Aug 29, 2009

子どものいない世界  フィリップ・クローデル

Claudel

翻訳:高橋啓
挿画:ピエール・コップ


 「フィリップ・クローデル・1962年フランスのローレンス生まれ」の著書は、「リンさんの小さな子」「灰色の魂」に続いて彼の著書を読むのはこれが3冊目です。前記の2冊とも全くタイプの違う小説でしたが、この「子どものいない世界」は絵本です。翻訳者の高橋啓氏も大いに戸惑い、かつ翻訳に苦しんだようでしたが、でも楽しんだのではないでしょうか?この著書の献辞には・・・・・・


  日々驚嘆させてくれるうちのプリンセスのために
  いずれは大人になる子どもたちのために
  そして、かつて子どもだった大人のために


 ・・・・・・と書かれています。この「うちのプリンセス」とは、「フィリップ・クローデル」のベトナム生まれの養女「クレオフェ」のことでしょう。この著書のプロデュースは「クレオフェ」の養母であり、また「フィリップ・クローデル」の奥さまでもある「ドミニク・ギョーマン」です。ここには20篇のお話や詩篇が収録されています。

 その第一話が「子どものいない世界」です。ある日突然世界中の子どもたちがいなくなってしまうのです。以下のメッセージを残して。


 『いつもしかられてばっかで、ぼくらのはなしなんかぜんぜんきいてくんないし、あそびたくてもあそべないし、やたらにはやくねなくちゃなんないし、ベッドでチョコたべちゃだめだし、いっつもはをみがけってうるさい。おとなにうんざり、でていくからね。あとはかってにしたら! 子どもいちどう』

 
 ここの部分の「高橋啓」の翻訳作業はさぞ楽しかったのではないかと想像します(^^)。さて、子どもたちが行ったのは、世界中の大人が知らない「マデラニア」という国の南の果てにある「ケランバラ」というオアシスでした。子どものいない世界は奇妙な眠りのなかにおちてしまったようで、教皇、ダライダマ、各国の大統領、元首、首相、親たちがテレビとラジオで必死で呼びかけ、子どもたちはようやく帰宅したものの、その子どもたちもやがて大人になって・・・・・・。お話はえんえんと繰り返されていくのです。。。

 もう一話「どうかでかっぽじっとくんなさい!」という奇妙なタイトルの物語は、意味をなさない造語で綴られた作品で、フランス語の「音」の効果で出来た作品ですので、翻訳者が「ほとんど翻訳不可能に近い。」と言いつつも、匙を投げるわけにはいかず、著者とのメールのやりとりで、なんとかかたちにしたそうです。フランスの子どもたちなら大笑いするそうですが、日本の子どもにはわかるだろうか???この物語の全部がこうした言葉で翻訳されているのですから。最後はこのように終ります。わかりますか?

 『では、たらっちょ、こむむすさま、たらっちょ、がりれば、よいほろんちを!』

 同じ日本国内であっても、ほぼ標準語で育ったわたくしには、特に高齢者の方言は理解不可能なほどわからないことがありますが、音を聞き分けるとなんとかぼんやりと標準語に置き換えることはできます。そんなことを思いだしました。

  *   *   *

 近頃「翻訳」というものがいかに困難なことであるのかを実感(←と言ってもわたくしができるわけではありません。すみませぬ。)しています。「翻訳」ということを考える時にいつも思い出す言葉があります。それはポーランドの1996年ノーベル文学賞受賞詩人「ヴィスワヴァ・シンボルスカ」の「橋の上の人たち」を翻訳された「工藤幸雄」の言葉です。

 『未知であった彼女の詩集の1冊をこのように晴れがましい形で〈試訳〉する幸福を訳者は恵まれた。あえて〈試訳〉とへりくだって、そこに拘泥する。訳詩とは、あくまでも〈試みの翻訳〉に過ぎないと思うからだ。ひとつの訳語の選択は詩想の伝達を大きく左右する。原詩の心の揺れの総量がそのまま伝達できるとは訳者は思えない。
 畏れ多い名を掲げるなら、かの上田敏「海潮音」、また堀口大学「月下の一群」ほか諸先輩の訳業に及ぶべくもない。』

