Jul 06, 2005

『またの日の知華』

 

 これは、ドキュメンタリー映画の鬼才といわれる映画監督の原一男さんが初めて挑戦した劇映画です。製作と脚本は原一男さんのパートナーの小林佐智子さんです。この小林さんからのお誘いを戴き、2004年11月30日に桐田真輔さんに同行をお願いして、マスコミ試写会を観てまいりました。

 原一男さんと小林佐智子さんが設立した「疾走プロダクション」の代表作品は「ゆきゆきて神軍」「全身小説家」などのドキュメンタリー映画、「映画監督・浦山桐郎の肖像」「ドキュメント・七三一部隊中国遺族の証言」などのテレビ・ドキュメンタリーなど、その他にも。

 「またの日の知華」は、ヒロイン知華の青春期から最後の恋人に殺されるまでの十数年を時間の経過に沿って丹念に描かれたドラマである。四人の男たちとの愛のドラマは四章に分かれていて、それぞれの章で「知華」を演じる女優が代わるという仕掛けがあった。原監督は「男たちから見たヒロインは、それぞれ違って見えるはずだ。」という観点から、この仕掛けへの初挑戦を試みている。子供時代から老婆までを演じるという永い時間の経過がないなら、一人の女優がすべてを演じることは可能だとは思うのですが、原監督はあえてこの仕掛けを選んだようです。このドラマの時代的背景には、「六〇年・七〇年安保闘争」「連合赤軍あさま山荘事件」「東大の学園闘争事件」「セクトの内ゲバ事件」「三菱重工爆破事件」などのニュース映像が挿入されています。「東京オリンピック」などはない。

 ヒロイン知華は、少女時代から体操選手として将来を期待されていたのですが、小さな事故によって挫折する。そして中学の体操教師となる。そこから彼女の生きる意識は「張り詰めていた糸がぷつんと切れたみたい。永遠に落ちてゆく感じ……。」を拭うことが出来ない。結婚し、子供を産み、仕事、妻、母を賢明に生きながらも、子供への授乳の折に「いのちを吸い取られるような感じ……。」となる。そして夫の病気と長期入院、その間に起こる同僚の教師との不倫、退職、そこから彼女は「永遠に落ちてゆく……。」子供も夫も置き去りにして。この映画のパンフレットに挟みこまれていた作家柳美里さんの批評の言葉をお借りすれば「このやりきれなさはどこへ向かうのだろう。」という感覚が観終わってもひきずるような感覚として残る。

 わたしは「授乳」という女性だけに与えられた行為は、子供が産まれ出る時に胎内から持ち出した唯一の記憶と、女性がそれとは知らずにからだのなかに眠っていた原初からの記憶との「初めての出会いの時」なのだと思ってきました。それはもっとも自然な「いのちのシンフォニー」であり、授乳後に訪れる母親の空腹感は透明な清清しい感覚でさえあったと記憶しています。この知華の「授乳発言」シーンは、この映画完成前のフラッシュとして、すでに観せて戴いていました。その折にわたしは原監督に対して「異議を申し上げたい。」と言いましたが、「完成まで待って下さい。」というお答だったと記憶しています。しかし完成した映画を観て、わたしはやはりこの知華の発言には違和感を拭いきれませんでした。女性というものは、根源的に男性よりも「生きる」ということに肯定的なのだというのがわたしの考え方です。しかし知華は否定に向かい続ける。

 一章で、知華の夫となる男は六〇年安保闘争時代の元機動隊員、二章は同僚の体育教師、三章では教師時代の教え子、四章では恋人を殺した過去を持つ男、という設定である。この四人の男との関わりのなかで、知華からは「母性」「潔癖性」「魔性」などがかすかに炙り出されるのみであり、非常に個性の乏しい女性でした。、この物語の底流はやはり「不毛」であり「低迷」であり「貧困」であったように思えます。
Posted at 21:23 in movie | WriteBacks (0) | Edit
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