、あの服装の構造が知りたくなっていた。「チマ」は日本語で言えば「裳」のことか?今で言えば「スカート」の部分だが「チマ」はどうやら胸から下を覆うもののようだ。「チョゴリ」はとても短い上着で、到底胸の部分が隠せるようなものではない。ちなみに男性の服は「バジ・チョゴリ」と言うそうだ。

その「チマチョゴリ」の構造の謎は、映画「スキャンダル」が見事に解明してくれた。なにせ主人公のプレイボーイの領主が、次々に女性の「チマチョゴリ」を脱がせていくシーンが出てくるんですものね。
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びろう樹の下の死時計

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これは、谷川雁のエッセー集「工作者宣言」の最後に収録されているものです。ちなみにこの本は先輩からお借りしたものですが、発刊は昭和34年、文庫版で130円です。煙草のヤニと歳月によってかなり「バッチ―」状態。しおりの紐も千切れて短くなっている。よくぞご無事で……。でありますのでカバーをかけてからうやうやしく拝読いたしました。

これは「臥蛇島―がじゃしま」への紀行文です。「臥蛇島」は鹿児島県鹿児島郡十島村、東シナ海にあるトカラ列島の一つで、昭和45年からは無人島となっています。昭和34年(この本の発刊年。)14戸60人の暮らす「臥蛇島」へ谷川雁は訪れているわけです。月に一回不定期な汽船が通うだけのこの島に降りた途端に、死時計のように時間は茫洋とひろがるだけ。そこは極小の極限の寡黙な人間世界であった。約1ヶ月後にこの「臥蛇島」から帰った谷川は逆説のように「漂着」という言葉でそれを表現した。

「臥蛇島」の「食物」と「言葉」について少しだけ書いてみます。
このエッセーのなかで、わたしはふたたび「蘇鉄粥」という言葉に出会った。「どがき」「どうがき粥」あるいは「なりがい」とも読むらしい。土地によってはまた別の読み方もあるやもしれぬ。
数年前、わたしはある療養所にいらっしゃる方々(その半分以上はすでに鬼籍に入られた。)の書かれた過去70年間くらいの詩や俳句や短歌をたくさん読むという仕事をしたことがあります。その時に、沖縄の療養所の方の作品のなかで初めてこの言葉に出会いました。その折に、わたしは沖縄在住の詩人I氏にメールを送り、この「蘇鉄粥」について教えていただきました。

蘇鉄の幹と赤い実は澱粉質を含んでいるが、有毒なフォルムアルデヒドも含んでいるので、よく水にさらして澱粉質だけを採って、粥や団子や味噌として食したそうです。これは飢饉の時や、島の食糧が尽きて他島から食糧が運ばれてくるのを待つまでの非常食としてあったようです。この毒抜きが不充分な場合、それによって命をおとした人もいたようです。これは、沖縄に限らず、瀬戸内、奄美諸島、そしてこの「臥蛇島」にもあったのです。

さて当時の「臥蛇島」は灯台があるということが唯一の現金収入、あとは漁業、自然なままの林業、牛や山羊の牧場主なき牧畜(つまり、島全体が放牧場なのです。)そして収穫の乏しい農業と採取で人々の暮らしは成り立っていました。テレビは学校に1台あるだけ、そこはある意味での「コミューン」だったのかもしれません。しかしこう定義するのは外部の人間であり島民ではない。ここで谷川雁の言葉を引用すれば「そこで私たちは日本現代文明に対する黙々たる判決文を読むことができる。」のである。一つの文明国家の法律など及ばない未開の地域というものは必ず存在する。そこでは収穫された食糧は平等に分配され、老いた者や、男手を失った母子は壮健な働き手によって守られているのだ。そして大自然の掟に従順であることによって、そのコミューンは「文明の進歩」とは異なる独自の世界が成り立っている。おそらく「貧しさ」という言葉すら存在しないのだろう。これは「他者」との比較によって生まれる言葉だと思う。

ところで話は少し飛ぶが、ある詩人から、チベットの奥地の山村には「寂しい」という言葉がない、とうかがったことがある。「寂しい」とは文明社会が生んだ言葉なのだろう。人間が初めて発した言葉とはなんだったのか、というところまで想いは飛んでしまいそうだ。ちなみに「臥蛇島」の言葉はT音が未熟で「美しい」は「うちゅくしい」となり、「水」は「みじゅ」と発音されていたとのこと。

付記:この本の後にある「新刊案内」には「一億総白痴化」という言葉を生んだ加藤英俊の著書「テレビ時代」、そして「デモ・シカ先生」という言葉を生んだ永井道雄の「新教育論」がある。こんな時代に書かれたものなのだ。
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ハリー・ポッターと賢者の石

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この映画は2001年に作られている。この頃のわたしはどんなふうに生きていたのだろうか?と思ってみた。たしかこの映画の大きな看板(だったかな?)を新宿で見た記憶はある。「観たいな。」と思った記憶もある。本も拾い読みをした記憶はある。しかし、そのまま時は過ぎた。わたしは変わっただろうか?実は少しも変わっていなかったと、この映画が教えてくれた。

わたしにとってこの映画を観ることは「不安」の連続だった。その「不安」をこの魔法学校の少年少女たちは「勇気」とか「友情」とか「正しさ」とか「愛」に、それとは気づかずに導かれながら一つの生き方を掴んだのだった。そして晴れやかに新しい出発の列車に乗ったのだった。

しかしわたしのなかには「不安」だけが、産まれ出ることのない胎児のように残った。それは多分ハリー・ポッターの年齢だった頃から続いていること。いまさら始まったことではないが、それを眠っていた子供を起こしてしまったように、この映画が呼び戻したというだけだ。生きる「不安」は深く、砂の寝台のようなものだ。

2001年は母を亡くした年だった。すでに父は逝き、姉も逝ってしまっていた。なんだかとても辛い仕事をしていたような記憶もある。生きていることが、スカスカに寂しく頼りない時期だったような気憶もある。話題の映画を観ようと思う時期ではなかったようだ。

うむ。映画の感想がないな。魔法学校の少年少女たちの美しかったこと。「不安」を「勇気」や「友情」によって突破したことのまぶしかったこと。そして「愛」「限りあるいのちのいとおしさ」という基本命題のようなもの……かな?無論これを軽んじるつもりは絶対にない。
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母の日傘

 我が愛する(?)おじさまから古い貴重な本をいただいた。「をんなの四季―中村汀女、昭和31年・朝日新聞社刊」、汀女書き下ろしのエッセー集である。俳句はそのなかに配されている。つまり俳句の成り立ちがわかる仕組になっているのだ。
おじさま曰く「句集よりもこういう本がいいね。読者と書き手との自然な対話が成立する。」読みながらこの言葉を納得しました。主婦としての汀女の日々の出来事が丁寧な描写とおだやかな感性によって、とても美しい文章になっている。汀女は明治33年(1900年)生まれ。熊本第一高女卒。昭和63年(1988年)没。虚子の主宰する句誌「ホトトギス」が女性俳人輩出のために設けた投句欄「台所雑詠」から誕生した俳人の一人である。

