Dec 28, 2006
贈答の詩⑤ 朝吹英和句集『光の槍』への挨拶詩

『光の槍』とは、ケルト神話に登場するダーナ神族の一人である太陽神「ルー」が持つ武器「ブリューナク」に由来するとのことです。朝吹さんの「あとがき」ではこのように書かれています。
『モーツァルトの交響曲三十八番二長調。仄暗い聖堂を出た騎士の青きサーベルに煌く陽光。駿馬の如くしなやかで力強いアレグロの主題がクレッシェンドしながら夏野を駆け抜ける。対位法的展開が綾成す光と影の時空を切り開いて前進する音楽のシャープなエッジ。闇の底から麦秋の煌きへの鮮烈な転位、「光の槍」に刺し抜かれて精神の夏が輝く。』
朝吹さんの俳句は、一読して音楽を中心として美術や歴史などへの造詣の深さがうかがえます。また、おだやかな日常風景も描かれていまして、句集全体の均衡関係がとても見事だと思いました。さて、この句集にどのよな挨拶詩が似合うのでしょうか?朝吹さんが書いてくださいました、わたくしの詩集「空白期」へのご批評のテーマが「時間」でしたので、それをたぐりよせながら、書きはじめましょう。
時間の煌き
この広大な世界 ちいさなわたくし
遠いひと ここにいるわたくし
神からの比べようのない贈り物
煌く時間の彷徨
そして 光の槍
春の朝
ブラインドの傾きをくぐりぬけた
幾筋もの光が一瞬照らし出したものは
モーツァルトの弾いたチェンバロ
レ音のない未完の楽譜 遠い時間
夏の真昼
雲の峰を仰ぎみながら
熱砂を歩く駱駝のおだやかな足取りを思う
その背に揺れる永い時間
足跡を失くしたひとはふたたびそこを訪れるでしょう
秋の夕暮れ
柱に刻まれた幾筋かの傷を残して
飛びたっていった子供たちよ
残照のなかに込められたふたたびの希望
あるいは時間の鍵はみつかりましたか?
冬の夜
青葉木菟の語る物語は
はじまりもおわりもない
騎士の投げた光の槍が
音もなくどこまでも時の闇を切り開くように
(二〇〇六年・ふらんす堂刊)
Dec 22, 2006
イノセント

監督・ルキーノ・ヴィスコンティ(イタリア)=遺作。
原作・ガブリエーレ・ダヌンツィオ
この映画は「ヴィスコンティ生誕100年祭」の一環として、『完全復元&無修正版』を八月二十三日にイタリア文化会館の「ウンベルト・アニェッリ ホール」で観ました。大変に美しい画面に驚かされましたが、その折には映画感想を書く気持はあまりありませんでした。しかし、二十一日午後にコーヒーを飲みながら、何気なく観たテレビドラマで、ふいに思い出したのでした。
どうということのないドラマです。夫以外の子供を身ごもった女性が、お互いにそれを承知で結婚し、その男児を産み、さらにその後に女児も産まれ、幸せな四人家族を築いていたのですが、中学生になった息子はそれに気付くのでした。育ての父親に「僕は産まれてこなければよかったんだね。」と問いかけますが、父親はそれをきっぱりと否定します。それによって息子は本当の父親に決別するのでした。
そのシーンを観ていましたら、ふいにこの映画を思い出しました。その少年の決意に、何故か心を動かされたのです。この世に子供が産まれてくることは、どんな事情があっても祝福されるべきものであるからです。
二十世紀初めのローマ。社交界にスキャンダラスな話題を振りまくトゥリオ伯爵は、未亡人の公爵夫人テレザと関係を持ちますが、妻ジュリアーナにそれを認めさせようとします。しかし妻は作家フィリポとの不倫に走り、彼の子どもを身ごもりましたが、お互いに離婚はできません。苦しみと憎しみと嫉妬のなかで子供は産まれてきたのです。そこでジュリアーナの子供への愛しさと、トゥリオ伯爵の子供への憎しみが交錯します。
ここにはヴィスコンティ自身を投影させた、貴族階級の地獄のような悲劇を冷徹に描き、加えてキリスト教の厳しい戒律をもこめているのではないかと思われます。これがヴィスコンティの遺作となったことも意味深いことかもしれません。
クリスマスの晩、教会に行かないトゥリオは、家族の留守に、乳母も無理矢理教会に行かせて、雪の降る戸外へ赤ん坊を晒して殺してしまうのでした。夫のもとを去る妻のジュリアーナ。トゥリオはテレザのもとへ戻るが、結局トゥリオはピストル自殺で幕を閉じるのだった。
「地上のことは地上で決着をつけたい」これが無神論者トゥリオの考え方だった。
Dec 18, 2006
若き詩人への手紙 リルケ

私事ながら、秋に詩集「空白期」を出しました。詩集を出すことにはいつでもたくさんの躊躇があります。それは何度体験しても克服することはできません。それでもあえて出すのは何故でしょう?
この詩集を出すと決めた時に、大切な友人から「詩を手放したら生きてゆけない、と言うほどの思いがあるか?」という質問(詰問?)を受けました。「はい。」とは言えなかった。しかし「いいえ。」では絶対に違う。「その質問には答えたくない。」と言いました。一旦決めてからの詩集制作過程は大変幸せな時間となりました。その後の発送の時間も淡々と過しました。そして、あらためてわたくしは「リルケ」に帰りたくなりました。
わたくしが師と思っている唯一の詩人新川和江さんに、十二月の初めにお目にかかりましたが、その折の新川さんとの会話の大半が「リルケ」だったということも、その大きな要因かもしれません。それから新川さんはすでにたくさんのお仕事をされて、詩人の育成にもお力を注いだ方であるにも関わらず、お会いする度に少女のように「よい詩を書きましょうね。」とおっしゃることへの驚きと歓びと同意とが、わたしを「リルケ」再読に連れていって下さったのかもしれません。以下はすべて引用です。大変に美しい翻訳ではないかと思います。
『日常の富を呼び出せるほどに自分が十分に詩人ではないのだと心にうちあけなさい。』
『芸術作品は無限に孤独なもので、これに達するのに批評をもってするほど迂遠な道はありません。愛だけがそれを捕えて引き止めることができ、それに対して公正でありうるのです。』
『一人の創造者の思想のなかには忘れられた幾千の愛の夜々がよみがえり、その思想を尊厳と高貴をもって満たします。』
『かつて少年の日にあなたに課せられたあの大きな愛は、失われたのだとはお思いにならないでください。あなたが今日でも生きる拠り所となさっている大きい良い願いや企てが、当時のあなたの心に熟していなかったかどうか、おっしゃることがおできでしょうか? わたしはあの愛がそんなに強く烈しくご記憶に残っているのは、それがあなたの最初の深い孤独であり、あなたが自分の人生に即してなさった、最初の内的な仕事だったためだと思います。』
これらの言葉を書き写すことで、心に残しておこうと思います。
(昭和三十九年・世界の文学36・中央公論社刊)
Dec 16, 2006
吉本隆明の読む明石海人―その2

何故こんな大変なテーマについて、無力なわたくしがあえて書くのか、自分でもわからないのですが、無力を承知で書くしかないとも思うのです。少しだけ明石海人についての簡単なメモも書いておきます。海人は一九〇一年生まれ、一九二六年頃にハンセン病を発病、一九三三年作歌を始める。一九三九年逝去。下記は歌集「白猫」に書かれた明石海人自身の言葉です。(抜粋)
『第一部「白描」は癩者としての生活感情を有りの儘に歌ったものである。けれども私の歌心はまだ何か物足りないものを感じていた。あらゆる假装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思いの儘に飛躍させたい、かういう気持ちから生まれたのが第二部「翳」で、概ね日本歌人誌に発表したものである。が、仔細にみれば此處にも現實の生活の翳が射してゐることは否むべくもない。この二つの行き方は所詮一に帰すべきものなのであろうが、私の未熟さはまだ其處に至ってゐない。第一部第二部共に昭和十ニ年乃至十三年の作で、中には回想に據ったものも少なくない――昭和十四年一月、長島愛生園にて。』
この歌集が出版されたのは二月、この年(一九三九年)の六月に明石海人にこの世を去りました。
さて、吉本隆明は一旦は明石海人の短歌の昇華を見たようですが、さらに別の視点から考察を続けています。たとえば短歌的声調を整えてはいるが、修辞的な統合を欠いた作品が海人の短歌に頻出することが、吉本にはどうしても気がかりだったらしいのです。下記の短歌は吉本がその例としてあげた作品の一部です。
(1)銃口の揚羽蝶(あげは)はついに眼(ま)じろがずまひる邪心しばしたじろぐ
(2)水銀柱窓にくだけて仔羊ら光を消して星の座をのぼる
(1)については、わたくし自身は、詩「韃靼海峡と蝶―安西冬衛(一八八九年~一九七五年)」の最後の一節である『すると一匹の蝶がきて静かに銃口を覆うた』をふと思い出しますが、この関連性については残念ながら、わたくしには裏付けはとれません。
そして、吉本隆明は一気に明石海人の短歌から彼の散文詩へと飛ぶ。この散文詩こそが明石海人が自己についても自己の死についても、非常によく相対化されていると吉本隆明は断言しています。海人の短歌の特徴である「過剰性」は、短歌のなかに散文的な資質が内包されていたことに起因するのかもしれませんね。
明石海人が生きた時代は、ハンセン病は絶望的な病気であり、さらに社会からの隔離、隠蔽が強いられた時代である。作歌の手法としても、過剰と思えるほどの意味づけへの欲求がありながら、それを押しとどめることを余儀なくされたという「理不尽」が明石海人の短歌の混迷を生んだのではないだろうか?ともわたくしには思えます。その理不尽の一例として。。。
そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる
みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし
わたくしの未熟さはわたくしが一番よくわかっていますが、それでもこれを書いておかなければ先へ進めないという思いがありますので、書いておきました。最後にこの一首を置いて、とりあえずこの項を終わることにします。
いずくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ
吉本隆明の読む「明石海人」―その1

十一月十七日の日記に「ハンセン病文学全集・8・短歌(その一)」を書いて、最後に「つづく」と書きましたが、その代わりとして、これを書いておきます。これは二〇〇四年秋に書いたものですが、少し書き直しをして再録しました。
吉本隆明著「写生の物語」は、短歌と和歌に関する評論集です。このなかで吉本は歌人「明石海人」について書いています。この章はわたくしがここ数年来胸のうちで「病と言葉との関係」について揺れ続けていた疑問への解答をいただいたような気がするのです。吉本は海人の作品を「療養所文学」あるいは「ハンセン病」という括りのなかで読んだのではなく、「困難な病と言葉との均衡関係」について書いているのです。わたくしは下記の一首が明石海人の歌人としての個性をもっともよく物語っていると思いますが、どうでしょうか?
