Sep 30, 2007

南の華  堀文子画文集

minami

 一九八八年三月からの三年間のトスカーナと日本との往復生活以前、住み慣れた東京から大磯へ、アトリエを軽井沢に、というように堀文子の「渡り」の生活は留まることはなかった。そして一九九五年三月堀文子はアマゾンからメキシコへと中南米の旅に出る。その時に描かれたものがこの一冊です。

   『生物はその環境に順応して生きる。私にとっても住む場所から受ける影響はどんな知識からも強いのだった。自分を変えたければ住処を変えるか、せめて旅に出るのが、私にとってどんな努力もおよばぬ自己改造の方法であった。新しい住処や旅先はわたしの中に眠る未知の因子に火を点した。』

 大自然のなかの鮮やかな草木と生き物たちの色彩、人々の素朴な生活の色彩を堀文子は見事に描きわけているようでした。「トスカーナの花野」とこの画文集を背後から支えている人々にも注目すべきかもしれない。アマゾン行きは、森林の復元の研究をされていらっしゃる植物学者「宮脇昭」博士のその地への同行という形で実現している。さらにあの有名な絵『孤絶の花ブルーポピー・二〇〇七年作』が描かれた背景には、高名な登山家がヒマラヤに同行しているはずだ。堀文子という画家の魅力あってこそのことではあるが、「うらやましいなぁ~。」と無名のわたくしは溜息がでるのであった。ぐすっ。。。

 その後、堀文子はご病気をされて、さすがに旅は無理になっていらっしゃるようです。軽井沢のアトリエも手放されていらしゃる。最近の堀文子はここでどうぞ。

 (一九九八年・JTB刊)
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トスカーナの花野  堀文子画文集

toscana

 七十歳の堀文子は人間社会のさまざまな義理を欠いても許される年齢になったという。「老年万歳」とも。そこで日本脱出を企てることとなった。一九八八年三月、ローマに長く住んでいる友人が、広い田園を持つ貴族の古いヴィラを捜してくださって、イタリア語を学ぶ時間もないままにトスカーナに旅立った。三年の歳月、ここでの二ヶ月ほどの滞在と日本での生活とを繰り返しながら、堀文子は自然のおおらかな胸のなかで、たくさんの絵を描いたようです。

 春には金色の麦畑とオリーブ畑、夏にはひまわり畑、秋には葡萄畑、冬の聖夜。そしてたくさんの樹々、花々、言葉のなかった頃の子供に戻ってひたすらに描いたようです。このように生きられた彼女をただまぶしく思うのみ。。。

 (一九九一年・JTB 日本交通公社出版事業局刊)
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Sep 23, 2007

杉田久女と高浜虚子

blue-popy

汝を泣かせて心とけたる秋夜かな   杉田久女

足袋つぐやノラともならず教師妻    同上

 大正から昭和にかけて、杉田久女からはじまり、竹下しず女、中村汀女、星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女などが、句誌「ホトトギス」が設けた女性俳人のための投稿欄「台所雑詠」から輩出された時代がありました。
 しかし杉田久女は一九三六年(昭和十一年)の「ホトトギス」十月号紙上で、「除籍」を告げられるという屈辱的な場面に遭遇しています。久女は虚子への敬愛というものを、おそらくは「師弟愛」と「恋愛」とを混同し、錯覚したということが原因だったのではないでしょうか。これが「杉田久女」たる個性でもあるでしょう。

虚子留守の鎌倉に来て春惜む    杉田久女  

張りとほす女の意地や藍ゆかた   同上

虚子ぎらひかな女嫌いのひとへ帯  同上

 「女流」という言葉の規範の上に立たされ、「台所雑詠」という枠のなかで、俳句を続けることは困難な時代であったに違いない。しかし、それよりずっと以前の一九一一年 (明治四十四年)には女性の文芸誌「青鞜」が発刊されていることを思えば、フェミニズム意識は、すでに歩き始めていた時代なのです。

  *  *  *

 今日においても、明治、大正、昭和の時代においても、男女の性差と差異性は逃れようもないことです。しかし女性の内なるもの(あるいは言語表現への情熱?)が、そうした男性優位の社会構造のなかにおいても、決して消えるものではなかったのだと思います。
 ただ一つ、わたくしが「杉田久女」に拘るのは、「師弟愛」と「恋愛」の混同によって、虚子から除籍されたことは、一人の女性としての否定だけではなく、「俳人」としての資質や才能も否定されたという悲しみです。「恋愛」であったとしたら、ここを分離して考えられるものではありません。彼女は全存在を否定されて、そこからまた立ち上がらなければならなかったという不幸です。

 それでは現代の女性の文筆家たちが、許された自由をどこまで身の内に入れ、その自由を確かに生かせているのか?といえば、それもまた諸手を挙げて「イエス」とは言いがたい時代ですね。
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Sep 21, 2007