この本のなかには、句会に出席してもいつも途中で抜け出して急いで帰宅する汀女がいる。それに不満や無念を抱きながらも、家族の夕餉を整えられたことに安堵する彼女もいる。また幼い子供が重い病にかかり、病院で手厚い治療を受けている最中、罪の意識にかられながらも、それを書かずにはいられない汀女がいる。静かな病室では鉛筆の音さえ響くのだった。

季節柄「日傘」にまつわる一文について書いてみよう。
炎暑のなか、日傘をさした見知らぬ母子の姿に出会う。その必死な姿に、汀女は自らの若い母親だった頃を思い、遠い土地に暮らす娘もこんなであろうかと思い、さらに母上の日傘の思い出へと、その想いの道のりを伸ばしてゆく。
麦刈りに忙しい村に帰省した汀女が、日傘をさした母上と別れてふたたび戻ってゆくときに歩くのは「堤」であった。この「堤」での別れは辛いものだ。お互いの相手の姿が見えなくなるまでに大層時間のかかることになる。しかし視力の衰えた母上の方が汀女よりもその時間が短いであろうことに不思議な安堵を覚える。「ここまで。」という地点も見つけにくい。母上が汀女と別れがたく送ってくれる道のりの長さは、母上の戻って帰る道のりの長さにもなるのだ。

そうして別れて戻ってゆく母上と汀女の間に、麦の穂束を満載した荷車が現れ、彼女は母上の後姿が見えないことにわずかに救われていた。そして村全体が麦刈りに忙しく活気に満ちていることにも救われている。手には母上と女中さんが作ってくれた車中の弁当が少し重い。

炎天を歩けばそゞろ母に似る   中村汀女
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夜学生  以倉紘平

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 これは、詩人以倉紘平氏の数編の散文詩とエッセーを収めた著書である。以倉氏は一九六五年から一九九八年までの三十三年間、大阪の釜が崎に隣接する府立今宮工業高校の定時制に国語教師として在職された。この著書は若かった以倉氏が「夜学生」と熱く関わり合い、その時間の経過とともに以倉氏が深い思いをこめて呼称した「夜学生」という言葉の風化と変貌をも見るに至るまでの記録である。それは、隣接する釜が崎の「ドヤ」の構造の変遷と連動しているかに見える。かつての木造の「ドヤ」は、宿泊者が雑魚寝できる広間があり、そこで彼等は呑み、語り合い、社会への怒りを結集させることもできた。しかし、それらの古い建物は次々に建て替えられて、狭い個室と蚕棚のような部屋とに分かれ、共有の広間を失ったかわりに部屋の差別が生まれ、彼等の怒りを組織することを阻んでいったのである。

以倉氏が熱く「夜学生」と呼ぶとき、そこに現れるのは、一九九〇年以前の苦学生の姿であろうか。実名を挙げて以倉氏が紹介している数名の生徒は、貧しく困難な家庭環境に育ち、家族を助けて働き、学び、それを「不幸」と受け止めずに生きた、様々な年齢の方々である。さらにその困難を超えて、社会人として必死に働き、新たに「聖家族」を築いていった人々である。ここで以倉氏は主張する。『口さがない評論家たちは、夜学生の夢の成就が〈小市民的な幸福〉にあったことに、皮肉や嘲笑をあびせるかも知れぬ。下積みの労働の何たるかも知らず、定職に就く忍耐力も持たず、おのれが〈選民〉たる妄想によって(略)左翼づらした言辞を弄してきたエセ文学者のなんと多いこと。』と。

以倉氏の教師生活の後半期である一九九〇年前後を境に「夜学生」の人数が徐々に減少してゆく過程で、定時制高校は全日制高校から逸れてしまった若者(あるいは高齢者の生涯教育の)の場となってゆく。背後にある家庭の貧しさも薄らいだ。さらに定時制から通信制への移行の動きも見えてくる。そこにはもうかつての「夜学生」は存在せず、人間関係を組織することの困難な生徒の「しらけ」が蔓延し「苛め」も起こってくる。「先生」も振り出しに戻されたかのように思える。しかし哀しいことだが、この生徒たちは、あの「聖家族」から育った子供の世代にあたるのではないだろうか?

   音もなく星の燃えゐる夜学かな   橋本鶏二

   翅青き虫きてまとふ夜学かな    木下夕爾

   悲しさはいつも酒気ある夜学の師  高浜虚子
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春日井健の「病」と「言葉」と「死」

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 歌人春日井健、1938年12月20日生まれ。2004年年5月22日、中咽頭癌のため死去、65歳であった。8月、思潮社より「現代詩手帖特集版・春日井健の世界」が発刊された。

太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ
愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河のありき

春日井健22歳の時の第一歌集「未成年」より。繊細と若い野性とが息づいているようだ。1960年という象徴的な時代にデビューしている。

さて、治癒することが困難とされてきた病には「結核」「ハンセン氏病」「癌」あるいは「被爆」また「風土病」や「環境汚染による病気」など、時代によってさまざまにある。これらの病は「不治」「遺伝」「伝染病」などという風説によって絶望的な時代をくぐりぬけた歴史もあり、病原菌の発見、新薬や治療法の開発によってその歴史を塗り替えられたこともある。しかし、病に苦しみ、自己の肉体の「生」と「死」を切り岸でみつめなくてはならないという状況が、人間には必ず訪れるということはいつの時代でも変わることはない。

そのような状況のなかで、「言葉」がどこまでそれを追い詰めることが出来るのか?あるいは現世と異界とを「言葉」がどのように交信できうるのか?「言葉」がどこまで肉体の生死から自立できうるのか?その答えのようなものを、春日井健の後期の歌集「井泉」「朝の水」から受け取ることができたように思う。それを3段階に分けて書いてみよう。

【闘病初期】
エロス――その弟的なる肉感のいつまでも地上にわれをとどめよ
扁桃(アーモンド)ふくらむのどかさしあたり襟巻をして春雪を浴ぶ
朝鳥の啼きてα波天に満つうたの律呂もととのひてこよ

【闘病中期】
井泉に堕ちしは昨夜(よべ)か覚めしのち生肌すこし濡れてゐたりき
太初(はじめ)に言葉ありしといへり伴へる声ありとせば明るかりけむ
濃き闇へ消えたる奔馬ふたたびを日表に出で光蹴立てよ

【闘病後期】
死の場所は聖められしかしろたへの乙女の泉湧きいでにけり
時じくの香菓の実われの咽に生れき黄泉戸喫(よもつへぐい)に齧り捨つべき
のどは暴(あば)ける墓とぞ嚥下できかぬる一句が夜のしじまをふかむ
宇宙食と思はば管より運ばるる飲食(おんじき)もまた愉しからずや
舌の根はもはや渇けりわれは神を知らぬ持たぬと呟きしゆゑ

以上11首を書きながら、思い出すのは「ハンセン病」を生きた歌人明石海人(1902〜1939)のこの短歌である。このときすでに海人はすでに失明している。

いづくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ  明石海人

人間が「病」「死」を見つめなければならなかったとき、その苦痛や不安や絶望感から「言葉」はどこまで透明となれるのか?そのいのちがけの言葉の作業の結果を死後に見つめるという、なんとも哀しい作業をわたしはしているのである。誰のために?誰のためでもない、いつか訪れるわたしの死のために。
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吉本隆明の読む明石海人その1&2