あかあかと海に落ちゆく日の光みじかき歌はうたひかねたり
まず、吉本隆明は明石海人の短歌を、ハンセン病の初期症状の段階と非常に病状が進んだ時期に書かれたものを、分けて批評しています。初期の明石海人の短歌は、病への恐怖と絶望感のなかにあっても精神の均衡は整っていましたので、作品の透明感はこの段階では保たれていると吉本は見ています。まず初期の短歌を。。。
人間の類を遂はれて今日も見る狙仙(そせん)が猿のむげなる清さ
診断を今はうたがはず春まひる癩(かたい)に堕ちし身の影をぞ踏む
しかし、吉本は海人の病状が進み、意識不明に陥るような状況が頻発する時期に書かれた短歌は、その痛切さのために短歌にあるべき音韻とリズムの乱れが見えてくると指摘しています。この時期の海人の短歌にはたしかに一首に盛り込むことが不可能と思われるものを盛り込んでしまったという「過剰性」が見られます。この特徴が海人自身の個性によるものか、彼のおかれた状況の痛切さによるものなのかを「解体」するために、吉本は海人の「叙景歌」のみを引き出してきて考察を試みるというもしています。そこから吉本は海人の歌人としての資質を探ろうとします。下記の短歌(1)(2)は病状の深刻な時期に書かれたもの。(3)は叙景歌として抜き取ったものです。
(1)しんしんと振る鐸音に我を繞りわが眷族(うから)みな遂はれて走る
(2)息つめてぢゃんけんぽんを争ひき何かは知らぬ爪もなき手と
(3)庭さきにさかりの朱(あか)をうとみたる松葉牡丹はうらがれそめぬ
そして吉本は下記のこれらの短歌に出会って、ようやくほっとする。ここには音韻とリズムが充たされたのちに、明石海人の短歌は天上に届いたと一旦は断言するのですが……。
鳴き交すこゑ聴きをれば雀らの一つ一つが別のこと言ふ
嚔(はなび)れば星も花瓣もけし飛んで午後をしづかに頭蓋のきしむ
(講談社・二〇〇〇年刊)
Dec 13, 2006
クリムト

監督=ラウル・ルイス・二〇〇五年・制作
十二月十一日午後。上野の森美術館にて「ダリ回顧展・生誕百年」を観てから、渋谷Bunkamura・ル・シネマでこの映画を観ました。ダリ(一九〇四年~一九八九年)とクリムト(一八六二年~一九一八年)の時代背景を、大雑把に区分をするならば、第一次大戦と第二次大戦 ということになるでしょうか?コーヒータイムと上野から渋谷への移動中の時間のなかで、わたくしたちは数十年の時間と場所の移動をするのだと、自覚(^^)する。・・・・・・というのはわたしだけ。同行者の桐田さんの心の推移は今だ計り難いのです。。。
一九一八年、第一次世界大戦のさなか、ウィーンの画家グスタフ・クリムトの最期のシーンから映画は始まりました。たった一人だけお見舞いに来た若い友人エゴン・シーレの存在にも気づかず、彼は夢のなかで今までの日々を彷徨っている。それが映画のストーリーとなるので、わたくしも時折迷宮を歩くこととなったのでした。これは伝記映画とは言い難く、現実と虚構との混在する世界でした。
一九世紀末、クリムトの描く作品は保守的なウィーンでの酷評、パリにおける絶賛とのはざまで翻弄されているようでした。その上クリムトはモデルとなった美女とは必ず恋に落ちるので、生まれた子供達は数十人とも言われている「女たらし」。その悪癖があのような美しく、幻想的な女性画を生み出したのだとすれば、なにをかいわんや。。。ここで、エゴン・シーレ(一八九〇年~一九一八年)のお言葉でしめていただくしかありません。
『現代芸術というものなんてありはしない。あるのは永久に続く芸術だけだ。』
Dec 10, 2006
わが悲しき娼婦たちの思い出 G・ガルシア=マルケス 木村栄一訳
手に取るなやはり野におけ蓮華草 滝瓢水
この小説は川端康成「眠れる美女」がベースになっています。お二人共「ノーベル賞作家」ですね。読んでいる途中の時期に、友人との対話のなかで俳人「滝瓢水(1684~1762)」のことが話題になったことがありましたが、その時にこの句を思い出しました。この句はたしか遊女を身請けしようとしている知人をいさめて詠われた句だったと思います。
独り身で生きてきた新聞社のフリー・コラムニストの男の九十歳の誕生日から、この物語は始まります。冒頭は『満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。』と書かれています。主人公の永年の友である娼家を営むローサ・カバルサスが彼のために探した十四歳の少女「デルガディーナ」に、主人公は恋に落ちる。彼は睡眠薬で眠っている「デルガディーナ」に寄り添い、一夜を過すだけでした。睡眠薬で「眠る」ことと、「眠らされる」こととは意味が大きく違います。後者の受動としての眠りは「仮死」です。ロミオの眠り、あるいは白雪姫の眠りの姿に似ています。寄り添う者が幸福な目覚めを願ってくれない限り「死からの幸福な蘇り」は訪れることはないのです。
彼のそれまでの人生でどうやら「恋」と言えるものは一回限り、それは彼が破局をさせた。「人を愛する」ということがなかったのです。その後の彼の人生は、必要な時だけ娼婦と過すという人生だった。そしてこの物語は九十一歳の誕生日で終わる。幸福な終わり方です。『これで本当の私の人生がはじまった。私は百歳を迎えたあと、いつの日かこの上ない愛に恵まれて幸せな死を迎えることになるだろう。』と・・・。その後に残される「デルガディーナ」のそれからのはるかに永い時間。。。。
この小説が何故書かれたのか?わたくしは答えを見出すことがなかなかできませんでした。訳者の解説によれば、一九八五年にマルケスが発表した小説「コレラの時代の愛」のなかで自殺した少女「アメリカ・ビクーニャ=デルガディーナ」を蘇らせる意味があったと書かれていました。この二十年間の時間に込められたマルケスの思いが、川端康成の小説「眠れる美女」の世界と交錯しながらこの小説はこのような物語となったのでしょう。
ちなみに比べてみますと、この小説を発表した時、マルケスは七十七歳、小説のモデルは九十歳。それに対して川端康成は六十一歳で「眠れる美女」を書き、モデルは六十七歳です。マルケスがこの小説を世に送ったのは二〇〇四年、日本で翻訳出版されたのは二〇〇六年となります。
(二〇〇六年・新潮社刊)
Dec 05, 2006
ミス・サハラを探して・・・チュニジア紀行 島田雅彦
この紀行書は美女を求めての旅ではないようです(^^)。冒頭から「私はユリシーズという男が嫌いだ。」とはじまるのです。そして『蓮の実喰いの国にとどまる願いを果たせなかったユリシーズの部下たちへの同情を込めていつかはジェルバ島を訪ねてみようと私は思っていた。』と書かれています。
この旅はある依頼からはじまりました。ヨーロッパの彼岸にある地中海リゾート地のチュニジアはヨーロッパ人で賑わうが、日本人はいないのだそうです。(おそらく、この本を書く以前の時点では。。)そのために島田雅彦は、この地を紹介するべく、三週間のリゾートの旅に出されるのでした。ですから、この本は砂漠と駱駝と太陽と海と、異質な時間の流れる人間の暮らしが島田によって書かれ、写真が半分を占める、一種の観光ガイドの本と言ってもいいでしょう。
旅する島田雅彦の時間の経過とともに内面の変化もあって、この心の旅路を追うことも興味深い。知らない土地に踏み込み、徐々にその土地や人間を理解しながら、戸惑いが島田特有のアイロニーに変わってゆく過程の面白さです。それぞれの土地で出会った人間や生き物、風景、出来事が時間の経過に沿って書かれています。そのなかでわたくしが興味深かったことを書いてみます。
まずは、ドゥーズの遊牧民の詩人との出会いです。遊牧民は夜のオアシスや砂漠のテントでは、夕餉の後でタンバリンをたたきながら歌います。白い服を着た詩人が喉の奥から絞り出すような高い声で。。。単調なリズムでも反復はない。朗誦は三十分に及ぶ。テキストがあるわけではない。全く日本語のわからないその詩人は、島田雅彦のつぶやいた即興の日本語の詩を、即座に音として記憶してその場で朗誦したというのです。書きしるすことをしない遊牧民詩人はこうして記憶を夜毎に朗誦するのでした。
次はカルタゴです。ここでは島田の書いたものをそっくり引用してみましょう。