小さな白い鳥   ジェイムズ・M・バリ

The Little White Bird

    翻訳=鈴木重敏   挿画=東逸子 

 「ジェイムズ・M・バリ」は一八六〇年スコットランドの地方都市キリミュヤに生まれる。地方記者を務めた後に、ロンドンに出て、作家への道に進む。小説と戯曲を手掛けているが、その作風は広範囲に及びます。この小説を最後にかれは戯曲の方へむかったようです。
 この物語は第一次世界大戦の最中に書かれています。「ジェイムズ・M・バリ」は徹底的な中立の立場をとっているという点にも注意したい。さらに注目したいことは、一回も執筆の体験のない女性が、このタイトルで本を書こうとしていた、という話を聞いて、彼はその女性を励ますつもりで、「貴女が書かなければ私が書きますぞ。」と脅したのですが、結局その脅しを実行する破目になったそうです。

 この物語にはさまざまな子供が登場します。その中心的な子供は「ディヴィド」です。この物語はその母親が書くはずだったのですが、「私」という紳士が書き上げてしまったのです。さまざまな大人と子供を結ぶものは、この紳士です。ちょっと皮肉屋さんですが、彼は「ポーソス」という愛犬と共に暮らす独身者ですが、この愛犬の賢さとやさしささえも高く評価しています。子供も愛犬もこの紳士にとっては、素晴らしく楽しい存在であったのでせう。

 『人間の子供も、まだ小鳥だった頃には、妖精たちとかなり親しくしていた。だから人間になったあとも、まだ赤ん坊の間は、妖精のことをたくさん覚えている。残念ながら赤ん坊は字が書けないし、そのうち大きくなるにつれて忘れてしまう。それで、妖精なんか見たことの無いなどと、平気で断言する子供が出てくるというわけだ。』

 「ピーター・パン」は、そのなかの一人として登場します。ここに登場する子供たちは、すべて「ケンジントン公園」の鳥たちの取り締まり役の「ソロモン爺さん」の魔法によって小鳥の化身として母親のもとに生まれ、そして人間の子供として育つ間に、おおかたの子供は小鳥だった時の記憶を失くしてしまうのでした。

 昼間の「ケンジントン公園」は、小鳥だった記憶を失くした子供たちと、その母親や乳母の遊び場であり、散歩の場でもありましたが、夜になると妖精たちの世界になります。
 小鳥だった記憶を辿って、もう一度「ケンジントン公園」に母親を離れて戻ってしまうのが「ピーター・パン」だったのです。そういう子供たちだけが、妖精との遭遇も体験できるのです。「ピーター・パン」の不幸、それは母親に忘れられた、あるいは諦められた子供ということ。小鳥の記憶を忘れることのできない子供の幸福と言ってもいいのでせうか?

 (二〇〇三年・パロル舎刊)
Posted at 15:33 in book | WriteBacks (3) | Edit

Sep 11, 2007

人生の実りの言葉   中野孝次

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 中野孝次は、一九二五年(大正十四年)生まれ。この本が単行本として出版されたのは一九九九年、中野が七四歳の時となります。中野の最も古い蔵書は十五、六歳ころに求めた「論語」であり、十八歳ではアリストテレスの「ニコマコス倫理学」だそうです。その若き日に、その本に傍線を引き、感想を書き込んだ箇所に、七四歳の中野はもう一度同意しているのですね。ここが中野孝次の一貫した純粋性なのかもしれませんね。

  子ののたまわく、後世畏るべし。
  いずくんぞ来者の今に如かざるるを知らんや。
  四十五十にして聞こゆること無くんば、
  斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。
   (論語)

  相手かたにとっての善を相手かたのために願うひとびとこそが、
  最も充分な意味における親愛なるひとびとたるのでなくてはならない。
   (アリストテレス「ニコマコス倫理学」)

 ここで中野によって取り上げてられている言葉たちは、どれも純粋であり、生真面目であります。そして、これらの言葉たちは長い時間の中野孝次の読書メモのエッセンスの集約なのです。(1)の「愛」から始まり、最後の(40)では「災難と死」で終わっています。その(1)で取り上げられた言葉が下記の詩です。この言葉は最初に置く言葉として最もふさわしいと中野は書いています。

  わたしの誕生を司った天使が言った
  喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
  行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも。
   (ウイリアム・ブレイク・・・中野孝次訳)

   (40)での良寛の言葉は、文政十一年(一八二八年)秋、越後に起きた、マグニチュード7,4という大地震の折に、友人の山田杜皐宛てに書いた手紙の一部です。良寛の住む島崎あたりは被害は少なかったとのこと。

  しかし、災難に逢時節には 災難に逢がよく候
  死ぬ時節には 死ぬがよく候
  是ハこれ 災難をのがるゝ妙法にて候

 今日の新潟の方々を思う時には複雑な思いがありましょう。良寛の生死に関するすさまじいまでの達観と思うほか、凡々たるわたくしにはできませぬ。
 ここに取り上げられた言葉は、まさに古今東西の文学者、哲学者の言葉が選ばれていますが、ケストナー、シェークスピアが全く見当たりませんでした。どうして?

