Dec 30, 2008

百人一首

 我ながら無謀な計画であったとは思いますが、この百首のすべてに五行詩を付けるという「百人百詩」という試みがどうやら終わりました。今年いっぱいで完走という計画は、滑り込みセーフでなんとかクリアしましたが、何故これほどまでにして自らを追い立てているのか?と途中からは疑問が浮かびましたが、完結できない自分も許せないような気持もありました。自己評価としては優れた作業だったとは決して思えませんが、いたしかたございません。長い期間のお目汚しで、失礼しました。

 やさしい祖父との、平仮名が読めるようになった幼い日からの遊びとしてはじまり、高校生時代には「百人一首・クラスマッチ」の選手となったこと(スポーツ分野では選手にはなれませんでした。笑。)などなど、いつまでもなつかしい思い出に残っているものを、ここでなんとか留めておきたいという願いもありました。この詩作業中にお世話になった四冊の本を紹介しておきます。これらの本からあらためて古語の解釈の読み直しができました。

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私の百人一首:白州正子:新潮社

 まず、百首の文字表記が、四冊は微妙に異なりましたので、この本の表記に従いました。歌人の歴史的背景、系図、置かれた身分、出家などの解説、その歴史に現代の白州正子が触れた感動などが書かれています。歌の解釈は主張しない姿勢で書かれていました。

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吉原幸子 百人一首:平凡社

 吉原幸子は、詩の先達者としてじかにたくさんのことを教えて頂いた詩人です。この本では、歌人の歴史的背景、系図、置かれた身分、出家などの解説も書かれていますが、ここに一編づつの詩を書き添えてあります。「恋の詩人」と言われた吉原幸子にふさわしい仕事だったように思います。これがわたくしをこうした暴挙に走らせたきっかけかもしれません。ただし、わたくしがこの作業のなかで、だんだん疲労感を覚えていったのは、日本人の情感の湿度の濃密さを抱いている「哀しい恋歌」が圧倒的に多い点にあったようにも思います。

口語詩で味わう百人一首:佐佐木幸綱:さ・え・ら書房

 簡略な歌人の解説ととも古語の解説がなされた一冊です。歌人である佐佐木幸綱の口語詩(五~六行くらい。)が書かれていました。田島菫美のイラスト入りで、少しくだけた印象の一冊でした。

新版 百人一首:島津忠夫:新潮ソフィア文庫

 島津忠夫は国文学者。専攻は中世文学、主に連歌・俳諧・和歌などです。さすがに言葉の解説、現代語訳、鑑賞、歌人の略歴、出典や参考文献の紹介などなど、丁寧に書かれています。丸ごと「辞書」のごとき様相を呈していました。


   では、みなさま。よいお年をお迎えくださいませ。
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Dec 26, 2008

アルツハイマー型老年認知症

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 来年は亡母の年(丑年)です。誕生日は今の天皇と同じ日で、母の十歳の誕生日に天皇は生まれたわけです。生きていれば、来年は九十六歳になったのですね。年賀状を書きながら、亡母を思い出しましたので、少しだけ書いてみます。

 タイトルにあるような、この手の本は読まないようにしています。それは現実問題として亡母が「痴呆←これは現在では差別用語ですか?」だったからです。ですから医学者は本当に解明したのか?と今でも疑っているのです。体験から申し上げれば、これは個人差があって、分類したり、体系づけたりできるものか?と不遜にも思うのです。また、これは「我が母の物語」として、わたくし個人が書いておきたいものだからでしょうね。

 母はいつも着物を着て、朝には鏡に向かってお化粧して、おしゃれでまめに働いた主婦でした。それが「痴呆」になってからは、新しい衣類を買ってあげても、バッグを買ってあげても「わたしのものではない。」と言って、いつも同じものを着て、同じバッグを持っているようになりました。わたくしは似たものを買ってきて、こっそりと取り替えていました。

 それから、よく聞くお話ですが「お金を盗まれた。」と言うような被害妄想を言い出す痴呆老人も多いそうですが、母は全くそれがありませんでした。痴呆になる前からお金の管理をわたくしに任せたものの、いつの間にか家政婦さんにはチップをあげるてるし(家政婦さんへの支払いは、紹介所に払うものです。)、母が騙されてお金を出す危険から守らなければならなかった。

 そして、一番辛かったことは、末娘のわたくしの名前を忘れて、母の一番下の妹の名前を呼ぶようになったことでした。でもこの時に気付きました。痴呆になった老人がどこへ還っていくのか?それは生涯のなかで一番幸せだった時代に還るものなのです。それは、幼いわたくしを育てた戦中戦後の辛い時代(敗戦。満洲からの引揚げ。戦後の貧しい暮らし。)ではなく、それ以前の母の娘時代だったということです。

 さらに言えば、痴呆老人は、その人の生涯からうまれた個性を表出します。母は可愛い少女のままでした。父と姉の看取りが繋がって、母を施設に入れなければならなかったことが今でも悔やまれます。いつもそばにいて、語りあうことができたなら、母の痴呆はあれほどに進行しなかったでしょうね。
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Dec 21, 2008

リルケ詩集

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 ライナァ・マリア・リルケ(1875~1926)が、1906年~1909年頃に書かれた詩だと思いますが「噴水」という四行詩があります。1903年~1908年「若き詩人への手紙」の時代にほぼ重なるものと思われます。


ああ 昇ってはまた落ちてくることから
この私の内部にも このように「存在するもの」が生まれでるといい
ああ 手なしで さし上げたり 受取ったりすることよ
精神のたたずみよ 毬のない毬遊びよ



詩は、こころの仕事だと言うことだろうか?
昇ってはまた落ちてくる、見えないものの存在を生むこと。
空白との遊び。精神の昇降。。。

噴水の頂の水落ちてこず    長谷川櫂
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Dec 20, 2008

若き詩人への手紙

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 ライナァ・マリア・リルケ(1875~1926)はプラハ生まれのドイツの詩人。パリをはじめヨーロッパ各地を旅行、1903年~1908年の間にその旅先から、若き詩人「フランツ・カプス」にあてた手紙です。特に感想は書きません。心に留めておきたい部分だけをここに記します。愛と怒りをこめて。自分自身へのクリスマス・プレゼントとして。

 『新しい自己の発展の途上にある少女や婦人は、ただ一時的に男性の無作法や作法の模倣者となり、男性の職業の反復者となるだけです。そのような不安定な過渡期ののちに、女性たちがこのような(しばしば笑うべき)仮装のおびただしい量と変化の中を通過したことが、ただ歪曲を迫る異性の影響から彼女らの本質を、浄化しようとするためであったことがわかるでしょう。女性の中には生が一層直接に、一層生産的に、一層親密に宿り住むものですから、肉体の果実の重みによって生の水面下に引き込まれた経験を持たぬ軽薄な男性、うぬぼれが強く性急で、彼が愛していると考えているものを実は軽蔑している男性よりは、女性の方が根本においては遥かに成熟した人間、一層人間的な人間になっているはずです。苦痛と屈辱の中を耐え通した、こういう女性の人間性は、女性がその外的身分の変化と共に、単に女性的にすぎない因襲を脱ぎ捨てた暁に明らかにあらわれてくるでしょう。(中略)そしてこのより人間的な愛(それは結ぶにも離れるにも、すべて限りなく思いやり深く静かに、善意をもって曇りなく行われるものでしょう)は、私たちが骨おり苦しんで準備しているあの愛、つまり二つの孤独が互いに守り合い、限界を破らず、挨拶し合うことにおいて成り立つあの愛に似通うものでしょう。』

 今更このようなものを読みかえす自分とはなんだろうか?もうとうに若くはない。しかし人間というものは成長しているようで、どこも変わることはないのだと最近とみに思うようになった。「孤独」「矛盾」「理不尽」・・・・・・その他もろもろ、どこが変わったというのだろうか?これらは深みを増してゆくだけにすぎない。どこか見えない出発点に戻りたくて、この本を開いた。決して「リルケ」は古くはなかった。
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Dec 12, 2008

PICASSO

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「オルガの肖像・一九一八年」と「ピエロに扮するパウロ・一九二五年」
ピカソの妻とその子供ということになりますが、この絵画が具象的に描かれているのは「オルガ」の希望だったそうです。

     パリ国立ピカソ美術館には、ピカソが最後まで手放さなかったコレクションを中心として所蔵されているそうです。この美術館の改修工事のため、主要作品を網羅した世界巡回展が実現し、その幸運が日本にもやってきた、ということでした。この約二三〇点の作品が揃うことも、初めてのことかもしれません。たとえ「ミーハー」と言われようとも、このチャンスを逃したら、わたくしはピカソの本物の作品にわずかしか出会えないままで、死んでしまうかもしれないと思いました(^^)。

 いや、実際のところ、赤ちゃんと五歳くらいの少年を連れた若い夫婦が、だんだん不機嫌になってゆく子供を叱りつつ、美術館を歩いている様子を見かけましたが、「ああ。わたくしには、あれが出来なかったのだなぁ。」と、感慨にふけっていました。子供にとってどちらが幸せなことだったのかはわかりませんが。あ。つまらないことを書いて、失礼しました(^^)。

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・・・・・・というわけで、このたくさんの作品は至近の二つの美術館で展示されました。

国立新美術館:「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」:約百七十点
サントリー美術館:「巨匠ピカソ 魂のポートレート」:約六十点


 この多くの作品の前者では約二時間をかけて、それから後者への移動、コーヒータイム。後者では約一時間をかけて観ましたが、まさに「疲れを知らない子供のように」行動できた自分に驚きました。おそらくそれが「ピカソ」の魅力だったのかもしれません。天性の才能、加えて彼を刺激してくるさまざまな出来事(古典。キュビズム。シュルレアリスム。女性。子供。神話。戦争。)を、すべて絵画と彫刻に生かした という柔軟な才能は言うまでもなく、まぶしいものでした。
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Dec 07, 2008

神さまの話  リルケ

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 キリスト教の国々、とりわけヨーロッパでは、年末になると町々の広場にはクリスマス商品の市が立つ。それにしたがって書店では、プレゼント用の「クリスマス本」が売り出される。一九〇〇年、ライナー・マリア・リルケ(一八七五~一九二六年)のこの本もその一つだった。しかしまだ若く無名だった詩人の本は、重ねて無名の出版社から出されたこともあって、当初はあまり売れなかったようだ。タイトルも「神さまのことやほかのこと」というあいまいなものだった。

 一九〇四年四月に、美しい装丁と良書で知られる「インゼル書房」で改めて出版された時に、タイトルは「神さまの話」とすっきりとしたものとなり、リルケもすでに無名ではなかった。もはや「クリスマス本」という季節商品の粋を超えていました。この本の扉には、こう記されています。

 神さまの話は、エレン・ケイの有(もの)なり。
 ライナー・マリア・リルケ  一九〇四年四月 ローマにて


 この「エレン・ケイ(一八四九~一九二六年)」は、かのスウェーデンの社会思想家、教育学者、女性運動家、フェミニストであり、「青鞜」などを通して、日本の婦人運動に絶大な影響をもたらした女性かと思いましたが、どうやら架空の名前らしい。これはこの本を贈り物にする際に、書き入れるサインの参考文のようなものです。以来ドイツの市民社会の古典的名作の一つとなり、今日までの発行総部数は計りしれない。

  *   *   *

 この本を再読(いつ読んだのかなぁ。はるか昔だなぁ。)しながら、この著書全体のお話の展開から、「アンデルセン」の「絵のない絵本」を思い出されてしまうのでした。リルケは、近所の奥さん、教師、若者、子供、そして多くは足萎えた友人に語りかける形式で書いていますが、「絵のない絵本」は月が夜毎に、孤独な若者の窓辺に現れて、通過してきた風景や世界中の人々の話をするというものでした。

 リルケは二度のロシア旅行を終えた直後にこれを書いていますので、十三話のなかには「ロシア」のお話もたくさん出てきました。またリルケはロダンの秘書を務めた時期もあって、これが画家たちのお話に実を結んでいるようでした。この十三話は子供のために書かれたものではなく、子供にお話をしてあげる大人のために書いたもののようでした。最後の「闇にきかせた話」の終連が、この一冊のメッセージのようでした。

 『この話のなかに、子供たちの知っていけないことは、なにひとつ、ありません。にもかかわらず、子供たちは、いまだに、聞いてはいないのです。それはいたしかたありません。僕はこの話を、闇にだけ聞かせて、余人にはしなかったからでした。(中略)でも、いつかは、こどもたちにも、闇を愛する時期が訪れるでしょう。そうして、闇から、僕の話を、受け取ってくれるでしょう。また、そのころになれば、子供たちも、この話の意味が、いっそうよく、理解できるにちがいありません。』

 「神さまの話」とは言っても、ここには教訓のようなものは全くなくて、人々の日常あるいは旅先のロシアで見聞したもの、あるいは画家たちの世界など、特別なお話ではありませんが、この物語の語り手はいつでも、知らず知らずに聞き手の心の深部へはいってゆきます。あるいは物語の聞き手の思わぬ応答が、あらたな視野を拡大して、「神さま」の存在の捉え方が拡がってゆきました。

(新潮文庫・谷友幸訳)
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Dec 01, 2008

ぶらんこ

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 平日の午後二時半になると、必ずこの放送が聞こえてくる。「こちらは防災○○○です。これから小学生の下校時間です。道草をしないで、お友達と一緒に、真っすぐ家に帰りましょう。近隣の皆様、どうぞ見守って下さい。」・・・・・・ふぅーむ。今の子供達は独りぼっちの楽しさや、道草の面白さも味わえないのかなぁ。可愛そうにね。

 しかしこの放送は女性の声でしたが、ある日から子供の声に代りました。前半の「こちらは防災○○○です。これから小学生の下校時間です。」までは同じでしたが、この後が代りました。「僕たちわたしたちは道草をしないで、お友達と一緒に、真っすぐ家に帰ります。近隣の皆様、どうぞ見守って下さい。」・・・・・・この声が男児、女児と交代していますが、これを言わせているのは「防災○○○」の大人たちの作戦でしょう。たしかに子供達の声の方が、こちらの耳に届きます。

 今日の午後の公園では、ランドセルを背負った少年が、二つのぶらんこを、乗るのではなく、ぶつけ合って遊んでいました。暗い表情をして。それから生垣の向こうへ、うなだれた様子で歩いていって、やがて姿が見えなくなりました。何の怒りや哀しみがあったのだろう?一人ぼっちで。。。
 先日は、校門の前で固まってしまった子供に、附いてきたお母さんが激励していました。子供は泣いています。登校時間を過ぎた校門は閉ざされています。やがてそこが開けられて担任らしき教師が現れて、その子を受け入れていました。このような子供の風景を見ることが多い時代になりました。


 *   *   *

鞦韆

プラタナスの並木の向こうの公園で
鞦韆が
軋みながら揺れています

今朝も聴こえる
キーコ キーコ
誰かが
空に足を差し入れて 引き抜いて
あくこともなく漕いでいます

時には空が子供の足をつかまえて
誰もいない鞦韆だけが
地上に戻ってきます
そして
次に待っていた子供をのせて
鞦韆はまた揺れつづけます

この地上から
いくど空を見上げたことでしょう
いなくなった子供を捜して
時には
空がつかまえそこねた子供のように……

  お知らせします
  今日未明八十五歳の女性が行方不明となりました
  身長一四八センチ 白髪
  白のセーターに灰色のスカート 赤い靴

空にも声を届かせながら
町の広報車がゆっくりと走っています

キーコ キーコ
今朝の鞦韆を揺らすのは誰でしょう?
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Nov 28, 2008

死にゆくものの叡智に・・・

momiji

 あるお方のサイトに森茉莉のエッセーの一節である、父上「森鴎外」の言葉が記されていました。孫引きで申し訳ありませんが引用させて頂きます。

「鴎外は私が倫敦にいた時、私が出発した頃から弱っていた体が、再び起きられぬようになった。鴎外は母に”茉莉は今、欧羅巴にいる。一生の中で一番楽しい刻だ。俺の体が弱ったことを報せるな。危篤になっても報せるな。死んだという電報も打つな”と、言った。」

 私事を書くことはなるべく避けていたいのですが、この言葉に出会ってしまったら、やはり書いておこうと思いました。これはかつて父と姉との「死の宣告」を受けた時に、当人に告知できなかったわたくしの判断に対する後悔かもしれません。また何故できなかったのか?を改めて考えてみました。

 *   *   *

 近所の開業医に定期的に通っていたにも関わらず、一向に回復しない父を無理矢理に大きな別の病院に連れていった途端に、父の「末期癌」の宣告を言い渡されました。「長くて一年、短くて半年、何故そのドクターは見抜けなかったのか?」とそのドクターに言われました。一九九五年の暮れでした。一ヶ月の入院の後に、自宅療養に切り替わりました。ドクターの仕事はもう何もないのでした。同時に母の痴呆も加速していました。わたくしは家族を離れて、かつての家族に戻るように父母との生活に入りました。


冬の父  (一九九六年二月)

横たえられたままの
枯れた一本の樹のような父の
その浅い眠りの繰りかえしは
やがて深い闇のなかへ向かってゆくのだろう

真昼
父がおだやかに目を覚ました
やさしい目をして
わたしをみつめて
「もう 休んでもいいか?」といった
わたしは黙ってうなずいた
そしてまた父は目を閉じた

窓の外では
静かに雪が降りはじめた
父の希薄な呼吸音
雪も音を持たない

冬の午後の
わたしたちの決意
わたしはもう父を呼び戻さない
父はわたしを置いてゆく
童女となった母も置いてゆく
「それでいいか」と
父はまたうっすらと目を覚まし
わたしをみつめている

わたしは父のまぶたを
あたためた手の平で覆う
「もうすこし眠って」
「それから……」

窓辺では
母が小声で「ゆきやこんこん」を
歌っている
(詩集「砂嵐」より。)


 一九九六年八月、父はたった十日間の入院で亡くなりました。「宣告」から八ヵ月でした。人間の死は生き残った者の祭りです。わたくしはその賑わいのなかで、ただ腰が抜けたような自分を支えているだけでした。ただただ父はいつから自らの死を覚悟したのか?という思いだけでした。

 *   *   *

 父の葬儀のたった二ヶ月後には、独り身の姉(近所に暮して、半家族でした。)も、癌の再発と同時に「死の宣告」でした。一九九七年二月まで入院したまま、亡くなりました。毎日病院に通いました。そしてまた、わたくしは姉に「死の宣告」は言いませんでした。言い訳が許されるなら、父の死から無理矢理に再び立ち上がったわたくし自身のこころの力量不足でした。

 最も身近な者の死に、結局わたくしは口をつぐんでいたまま、「死にゆくものの叡智」にすがっていたのかもしれません。二人もわたくしになにかを問いつめることをしませんでした。そしてその死までの困難な日々を二人は寡黙に生きていました。姉とわたくしは、何度も病室で、先に逝った父のやさしい呼び声を聴いたような気がしてなりませんでした。

 *   *   *

 どこまで書いても、自分が本気で書いているような気がしません。また森鴎外の言葉に帰結するしかないようです。上記の言葉を超えることができません。

 痴呆の母は、父の看取りの困難な時期から施設に預けました。引き取る暇もなく姉の看病に入り、その間に母の痴呆は急速に進み、もうわたくしの力量を超えていました。そもそも施設に預けることは痴呆の速度を速めるだけなのです。できることなら預けたくはなかった。そして苦渋の決断でそのまま施設にいてもらいました。家族から「母を引き取れば、今度は自分自身が狂うだろう。」とも言われました。
 施設からの緊急連絡で駆けつける前にあっけなく二〇〇一年十二月に母は亡くなりました。癌に侵されることもなく、足腰が不自由になることもなく・・・。

 結局、介護したはずのわたくしが、死にゆくものの叡智と愛に守られていたのではないでしょうか?あんなに辛かった日々をここに改めて文章にしてみますと「死にゆくものの叡智」に辿りつくだけでした。そして「森鴎外」の言葉に出会わせて下さった方に感謝いたします。ここで未熟な自らのペンを置きます。


お茶の時間

空の上には
花の咲く野原があって
やせ細った父と母が微笑んで
並んでござの上に浮かんでいる

お茶の時間ですよ と
わたしが訪ねてゆくと
空のもっと上から
半分消えかけた茶箪笥が
傾いて吊り下げられている

茶布巾を取り出そうと引き出しを開けると
小さく折りたたまれた姉がいる
引っ張り出すと ほぐれて笑う
膝のあたりを折り直して
父母のそばに座らせる
三人そろっていい笑顔だ

ほこりを被った急須をすすぎ
茶葉を入れ
お湯を注いでいると
急に雨音がする

懐紙の上の桜色の菓子が溶けてゆく
茶箪笥が消えてゆく
ござが消え
父も母も姉も小さくなってゆく

真昼 ひとり……
わたしは泣きながら目覚めた
窓の外はにわかに暗い
はげしい雨音が聴こえる
わたしは
今 どこにいるのか?
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Nov 25, 2008

言霊の天地 宇宙・神話・魂を語る 中上健次&鎌田東二

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 中上健次(一九四六年~一九九二年)は、四六歳の若さでこの世を去っていますが、この鎌田東二との対談は、中上の死の一年前(一九九一年七月五日~七日)のことでした。そしてこの本が出版された時には不帰の人となり「根の国」の人となりました。その孤独のなかから鎌田東二は「あとがき」を書いています。

 この対談は、わたくしの貧しい読書体験のなかではありますが、最も衝撃的なものであったと思いました。箱根湯元の「平賀邸」において、ほとんどお酒を呑みつづけながらの対談ですので、これはまさに一触即発の様相を呈していました。しかも対談の三日間は嵐だったそうです。鎌田東二はその後までも中上健次を「台風の人」だと思っているようです。「あとがき」から引用します。

 『思い出す。対談の最初の夜のことを。なごやかな雰囲気でなぜか蛇の話から始まった対話が、いつしかギリシャの話に及んだとき、中上健次は語気荒く私のギリシャ体験を罵倒した。どうして日本人のおまえがギリシャの神、しかもアポロンの神殿の廃墟で祈るのか、おまえの神道とはいったい何なのだ、ナチズムと同じシステムにおまえは仕えるのか、折口信夫ならそんなことはしなかったはずだ。」

 こういう対談はいいなぁ。これでおわかりのように二人の出会い、対談の内容はすべて「折口信夫」から始まりました。そしてお二人の産土は、中上健次は「根の国」に一番近かった郷、和歌山県の「熊野」であり、鎌田東二は徳島県の「阿南」であり、ここはまさに「海やまのあいだ」でした。

  対談は三章に分けて構成されています。

第一章「蛇をめぐる想像力」
第二章「シャーマニズムをめぐる想像力」
第三章「森羅万象をめぐる想像力」

この三章は、さらに各章に十五乃至十六の一文字の漢字に分けられています。「蛇」 「胎」「祭」「生」「歌」「木」「夢」「呪」「恋」etc。。。この対談のまとめ、中上健次の会話の微調整は、奥様の「中上かすみ・筆名=紀和鏡」がされています。こうして「言霊の天地」にふさわしい本として、無事に完成したのでした。ひしひしと「追悼」の意味もこめた、この一冊の本の完成の困難さを思うのでした。

 さて、この対談についての自らの考え方を書くことは、ほとんど不可能でしょう。お二人の熱気のこもった対談は、際限もなくさまざまな土俗の神の話題が拡大してゆくのですから。地図を辿り、かつての海山の在り様と今日のそれとは歴史のなかで大きく変化しています。神はさまざまなところに存在し、その政(まつりごと)もさまざまで、それは権力の側に移行したもの、民間の側に遺されたものとに分かれてゆくのです。そうした永い歴史のなかで、神々の言葉の起源が語られています。

 中上健次は被差別部落の出身です。そこから培われた直観力、高度な抽象度と密度は、類のないものかもしれません。反面では、鎌田東二は学問的に神々について思考しますので、このお二人の距離を対談の密度で埋めることは、お互いに疲労困憊したのではないでしょうか?これらの対談はまさに「対決」とも言えるかもしれません。しかし充分に楽しんでいらっしゃったようでもありました。生き残された鎌田東二の、今後の研究の大きな背景、あるいは壁として中上健次は存在し続けるのではないでしょうか?

