Dec 28, 2006

贈答の詩⑤ 朝吹英和句集『光の槍』への挨拶詩

music-Gustav Klimt

 『光の槍』とは、ケルト神話に登場するダーナ神族の一人である太陽神「ルー」が持つ武器「ブリューナク」に由来するとのことです。朝吹さんの「あとがき」ではこのように書かれています。

 『モーツァルトの交響曲三十八番二長調。仄暗い聖堂を出た騎士の青きサーベルに煌く陽光。駿馬の如くしなやかで力強いアレグロの主題がクレッシェンドしながら夏野を駆け抜ける。対位法的展開が綾成す光と影の時空を切り開いて前進する音楽のシャープなエッジ。闇の底から麦秋の煌きへの鮮烈な転位、「光の槍」に刺し抜かれて精神の夏が輝く。』

 朝吹さんの俳句は、一読して音楽を中心として美術や歴史などへの造詣の深さがうかがえます。また、おだやかな日常風景も描かれていまして、句集全体の均衡関係がとても見事だと思いました。さて、この句集にどのよな挨拶詩が似合うのでしょうか?朝吹さんが書いてくださいました、わたくしの詩集「空白期」へのご批評のテーマが「時間」でしたので、それをたぐりよせながら、書きはじめましょう。


  時間の煌き

  この広大な世界 ちいさなわたくし
  遠いひと ここにいるわたくし
  神からの比べようのない贈り物
  煌く時間の彷徨
  そして 光の槍

  春の朝
  ブラインドの傾きをくぐりぬけた
  幾筋もの光が一瞬照らし出したものは
  モーツァルトの弾いたチェンバロ
  レ音のない未完の楽譜 遠い時間

  夏の真昼
  雲の峰を仰ぎみながら
  熱砂を歩く駱駝のおだやかな足取りを思う
  その背に揺れる永い時間
  足跡を失くしたひとはふたたびそこを訪れるでしょう

  秋の夕暮れ
  柱に刻まれた幾筋かの傷を残して
  飛びたっていった子供たちよ
  残照のなかに込められたふたたびの希望
  あるいは時間の鍵はみつかりましたか?

  冬の夜
  青葉木菟の語る物語は
  はじまりもおわりもない
  騎士の投げた光の槍が
  音もなくどこまでも時の闇を切り開くように

   (二〇〇六年・ふらんす堂刊)
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Dec 22, 2006

イノセント

first-kiss
 監督・ルキーノ・ヴィスコンティ(イタリア)=遺作。
 原作・ガブリエーレ・ダヌンツィオ

 この映画は「ヴィスコンティ生誕100年祭」の一環として、『完全復元&無修正版』を八月二十三日にイタリア文化会館の「ウンベルト・アニェッリ ホール」で観ました。大変に美しい画面に驚かされましたが、その折には映画感想を書く気持はあまりありませんでした。しかし、二十一日午後にコーヒーを飲みながら、何気なく観たテレビドラマで、ふいに思い出したのでした。

 どうということのないドラマです。夫以外の子供を身ごもった女性が、お互いにそれを承知で結婚し、その男児を産み、さらにその後に女児も産まれ、幸せな四人家族を築いていたのですが、中学生になった息子はそれに気付くのでした。育ての父親に「僕は産まれてこなければよかったんだね。」と問いかけますが、父親はそれをきっぱりと否定します。それによって息子は本当の父親に決別するのでした。
 そのシーンを観ていましたら、ふいにこの映画を思い出しました。その少年の決意に、何故か心を動かされたのです。この世に子供が産まれてくることは、どんな事情があっても祝福されるべきものであるからです。

   二十世紀初めのローマ。社交界にスキャンダラスな話題を振りまくトゥリオ伯爵は、未亡人の公爵夫人テレザと関係を持ちますが、妻ジュリアーナにそれを認めさせようとします。しかし妻は作家フィリポとの不倫に走り、彼の子どもを身ごもりましたが、お互いに離婚はできません。苦しみと憎しみと嫉妬のなかで子供は産まれてきたのです。そこでジュリアーナの子供への愛しさと、トゥリオ伯爵の子供への憎しみが交錯します。