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吉本隆明の読む明石海人―その2


(つづく)と前期してしまった以上、書かずばなるまい。何故こんな大変なテーマについて、無力なわたしがあえて書くのか、自分でもわからないのだが、無力を承知で書くしかないのだ。少しだけ明石海人についての簡単なメモも書いておこうか。海人は1901年生まれ、1926年頃にハンセン病を発病、1933年作歌を始める。1939年逝去。下記は歌集「白猫」に書かれた明石海人自身の言葉です。(抜粋)

『第一部白描は癩者としての生活感情を有りの儘に歌ったものである。けれども私の歌心はまだ何か物足りないものを感じていた。あらゆる假装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思いの儘に飛躍させたい、かういう気持ちから生まれたのが第二部翳で、概ね日本歌人誌に発表したものである。が、仔細にみれば此處にも現實の生活の翳が射してゐることは否むべくもない。この二つの行き方は所詮一に帰すべきものなのであろうが、私の未熟さはまだ其處に至ってゐない。第一部第二部共に昭和十ニ年乃至十三年の作で、中には回想に據ったものも少なくない――昭和十四年一月、長島愛生園にて。』
この歌集が出版されたのは2月、この年(1939年)の6月に明石海人にこの世を去った。

さて、吉本隆明は一旦は明石海人の短歌の昇華を見たようだが、さらに別の視点から考察を続けた。たとえば短歌的声調をを整えてはいるが、修辞的な統合を欠いた作品が海人の短歌に頻出することが、吉本にはどうしても気がかりだったらしいのだ。下記の短歌は吉本がその例としてあげた作品の一部である。

(1)銃口の揚羽蝶(あげは)はついに眼(ま)じろがずまひる邪心しばしたじろぐ
(2)水銀柱窓にくだけて仔羊ら光を消して星の座をのぼる

(1)については、わたし自身は、詩「韃靼海峡と蝶―安西冬衛(1898〜1975)」の最後の一節である『すると一匹の蝶がきて静かに銃口を覆うた』をふと思い出すが、この関連性については残念ながら、わたしには裏付けはとれない。

そして、吉本隆明は一気に明石海人の短歌から彼の散文詩へと飛ぶ。この散文詩こそが明石海人が自己についても自己の死についても、非常によく相対化されていると吉本隆明は断言するのである。海人の短歌の特徴である「過剰性」は、短歌のなかに散文的な資質が内包されていたことに起因するのかもしれない。

明石海人が生きた時代は、ハンセン病は絶望的な病気であり、さらに社会からの隔離、隠蔽が強いられた時代である。作歌の手法としても、過剰と思えるほどの意味づけへの欲求がありながら、それを押しとどめることを余儀なくされたという「理不尽」が明石海人の短歌の混迷を生んだのではないだろうか?ともわたしには思える。その理不尽の一例はこれだ。

そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる

みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

ふぅ〜〜疲れた。とても書ききれるものではないなぁ〜。わたしの未熟さはわたしが一番よくわかっているが、それでも書いておかなければ先へ進めないという思いがあるので、書いておきました。最後にこの一首を置いて、とりあえずこの項を終わることにする。

いずくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ



吉本隆明の読む「明石海人」―その1


吉本隆明著「写生の物語・講談社・2000年刊」は、短歌と和歌に関する評論集である。このなかで吉本は歌人「明石海人」について書いている。この章はわたしがここ数年胸のうちで「病と言葉との関係」について揺れ続けていた疑問への解答をいただいたような気がするのだ。吉本は海人の作品を「療養所文学」あるいは「ハンセン病」という括りのなかで読んだのではなく、「困難な病と言葉との均衡関係」について書いているのだ。……と言ってもこれについて書くことはちょっとしんどいけれど、ま、書いてみようか。わたしは下記の一首が明石海人の歌人としての個性をもっともよく物語っていると思うが、どうだろうか?

あかあかと海に落ちゆく日の光みじかき歌はうたひかねたり

まず、吉本隆明は明石海人の短歌を、ハンセン病の初期症状の段階と非常に病状が進んだ時期に書かれたものを、分けて批評している。初期の明石海人の短歌は、病への恐怖と絶望感のなかにあっても精神の均衡は整っていたので、作品の透明感はこの段階では保たれていると吉本は見るのだ。まず初期の短歌を。

人間の類を遂はれて今日も見る狙仙(そせん)が猿のむげなる清さ
診断を今はうたがはず春まひる癩(かたい)に堕ちし身の影をぞ踏む

しかし、吉本は海人の病状が進み、意識不明に陥るような状況が頻発する時期に書かれた短歌は、その痛切さのために短歌にあるべき音韻とリズムの乱れが見えてくるというのだ。この時期の海人の短歌にはたしかに一首に盛り込むことが不可能と思われるものを盛り込んでしまったという「過剰性」が見られる。この特徴が海人自身の個性によるものか、彼のおかれた状況の痛切さによるものなのかを「解体」するために、吉本は海人の「叙景歌」のみを引き出してきて考察を試みるこというもしている。そこから吉本は海人の歌人としての資質を探ろうとする。下記の短歌(1)(2)は病状の深刻な時期に書かれたもの。(3)は叙景歌として抜き取ったものである。


(1)しんしんと振る鐸音に我を繞りわが眷族(うから)みな遂はれて走る
(2)息つめてぢゃんけんぽんを争ひき何かは知らぬ爪もなき手と
(3)庭さきにさかりの朱(あか)をうとみたる松葉牡丹はうらがれそめぬ

そして吉本は下記のこれらの短歌に出会って、ようやくほっとする。ここには音韻とリズムが充たされたのちに、明石海人の短歌は天上に届いたと一旦は断言するのだが……。

鳴き交すこゑ聴きをれば雀らの一つ一つが別のこと言ふ

嚔(はなび)れば星も花瓣もけし飛んで午後をしづかに頭蓋のきしむ

(つづく)
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Jul 06, 2005

海の仙人 絲山秋子

05-6-30kutinasi

 わたしはたくさんの書物を読むことのできない人間ですので、よい出会いをした書物には深く関わりたいと常に思います。これはとても「よい出会い」の物語でした。「ハッピー・エンドで終わる物語がいい。」これもわたしの基本。

 一旦読了して、わたしの心にはじめによぎった思いは、ひととひととの間にはお互いへの「愛」に気づく最も適切な時間が用意されているわけではない、大抵は遅れてくるもののようだということでした。さらにまた「死を待つ」こと、あるいは「愛する死者に追いつくこと」が人間の生きる希望に外ならないのではないかと。人間が「愛を生きる。」ということは、永い人生のなかのほんのわずかな時間、しかもそれは終末期なのではないか、とも思いました。

 詩人天野忠には「端役たち」という作品があります。これは地獄の門の前でやっと出会う男女が互いに「お変わりありませなんだか?」「おかげさまで。」と深々と挨拶を交し、鬼の小役人にやさしく「おいで。」と招かれるというものです。この詩は永いあいだわたしの心の奥に棲んでいて、事あるごとに表れるのです。「海の仙人」もまたそれを呼び出しました。

