Nov 28, 2007

荒地の恋    ねじめ正一

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 「荒地」の詩人たちの実名を使ったこの「小説」はかなり危ういところにあるのではないでしょうか?主人公は北村太郎。初出は雑誌「オール讀物」二〇〇三年二月号から二〇〇七年一月号にかけて、十三回にわたり連載されたものです。そして主人公の詩人「北村太郎」の没後十五年という短い時間で、単行本となっています。それ以後の時間を生きていらっしゃる北村太郎の関係者に「連載」の度に、目を通していただいて承諾を得て、書かれたものだそうですが、それが「小説」と言えるのだろうか?という疑問が残ります。

 しかしこれは評伝でもノンフィクションでもない。「これは事実ですか?」と問われた時には、筆者は「いえいえ、これはあくまでも小説です。」という逃げ道が用意されているような気がして、釈然としない。

 「そこが、ねじめさんのやさしさ」という声も聞こえてきますが、それも納得いくものではありません。某俳人のスキャンダルがその後の二代に渡って封印されているということの方がむしろ「真実」に思えてくるから不思議です。この釈然としないという思いは、この小説のなかに描かれた「荒地」の男性詩人たちの生き方、恋人への向き合い方も同じことだった。もちろんこの小説の書き手も男性詩人の一人だということも興味深い。みんな同様にエゴイストだと思うわ。暴言多謝(^^)。。。

   だからあなたは
   あたしを〈愛する〉なんてけしていわなかった
   あたしと〈愛をする〉といっただけ


 この詩は、北村太郎十三回忌を記念して出版された「北村太郎を探して・二〇〇四年・北冬社刊」のなかの「未刊行未収録詩集」として収録されている作品のなかの一編『悲恋「恋」(抜粋)』です。

 北村太郎は十九歳の若さで結婚した最初の奥様と八歳のご子息を事故で同時に亡くしていらっしゃいます。その時の「哀しみ」や「無常感」のようなものがその後の生きる日々の底に流れ続けていたように思います。

   あなた わたしを生きなかったわね

 これは北村の詩集「冬の当直・一九七二年・思潮社刊」のなかに収められている作品「牛とき職人の夜の歌」のなかの一行です。小説のなかでは亡くなった奥様や別れた奥様の「つぶやき」となって再現されています。

  *    *    *

 この小説の世界は「荒地」という詩人グループの狭い世界で繰り広げられています。再婚した北村太郎が二人の子供に恵まれ、順調な家族の日々があり、それを壊すきっかけとなったのは、田村隆一の奥様「明子」との出会い。泥沼のような二人の恋、田村隆一の際限のない女性関係、そして結果としての二組の夫婦の崩壊。友人鮎川信夫が生涯隠し続けた奥様は、同人加島祥造の恋人だったなどなど、男女関係は息苦しいものだった。「恋」というタイトルがついているのですから、当然小説の世界は恋愛沙汰に終始するわけで、「荒地」の詩人全体の歴史的証言のわずかな部分でしかないでしょう。

 「明子」との一時的な別離の期間に、北村太郎には「阿子」という若い看護婦との恋が始まりますが、彼女だけが「性。愛。死。狂気。」の「詩人の世界」ではないところから来て、またそこへ帰ってゆくことが、この小説の最後の救いだったかもしれません。「阿子」は北村の死の前に、すでに新しい家族を出発させていたのでした。

   たしかにそれは
   スイートなスイートな、終わりのない始まりでした。


 この詩は死んだ奥様とご子息へ送られた北村太郎の詩の一行です。人間の愛に「終わりのない」ということは「死」によってしかもたらされることはないのでしょうか。

 (二〇〇七年・文藝春秋刊)
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Nov 26, 2007

年月の記録 スケッチ帳より 堀文子展

hori

 ぼんやりと日々を過ごしていましたら、十八日が展覧会の最終日でした。午後からは同人の合評会が控えているのですが、無理をしてその前に観ようと「ニューオータニ美術館」に駆けつけました。このわたくしの突然の計画の決行に同行して下さった同人の心やさしい紳士お二方に感謝いたします(^^)。

 展示された作品はほとんどがスケッチで、わずかな彩色がされているだけの作品でしたので、展覧会場全体はこじんまりとした地味な雰囲気でしたが、堀文子の世界のあらゆる「いのちあるもの」への、しっかりとした視線と愛おしさが観られました。その後での合評会の場では、「堀文子のような事物への視線は、詩作にも通じるものがあるのではないか?」という話題を提供して下さった同行者の言葉も嬉しく共感いたしました。

 上に掲載した画像は二〇〇一年二月に描かれた「私を生かした手」の一部です。一九一八年に生まれていらっしゃるので、この時の堀文子さんの手は八九歳の手ということになりますね。人間が生きているということは、限りなく美しいものです。人間に限らず、ですね。。。