     最後になりますが、「折口信夫」は、その後の研究者たちが超えることのできない存在であったことを認めざるをえないようです。かつてわたくしが書いた拙い「死者の書」の感想文のなかで、「これは音楽のようだ。」と書きましたが、それがこの対談のなかで語られたことと一致したことは嬉しいことでした。これを未熟ながら要約しますと、折口信夫説では「マレビト」は神であり、「オトズレビト」すなわち「音連れ人=訪れ人」であって、その音は神の言葉であり、芸能であること。言い換えれば「マレビト」とは「言霊」を発する人だったのでした。

 (平成五年・主婦の友社刊)
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Nov 24, 2008

端役たち  天野忠

bear

    破れた去年の蝿叩きをふりふり
   雪積む中を
   男が歩いて行く

   壊れた湯たんぽを抱きしめながら
   夏の炎天裡
   女が歩いて行く ひとりぼっちで

   野越え
   山越え
   ……………

   地獄の門の前で
   彼らは しみじみと
   お辞儀をした

   ――おかわりありませなんだか
   一人が云った
   ――おかげさまで、どうやら
   一人が答えた
   それから門があいた

   ――おいで とやさしく
   鬼の小役人が招いた。

――『動物園の珍しい動物・1966年・文童社刊』より。

 詩人「天野忠(1909~1993)」の、この詩を何故か思い出した事件だった。

 元厚生事務次官宅を相次いで襲撃し、三人の死傷者を出した事件である。出頭した四六歳の男性の犯人の犯行動機がよく理解出来ない。様々なその方面の評論家の話を聞いても、ニュースや新聞を見ていても、分かりにくい人間です。そして、わたくしの胸をよぎった言葉は「主役」と「端役」だった。彼はどのような形であれ、「主役」を生きようとしたのではないか?(←この解釈は犯人の犯行への擁護ではありません。念の為。)

 おおかたの人間は人生の「端役」を生きているのだろう。しかしこの詩の「端役」たちは驚くほど見事なものである。男は雪の季節に、破れた去年の蝿叩きを持っている。女は炎天裡に、壊れた湯たんぽを抱いている。なんとも頓馬、間抜け、ずり落ちそうな人生の山坂を二人はそれぞれにとことこと歩いて生きてきた。その末に、やっと二人の男女は地獄の門の前で巡り合うことができたのだ。お互いに深々とお辞儀を交わし、過去など嘆くこともなく、それぞれを思いやりながら……。このようにしてしか再会することのできない男女もこの世にはたくさんいることだろう。

 いのちの水際で、ひとにはほんの少しだけ、とても心の内が自由になれる時間が与えられているのかもしれない。その時間のなかに、人間は果たせるか果たせないかわからないが、できることなら果たしてみたい約束や夢を預けることがゆるされているのではないか?

 最後に、天野忠はそこにやさしい鬼の小役人を登場させて、やっと読者を微笑ませてくださるのだ。その門の向こうに行った二人は、季節ごとに蝿叩きと湯たんぽを共に譲り合いながら暮らすのだろうか?地獄も悪いところではなさそうだな。

 四六歳・・・まだ人生の半分しか生きていないだろう。。。
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Nov 13, 2008

〈うさぎ穴〉からの発信 河合隼雄(その三)

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 この本の後半部では、子供の「アイデンティティー」の確立。子供の「内的世界」と「外的世界」。特に「臨死体験」「病気」などを通過した子供の内面などについて書かれています。こうした問題は「ファンタジー」に委ねられてゆくことで、子供はなにかを見つけるのですね。読みながら思い出したのは、この「リルケ」の言葉でした。

幼年時代を持つということは、
一つの生を生きる前に、
無数の生を生きるということである。   (リルケ)


 子供は親の心配や力の及ばないところで、たくさんの心のエネルギーを持っているものです。たとえ小さくても子供は大人と同じくらいに(あるいは、それ以上に。)「生きること」も「死ぬこと」も考えることが出来るのです。(その一)で書いたように、「生」も「死」もすでに受け入れて生きているのです。「死」への不安はもちろんあるでしょう。その時、親の存在によって不安を乗り越えるかもしれませんが、そういう親ばかりではありません。子供は沈黙を守りつつ、その生きる不安と向き合うのでしょう。そこに「ファンタジー」や「アイデンティティー」が働きかけるのでしょう。それがなくて、どうして子供が生きてゆけるでしょうか?

 最後に子供時代の私事ですが。。。
 父に付いていった、ある年配の方のお葬式で、死者を密室に入れた後で、会葬者たちは一室に集まって飲食を始めました。「お父さん、あの人はどこに行ったの?」というわたくしの質問に父は「死者の火葬」の話をしてくれました。火のなかで焼かれる肉体を想像して、小さなわたくしはジュースすら飲めませんでした。大人たちは涙したり、あるいは思い出に微笑んだりしながら飲食していました。「何故、大人はこわくないのだろう?」・・・これは数年続いた疑問でしたが、両親には言いませんでした。
 それではどのように考えたか?まずは「死なない大人になる」こと。次の段階では、「大人になれば、あの火に焼かれる苦痛に耐えられるのかもしれない。」という期待。それでも納得いかない。残されたものは子供が大人になるまでの「猶予の時間」しかない、ということでした。その「猶予の時間」のなかで、どうやら小さなわたくしは「生きて」大人になったようでした。

 (一九九〇年、マガジンハウス刊)
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Nov 10, 2008

〈うさぎ穴〉からの発信 河合隼雄(その二)

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 まず、ここに「読むこと・書くこと」の項より引用します。

 『一歳二ヶ月のころ、脳性小児麻痺と診断され、それ以後六歳まで機能訓練に通い、養護学校の高等部を卒業した吉村敬子は、自分の体験に根ざした文を書き、「絵本のテキスト」としてどうかと、児童文学者の今江祥智に見せた。それは《わたしいややねん》と題されて、吉村敬子の車椅子による生活体験から生み出されたものであった。そのときのことを、今江は「おずおずとさしだされた《わたしいややねん》を読んで、わたしは背筋がきゅんとなった。叫びやなぁ、テキストちゅうもんやあらへんなぁ・・・・・・、としかいえずにいた」と述べている。これに対する吉村の答えが素晴らしい。「わかってます。ちゃんと《作品》を書いてきます・・・・・・(中略)次にもってきてくれたのは《ゆめのおはなしきいてェなあ》だった。」

 その結果この二冊は共に出版されました。困難な人生を「書くこと」と、それを「読むこと」との関係には、とても語りつくせないほどの問題が横たわっています。ここに橋を架ける「あるもの」が必要ではないか?と思えてならなかった。これはおそらくわたくしが約八年間抱えている問題だったともいえます。今でも答えは出ませんが、ここに書かれた今江氏の言葉で、どうやら言葉にしていただいたような気がします。

 不特定多数の人間に向けての個人の「叫び」が誰かに届いた時から、「書くこと」は次のステップへのぼることができます。それがきっと「作品としての昇華」というものになるのでしょう。そして作品は見えない読者へ向けての「叫び」ではなく、話相手の登場する「語り」の作品へと変容してゆくのでした。作品のなかに「もう一人の私」を置くことで、世界を客観視することができる。これが文学における「普遍性」と言われるものに繋がってゆくのではないかと思います。・・・・・・と言いつつ、断定できない「揺らぎ」は消すことはできませんが。

 (つづく)

 (一九九〇年、マガジンハウス刊)
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Nov 07, 2008

ヴィルヘルム・ハンマースホイ・静かなる詩情

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 結婚後の後姿の妻イーダ。婚約中のイーダ・イルステズの肖像(これを観た詩人リルケはハンマースホイに会いに行ったそうですが)。この違いは???

 六日午後、上野の西洋美術館にて観てまいりました。快晴の比較的あたたかな日ではありましたが、何故か館内の空気は乾燥していて寒いほどでした。これから行かれる方はどうぞ温かくしていらしてくださいね。(目が乾き、喉が痛かったです。)画家ヴィルヘルム・ハンマースホイの国デンマークは寒い国なのでしょうか?などと思いつつ、静かな絵画たちとお目にかかれました。ようこそ日本へ。

 十九世紀末のデンマークを代表する画家「ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864-1916)」は、コペンハーゲン美術アカデミーで学んだ後、「自由展」と呼ばれる分離派に参加、アカデミーとは一線を画する活動によって生前にヨーロッパで高い評価を受けた、北欧の象徴主義美術を代表する画家でしょう。

 没後は忘れ去られましたが、一九七七年~七八年にコペンハーゲンのオードロプゴー美術館長アネ=ビアギデ・フォンスマークが監修したオルセー美術館、グッゲンハイム美術館の回顧展によって復活しました。二〇〇三年にはフェリックス・クレマーによってハンブルク美術館でハンマースホイ展が開催され、開館以来最大の入場者数を記録したとのことでした。

 十七世紀オランダ絵画に強い影響を受けたハンマースホイの画風は、「フェルメール!!」に似た静謐で古典的な室内表現を特徴とし、デンマークはもとより、ドイツやフランス、イタリアにおいても高い評価を得ました。オランダ風の写実主義で表わされたハンマースホイの住居「ストランゲーゼ三十番地のアパート」を舞台に、妻のイーダは顔を鑑賞者に向けることなく、その後姿ばかりが繰り返し描かれています。さらに、ドイツ・ロマン派の巨匠カスパー・ダーヴィット・フリードリヒの影響もあるようです。

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 (室内、フレズレクスベア・アリ)窓辺からおとずれる光りが生かされていますね。

 女性の後姿(ほとんどが妻のイーダです。あるいは身近な人。)がある室内風景画、あるいは人間が一切描かれていない建物や木々、水辺の風景、その絵画は無音の世界を思わせます。オランダ風の写実主義とドイツ・ロマン派的な要素の融合の中に、ヴィルヘルム・ハンマースホイの世界が創りあげられたのでしょう。さらに彼は注文に応じて、知らない人を描くことはなかったのでした。

 【つぶやき】
 ヴィルヘルム・ハンマースホイは、ほとんど妻イーダの後姿ばかり描いていますが、そのうなじの美しいことよ。たった一枚あった妻の前向きの顔は三十代でありながら、何故か疲労したような、放心したような、決して美しい顔ではありませんでした。彼はなにを伝えようとしたのでしょうか?
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Nov 04, 2008

さらば、わが愛 覇王別姫 (1993)

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監督: 陳凱歌
脚本: 李碧華
製作国: 香港&中国
上映時間: 約一七二分

《キャスト》
程蝶衣〈チョン・ティエイー〉:張國榮(レスリー・チャン)
段小楼〈トァン・シャオロウ〉:張豊毅(チャン・フォンイー)


 日中戦争や文化大革命など近代中国の五十年の時代に翻弄された京劇役者の段小樓と程蝶衣の生涯を描いた映画です。「覇王別姫」とは、四面楚歌で有名な項羽と虞美人を描いた京劇であり、この役で人気を得た二人であった。また、わたくし自身が産まれ、生きてきた日々は、ほとんどこの時代に当てはまるという事実にも深く考えさせられることとなりました。

 「京劇」について少しだけ書いておきます。これは日本の「歌舞伎」ととてもよく似ていて女性の役者はいません。「女形」です。多分この映画が描きだした時代の五十年に限って言えば「歌舞伎」は世襲制だったのではないでしょうか?しかし「京劇」の役者は、男子の孤児や貧民の子や捨子ばかりです。京劇の養成所では、暴力的かつ残酷な訓練が日々繰り返され、やがて役者として育てられます。その教育過程は目を覆いたくなるほどの残酷なものでした。
 さらに驚愕したことは、娼婦の母親に連れられてきた私生児の程蝶衣(本名=は小豆子。)は、片手の指が六本あるという奇形でしたので入所を断られます。母親は息子の行く末を思い、その余分な指を自分の手を下して切断してまでも、強引に養成所に入れるのでした。

  *   *   *

 ここで気になりますので、ざっと日本の「歌舞伎」の歴史に触れてみます。もとよりこの方面には疎いわたくしですが、必要最小限の範囲でメモしておきます。

 一六〇三年に北野天満宮興行において、京都の出雲阿国(いずものおくに)の演じたものが「歌舞伎」の発祥というのが定説でしょうか?阿国は出雲大社の巫女であったとも河原者でもあったとも。。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また男装するなどして当時最先端の演芸を生み出した。
 阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)や、前髪を剃り落としていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎がおこなわれていたが、風紀を乱すとの理由から前者は一六二九年に禁止され、後者も売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから一六五二年に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となる。歌舞伎において「女形」が存在するのはその理由からであろう。それは江戸時代に洗練され完成した。このあたりから「世襲制」となったのだろうか?

  *   *   *

 新入りの小豆子(のちの程蝶衣)は他の子供たちからいじめられたが、彼を弟のようにかばったのは小石頭(のちの段小楼)だけだった。二人は成長し、女性的な小豆子は女形に、男性的な小石頭は男役に決められる。やがて成長して京劇『覇王別姫』のコンビとして人気役者となりますが、段小楼は娼婦の菊仙(鞏俐)と結婚、ひそかに彼を慕い続けた程蝶衣の孤独感は深いものとなった。ここでコンビの決別。程蝶衣の人生は頂点から次第に奈落へと。。。

 その時期に北京は日本軍に占領された。理不尽な風の吹くなかで、深く傷ついてゆく三人の運命。程蝶衣はアヘンに溺れることも、刑務所に入ることもありました。日本軍の敗退で抗日戦争は終わりますが、一九四九年に共産党政権樹立。一九六六年には「文化大革命」。共産党の厳しい政治的圧力を受け、「京劇」は堕落の象徴として禁止され、三人ともがまたまた精神的に極限まで追い詰められ、生き延びるために醜く罵りあうことすらあった。この時期に菊仙は自殺。

 一九七七年、程蝶衣と段小楼は無人の体育館で、十一年ぶりに二人だけで最後の「覇王別姫」を演じる。舞い終わった時、程蝶衣は自らの命を断った。なんと言えばよいのだろうか?約三時間のこの映画を観るのは辛かった。辛いからこそ、次の幸福を求めながら観続けるのでしたが、最後まで辛い映画でした。戦争や権力がいかに人間の運命を翻弄することか。今までも何度思ったことか。。。

 この映画は一九九三年の第四六回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞。
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Nov 03, 2008

〈うさぎ穴〉からの発信 河合隼雄(その一)

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 約四十冊の「児童文学」を例にあげながら、河合隼雄は、ここから発信されるものに耳をすましていました。まず「児童文学」とは大人の書き手が子供に向けて書くものではないということ。子供の目を通してみた世界が表現されているものだと書いていらっしゃいます。そして、河合隼雄の一貫したお考えは「子供は大人以上に、いのちの誕生と死について考えている。」ということだったように思われます。
 〈うさぎ穴〉はもちろん「ふしぎの国のアリス」です。

 いつもなら、本の紹介と感想などを書くのですが、今回は自らの体験を、少し書いてみたいと思います。

 まずは、自分自身のことから。
 記憶としてはありませんが、祖父母や父母の「物語り」のなかでは、わたくしは三歳まで歩けない子供だったそうです。敗戦色濃き時期にハルビンに産まれ、何事かに備え、いつも母の背中に負ぶわれて引揚げ(つまり自らの足でよちよちと歩ける機会がなかった。)、さらに栄養失調、帰国直後に即入院、ドクターの説明によると「あと二日、帰国が遅れたらこの子は死んでいたろう。」とのことでした。この三歳までのわたくしの「物語り」はこうして大人たちによって確かな形となったわけですね。これがわたくしのいのちの物語の序章でした。

 次は子供たちのこと。
 二人の子供は普通に育ち(多分。。。なにしろ母親がこのわたくしですから。笑。)、普通の社会人となり、次世代も産まれましたが、この子供たちの時代にも忘れられない出来事はありました。
 息子が四歳の時に、近所のお友達の弟さん(まだ赤ちゃん。)が、一夜にして亡くなりました。小さな柩、泣き叫ぶ母親、葬儀に息子とともに出ましたが、息子は小声でこう言いました。「ママ、子供も死ぬの?」わたくしは一瞬絶句しましたが、「あなたは死なない。ママが守ってあげるから。」と答えました。これが嘘だとは小さな息子は気付いたことでしょう。
 また、娘は四歳くらいから、日常的に「一人語り」をしていました。そのなかから一つ。「ママのおなかには二つの卵がありました。一個目をママが産んで○○(娘=姉です。)になりました。二個目を産んで●●ちゃん(弟)になりました。」
 この二つの出来事は、まさに「死」と「生誕」を見つめた二人の子供の物語でした。世界には膨大な「児童文学」がありますが、これがわたくしの一番大切な作品だったかもしれません。

(つづく)

 (一九九〇年、マガジンハウス刊)
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Nov 02, 2008

イル・ポスティーノ(1994)

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監督:マイケル・ラドフォード
原作:アントニオ・スカルメタ

《キャスト》
マリオ:マッシモ・トロイージ
パブロ・ネルーダ:フィリップ・ノワレ
ベアトリーチェ:マリア・グラッツィア・クチノッタ


 「イル・ポスティーノ」は英訳すれば「ザ・ポストマン」となりましょうか。

 一九五〇年代の一時期、祖国を追われた実在の詩人、外交官・国会議員(さらに共産主義者)のパブロ・ネルーダがカプリ島に亡命した史実にもとづき、架空の漁村を舞台にこの物語ははじまります。

 島民の殆どの男たちが漁師であるこの漁村の島で、内気な青年マリオは、漁師の父親に背いて、文字が読めることから郵便配達の仕事に就く。島は権力者の怠慢と傲慢のもとで、慢性化した水不足と貧しさのなかにあった。届け先は、チリから亡命してきた詩人パブロ・ネルーダの家だけでした。識字率の低いこの村で、これは偶然の出来事ではないかもしれません。亡命詩人のもとには、毎日たくさんの世界中からのファンレター、贈り物などが、届けられました。つまり二人は毎日のように会い、次第に会話は広がり、二人の間にはゆっくりと友情が育てられてゆきます。

 パブロ・ネルーダとの交流のなかで、マリオは「詩の隠喩」を理解します。ここからマリオの詩作へ向けての新鮮な一歩が始まりました。この詩は密かに愛する女性「ベアトリーチェ」の心を動かしました。紆余曲折はあったものの、二人は結婚します。

 マリオは、パブロ・ネルーダが妻マチルデに送った詩を、ベアトリーチェに捧げますが、「他人の詩を使うことは感心せん。」と言うネルーダに、マリオは「詩は書いた人間のものではなく、必要としている人間のものだ。」と詩の本質を突くまでになっていました。

 やがて、二人は結婚、もちろん祝いの席にはパブロ・ネルーダもいました。その最中に、彼の追放令が解除されたとの知らせが入り、ネルーダ夫妻は帰国。喪失感のなかで、マリオはやっと詩人との真の心の交感を理解してゆくことができた。翌日から彼は、島の自然の音(波の音、風の音、星空の音さえも。。。)を録音し始め、彼の心の世界は広がった……。それがマリオのパブロ・ネルーダへ届ける詩ではなかったのか?