『カルタゴ滅亡後、すぐにローマ人の入植が始まり、大浴場や劇場が作られ、町並みもローマ風に作り変えられた。ローマ浴場跡は今も残っているが、それが必要以上に大きく、なにゆえローマ人はかくも風呂に見栄を張ったか呆れるほどである。ローマ人は植民地には必ず大浴場を建てた。それこそリゾートの元祖というわけだ。観光を主な収入源とするチュニジアの今日と古代ローマの植民地だった昔は見事に結びついている。』
砂漠を抜けジェルバ島へ向かった時、町の賑わいやヨーロッパのツーリストの集団に出会った時には、砂漠に引き返したくなったと島田は書いています。それはかつてチベットから下界に下りてきた時の感覚に近いと。。アラビアのロレンスが「何故、砂漠を愛するのか?」という質問に「清潔だから。」と答えたそうですが、この言葉は砂漠に立ったことのある人間ならば、すぐにわかるでしょう。わたくしが八年ほど前にモンゴルの南ゴビ砂漠から持ち帰った砂が、全く変質していないことでも、これは証明されるのではないかと思います。島田雅彦はこのように書いています。
『この世の形あるものもないものも、いずれはこの砂に埋もれてゆくのだ、と呟いてみては、一人ほくそ笑むのである。それにしても砂漠の砂は、歴史の虚栄や残虐や愚行を数千年にわたって呑み込んできたにしては、美し過ぎる。』
最後に宗教に少しふれておきます。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も砂漠から生まれました。そしてその宗教が原型に近いほど、純粋であり、人間の暮らしの根源に見合っているのではないでしょうか?「もう一度砂漠を見てから死ぬよ。」これが島田雅彦の旅の別れの言葉でした。
(一九九八年・KKベストセラーズ刊)
Dec 02, 2006
海を飛ぶ夢

監督 アレハンドロ・アメナーバル
これは実在の人物、ラモン・サンペドロの手記をもとに描かれた映画です。「尊厳死」は是か否か?それは映画を観終わってもなお、わたくしのなかでは答えは出なかった。海の事故で、頭部以外総てが不随となったラモン・サンペドロは、人生の約半分の二六年間をベッドの上で過ごしていたが、自ら命を絶つ決断をする。それは彼個人の人生だけではありえない、そこに関わる人間たちの人生にも関わる決断でもあるのだった。
まず、ラモンの世話をした老父と兄夫婦とその一人息子である。兄は弟のために海の仕事を捨てて、農業の仕事を選んだのだった。最も困難な役割を担った彼等は、それでもラモンの死を望んではいない。すべての今までの日々が無意味なものになってしまうだろう。
人権支援団体で働くジェネは、ラモンの死を合法にするため、弁護士のフリアの協力を仰ぐ。ラモンの話を聞くうちに、フリアは強く彼に惹かれていった。しかしフリアも不治の病に犯されて、やがてラモンとの死の約束をする。しかし、フリアの病の進行は「痴呆」という形であらわれて、ラモンを忘れてしまった。ジュネは夫との健康な性生活ののちに母親となる。
父親の違う二人の子持ちの未婚女性ロサは、テレビのドキュメンタリー番組のラモンを見て、彼を訪ねてくる。それは彼女の貧しさや不幸を克服するために、ラモンに寄り添う人生を選ぼうとしたように思える。何故か十月二十一日にここの日記に書いた水上勉の「筑波根物語」の女性たちをを思い出させる。しかし、死を決意したラモンには、ロサの存在は知人でしかないのだった。
そうした経過の後、法廷に車椅子で臨み、ラモンは「尊厳死」を認められる。彼はスペイン北部、ガリシアの澄んだ「海を飛ぶ夢」へ向かうのだった。わたくしは「これでよかったのだ。」とも「尊厳死はいけない。」ともいえないままです。わたくし自身がラモンだったらどうだったのか?という仮説をたてることすらできませんでした。
Nov 30, 2006
モカシン靴のシンデレラ 中沢新一 牧野千穂(絵)
「シンデレラ」の起源は旧石器時代と言われています。それがさまざまな形で世界中に拡散したものと考えられています。五百年ほど前、アメリカ大陸には先住民がおりました。そこに殖民者が入り込み、ヨーロッパ文化は先住民に伝わりました。先住民のなかの「ミクマク族」とフランス人植民者は互いの神話や民話や物語を語り合いました。そのなかの「シンデレラ=灰まみれ」が「ミクマク族」の心をとらえたのでした。
「ミクマク族」には不思議な技を持っている「灰まみれ少年」がいるのです。それは竈のそばにいて灰まみれになっている少年です。竈は死者の世界の入口なので、火のそばにいる者は死者と生者の交流の能力を持っているのです。この「灰」が最初のキーワードでした。 そして「ミクマク族」が疑問に思ったことは、「灰まみれ」の娘が「灰」を拭って、きれいに着飾って、王子の心を惹くという点でした。これは「聖なるミクマク族」には赦し難いことでしたので、ここで「ミクマク族」の「シンデレラ」が誕生したのでした。原題は「肌をこがされた少女」。英訳の原題は「見えない人」でした。
王子は「ヘラジカ」の霊に守られた偉大な狩人で、聖なる魂の少女にしか見えない「見えない人」、シンデレラのガラスの靴は父親のお古のモカシン靴(ここに密かな父親の守護を感じます。)、衣装は森の白樺の皮(わたしの独断ですが、これはヘラジカの食料ではないでしょうか?)、「幸運のお守り」とされる「ウェイオペスコール」と呼ばれるわずかな貝殻の首飾り(これは装飾ではないでしょう。)でした。
「シンデレラ」には、どの少女にも見えなかった「見えない人」が自然に見えたのでした。ここで少女は体にあった火傷の跡が消え、焼けちぢれた髪が美しい黒髪になったのでした。
この物語は、ヨーロッパにおける「女性の美しさと幸福」と言うテーマをさらに深め、純化させたということでしょう。中沢新一の翻訳とは言い難く、創作とも言い難い物語ですが、牧野千穂のやさしい絵がこの本をさらに魅力的にしたと言えるかもしれません。
(二〇〇五年・マガジンハウス刊)
Nov 27, 2006
贈答の詩④ 秋山公哉詩集「河西回廊」への挨拶詩
「西域」は秋山公哉さんの少年時代からの憧れの地、大学も「大谷探検隊」の資料に触れることのできるところとを選んだ程の長い夢であったようです。どうやらこの詩集はその旅を終えた報告の書と言えそうです。また、この詩集は以前からの詩集とは異なり、すべてご自分で手作りされたそうです。見事な作りで驚かされましたが、この「手作り」に拘ったということにも、秋山さんの深い思いがあるのかもしれません。
旅は四章に分けられて、「河西回廊」「蒙古高原」「玉門関」「天山南道」となっています。残念ながらわたくしが記憶を共有できるのは「蒙古高原」のみですが、この詩集から幻の旅をさせて頂きながら、一編の詩を書いてみました。
砂の記憶
そこには草原と空だけがあった
その境目あたりから
風が吹き 砂が舞い 光が広がる
雲は雲の形で地上に影を落す。
陽に焼けた額に知恵を満たしている
羊飼いの少女よ 馬上の少年よ
草の海の人々よ
わたくしたちは潮の海を渡ってまいりました。
幻の回廊をめぐり
牛が水を飲む一筋の河を渡り
砂に埋もれた城壁をさがしつつ
揺れる空中桜閣を追って。
そして草原から砂漠へ
生きているものはすべて砂に還り
神々は静かに風紋を渡り
わたくしたちの足跡も消えました。
永い旅の終わり
またここから始まる旅
吾亦紅の咲く野辺に立って
この花の名前の由来を再び思うのです。
(二〇〇六年・私家版)
Nov 26, 2006
私の上に降る雪は・わが子中原中也を語る 中原フク述・村上護編
中原中也の弟で五男の「中原呉郎」についてしばらく書いてきましたが、彼は「海の旅路」のなかで「故郷の中原中也」を書き、また中原家の系譜についても書いています。また四男「中原思郎」は「兄中原中也と祖先たち」と題した著書を出されているようです。これは未読ですが。
この本は、中也たちの母親である、九十五歳の中原フクの口述を村上護が文章におこしたものです。このお二人の出会いを結んだのは、どうやら呉郎のようです。村上護が「山頭火」について調べていた折に、その友人である呉郎に出会ったことがきっかけとなっているようです。