 (二〇〇二年・文春文庫)
Posted at 17:25 in book | WriteBacks (5) | Edit

Sep 10, 2007

贈答の詩⑥ 白井明大詩集『くさまくら』への挨拶詩

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 この物語は詩集『心を縫う』(二〇〇四年)からはじまったように思えます。そして二〇〇七年の『くさまくら』に物語は続いているようです。ささやくような愛の物語、窓辺を流れるかすかな風のような哀しみ。そうして日々は続く。白井明大さんの詩集『くさまくら』にささやかな祝福の詩を。。。


  わたしの誕生を司った天使が言った
  喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
  行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも。

   (ウイリアム・ブレイク・・・中野孝次訳)


ちいさなひと

二人で歩き出した時間のとなりで
いつのまにか
四分の一くらいの歩幅で
歩いているちいさなひとは誰?

太古からの時間を潜り抜けて
それから進化の時間を
生きているような
桃色の産毛のあるひとは誰?

あのうつくしいひとの
僕たちは序章なのかもしれない
ゆっくりと歩いてみよう
あのちいさなひとの歩幅くらいに

 *   *

あたたかな夜の闇のなかで
ふいに泣きだしたちいさなひとを
こわがらせるものはなんだろう?
僕たちがふと君の存在を忘れたのか
それとも闇の重さ
それとも窓辺の風の音

生きている。
汗をかいてミルクをのんでいるひと
生きていることはこわくないと
僕たちはちいさなひとにささやく
ささやきながら
僕たちはおそれる。
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Sep 07, 2007

物語と人間の科学   河合隼雄

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 この本は河合隼雄の五つの講義を収録したものです。実は河合隼雄は講義もしくは講演を筆録されることを極力遠ざけてきた方らしい。講演はあくまでも聴衆との関係において成り立つもの、それを不特定多数の読者に向けて本として差し出すことへの躊躇がある。しかし講義ならば、聴衆との関係をこえて、ご自分の伝えたいこととなる。この考え方から「講義録」として本にされることに同意したとのこと。ここには京都大学における最終講義「コンステレーション」も含まれています。しかし表紙のサブタイトルは「講演集」となっていますね。(岩波さん、騙し討ちは、なしにしてよ。)

 この本の読者として嬉しいことは、河合隼雄の「講義」はいつも「物語」の姿をしているということです。それはあたかも「語り部」の役割をなさりながら、充分すぎる「聞き手」の役割もなさるという二重構造になっていて、そこに河合隼雄の「講義」の魅力があるのでしょう。

 第一章【物語と心理療法】

 「先生は易を信じらてますか?」「易は益ないことです。」と笑って答えてしまっては対話は終わります。その最初の一言から、話し手と聞き手の間にはすでに物語がはじまっているのですね。その物語への道筋が見えない方が話し手、想像する方が聞き手、事実はすでに存在している。その話し手と聞き手との共同作業のなかで、事実から真実が呼び出されるということでしょうか。

 第二章【コンステレーション】

 「コンステレーション」とは星座という意味だそうです。これは彼の研究分野である「ユング」が使った言葉だそうです。ここでは河合隼雄の言葉を引用します。

 『われわれの人生も、言ってみれば一瞬にしてすべてを持っている。例えば、私がいま話している一瞬に、私の人生の過去も現在も全部入っているかもしれない。それは、時間をかけて物語ることができると考えられまして、私が心理療法の仕事をしているのは、来られた方が自分の物語を発見して、自分の物語を見出していかれるのを助けているのではないかな、と思っています。私がつくるのではなくて、来られた方がそれを見出される。』

 第三章-1【物語にみる東洋と西洋・・・隠れキリシタン神話の変容過程】

 一九四九年、フランシスコ・ザビエルの来日からはじまったキリスト教の布教は、徳川秀吉、家康によってキリシタン厳禁の歴史は二五〇年もに及びます。その時代を「隠れキリシタン」はずっと存在していました。「聖書」は「天地始之事」として口承され、のちに書き物となったそうです。
 このなかでは、おそらく未熟な翻訳とともに、西洋の宗教を日本の宗教として民間に定着させるまでには、さまざまな言い換えと書き換えがありますね。そこに河合隼雄は東洋の物語性をみつけられたようです。