 数年後、ネルーダ夫妻が島を訪れた時、そこにはベアトリーチェとマリオの息子パブリートの姿しかなかった。マリオは共産党の大会に参加し、パブロ・ネルーダに捧げた詩を労働者の前で発表するために大衆の中をかき分けて進んだ時、暴動が起きてその混乱の中で命を落としたのだった。

 「革命」と「詩」とが、互いに言葉を求め合い、共振した時代がここにはありました。それは激しい戦いの時代が生み出した「静かな叙事詩」であったように思えてなりません。

 【付記】

 この映画の丁寧な感想を桐田真輔さんが書いていらっしゃいます。詳細をお読みになりたい方は、是非こちらをお読み下さい。わたくしにはこれほどのことは書けませんので。
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Oct 28, 2008

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

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 しずかに時間の物語が語り継がれながら、過ぎてゆくような深い秋の日々です。人間の誕生がそれぞれであるように、そこから「死」に至るまでの物語もそれぞれにあります。はるか昔のわたくしの誕生の日、それはすでに「死」と抱き合わされたものであったのでしょう。あるいはわたくしの誕生の時に、いのちをおとされた人たちがいらしたにちがいない。そのような想念から、日々逃れることができません。
 自分自身でもわかりにくいこの想念に、わたくしは「童子」と名付けました。それは大江健三郎の小説「取り替え子・チェンジリング」「憂い顔の童子」「さようなら。わたしの本よ!」の三部作から、透明な粘土が手渡されて、わたくしなりの「童子」をこころのなかに創ることができました。でもそれでも人間の寂しさは変わることはありませんが、形を整えられたことはおおきな前進だったと思います。

 さて、前置きが長すぎたようです。この本は「河合隼雄」と「村上春樹」との二夜に渡る対談です。第一夜は「物語で人間はなにを癒すのか」、第二夜は「無意識を掘る”からだ”と”こころ”」。「前書き」は村上春樹が、「後書き」は河合隼雄が書かれて、一冊の本となっています。一気に読み終えました。同じ時期にわたくしは「童子」をテーマにした詩を書いていましたので、この「物語」をテーマにした対談と重なりつつ、交錯しつつ、という精神状況で読み終えました。

 以下、引用です。「物語で人間はなにを癒すのか」より。

村上:芸術家、クリエートする人間というものも、人はだれでも病んでいるという意味においては、病んでいるということは言えますか?」
河合:もちろんそうです。
村上:それにプラスして健常でなくてはならないのですね。
河合:それは表現という形にする力を持っていないとだめだ、ということになるのでしょうね。それと、芸術家の人は、時代の病いとか文化の病いを引き受ける力を持っているということでしょう。ですから、それは個人的に病みつつも、個人的な病いをちょっと越えるということでしょう。個人的な病いを越えた、時代の病いとか文化の病いというものを引き受けていることで、その人の表現が普遍性を持ってくるのです。


 「無意識を掘る”からだ”と”こころ”」より。

村上:ぼくは小説を書いていて、ふだんは思わないですけれども、死者の力を非常によく感じることがあるんです。小説を書くというのは、黄泉国へ行くという感覚に非常に近い感じがするのです。それは、ある意味では自分の死というものを先取りするということかもしれないと、小説を書いていてふと感ずることがあるのですね。
河合:人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根本にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらくほかの動物は知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知ってて、自分が死ぬということを、自分の人生観のなかに取り入れて生きていかなければいけない。
(ここまでが引用です。)

 河合隼雄という方は、その専門分野(臨床心理学者)から身につけられたものだろうか?それとも天性のものなのでしょうか?「聞き役」の立場に立たれることの多い学者が、年下の小説家である村上春樹との対談では、均衡のとれた語り手にもなっていらっしゃいました。
 しかし、村上の「前書き」を改めて読みますと、特に厳密な方向性を持たずに始めたはずの対談が、見事な道筋を描いているのは、河合隼雄の不思議な力であったようです。この本を薦めて下さった友人も、おそらくここに「河合隼雄」の不思議な「灯り」をみつけたのかもしれません。「物語」とは、こうして人間の内面から生まれる言葉にはならないようなものを、言葉として姿を見せるということかもしれません。

 (一九九六年第一刷・一九九七年第五刷・岩波書店刊)
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Oct 21, 2008

ジーザス・クライスト・スーパースター(1973)

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監督:ノーマン・ジュイソン
製作:ノーマン・ジュイソン ・ ロバート・スティグウッド
原作戯曲:ティム・ライス
脚本:ノーマン・ジュイソン ・メルヴィン・ブラッグ
撮影:ダグラス・スローカム
音楽:アンドリュー・ロイド・ウェバー
編集:アントニー・ギブス
振り付け:ロブ・イスコーブ

 これは「ロック・オペラ」と言えばいいのか?つまりミュージカル映画でもあります。この方法で聖書の世界を描くわけで、大変複雑な思いで観ました。「序曲」はナゲブ砂漠からはじまりました。遥か遠くから砂埃を舞い上げて、一台のバスが現われます。バスには五十人の若者、衣装や小道具が積まれ、大きな十字架が載せられていました。若者たちは各々衣装をつけ始め、映画は始まりました。つまり制作過程から始まるのでした。

 イエス・キリスト役は「テッド・ニーリー」である。ユダ、使徒たち、マグダラのマリア、司祭長のアンナス、カヤパ、シモン・ゼラト、 総督ピラト、などなどこれらの複雑な人間関係は説明できない。「聖書」を全部読んでいませんので。

 この映画では、自分を慕う者たちへの心労、敵からの脅威、癩者たちの願いなどに疲れ果てたイエスがそこに在ることに改めて驚くわたくしでした。たくさんの癩者に囲まれて「私に触れてください。」「私を救ってください。」という願いに、「数が多過ぎる。」と無力感に襲われ「Leave me alone!」と叫んだシーン。。。(←ここを言いたいがために、これを書いているようなものです。恥。)

 「ヨハネ伝第十九章四十一節」を演じ終えた一座は帰ってゆく。イエス・キリストに扮した若者だけが憂い顔で。。。
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Oct 17, 2008

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

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↑は、一番わたくしが気に入った作品。「初めての説教・一八六三年」&「二度目の説教・一八六三年・一八六四年」です。この二枚の絵が並んでいました。そこにしばし佇んで、にこにこ。。。「ミレイ」の画家としての思想なんぞ、どうでもよろしい。ひたすらにかわいい(^^)。下記の⑤「ファンシー・ピクチャー」の最初に展示されていました。

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 《ローリーの少年時代・一八六九年・一八七〇年》

 さてさて、秋晴れの十五日午後に、渋谷Bunkamura・ザ・ミュージアムにて、「ミレイ展」を観てきました。平日の昼間でしたのに、チケット売り場では少しだけ時間がかかりました。展示会場もゆっくりと観るのには、ちょっとだけ辛い状況でした。多分今回の試みは日本では初めてのことだったからでしょうか?

 ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~1896)は、イギリス領ジャージー島にうまれました。この島に領地を擁するミレイ一族の歴史はながく、ノルマン人のイギリス(イングランド)征服時代にさかのぼり、十一世紀からの歴史となる。
 こうした裕福な家の次男として生まれ、少年時代から才能を開花、九歳のミレイ少年は、ロンドンに出て、当時のロイヤル・アカデミー(王立美術院)会長であった「サー・マーティン・アーチャー・シー」の指導を受けることができました。そして一八四〇年、十一歳という記録的な年齢で「ロイヤル・アカデミー・スクールズ」への入学許可が下りました。

 この幸福な天才画家は、生涯に渡って陽のあたる道を歩き、たくさんの家族にも恵まれていたようでした。この画家の生涯を通しての全点とはいかないにしても、七十三点の作品が一度に観られるということは、幸福な時間でした。作品は年代順に、「ミレイ」の画家としての軌跡を追う形で展示されていました。

①ラファエル前派・・・(一八三八年~一八五四年)
②物語と新しい風俗・・・(一八五二年~一八六二年)
③唯美主義・・・(一八五八年~一八七二年)
④大いなる伝統・・・(一八六九年~一八九四年)
⑤ファンシー・ピクチャー・・・(一八六三年~一八八九年)
⑥上流階級の肖像・・・(一八七〇年~一八八六年)
⑦スコットランド風景・・・(一八七三年~一八九二年)

 一八四八年(ミレイ十九歳)に、ハント、ロセッティーらと共に「ラファエル前派兄弟団」を結成、革新的芸術運動の中心的役割を担います。そこからはじまった「ミレイ」の上記の時間の経過のなかでは、「ミレイ」の思想的な変遷ももちろんあるのでしょうが、わたくしは美術評論家ではありませんので、ここは書けません。

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↑は有名な「オフィーリア」。ここには十一種類の花が描かれて、それぞれの花言葉に意味を託しているようです。またこの絵には留学中の夏目漱石が出会っていまして、それは「草枕」に書き残されていますね。

『ミレーはミレー、余は余であるからして、余は余の興味を以て、一つの風流な土左衛門(!!!←これはわたくしの付け足しです)。を書いてみたい・・・』と。。。

 「オフィーリア」の花についての詳細は「Talk Room 」の方でご紹介します。

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Oct 14, 2008

生きるとは、自分の物語をつくること 河合隼雄×小川洋子

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 河合隼雄は二〇〇七年七月にご逝去されました。小川洋子にとっては、ここに掲載された二つの対談「魂のあるところ」「生きるとは、自分の物語をつくること」だけで終わってしまいました。そのために小川洋子は最後の章では「二人のルート・少し長すぎるあとがき」を「弔辞」として書かれて、この一冊はできあがりました。
 ユーモアとやさしさにつつまれたお二人の対談は、読み終わる頃には、「生きる」ということの矛盾、困難、そしてそれらがあればこその「それぞれの物語」があるのだということを、旱の地が雨を吸い込むように自然に受け入れることができました。

 「魂のあるところ」の章では、小川洋子の小説「博士の愛した数式」の、河合隼雄による読み解きと感想が対談のメインでした。書き手である小川洋子の意図した小説展開よりも、臨床心理学者である河合隼雄の読み解きが超えていたように思えます。一冊の小説が読者によって大きく育てられてゆくことの幸福を垣間見た思いがいたしました。さらにこの「博士の愛した数式」誕生には、数学者藤原正彦という理解者もいらして、この小説はとても幸福な一冊ではないかと思いました。

 「生きるとは、自分の物語をつくること」の章では、『人は、生きてゆくうえで難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶してゆくという作業を必ずやっていると思うんです。小説で一人の人間を表現しようとするとき、作家は、その人がそれまで積み重ねてきた記憶を、言葉の形、お話の形で取り出して、再認識するために書いているという気がします。』という小川洋子の発言がありました。

 河合隼雄は上記の小川洋子の言葉に応えて、同意し、さらにこのように語ります。

 『その感じは、もうほとんど一緒じゃないかと思いますよ。ただ小説家はずっと降りて行って、その結果つかんだものを言葉にする。だけど僕らは、人が話すのをただ聴いていて、その人自身が何かを作るのを待っているだけです。自分では何も作らない。」

 臨床心理学者のお仕事は「聞き役」に徹底的になりきることのようです。その上「マニュアル」も「分類法」もないのですね。「ガンバレ」も言わない。しかし時には生身の人間同士として言い合いになる場合もあるそうです。ただ河合隼雄が患者さんに対して、決して失望しないのでした。人間はそれぞれが違う物語を生きているのですからね。そして河合隼雄が患者さんから聞いたお話はどこにも口外できません。それでは記憶がパンクするのではないかと、意気地なしのわたくしは緊張します。しかし河合隼雄は、ご自分は「アース」なのだとおっしゃいます。そこを通して、記憶は「地球」が全部覚えていてくれるのだと。そして忘れた記憶は、必要に応じて「地球」から芽吹くように出てくるのだと。ふぅ~すごいなぁ~。

 このお二人の対談は、わたくしの小さな小さな「地球」のどこかで記憶の芽を出しました。それは、過去に読んだ「物語と人間の科学・河合隼雄」と、「物語の役割・小川洋子」の二冊でした。

 河合隼雄は「ジョーク」の名人でした。書き出せばきりがないほどにおもしろいお話がありましたが、ここではカットします。機会があれば「Talk Room 」の方でご紹介します。

 (二〇〇八年八月・新潮社刊)
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Oct 13, 2008

謹告

 このブログのコメント欄に表示されている「文字列」は大変読みにくくて、わたくし本人ですら、コメント送信に失敗しています。これは多量のスパム対策のためですので、ご理解くださいませ。コメントを下さる方は、前もって本文をコピーしてから送信されることをお薦めいたします。

 スパム以外は、どなたもアクセス禁止はしておりません。


moziretu
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Oct 12, 2008

オニババ化する女たち 三砂ちづる

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 前記の「アンチ・フェミニズム」から思い出したものを書いてみました。これは過去に書いたものですが、「サイト内検索」ではうまく出ませんので、再掲いたします。

 この著書の感想を書く前に、まず申し上げておきます。女性には「子供を産まない。」「結婚しない。」と主張する人生と、「子供を産めない。」という喪失の人生があります。後者の女性にとって、これはまことに残酷な著書だと思えます。この著書の趣旨は「女性よ、性をできうる限り幸福な営みとして受け入れ、子供を産みなさい。それもできるだけ早期に。」というものなのです。これはまさに酒井順子の著書「負け犬の遠吠え・講談社・2003年刊」の対極にあるかのようだが?

 さて、女性が仕事を持ち、自立できる時代が来たことは、おおいに喜ぶべきことです。しかしここでいつも問われるのは「母」と「子供」の問題なのでしょう。「母」が自立するために「子供」の存在は大問題となってしまった。まず今の出産適齢期にいる女性たちは「子供を産むか否か?」を考えるようになり、その後で「出産と育児の困難さ」に直面し、そして「仕事との両立は可能か否か?」という構図で考えるようになってしまったようです。

 しかし本来「子供」が産まれ、育ってゆくことは原初から引き継がれたものであり、特別なできことではない。無意識下にあった自然ないのちの営みを、女性の生き方の「大テーマ」として考えなければならない時代になってしまったということではないだろうか?元より「子供の生誕」と「女性の現代の生き方」とを並列して考えることには無理があるのではないだろうか?

 わたくし個人の過去の体験を思うとき、みずからのからだに内包されていた「人間の原初」を見たという鮮明な記憶があります。そして赤子は、母親の胎内で人間の進化の永い歴史を十月十日でやり遂げて、その時代に産まれてきたのです。口元に触れてくるものを「吸う」という記憶行為だけを母親の胎内からたずさえて……。そしてその行為の力強さも驚嘆に値するものでした。さらに四足歩行から二足歩行のいきものに変わるまでには約一年の期間があり、それらの過程は母と赤子の「蜜月時間」となるわけです。この相互の関わりが母と子供とのいのちの連鎖を自然に取り結ぶのではないでしょうか。そこは「フェミニズム」も「ジェンダー」も介在できない「アジール」的な世界なのではないかと思われます。

 この著書にはさまざまな事例が挙げられていて、列挙することは到底無理なことですが、「京言葉」についての事例のみご紹介いたします。わたくしにとっては一番興味深いところでもありましたので。「おいど」は通常「おしり」と解釈されていますが、実は「肛門、膣、子宮、外性器」全体を表現する言葉だそうです。また「おひし」は「女性性器」を表わす言葉で、お雛祭りの「菱餅」はこの「おひし」に由来するもの。ですから上方では「正座しなさい。」は「おいどをしめなさい。」となり、正座を崩すと「おひしが崩れますえ。」というお叱りを受けることになります。このなにげない日常の躾が、実はとても大切な女性の身体性を強靭に育てあげる教訓だったのですね。

 また、著者はさまざまな提言の根拠として、世界各地での母子に関する取材や保険活動の現状や統計報告もたくさん提出しています。また著者自身の「気付き」にすぎないものも記されています。この混在がこの著書の「生煮え」状況をつくっていることも否めません。この著書は「ジェンダー」「フェミニズム」の流れに「投げられた小石」の一つだと受け止めます。

「オニババ」を三砂ちづるはこのように定義しています。性と生殖にきちんと向き合えないまま、その時期を逸してしまった女性を昔話の「山姥」や「オニババ」に喩えたにすぎません。子供を持たぬ女性たちよ、早急に解釈して憤怒するなかれ。女性が「子供を産まない自由」について考えることのできる今日に至るまでには、過去の女性たちの永い永い歴史があるのだと考えてみてはどうか?ということなのではないでしょうか?

(光文社新書・2004年刊)
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Oct 11, 2008

アンチ・フェミニズム??

Morisot

 フェミニズムとは、女性の社会的、政治的、法律的、性的、経済的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し、改正しようとする思想運動。十九世紀から二十世紀初頭の欧米諸国を中心とする女性参政権運動の盛り上がりを第一波。一九六〇年代以後の「ウーマン・リブ」に代表される動きを第二波と区別することが多いようです。

 「青鞜」は、上記のほぼ第一波に当るのでしょうか?それは一九一一年(明治四十四年)から一九一六年(大正五年)にかけて発行された女性だけによる文学誌です。当時の家父長制度から女性を解放するという思想のもとに、平塚らいてうが創刊。誌名は生田長江の命名。当時のヨーロッパで知的な女性達がはいていた靴下が青かったことから「ブルー・ストッキング」と呼ばれたことに由来する。

 同誌第一巻第一号に平塚が著した「元始、女性は太陽であつた。」という創刊の辞は、日本における婦人解放の宣言として注目され、多大な影響を及ぼしました。一九一三年四月、文部省の提唱する「良妻賢母」の理念にそぐわないとの理由により、発禁処分を受けました。一九一五年一月号より、発行人が平塚から伊藤野枝に交替。一九一六年二月に無期休刊となりました。

 この重い歴史に反論するつもりは全くないのですが、これによって「家の外で働く女性」の歴史の基礎が築かれたのだろうと思います。ここからは打ち寄せる波のごとく、女性運動は拡大、拡散してゆくことになりますね。その流れはどこまで行くのやら。。。

 わたくし自身は、この流れにおかまいなく、「外で働かない女性」を生きてきました。育児、家事、老親の看取り、これは重い労働でありながら、社会的評価は低い。「最初」の育児、最後の「老親問題」は、まず働く女性には出来ない。子供を持った働く女性は、身内の援助や、「育児」の賃金をどこぞに支払って、「育児」負担を減らしただけにすぎない。「老親問題」は「仕事が休めない。」という理由で免除されてきた。(←誰に?)こうして「外で働かない女性」が担ってきた役割は大きい。

 お次は「まごまご問題」です。こういう時代の若い母親の育児期間の憂鬱は、深刻な社会問題です。これをなんとか助けるのは、またまた「外で働かない女性」の新たな仕事となるわけですね。なんとまぁ。充実した人生でしょう♪
 それでも、世の中では「働く女性」は、それだけで世間からは高い評価を受けるのですよ。ごくろうさまです。乞う反論(^^)。
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Oct 08, 2008

父母の手記

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 手前味噌のようで恐縮ですが、2004年までにほぼ完成させたこのようなサイトがあります。自分自身、完成させてからあまり覗くことはなかったような気がしますし、ここを見つけて下さったのが「憲法九条の会」の方々であったことも、あたりまえのような気もしますが、わたくし自身にはそのような意識は皆無でした。今は亡き父母が書いた拙い記録を入力し、残しておこうと思ったことがきっかけで、それ以上の意識はなかったように思います。

 しかし、親しくさせて頂いている方が、ここに気付いて読んで下さいました。「ご両親の手記は初めて拝読しました。文章力とか表現力とかを越えて、《事実》のみがこれほど強く人を打つのか(言い換えればそれほど強烈な事実だったのだ!)とオイオイ泣いてしまいました。」というお言葉を頂いて、あらためて読みかえしました。

 実はこの時、わたくしも初めて泣きました。そして入力しながら「これほどに、父と母の記憶のずれがない。」という驚きの気持は、今回も同じことでした。父母はともに文筆家ではありません。このような長い文章もめったに書かなかったと思います。
 わたくしが大きくなってからの母はわがままでした。父はそれを許し続けていましたので、一度だけ父にたずねたことがありました。「大陸にいた頃には、お母さんに苦労させたからな。」と答えるのみでした。苦労したのは父も同じことだったと思います。海を渡った花嫁だった母への謝罪だったのでしょうか?
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Oct 01, 2008

日本・日本語・日本人  大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫

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 この本は、2000年に上記の三人の方の三回の対談を単行本化にしたものです。その対談の間には、三人の言葉に対する短い論考もはさみこまれていますので、対談の散逸性を整える役割と、対談では表出されにくいであろう、それぞれの個人の意見も読めました。

 《論考ー森本哲郎》
 森本哲郎の論考は「はじめに」と題されて、序文の役割もしています。森本氏は旧約聖書の「創世記」の「バベルの塔」を例にあげて、人間の築く文明と文化の原点が、なによりも「言葉」にあることを示しています。言葉は単なるコミュニケーションの道具ではないと。。。

 《論考ー大野晋》
 大野晋は、日本の弥生時代に「水田耕作」「金属使用」「機械」という複合文明が一挙に北九州から始まったのは、日本人が輸入して真似たものだと言う独自の説をおっしゃっています。その文明とともに「言葉」の輸入先は、南インドのタミル地方にある。たしかに「アゼ=畦」「ウネ=畝」などの共通した言葉があるのですね。賛否両論あれど、これが大野晋説でした。これは中国の漢字よりも、日本の外から来た言葉としての歴史は早いのですね。

 《論考ー鈴木孝夫》
 鈴木孝夫は日本における英語教育の背景と歴史に触れています。戦後の日本は米国の植民地と同質だったわけですね。米国のお仕着せの立法にはじまり、歴史、英語、思想教育、すべては米国の支配下にあったわけです。ここから日本と日本人と日本語の混迷が始まったわけですね。

 *   *   *

 日本人の歴史の常態は「戦争」ではなく「国内安泰」が永いという特色があります。その弱点が「敗戦」と共に、独立戦争も内乱もない戦後を招き、米国のもとで生ぬるい植民地状況を作ったわけで、この世界に類のない国に起きた「言葉」の混迷でもあったのでしょう。

 これを読む途中で、下記のようなニュースがはいりました。これは常用漢字をまたまた削除するというニュースです。

「常用漢字:見直し修正案」

 奈良時代に漢字が日本に入ってきてから、漢字文化は最高の教養とされてきたわけです。しかし、戦後になってアメリカの支配下において、ローマ字と片仮名文字が隆盛をきわめました。漢字撲滅が次々に行われたわけです。
 大野晋は国語審議会委員をお辞めになりました。(1966年(昭和41年)から3年間)その大分後に鈴木哲郎も腹に据えかねてお辞めになりました。(6年間)鈴木哲郎が辞任の時に、文部省の庶務課長が「勲章対象から外されることをご存知ですか?」と訊ねたそうです。ここで芥川龍之介の言葉が引用されています。「勲章なんかぶら下げて喜ぶのは子供と軍人だけだ。」

 「小学校時代のローマ字教育は、なんの意味があったのでしょう?」←独り言。

 (2001年・新潮社刊)
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Sep 17, 2008

日本語ぽこりぽこり  アーサー・ビナード

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 この「ぽこりぽこり」はどこからきたのか?半分まで読むと謎が解けます。

 吹井戸やぽこりぽこりと真桑瓜    夏目漱石

 筆者がこの句に出会ったのは国語辞典で引いた「真桑瓜」の一例だったようだが、彼はここから漱石の俳句の世界に入っていきますが、なんと。。。「吹井戸やぼこりぼこりと真桑瓜」という句が出てきました。どちらが正しいものだったのか、今でも謎だそうです。しかし筆者は「ぽ=PO」がお気に入りのようです。