   ここにはヴィスコンティ自身を投影させた、貴族階級の地獄のような悲劇を冷徹に描き、加えてキリスト教の厳しい戒律をもこめているのではないかと思われます。これがヴィスコンティの遺作となったことも意味深いことかもしれません。

 クリスマスの晩、教会に行かないトゥリオは、家族の留守に、乳母も無理矢理教会に行かせて、雪の降る戸外へ赤ん坊を晒して殺してしまうのでした。夫のもとを去る妻のジュリアーナ。トゥリオはテレザのもとへ戻るが、結局トゥリオはピストル自殺で幕を閉じるのだった。

 「地上のことは地上で決着をつけたい」これが無神論者トゥリオの考え方だった。
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Dec 18, 2006

若き詩人への手紙  リルケ

magritt32
 私事ながら、秋に詩集「空白期」を出しました。詩集を出すことにはいつでもたくさんの躊躇があります。それは何度体験しても克服することはできません。それでもあえて出すのは何故でしょう?
 この詩集を出すと決めた時に、大切な友人から「詩を手放したら生きてゆけない、と言うほどの思いがあるか?」という質問(詰問?)を受けました。「はい。」とは言えなかった。しかし「いいえ。」では絶対に違う。「その質問には答えたくない。」と言いました。一旦決めてからの詩集制作過程は大変幸せな時間となりました。その後の発送の時間も淡々と過しました。そして、あらためてわたくしは「リルケ」に帰りたくなりました。

 わたくしが師と思っている唯一の詩人新川和江さんに、十二月の初めにお目にかかりましたが、その折の新川さんとの会話の大半が「リルケ」だったということも、その大きな要因かもしれません。それから新川さんはすでにたくさんのお仕事をされて、詩人の育成にもお力を注いだ方であるにも関わらず、お会いする度に少女のように「よい詩を書きましょうね。」とおっしゃることへの驚きと歓びと同意とが、わたしを「リルケ」再読に連れていって下さったのかもしれません。以下はすべて引用です。大変に美しい翻訳ではないかと思います。

 『日常の富を呼び出せるほどに自分が十分に詩人ではないのだと心にうちあけなさい。』

 『芸術作品は無限に孤独なもので、これに達するのに批評をもってするほど迂遠な道はありません。愛だけがそれを捕えて引き止めることができ、それに対して公正でありうるのです。』

 『一人の創造者の思想のなかには忘れられた幾千の愛の夜々がよみがえり、その思想を尊厳と高貴をもって満たします。』

 『かつて少年の日にあなたに課せられたあの大きな愛は、失われたのだとはお思いにならないでください。あなたが今日でも生きる拠り所となさっている大きい良い願いや企てが、当時のあなたの心に熟していなかったかどうか、おっしゃることがおできでしょうか? わたしはあの愛がそんなに強く烈しくご記憶に残っているのは、それがあなたの最初の深い孤独であり、あなたが自分の人生に即してなさった、最初の内的な仕事だったためだと思います。』


 これらの言葉を書き写すことで、心に残しておこうと思います。

 (昭和三十九年・世界の文学36・中央公論社刊)
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Dec 16, 2006

吉本隆明の読む明石海人―その2

arabunogakuzin-Odilon Redon

 何故こんな大変なテーマについて、無力なわたくしがあえて書くのか、自分でもわからないのですが、無力を承知で書くしかないとも思うのです。少しだけ明石海人についての簡単なメモも書いておきます。海人は一九〇一年生まれ、一九二六年頃にハンセン病を発病、一九三三年作歌を始める。一九三九年逝去。下記は歌集「白猫」に書かれた明石海人自身の言葉です。(抜粋)