母フクの山口弁の語り口が、そのまま文体に再現されていますので、全体がやわらかく独特の世界を作りあげています。しかし、無残なことと言っては過言かもしれませんが、六人の息子達に恵まれながら、九十五歳のフクはその息子たちの死を見送ったという事実です。その息子たちに代わって、母親は我が子を語り尽くそうとしていました。過酷に見えるこの一冊は、すでに母親フクの創りあげた世界だとも言えるでしょう。死者はもう語ることはできない。生き残った者の想像力と記憶に頼ってこの一冊は成ったのです。
読み終えて、何故か腑に落ちないのです。中原家の生死の順番が狂っているからだろうか?死んだ母親を語る子供はあたりまえですが、死んだ子供を語る母親の切なさは深い。しかし反面では母親の無意識の脚色ということも感じざるをえない。これは「悪意」で言っているのではありません。母親であるわたくしの拭い難い「直感」なのです。
その一つの例をここで書いて見ましょう。
フクの夫謙助は、夫としてはエゴイストでしたが、子供の教育には厳格で潔癖でした。ことに長男中也は「神童」とまで噂されましたが、あまりの父の厳格さに抵抗して、ついに「落第生」とまでなり、父親から追放される形で家を出され、別の土地の学校に転校しますが、それは中也にとっては孤独なことではあったでしょうが「開放」でもあったはずです。その中也の成り行きから、中也以下の息子たちは冷酷とも言えるほどの極端な「放任」の姿勢をとり、ここにも謙助の「エゴイズム」が見えてきます。
その謙助の厳格な躾のなかで、庭の松の木に中也を縛って吊るしたというお話があります。当然母親のフクもそれに加担したことでしょう。夫に逆らえない妻の哀しさもあったかもしれません。これは中也から四男思郎が聞いた話だとされています。思郎が「兄中原中也と祖先たち」を書く時に、「その話はやめて欲しい。」とフクが頼んだのだそうです。しかし思郎は「それでも兄貴がぼくにそう話しておったから。」と答えたそうです。フクは口述のなかではこの事実を否定しています。これが中也独自のアイロニーであったのか、実話であるのかは知るよしもありませんが。。。
このお話からすぐに思い出したのは桐田真輔さんの詩「11月20日」でした。この詩は四章に分かれていまして、亡くなったお父上への追悼詩です。全編は桐田さんのHPで読めますので、ここでは抜粋のみとさせて頂きます。
(前略)
おとうちゃんと呼んでいた子供が
おとうさんと呼ぶようになったのはいつの頃だったか
陰で親父と呼ぶようになる前のことではあろうが
おとうちゃんは食事中についていた頬杖を
よこからとっぱらったり
泣きやまない子供を逆さにして
崖のうえからぶらさげたりもしたが
おとうさんはもうそんなことに関心はなかった
(中略)
精悍なシェパードが大好きだったおとうちゃん
鋤焼きの味付けに大量の醤油と砂糖を投入したおとうちゃん
僕は遠い昔に多摩川べりで
おとうちゃんの大きな影を見失ってから
幻の父を探し始めたのかもしれない
死にきることの難しい時代のどこかでいつか
僕はきっと父をみつける
〔 November.27.1999 〕
このわたくしの中で起きてしまった連想をおそるおそる桐田さんにお話しました。彼は「子供心に、父親は絶対にその手を離すことはない、という信頼がはっきりとあった。それさえあればさかさまな異界体験したようなもので、その印象の方が強いから、心の傷としては全く残っていない。」とおっしゃっていました。密かにほっとしました。しかし中也はどうだったのでしょうか?中也には「神童」という詩があります。
神童
わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾り泡だつ。
おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界を索めんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い
かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、
らんだ*にして、とぎれとぎれの仕草をもち、 (*漢字変換ならず。)
人に向かっては心弱く、諂ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出かしてしまふ。
(つみびとの歌 より)
この詩の背景には、その松の木事件を含めて、幼い日の中也を悩ませた父親の教導が大きな影を落としているように思えてならないのです。その父親から母親のフクが中也をどこまで庇うことが出来たのか?どこまで開放させることができたのかは、フクの口述には表れてこないのでした。
この本に関しましては、この問題だけに焦点を当てて、書いてみました。偏った感想ですが、中原中也と桐田真輔さんの少年期のちょっとした共通項と、視点の差異が書けたことでよしとしたいと思います。さらにこの本は二十代はじめの桐田さんが入手したであろうと思われる古書をお借りいたしました。これも何かのご縁でしょうか。
(一九七三年・講談社刊)
Nov 22, 2006
海の旅路 中也・山頭火のこと他 中原呉郎
十一月九日に『中原呉郎遺稿集ー山椒・三十二号』について書きましたが、それは「山椒」同人によって編纂されたものです。この「海の旅路」は新たに単行本として出版された遺稿集です。「三代の歌」「フク女覚書」「ヨハネ伝八章注釈補遺」は重複して掲載されていますが、それを含めて十四編のエッセーと小説が掲載されています。これらの著作も「山椒・三十二号」同様に、同人誌あるいは医学関係の雑誌などに掲載されたものを、呉郎の亡くなった後で遺稿として集められたものと思われますが、出典があきらかではありません。
表題となったエッセー「海の旅路」は昭和三十六年(一九六一年)八月から、翌年十二月までの間に「日本郵船」の船医として訪れた海外の土地について書かれています。訪れた土地は約十五箇所です。日本を恋しいとは思わなかったが、反面ではどこも同じことだという感慨があったようです。この旅の後で呉郎は「日本の普通の医者になろう。」という結論に至ったようです。
中原家は代々の医家であったのですが、長男の中也は家業を嫌い、文学の世界にいく。五男の呉郎は医師とはなったが、やはり中也同様に留まり続けることのない人間だったようです。略歴でもわかるように、軍医、船医、開業医、ハンセン病療養所の医師、無医村の医師など、変遷が多いようでした。それは友人「山頭火」が与えた影響も大きいものと思われます。
「紫陽花」は、シーボルトの日本人妻とその混血の娘、孫娘の三代の歴史小説になっています。娘は医師となりました。また「蘭学のころ」は日本の蘭学のはじまりと、それを受け継いだ人々の系譜がしっかりと記述されています。この二篇が医師「中原呉郎」の思想の原点であり、中原家の源流とも言えるのかもしれません。
また「故郷の中原中也」では、中原家を出た後の兄中也が五男呉郎へ与えた精神的な影響の大きさを物語っています。その後の生き方も、本来持っていたお互いの性格も異なりますが、評論家たちにはない弟の視線で「中也」を語る点には大いに注目してもよいでしょう。
(一九七六年・昭和出版刊)
Nov 18, 2006
ハンセン病文学全集・8・短歌(その一)
この文学全集は完結すれば全十巻となります。この短歌編は八回目の配本です。小説三巻、詩二巻、児童文学一巻、記録&随筆一巻がすでに刊行されています。その後、俳句&川柳一巻、評論&評伝一巻で完結となるはずです。作品は約八十年前から現在までに書かれたものです。これらの作品は全国のハンセン病療養所から集められたものですが、小さな出版社にとって、それは十年を越える歳月の作業だったようです。
ここでまず短歌の巻を取り上げます。・・・・・・と言っても、今後、詩の二巻、俳句&川柳の一巻について書く気持はありますが、あまりにも膨大な分量ですので、お約束はできません。さて、この六五六ページ、二段組の重たい歌集について、どこから書いてゆきましょうか?まずはこの全集の編集者の、二〇〇四年十一月のメモをご紹介します。
『長島愛生園では、双見美智子さんという八十過ぎの素敵なおばあさんが「神谷文庫」を守っている。宇佐美治さんは、ハンセン病資料の収集と保存に命を懸けている。多磨全生園ではハンセン病資料館などが出来るはるか以前から、山下道輔さんが「ハンセン病図書館」を運営し資料の保存してきた。