 アーサー・ビナードは一九六七年、米国ミシガン州生まれ。二十歳の時にミラノでイタリア語を習得。一九九〇年、コルゲート大学英米文学部を卒業。卒論の時に日本語に出会い、魅せられて日本へ。日本語での詩作、翻訳、日本から米国への情報発信、ラジオのパーソナリティーなど多才な活躍をしています。奥様は詩人の木坂涼さん。彼女の「内助の功」も大きかったのではないでしょうか?この言語感覚における広い視野は、見事に楽しいエッセーになっていました。この本は、小学館のホームページの「Web日本語」に連載されたものの単行本化です。日本語を米国人の視点から見るわけですから、この新鮮さが楽しめます。

 日本語と米語とのはざまで、アーサー・ビナードがいかに困難(かな?)を楽しんでいるのかがこちらに笑いのさざなみのように伝播してきます。その上、やはり彼が米国人だな、と感じるのは、発言がはっきりとしていて小気味よいことでしょう。また日本語と米語との見事なクロスさえ感じられて、この語学力は羨ましいほどですが、これはアーサー・ビナード自身の積み上げた努力と、好奇心の賜物でしょうね。語学は楽しむもの。そして言葉は「橋をかけるもの」だということなのではないか、と思いました。

 最も面白いと思ったのは、日本人の書いた日本語の文章の「虚偽」を見抜く目でした。某新聞のコラム欄は、かつては小熊秀雄が書いた時代がありました。その時代に書かれたコラムの真剣さと、現在書かれているコラムとの大きな差を指摘していることでした。そしてアーサー・ビナードが日本語学校の教材として「小熊秀雄」の童話「焼かれた魚」に初めて出会い、彼の作品に深い感銘を受けていたのでした。これによって彼は翻訳に興味を持ったわけで、小熊の言葉の持つ力がよくわかりますね。

 貧しい育ちのなかから、努力して身代を築いた祖父は、彼に「いつまで日本でプー太郎をしているのか?」「物書きはいくら稼げるのか?」という手厳しい質問に、アーサー・ビナードはいつも「サバを読む」とか(^^)。。。

  (二〇〇五年・小学館刊)
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Sep 10, 2008

画家と庭師とカンパーニュ

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監督:ジャン・ベッケル
原作:アンリ・クエコ
脚本:ジャン・ベッケル 、ジャン・コスモ 、ジャック・モネ



 老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。  モンテーニュ

 ある先輩詩人がブログで紹介なさっていた映画ですが、ずっと気になっているのに、なかなか腰が上がらない。もう上映期間の終わりも迫ってきましたので、「エイヤ!」と腰をあげて渋谷まで観に行ってきました。淡々としたストーリーでしたが、期待は裏切られませんでした。

 老境に入った孤高の画家「キャンバス」が、亡くなった父母の郷里の家に、都会に家族を置いたまま帰郷しますが、家は荒れ果てていました。まず庭の手入れのために庭師を呼びますが、その庭師「ジャルダン」は、もと国鉄職員で退職後に庭師をやっているのでした。その二人はなんと小学生の時のクラスメートで、一緒に担任教師に悪戯をした仲だったのです。

 ヌード・モデルに常に恋してしまう画家「キャンバス」は、ついに妻から離婚を迫られていますが、一向にその悪癖は直らない。しかも画家の世界でも孤高。さみしい画家です。
 妻を唯一大切な人生の伴侶として生きてきた庭師「ジャルダン」とは、対照的に描きだされていますが、この二人の友情は、互いの生き方の相違を知り、今までの人生を語りあいながら、二人は共にその家全体にいのちを吹き込もうとしたのです。なつかしい思い出を家のあちこちに見つけながら、画家はみずからの魂のルーツにまで辿りつくのでした。二人の日々は微笑みに満ちていました。

 しかし、フランスの田舎町の穏やかな陽ざしと、緑豊かな自然のなかでの時間は、あっけなく終わってしまいます。「キャンバス」が急いだ医師の手配も間に合わず、庭師「ジャルダン」は末期癌で亡くなりました。庭師が最期まで画家に頼んだことは「もっと明るい絵を。もっと身近なものを。」ということでした。

 最期のシーンは「キャンバス」の展覧会。そこに並んだ絵画は、すべて「ジャルダン」が手にしたものばかりでした。草刈鎌、ナイフ、ロープ、愛用の赤いスクーターなどなど、そして庭師の着衣の妻、庭に咲いた花、実った野菜や果実でした。画家はまた新しいスタートラインに立ったのではないでしょうか。

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Sep 04, 2008

日本語で一番大事なもの 大野晋×丸谷才一

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 これは、今は亡き国語学者「大野晋」と、作家、評論家、翻訳家である「丸谷才一」との日本語の文法解釈と歴史についての対談集です。丸谷才一が聞き手となり、大野晋が応えるという形になっています。話題の初めは「式亭三馬」の「浮世風呂」でした。その登場人物である本居信仰の女性国学者「鴨子」と「鳧子」との珍妙な会話からはじまりました。もちろんこの女性二人は「古語」の「かも」「けり」から付けられた名前ですね(^^)。

 日本語の文法の歴史は、遡ればきりがないのですが、以下のこの三人の学者が主に「大野晋」の先達学者として挙げられています。

山田孝雄(一八七五年~一九八五年)
松下大三郎(一八七八年~一九三五年)
橋本進吉(一八八二年~一九四五年)←この橋本文法が今日の学校文法になっています。

ちなみに。。
大野晋(一九一九年~二〇〇八年)
丸谷才一(一九二五年生まれ)

 さらに日本語の文法に影響を与えたものが「英語教育」だそうです。これには「主語」「助詞」「述語」「動詞」などが必須であるという文法を日本語にも要求されてくる結果となりました。ここで少し、お二人の面白い対話を引用してみます。

大野:日本語では、「君は」と言うと「うなぎだ」と答える、うどんの話なら「君は」と言うと、「かけ」とか、「おかめ」とか、「きつね」とか返事すれば済む。

丸谷:ある雑誌を読んでいましたら、自然科学の先生が、日本人は「僕はうなぎだ」などという野蛮な言語を使っていると、日本語をさんざんに罵っているんですね(笑)。それは日本語が野蛮なんではなくて、それを文法的に正しく把握しない自然科学の先生の方がむしろ――野蛮とは思わないけれども――間違っている。


 このような丁々発止の対談のなかで、日本語の文法の歴史と解釈が、さまざまな和歌からはじまり、口語体の現代短歌までを例に挙げながら語られていきます。まさにこれ自体が辞書さながらの様相を呈しています。図書館で借りて「さようなら」と言えるような本ではないですね。最後の大野晋の替え歌が楽しい。

おろかなるなみだ袖に玉はなすわれはせきあへずたぎつせなれば
 (古今集・小野小町)

おろかなるなみだ袖に玉と散るわれはせきあえずまるでナイアガラ

 ↑これは大野晋が「俵万智」風に作り換えたものですが、ここでは「ぞ」「が」になるまでの言葉の変遷が語られているのでした。「たぎつせ」は激流のことですが、そこを「ナイアガラ」として故意の誤訳(?)を楽しんでいました。

 とにもかくにも、この一冊の対談集はまるごと面白いものでした。飽きずに読めますが、絶対に全部が覚えられるものではありませぬ。肉声を聞くような楽しい辞典と思いながら、身近に置いておくものだと思います。

 (昭和六二年・中央公論社刊)
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Sep 03, 2008

フェルメール展・光の天才画家とデルフトの巨匠たち

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 暑さのぶりかえした二日午後の上野公園を歩くと、樹々の蝉時雨が耳にあふれました。上野都美術館にて「フェルメール展・光の天才画家とデルフトの巨匠たち」を観てきました。四〇点という展示ですので、美術展としては少ないものでしたが、おかげでゆっくりと観ることができました。混んでいることも心配しましたが、行列ができたり、観るのに苦労するほどではありませんでした。

   四〇点の内容は・・・・・・
 ヨハネス・フェルメール(一六三二~一六七五)作品は七点。
 ピエール・デ・ホーホ(一六二九~一六八四)作品は八点。
 カレル・ファブリティウス(一六二二~一六五八)作品は五点。

 後の二〇点はモロモロ・・・すべてデルフトの画家たちです。

 さて、デルフトの画家たちの生まれた時代背景とはどのようなものだったでしょうか?近代西洋史上、もっとも長い戦争(一五六八年~一六四八年)で、スペインから勝ち取った、プロテスタントのオランダ共和国は、移民を迎えることで人口増加をはかり、すべてのキリスト教国の中で、最も裕福な国家となります。海洋事業の中枢となって、それは日本の出島にまで及ぶ時代でした。こうしてオランダは、文化、経済の頂点にありましたが、一九七二年にその繁栄は終わりました。この約四半世紀が、「デルフト絵画」の最盛期だったわけです。

 まず、四〇点の絵画全体の画風が似ていることに気付かされます。そして宗教画がほとんど姿を消した(教会の内部や外観の絵画はありますが。)こと。デルフトの町並と、そこに暮す庶民(特権階級ではなく。)の様子、家々のなかの構図など。
 そして、フェルメールたちの人物画のほとんどが、左側に格子窓や、ステンドグラスが描かれ、そこから射しこむ《光》に浮き上がるような構図であったこと。以前「国立新美術館」で観た「牛乳を注ぐ女」にも観られるものと同じです。当時の絵の具の独特な《光》によって、デルフトの「光の画家」を生み出したようですね。

 それから、この時代の文化というべきか、流行というべきか、「手紙」が盛んだったことが伺えます。窓辺の明かりで手紙を書いたり、あるいは届いた手紙を読んでいる女性の姿がいくつか描かれていますね。インターネット時代を生きるわたくしたちの通信時間との大きな隔たりを感じつつ、その手紙の持つ時間を思ってみるのでした。
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Aug 29, 2008

恋人たちの食卓

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脚本・監督: アン・リー 
制作:シュー・リーコン
製作国: アメリカ、台湾


 アン・リー監督が「推手」「ウェディング・バンケット」に続く「父親三部作」の第三弾として、父と娘とのそれぞれの生き方を描くホームドラマです。名シェフの父親が主人公となっていますので、多種多様の豪華な中華料理が登場します。

 舞台は台北。一流ホテルの名シェフ「チュ」は、男手一つで三人の娘を育ててきました。長女の「チアジェン」は高校の教師、次女の「チアチエン」は航空会社に勤めるキャリア・ガール、三女の「チアニン」は、アルバイトに忙しい大学生です。
 日曜日には家族全員が集まり、父親の特製料理を囲むのが姉妹たちが小さな頃からの習慣でしたが、姉妹たちは次第に大人になってこの晩餐が重荷になってきます。ある日曜日、かつてシェフへの希望を父に反対された次女は、父の味覚が衰えたと非難します。名シェフの父は味覚を失う病気になっていたのでした。

 やがて三姉妹にも恋の季節がやってくる。まず三女はボーイフレンドのクオルンと「できちゃった婚」、長女は新任のバレーボールのコーチのミンタオと家族への報告なしの結婚、父親は隣家に住む子持ちのチンロンと結婚する。さらに数カ月後に、恋人関係を友人関係に変えて、アムステルダムヘ支社長として旅立つ次女。ここで一つの家族は解散する。永年家族がともに暮した家が売りに出される前に父親は、その家で次女の料理を初めて食べるのだが、そこで父親の味覚は戻る。

 ざっとこのような物語です。わたくし自身が三姉妹の末娘でしたので、姉妹それぞれの生き方の違いが実感として理解できました。同じ親を持ち、同じ家で育ったはずなのに、姉妹の生き方というものは、異質と言えるほどの違いがありました。誰が一番幸福だったのか、計りようもありません。父母が幸せな生涯であったのかもわかりません。それは誰にもわからないことでしょう。

 ただ愛した人がいた。あるいは今いる。どのように愛するか?そして住む家があり、食べ物がある、生きることとはそのようなものではないか?名シェフの父親の生き方の最後の選択をみれば、それは痛いほどにわかる。「チュ」はおそらく、孫ほどの少女とその母親と共に「家族の晩餐」を改めて出発させたのではないのか?

 「恋人たちの食卓」・・・・・・このタイトルに改めて戻ってみますと、家族すべての恋は、この食卓で語られ、騒ぎを起こし、そしてそれぞれの生き方を見つけたのですね。
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Aug 20, 2008

崖の上のポニョ

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原作・脚本・監督:宮崎 駿
プロデューサー:鈴木敏夫
作画監督:近藤勝也
制作: 星野康二

声の出演
ポニョ: 奈良柚莉愛
宗介: 土井洋輝
リサ(宗介の母): 山口智子
耕一(宗介の父): 長嶋一茂
グランマンマーレ(ポニョの母): 天海祐希
フジモト(ポニョの父): 所ジョージ
ポニョのいもうと達: 矢野顕子

主題歌
「海のおかあさん」歌: 林正子
作詞:覚和歌子 宮崎駿 
作曲・編曲: 久石譲 

「崖の上のポニョ」歌: 藤岡藤巻と大橋のぞみ
作詞:近藤勝也  補作詞:宮崎駿 
作曲・編曲:久石譲

 海に棲む少女(少魚?)「ポニョ」の生い立ちはすでにこの物語の展開を予感させるものでした。母親は人魚の「グランマンマーレ」、父親は「グランマンマーレ」に恋をして、汚れた人間界を捨てて海を選んだ男「フジモト」。しかし海洋汚染も進んでいる。海底に特殊なコロニーを作り上げた父親は、そこで「ポニョ」とたくさん(!)の妹たちを育てていました。「グランマンマーレ」は多産な人魚ですね。「木花之佐久夜ひめ」のようだと思いました(^^)。

   その海とそれを抱いている小さな町が舞台です。その町の海辺の崖の上の一軒家に住む五歳の少年「宗介」は、ある日、クラゲに乗って海底のコロニーから家出した「ポニョ」と出会う。地引網にかかって浜辺近くで困っていたところを、「宗介」に助けてもらったのだ。この「宗介」の名前を決めたのはもちろん監督の宮崎駿ですが、この名前が、夏目漱石の「門」の主人公からとったものだそうです。
 一目で宗介のことを好きになるポニョ。宗介もポニョを好きになる。「ぼくが守ってあげるからね」という可愛い約束は二人の大きな試練となる。「ポニョ」が人間になりたいと願ったため、海の世界は混乱に陥り、「宗介」の父親の船を含めて、海上の船は難破する。人間の町に大洪水を引き起こすことになるのだが。。。

 どんな時代であれ、五歳の少年から見た世界は美しく生きるに値する。

 この映画のなかに監督が盛り込んだメッセージは、微細でありながら非常に多くのものがあります。例えば海の中の描き方です。古代魚も含めて魚類の豊富さを示していたこと。そして洪水という海の怒り、地引網漁の海底破壊など。
 また「宗介」の通う保育所「ひまわり園」はデイケアサービスセンター「ひまわりの家」に隣接していること。これはすでに行われているシステムですね。ここで老人と子供の人間関係を育てようという試みです。そしてこの「ひまわりの家」に働いているのが「宗介」の母親です。毎朝二人は崖の上の家を車で下りて、通っているのでした。

 大洪水の後で「ポニョ」は人間の少女として、グランマンマーレ(ポニョの母)から、リサ(宗介の母)に託されます。これは海や空から託された願いの姿だったのでしょう。この物語が特異と思えるのは、映画鑑賞中に目を被いたくなるような「悪役」がどこにもいないことでした。大洪水の犠牲者もいなかったのでした。

 (おまけ)
 ポニョのたくさん(!)のいもうと達の声を担当したのが「矢野顕子」だったと後で気付きましたが、これほどの適役は他にはいなかったことでしょう。にこにこにこ。。。
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Aug 13, 2008

成熟と喪失 ”母”の崩壊   江藤淳

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《アメリカ絵本作家モーリス・センダック「まどのそとのそのまたむこう」より》

 これは息の長い著書である。河出書房新社より昭和四十二年から版を重ね、函入り上製本、カバー装普及版、さらに講談社文庫にもなっています。わたくしが手にしたものは、カバー装普及版にあたります。

 この著書の主題は、かつての農耕文化のなかで果たされてきた「母」なるものの役割の崩壊でしょう。それはわたくし自身の極論から言えば、母なるものの「忍従」の上に育った文化であり、一見「自然」「源郷」に見えてきたものは、無言で耐えた「母」の築いた文化ではなかったのか?と思います。
 それが時代とともに、西洋文化が徐々に浸透してゆく流れのなかで、「母」のなかにしまいこまれていた「女性の娼婦性」あるいは「母性の放棄」、「ジェンダー」が徐々に表出しました。それが一気に表出した敗戦後の時期に登場した「第三の新人」たちの小説群への、江藤淳の丁寧な批評と言えばいいのだろうか。

 主に「小島信夫・抱擁家族」の主人公である「三輪俊介」とその妻「時子」の米人男性との恋という事件を発端とした夫婦の崩壊を主軸にしながら、江藤淳は「妻=母」なるものの崩壊を見つめようとしています。その筋道に沿って、以下の小説にも触れています。

 まずは「安岡章太郎・海邊の光景」では、敗戦後、戦場で罹った結核の夫(獣医・・・つまり軍医ではなかったということか?)を世間的に恥ずかしい存在だと思う母親に精神的に頼られている息子「浜口信太郎」の苦悩について書かれています。ここでは妻ではなく、「父の崩壊」が引き出した「母の崩壊」について考えられています。 
 さらに「谷崎潤一郎・刺青/痴人の愛/鍵」、カソリック作家である遠藤周作「私のもの/沈黙」、またその以前の時期に書かれた「夏目漱石・行人/明暗」、「志賀直哉・暗夜行路」なども比較として取り上げられています。

 さて崩壊しない「母」とはなんでしょうか?

 そのわたくしの疑問を置き去りにして、江藤淳は、こうした男女や母子関係の束縛への嫌悪から「孤独」を選んだ男の小説に移行します。主人公がいずれも「作家」という共通性はあるものの、時代、生き方は著しく相違していますが。それは「永井荷風・ぼく東綺譚」と「吉行淳之介・星と月は天の穴」でした。

 江藤淳が最後に取り上げた小説は「庄野潤三・夕べの雲/静物」でした。そこには死期に近い「眠り続ける母」、「棚に放置された、子供たちの遊び相手の終わったぬいぐるみ」、「結婚以来いつでも心ゆくまで眠りたがっていたかに見える妻の、突然の長い眠り」などのシーンが象徴的に書かれています。
 そこに「母」はすでに存在しないのかもしれません。人間は「個人」であることを余儀なくされて、そこから書かざるを得ないものが生まれるのでしょうか?

 (昭和六十三年河出書房新社刊・新装版)
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Aug 06, 2008

オリバー・ツイスト

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製作年度: 二〇〇五年
監督:ロマン・ポランスキー
原作:チャールズ・ディケンズ
オリバー・ツイスト:オーディションで選ばれた十二歳のバーニー・クラーク


 舞台は第一次世界大戦後のイギリス。九歳の戦争孤児「オリバー・ツイスト」は救貧院で労働に従事していたが、夕食の席で「おかわり」を求め、救貧院を追放されてしまう。奉公先でも理不尽に虐められ、遂に飛び出す。放浪の旅の末、ロンドンにたどり着き、倒れた彼を助けてくれたのは、元締めの老人と暮らす少年スリ集団だった。彼らのアジトに温かく迎えられたオリバーは、初めて家庭的な温かさを知るが、盗みや万引きに馴染むことはできない。汚い服や靴、暗く汚れたアジト、そうしたなかで「オリバー・ツイスト」の顔立ちはいつでも白く美しい。この環境では生きられないことを主張するかのようでした。

 そんなある日、偶然に書店主の老人に出会い、助けられ、面倒を見てもらうことになる。しかしまたアジトに連れ戻される不運もあったが、命がけで密告したアジトの女性のおかげで、アジト全体は警察に包囲されて、「オリバー・ツイスト」には、書店主の子供としての幸せな日々がようやく訪れる。明るい庭で読書する少年の姿は美しい。この風景のなかに坐るために生まれてきたような少年だったのではないか?一人ぼっちの少年が生きてゆくことは危ういこと。しかしそれを支えたのは大人たちでありながら、そのもっと根底にあったものは「オリバー・ツイスト」の汚れのない心ではなかったのか?

  *   *   *

 この映画を観ながら、ふと「これはチャールズ・ディケンズの自伝ではないか?」という思いがうかび、調べてみましたが、やはり彼も困苦の少年時代を送っていたようです。「チャールズ・ディケンズ・一八一二~一八七〇) の家は中流階級の家庭であったが、父親ジョンは金銭感覚に乏しい人物であり、母親エリザベスも同様の傾向が見られた。そのため家は貧しかった。濫費によって一八二四年に生家が破産。ディケンズ自身が十二歳で独居し、親戚の経営していたウォレン靴墨工場へ働きに出される。
 さらに借金の不払いのため、父親がマーシャルシー債務者監獄に収監された。家族も獄で共に生活を認められていたが、ディケンズのみは一人靴墨工場で働かされ、しかもこの工場での仕打ちはひどく、彼の精神に深い傷を残した。「チャールズ・ディケンズ」の前期の作品では、主人公は多く孤児であり、チャールズの少年時代の体験が影響している。
 晩年の作品は、次第に社会的要素に取り組んだ、凄惨な作風へと変化していく。一八七〇年「エドウィン・ドルードの謎」を未完のまま死去。
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Aug 05, 2008

白馬へ。(その4・浅知恵・・・笑。)

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 (左下に見えるのは、冬季オリンピックのジャンプ台です。)

「白馬」は山岳文化を中心に栄え、古くから、山間の信州と越後を結ぶ交易路である「塩の道」があり、さらに戦国武将たちの合戦の場であったことは(その1)で書きました。標高の高い山に囲まれたこの土地が豊かな農村地帯であったとは思えない。
 今夏の「白馬村」には青々とした稲が真っすぐに立った田んぼや野菜畑もあちこちにありましたが、その反面ではここのかなりの部分は別荘地帯ともなっていますので、どの家が農家なのかは見分けがつかないのでした。その村を散歩しながら、ふと山崎豊子の「大地の子」を思い出しました。その主人公の中国残留孤児の両親は長野県出身でした。この主人公の幼い時代のかすかな日本での記憶に、両親が朝の農作業の始めに「信濃富士」を拝むという光景が刻まれていたのでした。この主人公の両親も、貧しい農民が満蒙開拓団に夢を託した一家だったのではないでしょうか?そしてこの開拓団には長野県出身の農民が一番多かったそうです。

 この村を歩きながら、自分が何故「山岳信仰」をふいに思い出してしまったというのも、そのようなさまざまな条件が重なったからでしょう。この「山岳信仰」について書けるほどの力はありませんが、全国には「富士」を付けた山の名前が多いですね。それは「郷土富士」と呼ばれるもので、「信仰」の意味がどこまであったのかは、地域によるでしょう。

 (その1)で「白馬」の由来について触れましたが、あらためて。。。
 白馬岳の雪が融け始めると、山肌に「代掻き馬」「雪型」が現れるそうだ。それを麓の村人は田植え時期の目安(農事暦)にしていた。「代掻き馬」が「代馬=しろうま」に転じ、のちに「白馬=はくば」と変わった。村の名前は「はくば村」と呼ばれているが、山の名は「しろうま岳」と呼ばれている。

 《追記》

 滞在中、毎日快晴でした。霧には出会ったが雨には降られませんでした。
 日頃の心がけのよいことの証明でした(^^)。
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Aug 04, 2008

白馬へ。(その3)

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 その次の提案は「栂池自然園」でした。またゴンドラ乗り場まで車で送っていただきました。ここは「尾瀬」に似ている。入口では靴の泥を落すマットが敷いてあって、外来種の侵入を防いでいる。こちらも標高は高い。「お花畑」の位置でもあった。たくさんの花々、高度に耐えて立っている樹木。ここまで高いところに来れば、人間というものは何かが変わる。それがはっきりとわかる。ただ小さいだけではないのか?