 さて、この小説の主人公とは、海辺の町で仙人(アウトロー)のように暮らしている男性河野です。実は宝くじに当たり、今までの平凡なサラリーマン生活にピリオドをうち、次に生きる場としてそこに棲みついたのです。さらにそこにふわりと棲みつき、あるいは消える「ファンタジー」という神様(のような……。神通力皆無。)との共同生活を軸にして、河野の二人の独身女性とのセックスレスの交流を静かに展開させています。河野の棲んでいる「水晶浜」と「水島」とを繋ぐ唯一の船主村井の存在も静かであたたかい。

 この「海の仙人」とその棲家を「安息の場」として「かりん」と「片桐」という二人の女性(と言っても二人の間には具体的な交流はないのだが。)は訪れる。共にキャリアを積んだワークウ―マンです。「安息の場」が女性ではなく、仙人暮らしの男性であるという物語の設定は不思議に無理がない。「かりん」は乳癌で亡くなる。その看病期間が「かりん」と河野とのわずかな「愛の時間」だった。その後、河野は落雷による失明、ラストシーンは「かりん」が現れるずっと以前から河野を愛し続けていたもう一人の女性「片桐」が河野の元に来る。空には雷雲が……。

 この物語のなかでは誰一人として心は傷つかなかった。「かりん」の死による河野の悲しみ、「片桐」の河野への片恋の淡い哀しみは、決して「傷」ではなかった。読了後の心地よさはここにあったと思うのです。そしてなによりもこの「海の仙人」という物語とわたしの出会いは最も適切な時間に実現したのです。女性という片側の性だけを生きてきたわたしが、ひととの関係性のなかで身篭ってしまった「孤独」「叶わぬ願い」「傷」、それが癒されたわけではないのですが、どうやらこれからの日々を生きるための「やさしい背骨」を頂いたようです。この物語に連れていって下さった方に感謝いたします。

(2004年8月・新潮社刊)
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袋小路の男  絲山秋子



 この小説の扉には、ロレンス・ダレルの「ジュスティ―ヌ」の一節が置かれている。『「女に対してすることは三つしかないのよ」そうクレアはある時言った。「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」』……これを「女」を「男」に置き換えてみるのはどうだろうか?うふふ。

 『あなたは、袋小路に住んでいる。つきあたりは別の番地の裏の塀で、猫だけが何の苦もなく往来している。』……と始まる小説である。主人公は「私」。『それでもくじけない。どこかの作家が言っていた。「もっともゆたかな愛は時の仲裁に服するものである」って。私の味方は時間だ。今はだめでもきっといつか。』……中間部では「私」はこんなつぶやきをもらした。
 
 読み終えてわたしはこの「私」を哀しんだ。愛している「あなた」は約束を次々に破ってばかり、長い期間放っておかれたり、気まぐれに呼び出されたり、すべてを「時の仲裁」に服して生きている「私」。これは「純愛」ではない。「私」の生きている「存在証明」を「あなた」に仮託しているだけではないのか?しかもこの「あなた」は「私」が無意識に作りあげた「袋小路」から抜け出ることをしないのだ。「私」は傷だらけの自分に気づいていない。

 この本にはもう一編「小田切孝の言い分」が収められている。主人公は「あなた」から「小田切孝」に代わる。そして「私」は「大谷日向子」として登場する。「袋小路の男」の物語が裏がえされたように展開する。ここでわたしの「哀しみ」は少しだけ救済される。物語の最後では「小田切孝」は「大谷日向子」の愛を受け入れるからだ。決して「結ばれる」という形ではないが……。

 女性が仕事を持ち、一人で生きてゆける時代は来たが、しかしこの女性たちの生き方が真の自立というものではないのだと思えてくる。出会う男性がやはり女性の生き方に大きく影を落しもするし、振りまわされもする。かつての「男尊女卑」の色濃い時代を生きた女性たちよりも、はるかにあやうい生き方をしているように見える。彼女たちは決して「新しい女性」でも「自立した女性」でもないようだ。

 この本にはさらに短篇「アーリオ オーリオ」が収められている。主人公「松尾哲」は清掃工場の機械制御室に勤務する中年男性。「美由」は哲の姪(中学3年生)である。ある日二人はプラネタリウムを観に行く。その時の哲のランチ・メニューが「アーリオ オーリオ エ ペペロンチーノ」だった。これはオリーヴオイル、ニンニク、唐辛子だけで作るスパゲティー料理の名前である。それから二人は文通を始める。すべてが「宇宙」についての話題であった。「破壊」や「消滅」をこわがる少女、「今我々が見ている星の光は、すでに破壊した星の光ではないだろうか。」と思う男とのやさしさに満ちた文通だった。この三篇目でわたしはようやく微笑むことができたようだ。

 この三篇に共通するテーマは、ある意味では社会の背面のようなところで生きている男性が、女性の生き方を目には見えないようだが、しかし大きく揺さぶりをかけているというところにあるように思える。

(2004年10月29日・講談社刊)
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『またの日の知華』

 

 これは、ドキュメンタリー映画の鬼才といわれる映画監督の原一男さんが初めて挑戦した劇映画です。製作と脚本は原一男さんのパートナーの小林佐智子さんです。この小林さんからのお誘いを戴き、2004年11月30日に桐田真輔さんに同行をお願いして、マスコミ試写会を観てまいりました。

 原一男さんと小林佐智子さんが設立した「疾走プロダクション」の代表作品は「ゆきゆきて神軍」「全身小説家」などのドキュメンタリー映画、「映画監督・浦山桐郎の肖像」「ドキュメント・七三一部隊中国遺族の証言」などのテレビ・ドキュメンタリーなど、その他にも。

 「またの日の知華」は、ヒロイン知華の青春期から最後の恋人に殺されるまでの十数年を時間の経過に沿って丹念に描かれたドラマである。四人の男たちとの愛のドラマは四章に分かれていて、それぞれの章で「知華」を演じる女優が代わるという仕掛けがあった。原監督は「男たちから見たヒロインは、それぞれ違って見えるはずだ。」という観点から、この仕掛けへの初挑戦を試みている。子供時代から老婆までを演じるという永い時間の経過がないなら、一人の女優がすべてを演じることは可能だとは思うのですが、原監督はあえてこの仕掛けを選んだようです。このドラマの時代的背景には、「六〇年・七〇年安保闘争」「連合赤軍あさま山荘事件」「東大の学園闘争事件」「セクトの内ゲバ事件」「三菱重工爆破事件」などのニュース映像が挿入されています。「東京オリンピック」などはない。

 ヒロイン知華は、少女時代から体操選手として将来を期待されていたのですが、小さな事故によって挫折する。そして中学の体操教師となる。そこから彼女の生きる意識は「張り詰めていた糸がぷつんと切れたみたい。永遠に落ちてゆく感じ……。」を拭うことが出来ない。結婚し、子供を産み、仕事、妻、母を賢明に生きながらも、子供への授乳の折に「いのちを吸い取られるような感じ……。」となる。そして夫の病気と長期入院、その間に起こる同僚の教師との不倫、退職、そこから彼女は「永遠に落ちてゆく……。」子供も夫も置き去りにして。この映画のパンフレットに挟みこまれていた作家柳美里さんの批評の言葉をお借りすれば「このやりきれなさはどこへ向かうのだろう。」という感覚が観終わってもひきずるような感覚として残る。