多くの「学者」が「新資料を発見」したと称して、マスコミに登場するが、それはそうした人たちが苦労して保存してきた資料の中から「発見した」に過ぎない。それも多とするけれど、そうした発表の中で、無名性に徹して惜しげもなく資料提供した彼らに言及する「学者」は少ない。』
これは大変に重い言葉です。そしてこの全集刊行の底流として、この考え方はずっと流れ続けていたのではないかと思います。この姿勢に敬意を表したい。
わたくしは元来この世界に詳しいわけではありません。そのわたくしがあるきっかけからここに収録されている作品の約十倍の作品を読む機会に恵まれました。(詩、短歌、俳句、川柳のみですが。)それらの本を読む時、注意深くその一冊づつの書かれた時代と、療養所の場所とを頭に入れました。そうして全部を読み終える頃には、おぼろげながらも、ハンセン病の隔離と差別の歴史、療養所の生活の様子、深い雪、波の音、川の音、風雨の気配、陽ざし、花、草木、野菜、動物、そして病の実態、治療薬の発見の歴史によって、その運命を別けられた人々・・・・・・書きつくせないほどのものをわたくしはそこから学びました。
だからこそ、わたくしはそれら半端な知識や理解を、もう一度捨てるところから再出発したいと思います。誤読、深読みはしないこと。ある作品が「ハンセン病」という括りをすでに超えて「普遍性」に届いているのだとしたら、わたくしはその「普遍性」の方へ視線を向けたい。
また、別の視点から考えますと、作品としての水準はどうか?という問題もあります。これを書くことはとても怖いことですが、あえて書きます。ここにはすべての書き手の作品が収録されていることです。永い文学の歴史のなかでは、このような「文学全集」は本来ならばありえないことなのです。ですからこれは「痛い声」の全集なのだと思われます。たとえば幼い子供が腹痛を訴えると、母親も同じところが痛む、というような遠い記憶を呼び覚まされるような出会いだった作品なのです。
この二つの視点のはざまで、途方に暮れているわたくしを、救い上げて下さった歌人は「赤沢正美」でした。赤沢は昭和八年生まれ。高見順賞受賞詩人であり歌人の「塔和子」の夫です。ここに収められた歌人は一二〇〇名、そこから何人かを選ぶのは大変に困難なことですが、かつてのわたくしのメモに残った作品を見ますと、大半が「赤沢正美」であったということから、ここでは赤沢のみの作品紹介にとどめます。
台風に揉まれし茎を起こしゐる草の自立は野にひそけしよ (投影)
人が立ちて歩き始めしときよりの背後の不安われもひきずる (草に立つ風)
明日のことまで断言をしてはならぬ貧しき者に貧し木の椅子 (投影)
地の飢えは癒されゆくか風落ちて眠りの如く降る雨のあり (投影)
病む膝を抱へて妻は眠りをり胎児標本の如くせつなく (投影)
(つづく。)
(二〇〇六年八月・皓星社刊)
Nov 11, 2006
アイヌ神謡集 知里幸恵 編訳
知里幸惠(ちり ゆきえ)は、一九〇三年(明治三十六年)生まれ。一九二二年(大正十一年)心臓病で急死。その翌年に「アイヌ神謡集」が出版されました。
この本の定本は、その大正十二年の「知里幸恵編『アイヌ神謡集』・郷土研究社刊」であり、北海道立図書館北方資料研究所蔵の「知里幸恵ノート」を、編集部が閲覧して、補訂したものです。
知里幸恵は十九歳の若さで亡くなっています。彼女は登別のアイヌの豪族の血筋を引き、豊かな大自然のなかで育ち、旭川の女子職業学校で日本語、ローマ字、英語を学びました。そして母と伯母からキリスト教を学ぶことによって、父祖伝来の信仰を深め、純化したものと思われます。
十七歳の時の金田一京助との出会いが、この「アイヌ神謡」の翻訳と出版への工程をより進めたものと思われますが、「生涯の仕事に。」という決意もならず彼女は夭逝されて、ここに収められたアイヌ神謡は十三編、残念ながらすべてということにはなりませんでしたが、これが「アイヌ神謡」として世に出た初めてのものでしょう。皮肉なことですが、この本がわたくしの手に届いたということは、先住民であったアイヌへの大和の侵略によって、日本語、新しい宗教がもたらされたという過去の歴史があったということでしょう。
これはアメリカ・インディアンの口承詩にも言えることかもしれません。祖先からの知恵、自然とともに生きてゆくことは自然への感謝と信頼であること、あたりまえのようでありながら決してあたりまえではない生きることの厳しさとやさしさを、わたくしたちは「侵略」によって知ったことになるのです。
これらアイヌ神謡は、文字がなく口承ですから、言葉の音として、本文はすべてローマ字で書きおこされていて、それを知里幸恵が日本語訳したものです。こうした仕事が出来る方はめったにいなかったことでしょう。
ここで謡う神は「梟」「狐」「兎」「小狼」「海の神」「蛙」「小オキキリムイ」「沼貝」です。「オキキリムイ」とは「人祖」です。これらの「神謡」からはもっとも根源的で平和に生きる意味が問い直されてゆきます。また「神謡」は、個々の物語に固有のリフレインがひんぱんに見られます。特にわたくしが美しいと思ったのは「梟の神の自ら歌った謡」のなかにあるこのリフレインでした。しかし文字の上でのリズムしかわからないのが残念です。
銀の滴降る降るまわりに、
金の滴降る降るまわりに、
アイヌの口承文学の中で、物語性をもったものは大きく分けて「神謡」(カムイユカラ)「英雄叙事詩」「散文説話」の三つに分けることができるそうです。その「遠い声」に耳をすませていたいと思います。
(岩波文庫 一九七八年第一刷・二〇〇五年第三十七刷)
中原呉郎追悼集 中原ふさえ編纂
十一月九日に掲載しました同人誌「山椒・三十二号・中原呉郎遺稿集」の年譜は、ややあいまいな点がありましたが、この本は奥様の「中原ふさえ」が編纂したものですので、こちらが正確かと思えますので、改めて年譜のみとりあえずメモしておきます。
この本はすべて友人、知人の追悼文を収録したもので、奥様の著述はありません。最後は中原呉郎の母上が「ふさえ」に宛てた手紙も収められています。これらに関しましては、改めて書いてみたいと思います。では年譜のみを。
(一九七六年・私家版)
Nov 09, 2006
中原呉郎遺稿集 「山椒・三十二号」
(多磨全生園の姫りんご)まず、このガリ版刷りの貴重な古い一冊を持っていらしたF氏の資料提供に深く感謝いたします。しかも古い貴重な本に触れるわたくしの緊張感を思い、すべてをコピーして提供してくださったお心遣い、ありがとうございました。また中原中也と中原呉郎を繋ぐ情報を下さった関係者の方々にも心より感謝いたします。
中原呉郎は、「中原中也」を長男とする六人兄弟の五男にあたります。職業は医師。これを掲載した同人誌「山椒」は、ハンセン病国立駿河療養所において「中原呉郎」が療養所の方々に声をかけて始まったものでした。「三十二号」は昭和五十年(一九七五年)に亡くなった彼の追悼特集号となっています。彼は医師の仕事のかたわらに詩、随筆、小説などを書いていたのです。「中原呉郎」の略歴を記しておきます。
大正五年(一九一六年)山口市にて生まれる。父は医師中原謙助、母はフク。
昭和十六年(一九四一年)長崎医科大学卒業。
ここに空白がありますが、この期間にはおそらく軍医だったのでしょう。戦後には自らの生き方に彷徨いつつ、船医をしていた時期もあるようです。
昭和三十年(一九五五年)国立多磨全生園勤務
昭和三十八年(一九六三年)国立駿河療養所勤務
昭和四十年(一九六五年)茨城県稲敷郡河内村国保療養所長勤務。
河内村は「無医村」だったのです。
昭和四十九年(一九七四年)八王子市散田南多摩病院勤務
昭和五十年(一九七五年)肝硬変にて逝去
この遺稿集には「三代の歌」「ヨハネ伝第八章注釈補遺」「フク女覚書」「病院街行進曲」「墓標記」の五編が収録されています。「三代の歌」と「フク女覚書」は、中原一族と、母親「フク」について呉郎の視点から書かれています。残り三編は小説でした。