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 人間関係の困難さ、日常の重さ、そのようなものに押しつぶされそうになっていた小さな自分が見える。見えてしまえば軽くなる。黙々と集中して歩き慣れない木道を用心深く辿っていくと、どろどろとしたものが洗い流されてゆくのがわかる。涼しい風。やわらかな霧の移動。空の色、山の色、木々の色、草花の色などなど。。。

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Aug 03, 2008

白馬へ。(その2)

 しかし、無欲でいれば事はうまく運ぶものだ。朝ごとにホテルの奥様が行き先を提案して下さる。そしてご主人がその決めた行き先の入口まで車で送って下さる。あとはゴンドラやリフトを乗りついでゆけば、体力不足のわたくしでも、この標高の高い山岳地帯をどうにか移動できて楽しめる。標高の高い山々は神々しいほどにうつくしい。霧はそれをさらに神秘的に演出していました。
 まずはじめに行ったところは「八方尾根自然研究路」、これは最後のトレッキングコースは断念する。岩だらけの山道である。装備もないし、体力もない。その上少々故障気味のからだなので。。。

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 そこに立つと周囲の山並みが見渡せる。そこから農民たちの「山岳信仰」の意味が理解できる。
 「山」は動かない。そして時として人間に最も冷酷な仕打ちもする。それが「信仰」ではないかしら?

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《おまけ》 クマ除けのベル(^^)。

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Aug 02, 2008

白馬へ。(その1)

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 「白馬」の旅から帰る。あちらでは鶯の谷渡りの声をよく聴いた。ベテランもいれば下手もいた(^^)。帰宅してからのわたくしの耳を歓迎してくれたのは「みーんみーん」の蝉の合唱。数日の留守の間に蝉の声がふえていました。

 さてさて、夏休みなるものを久しぶりに思いたった。それにしても行き先がなかなか決まらない。旅慣れた友人の薦めがあって、まずは宿は「北安曇野郡白馬村」のホテルに決めた。小さな可愛いスイス風のホテル。その先を考えていない。いろいろなことに疲れてしまっていて、何も考えられない。ホテルで寝て暮そうと思って旅立つ。本は一冊も持っていかなかった。

 それにしても「白馬」の由来はなんでしょう?春になって、白馬岳の雪が融け始めると、山肌に「代掻き馬」の「雪型」が現れるそうだ。それを麓の村人は田植え時期の目安(農事暦)にしていた。「代掻き馬」が「代馬=しろうま」に転じ、のちに「白馬=はくば」と変わった。村の名前は「はくば村」と呼ばれているが、山の名は「しろうま岳」と呼ばれている。

 「白馬」は後立山連峰の麓に位置し、山岳文化を中心に栄えてきました。古くから、山間の信州と越後(現在の長野県塩尻市から白馬村・小谷村を経由し新潟糸魚川市)を結ぶ交易路である「塩の道」があり、さらに戦国武将たちの合戦の場となりました。「敵に塩を送る」の語源は、上杉謙信が塩不足に悩む宿敵甲斐の武田信玄に義援の塩を送ったことに由来する。

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 着いた日は白馬駅周辺の探索、観光案内所で情報入手。それからホテルで一休み。夕食までの時間は近所の散歩。「散歩だけでも楽しい。」という友人の言葉を思い出しつつ、山並みを見上げながら。。。ああ~喉が渇いてビールがおいしかった(^^)。

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Jul 19, 2008

悪童日記  アゴタ・クリストフ

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 翻訳:堀茂樹

 「アゴタ・クリストフ」はハンガリーのオーストリアとの国境近くの村に生まれ育ち、ハンガリー動乱(一九五六年)の折に亡命して以来、スイスで暮しているようです。この「悪童日記」は彼女の処女小説です。フランス語で書かれ、一九八六年パリのスイユ社から世に送り出されました。その後、日本で翻訳出版されたのは一九九一年となっています。原題は「大きな帳面」となっているように、双子の少年が記した六二章の日記形式になっているフィクション小説です。

 主人公の双子の少年は「大きな町=ハンガリーのブタペスト?」から、母親に連れられて、「小さな町=オーストリアとの国境にごく近いハンガリーの農村。母方の祖母の農家」へやってくることから、この物語は始まります。父親は戦場にいる。つまり「疎開」ですね。母親は「大きな町」に一人で帰ります。この母娘は十年も会うことがなかった。少年たちと祖母とは初めて出会い、共に暮すことになったのです。
 祖母は近隣から「魔女」とも「夫殺し」とも噂され、入浴も洗濯もせず、ケチな生活をしている農婦です。母親の愛に守られ、清潔な生活をしていた少年たちの過酷な生活が始まるのでした。

 しかし少年たちは、この過酷ともいえる生活のなかで、逞しく、賢く、自立してゆくのです。まず文字の勉強は、「大きな町」から携えてきた父親の大辞典と、祖母の家の屋根裏部屋にあった聖書をお互いに熟読します。からだを鍛え、農作業を覚え、お金を稼ぐ方法を覚え、どのような過酷な状況にも生き抜ける心身を自力で育てるのでした。それは大人ですらできないであろうと思われる過酷さです。これはちょっと表現しがたいものがあります。人間の死すらも冷静に見つめ、迎えに来た母をその場で亡くし、祖母の死への願いを冷静に実行し、捕虜収容所から逃げてきた父親の国境を越える逃亡計画にも双子の少年は手を貸しながら、父親は地雷で死ぬ。死者が出たあとでは、その直後の逃亡者は逃げ切れる。双子のどちらかが。。。

 衝撃的な小説ではあるが、読後に救いのない思いに陥らなかったのは何故だろうか?それは双子の少年の並はずれた状況把握、判断の見事さにあるのだろうか?そして彼等は双子であることによって、お互いのどちらかが生き残ることに賭けたのでしょうか?人間はここまで強靭にも残酷にもなれる。しかしそこは間違っているのではないのか?とこちらから主張できないほどの少年の強靭さを見事に描き出した小説であったと思います。この「悪童日記」には続編が二冊あるようです。少年たちのその後の生き方をいずれ読んでみたいと思います。

 (一九九一年初版・一九九二年八刷・早川書房刊)
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Jul 18, 2008

コロー 光と追憶の変奏曲

corot-2《ヴィル=ダヴレー》

corot-1《真珠の女》

 七月十六日快晴。上野、国立西洋美術館にて。
 庭には真っ白なムクゲ、清い香りのクチナシが咲いていました。

 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(一七九六年~一八七五年)は十九世紀のフランスの画家。パリの裕福な織物商人の子として生まれる。コローは、画家になることを反対していた父親の許しをようやく得て、一八二二年、二六歳の時、当時のアカデミックな風景画家アシール=エトナ・ミシャロンやジャン=ヴィクトール・ベルタンに師事する。

 コローは、森や湖の風景画家のみならず、「真珠の女」のような人物画家として優れた作品もある。一八二五年から計三度イタリアへ旅行し、イタリア絵画の明るい光と色彩にも影響を受けている。この時代は鉄道が発達して「旅行」が人々の文化を変えていった。もちろん恵まれた者たちだけだろう。コローは大変恵まれた環境に常にいられた画家だったのではないだろうか?

 展示された作品は、ルーヴル美術館所蔵のコローの代表作を中心に、初期から後期までの作品、そして折々に描いた人物画。

 コローは、「最後の古典主義者にして最初の近代主義者」と言われています。イタリアとフランスの風景画の古典的伝統のなかで絵を習得し、オランダの写実主義の巨匠たちやイギリス画家からも影響を受けました。また音楽、演劇などにも無縁ではなかった画家でした。一八六〇年以来、印象派からキュビストまで、世代をこえた画家たちがコローの作品を研究し、愛好しています。モネ、ルノワール、セザンヌ、ブラック、マティス、ピカソ、カンディンスキーなどなど。

corot-4《モルトフォンテーヌの思い出》

 まぁ。ざっと書いてみましたが、なによりもわたくしが「コロー」の絵画を観たかったということに尽きますね(^^)。たとえばコローの風景画(最低でも、前後左右で四枚。笑。)に囲まれた部屋で暮せたらどんなに幸せだろうか?と夢のようなことを思うのです。その四点を選ぶなら「ヴィル=ダブレー」「モルトフォンテーヌの思い出」「ヴィル=ダヴレー 水門のそばの釣り人」「少年と山羊」・・・・・・。何故コローの絵画に惹かれたのだろうか?それは絵画が主張をしない。そして誘うからでしょう。その「ヴィル=ダブレー」の小道に誘われて、そっと足を踏み出したいような気持になるからでしょう。

 「真珠の女」を見ていますと、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」に使われている絵の具の色によく似ているように思えました。これは確たる証拠もないのですが、絵の具の光沢感のようなものです。

 招待状を下さったお方に感謝いたします。
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Jul 16, 2008

ホテル・ルワンダ

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テリー・ジョージ:監督
(イギリス・イタリア・南アフリカ共和国合作・二〇〇四年制作)

キャスト
ドン・チードル:ポール・ルセサバギナ
ソフィー・オコネドー:タチアナ・ルセサバギナ
ニック・ノルティ:オリバー大佐
ホアキン・フェニックス:ジャック・ダグリッシュ
ジャン・レノ:テレンス社長
ファナ・モコエナ:ビジムング将軍

 この映画はアフリカ版「シンドラーのリスト」と言われている。

 映画を観たあとで、人間が生命の危機と殺戮と騒乱のなかで、自らの生き方をどのように見定め、生きてゆくのか?こうした根源的な問いかけをされた思いがいたしました。人間は幸福で穏やかな日々を生きることがなによりなことではあるが、何故か人間の真実が正しくあぶりだされるのは、こうした極限状況であることは皮肉なことだと思います。

 撮影はほとんど南アフリカで行われた。一九九四年アフリカ中部にあるルワンダで、ツチ族とフツ族の民族対立による武力衝突「ルワンダ紛争」が勃発した。フツ族過激派がツチ族やフツ族の穏健派を百二十万人以上虐殺するという状況の中、一二〇〇名以上を自分が働いていたホテルに匿ったホテル支配人の「ポール・ルセサバギナ(Paul Rusesabagina)」の実話です。

 「ポール・ルセサバギナ」は「フツ族」、その妻は「ツチ族」、このはざまでの葛藤を超えて、彼はホテルにツチ族やフツ族の難民をともに受け入れることを決断する。有名ホテルとしてのステータスを盾に人々を過激派からかばい続ける一方で、ホテルの支配人として培った人間関係を利用して彼は一二六八人の難民の命を救うことに成功する。
 ここで、非常に感動的なシーンが展開する。「ポール・ルセサバギナ」は単に難民を守ったわけではない。ホテルにある電話をすべて難民たちに開放し、難民たちに親戚、友人、知人たちにこの惨状を可能な限り伝言させたことだった。これは決して無駄な計画にはならなかった。素朴で平凡な人間たちの力の結集は世論を動かす力になりうるということを伝えていました。
 さまざまな苦難を丹念に誠実にクリアーしながら、ルセサバギナ一家とホテルの難民たちがツチ族反乱軍の前線を越えて難民キャンプにたどり着き、そこからタンザニアへと出発するところで映画は終わる。

 「フツ族」と「ツチ族」は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、白人による植民地支配のはじまりによって、これが二つの部族対立を生んだのではないか?植民地支配は終わっても、かつてのゆるやかな部族関係は再び戻ることはない。いつでも思うことだが、人間の歴史は侵略の歴史であり、そこで失われた素朴な部族意識や信仰、言語はふたたび戻ることはない。
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Jul 08, 2008

密会    ウィリアム・トレヴァー

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翻訳:中野恵津子

 ウィリアム・トレヴァーは、一九二八年、アイルランドのコーク州生まれ。プロテスタントのイングランド系アイルランド人(アングロアイリッシュ=大英帝国からの入植者の子孫)に属する。トリニティ・カレッジ・ダブリン卒業。一九五八年より五十年間、長編、中篇、短編小説、戯曲、脚本、エッセーなど、膨大な作品があります。

 これは表題「密会」を含む、十二編の短編集です。最後に置かれた「密会」の最終部分が、この本全体の一環したテーマだと思われます。
 『今日、愛はなにも壊されなかった。彼らは愛を抱きつつ、離れてゆき、お互いから立ち去った。未来は、今二人が思っているほど暗いものではないことに気づかずに。未来にはまだ、彼らのその寡黙な繊細さがあり、そしてまだ、しばらくのあいだ愛し合ったときの彼ら自身がいるだろう。』

 これは妻のいる男性と、夫のいる女性の束の間の地味な恋物語です。しかしここで気付かされることは、男性は妻を捨てなかったこと。しかし女性は夫と別れて、恋人との時間を優先して生きようとしたこと。しかし二人の別れはしずかに訪れるのでした。互いに憎みあうこともなく。。。

 十二編はすべてはありふれたお話で、決して輝くような明るさもないものでしたが、人間が生きて、愛して、死んでゆく人生のなかに潜む「孤独」と「愛」と「信頼」が静かに流れ、「裏切り」や「殺戮」のないかそけき世界のような一冊でした。

 「密会」をエピローグだとすれば、冒頭に置かれた一編「死者とともに」は、この短編集のプロローグかもしれません。
 愛情の薄い(あるいは夫の打算か?)二十三年間の夫婦生活ののちに、夫は死んだ。その深夜に、妻エミリーのもとに、慈善活動の「マリア団」の団員である中年の独身のゲラティー姉妹が訪問する。彼女たちの奉仕活動は、死にゆくひとの最期に付き添うことであったのだが、それには間にあわず、妻エミリーの告白を聞くことになる。
 三人の女性の会話が深夜に繰り広げられることになる。初めて出会う姉妹に、夫の抑圧から解放されたようなエミリーの無防備な告白はこわいものがありました。それは明け方近くまで続き、エミリーとゲラティー姉妹の間に言葉の橋はかかり、救いはあったのだろうか?
 二人を送り出し、そのまま眠らずに葬儀屋を待つエミリーは気付く。亡霊のように深夜にあらわれた、あのゲラティー姉妹はエミリー自身ではなかったのか?と。。。

  *   *   *

人と人とが巡りあい、共に生きることは、苦しみを伴う幸福であるかもしれません。しかし、このことに真剣に向きあって生きてみなければ、結局なにも掴むことはできないでしょう。愛するということは、すべてを受け入れることからはじまるのではないだろうか。

 (二〇〇八年・新潮社刊)
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Jul 01, 2008

歩荷

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歩荷くる山を引き摺るやうに来る     加藤峰子

本日富士山のお山開き。夏山登山がシーズンを迎える。歩荷(ぼっか)とは、ヒマラヤ登山のシェルパ族や、新田次郎の小説『強力(ごうりき)伝』で登場する荷物を背負って山を越えたり、山小屋へ物資を届けたりする職業である。現在ではヘリコプターが資材運搬の主流となり、歩荷は山岳部の学生や登山家がトレーニングを兼ねて行っているというが、以前は過酷な労働の最たるものだった。実在のモデルが存在する『強力伝』で、富士山の強力小宮正作が白馬岳山頂に運んだ方位盤は50貫目(187.5kg)とあり、馬でさえ荷を運ぶときの上限は30貫目(112.5kg)だったことを思うと、超人と呼べる肉体が必要な職業だろう。立山連峰で歩荷の経験のある舅に当時の思い出を聞くと、ぽつりと「一回に一升の弁当がなくなる」と言った。歩荷の経験が無口にさせたのか、無口でなければ歩荷は勤まらないのか定かではないが、口が重いこともこの職業に共通した大きな特徴であるように思われる。食べては歩く、これをひたすらに繰り返し、這うように進む。眼下に広がるすばらしい景色や、澄んだ空気とはまったく関係なく、道が続けば歩き、終われば目的地なのだ。掲句では上五の「くる」で職業人としての歩荷を描写し、さらに下五で繰り返す「来る」でその存在は徐々に大きくなって迫り、容易に声を掛けることさえためらわれる様子が感じられる。歩荷は山そのもの、まるで山に存在する動くこぶのような現象となって、作者の目の前をずっしりと通り過ぎて行ったのだろう。『ジェンダー論』(2008)所収。(土肥あき子)


これは七月一日の「増殖する俳句歳時記」のコピーをいただきました。このあき子さんの解説から思い出すことがあまりにもたくさんありました。それはすべてお聞きしたり、読んだりしたものですがちょっとメモを書いてみます。


★まず思い出したことは【駄】 です。
(1)荷物を運ぶ馬。
(2)馬または牛一頭に背負わせるだけの分量。助数詞的に用いる。

「千駄木」「千駄ヶ谷」などという地名はおそらくここからきていると教えて下さったのは先輩詩人でした。そしてそのような地名だったところは、かつては雨乞いのために火が焚かれた場所であろうということでした。


★「一回に一升の弁当がなくなる」で思い出したこと。
遠縁の漁師のおじさんのお話。漁に出る日にはお風呂の木製の桶(浴槽ではなく。笑。)に似た大きなお弁当にご飯を入れて持っていくそうです。それからお醤油。釣り上げた魚を船上でお刺身にして、食事するそうです。


★「強力」「歩荷」で思い出したこと。これが一番素敵なお話。
一九八九年元旦の朝日新聞には、ミヒャエル・エンデの「モモからのメッセージ」が掲載されました。今でも大事に持っています。そこに書かれていたお話です。

中米奥地の発掘調査チームの報告よりミヒャエル・エンデが特記した部分。調査チームは必要な機器などの荷物一式を携行するためにインディアンのグループを雇いました。調査作業の全工程には完璧な日程表ができていました。初日から四日間は、そのプログラムの予想以上にはかどりました。
ところが五日目になって、インディアンたちは、全員が輪になって地べたに座り込んでしまって動かない。調査団が叱っても、脅しても、賃金アップを提案しても動かない。しかし彼等は二日後には黙って立ち上がり、荷物を担ぎ、予定の道を前進しはじめる。その理由はなんだったのか?彼等の応えはこうでした。

「はじめの歩みが速すぎたのでね。」
「わたしらの魂(ゼーレ)が、あとから追いつくのを待っておらねばなりませんでした。」

人間の外的時間と内的時間の大きな差異、すでに十九年前に書かれていたことでした。
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Jun 29, 2008

フェルメール全点踏破の旅  朽木ゆり子

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 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 一六三二年~一六七五年)は、十七世紀にオランダで活躍した風俗画家。レンブラントと並んで十七世紀のオランダ美術を代表する画家。生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごしました。フェルメールが活躍した時代のオランダはスペインからの独立を果たし、経済的繁栄を極めていました。しかも中流階級層が豊かであったことがこの国の特長でしょう。
 フェルメールの四十三年の生涯のなかで残された作品は少なくて、大方三十二点~三十七点というのが定説となっています。そして弟子もいない。多作のレンブラントとは対照的です。

 朽木ゆり子はジャーナリスト。これまでにも数冊のフェルメール関係の著書を出版している実績があります。この美しいカラー画像入りの新書版は、集英社の企画として、彼女に依頼した全点踏破の旅の記録です。
 旅は二〇〇四年十二月から翌年の一月、わたくしの想像よりもはるかに短期間なものです。さらにこの期間では残念ながら三十二点で終わっています。それは絵画というものは一応定住の美術館にはあるものの、国内外の展覧会に貸し出されるという場合が多いからでしょう。すでに日本もその例外ではなく、今秋にはさらに七点の作品が観られる機会が訪れる。こうして待っていると、あるいは死ぬまでに全点観られるやもしれぬと、貧しいわたくしは夢みるのです(^^)。

 のちに朽木ゆり子は残り四点を観る機会に恵まれ、残るは「合奏」一点だけだそうですが、この一点が彼女をフェルメールに関心を持ったきっかけの絵画であるという不可思議な縁・・・・・・これは人生そのもののようです。待っているものをあきらめなければ、その願いは届くということに外ならない。きっと届くでしょう。

 フェルメールの絵画の特性は、それまでの西洋美術の特性はキリスト教が背景にあったという動かしがたい風潮から開放されたものであると言えるでしょうか?もう一点は(これは私見ではありますが。)オランダはこの時代から庶民生活が豊かであり、美術が特権階級にのみ愛好される時代から、もっと広い愛好家を得たことにより、絵画のテーマが拡がりをもてる時代を迎えていたということも言えるのではないだろうか?