 わたしは「授乳」という女性だけに与えられた行為は、子供が産まれ出る時に胎内から持ち出した唯一の記憶と、女性がそれとは知らずにからだのなかに眠っていた原初からの記憶との「初めての出会いの時」なのだと思ってきました。それはもっとも自然な「いのちのシンフォニー」であり、授乳後に訪れる母親の空腹感は透明な清清しい感覚でさえあったと記憶しています。この知華の「授乳発言」シーンは、この映画完成前のフラッシュとして、すでに観せて戴いていました。その折にわたしは原監督に対して「異議を申し上げたい。」と言いましたが、「完成まで待って下さい。」というお答だったと記憶しています。しかし完成した映画を観て、わたしはやはりこの知華の発言には違和感を拭いきれませんでした。女性というものは、根源的に男性よりも「生きる」ということに肯定的なのだというのがわたしの考え方です。しかし知華は否定に向かい続ける。

 一章で、知華の夫となる男は六〇年安保闘争時代の元機動隊員、二章は同僚の体育教師、三章では教師時代の教え子、四章では恋人を殺した過去を持つ男、という設定である。この四人の男との関わりのなかで、知華からは「母性」「潔癖性」「魔性」などがかすかに炙り出されるのみであり、非常に個性の乏しい女性でした。、この物語の底流はやはり「不毛」であり「低迷」であり「貧困」であったように思えます。
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からすのいたずらにおこるな

05-5-18karasu

 わたしの「詩日記2002ー2005」のなかにある一編「しんしゅけしゃん」は、藤富保男さんの詩集「客と規約」を知らずに書いていたのです。この作品を書いた後で、桐田真輔さんからこの詩集をお借りして読みました。そのなかの作品「客」にわたしのこの作品はシチュエーションがとても似ていたのでした!

この藤富さんの詩「客」は女性が家のなかに上がり込んできて、主人の戸惑いにも無頓着に家中を歩きまわり、それが済むとカラスになってみずから鳥篭に入ってしまうのです。もう一編はこの成行きを逆転させて、カラスが鳥篭から出て、女性に変身して家中を歩きまわり、そして外へ出ていってしまうのです。

この詩集はそれだけでは終っていません。この「客」一編をもとにして、さまざまな言葉遊びを展開させているのでした。たとえば詩の各行から一文字づつ抜き取って空白を作り、その空白を繋いでゆくと「からすのいたずらにおこるな」となったりするのです。とっても楽しい詩集で一気に読んでしまいました。詩はこれくらい楽しんでいい、ばらけてもいいのだと思いました。しかし「詩を遊ぶ」ということは、本当は大変に優れた力量がいるのだと、反省もした次第です。この詩集に出会った日には大きな地震がありました。
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イッツ・オンリー・トーク  絲山秋子

  

この小説については、どこから手をつけたらよいものやら苦慮していました。どこからか執筆依頼をされたわけでもなく、わたしが書かなければならないものでもないのに、何故か「書かなければ。」と心が急くのでした。
 絲山秋子の「袋小路の男・2004年10月29日・講談社刊」の扉には、ロレンス・ダレルの「ジュスティ―ヌ」の一節が置かれていましたが、この引用の意味はもう一つあったように思えます。「袋小路の男」に同時収録されていた「小田切孝の言い分」との二編の重複構造のような展開法は、ロレンス・ダレルの「ジェスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーヴ」「クレア」の四部作から成る「アレキサンドリア・カルテット」の多重構造の展開方法に似ているように思えたのです。これについてはまだ確信はもてませんが、「ジェスティ-ヌ」だけをかじり読みをして、ちょっと気持が落ち着いたので、今日は「イッツ・オンリー・トーク」について書いてみます。やれやれ前書きが長すぎるわね。

主人公「橘優子」は蒲田在住の売れない絵描きです。彼女の周囲には四人の男性が登場する。まず都議会議員の「本間俊徳」、彼は典型的なマザコンであり、優子との肉体関係を結ぶことができない。次は「痴漢K」、彼とは合意のもとで痴漢的な性的関係だけを結ぶ。そして「林祥一」は優子のいとこだが通常の社会生活が営めず、優子は自分の部屋に同居させながら面倒をみている。四人目は「安田昇」という鬱病のやくざであり、彼女は同病者としてネットを通して出会うことになる。一見して淫らな男女関係のように見える。「イッツ・オンリー・トーク」「すべてはムダ話だ。」とは、エイドリアン・ブリュ―の歌の一節らしい。たしかに読み終わった直後は正直言って「ムダ話」を読んだという気分だった。

 一つの季節に一人の男性に思いを寄せるというのは、ごく普通の恋愛の形だろう。その時の女性は心もからだもすべてを注ぎこんでゆくだろう。これが幸福な結果を生むならばそれでいい。しかしこの視野狭窄的な行為がやがては孤独や狂気を産み、崩壊を招き、深い哀しみとともに次の季節への移ろいをも産み出すことにもなるだろう。「優子」はその恋愛の残酷な構造を柔らかく補強するかのように、あるいは避けるために、このような愛の構築法を無意識に行っているのではないだろうか?「純愛」「性愛」「母性愛」「友情」をそれぞれの男性に振り分けたのではないだろうか?わたしは時間を経てそのような考えにやっと辿り着いたようだ。

 一人の女性が生きてゆくためには何が必要なのだろうか?絲山秋子の描き出す女性像は複雑であり、しかし非常に単純な姿をしている。そしてしなやかで、壊れることのない「竹籠」のような人間の絡み合いがそこには見えてくる。この小説を読みながら、わたしがしきりに思い出した小説は十代の終わり頃に出会った柴田翔の「されどわれらが日々」でした。あの時代の若者たちのひりひりとした剥き出しの痛覚のようなものは、すでにもう絲山ワールドには存在していないようだ。だからって「昔はよかった。」なんて言わない。わたしが絲山秋子を読むのは、おそらく「今はどうなの?」という問いのためなのだ。 

(2004年・文藝春秋社刊)
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僕の叔父さん 網野善彦    中沢新一

  

 この本を読むきっかけは、「一気に読んでしまった。」という桐田真輔さんの【走り書き「新刊」読書メモ(28)】にありました。桐田さんからこの本をお借りして読みました。

 読了後、一番はじめにぼんやりと感じとったことなのですが、一人の学者が育ってゆくこと、あるいは育てられてゆくためには、わずかな人数でいいのだが他者の大きな愛がいる。また一筋の思想が頑なでもなく偏りもなく育ってゆくためには、人間の根源から涌き出るような深い愛の力がいるのだということでした。網野善彦の言葉を借りれば「彼はたいへんしゃれた、うまいいい方のできる人で、なかなか本質的な表現で私がぼんやり考えていることをいってくれます。」というような中沢新一の美しい文体とともに、そのような深い感銘を受けました。

 まず、哲学者であり宗教学者の中沢新一を育てた親族を記してみよう。すべて山梨県出身者でることにも注目して下さい。父親の中沢厚は在野の民族学者、コミュニストである。叔父の中沢護人も「鉄の歴史家」と言われた在野の研究者です。そして中沢新一が五歳の時に、父中沢厚の妹の真知子叔母の婚約者として登場するのが、この本のタイトルとなっている歴史学者「網野善彦」です。この四人の真摯で豊かな対話の積み重ねが、さらに思考のおおきな流れをつくっていったようです。