 第三章ー2【物語にみる東洋と西洋・・・『日本霊異記』にみる宗教性】

 『日本霊異記』は五世紀の半ば、雄略天皇の時代から年代順に書かれているようですが、この天皇の時代には、まだ仏教が入ってきていません。その後から仏教が入ってきて、約三百年の歴史が書かれています。この中から河合隼雄は「冥界往還」にお話を限定しておられます。
 それは「臨死体験」「遊体離脱」などのお話から、「善行」「悪行」によるあの世での人間の遭遇するさまざまな仕打ちなどが語られています。「浦島太郎」の物語も幾通りかのパターンがありますが、基本的には「善行」の典型なのでしょう。
 医療の未熟な時代では「死」の決定は引き延ばされました。そこにさまざまな「臨死体験」「遊体離脱」の物語が生まれるわけですが、どれ一つとして類型がない。それはとりもなおさず「生き方」にも同じことが言えるのでしょう。

 第四章【物語のなかの男性と女性】

 ここではサブタイトルに「思春期の性と関連して」とあります。テキストとして「源氏物語」と「とりかえばや」という現代の文学ではないものが取り上げられています。そこには欧米文化に見られるような「男らしさ」「女らしさ」という規範を超えた、ゆるやかな男女のあり方が見られるからでしょう。「性」や「精神」の純粋性と不純性を問うよりも、それ全体を「魂」の問題として考えることなのだろうと思われます。

 第五章【アイディンティティの深化】

 「アイディンティティ」とは「同一性」「主体性」などと訳されますが、河合隼雄は「非常に簡単に言えば、私は私です。」と言っていらっしゃいます。加えて「私は私以外のすべてのものである。」というファンタジー性によって「アイディンティティ」という言葉はやっとそれらしい姿を見せはじめるとも。。。この現実的な方法として河合隼雄は「箱庭療法」を試みたのですね。しかしおそらく世界全体がこの「アイディンティティ」の過程にあると言えるのでしょうか?

 (一九九三年・岩波書店刊)
Posted at 22:21 in book | WriteBacks (0) | Edit

Sep 02, 2007

三木成夫記念シンポジウム

miki

 九月一日、東京芸術大学において、生物学者三木成夫のシンポジウムに行ってまいりました。この会は十六回目にあたりますが、今年は三木成夫没後二十年にあたるそうです。午前十時から午後四時半まで、総計六名の講師によるシンポジウムでしたが、午後のみの聴講を致しました。ちなみに講座スケジュールは以下の通りです。

 10:10-10:50 西原克成(西原研究所) 「内臓が生み出す心」
 10:50-11:30 宮木孝昌(東京医科大学) 「臍(へそ)のはなし」
 11:30-12:10 坂井建雄(順天堂大学) 「魯迅の「藤野先生」で書かれなかったこと」

  (昼食)

 13:40-14:20 植田工(デザイナー)「ピノキオと三木生物学」
  14:20-15:00 中村るい(東京芸術大学)「ギリシャ美術の身体イメージを読む」

  (コーヒーブレイク)

 15:40-16:30 三木桃子 「三木成夫の思い出を語る」聞き手:後藤仁敏

 「ピノキオと三木生物学」は、植田工さんの芸大大学院の卒業論文となったものが再現されたようです。植田さんは今春卒業したばかりの若者でした。彼の基本テーマは、「ピノキオ」を例にとって、アニメのキャラクターの形態の造形のプロセスのなかで、作り手の心になにが起きて、どのような形態を目指しているのか?ということを、三木生物学との照合から探ってみようとしたのでしょう。
 そこで「アニメには生殖によっていのちが生まれないのだ。」という彼の発言がありました。わたくしは内心では「若いなぁ~。」と苦笑しました。ゼベットおじいさんには子供がいなかった。そこへの着眼がないのですね。「おやゆび姫」も子供のいない家に授けられた。それは妖精からの贈り物ではないですか?日本のお話なら「桃太郎」「かぐや姫」などなど。。。

 中村るいさんは、かつて三木成夫の芸大時代の教え子にあたる。「ギリシャ美術の身体性」を、三木生物学に重ねようと試みたのだろうか?筋肉の描かれ方と内臓との関係、重心の置き方によって変わる肉体表現などなど。。。

 最後は、没後二十年を記念して奥様の桃子さんが、映像を見ながら、インタビューに答えるかたちで、若き日の三木成夫との出会い、結婚、子育てについてお話くださった。とても美しくかわいい女性でした。三木成夫との年齢差は十五歳もあったのですね。
 十五歳の桃子さんに「二十歳になっても気持が変わらなかったら結婚して下さい。それまでは、あなたは自由です。」とおっしゃったそうです。無事結婚なさってお二人の子供に恵まれましたが、子供の成長は三木にとっては、楽しい生物学研究だったようですね(^^)。とても心あたたまるお話でした。
Posted at 22:10 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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