 (2006年・みすず書房刊)
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Aug 26, 2009

女児として育てられたリルケ


毎度ばかばかしいお話ですみませぬ。
こんなことを書くきっかけになったのは、愚息一家が帰省した日の出来事からです。1日だけだからと思って1歳5ヶ月の男児の「むつき」の用意はしてきたものの、着替えを持ってきませんでした。しかし公園に連れ出したら、砂遊び、水遊びで、そのまま家には入れられない状態に。バスルームで裸にして、洗って拭いてから「むつき」だけははかせたものの、さて着替えがない。

思いついたのは、身長120~130センチ用の女児タンクトップでした。(自慢じゃないけど、これを着られるわたくしめです。)わたくしはチビですので子供服売り場で、セーター、Tシャツ、パジャマ、スパッツなどをよく買いますが、こういう時にも役立つのでした。さすがにそれでも孫には大きくて、ワンピースになってしまって、でも結構似合い、女の子にみえます。あわてて洗って乾かした元の男児服に着替えたら、あら不思議!男児に戻りました。その姿からの連想が以下のものです。

joshua

この絵画は、イギリスの画家ジョシュア・レノルズ(1723~1792年)が最晩年の1788年に描いた「マスター・ヘアー」です。2歳の「フランシス・ジョージ・ヘアー(1786~1842年)」の肖像画です。このころの就学前の男児がみんなそうであったようにモスリンの女児服を着て、長い髪形ですね。何故このような風習があったのか?一説によれば、女児の方が男児よりも生命力が強いので、その願いからとも言われていますが、イギリスは女王の国でもありますね。

Rilke-2

リルケは1875年生まれですから、これは1877年の写真ですね。これは「マスター・ヘアー」のような考え方からきたものではなく、母親ゾフィアの屈折した考え方からきたのではないかしら?「ゾフィア」は裕福な商家に生まれ、フランスの血をひくと自称し、大皇紀のような黒衣を好み、虚栄心が強く、凡庸な夫のとの生活に幻滅して、「リルケ=ルネ」を連れて別居します。そこで女の子として育てられました。「ゾフィア」は「リルケ」よりも長生きをしていますが、彼の生涯にわたる影響力を持っていました。良きにつけ悪しきにつけ・・・・・・。

Pieter_de_Hooch

今度はオランダの画家「ヨハネス・フェルメール・1632~1675」と同時代の「ピーテル・デ・ホーホ・1629~1684」の描いた「食料貯蔵庫の女と子供」です。この子も実は男の子です。肩布と金のボタンで、男の子だとわかるのだそうですが、帽子、ドレス、髪型は女の子ですね。


さてさて、こうして男児が女児の服装で育てられた真相ははっきりとはしませぬが。。。
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Aug 24, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ7

8-22-2

リルケの翻訳者

リルケの「ドゥイノの悲歌」の翻訳者は、今まで把握できた範囲では「手塚富雄」と「古井由吉」のお2人しかいらっしゃいませんでした。図書館から借り出した「世界の文学セレクション36・中央公論社・1994年刊」の「リルケ」では以下のとおりです。


マルテの手記       杉浦博      (大山定一)
神さまの話        手塚富雄     (谷友幸)
ドゥイノの悲歌      手塚富雄     (手塚富雄&古井由吉)
オルフォイスへのソネット 生野幸吉     (田口義弘)
オーギュスト・ロダン    星野慎一    (塚越敏)
若き詩人への手紙     生野幸吉     (高安国世)
若き女性への手紙     神品芳夫     (高安国世)

解説:生野幸吉   年譜:神品(こうしな)芳夫

やはり「悲歌」の翻訳者は2名しか見当たりませんでした。
新しく知ったリルケの翻訳者は「神品芳夫」でした。

*( )内のお名前は、わたくしの手持ちの本の翻訳者のお名前です。
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Aug 16, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ6

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リルケの「1913~1920年の詩」のなかに、「天使」について書かれた作品があります。「ドゥイノの悲歌」のなかで、度々呼びかけられる「天使」と同じ「天使」ではないか?と推察いたします。「1913~1920年の詩」たちは「ドゥイノの悲歌1912 ~1922年」の序曲と思われますが、書かれた時期の重複期間から察するに、同時進行だったのではないでしょうか?「ドゥイノの悲歌」全体の完成までの期間には、修行僧のごとき詩作が繰り返されていたように思います。「天使」という大きなキーワードから決して離れなかったリルケがいたということですね。