 この網野善彦は若き日の中沢新一にこのように語っています。『貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まない土地だと言われてきたけれども、そのおかげで、ほかのところでは消えてしまった原始、未開の精神性のおもかげが、生き残ることができたともいえるなあ。貧しいということは、偉大なことでもあるのさ。』この一冊に貫かれているものはこの網野の言葉に集約されているようです。

 中沢厚の著書に『つぶて・一九八一年・法政大学出版局刊』がある。「飛礫(つぶて)あるいは(ひれき)」の歴史の再発見がテーマとなった著書のようだ。この論考の発端となった厚の意外な視点についての、新一の記述部分は心が躍り出すほどに面白かった!  一九六八年一月、佐世保港にアメリカの原子空母「エンタープライズ」が給油のため入港する。それを阻止しようとした「反代々木系」の学生たちはヘルメット、角棒、旗竿を持って機動隊に激突、そして彼等のとった行動は「投石」であった。機動隊はおおいにたじろいだ。このテレビ報道を食い入るように観ていた父親が最初に語ったことは、父親の少年期の、笛吹川の対岸の万力村や正徳寺村の子供たちと、こちら側の加納岩村の子供たちとの「投石合戦」だったのだ。「投石」という人類の根源的な衝動の働きかけを厚はそこに感じとったのである。原初の人間から引き継がれている行為は、消えることなく現代の人間たちに内在されていたということだろうか?中沢厚のこの研究はそこから出発したらしい。

 この中沢厚の「つぶて」は網野善彦の著書『蒙古襲来』に引き継がれる。この著書の章のタイトルは「飛礫、博奕(ばくえき)、道祖神」から始まった。難しいことはわからないが、わたしが感覚的に理解できたことは「アジール」的な精神世界の存在が、歴史の根底にはいつもしっかりとあって、その上で人間の侵略戦争、反権力闘争は続いてきたのだろうということでした。

 これ以後、網野善彦と中沢新一の仕事は弛むことなく続くのですが、以上書いたことは、この一冊から極私的にわたしの心の琴線に触れた部分だけです、と責任放棄しておきます(^^;。

(2004年・集英社新書)
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シルヴィア

05-6-22murasakihana

 人間は「詩」なんてなくても、きっと生きてゆける。けれども「詩」はありつづける。「詩」という魔物のためにいのちを捧げた人間もいる。過去においても未来においても「詩」を離れることはいつでもありえたし、またありうると、わたしは思っているのだけれど……。

 二月三日午後、立春の前日とはいえ風は頬に痛く冷たく、空は見事に晴れていて、白い雲が美しく浮んでいた。いつものように空ばかり見ながら駅への道を歩いた。この時間がとても好きだ。渋谷着午後三時二〇分、渋谷の方が少しあたたかく、風もおさまっている。ここに来ると空は見なくなる。駅の人混みのなかから見つけた同行者の最初の笑顔を見るのが好きだ。わたしたちは「渋谷ぶんかむら」にて、映画「シルヴィア」を観る。

 「シルヴィア」のヒロインは詩人シルヴィア・プラスのこと。映画は、フルブライト奨学生として、イギリスのケンブリッジ大学に留学中のシルヴィアと詩人テッド・ヒューズとの電撃的な恋からはじまる。結婚してからはテッドの女性問題に嫉妬し、さらに家事と育児に翻弄されながら詩作に苦しみ、作品が世に認められないことに苛立つ、かなり世俗的な描き方がされている。わたしは詩作の停滞はそうした具体的な事情によるものではない、それはもっと内面的なものに起因するのではないかと思う。映画がそれを描ききることはやはり無理なことだったのだろうか。

 シルヴィアは結局夫と別れ、幼い二人の子供を残して、ガス・オーヴンにて自殺、三〇年の短い生涯を閉じている。映画のエピローグあたりからわたしのからだは震えはじめた。シルビアは、深夜に同じアパートに住む老教授から切手を譲ってもらい、友人宛ての遺書(多分)を送る。眠っている幼い二人の子供の部屋の窓を半分だけ開けて、二人分の朝食用のバターつきパンとミルクを置き、子供部屋のドア―に目張りをしてからキッチンへ。シルヴィアは静かな死に顔だった。映画はそこで終わる。

 かつてわたしにも幼い子供と暮らした時間はあった。その時期わたしは強いて詩に拘ろうとは思わなかった。しかもある時には自分の書棚をすべて空にしたこともあった。(この事情は子供が原因ではないが。)幼い子供と過ごすことは、心身ともに困窮の時間でもあり、また至福の時間でもあった。そして「この幼い子供のためにわたしは死ねない。」という、いのちの原郷にわたしは無意識に立っていたのだった。幼い子供がわたしを生かし、育んでくれた時間でもあったのだ。

 それでも幾度も同じ夢をみた。幼い子供を置いてわたしはふいに旅立つ。しかし旅の途中で、母親の不在に泣き叫ぶ幼い子供の声を聴いて、わたしは大急ぎで帰ろうとするのに、どうしたことか道に迷ったり、行先の違う列車に乗ってしまったりする。疲れ果てて目覚めて、それが夢だったことに安堵する。
 一方、子育てに疲れた母親による「子殺し」事件に共振するわたしもいたし、理由もわからず泣きやまない子供を、窓から放り出したい衝動にかられたこともあった。しかしそれらのことは「詩」との繋がりを産む出来事ではなかった。むしろ子供の心に「傷」として残存することを恐れ続けた。

 上の子供が十歳を迎えた時、わたしは自然に詩に向き合う時を迎えた。その時のわたしは子供の詩から書きはじめた。わたしは三度(一度目はわたし自身の子供の時間)の子供の時間を生きて、それを過去に送った。

 シルヴィアは八歳で深く愛した父親を亡くしている。それが彼女の短い生涯に影を落とし続けているのではないか?シルヴィアが「父の蘇えり」とさえ思い込み、結婚した夫テッド・ヒューズとの別離、彼女の詩の理解者である編集者アル・アルヴァレズからの愛の拒否。人間は人生のある時期に一つの心の「躓き」があると、同じ「躓き」を繰り返すものではないだろうか、とふと思う。映画のなかで、死の数ヶ月前に、シルヴィアが泣きながら書いた詩「Daddy=おとうちゃん」はそれを象徴してはいないだろうか?
   それに加えて、少女期からその才能を高く評価されたがために、少女シルヴィアの心がそれに追いつけなかったということ、さらに大学の一回だけの不合格、その後の自殺未遂(これも父のもとへ行こうとしたと思えます。)など、すべて見えないものに繋がれてゆく「躓き」だったのではないだろうか?