 『第一部「白描」は癩者としての生活感情を有りの儘に歌ったものである。けれども私の歌心はまだ何か物足りないものを感じていた。あらゆる假装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思いの儘に飛躍させたい、かういう気持ちから生まれたのが第二部「翳」で、概ね日本歌人誌に発表したものである。が、仔細にみれば此處にも現實の生活の翳が射してゐることは否むべくもない。この二つの行き方は所詮一に帰すべきものなのであろうが、私の未熟さはまだ其處に至ってゐない。第一部第二部共に昭和十ニ年乃至十三年の作で、中には回想に據ったものも少なくない――昭和十四年一月、長島愛生園にて。』
 この歌集が出版されたのは二月、この年(一九三九年)の六月に明石海人にこの世を去りました。

 さて、吉本隆明は一旦は明石海人の短歌の昇華を見たようですが、さらに別の視点から考察を続けています。たとえば短歌的声調を整えてはいるが、修辞的な統合を欠いた作品が海人の短歌に頻出することが、吉本にはどうしても気がかりだったらしいのです。下記の短歌は吉本がその例としてあげた作品の一部です。

  (1)銃口の揚羽蝶(あげは)はついに眼(ま)じろがずまひる邪心しばしたじろぐ
  (2)水銀柱窓にくだけて仔羊ら光を消して星の座をのぼる

 (1)については、わたくし自身は、詩「韃靼海峡と蝶―安西冬衛(一八八九年~一九七五年)」の最後の一節である『すると一匹の蝶がきて静かに銃口を覆うた』をふと思い出しますが、この関連性については残念ながら、わたくしには裏付けはとれません。

 そして、吉本隆明は一気に明石海人の短歌から彼の散文詩へと飛ぶ。この散文詩こそが明石海人が自己についても自己の死についても、非常によく相対化されていると吉本隆明は断言しています。海人の短歌の特徴である「過剰性」は、短歌のなかに散文的な資質が内包されていたことに起因するのかもしれませんね。

 明石海人が生きた時代は、ハンセン病は絶望的な病気であり、さらに社会からの隔離、隠蔽が強いられた時代である。作歌の手法としても、過剰と思えるほどの意味づけへの欲求がありながら、それを押しとどめることを余儀なくされたという「理不尽」が明石海人の短歌の混迷を生んだのではないだろうか?ともわたくしには思えます。その理不尽の一例として。。。

  そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる
  みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

 わたくしの未熟さはわたくしが一番よくわかっていますが、それでもこれを書いておかなければ先へ進めないという思いがありますので、書いておきました。最後にこの一首を置いて、とりあえずこの項を終わることにします。

  いずくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ
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吉本隆明の読む「明石海人」―その1

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 十一月十七日の日記に「ハンセン病文学全集・8・短歌(その一)」を書いて、最後に「つづく」と書きましたが、その代わりとして、これを書いておきます。これは二〇〇四年秋に書いたものですが、少し書き直しをして再録しました。

 吉本隆明著「写生の物語」は、短歌と和歌に関する評論集です。このなかで吉本は歌人「明石海人」について書いています。この章はわたくしがここ数年来胸のうちで「病と言葉との関係」について揺れ続けていた疑問への解答をいただいたような気がするのです。吉本は海人の作品を「療養所文学」あるいは「ハンセン病」という括りのなかで読んだのではなく、「困難な病と言葉との均衡関係」について書いているのです。わたくしは下記の一首が明石海人の歌人としての個性をもっともよく物語っていると思いますが、どうでしょうか?

  あかあかと海に落ちゆく日の光みじかき歌はうたひかねたり

 まず、吉本隆明は明石海人の短歌を、ハンセン病の初期症状の段階と非常に病状が進んだ時期に書かれたものを、分けて批評しています。初期の明石海人の短歌は、病への恐怖と絶望感のなかにあっても精神の均衡は整っていましたので、作品の透明感はこの段階では保たれていると吉本は見ています。まず初期の短歌を。。。