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Nov 19, 2007

天上草原

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監督:麦麗絲(マイリース)
一九五六年生まれ。モンゴル族。内蒙古師範大学と北京電影学院の監督学科を卒業。現在、内蒙古電影制片廠に所属。

監督:塞夫(サイフ)
一九五四年生まれ。モンゴル族。吉林大学と北京電影学院を卒業。内蒙古電影制片廠の所長を務めている。麦麗絲の夫。

音楽:三宝(サンパオ)
一九六四年生まれ。内蒙古自治区の出身。モンゴル族。中央音楽学院の作曲学科を卒業。

脚本:陳坪(チェン・ピン)

 母親に捨てられ、失声症に陥ってしまった少年「フーズ」の父親は監獄にいる。先に出所する父親の友人であるモンゴル族の「シェリガン」に託された「フーズ」は草原にやって来た。自分が全く知らない草原での生活が始まった。「フーズ」をあたたかく迎えたのは、「シェリガン」が監獄に入った五年前に離婚した草原の女性「バルマ」とシェリガンの弟「テングリ」だった。町から来たフーズにとって広大な大地とゲルでの生活は戸惑いばかり。しかし、そんな彼を「シェリガン」は荒々しく育てようとする。「フーズ」は「テングリ」に心を開いていくが、「バルマ」に想いをよせる「テングリ」は、彼女の気持ちが兄から離れないことを知り、解放軍に入隊する。

 「シェリガン」と「バルマ」は再び結婚する。「フーズ」の心は次第にほどけてゆく。「テングリ」が少年に残してくれた馬もいて、草原の生活の中で「フーズ」は除々に回復の兆しを見せていた。そして、祭典の日。「フーズ」は騎馬に出場し、一位でゴールする。わきあがる歓声の中、彼はついに馬上で「テングリ!」と幾度も声を発したのだった。子供の心が開かれる瞬間というものはひかりのような時間だった。三人は家族になったのだった。

 その幸福も束の間、本当の父親の出所の知らせがくる。「バルマ」は「フーズ」を約束通り父親の元に返さなければならない。「モンゴルの男は約束を守るもの。」。また哀しい別れであったが、映画はそこで終わる。

 子供は心を病んではならない。病んだら癒えるまで見守る。それだけが大人が子供に与える幸福ではないだろうか?厳しい自然と、広大な草原は黙ってそれを教えてくれたのではないか?
 印象的な場面が二つある。羊を狼に殺された時に、「シェリガン」と「テングリ」は狼を追って森へ行く。殺すのかと思ったが、投げ縄で捕まえてから、少しの時間狼をこらしめただけで放してやる。狼は二度と羊を殺さないと彼等は信じたのだ。もう一つは、「バルマ」が草原の鳥の巣から卵を盗んできた「フーズ」を叱ることだ。そして卵を返しに行く。彼女は天に向かって鳥に謝罪の言葉を叫ぶのだった。ここではすべての命が守りあっていたのだった。
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Nov 17, 2007

シュルレアリスムと美術

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 十三日(火)はJR桜木町駅で待合せて、横浜美術館にいきました。「まさに快晴。雲一つない空♪」とうかれているわたくしに同行者は「あそこに小さな雲が。。。」と。。。

 展示された作品はさまざまでした。観終わってから「どうだった?」と聞かれても、一言では言えない。一人の画家の展覧会ではその流れに沿ってゆく見方ができます。しかし一つの時代に「シュルレアリスム」という思想のもとに括られたさまざまな画家の描いた作品の展示ですから、観る側は意識の転換を何度も繰り返しながら、作品を観ることになります。

 サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、パブロ・ピカソ、ジョルジオ・キリコ、マン・レイ、アンドレ・マッソン、などなど、絵画と写真の入り混じった作品たちでした。絵の具もさまざま、立体表現もあり、という多様性でした。表現者たちはそれぞれに独自の表現のあり方を追求しているわけです。「シュルレアリスム」と括ってしまってよいのかな?とも思います。

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 例によって、一番気に入った作品は大事に観ます。今回は「サルバドール・ダリ」の「ガラの測地学的肖像」でした。「ガラ」は「ダリ」にとって大切な存在の女性です。その後姿、少しあらわな肩、首のひねり、などを「測地学的」に表現するとは、なんでしょうか?「ガラ」そのものが一つの地球だということかしら?うつくしい稜線のような肩ですね。

 横浜まで行きますと、美術館以外の楽しさも当然ありますね。美術館を出た途端にみた美しい夕焼け、そして海が近いこと。そこから中華街までの散歩。。。

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Nov 06, 2007

真珠の耳飾りの少女

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監督:ピーター・ウェーバー
主演:スカーレット・ヨハンソン