 六月二十七日の朝日新聞に掲載された上記の画像はありがたい資料です。お叱りを覚悟の上でスキャンしてしまいました。赦されよ(^^)。これらの美術館を朽木ゆり子は旅したわけですね。うらやましいなぁ。
 しかしながら、オランダの画家フェルメールの作品が、オランダ以外六ヵ国に分散したのは何故だろうか?もちろん画商、コレクター、盗難、贋作など理由はさまざまにある。しかしここにも「戦争」「政治」「富の侵略」という背景があることを考えざるをえない。彼女の旅にはそうした意識も強く働いていました。

 (二〇〇六年初刷・二〇〇七年第八刷・集英社刊)
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Jun 19, 2008

芸術都市パリの100年展(続)

一枚の絵画、写真などがその時代の光と影をいつでも語りかけているものですね。
改めて歴史の正体がなんであったかを考えさせられます。

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Jun 18, 2008

芸術都市パリの100年展

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effelガブリエル・ロッペ「エッフェル塔の落雷」

 十七日は上野の東京都美術館にて「芸術都市パリの100年展」を観てきました。これは「日仏交流一五〇周年記念」という背景もあるようです。副題は「ルノワール、セザンヌ、ユトリロの生きた街(一八三〇年~一九三〇年)」となっていますが、展示された作品は絵画、彫刻、写真(新しいジャンル)、風刺画、素描、版画、などで、作品も作家たちも広範囲なものでした。

 一八五〇年代から、ナポレオン三世の命によって、パリの街並みの改造が始まりました。中世からの城塞都市パリを近代都市パリへと変えていったのです。城塞は破壊され街が拡大され、南北幹線道路の貫通や放射状の道路拡張、セーヌ川の橋の掛け替えや増設、上下水道、ガス灯の配備など、街の整備が進められた。また、複数の新しい建造物なども。そして一九〇〇年まで五回にわたって開催される万国博覧会に伴い、エッフェル塔、プティ・パレ、グラン・パレとさらに建築がつつぎました。そうしたパリの変化は、世紀をまたいでモンマルトルの丘にサクレ・クール寺院が完成する頃ひと段落しますが、現在のパリ市中心部の姿は、ほぼこの時の状態をとどめているということです。

 こうしたパリの発展を背景に、美術の世界では、ロマン主義、写実主義、印象主義、ポスト印象主義、象徴主義などが続きます。このようにしてパリが芸術の都として最も輝いた百年をメイン・テーマとして生まれた作品の紹介でした。


  *  *  *

   帰りの電車でぼんやりと考えました。エッフェル塔の基礎工事から完成までを撮った一連の記録写真の解説には「一八八七年から始まった二年二ヶ月のスピード工事は、命綱もない危険な工事だった。死者はたった一名。」とあった。死者数が少ないことを誇ってもいいのかなぁ?電車に揺られながら、ふいに、わたくしのいのちを断つということを想像してみる。初めてそういうことを考えてみた。美術館に行く前に気まぐれに入った、久しぶりの上野動物園の動物たちよ。安らかに眠っていますか?こわい夢をみていないでしょうね?
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Jun 16, 2008

金毘羅      笙野頼子

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 まず先に言っておきます。笙野頼子は大変に優れた作家でしょう。しかしどのように優れた小説であっても、わたくしはほとほと読むのに疲れました。これはデフォルメされた作家自身の自伝小説かもしれません。そこからは非常な生きにくさを生まれながらに抱いていた女の子、そして女性であるが故の生きがたさも見えてきます。

 まずは、生れ落ちた瞬間に死亡してしまった赤ん坊(それが女の子だった。)の肉体に宿り、主人公は自分の正体を知らないまま、人間の女性として生きてきてしまったというのです。もともとは「金毘羅である私」が、「金毘羅」を取り戻すまでの長い長い言葉との闘いだったように思いました。

 笙野頼子のこれまでの人生は、古い因習を引きずっている「日本神道」に対して、土俗的な、あるいは習合的な「金毘羅」を拠り所として、みずからを救い出すことだったのだろうか?作者は「金毘羅」を、天皇系の神に対する「カウンター神」と定義づけ、「神仏習合」として反権力の集合体と考える。

 しかしこうして四十数歳の女性作家「笙野頼子」はどうやら「自己肯定」まで登りつめる。しかしその先にはまだまだ尾根は続くだろう。女性故の「生きがたさ」は一体どこまで続くのだろうか?彼女のエネルギーに驚嘆するばかりだった。言葉が武器のようでした。

(二〇〇四年・集英社刊)


 *  *  *


わたしが生まれたときに
一人の男の子が死んだの。

「海をへだてて 遠くにいても
 君のいのちが消えかかるときには
 かならず僕は君のなかで息づくよ。」と言ったの。

夕方の海辺に佇むと
その時かわされた不可解な約束が
解ける日がくるような気がするのよ
これはわたしの独りごとよ。

かもめが飛んでいるわね。
公園には鳩もいて
小さな影が動いているわ。
わたしは木陰のベンチで
影をなくして海をみていた。

   (自作詩「海の駅から」より抜粋。)
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Jun 05, 2008

中国、わからない国

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 六月四日、偶然にもわたくしが毎日欠かさずにチェックさせていただいている二つのサイトでは、「中国」という共通点があって、改めてさまざまなことを考えさせられました。どうも落ち着かない気持にかられてしまいましたので、ここに整理してみます。 いや、整理されないままのメモですね。ごめんなさい。


 まずは、すでに忘れ去られようとしている中国残留孤児のお話です。「半世紀以上前、中国が助けてくれなかったらわたしたちの命はなかった。恩返しをし、日中友好の役目を果たすいい機会ではないか。」と、決して潤沢とはいえない生活事情の中から、多額の寄付を四川大地震救済に投じるというお話がありました。 もう一つは五輪開催中に入国が禁止される六種類の外国人というニュースでした。

 ○以下6種類の外国人は、五輪開催期間中の入国が禁止される。

 1. 中国政府により国外追放処分となり、再入国許可期日に達していない
 2. 入国後にテロ・暴力・転覆活動を行う恐れがある
 3. 入国後に密輸、麻薬密売、売春行為を行う恐れがある
 4. 精神病・ハンセン病・性病・開放性肺結核の伝染病に罹患している
 5. 中国滞在中の滞在費を保障できない
 6. 入国後、中国国家の安全・利益を脅かすその他活動を行う恐れがある

 「人民網日本語版」 2008年06月03日


  *  *  *

 こういう難しい問題について書くことは、わたくしの力量を超えていることは、充分に理解しています。それでもやはり書かずにいられないのは、おそらく亡父との忘れ難い思い出があるからでしょう。それは娘が生まれて一年くらい経った頃だったと思います。孫娘に会いに我が家に来た父は、朝ごはんの済んだあとで、小さな娘を膝に乗せてテレビを見ていました。その頃のテレビでは毎日のように「中国残留孤児」の捜索番組が放映されていました。テレビ画面からは必死に親に呼びかける孤児たちの声がありました。その時わたくしは初めて父の涙を見ました。そしてそれ以外では、わたくしは父の涙を生涯見たことがありませんでした。娘は幼かった。ちょうど中国から引揚げてくる頃のわたくしの幼さだったでしょう。わたくしは敗戦後の中国からの引揚者の最年少の年齢ですから、全く記憶はないのです。その頃のわたくしの同じ年頃の孫娘を膝に乗せて、父は泣いていたのでした。

 さまざまな苦労はあったにしても、幸運にもわたくしたち一家は誰一人欠けることなく(わたくしは瀕死状態ではありましたが。)帰国できました。満蒙開拓団の人々のご苦労を思うと、申し訳ないと思いました。しかし敗戦後の、まだ父不在のハルビンでは母にも、中国人から「子供を引き取ろうか?」というお話は当然ありました。いくばくかのお金を払ってのお話ですが。しかし母はきっぱりと拒否したそうです。
 たとえば幼いわたくしが中国人の子として育ったとしても、わたくしには日本人の父母や姉たちの記憶はまったくないことだったでしょう。しかし、過酷な状況のなかで人間が誤った決断をすることを誰が責められるでしょうか?

 でも、わたくしは中国人特有の親子関係の深さを知っています。大半の孤児たちは貧しいながら、養父母の深い愛情を受けて育ったのではないかと思います。そしてもう一つ大事なことは、中国では老いた両親の世話を必ず子供たちはされるのです。ですからここに残留孤児を育てた養父母の深い悲しみが生まれるのです。残留孤児たちは祖国日本に帰りたい。しかし養父母は置き去りにされたのです。山崎豊子の小説「大地の子」の主人公の若者の選択は「日本でも中国でもない。僕は大地の子です。」でした。彼は中国を捨てなかったのです。さわやかな苦渋の決断でしたね。
 そして忘れてはならないことは中国の「文化大革命」の折に起こった、残留孤児と、その子を育てた中国人養父母の過酷な仕打ちです。

 さて、もう一点です、オリンピック開催期間中に、中国が出した「外国人の入国条件」の基準のあまりの酷さです。これでは大方の外国人が当てはまることにはなるのではないだろうか?人間というもので組織されている国でありながら、国となった場合にはここまでできる。「家族」と「国家」がこれほどにかけ離れたものであったのかと呆然としてしまいました。ここがわたくしのもう一つの祖国です。

 忘れないうちにと、急いで書きましたので、間違いがあるかもしれません。お気づきの点がありましたら、どうぞご指摘をお願いいたします。
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Jun 03, 2008

小川は川へ、川は海へ   スコット・オデール  

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 翻訳:柳井薫

 一八〇一年、アメリカ合衆国大統領トマス・ジェファーソンの命令による大陸北西部探検のために、二人の陸軍大尉「メリウェザー・ルイス(二九歳)」「ウィリアム・クラーク(三三歳)」が率いる四十五人の探検隊が組織されました。「セントルイス」からロッキー山脈、その先の太平洋へ、川に沿っての七千キロの困難な旅は、ふたたび「セントルイス」に戻ることで終了できました。二人の大尉はこの旅の日誌をこまかくつけて、一八一五年に公式に「探検記」として出版され、人々に驚嘆をもって読まれました。この小説はこれらの史実をもとに書かれたものです。

   では、なぜこのような危険な探検が必要だったのでしょうか?当時のアメリカ大陸は、アメリカ合衆国、フランス、イタリア、イギリスが占領していて、合衆国にとっては安心できない状況だったわけです。未知の先住民に対する恐さも当然あったでしょう。ヨーロッパを制覇して、そこで力尽きたフランスだけは占領したルイジアナを合衆国にたった一五〇〇万ドルで手放しました。当時ではルイジアナは合衆国全土よりも広かったということです。
 つまり、その時代のアメリカ合衆国は、アメリカ大陸のあまりの広大さ故の未知の世界が恐怖だったのではないか?そこで探検隊が組織されたということではないか?ここに巨大で貪欲な国の成立の出発点があったということでしょうか?

 さてこの物語の主人公は、ショショーニ族の十代半ばの少女「サカジャウィア」です。主人公は二人の大尉ではなく、作家「スコット・オデール」は彼女の目を通した小説として書いたわけです。ショショーニ族はミネタリ族の襲撃によって「サカジャウィア」は奴隷として連れていかれます。ミネタリ族の首長の息子「レッド・ホーク」と、部族を渡り歩いているフランス人公易商「シャルボノー」との賭けによって「サカジャウィア」は「シャルボノー」の妻となり、子供を産みます。名前は「ミーコ」。

 その時、探検隊に少女は通訳兼ガイドとして参加を要請されます。彼女の産後の休養が済んですぐに彼等は旅立ちます。「サカジャウィア」はふたたび「ショショーニ」の土地へ帰れる希望をここに託したとも言えるでしょう。苦しい長い旅を少女も幼子も生き抜きました。そして「サカジャウィア」と「クラーク大尉」との純粋な恋も芽生えましたが、探検隊にいる黒人の若者の忠告「肌の色の違いは越えることはできない。」という言葉はとても重いものでした。さらに「黒人とインディアンとの違いも越えられない。」と言うのでした。旅の終わり頃に、「サカジャウィア」は子供「ミーコ」とともに、二人だけで隊をひそかに離れ、故郷に帰ります。

 アメリカという大国が成立する以前、先住民たちがまだアメリカの残酷な侵略にあう前のお話といえましょう。しかしこうした探検によってアメリカ大陸は徐々に把握されて、残酷な歴史の上についにアメリカという大国ができたのでしょう。

   (一九九七年・小峰書店刊)
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May 30, 2008

バウハウス・デッサウ展

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 (子供椅子 :マルセル・ブロイヤー   一九二三年)

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 (一世帯用住宅の模型:マルセル・ブロイヤー   一九二七年)

 二十九日、雨の上野公園は寒かった。あたたかいコーヒーを飲んでから、東京藝術大学大学美術館へ向かいました。「バウハウス」は一九一九年にドイツ、ヴァイマールに誕生した造形芸術学校。創設者はヴァルター・グロピウス。そこでは家具、絵画、舞台芸術、食器、灯り、寝具に至るまで、さまざまな分野での教育がなされていました。その教育の最終目的は建築だったようです。校舎、学生寮、教授室、食堂、ホールなど彼等の学校環境そのものも「バウハウス」の教育思想が行き届いていたように思えます。

 「バウハウス」は、ヴァイマール、デッサウ、ベルリンと拠点を変えながら活動し、一九三三年、ナチスの台頭とともに閉校を余儀なくされました。 「バウハウス」が広く一般に知られているベルリンのバウハウス・アルヒーフに対し、ヴァイマールとデッサウは東ドイツ圏内に位置していたこともあり、東西ドイツが統一されるまで、実際の建物やその内部、活動の全容が一般に紹介される機会は多くはありませんでした。今回の「バウハウス・デッサウ展」では、デッサウ(一九二五年~一九三二年)での活動を中心に当時の文化動向や社会情勢との関わりも紹介しながら、「バウハウス」というデザイン運動の誕生の起源に迫り、当時の先端技術と芸術を融合して本当の意味での機能美、造形美を目指した作品でした。その造形の最終目的は建築だったようです。

 出品総数二六〇点余りのうち二四一点はドイツ、デッサウ市にて活動するバウハウス・デッサウ財団所蔵のコレクションであり、その内の一四六点が日本初公開となりました。日本で所蔵されていたものもありました。

【展覧会構成】
第1部 バウハウスとその時代
第2部 デッサウのバウハウス
 (1)基礎教育
 (2)工房
 (3)バウハウスの写真と芸術
 (4)舞台工房
第3部 建築

  *  *  *

 帰り道、雨の上野公園で悲しそうに空を見上げていた「青いキリン」です。

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May 19, 2008

小川洋子対話集

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 対話は総計九回、対話者は総計十二名、初出雑誌もさまざまで、語りおろしも収録されています。対話者もさまざまな分野に及び、話題は広範囲なものとなっていますので、少し散漫な印象は否めませんが、しかし「小川」のごとく目に見えない細い底流がかすかに聴こえてくるような対談でした。小川洋子のフツー的(?)感受性、少女性、しかし世界を彼女なりに捉えることのできる視線・・・・・・これらは現代女性作家のなかで、むしろ特異な存在であるように思えます。対話のテーマがすべて「言葉」であることに統一されています。


 【田辺聖子】 言葉は滅びない

 八十歳を迎えられた田辺聖子は「全集」を刊行されたばかりの時期にあたる。小川洋子にとっては、まさに田辺は先達者となるのでしょう。お二人が共に少女期に夢みたことは小説のなかで成長し結実させる、この共通項があったように思います。言葉は実るもの。そして伝えるもの。その言葉への信頼が生き生きと語られていました。


 【岸本佐知子】 妄想と言葉

 岸本佐知子は英米文学の翻訳家、エッセイスト。小川洋子と同世代であることからか、会話が女子大生のように楽しくリズミカルだった。翻訳というものは、作家が書き上げたものの源泉をもう一度捜すことから始まる。そこから辿りはじめて翻訳者は作家への、美しい共鳴音になること。魅力的で困難な仕事だと、つくづく思う。単純に外国語が出来るというだけではない、作家以上の洞察力が必要なようだ。


 【李昴&藤井省三】 言葉の海

 李昴(リー・アン)は現代台湾を代表するフェミニズム作家。
 藤井省三は東大文学部教授、中国、台湾、香港の現代文学専攻。

 李昴の海、小川洋子の海、この二つで一つの海の違いが語られる。李昴の子供時代には、中国と台湾との緊張関係が厳しく、海は彼女にとっては「戒厳令」の代名詞のようなものだった。小川洋子の海は、幼児期の瀬戸内海の小さなおだやかな海だった。この「海」に象徴されるように、二人の女性作家が背負わされた時代、国家、女性の立ち位置など、すべてが異なる。これを繋いでゆくものも、やはり「言葉」でしかないように、藤井省三の力を借りながら、二人は語りあった。


 【ジャクリーヌ・ファン・マールセン】 アンネ・フランクと言葉

 ジャクリーヌ・ファン・マールセンは、隠れ家に入ってしまうまでのアンネ・フランクの少女期の友人であり、その思い出を本にまとめています。彼女によれば、それはアンネがまだ「言葉を綴る。」ことを意識する以前の少女にすぎないのです。ジャクリーヌが知っているアンネはそれだけだったのでした。成長した作家アンネには再び会うことはできなかったということです。


 【レベッカ・ブラウン&柴田元幸】 言葉を紡いで

 レベッカ・ブラウンはシアトル在住の作家。柴田元幸はアメリカ文学の翻訳家であり、小川洋子の作品の英訳を手掛けた最初の翻訳者ともなる。柴田はいわば「架け橋」の役割を担っていることになります。この翻訳者は肩の力の抜き方のうまい人ではないだろうか?レベッカ・ブラウンの人間性ではなく、紙の上に書かれた言葉を追いかける形で翻訳する。翻訳しながら作者に意味を問わない。あるいは小川洋子作品が柴田の翻訳によって、削ぎ落とされたもの、付加されたものに当人が驚くという意外性。岸本佐知子の対話と重ねて考えると、翻訳者の対照的な姿勢が見えてくるように思いました。


 【佐野元春】 言葉をさがして

 佐野元春とはミュージシャンらしい。知らない人。ごめんね。パス。


 【江夏豊】 伝説の背番号「28」と言葉

 小川洋子の小説「博士の愛した数式」に登場する実在のヒーロー(野球選手)である。背番号「28」は「完全数」なのだった、とはご本人はご存知なかった(^^)。


 【清水哲男】 数学、野球、そして言葉

 清水哲男だけは、わたくしが唯一出会い、お話をしている方という「贔屓目」で読んでしまう危険は大きいなぁ、とは思いますが、その分を冷徹に(笑)差し引いてみても、やはり清水哲男の対話には、おだやかな流れがみえます。まさに「清水」と「小川」の言葉の自然体の合流でした。共通の話題はもちろん野球でしたが、「数学者は詩人である。」ということがよく理解できます。


 【五木寛之】 生きる言葉

 現代の自殺者の急増、それが数値で表されたところで、その実体は見えない。さらに無差別の殺人、子供や老人への虐待などなど、豊かに見える社会ではありながら「いのち」がこれほどに軽い時代は、かつてなかっただろうと思う。五木寛之はこれに心を痛めつつ、自らの「老い」がその実情を嘆いているのか?と自問する。しかしそうではない。あらためて「いのち」の重さを考え直す時なのですね。
 「生」と「死」との境界線は、簡単に越えられないものであるという根本的なことが忘れられているのではないだろうか?まずは生きてゆくための言葉が必要なのでしょう。陳腐だと思われる「人間」「愛」「友情」・・・・・・それらの言葉を、もう一度雪ぎ直すこと、こんな対話だったように思います。

 (二〇〇七年・幻冬社刊)
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May 17, 2008

ウルビーノのヴィーナス

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 十五日は快晴。二日続きの雨と冬に戻ったかのような寒さからやっと開放された日の午後、上野の国立西洋美術館に行きました。

 この展覧会では、古代、ルネサンス、そしてバロック初期に至るまでの、ヴィーナスを主題とした絵画と彫刻、調度品などが集められていました。ヴィーナスの神話が古代で一旦途切れて、ふたたびルネサンスの時代に蘇り、ほかの神々とともに美術のモティーフとして復活します。古典文学の復興と相まって、彼女は多くの美術作品や本の挿絵などに登場するようになりました。フィレンツェでは哲学的な議論を背景として、ヴィーナスは慎み深く表現されましたが、ヴェネツィアでは官能的なヴィーナスが表現されています。その代表的な作品が、ヴェネツィア派を代表する画家ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》ということなのでしょう。

 愛と美の女神であるヴィーナスは、もとは古代の女神。多くの神話におけるヒロインです。神話の一場面として、あるいは単独で表わされることもありました。そして彼女の傍らには、しばしば息子のキューピッドも登場しています。

 このヴィーナスは、絵画や彫刻の世界だけで表現されたわけではありません。婚礼の際に花嫁が持ってゆく「長持」「キャビネット」「タペストリー」「小箱」「食器」「水差し」などの調度品にも描かれていましたし、女性の装飾品のモチーフにも使われていました。この場合のヴィーナスには、「花嫁の幸福」や「子供が無事にさずかりますように。」という願いが込められていたということです。でもヴィーナスは「パリスの審判」に見られるように、決して貞淑な女神ではなかったのですけれど(^^)。。。あああ・・・・・・美しいものはひとの運命さえ変える。花嫁は美しい子供に恵まれ、幸福な母になれたのでしょうか?
 わかりませぬ(^^)。

 【付記】

 某所で、ある詩人が書いていらっしゃった言葉がとても心に残りましたので、ここに記しておきます。この言葉は「ヴィーナス」にも通じるものではないでしょうか?(……と勝手な解釈。笑。)

『イエス・キリストは表現を通じてこの世に復活する。』
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May 12, 2008

加賀乙彦の講演を聴く。

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 加賀乙彦は一九二九年四月生まれ、現在七九歳。小説家で精神科医。
 一九四五年九月、東京府立第六中学校に復学。一九四五年十一月、旧制都立高等学校理科に編入学。一九四九年三月、旧制都立高等学校理科卒業。同年四月、東京大学医学部入学。一九五三年三月、東京大学医学部卒業。

 東京拘置所医務部技官を経た後に、フルブライト奨学金を獲得してフランス留学を果たす。パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、一九六〇年帰国。同年医学博士号取得。東京大学附属病院精神科助手、東京医科歯科大学助教授、一九六九年から上智大学教授。一九七九年から文筆に専念。一九八七年のクリスマス(五八歳)に遠藤周作の影響でカトリックの洗礼を受ける。

 講演のテーマは(仮題)という括弧付きで「ハンセン病文学」についての講演でした。「文学」を括ることはとても困難なことです。「癩」という永い歴史を考える時に、どこを切り取って語ればいいのか?加賀乙彦氏は、見えない豊かな知識の引き出しを胸のなかに抱いて、聴衆の前に現れました。時と場を読む。それからゆっくりと引き出しを開けて、語り出したという風であったような気がします。

 これらの文学の歴史的資産、あるいは資料は放置されれば散逸する。国家機関に預ければ、都合の悪いものが隠滅させられる危機があります。これらを「癩」の歴史の証言として、すべてを残すことに努力していらっしゃる方々の組織が主催した講演でした。しかし加賀氏はこのようにもおっしゃいました。「現実に療養所内に保存された図書資料も過去百年足らずのもの。しかし癩は聖書の時代からあるもの。」と。。。

 さらに加賀氏は日本の古い文献については、詳しくおっしゃることはしませんでしたが、おそらく最初の日本人の記述は「日本書紀」に「白癩」と記されたもの。「今昔物語集」にも奈良時代の僧が「白癩」にかかった話があります。要約すれば以上にようなことではないでしょうか?