天使に寄す  リルケ   富士川英郎訳

たくましい 無言の 境界に置かれた
燭台よ 空は完全な夜となり
私たちはあなたの下部構造の暗い躊躇のなかで
むなしく力を費している

私たちの運命は内側の迷宮の世界にあって
その出口を知らぬこと
あなたは私たちの障壁のうえに現われ
それを山獄のように照らしている

あなたの歓喜(よろこび)は私たちの世界を超えて高く
だが 私たちはほとんどその沈滓(おり)を捉えることはない
あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている

誰にできようか 私たちをひそかに濁らせている
この調剤をあなたに注ぎこむことが。
あなたはあらゆる偉大さの光輝をもち
私たちは区々たる小事になれている

私たちが泣くとき 私たちは可憐のほかのなにものでもない
私たちが見るとき 私たちはせいぜい目覚めているにすぎない
私たちの微笑 それは遠くへ誘いはしない
たとえ誘っても 誰がそれについてゆくだろう?

行きずりの或る者が。天使よ 私は嘆いているだろうか?
だが その私の嘆きはどんな嘆きだろう?
ああ 私は叫ぶ 二つの拍子木をうちたたく
でも 私は聞かれることを思ってはいない

私がここにいるとき あなたが私を感じるのでないならば
叫ぶ私の声もあなたの耳に大きくなりはしないのだ
ああ 耀けよ 耀けよ 星たちの傍らに
私をもっとはっきりさせるがいい なぜなら私は消えてゆく


ここで少し解説が必要ですね。
最初の一行目の「境界」は人間の世界の果て。人間の可能性の限界を言っています。
二行目の「燭台」は、天使の光り輝く燭台でしょう。三行目の「暗い躊躇」は人間の世界は天使のいる位置からすれば、ずっと下方(下部構造)の闇のなかにある。その闇そのものが落ち着きなく浮遊していることと、人間の不決断を現しているのだろうと思います。「この調剤」は人間を譬えたもので、濁って不純な混合液なのです。


《追記》
このメモを書く度に、いろいろなことを教えて下さる方がいらして、再考する機会を頂けます。恥多きメモも度胸よく書くのもいいものですよ(^^)。

あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている
(3連目の2行)

つまり「春分(秋分も同じですが。)」は夜と昼の時間が同じになること。ですから、その季節の夜は、大変うつくしく「昼と昼」を分割しているということです。

リルケは詩作の日々のなかで、繰り返し繰り返し「天使」に呼びかけましたが、その歳月のなかで、天使との距離が変化してきた、あるいは「啓示」を受けるようなこともあるということですね。
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Aug 15, 2009

ビルマの竪琴(1985)

biruma

監督:市川崑
原作:竹山道雄
脚本:和田夏十
音楽:山本直純

《キャスト》
中井貴一(水島上等兵)
石坂浩二(井上隊長)


 原作者の「竹山道雄・1903年~1984年)は、評論家、ドイツ文学者、小説家。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。一高教官として多くの教え子を戦場に送り出した体験に基づき、1947年に小説『ビルマの竪琴』を発表。1948年に毎日出版文化賞を受賞。「竹山道雄」が唯一書いた「児童読み物」という意味でも、この小説への思いの深さがわかります。
 さらに、この小説の映画化は、同じ監督「市川崑」によって、1956年、1985年と2回行われているということも稀有なことかもしれません。

 ビルマ(現・ミャンマー)に送られた部隊の兵士たちの敗戦から捕虜収容所での日々と帰国までの物語です。事実ではないと言われてはいますが、水島上等兵のモデルは、福井県永平寺で修行中に召集され、南方戦線を転戦しビルマで終戦。捕虜収容所では合唱団を結成していたという。復員後、群馬県昭和村で僧侶になった方のようです。その後ミャンマーキンウー市に小学校を寄贈、2008年12月17日死去。享年92。