  人間の類を遂はれて今日も見る狙仙(そせん)が猿のむげなる清さ
  診断を今はうたがはず春まひる癩(かたい)に堕ちし身の影をぞ踏む

 しかし、吉本は海人の病状が進み、意識不明に陥るような状況が頻発する時期に書かれた短歌は、その痛切さのために短歌にあるべき音韻とリズムの乱れが見えてくると指摘しています。この時期の海人の短歌にはたしかに一首に盛り込むことが不可能と思われるものを盛り込んでしまったという「過剰性」が見られます。この特徴が海人自身の個性によるものか、彼のおかれた状況の痛切さによるものなのかを「解体」するために、吉本は海人の「叙景歌」のみを引き出してきて考察を試みるというもしています。そこから吉本は海人の歌人としての資質を探ろうとします。下記の短歌(1)(2)は病状の深刻な時期に書かれたもの。(3)は叙景歌として抜き取ったものです。

  (1)しんしんと振る鐸音に我を繞りわが眷族(うから)みな遂はれて走る
  (2)息つめてぢゃんけんぽんを争ひき何かは知らぬ爪もなき手と
  (3)庭さきにさかりの朱(あか)をうとみたる松葉牡丹はうらがれそめぬ

 そして吉本は下記のこれらの短歌に出会って、ようやくほっとする。ここには音韻とリズムが充たされたのちに、明石海人の短歌は天上に届いたと一旦は断言するのですが……。

  鳴き交すこゑ聴きをれば雀らの一つ一つが別のこと言ふ
  嚔(はなび)れば星も花瓣もけし飛んで午後をしづかに頭蓋のきしむ

 (講談社・二〇〇〇年刊)
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Dec 13, 2006

クリムト

klimt

 監督=ラウル・ルイス・二〇〇五年・制作

 十二月十一日午後。上野の森美術館にて「ダリ回顧展・生誕百年」を観てから、渋谷Bunkamura・ル・シネマでこの映画を観ました。ダリ(一九〇四年~一九八九年)とクリムト(一八六二年~一九一八年)の時代背景を、大雑把に区分をするならば、第一次大戦と第二次大戦 ということになるでしょうか?コーヒータイムと上野から渋谷への移動中の時間のなかで、わたくしたちは数十年の時間と場所の移動をするのだと、自覚(^^)する。・・・・・・というのはわたしだけ。同行者の桐田さんの心の推移は今だ計り難いのです。。。

   一九一八年、第一次世界大戦のさなか、ウィーンの画家グスタフ・クリムトの最期のシーンから映画は始まりました。たった一人だけお見舞いに来た若い友人エゴン・シーレの存在にも気づかず、彼は夢のなかで今までの日々を彷徨っている。それが映画のストーリーとなるので、わたくしも時折迷宮を歩くこととなったのでした。これは伝記映画とは言い難く、現実と虚構との混在する世界でした。

 一九世紀末、クリムトの描く作品は保守的なウィーンでの酷評、パリにおける絶賛とのはざまで翻弄されているようでした。その上クリムトはモデルとなった美女とは必ず恋に落ちるので、生まれた子供達は数十人とも言われている「女たらし」。その悪癖があのような美しく、幻想的な女性画を生み出したのだとすれば、なにをかいわんや。。。ここで、エゴン・シーレ(一八九〇年~一九一八年)のお言葉でしめていただくしかありません。

 『現代芸術というものなんてありはしない。あるのは永久に続く芸術だけだ。』

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Dec 10, 2006

わが悲しき娼婦たちの思い出  G・ガルシア=マルケス  木村栄一訳

rudon

 手に取るなやはり野におけ蓮華草   滝瓢水

 この小説は川端康成「眠れる美女」がベースになっています。お二人共「ノーベル賞作家」ですね。読んでいる途中の時期に、友人との対話のなかで俳人「滝瓢水(1684~1762)」のことが話題になったことがありましたが、その時にこの句を思い出しました。この句はたしか遊女を身請けしようとしている知人をいさめて詠われた句だったと思います。