 ここで加賀氏の講演の出だしについて書いてみます。それは日本という風土と人間性の問題です。それは「ぼんやり」という言葉で表現されました。「ハンセン病」に限らず、たとえば「死刑」「戦争」など、人々が国家の危機とすら思わなければならないこと、あるいは急いで止めなければならないことを、日本人は「ぼんやり」としか受け止めることができないことへの不安でしょう。いつでも認識が外国に遅れるということです。そこで、わたくしは数年来嫌ってきた言葉の意味をようやく理解しました。それはかつて友人から教わった言葉です。


  敵を恐れるな─彼等は君を殺すのが関の山だ。
  友を恐れるな─彼等は君を裏切るのが関の山だ。
  無関心な人びとを恐れよ─彼等の沈黙の同意があればこそ
   地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。


  (ヤセンスキー著「無関心な人びとの共謀」巻頭文より)

 最後の加賀氏の希望としては、北條民雄を超えることのできる作家を待っているということでした。北條民雄の「いのちの初夜」の時代から、引き継いで次の歴史を書く優れた作家が現われなければならないということではないでしょうか?

 *五月十一日・多磨全生園福祉会館にて。
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May 03, 2008

極私的にコアの花たち  鈴木志郎康

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二日夜、新宿パークタワー3Fの映像ホールにて、「イメージフォーラム・フェスティバル2008」のDプログラムの、鈴木志郎康さんの五十分の映画「極私的にコアの花たち」を観ました。ドキュメンタリー映画と名付ければいいのか?いや、違うかな?これは志郎康さんの詩の映像化かもしれません。(←志郎康ファンとしての極私的解釈。笑。)鈴木志郎康さんは詩人であり、映像作家でもある方です。

二〇〇六年の一年間、ご自宅の中庭にある花たちの芽吹き、開花、落花、枯死を、カメラで追い続けた作品でした。この年の春には志郎康さんは多摩美術大学を退職されています。またお体を悪くされて、加圧リハビリ、骨格矯正と交流磁気シャワーの治療に今でも繰り返し通われているというお体で、制作された映画です。

ナレーションも志郎康さん。BGMは少々。ラジオやテレビの音声が挿入されたり、大掛かりなものはなにもない。一番効果的だったのは志郎康さんの呼吸音でした。

決して広大ではない庭で、花がない時には花を買ってきたり、送られてきた花が写されたり、花が志郎康さんの一年を写しているようでした。この花は全部「灰皿町南波止場1 ・鈴木志郎康のblosxom Weblog」に掲載された画像です。このブログが毎日更新されていることにも、実はずっと驚かされてきました。

この志郎康さんの「極私的にコアの花たち」の前に、短い映像作品が三つ放映され、全部放映された後で、それぞれの製作者の挨拶と制作動機、主張あるいは意図するものが語られました。最後の志郎康さんの挨拶は、これまた魅力的(^^)。

「僕は空っぽなんだね。」・・・・・・。 わたくしがこの境地に至るのはいつのことやら。。。



【おまけのおはなし】

この映画鑑賞のあとで、志郎康さんを中心に約十人のお仲間とお話する席に参加しました。そこでお目にかかったことはあっても、多分ほとんど会話を交わしたこともなかった詩人で映像作家のF氏のお話にはびっくり。。わたくしの詩集「空白期」を、ワークショップに使って下さったとのことでした。素直に嬉しいです(^^)。

詩人の講座のテキストにわたくしの詩作品を使われる方は、以前にも何人かはいらっしゃいましたが、このようなお話をお聞きする度に、わたくしの詩が、ささやかながらどのような役目をになっているのか?ということを知らされる思いがいたします。(本当にささやかながら。←ここを強調。笑。)
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Apr 28, 2008

没後50年 モーリス・ド・ヴラマンク展

Vla-mizu(川の辺り・一九一二年)

Vla-rose(花・クリスマスのバラ・一九三一年)

 二十三日午後、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館にて、「ヴラマンク展」を観てきました。「 モーリス・ド・ヴラマンク(一八七六年~一九五八年)」の画家の道に入るまでの経歴はちょっと変わっています。パリで音楽教師の子として生まれましたが、十六歳の時には家を出てシャトゥーに行きます。十八歳の時に結婚し、自転車選手をしたり、オーケストラでバイオリンを弾いて生計を立てていました。独学で絵を学び、一九〇〇年、シャトゥー出身の画家、アンドレ・ドランと偶然知り合って意気投合し、共同でアトリエを構え、画家として本格的な活動を開始しました。

 ゴッホなどの影響から、鮮やかな色彩と骨太な筆致を学び、マティスやドランなどと共に「フォーヴィズム」の中心人物として評価されました。第一次世界大戦後は「フォーヴィスム」から離れて、ポール・セザンヌの影響を受けて、構図に変化がおこり、沈んだ色合いの作品に変わり、画家を志してから約二十年後には、独自の画風を確立しています。しかし決して抽象画へ移ることのない画家だったようです。

 風景画がほとんどで、次には静物画、人物像は自画像一枚だけでした。(これは今回の展覧会にあったものだけの印象ですので、「ヴラマンク」の全作品についてはわかりかねます。)繰り返し、よく似た構図の村の風景があったり、それには季節があって、その上の空の描写には深い思いいれがあるようでした。それは雲と光の作り出す、片時も静止することのない流れる風景です。人間が日々空に囲まれて生きていることを、改めて思うのでした。

 空に対して、地上には水がありますね。そこには逆さまの風景が映る。そして揺れる。日常の親しい風景、揺れる、あるいは流れる感覚が絵画になったようでした。
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Apr 24, 2008

つぐない

tugunai

監督:ジョー・ライト

原作:イアン・マキューアン著 『贖罪』

キャスト:
ブライオニー:シーアシャ・ローハン・・・ロモーラ・ガライ・・・ヴァネッサ・レッドグレイヴ
セシーリア:キーラ・ナイトレイ
ロビー:ジェームズ・マカヴォイ


 まずは、フィリップ・クローデルの小説「灰色の魂」から引用したい言葉があります。

 『人はひとつの国に暮せるように、悔恨のなかで生きられるものだということだ。』

 この映画の舞台は第二次世界大戦前のイングランド。ある政府官僚一家には、大学を卒業したばかりの美しい長女「セシーリア」と、作家を夢みる十三歳の次女「ブライオニー」の二人の娘がいる。二人は共に、使用人の息子で幼なじみの「ロビー」に恋していたが、彼はまだ幼い「ブライオニー」の気持には気付かずに、「セシーリア」との恋におちる。

 そんな折に、屋敷内で「強姦事件」が起きる。被害者は屋敷に同居していた親戚の娘。その強姦犯人が「ロビー」だと「ブライオニー」が偽証する。十三歳の少女の嫉妬がここまでの大きな罪を犯してしまう。。。しかしここでちょっと疑問なのは、この十三歳の少女の証言だけで、彼が刑務所に入ることだ。政府官僚の娘の証言がそこまでの力を持っていた時代だったのだろうか?しかしこの「偽証」が「つぐない」というドラマの出発点の役割は果たしているのだ。なんとも居心地が悪いなぁ。。。

 そして時代は急速に第二次世界大戦に突入してゆく。刑務所よりも戦場を希望した「ロビー」は、当然困難な兵役につくことになるが、「セシーリア」に束の間逢える時間はわずかに持てた。ここで思いがけなく、古いロシア映画(一九五九年作)「誓いの休暇」を思い出す。

 成長して看護婦になった「ブライオニー」は二人の前で謝罪をするが、彼は汚名が晴れないままに戦病死。姉も戦禍で死亡する。二人に赦されないままに「ブライオニー」の罪は生涯のものとなる。生き残った彼女は作家となるが、いのちの汀で絶筆とも処女作とも言える小説のなかで、すべてを告白する。「墓場まで持っていく秘密」とはしないことがキリスト教的な考え方なのか?その老作家を演じたのが「ヴァネッサ・レッドグレイヴ」・・・素敵な老女優(^^)。。。

 ざっと、あらすじはこのようなものですが、映画を観終わってから、しばし考えました。この映画のメイン・テーマはなんだったのか?戦争が「ブライオニー」の「つぐない」を阻んだ?「戦争」という人類最大最悪の罪と、十三歳の少女の犯した罪とが、秤にかけられるものではない。これが小説だとすると、「戦争」は時代背景にすぎないのか?この戦争が一人の少女をどのように成長させていったのか?ということが中心ではなく、戦争と少女の偽証とが、恋人たちの運命を翻弄し、そして殺した、ということだろうか?

 原作がどこまで書きこんでいるのかは未読なのでわかりかねる。「ブライオニー」の生涯がこの映画だけでは見えにくいようだ。多くの小説や映画の背景には「戦争」がある。言い換えればそれほどに人間の歴史は戦争の歴史かもしれないのだ。その歴史のなかに、もみくしゃにされ、ひきちぎられた一通の手紙のように十三歳の少女の罪が暗い風のように時間を覆っていたようだった。

 第八十回アカデミー賞作曲賞受賞作品
 本年度アカデミー賞の作品賞候補作

【追記】

 ある先輩女性詩人の言葉も思い出しました。「あなたは悪意の言葉に傷つけられた。その原因がわからないと?一番わかりやすい原因はあります。それは大方は嫉妬です。」その時は驚きましたが、やがて納得しました。なんだか思い出すものの方が多かったようですね。
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Apr 13, 2008

イタリアの詩人たち    須賀敦子

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 この本は、須賀敦子が選んだ、十九世紀から二十世紀を生きた五人の詩人についてのエッセーであり、それぞれの代表的な作品の紹介ともなっています。彼女の細やかな、そして真摯な眼差しが感じられる心地よい文章です。しかしながら読み手のわたくしはそこに紹介されている詩の原文にあたることはできない。「完璧な韻律」と言われても、わたくしは須賀敦子によって日本語に翻訳された詩を読むしか手立てがない。これがもどかしい。


 ウンベルト・サバ(一八八三年~一九五七年)

 「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら・・・・・・なにげなく選んだ道を、サバと歩くことができたなら・・・・・・」と、一九五八年(サバの亡くなった翌年。)に言ったのはジャコモ・デベネデッティだが、その同じ思いを抱いて須賀敦子は「サバ」について書きはじめる。この思いが彼女のエッセー「トリエステの坂道」にも繋がっているのだろう。
 「サバ」はヘブライ語で「パン」を意味する。母親はユダヤ人だったが、彼女は「サバ」誕生の前に、「美しくて軽薄な」白人の夫に捨てられ、幼い「サバ」はこの町のゲットーで育つ。父親のイタリア名はすすんで捨てて、「サバ」というペンネームとする。
 彼の詩作の源泉は「トリエステ」と妻の「リーナ」、時代に遅れた詩人と見られる傾向もあり、ユダヤ人であることの孤独などから、孤高の詩人でもあったが、須賀敦子は彼の貧しさのなかで育った誠実なやさしさ、韻律の美しさに注目した。


 ジョゼッペ・ウンガレッティ(一八八八年~一九七〇年)

 「ウンガレッティ」はエジプトのアレキサンドリア生まれ。両親はルッカ(トスカーナ)出身。二歳で両親を亡くし、二十四歳でアレキサンドリアからパリに出る。「アフリカ人」の彼が、フランス文化とイタリア文化の坩堝に巻き込まれることになる。「ウンガレッティ」の詩作は彷徨し、姿勢が整わないままに、ヨーロッパは第一次大戦の舞台と変わる。この「死の時代」のなかで皮肉にも彼の詩は生命に肉迫するものとなる。そうして新しいイタリア詩の誕生を迎える。季節をめぐるように「ウンガレッティ」の詩作は充足の秋へと向かう頃に兄を失い、九歳の息子を失う。「死は生きることで贖われる。」と、二十八歳の「ウンガレッティ」は戦場でうたったが、秋の終わりには「挽歌」とともに、詩人の冬の季節が来てしまった。


 エウジェニオ・モンターレ(一八九六年~一九八一年)

 オペラ歌手を目差したこともあった彼は、彼の詩の重要な特徴となった音楽的ともいえる韻律として詩のなかに活かされている。さらにフランス語、スペイン語、英語 などを独学で学び、外国文学を原語で親しんでいる。音楽評論、外国の詩のイタリア語訳など、彼の活動の範囲は広く、それが詩人「モンターレ」の豊かな土壌ともなっている。
 一九三八年に、ファシスト政党党員になることを拒否。翌一九三九年に出版された第二詩集「機会」は、前線に送られた若きインテリ兵士の限られた荷物のなかには、しばしばこの詩集があったという伝説をもつ詩集となっています。

 彼は「サルヴァトーレ・クワジーモド」とともに「ノーベル文学賞」受賞者でもあるが、「サルヴァトーレ・クワジーモド」の受賞は否定論者が多かったのに対して、「モンターレ」の受賞は否定論者はなく賞賛されている。
 また、人生の大半を精神病院で過ごした「ディーノ・カンパーナ」の死後の評価はさまざまに拡散するばかりであったが、その彼に確固たる評価を与えたのも「モンターレ」だった。


 ディーノ・カンパーナ(一八八五年~一九三二年)

 「ディーノ・カンパーナ」は精神分裂病者で、生涯の大半を放浪と病院で過ごしていることによって、彼の二十世紀詩人としての存在そのものが特異なものとなっています。この難しい詩人に向き合い、須賀敦子は粘り強く彼の作品と生涯を書いていらっしゃいました。「ディーノ・カンパーナ」がこの地上に残した詩集は「オルフェウスの歌」(自費出版である。)一冊だけであったが、彼の残したものの特異ともいえる大きな存在感は、のちのち文学評論家を迷わせるものとなる。
 死後「オルフェウスの歌」は再評価され、復刻されます。さらに「初稿」「未完詩集」、「評伝」「注釈」など、続々と出版されます。須賀敦子は最後にこのように記しています。

 『彼は狂気に守られて、純粋詩の世界だけを追求することができた、数少ない幸福な詩人であったとさえいえるのではないか。その意味からも、彼は、やはり《見者》の群に属する、光彩を放つ存在だったと、私は考えたい。そして《見者》はいつも不幸である。』


 サルヴァトーレ・クワジーモド(一九〇一年~一九六八年)

 さて。須賀敦子も苦しみつつ書いているようで、この詩人の評価は難しい。「ノーベル文学賞」受賞者ではあるが、この受賞そのものが不評であったという詩人です。
 シチリア島のラグーサという小さな町で、駅長の子として生まれる。文学仲間に出会うのはパレルモの中学時代。その出発点からスムーズに一九三〇年詩壇に登場してゆくことになる。幸運ともいえる道筋だったように思えます。しかし須賀敦子の「クワジーモド」への言及には厳しい言葉が並ぶ。何故か?

 「クワジーモド」は詩壇で、それ相当の評価をほぼ持続的に維持していたが、いつでも「疑惑」がついてまわった。それは彼の作品の言葉の美しさとは裏腹に見えてくる、ものごとの本質性に対する徹底した無関心による非情さだった。
 彼にも戦争は無縁ではなかった。しかし戦前の若い時代のみ、彼の詩は熱く息づいていたが、戦後の「クワジーモド」は「水子の儚さにも似た世界にしかもとめられない。」ような「夢の職人」だったという厳しい言及となっていました。


 *   *   *   *   *

 以上五人のイタリア詩人について読んできましたが、読了後に驚かされたのは、このタイプの異なる詩人たちの生涯についてよりも、須賀敦子が詩人をみつめる時のやさしさと同時にある「厳しさ」の方でした。それは「権威」に阿ることのない視線の確かさだったように思います。

(一九九八年・青土社刊)
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Apr 11, 2008

ゆずり葉 

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 人間の三歳までの記憶は確かなものではないだろう。祖父母や父母が長い時間をかけて語り続けた物語のなかで、わたくしの三歳までの記憶は確かな形として支えられてきたのではないだろうか。それほどに大人たちが語り続けたことの意味が、今のわたくしにははっきりとわかる。三歳になってから、やっと歩き出したわたくしが一家にとっての戦後の復興の具体的な形であったということだ。歩きはじめた小さないのちは、きっと家族の希望の形をしていたはずだ。この思いに何度も帰りながら、わたくしはとにかくここまで生きてきたようだ。

 三月十一日、息子のところに第一子が産まれた。男児である。十二日に娘と共に病院に会いに行く。初対面を果たして、娘と息子と三人でイタリア・レストランにて、早々の、即席のワイン付きの祝宴となった。このメンバーで話す機会もおそらく長い間なかったことだ。

 息子は父に、娘は伯母になったわけだ。その娘の話を聞きながら胸があつくなった。娘曰く「大人になってから、双方のおじいちゃん、おばあちゃん、それからおばちゃん(わたくしの姉。五六歳で亡くなった。)と、わたしを可愛がってくれた人たちを失うばっかりだった。人間はみんなこうしていなくなってしまうのだと思っていたの。でも甥っ子と対面して、やっとその思いから開放された。このようにあたらしいいのちの誕生があるのね。」と。。。

ちちははを送りしのちの春の児よ    昭子

この「河井酔茗」の詩は、娘の小学校の国語の教科書に載っていたものです。覚えているだろうか?


ゆずり葉   河井酔茗

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずってー

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー。

世のお父さん,お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの,よいもの,美しいものを,
一生懸命に造っています。

今,お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい,花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。


子供たちにゆずられるもののなかに、武器や爆弾がないことを祈ります。
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Apr 05, 2008

モディリアーニ&ガレ

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  (若い娘・モディリアーニ・1917年頃)        (ランプ「ひとよ茸」・ガレ)

 四月のあたたかな午後に「国立新美術館」で「モディリアーニ展」を、さらに徒歩五分ほどで行ける「サントリー美術館」で「ガレとジャポニズム」を観てきました。至近距離とはいえ、「梯子」は「基軸を変える。」という精神的な作業がありますので、やはりちょっぴり疲れました。どちらを先に観るか?も問題点・・・・・・わたくしは迷わず「モディリアーニ」を主張、これに決まりました。すみませぬ。

 「モディリアーニ展」を観て、画集や絵葉書や小物などを購入。美術館を出てから最初の言葉は「よかったね。」でした。何故よかったのか?シンプルで地味な服装の女性が美しく描かれている。アンバランス、細長い顔立ちでありながら、そこからこちらに流れ込んでくるものは「しずかなやさしさ」「やすらぎ」のようなもの。また同行者の言葉をお借りすれば「画家もモデルも主張しない静かさ。」だろうと思います。あるいは寂しさ、哀しさ、すべてが静かにそこに在る。一人の女性として。画家はそこに主張を流し込まない。モデルから静かに溢れてくるものを受け止めて描いているようでした。

 さらのその時代は、画家は「サロン」から「画商」によって育てられ、方向性を示される時を迎えていました。生活のため、あるいは健康上の理由から、モディリアーニは彫刻を断念、油絵に移行、またその絵画の歴史には何度かの影響の変化、絵画の変化もみられます。下記のような「モディリアーニ」の絵画の変遷の結果に生まれた作品が、どなたでも思い浮かべるあのやさしい女性像ではないでしょうか?