 一六六五年、オランダのデルフト。タイル職人(白いタイルに青色の絵付 けをする。)の父親の失明により、十七歳の「グリート」は、画家「ヨハネ ス・フェルメール」の家へ奉公に出されることになる。
 フェルメール家は、気位の高い妻の「カタリーナ」、彼女の母で家計を取 り仕切っている「マーリア」、そして六人の子供という大家族でした。入り 婿の「フェルメール」多作の画家ではない。家計はつねに逼迫した状態にあ った。当然フェルメール家には、パトロンの「ファン・ライフェン」がいる 。こいつは下品な男だ。張り倒してやりたい(^^)。

 しかし「フェルメール」の新作を描き始めるきっかけを与えたのは、「グ リート」だった。彼女がアトリエの窓を磨いている時に生まれた微妙な光と 色彩の変化が「フェルメール」を創作に駆り立てたのだ。
 やがて「グリート」が優れた色彩感覚の持ち主であることに気づいた「フ ェルメール」は、アトリエのロフトで絵の具を調合する仕事を手伝わせるよ うになる。この場面は非常に興味深い。科学実験室のような不思議な世界だ った。骨灰、鉱石、金銀、お酒、油などさまざまな材料を練りあわせる場面 には目を奪われました。
 「グリート」は家事労働の合間のわずかな自由時間を、絵の具の調合に費 やすようになる、やがて二人の関係は、芸術上のパートナーとなっていまし た。それは一家にとってはおだやかな状況ではない。しかし「フェルメール 」の創作意欲に対するグリートの影響力を見抜いていた「マーリア」は、「 グリート」の存在を容認する立場を取っていた。
 デッサンは、「マーリア」以外の家族には秘密で行われた。「グリート」 は使用人としての頭巾を外し、青いターバンを巻き、キャンバスの前でポー ズを取るが、何かが足りないと感じた「フェルメール」は、「カタリーナ」 の「真珠の耳飾り」を「グリート」に着けさせようとする。それは「カタリ ーナ」の留守に、「マーリア」が「真珠の耳飾り」を用意することで実現し ました。

 しかし、この後に「グリート」はフェルメール家から解雇される。別の家 で働いている彼女の元に、かつて使用人の先輩格であった女性(この女性は 、「牛乳を注ぐ女」のモデルのような。。。)によって「真珠の耳飾り」が 届けられる。果たしてこの送り主は誰だろうか?わたしの推測は「マーリア 」ですが。

 主演の女優「スカーレット・ヨハンソン」はとても美しい女優、まるでこ の絵画のために生まれてきたような方でした。そしてこの映画そのものも、 おそらく実話でも伝記でもなく、想像の世界だと思った方がいいのかもしれ ません。「フェルメール」を愛した人々それぞれに「フェルメール物語」は あるのですから。。。
Posted at 15:02 in movie | WriteBacks (2) | Edit

Nov 03, 2007

こんなに近く、こんなに遠く

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監督:レザ・ミル・キャリミ(イラン)

 テヘランの有能な脳外科医アーラムは、多忙な医師として日々を過ごしている。その最中で彼はこうつぶやいた。「わたしが患者の命を助けた時には神はいなかった。しかし患者の死の時には神が現われるのだ。」と。。。

 大晦日でありながら、アーラム、その妻、息子はばらばらな関係になっていた。息子に約束したプレゼントの天体望遠鏡を渡す時間すらない。しかも息子は助からないであろう病気に犯されていることに父親は気付く。そして天体観測の為に砂漠へと旅立った息子を追って父親は望遠鏡を届けるために砂漠を車を走らせる。

 なかなか縮まらない息子との距離。これがタイトルとなっているのだろう。旅はアーラムの予想をはるかに超えて困難を極める。砂漠の民とのさまざまな交流のなかで、欧米的な都市生活者アーラムの旅が続く。最新型の乗用車、ビデオカメラ、携帯電話、これは砂漠との違和感を見せる道具だ。

 星の光が地球に届くまでに何万光年とかかる。偶然と思われる砂漠の旅での人々との出会い、出来事の全ての背景には「神の大きな存在」があるようにも感じる。イスラムでは、自分自身を見失ってしまった人は、アッラーの神によって自分の居場所を見つけるために旅に導かれるという言い伝えがあるそうです。

 途中でアーラムは、車のエンストで立ち往生して砂嵐に巻き込まれ、車内に閉じ込められてしまう。意識を失う直前にアーラムに、車の天窓が開けられて、父親を捜していた息子の手が差し伸べられる。アーラムは最後の力をふりしぼって弱弱しい手を差し伸べる。ここで映画は終わる。このシーンはミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画「アダムの創造」そのものだった。

 これを一つの家族ドラマと考えてもいいかもしれない。また砂漠の神の大いなる試練だという見方もあるだろう。
Posted at 03:35 in movie | WriteBacks (0) | Edit
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