【三代の歌】では、呉郎の祖父母、父母、そして兄弟のことが書かれていますが、その系図は大変に複雑ですので詳細は省きますが、中原一族の宿命とも言える「魂の彷徨性」「狂気性」と共に「いのちの儚さ」が、わたくしを圧倒してきました。また、中也の詩にもあたって、弟の視点で見た中也の生い立ちとの関連、詩人たちへの最期の手紙や詩作品の意味合い、母「フク」が好きだった詩は「冬の長門峡」だったことなど、わたくしの今後の中也詩の読解に大きく影響してくることでしょう。
呉郎は中也の思想を「叙情性」からすべて出発したものであることを指摘しています。これは中也に限ったことではなく、わたくしはむしろ普遍的なことではないのかと思います。また中原家三代に渡る「含羞=はじらい」を中也が受け継いだとも書いています。それは「田舎馬が物に驚く」ような「なま」な感覚でむしろ「照れ」に近いもののようです。
【フク女覚書】は、その「儚いいのち」の哀しみをすべて背負って、九十歳を超えるまでしっかりと生きられた母上の生涯が見事に書かれていました。「フク」は大変向学心もあり、とても愛情深い方だったように思いますが、残念なことに狂気と夭逝から中也を救うことはできなかったようです。
【ヨハネ伝第八章注釈補遺】は、中原呉郎自身の解釈による「ヨハネ伝」で、一人の娼婦を主人公にした一編の小説の形となっています。
【病院街行進曲】【墓標記】の二篇の小説は、中原呉郎自身の自伝のようなものであり、中原呉郎の生き方の表明に似たものだと思われます。前者が「地上の医者」ならば、後者は「海上の医者」と言えるかもしれません。この二篇に共通していることは、女性を愛すること、家族を持つことを呉郎自身がどれほどに恐れたか、ということです。その根底にあるものは前記の「魂の彷徨性」のようでした。
現実の中原呉郎は結婚はしましたが、「子供を持つこと」はありませんでした。それはどうやら中原一族の「狂気」を恐れてのことだったようです。
【墓標記】の方では、船は「海上の牢獄」だと書き、孤独と閉鎖性のなかで心を病む者が多く、海に出ることは決して開放ではないことに気付かされます。ペルシャ湾の嵐の折の描写では「全員が同一条件に立ち、過去と隣人との思いから断絶されて、死の恐怖に襲われる時、西川(主人公)は不思議な心のやすらぎを感じていた。身を痛めつけることが、せめて生きるしるしのように思われた。」と書かれてありました。
以上は、「山椒」同人によってこの一冊に収められた作品のみで、それ以前の同人誌「山椒」に掲載された作品、のちに単行本となった作品、奥様の手による遺稿集などもありますので、さらに新しい発見はあると思います。最後に、これを書くにあたり、さまざまな情報を下さって、わたくしのこの一冊の読み解きを支えて下さったF氏に深く感謝致します。ありがとうございました。
昭和五十年(一九七五年)刊
Oct 28, 2006
杉田久女随筆集
杉田久女(一八九〇年「明治二十三年」~一九四六年「昭和二十一年」)は、一九〇九年、十九歳で美術教師の杉田宇内へ嫁す。一九一七年、高浜虚子主宰の句誌「ホトトギス」が女性俳人輩出のために設けた投稿欄「台所雑詠」に五句が掲載され、それが俳人としての出発点となる。
久女の虚子への尊敬と恋情、病苦、夫の久女への抑圧による俳人と主婦との間の葛藤と苦悶、虚子からの破門、などなど話題の多い俳人ではありましたが、それが「心の病」であるのか、久女本来の情熱的な性格によるものかは、解明されていません。しかし随筆を読むと、生まれた土地、父上の仕事の関係で移り住んだ土地が、すべて南国的風土だったことが、久女の性格に大きく影響しているのではないかと思われます。
常夏の碧き潮あわびそだつ
南国の五月はたのし花朱欒(ザボン)
歯茎かゆく乳首かむ子や花曇
足袋つぐやノラともならず教師妻
病める手の爪美くしや秋海棠
またこの随筆集は、久女の長女「石昌子」によって編纂されていますので、ここに全体像を見ることは、少し無理があるのではないかとも思えます。久女の随筆、俳句の執筆活動は、このような環境にありながら、かなり多いのです。
この随筆集と並べてみたい一冊があります。それは中村汀女の「をんなの四季―昭和三十一年・朝日新聞社刊」、汀女書き下ろしの随筆集です。汀女は明治三十三年(一九〇〇年)生まれ。熊本第一高女卒。昭和六十三年(一九八八年)没。久女と同じく、「ホトトギス」の「台所雑詠」から誕生した俳人の一人です。
この本のなかには、句会に出席してもいつも途中で抜け出して急いで帰宅する汀女がいる。それに不満や無念を抱きながらも、家族の夕餉を整えられたことに安堵する彼女もいる。また幼い子供が重い病にかかり、病院で手厚い治療を受けている最中、罪の意識にかられながらも、それを書かずにはいられない汀女がいる。静かな病室では鉛筆の音さえ響くのだった。
それにしても、その時代とはいえ「台所雑詠」という言葉には、やはりわたくしには抵抗がありました。久女も随筆のなかで、男性俳人からの侮蔑の言葉に対して、女性俳人の感性の柔軟性、言葉のよき器であることを書いています。と同時にやはりかなり個性の強い女性俳人だったことは確かなようです。
虚子留守の鎌倉に来て春惜む
張りとほす女の意地や藍ゆかた
虚子ぎらひかな女嫌いのひとへ帯
蝶追うて春山深く迷ひけり
花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ
谺して山ほととぎすほしいまま
(二〇〇三年・講談社文芸文庫)
Oct 21, 2006
筑波根物語 水上勉
この藤の花は「横瀬夜雨」最期の日に幻覚として見た花です。
『ちらちらと雪が降りはじめた。常陸にはめずらしいことであった。多喜は夜雨に雪をみせてやろうと思って縁先の障子をあけた。
「きれいな藤の花だな」
と夜雨は言った。どこにそんな花が咲いているのだろう。降りしきる雪片が空に舞うばかりで・・・・・・』
これは水上勉が長い時間をかけて書いた、明治中期から大正全期に活躍した詩人「横瀬夜雨」の評伝小説です。「横瀬夜雨」は明治十一年元旦に、筑波山のふもとに近い大宝村(現・下妻市)の素封家に生まれましたが、四歳から「くる病」にかかり、生涯を不自由な身で生きることになりました。本名は「虎寿」。十八歳で詩人としてのスタートをきりましたが、彼の作品に最初に注目したのは「河井酔茗」でした。
「河井酔茗」は、新興詩壇「文庫派」の主唱者であり、彼のもとに集まった青年詩人は、伊良子清白、小島烏水、滝沢秋暁、千葉亀雄、島木赤彦、五十嵐白蓮、鮫島紫紅、窪田空穂、水野茶丹、一色醒川、清水橘村、山村暮鳥、そののち沢村胡夷、北原白秋、人見東明、長田秀雄、さらに有本芳水、三木露風、萩原朔太郎と続く。
「横瀬夜雨」は不自由な身で美しい恋の詩を書き、女性詩壇の選者にもなったことから、女性詩人からの注目を集めることになりました。「文通」という言葉が生き生きとしていた時代のこと、彼の不遇とともにある美しい詩から、まだ見ぬ詩人同士の恋はまたたくまにはじまり、女性たちは「横瀬夜雨」の看とり女を願って結婚や同棲へと進むのでしたが、どれもすぐに破局を迎えました。彼の現実はあまりにも過酷であり、彼の住む村落が暗い風土だったこともあるのでしょう。
稲架(はざ)解くや雲またほぐれかつむすび 木下夕爾
その一人「山田邦子」は信州、函館などで暮したせいか、大宝村の印象はとても重苦しかったようだ。「ここにも信州でみられる稲干しの架木(はさ)はなく、ところどころにポプラがたっているだけで、ただののっぺらぼうに見えるのだった。邦子は不安をおぼえはじめた。」とある。
大正六年六月三十一日、最後に出会った「小森多喜」と結婚し、生涯をともに過しました。多喜二十歳、夜雨四十歳でした。大正八年二月長女「糸子」、大正十一年次女「百合」をもうける。それまでの女性詩人と比べると、「多喜」だけが一切の打算のない純粋なひたむきな女性詩人だったのだろう思えます。母親のあたたかい愛情に育まれて生きてきた「横瀬夜雨」にとって、最もふさわしい女性でした。
水上勉はなぜ「横瀬夜雨」に魅せられたのでしょうか?歩くことすらできない人間が紡ぎ出す美しい詩語の根源に引き寄せられたのでしょう。それにしましても、この本を読んでわたくしが一番驚いたことは、「言葉がこんなにも生きていた。」「言葉がこんなにも人の心を動かした。」ということです。わたくしたちはこんなにも「言葉の力」を信じて、詩を書き、手紙を書いてきたのでしょうか?