 このようなシルヴィアの事情があったにせよ、わたしは映画「シルヴィア」にからだが震えたのだった。それは幼い子供のために、何故生きることを選択できなかったのかという、シルヴィアへの密かな怒りだったかもしれない。幼い子供へは「生きる」ことを望み、シルヴィアは「死」を選ぶ。それは生き残された幼い二人の子供にとって、やがて人生の一回目のもっとも大きな「躓き」になったことだろう。シルヴィアが「詩」に支払った代償はあまりにも大きすぎる。それはほとんど「恐怖」となって、わたしに襲ってきたのだった。

 この「からだの震え」は、映画の後に同行者と話をする時間の前半まで続き、その時間を過ぎてからまた深夜まで続いた。深夜同行者にメールを書いた。「迷惑メールだなぁ。」と思ったが送信してしまった。返信がなかったとしても仕方がないと思っていたが、さらに深夜に返信は届いた。『あの映画から、あまり過大なものをうけとると、虚像を相手にしてしまうことになりますよ。』

 どうやらわたしは映画「シルヴィア」について書きながら、結果はみずからを曝しただけだったようです。以下にシルヴィアの作品を紹介いたします。この作品は同行者が入力してくださいました。ありがとうございます。


おとうちゃん  シルヴィア・プラス

あなたはおしまい、もうおしまいよ、
あわれな足のように、その中であたしが
三十年間、貧しく白く
呼吸(いき)することも、くしゃみもできずに、
がまんを重ねた黒い靴は、もうおしまいよ。

おとうちゃん、あなたを殺さねばならないといつも思ってたの。
間に合わないうちに、あなたが死んじゃったものだから。
大理石みたいに重くて、神さまがつまった鞄さながら、
サンフランシスコのあざらしのように
大きな灰色の足一つを持って
気まぐれな大西洋に頭を浮べた恐ろしい像のよう。
そこでは美しいノーセットの沖合の
波間で青に緑が混ぜられているわ。
あたしはあなたを取り戻すようにお祈りしてたの。
ああ、ドイツ人のあなたを。

ドイツ語でお祈りを続けたわ、
戦争、戦争、戦争と言うローラーに
ぺしゃんこにされたポーランドの町で。
でも町の名は珍しくもないもので、
あたしのポーランドの友だちに言わせると

一ダースも二ダースもそんな町があるそうよ。
だからあたしには判らなかったの、
どこにあなたが、足を、根っこをおいたのか。
あたしはあなたに話しかけることもできなかった。
舌があたしのあごの中で動かなくなり、

ひげ文字のような、有刺鉄線の中に囚われた。
あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)は。
あたしはドイツ語で話せなかった。
ドイツ人はみんなあなただと思っちゃた。
そしてあのみだらな言葉は

機関車なのよ、機関車なの、
あたしをユダヤ人みんなのように駆り立てて行く。
ダッハウへ、アウシュヴィッツへ、ベルゼンの悲劇へとまっしぐら。
あたしはユダヤ人みたいに話し始めた。
あたしはユダヤ人だと言ってもいいわ。

チロル地方の雪も、ウィーンの澄んだビールも、
そんなに純粋でも真実でもないわ。
ジプシー女の御先祖と不幸を担って、
タロット・カードの予言を受けて、
あたしはユダヤ人の端くれと言ってもいい。

あたしはずっと「あなた」を恐れて来たの、
ナチの空軍を持ち、わけのわからぬ言葉をしゃべるあなたを。
それに小ぎれいな口ひげと
青くきれいなゲルマンの眼とを。
戦車兵、戦車兵、ああファシスト、

神ではなくてかぎ十字、
影が真黒、青い空さえすり抜けられない。
女は誰でもファシストを讃える、
凶暴な長靴(ブーツ)のような顔、野獣みたいな
あなたのような凶悪な男たちを。

あなたは黒板に向かっているわ、おとうちゃん、
あたしが持ってる写真の中でね。
足の代りにあごに裂け目、
それでもやっぱり悪魔のかたわれ、
あの腹黒い男と同じ仲間ね、

あたしの可憐な赤い心を真二つに裂いた奴。
あなたの埋葬の時に、あたしは十歳のはず。
二十歳(はたち)の時には、あたしは死んで
あなたのもとへぜひ戻ろうと志す、
骨だけだって何とかなると思ったの。

だけどあたしは引き出され、
にかわで接着されました。
それからわたしは手段(てくだ)を知った。
あなたのモデルを作ったわ。
黒服を着て総統のほまれ、

それに拷問も好きな男。
それを夫に迎えたの。
ねえ、おとうちゃん、やりとげたのよ。
黒い電話は根元で切れて、
しつこい声ももう伝わらないわ。

一人の男を殺したのなら、あたしは二人殺したわけよ。
自分があなただと言い張ったあの吸血鬼、
あたしの血を一年間吸った男、
本当を言えば七年にもなる。
おとうちゃん、やっとあなたは休めるの。

あなたの肥った黒い心臓に呪いのくいが打たれる。
村人たちはあなたを嫌った。
躍り廻って、みんなあなたを踏みつける。
それがあなただといつもみんな知ってたの。
おとうちゃん、やくざなあなた、あたしはすっかりやりとげたのよ。

皆見昭訳『シルヴィア・プラス詩集』(鷹書房)より。
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オニババ化する女たち 三砂ちづる

   

 この著書の感想を書く前に、まず申し上げておきます。女性には子供を「産まない。」と主張する人生と、「産めない。」という喪失の人生があります。後者の女性にとって、これはまことに残酷な著書だと思えます。この著書の趣旨は「女性よ、性をできうる限り幸福な営みとして受け入れ、子供を産みなさい。それもできるだけ早期に。」というものなのです。これはまさに酒井順子の著書「負け犬の遠吠え・講談社・2003年刊」の対極にあるかのようだが?

 さて、女性が仕事を持ち、自立できる時代が来たことは、おおいに喜ぶべきことです。しかしここでいつも問われるのは「母」と「子供」の問題なのでしょう。「母」が自立するために「子供」の存在は大問題となってしまった。まず今の出産適齢期にいる女性たちは「子供を産むか否か?」を考えるようになり、その後で「出産と育児の困難さ」に直面し、そして「仕事との両立は可能か否か?」という構図で考えるようになってしまったようです。

 しかし本来「子供」が産まれ、育ってゆくことは原初から引き継がれたものであり、特別なできことではない。無意識下にあった自然ないのちの営みを、女性の生き方の「大テーマ」として考えなければならない時代になってしまったということではないだろうか?元より「子供の生誕」と「女性の現代の生き方」とを並列して考えることには無理があるのではないだろうか?

 わたし個人の過去の体験を思うとき、出産後に、みずからのからだに内包されていた「人間の原初」を見たという鮮明な記憶があります。そして赤子は、母親の胎内で人間の進化の永い歴史を十月十日でやり遂げて、その時代に産まれてきたのです。口元に触れてくるものを「吸う」という記憶行為だけを母親の胎内からたずさえて……。そしてその行為の力強さも驚嘆に値するものでした。さらに四足歩行から二足歩行のいきものに変わるまでには約一年の期間があり、それらの過程は母と赤子の「蜜月時間」となるわけです。この相互の関わりが母と子供とのいのちの連鎖を自然に取り結ぶのではないでしょうか。そこは「フェミニズム」も「ジェンダー」も介在できない「アジール」的な世界なのではないかと思われます。

 この著書にはさまざまな事例が挙げられていて、列挙することは到底無理なことですが、お雛祭りも近いので「京言葉」についての事例のみご紹介いたします。わたしにとっては一番興味深いところでもありましたので。  「おいど」は通常「おしり」と解釈されていますが、実は「肛門、膣、子宮、外性器」全体を表現する言葉だそうです。また「おひし」は「女性性器」を表わす言葉で、お雛祭りの「菱餅」はこの「おひし」に由来するもの。ですから上方では「正座しなさい。」は「おいどをしめなさい。」となり、正座を崩すと「おひしが崩れますえ。」というお叱りを受けることになります。このなにげない日常の躾が、実はとても大切な女性の身体性を強靭に育てあげる教訓だったのです。