 小説と映画のなかでは、「水島上等兵」は部隊の方々と共に復員せず、ビルマで僧侶となり、ビルマで戦死した多くの兵士たちの御霊を守るために残ります。

inko

 おそらくビルマにはたくさん生息していたのではないか?と思われる、人なつこい「インコ」が2羽登場します。1羽は部隊を離れて僧侶として、ビルマの戦没者埋葬に働く「水島上等兵」の肩に。もう1羽は「井上隊長」率いる部隊に。前者が覚えた言葉は「にほんにいっしょにかえれない。」・・・後者は「みずしま、いっしょににほんへかえろう。」でした。この「インコ」は島に住む老婆によって交換され、後者は復員船に乗りました。

ミャンマーの竪琴

 竪琴の美しい音色はいつまでも耳に残ります。戦争は何だったのでしょう?さまざまな凄惨な場面を見て、あるいは体験してきた人々すべてが狂気の時間だったはずです。その「シンドローム」から開放された人々が果たしているだろうか?
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Aug 11, 2009

HACHI・約束の犬

HACHI

監督:ラッセ・ハルストレム
パーカー・ウィルソン教授:リチャード・ギア



HACHI・約束の犬


ご存知、渋谷駅前の「忠犬ハチ公」物語のアメリカ版です。
アメリカ郊外のベッドリッジ駅。寒い冬の夜に、迷い犬になった秋田犬の子犬を保護したパーカー・ウィルソン教授は、子犬を飼うことになりました。首輪のタグに刻まれていた漢字「八」から、「ハチ」と名づけられた子犬は、パーカーの愛情を受けてすくすくと成長していくのでした。ここまではアメリカ版。何故迷い犬になったか?それは日本の「山梨」という土地のお寺(←なぜだか、わかりませぬ。)からアメリカまで送られることになった子犬の檻に、付けてあった荷札が、列車、飛行機、トラックと移送される間にちぎれてしまい、しかもアメリカに辿りついたものの、走行中のトラックから落とされてしまった檻から逃げ出した子犬だったのでした。

 これ以上のお話はいりませんね(^^)。

 では一言。秋田犬はとってもお利口で可愛い。ただし実は、子犬の「ハチ」には柴犬の子犬を使っていたのです。以前のテレビドラマ「幼獣マメシバ」というのも観ていたのですが、これには柴犬の子犬が登場していました。あまりにも似ていたので、事実を知って「やはり・・・」とも思いましたが、秋田犬はすぐに大型犬になってしまうからだったそうです。わたくしは実は犬好きなのです。夢は「セントバーナード犬」ですが、人間よりも短命だと知った少女期から犬は飼っていません。それなのに「ハチ」は教授に先立たれてしまうのです。

 リチャード・ギア教授はステキ♪でも、講義中に倒れ突然死だった。。。

 地元の「MOVIX」に初めて行ってきました。


以前観た、教授役「仲代達矢」の「ハチ公物語」の日本版です。
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Aug 10, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ5

picasso
 「サルタンバンク・大道軽業師  ピカソ」

 ドゥイノの悲歌・5」について書いてみます。ここの章は、パリの広場で興行する旅の「曲芸師」たちのことが書かれています。これは「リルケ・1875年~1926年」が最後に書いた章ですが、これはもともと10番までありますが、書かれた順番にはなっていません。まずは古井由吉が、この5番を翻訳しながらつぶやきのようなメモも書いていますので、そこから引用します。

 「過少」とある脇に「できない」と、「過多」とある脇に「できる」と、それぞれにルビをふろうかと思うが止めておこう。

 この古井由吉のつぶやきは、曲芸師を有能な外科医と例えてみてもいいかもしれません。難しい手術を冷静沈着にやり終えて、患者の経過も良好、しかし時には外科医は悪夢をみる。そして曲芸師は時には失敗して落下することもある。見事に拍手喝采をあびることもある。「できる」と「できない」との境界線は、揺れながら存在するだけで、子供の曲芸師であれ、老練な者であれ、太った大男、小人であれ同じことだが、しかし本当に「できない」時は必ずくるのです。

 そして、別の場面から登場してくる「マダム・ラ・モール」とは「死の夫人」であり、街の雑踏を歩きまわりながら、美しいモードを飾りつけたりしながら、時には「死の衣装」を纏わせたりする存在かもしれないのだった。