 独り身で生きてきた新聞社のフリー・コラムニストの男の九十歳の誕生日から、この物語は始まります。冒頭は『満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。』と書かれています。主人公の永年の友である娼家を営むローサ・カバルサスが彼のために探した十四歳の少女「デルガディーナ」に、主人公は恋に落ちる。彼は睡眠薬で眠っている「デルガディーナ」に寄り添い、一夜を過すだけでした。睡眠薬で「眠る」ことと、「眠らされる」こととは意味が大きく違います。後者の受動としての眠りは「仮死」です。ロミオの眠り、あるいは白雪姫の眠りの姿に似ています。寄り添う者が幸福な目覚めを願ってくれない限り「死からの幸福な蘇り」は訪れることはないのです。

 彼のそれまでの人生でどうやら「恋」と言えるものは一回限り、それは彼が破局をさせた。「人を愛する」ということがなかったのです。その後の彼の人生は、必要な時だけ娼婦と過すという人生だった。そしてこの物語は九十一歳の誕生日で終わる。幸福な終わり方です。『これで本当の私の人生がはじまった。私は百歳を迎えたあと、いつの日かこの上ない愛に恵まれて幸せな死を迎えることになるだろう。』と・・・。その後に残される「デルガディーナ」のそれからのはるかに永い時間。。。。

 この小説が何故書かれたのか?わたくしは答えを見出すことがなかなかできませんでした。訳者の解説によれば、一九八五年にマルケスが発表した小説「コレラの時代の愛」のなかで自殺した少女「アメリカ・ビクーニャ=デルガディーナ」を蘇らせる意味があったと書かれていました。この二十年間の時間に込められたマルケスの思いが、川端康成の小説「眠れる美女」の世界と交錯しながらこの小説はこのような物語となったのでしょう。

 ちなみに比べてみますと、この小説を発表した時、マルケスは七十七歳、小説のモデルは九十歳。それに対して川端康成は六十一歳で「眠れる美女」を書き、モデルは六十七歳です。マルケスがこの小説を世に送ったのは二〇〇四年、日本で翻訳出版されたのは二〇〇六年となります。

 (二〇〇六年・新潮社刊)
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Dec 05, 2006

ミス・サハラを探して・・・チュニジア紀行  島田雅彦

suna

 この紀行書は美女を求めての旅ではないようです(^^)。冒頭から「私はユリシーズという男が嫌いだ。」とはじまるのです。そして『蓮の実喰いの国にとどまる願いを果たせなかったユリシーズの部下たちへの同情を込めていつかはジェルバ島を訪ねてみようと私は思っていた。』と書かれています。

 この旅はある依頼からはじまりました。ヨーロッパの彼岸にある地中海リゾート地のチュニジアはヨーロッパ人で賑わうが、日本人はいないのだそうです。(おそらく、この本を書く以前の時点では。。)そのために島田雅彦は、この地を紹介するべく、三週間のリゾートの旅に出されるのでした。ですから、この本は砂漠と駱駝と太陽と海と、異質な時間の流れる人間の暮らしが島田によって書かれ、写真が半分を占める、一種の観光ガイドの本と言ってもいいでしょう。

 旅する島田雅彦の時間の経過とともに内面の変化もあって、この心の旅路を追うことも興味深い。知らない土地に踏み込み、徐々にその土地や人間を理解しながら、戸惑いが島田特有のアイロニーに変わってゆく過程の面白さです。それぞれの土地で出会った人間や生き物、風景、出来事が時間の経過に沿って書かれています。そのなかでわたくしが興味深かったことを書いてみます。

 まずは、ドゥーズの遊牧民の詩人との出会いです。遊牧民は夜のオアシスや砂漠のテントでは、夕餉の後でタンバリンをたたきながら歌います。白い服を着た詩人が喉の奥から絞り出すような高い声で。。。単調なリズムでも反復はない。朗誦は三十分に及ぶ。テキストがあるわけではない。全く日本語のわからないその詩人は、島田雅彦のつぶやいた即興の日本語の詩を、即座に音として記憶してその場で朗誦したというのです。書きしるすことをしない遊牧民詩人はこうして記憶を夜毎に朗誦するのでした。