 また、著者はさまざまな提言の根拠として、世界各地での母子に関する取材や保険活動の現状や統計報告もたくさん提出しています。また著者自身の「気付き」にすぎないものも記されています。この混在がこの著書の「生煮え」状況をつくっていることも否めません。この著書は「ジェンダー」「フェミニズム」の流れに「投げられた小石」の一つだと受け止めます。

「オニババ」を三砂ちづるはこのように定義しています。性と生殖にきちんと向き合えないまま、その時期を逸してしまった女性を昔話の「山姥」や「オニババ」に喩えたにすぎません。子供を持たぬ女性たちよ、早急に解釈して憤怒するなかれ。女性が「子供を産まない自由」について考えることのできる今日に至るまでには、過去の女性たちの永い永い歴史があるのだと考えてみてはどうか?ということなのですから。

(光文社新書・2004年刊)
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オペラ座の怪人

05-6-28mizubasyou

 過日、映画「オペラ座の怪人」を観ました。新宿紀伊国屋書店で待ち合わせた同行者に「何故この映画を?」と聞かれたけれど、特に理由があったわけではない。あまりにも有名なのに原作も読まず、舞台でも映画でも観たことがなかったからです。ですからこの映画が原作に忠実であるかどうかもわかりません。怪人ファントム説もさまざまですし。

 原作は、フランスの作家ガストン・ルルーが一九一〇年に発表した小説。この小説誕生には、どうやら二つのヒントがあるらしい。一つはオペラ座で実際に起こった巨大シャンデリアの火災、落下事故。二つ目がこのオペラ座建築の際に、そこが湿地帯であったことから排水作業に困難を極め、結果それは地下の防火用貯水池となったこと。このオペラ座の不思議な事件が生み出した小説によって、オペラ座はさらに絢爛たる歴史を繋ぐことになったのでしょう。

 その小説はさまざまな舞台や映画となっています。今回のミュージカル映画の監督と脚本はジョエル・シュマッチャーです。一九八五年のアンドリュー・ロイド=ウェバーのミュージカル舞台脚本を少し変えてあるようです。

 舞台は十九世紀のパリ。でも台詞はすべて英語でした(笑)。オペラ座に乗りつける観客の馬車(これはわたしの個人的な熱い好み♪)、オペラ座の室内外の贅沢な建築、舞台の衣装の見事さ。馬や羊などは本物が出演していた!群舞の少女たちのうつくしさ♪そこからやがてプリマに選ばれてゆくヒロインのクリスティーヌのうつくしかったこと♪

 映画を観終わって、夜の新宿の街に出たとたんに、「ららら~ら~らら~♪」と映画のなかで何度も繰り返されたメロディーを、歌い出したのは同行者である。わたしももちろん歌い出したけれど(^^)。この映画はファンタジーなのです。ヒロインを愛した二人の男の命がけの闘いの物語なのであります。溜息であれ、楽しかったであれ、まずは歌ってしまうことでありました。

 でも一つだけ不満がある。それはファントム役のジェラルド・バトラーの歌声です。クリスティーヌは、亡父からファントムは「謎の師」「音楽の天使」と伝えられていたという存在なのですから、もっと澄んだ美しい歌声の方がよかったなぁ。ファントムがクリスティーヌをオペラ座のプリマにまで育てあげる役割をしているはずなのですから。

 翌日になって、ファントムとラウルの二人の愛の間で揺れ動くクリスティーヌを思った時、寺山修司の詩をふと思い出した。うるおぼえなのだが……。


   女のからだは お城です
   なかに一人の少女がかくれている
   もういいかい?
   もういいかい?
   逃げてかくれたじぶんを さがそうにも
   かくれんぼするには お城はひろすぎる


 「音楽の天使」怪人ファントムは、長い間、その醜い顔ゆえにオペラ座の地下洞窟で秘密に生活をしていた。その境界には湖があり、そこには不思議で美しく残酷な幻想世界が広がっていた。そこでファントムはひそかにずっとクリスティーヌを愛し続けていたのだが、ラウルの出現によってクリスティーヌを失うことになると思った時からファントムの行動も醜いものとなる。しかし最後にファントムはクリスティーヌを手放す。

 人間がうつくしいということ。醜いということ。それは人間の生きるうえの大きなテーマではないだろう。おそらくは「どのように愛したか。」ということが一番大きなテーマであるはずだ。人間が生きるということはそれだけ。クリスティーヌの死後、ラウルは、ファントムが終生語り合ったと思われる「シンバルを叩くモンキー」のからくり人形を彼女の墓前に飾る。そしてそこにはひっそりと紅薔薇も。これはファントムがどこかで生きているという証だった。
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Jul 05, 2005

映画「血と骨」

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 監督は崔洋一、原作は梁石日、主演はビートたけし、鈴木京香。

 この映画を観ることになるとは思ってもいませんでしたが、たまたま観ることになってしまった。この映画のDVD&VIDEOの発売の記念試写会があるということで、不運(?)にもそのチケット二枚が転がりこんできたのです。ビートたけし演じる主人公「金俊平」の破壊的な暴力シーンの続出。後半部はついに観ることが出来なくて、音が静かになるまで目を覆っていました。疲れた……。崔洋一は何故このような映画を作りたかったのだろう?過剰なリアル性を求める表現方法というものは、映画に限らず詩においても当然ある。しかしそれが表現方法として最上のものとは、わたしは決して思わない。

 『血は母より骨は父より受け継ぐ。』これは一九二〇年代の大阪へ「ここより他のところ」を求めて、済州島から渡ってきた出稼ぎ労働者の若者の半生であり、朝鮮人集落という舞台で繰りひろげられた過酷な「家族物語」なのでしょう。「愛」とか「やさしさ」などという、なまやさしいものはひとかけらもない。並外れた腕力と体力を持った冷酷な男の半生であった。子供にとっても「恐怖」の存在だった男。娘を自殺に追い込んだ男。

 「金俊平」に関わる女性は三人登場する。鈴木京香演じる一番目の女性は、強引に俊平との生活に引きずりこまれ、二人の子を産む。俊平の失踪と帰宅、その後に続く俊平の女性問題に翻弄されながらも、自らの生き方を通した。二番目の女性は俊平の強引さに「うち、死んでしまいそうやわ。」と応えてゆく。道路を隔てた別宅で暮らし、やがて子をなさないままに病に倒れ(最期は俊平の手によって「楽にしてやった。」)、その女性の看護役として三番目の女性が現れる。彼女は看護のかたわらに、五人の子供を産む。そして俊平が体の自由がままならない状況を迎えた途端、家中のお金を持って子供とともに別宅を出てゆく。それぞれが全く異なる個性の女性だが、俊平が女性たちに望んだものは「骨を受け継ぐ者」だったのではないか?

 しかし、この主人公「金俊平」とは、男性のエゴイズムの深い暗部だけを取り出してきて、そこを拡大し、具象化して見せた一人の「巨人像」だったのではないかとも思える。そこに視点を当てると、この映画(あるいは原作)のテーマは民族や歴史や家族というものを超えたところにもあるようだ。以上の感想は極私的なものです。
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