 この街を1枚の絵画として考えてみませうか。もう1人の翻訳者「手塚富雄・1903年~1983年」の生きた時代ならば(もちろん古井由吉・1937年生まれも。)「ドゥイノの悲歌・5」と、「ピカソ・1881年1~1973年」の絵画「サルタンバンク・大道軽業師」とを連想することは容易なことです。(リルケはピカソを知っていたのだろうか?)この絵画のような人々が、パリの広場に小屋を建て、使い古した絨毯を敷き、曲芸を見せて、客の喝采を浴びたり、驚かせたりするのです。もちろん詩人リルケも驚き、喝采するのですが、この曲芸師たちから立ち昇ってくる「死のにおい」までも吸い込んで苦しむことになるのです。それは曲芸とは、組み上げられた樹のようなものでありながら、その樹の果実は「落下」しかないということに注目するからでした。わたくし的には映画「道」まで思い出しました。

 「マダム・ラ・モール」、「曲芸師」・・・・・・パリの広場では際限もなく見世物小屋が建つ。客が投げ出してゆく硬貨・・・・・・それはいつか、すべて死者が隠し持っていた硬貨になってしまうのではないか?

 
 この解釈は、どこからからか猛烈なお叱りを受けるだろうなぁ。これも楽しみです。曲芸の詩ならば、読む方も曲芸なのですからね(^^)。恐るべき誤読やもしれぬ。


  *   *    *

 リルケの詩には、「悲歌」に限らず、何度も「噴水」という言葉が使われています。それはこの地上のさまざまな出来事を「詩の言葉」として、噴水のように昇りつめては、天使に届かずに落ちてきてしまうことの哀しみなのではないかと思われます。この「悲歌」全体は天使への呼びかけであり、「愛する女たち」への捧げ物であったりしますが、「愛の呼びかけ」を届け続けることをやめることはできないのでした。


 噴水   リルケ

ああ 昇ってはまた落ちてくることから
この私の内部にも このように「存在するもの」が生まれでるといい
ああ 手なしで さし上げたり 受け取ったりすることよ
精神のたたずみよ 毬のない毬遊びよ


《付記》
今夜は台風が来るというので、過剰なニュースに脅えて不寝番中です。


《もっと大切な付記です。》
ピカソの軽業師の絵を買うようにと、リルケは、この悲歌5番を献呈している女流作家、Hertha Koenigに助言をしたそうです。ですから、リルケは、ピカソのこの絵を知っていたのです。これはここをお読み下さったI氏からの助言です。ありがとうございました。
Posted at 18:30 in book | WriteBacks (0) | Edit

Aug 06, 2009

現代詩手帖創刊50年祭

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 「現代詩手帖・8月号」を久しぶりに購入しました。これは大方のページをさいて、上記の大型イヴェントの報告書となっていたからです。「これからの詩どうなる」というのが、この催しものが掲げたテーマなのですが、この言葉は舌足らずで寒いですね。


 この「前座←谷川さん本人がおっしゃっています。念の為。」は、「谷川俊太郎、賢作父子」の楽しい会話と朗読と音楽でした。テーマは「詩ってなんだろう」でした。

 「そういうもんなんですよ。言語っつうのは。自分で出そう出そうとすると、なかなか出てこなくて。おれレモンのしぼりかすって自分で思ったことがあるんですよ。君(賢作)ぐらいの年ごろのときに。いまはしぼりかすなんて、自分がそんなに豊かだとは思わない。自分をからっぽにしておけば何でも入ってくるから、それを拒まなければいいっていう、大変にいい加減な感じですね。」←いかにも谷川俊太郎らしい言葉です。


 ここから2つくらいのプログラムは飛ばして、1番気になっていた「吉本隆明」の講演の記録を読みました。テーマは「孤立の技法」です。聞き手は「瀬尾育生」です。雑誌に掲載された吉本隆明は車椅子で壇上にいらっしゃいましたが、おだやかな表情をなさっています。いいのです。誰がなんと言おうとも、人は老いる。そこまでの時間のなかでどれほど真摯に「詩」と向き合っていらしたのか?それを忘れてはいませぬ。吉本隆明を過去へ送ることは誰であろうとも許さない。

 「すぐれた詩人たちのあとを追っかけて、書きつづけてゆくこと以外に、これからの詩の未来が開けてくるということはありえない。」←長い講演記録のなかから、この言葉を両手でしっかりと掬いとりました。


