Sep 16, 2006

良寛  吉本隆明

06-9-16sora-1

 吉本隆明がこの本で何を伝えたかったのかはとても明確でした。そして吉本が描きだした「良寛」はさらに明確でした。良寛の思想の根底にあったものは、曹洞宗円覚寺の国仙、道元の「正法眼蔵」、老子と荘子であることは、水上勉の「良寛」の感想文の折にすでに書きました。この本のなかでは「仏教者良寛」について、吉本と水上の対談も収録されていますが、水上は自らの境涯を重ねながら語り、吉本は「思想」「詩文」「書」を中心として追いながら、良寛の精神の筋道を語ろうとしていました。このお二人の対談はこの本のなかで光を放っていたように思いました。お二人の「良寛」を読んだことの幸福を感じます。

 吉本は良寛の思想を「アジア的」と言っています。現代を生きるわたくしたちは、良きにつけ悪しきにつけ、すでに「欧米的」思想を取り込んでしまっているのです。その精神構造で読んでいきますと、吉本の解説する「アジア的」思想が、とてもなつかしく思われてくるのでした。そこに国仙が良寛を評して言った「大愚」と、良寛の天性の性格の「悲劇性」とが錯綜して、良寛の実像に近づくのはとても困難なことだったと思います。

 まず極私的に「愛語」に触れてみたいと思います。これは道元の「正法眼蔵」のなかにある「菩提薩捶(吉本の本では土偏に垂と表記。)四摂法=ぼだいさったししょうぼう」には「布施」「愛語」「利行」「同事」がありますが、良寛がもっとも拘ったのは「愛語」だそうです。従って吉本もそれらのいくつかを自らにてらして考えています。素直な方ですね(^^)。さらにその一つにわたくしも拘ってみました。それは・・・・・・

『かりそめに童にものをいいつけてはいけない。』

 ・・・・・・と言うものです。大人がやるべきことを子供に代理をやらせてはいけないということです。また「誰それがいけない。」とか「なにがしが悪い。」という大人の勝手な判断を、まだ判断力の育たない子供に押し付けてはいけないということです。不思議なのですが、それを無意識に自分がやってきたということが嬉しかったのでした。
 しかし「禁止」は言いました。それは本当の意味での「禁止」ではなく、「禁止」を破る緊張感を子供に感じてもらうためです。「禁止」を言い渡しても、子供は増水した川に行きます。車の絶えない県道を渡って、思いがけない程に遠方まで行ってしまいます。事故に遭遇します。迷子にもなります。見知らぬ人についていったり、物を受け取ったりします。高い樹に登ります。帰宅した子供の匂いや、顔色や、服や靴の綻びや汚れ具合などからその日の出来事は見えてきますが、夕暮れに無事に帰ったことに安堵しつつ、時には思いがけない通報であわてたり。。。すべてはこどもの「いのち」を守るため、母親がやるべきことは本当にそれだけしかないのです。

・・・・・・おっと。。。自分のことばかり書いてしまいましたが、この「愛語」は、托鉢の途中で子供たちと手まりで遊ぶ良寛の行為に繋がっているのではないかと思わずにはいられません。現代の児童心理学や犯罪心理学を超えてゆく思想ではないかと思います。

 良寛の詩文の根底にもやはり「愛語」があったように思います。良寛の詩文はすでに近代の詩歌にまで受け継がれる要素をもっていたのではないでしょうか。この「詩文」と「書」を例にとりながら吉本は、僧として、詩人としての良寛を理解しようと展開しています。この吉本の柔軟な論理展開は美しいものでした。人間の真摯な探求はいつでも美しい。。。

【付記】
この感想を書くにあたり、「道元の「正法眼蔵」のなかにある「菩提薩捶四摂法」について教えて下さった方々にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 (一九九二年・春秋社刊)
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