(二〇〇六年・河出書房新社刊)
Oct 15, 2006
カポーティ

監督=ベネット・ミラー
脚本&製作総指揮=ダン・ファターマン
主演=フィリップ・シーモア・ホフマン
これはほとんど実話にもとずく映画だとみていいのかもしれません。「遠い声、遠い部屋」「ティファニーで朝食を」などを書いて、「早熟の天才」と言われたアメリカの小説家「カポーティ(1924~1984)」は、小説の新しい素材として、一九五九年十一月十五日、カンザス州ホルカムで起きた「クラッター家の家族四人惨殺事件」のニュースに注目する。 逮捕された犯人は若者二人であり「死刑」が決まった。
しかしカポーティはその二人を生かしておいて最後まで徹底した取材を行うために、別の弁護士をたてて裁判を引き伸ばし、二人の刑務所の面会人リストに自分の名前を入れておくように説得し、さらに自由にいつでも二人に面会できるように刑務所長まで買収するのだった。
こうして、カポーティの徹底した取材が始まり、二人の犯人と作家との対話が繰りかえされる。その間にこの三人の間には疑念とともに、深い友情に似たものも育ってゆく。しかし小説は着々と書きすすめられて、最終章の「死刑」を書く時期になっても、彼らの死刑判決は決まらなかった。現実の死刑判決がついに執行される時、カポーティは涙を流しながら立ち会った。その小説「冷血」によってカポーティの名は一気にアカデミックなものに高まる。それはカポーティの最後の名声でもあったのだが。。。
作家であれ、殺人犯であれ、幼少期に親から心に受けた傷は同質のものだった。耐え切れないほどの孤独と恐怖、あるいは貧しさなど。「冷血」は一体誰だったのか?フィリップ・シーモア・ホフマンは「天才」「ホモ」「アル中」「ヤク中」というスキャンダラスな作家「カポーティ」を見事に演じていました。彼はアカデミー賞主演男優賞を受けています。
秋晴れの日の午後、日比谷シャンテ・シネで観ましたが、死刑現場は目をつむっていて、観ていませんでした。その日は「十三日の金曜日」。
「クラッター家」は広大な小麦畑のなかに、ぽつんとある白い家でした。その風景は過日に観た映画「ローズ・イン・タイドランド」にも見た風景。日本の田園風景では絶対にありえない風景、そして孤立の風景でした。
Oct 14, 2006
「待つ」ということ 鷲田清一
アンリ・ド・ブラーケレール (Henri de Braekeleer) 「窓辺の男」
臨床哲学者鷲田清一のおだやかな論理展開は「待つ」ことの抱いているものがいかに広く、深いものであったかを改めて考えさせられました。人生のなかで「待つ」ことはたくさんありました。おそらくこれからもあるのでしょう。そしてその「待ち方」もそれぞれに異なる形となっているのでしょう。第一章の「焦れ」の最後にはすでにこの本全体の「予言」のような一節が書かれてありました。
『わたしたちがおそらくは本書の最後まで引きずることになるであろう事態、つまり、待つことの放棄が〈待つ〉の最後のかたちであるというのは、たぶんそういうことである。』
この本ではさまざまな「待つ」ということの引用が紹介されていましたが、特にこころに残ったのは石原吉郎の「海を流れる川」、フランクルの「夜と霧」、太宰治の「走れメロス」、「小次郎を待たせた武蔵」、そしてサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」などでした。こうした例を辿りながら、著者は丹念に「待つ」の多様性あるいはその意味をみつけようとしているようでした。
一冊の本を読む過程で、必ず一度は訪れる「疲労」があります。それは一つのテーマがとりとめもなく、さまざなな方向に拡散していき、そこをわたくしが彷徨う時です。そこを抜けて、どうやら著者の方向性が一筋の光となって見えてきたとき、その「疲労」は「読書の歓び」に変わります。多分そういう道筋を辿れた本が、わたくしにとって「よき本」ということになるのでしょう。その『光』となったものはたとえばこのような一節でした。
『何らかの到来を待つといういとなみは、結局、待つ者が待つことそのことを放棄したところからしかはじまらない。待つことを放棄することがそれでも待つことにつながるのは、そこに未知の事態へのなんらかの〈開け〉があるからである。』
『〈待つ〉のその時間に発酵した何か、ついに待ちぼうけをくらうだけに終わっても、それによって待ちびとは、〈意味〉を超えた場所に出る、その可能性にふれたはずだ。』
「待つこと」とあなたはいった。
わずかな拒否でもこわれてゆくものがあるから
しずかに「はい」と応える。
冬の空に吸い込まれていった対話。
(詩集「空白期」の「残像」より抜粋。)
(二〇〇六年・角川書店・角川選書)
Oct 08, 2006
バレンタイン 柴田元幸
柴田元幸はアメリカ文学の教授であり、翻訳者でもあるのですが、この本はエッセーと掌編小説(あるいは散文詩?)との中間のような十四編の作品が収められています。わたくしには短編集や箴言集というのは「読書」に疲れた時の回復薬のようなものです。しかし、このお薬の効き目はどうだったのだろうか?「ない。」とも「ある。」とも言えない。むしろ気付かなかった心の病状がうっすらと診えてしまったような感覚でした。多分それはわたくしのかかりつけのドクターにはわからないし、わたくしが自覚するしかないことですが。
この本は「バレンタイン」に始まって「ホワイトディー」に終わるのですが、読み終わってから、ふいに「記憶の胡桃のようだな。」と思いました。さらに「バレンタイン・チョコレート」を贈った男友達から「ホワイトディ・キャンディー」がずっと届かないままで、その男友達がこの世の人ではないような予感がして、最後には、それがすべて当ってしまって、ちょっとたじろいだ気持でした。
「胡桃」を割ると、そこには小さな記憶の山河があります。遠い時間の出来事、死者、幽霊、古い家、若かった父母や兄弟など、時には傍らにいるはずの人間の不在など。。。たった一人の人間は時間を彷徨いながら、記憶を辿りながら、果てしない物語の旅をして、そして最後は「今」すら失って、途方に暮れている。帰る場所はわかっていても、そこになかなか辿り着けない「心の足」のような奇妙な生き物でした。深夜や明け方にふいに目覚めて「ああ。夢だったのね。」と思うような物語たちでした。
(二〇〇六年・新書館刊)
Oct 03, 2006
寺山修司・過激なる疾走 高取英
これは、かつては寺山修司主宰「天井桟敷」のスタッフであり、今は「月蝕歌劇団」を率い る劇作家「高取英」の書いた「寺山修司の評伝」です。高取英の著書にあたるのはこの本が初 めてですので、言っていいのかどうか迷うところですが、他者の引用文があまりにも多いので 、わたくしのような読者は苦しめられました。書かれている一文が著者自身のものなのか、寺 山修司の言葉なのか、他者(十数名いる。)の引用なのか時々確認し直しながら読みました。 引用はほとんど「反論」ではなく「証言」として用いられていますので、迷子の読者にはなら ずにすみましたし、我が「寺山修司」の夢をぶち壊すものでなかったことにも感謝します。おそらく高取英の寺山修司との距離のとり方が近すぎたのではないでしょうか?
寺山修司の作品のなかでは、母親が幾度も殺されています。しかし彼には実母と養母がいる のですが、その双方から豊かな愛を受けています。それが彼の早熟で多才な活動に、血を注い だと思われます。これは私見ですが、「愛された記憶」がいかに一個の人間を豊かに実らせる ものであるのか、ということの一つの好例だとも言えるでしょう。
ヒットラーを「ゲルマンの血の純潔という夢のための詩的行為の人」と言い、またはトロツ キスト、反革命と言われた戯曲「渇いた湖」のなかの主人公の台詞「デモに行く奴はみんな豚 だ。豚は汗かいて体こすりあうのが好きだからな。」から、前記の考えを否定しなくてはなら ないとも思いません。
寺山修司の純粋性や愛の表現が「殺人者」「テロリスト」「叙情」「過激性」「エロス」な どなどに分かれてゆく時、その分かれ道には何があったのでしょうか?荒野のような広さと多 様な世界を抱いていた人だったと改めて思います。この本の結びの言葉は寺山修司のエッセー のなかから、このように書かれています。彼は父親にはならなかった。
『私は、私自身の父になることで、せい一杯だったのである。』
読み続けるうちに次第に疲労感が訪れてきました。寺山修司の「生き急ぎ」の人生に、わた くし本来の「ノロマ性」が追いつけなくなってきたのでしょう。
「家出のすすめ」が書かれた時期は、改めて確認してみますと、わたくしが「家を出る」こ とを意識し始めた時期とほぼ同じ時期だったようです。わたくしが思春期や青春期に寺山修司 を意識しながら生きたわけではないのですが、寺山修司の後追いのようにして、社会状況を見 つめて生きてきたのだと改めて思いました。
失ひし言葉かへさむ青空のつめたき小鳥撃ち落とすごと 寺山修司
落下する白い小鳥が置いてくる秋空のすみの青い空白 昭子
(二〇〇六年・平凡社新書)
Sep 26, 2006
天才の栄光と挫折・数学者列伝 藤原正彦
ここには九人の数学者が取り上げられています。まずその数学者の生きた時代と国名を表記してみましょう。
アイザック・ニュートン(一六四二年~一七二七年)・イギリス
関孝和(一六三九年?~一七〇八年)・日本
エヴァリスト・ガロア(一八一一年~一八三二年)・フランス
ウイリアム・ロウアン・ハミルトン(一八〇五年~一八六五年)・アイルランド
ソーニャ・コワレフスカヤ(一八五〇年~一八九一年)ロシア・・・ストックホルム(スェーデン)