 次は「詩の現在をめぐって」と題されたシンポジウムで、パネラーは、北川透、藤井貞和、荒川洋治、稲川方人、井坂洋子、松浦寿輝、野村喜和夫、城戸朱理。司会は和合亮一です。大分時間が押してきたようで、パネラーは3分という持ち時間でした。長い催し物によくある「おせおせ」タイムだったようです。ここで気になった言葉だけを抜粋します。


★ 北川透
「詩の孤立は絶対的に擁護されなければならない。そうしないと、詩の言葉は次の世代、また次の世代に繋がってゆかない。リレーされていかない。」

「自由詩の今日というのは、言葉が裸の状態で置かれていることでしょう。(中略)この時代に詩が自由であること、つまり裸であることは一見清潔に見える。それは言葉がノイズに近い状態ということで、これが果たして時間的に空間的に遠くに届く言葉でありうるか?」

★ 松浦寿輝
「われわれが生きている世界というものはひとつの大きなテクストであって、それを一枚の紙のながにぎゅっと握り締めて、ほんの十数行ぐらいに凝縮したエッセンス、それが詩。それが読まれるということがない限り、凝縮されたものがもとの世界の大きさにまで戻るということがない。」

★ 野村喜和夫
「凧というのは地上におしとどめようとする力とそれから風に運ばれて行こうとする力のせめぎあい、あるいはぎりぎりの均衡だと思うんですけれども、その凧の舞い狂う姿。これが今の詩、あるいは僕が夢見ているこれからの詩のあり方。」

★ 城戸朱理
「〈前衛俳句〉〈前衛短歌〉は〈戦後詩〉と同時期ではあっても、〈前衛詩〉というものはなかった。〈定型詩〉を失ったがゆえに、私たちの書く詩はつねに前衛でなければならなかったのではないか。」

★ 稲川方人
「敵対すべきははっきりと敵対し、議論すべきは議論する、解体すべきものは解体する、破壊するものは破壊する、という意志を持った詩人が1人でもいれば、現代詩は信頼の足る文学の形式を失わないと思います。」

★ 井坂洋子
「牟礼慶子詩集《夢の庭へ》の最後の詩の最終連に《詩は次の世代のためのものかもしれない》という、オーエンの詩の1行が引用されていました。ああ、人間というものを信じている言葉だと思いました。」


以上、ランダムに勝手に選び出しました。わたくしのこれからの詩作の道標として。
また、そのほかのプログラムについては省きます。あしからず。
Posted at 16:45 in book | WriteBacks (0) | Edit

写楽 幻の肉筆画

syaraku
 (四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪・寛政7年・1795年)

 5日、竹橋の東京国立近代美術館を出てから、欲張って足をのばして両国まで行きました。「日本・ギリシャ修好110周年記念特別展」として、「江戸東京博物館」にて、126点の日本絵画、版画(初期~中期~後期)、摺物、絵本などが公開されました。これらの作品は、すべて「グレゴリオス・マノス」が全財産をかけたコレクションのなかから発見されたものです。

 「グレゴリオス・マノス」は、イスタンブール生まれ。パリ、ウィーンなど各地の大使館勤務のなかで、赴任先で日本の絵画、版画、工芸などを蒐集。定年退職後には、ジャポニズムに沸くパリに移住して、主に1910年~1920年にかけて、日本、中国、朝鮮の作品を熱心に購入しました。

 この蒐集にすべての財産を使い果たした「グレゴリオス・マノス」は、ギリシャに帰国して、コルフ島(別名・キルケラ島)にイギリス占領下時代の建造物である「総督府」に「グレゴリオス・マノス・コレクション」をすべて寄贈して、美術館として一般公開する代りに、ギリシャ政府からわずかな給付金と館内の1室を与えられて余生を過ごすことになりました。マノスの死後、日本美術コレクションは本格的に調査されることなく、その後1世紀近く封印されたままでした。2008年7月より、日本からの調査団が入り、膨大なコレクションが再確認されたのでした。その数は、浮世絵、1600点、絵画200点(日本のみ)、工芸品600点(日本、中国、朝鮮)でした。この調査の後で、日本での公開が実現したのでした。

展示作品リストはここにあります。(すべて、ギリシャ国立コルフ・アジア美術館所蔵です。)