 次はカルタゴです。ここでは島田の書いたものをそっくり引用してみましょう。
『カルタゴ滅亡後、すぐにローマ人の入植が始まり、大浴場や劇場が作られ、町並みもローマ風に作り変えられた。ローマ浴場跡は今も残っているが、それが必要以上に大きく、なにゆえローマ人はかくも風呂に見栄を張ったか呆れるほどである。ローマ人は植民地には必ず大浴場を建てた。それこそリゾートの元祖というわけだ。観光を主な収入源とするチュニジアの今日と古代ローマの植民地だった昔は見事に結びついている。』

 砂漠を抜けジェルバ島へ向かった時、町の賑わいやヨーロッパのツーリストの集団に出会った時には、砂漠に引き返したくなったと島田は書いています。それはかつてチベットから下界に下りてきた時の感覚に近いと。。アラビアのロレンスが「何故、砂漠を愛するのか?」という質問に「清潔だから。」と答えたそうですが、この言葉は砂漠に立ったことのある人間ならば、すぐにわかるでしょう。わたくしが八年ほど前にモンゴルの南ゴビ砂漠から持ち帰った砂が、全く変質していないことでも、これは証明されるのではないかと思います。島田雅彦はこのように書いています。

 『この世の形あるものもないものも、いずれはこの砂に埋もれてゆくのだ、と呟いてみては、一人ほくそ笑むのである。それにしても砂漠の砂は、歴史の虚栄や残虐や愚行を数千年にわたって呑み込んできたにしては、美し過ぎる。』

 最後に宗教に少しふれておきます。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も砂漠から生まれました。そしてその宗教が原型に近いほど、純粋であり、人間の暮らしの根源に見合っているのではないでしょうか?「もう一度砂漠を見てから死ぬよ。」これが島田雅彦の旅の別れの言葉でした。

 (一九九八年・KKベストセラーズ刊)
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Dec 02, 2006

海を飛ぶ夢

002

  監督 アレハンドロ・アメナーバル

 これは実在の人物、ラモン・サンペドロの手記をもとに描かれた映画です。「尊厳死」は是か否か?それは映画を観終わってもなお、わたくしのなかでは答えは出なかった。海の事故で、頭部以外総てが不随となったラモン・サンペドロは、人生の約半分の二六年間をベッドの上で過ごしていたが、自ら命を絶つ決断をする。それは彼個人の人生だけではありえない、そこに関わる人間たちの人生にも関わる決断でもあるのだった。

 まず、ラモンの世話をした老父と兄夫婦とその一人息子である。兄は弟のために海の仕事を捨てて、農業の仕事を選んだのだった。最も困難な役割を担った彼等は、それでもラモンの死を望んではいない。すべての今までの日々が無意味なものになってしまうだろう。

 人権支援団体で働くジェネは、ラモンの死を合法にするため、弁護士のフリアの協力を仰ぐ。ラモンの話を聞くうちに、フリアは強く彼に惹かれていった。しかしフリアも不治の病に犯されて、やがてラモンとの死の約束をする。しかし、フリアの病の進行は「痴呆」という形であらわれて、ラモンを忘れてしまった。ジュネは夫との健康な性生活ののちに母親となる。

 父親の違う二人の子持ちの未婚女性ロサは、テレビのドキュメンタリー番組のラモンを見て、彼を訪ねてくる。それは彼女の貧しさや不幸を克服するために、ラモンに寄り添う人生を選ぼうとしたように思える。何故か十月二十一日にここの日記に書いた水上勉の「筑波根物語」の女性たちをを思い出させる。しかし、死を決意したラモンには、ロサの存在は知人でしかないのだった。

 そうした経過の後、法廷に車椅子で臨み、ラモンは「尊厳死」を認められる。彼はスペイン北部、ガリシアの澄んだ「海を飛ぶ夢」へ向かうのだった。わたくしは「これでよかったのだ。」とも「尊厳死はいけない。」ともいえないままです。わたくし自身がラモンだったらどうだったのか?という仮説をたてることすらできませんでした。
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