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(一八八七年~一九二〇年)・南インド・・・イギリス
アラン・チューリング(一九一二年=一九五四年)・イギリス
ヘルマン・ワイル(一八八五年~一九五五年)・ドイツ・・・アメリカ
アンドリュー・ワイルズ(一九五三年~)・イギリス
この著書は上記の数学者の短い評伝でもありますが、藤原正彦自身がこの数学者たちの足跡を訪ね、関係者に出会う旅の紀行文ともなっています。どの時代の数学者の生涯のなかにも共通して感じられることは、研究にかけた尋常ではない時間の凝縮でした。
まず、アイザック・ニュートンや関孝和の時代の数学は、天文学、暦学、哲学、宗教学、政治学、経済学、(日本で言えば陰陽学も加わります。)などの広範囲な世界を内包していたのでした。「栄光と挫折」というタイトル通りに、数学者も人間・・・嫉妬、競争の坩堝のなかで苦しみ、さらにその時代の権力者の寵愛を受けるか否かで学者の運命は大きく変わります。学者の弛みない研究生活を見る緊張感と同時に、学者と権力が手を結ぶという怖さもありました。しかし藤原正彦は、その彼等の不遇な部分に光を当てようとしているかのようでした。
時代が変われば、エヴァリスト・ガロアのように一七八九年のフランス革命後の混乱期にあって、家族ともども思想的に困難な時代を生きなくてはならないこともあり、学者としては大変不遇でした。あるいはウイリアム・ロウアン・ハミルトンのように詩人(ワーズワースとの出会いで、詩は断念。)ということもあったのでした。ガロアの短い生涯の最後の言葉はあまりにもいたましい。
『私を忘れないでくれ。祖国が私を記憶するほど、運命は自分に充分な時間を与えてくれなかったのだから。君達の友として私は死ぬ。』
たった一人女性数学者としてソーニャ・コワレフスカヤが登場する。数学と文学とを心のなかに共存させて、美貌と知性、母性、そして大変に愛された女性であったというが、反面「絶対」を求めずにはいられない女性として生涯孤独な魂を抱いていたとも。。ドフトエフスキーの「罪と罰」は、ソーニャとその姉アニュータ(作家)との出会いののちに書かれたものだそうだ。
南インドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、貧しい事務員で教育も満足に受けていなかった。彼の研究を最初に認めたのはイギリス、ケンブリッジ大学のハーディーでした。ヒンドゥー教の戒律と数学との狭間で苦しみながらも、ラマヌジャンはケンブリッジにおもむき、ハーディーと共に、研究する幸福な時間もありました。三十二年の短い生涯で、彼の数学研究を助けたのも、苦しめたものも南インドの土着の宗教だったようだ。
アラン・チューリングの師、ケンブリッジ大学のハーディー教授の一九四〇年のこの言葉は、皮肉にも数学の歴史の転換期を予言してしまったようだった。この本を時代を追って読みながら、わたくしが恐れつづけたことはここから始まったと思いました。
『真の数学者による真の数学は役に立たない。科学は戦争など悪にも役立つが、純粋数学は安全である。戦争に役たたせる道は見出されていないし、今後も長い年月、見出されるとは思えない。』
しかし、チューリングをはじめとするイギリスの数学者たちは、一九三九年戦争勃発とともに、ドイツ軍の「エニグマ」という暗号文解読のために集められることになった。これをさらに発展させられたものが、コンピューター理論の元となった「コロッサス」となる。時代はここまで来てしまった。このとき彼は二五歳。
ヘルマン・ワイルは数学とは、哲学、文学や音楽と同様に精神活動の一環として考える学者だったようだ。一九三三年ヒットラーのユダヤ人追放の時代に、妻のヘラがユダヤ系だったことから、アメリカへ渡ることになった。そのアメリカからワイルは幾多のユダヤ系の学者を救出したが、その結果ドイツのゲッティンゲン大学は瓦解したとも言われている。
戦後日本の数学界はアメリカへの頭脳流出のために、学者の乏しい時代にあったが、そんな時期(一九五三年)に東大に「SSS」という研究集団が立ち上がる。その中心人物が谷山豊と志村五郎であり、二人が取り組んだ研究は一七世紀後半の「フェルマーの予想」の証明であった。
一九六三年、アンドリュー・ワイルズ十歳の時に図書館で出会った「フェルマーの予想」の「最後の問題」の証明が少年の夢となったのだった。ここですでに見えない架け橋がかかっていたのだった。谷村豊は自死するが、志村五郎は続行する。
そして一九九四年ワイルは、ケンブリッジ大学講師リチャード・ティラーの協力により、「谷村・志村予想」の証明を成し遂げた。約四十年の歳月が経過していた。
数学者藤原正彦が魅せられた数学者の紹介はここで終わる。
この本を一緒に読んでくれた亡き父よ。ありがとう。
(二〇〇二年・新潮選書)
Sep 19, 2006
犬のしっぽを撫でながら 小川洋子
(photo by KIKI.....u u u)
この六一編のエッセー集のはじめには、小説「博士の愛した数式」の書かれた動機について記されています。そのきっかけは数学者藤原正彦の「天才の栄光と挫折・数学者列伝」にあったとのことです。たしかに藤原正彦の文章は(「国家の品格」以外!)明確で魅力的です。数学の苦手だった小川洋子は数学の美しさ、ゆるぎない正しさ、果てしのなさに惹かれていったようですね。
そして、その小説に出てくる博士が愛した少年「√」の誕生日を「九月十一日」としたこと、その誕生日のお祝いの夜にバースディー・ケーキが壊れたことの理由もこのエッセー集で理解しました。それは、小川洋子の作家としての出発点が「アンネ・フランク」だったということとどこかで繋がっているのではないか?という思いが立ち上がったからでした。
また、「√」と小川洋子のご子息が共に「野球少年」であること。タイガース・ファンであることなどのほほえましい繋がりも見えます。また若い日にレース編みを学んだこと、その先生のお宅にはフェルメールの絵「レースを編む女」が飾られていたことから、この博士の美しい数式の比喩として、「レース編み」が何度か登場することにも納得できるものでした。小川洋子の素直なやわらかな(ちょっと夢見がちな・・・)感性をここに感じます。
この小説「博士の愛した数式」の「読売文学賞」と「本屋大賞」の受賞はともかくとして、その他に「日本数学会出版賞」を受賞したということは、上等なジョークのようなお話ではないだろうか?
それから面白かったのは「罵られ箱」という二ページ弱のエッセーです。ささいな他者の冷酷な言動によって、小川洋子はすぐに落ち込むらしい。そんな時にこの箱を開ける。これまでの人生のなかで受けたさまざまな非難の言葉と心静かに対面して、またその箱に収めるのだとか。その箱は詰めても詰めても満杯にならないのだとか。。。
わたくしの「罵られ箱」の中身は、小川洋子より年長故大分増えましたが、さらにこの秋くらいには増えることでしょう。いくらでも入ると言う小川洋子のこの言葉を信じてみよう(^^)。
エッセーはその他は省いてここでちょっと笑い話。。。「曲がった鼻」という短いエッセーのなかで、耳鼻咽喉科の検査に鼻から内視鏡を入れて、咽喉を調べる方法があるのですが、その時小川洋子は貧血を起してしまって、ドクターから「君の鼻は曲がっているねえ。」と言われたそうです。わたくしは同じ場面でドクターから「鼻の穴が小さいですねえ。」と言われたことを思い出してしまって、おもわずクスクスクス。。。鼻呼吸の上手い人間ほど集中力があるそうな。。。ふうむ。深く納得しました。
(二〇〇六年・集英社刊)
Sep 16, 2006
良寛 吉本隆明
吉本隆明がこの本で何を伝えたかったのかはとても明確でした。そして吉本が描きだした「良寛」はさらに明確でした。良寛の思想の根底にあったものは、曹洞宗円覚寺の国仙、道元の「正法眼蔵」、老子と荘子であることは、水上勉の「良寛」の感想文の折にすでに書きました。この本のなかでは「仏教者良寛」について、吉本と水上の対談も収録されていますが、水上は自らの境涯を重ねながら語り、吉本は「思想」「詩文」「書」を中心として追いながら、良寛の精神の筋道を語ろうとしていました。このお二人の対談はこの本のなかで光を放っていたように思いました。お二人の「良寛」を読んだことの幸福を感じます。
吉本は良寛の思想を「アジア的」と言っています。現代を生きるわたくしたちは、良きにつけ悪しきにつけ、すでに「欧米的」思想を取り込んでしまっているのです。その精神構造で読んでいきますと、吉本の解説する「アジア的」思想が、とてもなつかしく思われてくるのでした。そこに国仙が良寛を評して言った「大愚」と、良寛の天性の性格の「悲劇性」とが錯綜して、良寛の実像に近づくのはとても困難なことだったと思います。
まず極私的に「愛語」に触れてみたいと思います。これは道元の「正法眼蔵」のなかにある「菩提薩捶(吉本の本では土偏に垂と表記。)四摂法=ぼだいさったししょうぼう」には「布施」「愛語」「利行」「同事」がありますが、良寛がもっとも拘ったのは「愛語」だそうです。従って吉本もそれらのいくつかを自らにてらして考えています。素直な方ですね(^^)。さらにその一つにわたくしも拘ってみました。それは・・・・・・
『かりそめに童にものをいいつけてはいけない。』
・・・・・・と言うものです。大人がやるべきことを子供に代理をやらせてはいけないということです。また「誰それがいけない。」とか「なにがしが悪い。」という大人の勝手な