 《余談》
 ホメロスの「オデュッセイア」のなかで「コルフ島」の王女「ナウシカア」が、島に漂着した「オデュッセイア」を救ったという神話がありますね。宮崎駿アニメ「風の谷のナウシカ」の名前は、この神話に由来します。本当に余談ですね(^^)。



 さてさて、この展覧会の目玉は、「東洲斎写楽」が描いた肉筆画扇面「四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」です。写楽の役者絵版画は、彫師との共同作業であったわけです。写楽が役者絵の世界から隠遁したのは寛政7年(1795年)1月ですが、この芝居が上演されたのはその年の5月ですから、扇に描かれたこの肉筆画は隠遁の4ヵ月後となります。紙だけが残されて観賞用の絵画となっていたとは。。。

 屏風や襖絵などはよく観ますが、もう1点驚いた作品は、障子絵があったことでした。これは障子の桟の痕がうっすらと見えていましたが、やはり和紙だけでした。作者は「狩野養信・他狩野派」、作品名は「郊坰佳勝図帖」、「絹本墨画着色」で「1帖8面」、江戸時代後期のものです。

下の作品は現代とあまり変わらない花火大会の賑わいがわかって楽しい作品でした。
この季節にふさわしく。。。

hanabi
 (歌川豊国・両国花火之図・三まへつゝき・大判錦絵・1804~18)
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Aug 05, 2009

ゴーギャン展

Gauguin-1
《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか・1897-98年》
   

 5日、東京国立近代美術館にてポール・ゴーギャン(1848パリ生まれ-1903)の53点の絵画、版画、彫刻を観てきました。上記の大型の絵画は日本初公開だそうです。この絵画は、ゴーギャンの遺言のごときものと思われます。ゴーギャンは1998年2月に、パリに住む友人の画家ダニエル・モンフレーへの手紙には、このようなことが書かれています。

 「 私は12月に死ぬつもりだった。で、死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思った。まるひと月の間、昼も夜も、私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした。(中略)この作品がこれまで描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、今後これより優れているもの、これと同様のものも、決して描くことはできまいと信じている。(以下略)」

 この絵の向かって右側には産まれて間もない幼児、左側には「死」を予感して恐れている老婆、黒い犬は、ついにこのタヒチで「よそ者」でしかなかったゴーギャン、中央には禁断の木の実に手を伸ばしている若い女・・・人間の生誕から死までのすべてがここにありました。


 株式仲買人として成功を収めたゴーギャンは、デンマーク人女性メット・ガッドとの幸福な家庭生活を送っていましが、ピサロをはじめとする印象派の画家達との交友のなかで、徐々に絵画への情熱がたかまり、1883年(35歳)に画家として生きる決意をします。家庭は破綻し、孤独な放浪が始まりました。印象主義の影響が色濃く残る初期のスタイルは、ケルトの伝説が息づくブルターニュ地方との出会いによって、ゴーギャンの内面の「野性」が目覚め、大きな変化をもたらしたのでした。さらに熱帯の自然が輝くマルチニック島、ゴッホとの伝説的な共同制作の舞台となった南仏アルルなど、それらの土地はパリからタヒチへの移動過程でした。


Gauguin-2
《純潔の喪失・1890-91年》  


 ゴーギャンがタヒチに旅立つのは1891年。つまりこの絵を最後に、タヒチへ行きます。しかし、1880年にフランスの植民地となったこの南太平洋の島は、すでに「楽園」ではありません。ゴーギャンは、原初の人間の生命力や性の神秘、さらに地上に生きるものの苦悩を、タヒチ人女性の黄金色に輝く肉体を借りて描きました。その豊かなイメージには、タヒチの風土と、エヴァやマリアといったキリスト教的なモチーフなどが混ざりあって独自の絵画を生み出しました。

 1895-1901年、2度目のタヒチ滞在。1897-1898年《我々はどこから来たのか》を描く。1898年パリのヴォラール画廊で《我々はどこから来たのか》を中心とする個展開催。1901年マルキーズ諸島のラ・ドミニック島(現ヒヴァ=オア島)に移り住む。1903年心臓発作により死去。出発点が遅く、不遇な画家ではありましたが、最期に大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」をわたくしたちに残してくださいましたね。幾たりかの女性を悲しませたけれど。。。


 美術館を出て、お堀端で見つけた「槐 (えんじゅ)」です。

enju-2
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