一章・プリミティヴィスムの発見:パリ到着、アレクサンドルとの出会い
二章・実験的段階への移行:カリアティッドの人物像ー前衛画家への道
三章・過渡期の時代:カリアティッドからの変遷ー不特定の人物像から実際の人物の肖像画へ
四章・仮面からトーテム風の肖像画へ:プリミティヴな人物像と古典的肖像画との統合


 「エミール・ガレ」ですか?上のきのこのランプを将来において、買い取るつもりです。ゆめゆめ忘るることなし。忘るることなかれ(^^)。彼の日本美術への傾斜は想像を超えていました。生物学者でもあった「ガレ」の生き物、植物への視線は細密でもありました。下絵から立体へ移す創作作業の見事さに沈黙。。。
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Mar 29, 2008

ベルト・モリゾ    坂上桂子

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 サブ・タイトルは「ある女性画家の生きた近代」となっています。ベルト・モリゾが日本に本格的に紹介されたのは意外にも最近のことでした。二〇〇四年一月東京都美術館で開催された「マルモッタン美術館展」であり、モネとベルトを中心としたもので、ベルトの作品は四〇点展示され、その後京都、仙台、名古屋を巡回しています。

 この展覧会のカタログの監修にあたったのが、この本の著者であり、日本で初めて書かれた「ベルト・モリゾ論」となったわけです。坂上桂子がこの執筆にあたり、最大限の資料に触れ、研究された足跡がまとめられたものです。多くの関係者や研究者の協力があったことも明かされています。

 ベルト・モリゾは一八四一年生まれ。ルノワールと同じ年に生まれています。三人姉妹の三女として、裕福な家庭に育つ。この時代のこの階級の娘たちの「花嫁修業」の一環として、「美術」もあったということで、特別な出会いではない。母親は娘たちのさまざまな修業のためには、よき師を捜す。そのモリゾ家の次女エドマと三女ベルトが、「絵画」に強く惹かれ、才能を開花させたが、この時代に女性が「画家」となることはとても困難なことで、美術学校にすら入学できない。個人的に画家に指導を受け、ルーブル美術館で「模写」による勉強などに専念した。

 エドマは結婚とともに「絵画」をあきらめるが、ベルトはあきらめずに絵を描き続け、当時「印象派」といわれたグループに入る。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めたこともあります。マネとの恋仲を噂されることもあったが(これに関してはこの本では触れていないが。。。)、一八七四年に彼の弟ウジェーヌ・マネと結婚、一八七九年に娘ジュリーを出産。ウジェーヌは一八九二年に亡くなるまで、ベルトのよき理解者であった。ベルトは画家としても、女性としても幸福な人生であったのではないかと思える。それは画風にも表われて、「メアリー・カサット」とは対照的な位置に立った画家とも言えるかもしれない。まだ男性中心の十九世紀における女性画家ということもあって、フェミニズム研究の対象とも言えるだろう。

 モリゾの画家としての視線はさまざまであり、まず結婚とともに「絵画」をあきらめた姉と子供。夫と娘。家で働く女性たち。舞踏会や観劇などで、男性の注目にさらされた女性ではなく、出掛ける前の女性の支度の様子などなど、女性の目でしか見えない女性(夫以外は。)を描いた作品が多い。上に挙げた「自画像」は一八八五年、四十四歳のベルトだが、華やかさを極端なほどに排除し、意志の強さが表出された作品となっている。これがベルトの女性画家としての姿勢であろうと思われます。風景画ももちろん描いていますが、長くなりますのでここでは省きます(^^)。

 モリゾは一八九五年、娘の看病によって、五十四歳の若さで亡くなっています。モリゾの死後、マラルメ、ドガ、ルノワールは、十六歳で孤児となったジュリーの後見人となる。ジュリーは同じく「印象派」の画家アンリ・ルアールの息子エルネストと結婚している。最後まで読んで、わたくしが思うことは「女性画家としての創作の苦しみは終生続いたとしても、母子共に、とても人々から愛された人生だった。」ということ。これはとても大切なことだと思えます。

 しかしながら、これは「坂上桂子」による「ベルト・モリゾ」像であることに注意深くありたいとも思いました。

 (二〇〇六年・小学館刊)
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Mar 06, 2008

ルノワール+ルノワール展

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 渋谷のBunkamura・ザ・ミュージアムにて、「ルノワール+ルノワール展」を観てまいりました。だんだん春めいてゆく季節に、この展覧会は楽しみに待っていました。素朴で愛らしく、ふくよか、ひかりを纏ったようなうつくしい肌の女性たちと子供たち、そしておだやかな風景・・・・・・ルノワールの絵の前に立つと、女性に生まれたことを祝福したいような気持になります。うつくしい女性画、風景画なら他にもたくさんあるのを知らないわけではありませんが。。。

 今回は、印象派を代表する画家の一人、ピエール=オーギュスト・ルノワールと、彼の次男であり、映画監督のジャン・ルノワールとの「ルノワール+ルノワール展」というわけで、父の絵画と息子の映画を同時に紹介するものでした。二〇〇五年パリで開催されたもので、オルセー美術館の総合監修とのことです。

 画家ルノワールは、家族の肖像を好んで描き、妻アリーヌ・シャリゴ、後に俳優となる長男ピエール、次男で映画監督となるジャン、三男の陶芸家となるクロードの姿が何度も登場します。「家族の肖像」「モデル」「自然」「娯楽と社会生活」と四つにわけて、二人の作品を同じテーマで絵画と映画を対比させることで、親子間の根底に流れる共通性を明かしています。ジャンが残した映画には、父が愛したひかりや色彩がそのまま投影されているかのようでした。投影ではなくて、ジャンの映画には父の絵画のひかりと色彩が再現されている、という方が適切でしょうか?目に見えない父と息子の絆、そして「画家の家族の肖像」を見るようでした。

 数日前から、ルノワールと同じく「印象派」の時代を生きた女性画家「ベルト・モリゾ」の評伝を読みはじめたのは全く偶然の出来事です。二人は同じ一八四一年生まれです。これはおそらくまだ女性画家が認められていなかった時代を生きた「女性画家の家族の肖像」となるかもしれません。いずれまた、この本について書いてみたいと思います。
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Mar 03, 2008

自由死刑   島田雅彦

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 人間が「自殺」に最も縁が深いのは思春期であり、その次が四十代だと言われています。この小説は島田雅彦(一九六一年・東京生まれ)が、その四十代を迎える前の精神上の危機管理を図るために、自らが「自殺」を考えること自体に飽きておく必要性から生まれたものだったようです。

 理由もわからずに「自由死刑」を言い渡された三五歳の独身男性が主人公。それまでの仕事は健康食品のセールスマン。言い渡される理由もない。言い渡した人間も居酒屋にいた赤ん坊であり、法廷ではない。人間は誰しも罪深いものですが、この「自由死刑」を宣告されるほどの罪は犯していない。そしてその死に方は強制的な「死刑執行」ではなく、一週間の間に自分で死ぬことでした。これを「何故?」と訊かれても困る。つまりそれからの一週間、三五歳の独身男性がたどる物語を作家が書き始めなくてはならないからでしょうね。。。

 ここからが作家の想像力が試されるわけで、一週間という制限のなかで人間がどのように生ききるのか?あるいは死にきれるのか?一章の金曜日夜からはじまって、曜日毎に次の金曜日夜まで、そしてそのあとに「SOMEDAY」、合計九章の小説になっています。
 これを特異な世界とはせずに、木曜日までは書いた。平凡な三五歳の男性が、多分死ぬ前にやっておくであろうと思われる出来事にすぎない。あるいは「死」を覚悟すれば、人間はこれくらいのことは出来るであろうというほどの日々である。「生命保険屋」「秘密の臓器移植売買業者」「外科医兼殺人鬼」の登場。そして百万円ほどの預金を持った三五歳の男の「ありふれた酒池肉林」などなど。。。

 しかし予定の金曜日に、車ごと海に飛び込む「自殺」に失敗した(つまり、半自殺状態です。)男性が、本当の「死」に向き合う「SOMEDAY」が書き加えられています。ここで人間は初めて「死」の困難に遭遇するわけです。しかしこの小説の最後は「主人公は死んだ。」とは書かれていません。「ヘリコプターの音」「人の声」という暗示。そして最終行は「ここは何処だ。まだ”あいだ”か?」でした。

 ここでわたくしは島田雅彦の弁護人になり(^^)、最後に彼の一文を引用しておきます。

 『もし、虚無が癌や免疫不全を引き起こすウィルスの仲間であるならば、宿主の細胞に忍び込み死に至らしめてくれるものならば、歓迎もしよう。でも虚無は何もないってことだ。何もないくせにあらかじめ全ての結論にするのは詐欺だ。その時、虚無には怪しい実体がつきまとっている。本当の虚無は死に結びつくことはない。ただ清らかなゼロとして、無限の彼方に漂っているはず。虚無と諦めは違う。思考停止と虚無も別物だ。(中略)それは虚無と死の本来の結びつきではない。あいだになにか邪魔が入っている。そいつをつまみ出してから、清らかな無限のゼロと一体化したい・・・・・・(中略)虚無は汚れている。虚無の発見以来、人はわけのわからない衝動やモヤモヤした気分を全て虚無に委ねてきた。結果、虚無はファンシーグッズになった。』

   (一九九九年・集英社刊)
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Mar 01, 2008

世界らん展日本大賞 2008

 今年で十八回目なるという比較的長い歴史を持つこの展覧会に、去年より幸運にも招待状を頂けるようになって、二度目の「らん展」に行ってまいりました。会場は東京ドームですので、かなり大掛かりな展覧会です。一度目の感動新たに、という気持がありましたが、どういうわけかそうはいきませんでした。「花酔い」あるいは「花疲れ」というような状況に陥った自分自身に驚きました。
 一年歳をとったせいなのか?あるいは体調不良か?二度目ということの重複する感覚の重さなのか?会場を出てからお酒を呑む気分にもなれず、軽い食事とコーヒーで済ませました。幸い相手が禁酒中でよかったけれど(^^)。。。

 これでは必死で期間中咲いている蘭たちに申し訳ないと思います。幸いにしてここは撮影自由ですので、しっかりとカメラにおさめてまいりました。膨大な量の画像を整理しながら、アップで撮影した花には、美しさの毒のようなグロテスクさに再会したりして、また疲れてしまって捨ててしまった画像も多くでました。ごめんなさいね。花の美しさ、華麗さ、豪華さ、こういったものは過ぎたらいけませんね。花は本来「生殖器」なのだと奇妙に実感した時間でした。あああ~~。

 ではほんの一部だけの紹介ですが。。。

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Feb 19, 2008

アマデウス ディレクターズカット スペシャル・エディション(2002)

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監督:ミロス・フォアマン
原作・脚本:ピーター・シェーファー
音楽・指揮:サー・ネヴィル・マリナー

 NHK・BSにて十六日夜、三時間放映。これが二度目のこの映画鑑賞となるのだろう。

 映画の舞台は精神病院から始まる。訪れた若い神父の前で、かつては皇帝ヨーゼフ二世(一七四一年~一七九〇年。在位は一七六五年~一七九〇年。)に仕える宮廷音楽家で、今や老いて車椅子生活者となった「アントニオ・サリエリ」の告白からはじまる。二六歳の若きヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの稀有な才能に驚き、嫉妬し、それを超えることのできないサリエリは、モーツアルトを殺害したと語る彼の回想という設定。ストーリーはあまりにも有名ですから、ここでは省きます。 ちなみにモーツアルトの生涯は(一七五六年~一七九一年)、サリエリは(一七五〇年~一八二五年)です。

 翌日の十七日には、日本語によるオペラ「J・シュトラウス二世」の「こうもり」を観るという、偶然も重なって、言語と音楽との調和が気になってきました。さらに前の一月には「プラハ国立劇場オペラ」の「魔笛」を字幕入りで観るという体験も繋がって、あまりオペラ通とも言えないわたくしでも、言葉の音質と音楽との調和は気にかかります。まず日本語はオペラには似合わない。詩や小説ですら日本語に翻訳することは難しい。それを音楽に合わせるというのは、かなり無理にちがいないと感じました。

 映画のなかでも、皇帝ヨーゼフ二世からモーツアルトに「オペラはドイツ語で。」という注文が出るシーンがありました。実際には、この映画では脚本家の「ピーター・シェーファー」自身が訳した英語の訳詞になっています。あああ。ややこしい。

 言葉の問題でもう一つ考えさせられたこと。それはオペラというものは「先に脚本ありき。」なのです。その脚本を、音楽と踊り、歌と台詞の配分、そして長時間に及ぶオーケストラの演奏とともにオペラは舞台に展開されるわけですね。気の遠くなるような仕事です。鳴りやまない拍手は単なる観客の礼儀を超えたものでしょう。

 【付記】
 「ドン・ジョバン二」に登場する石の騎士長は厳格だったモーツァルトの亡き父「レオポルト」の亡霊として、「魔笛」の「夜の女王」の有名は超絶技巧のアリアは、仕事がなく酒に溺れるモーツァルトを激しく叱責する姑の姿にヒントを得ている。身近な人間の存在すら、モーツアルトは「音楽」に昇華できたのでしょう。
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Feb 15, 2008

一茶   藤沢周平

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 この本を読むきっかけは、江戸学者の「田中優子」が「江戸文化の多くを、この本から学んだ。」という言葉からでした。

 小林一茶(一七六三年~一八二七年)江戸後期の俳人。名は弥太郎。信濃柏原出身。継母と異母弟との折り合いが悪く、それほど貧しくはない農家の長男でありながら、十五歳で江戸に出て奉公先を転々としながら、「俳諧」の世界を知ることになります。俳諧の宗匠「二六庵竹阿」の弟子と言う説がありますが、この小説のなかでは僭称であるとなっています。

 江戸前期には、俳人松尾芭蕉(一六四四年~一六九四年)は、「俳諧」に高い文学性を賦与してはいますが、短歌が宮廷文学から出発したのに対して、もともと「俳諧」は庶民(博打に似たものとして。)の遊びから出発していることが、わかりやすく書かれていました。幕府が禁止令を出した俳諧遊びの「三笠付け」は、さまざまに形式を変えながらも密かに続いていました。
 一茶の俳諧の出発点はそういう世界だったわけです。思わぬ才能が一茶に「賞金」をもたらし、それが奉公先を転々とする一茶の生活費ともなったわけです。しかし、この時期の一茶の経歴はどこにも書き記されていません。その時代の農民出身の若者の記録などあるはずもないことでしょう。これはあくまでも作家の創作でありましょうが、この時代の「俳諧」に自らの生き方を求めた若者の姿とは、このようなものであったことでしょう。一茶は「俳諧」の世界で、農民から脱却して一流の俳諧師をめざしたのですね。

 しかし、江戸で一茶が一流の俳諧師(家を構え、人並みに家族生活を営み、宗匠として弟子を多く抱えて、生活にゆとりがあること。)になることはありませんでしたし、江戸俳諧の傾向と信濃出身の貧しい一茶との句には、お互いに相容れないものが「障壁」のようにいつでもあり、一茶の俳諧師としての日々は、地方を回りながら草履銭で、なんとか「食い繋ぐ・・・・・・あまり好きな言葉ではありませんが、ここにはある意味これしかない、と言う言葉ですね。」生活の連続でした。

 やがて不本意ながら、一茶を江戸へ奉公に出した郷里の父親が病に倒れる。看病に帰郷する一茶の先々の生活を思い、父親は直筆の遺言状を書きます。「山林、田畑、家、すべて半分を長男弥太郎(=一茶)に譲渡する。」という思いがけないものでした。この時代から直筆の遺言状が大きな権利を持つということはあったのですね。

 この遺言状が実現するまでには、かなりの歳月を要しましたが、最後には遺言状以上のものを手に入れるという一茶の強引さ、狡猾さもここに表出します。その期間に一茶は徐々に江戸俳諧から離れ、北信濃周辺の門人との繋がりを準備、地方の俳諧師として信濃に帰郷するのでした。この時の一茶は五一歳でした。その後結婚、三人の子に恵まれながらも三人とも幼くして病死、妻の菊も病死しました。後、再婚と離婚、三度目の子連れの妻と継母に看取られて、六五歳で亡くなります。俳句は二十万句と言われています。

 継母の言葉が心に残ります。
 『旅ばっかりしてらったひとでなえ。もう出かけることもなくて、眠ってるようだなえ』

 さて、一茶という人間をどのようにとらえるか?難しいところです。それぞれの人間の生きている足場から、とらえるしかありませんね。水上勉が「良寛」に自らの境涯を重ねるように愛しい思いで書いたように、藤沢周平もそのような「愛しさ」を一茶に抱きつつ書いたのでしょう。歴史上実在した人間を「評伝」としてではなく「小説」として書く時、そこにどこまでの「嘘」と「真実」が錯綜し、小説となるのか?そのようなことも考えさせられる一冊でした。

 (一九八一年初刷・二〇〇七年三四刷 文藝春秋・文春文庫)
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Feb 14, 2008

レンブラントの夜警

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監督:ピーター・グリーナウェイ(Peter Greenaway,1942年- )。イギリス(ウェールズ)出身。
音楽:ジョヴァンニ・ソリマ  ヴウォテック・パヴリク

 レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz, van Rijn 1606-1669)と ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675)は、オランダの十七世紀の代表的な画家であり、膨大な作品が残されている。この時代のオランダはスペインからの独立を果たし、経済的繁栄を極めていました。東インド会社との交易によって、世界中からさまざまな品物が集まり、人々は蒐集熱に浮かされていました。絵画は「チューリップの球根」と同じように「投機」の対象だったのでした。この時代の画家に作品が多いのはそのような時代でもあったのでしょう。「作品が多い」ということの裏には「注文が多い」ということで、多くの弟子の助けがあったということでもあるのでしょう。

 また、別の側面からこの時代のオランダを見ますと、独立後のオランダはプロテスタント中心の市民社会が確立していたため、オランダの絵画市場は、同時代の「フランス」「イタリア」とは異なり、大きなサイズの神話画や宗教画ではなく、小さめの風俗画や風景画の注文があって、その結果さまざまな絵画のジャンルが確立した時代でもありました。

 さて、一六四二年に手がけたこの絵画『フランス・バニング・コック隊長の市警団の集団肖像画』、通称『夜警』は、市警団からの依頼であり、資金は彼等が分担したのであろうと思われます。夜警』は大きなサイズの絵画です。この絵画によって、レンブラントの地位、名声は一気に破局に向かうことになります。その時期には産まれたばかりの子供を残して、妻の「サスキア」が亡くなり、レンブラントは深い悲しみにも遭遇するのでした。
 「集団肖像画」はそれぞれの人間を平等に並列的に描くという常識がありましたが、レンブラントはその常識を破りました。何故破ったのか?それはモデルとなる市警団の人間たちの裏に潜む「悪」を見てしまったからでしょう。少女だけが収容されている孤児院では「売春」が黙認されていたこと、また「陰謀」「殺人」など、さまざまな権力の行う「悪」を見たレンブラントは、その「告発」を絵画としたからでした。

 『画筆は画家の武器だ。なんでもできる――侮辱も告発も。』

「アムステルダム国立美術館のサイト」では大きな絵画をみることができます。リベルさんに教えていただきました。色彩、明暗もきれいです。

 また「サスキア」を失った悲しみを埋めるように、レンブラントにもスキャンダラスな女性関係が浮上します。依頼主たちからの絵画の不評とスキャンダルによって、レンブラントは彼等の暴力に遭い、視力すら失うことになる。ここで彼の名声は終わる。映画のラストシーンもここに照準を合わせて終わりました。
 監督の「ピーター・グリーナウェイ」は、レンブラントが「夜警」を描くことによって、市警団のさまざまな人間達を告発したように、映画「レンブラントの夜警」を制作することによって「レンブラント」を告発しようとしたのだろうか?ちょっとそのような思いが頭上をかすめます。

   【付記】
 当たり前のことですが、映画鑑賞と読書は異質な行為だと、つくづく思います。映画のストーリーのテンポに、わたくしの心理的なテンポが著しく追いつかない状況に陥っても、映画は待っていてくれないのです。
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Jan 25, 2008

緑の影、白い鯨  レイ・ブラッドベリ著  川本三郎訳

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 この小説は、当時三十三歳の若き作家だった、レイ・ブラッドベリ(Raymond Douglas Bradbury, 一九二〇年・アメリカ・イリノイ州ウォーキガン生まれ。)のアイルランドにおける体験の自伝的小説であり、かつて短編であった作品も含めた長編小説となっています。
 何故彼がアイルランドに呼ばれたのか?それは、メルヴィルの『白鯨』という難解な小説を映画化しようと計画したアメリカ映画界の巨匠、ジョン・ヒューストン監督に、脚本を依頼され、一九五三年、当時ヒューストン監督が住んでいたアイルランドにわざわざ呼び寄せられたのです。この作品は一九五六年に完成しました。

 繊細な抒情詩人としても知られるブラッドベリと、アメリカ文学史上もっとも手ごわいと評価されている『白鯨』、そして怪物のようなヒューストン監督という組み合わせから生まれた小説だと言えるかもしれない。アイルランド滞在は約半年、その体験をもとに、四十年後に書かれたものです。ヒューストンは当時アメリカで荒れ狂った赤狩りを嫌って、アイルランドに住んでいました。

 この小説は、別の面を見れば、ブラッドベリのアイルランド賛歌になっているようです。雨の多いアイルランドは、ひかり輝く緑の自然を観ることは稀なことです。そこに貧しいながら、たくましく暮らす庶民たちのさまざまな姿も見事に描かれていました。狡猾な乞食、優れた路上音楽家、下町のバーの人々、個性的な牧師、それにまつわる祝福と死などなど、アイルランド人のユーモア、抒情、幻想性、息をのむほどに濃密な描写でした。笑ってしまった牧師の言葉(^^)。。。

 『いまここで、二人を夫と妻と認めます。汝ら行きて、さらなる罪を犯せ。』

 この小説を読みながら、しきりに思い出していたのは、トム・クルーズ主演の映画「はるかなる大地へ」でした。アイルランドの暗い寒村の貧しい農家の若者が、西部開拓に沸き立っていたアメリカを目指す物語で、この小説とは全く逆の視点から描かれた映画だったと思います。主人公の最後の言葉はこうでした。

 『教会がアイルランドを跪かせ、雨がアイルランドを溺れさせ、政治がアイルランドを地に埋めてしまう・・・・・・しかし、それでもなおアイルランドは、あの遠い出口に向かって走る。そして、おわかりでしょう、神かけて私は思うんです。アイルランドはきっとたどり着くって!』

 (二〇〇七年・筑摩書房刊)
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Jan 13, 2008

プラハ国立劇場オペラ「魔笛」

指揮:ヤン・ハルベツキー  ダヴィド・シュベッツ
演出:ダヴィト・ラドク
舞台美術&衣装:カタリーナ・ホラー  タジーナ・ファース
振付:ハカン・マイヤー
初演:プラハ国立劇場(スタヴォフスケー劇場)

日時:一月十二日 PM六時~八時四十分
会場:川口総合センター・リリア・メインホール

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 フロアーにあった、オランダのストリート・オルガンです。

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 何年ぶりなのか定かではないほどに、オペラ鑑賞は久しぶりの体験でした。庶民には入場料が高い。しかしプラハからすぐれたオーケストラ、そして多数のオペラ歌手、バレーダンサー、舞台装置家を呼び、日本公演を実現したことを思えば、庶民にも納得できる。ただCDで聴くだけだったオペラを、実際に観ることとは、大きな隔たりがあることを、今更ながら実感したのでした。

 「魔笛」はモーツアルトの「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」と共に「四大オペラ」の一つとされ、最晩年の仕事でもあります。生涯の宿敵「サリエリ」も絶賛したとか。その彼の敗北の言葉を思い出しますね。

 「天才はゆるす。」←おおお。こう言われてみたいものだなぁ(^^)。
 ちなみにモーツアルトの生涯は(一七五六年~一七九一年)、サリエリは(一七五〇年~一八二五年)です。

 「魔笛」はモーツアルトの思想的(あるいは宗教的?)な変化も見られます。興行師「シカネーダー」の協力のもとに、初めてドイツ語で書かれたこと、思想団体「フリー・メイスン」の影響など、さまざまな要素が混在したオペラとも言えるでしょう。
 このオペラのお馴染みの見所は「夜の女王」のソプラノ、超絶技巧のアリアです。これには、ハラハラドキドキ、人間の声帯能力を超えていました。

 舞台演出のメインは巨大な絹のようなやわらかな布です。この色彩、光の変化、揺れ、乗降によって、ドラマ展開の明暗、歓喜、恐怖、などを見事にシンプルに演出していました。
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Jan 07, 2008

サウンド・オブ・ミュージック

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監督: ロバート・ワイズ
脚本: アーネスト・レーマン
音楽: リチャード・ロジャース オスカー・ハマースタイン二世 アーウィン・コス タル
公開: 一九六五年
製作国: アメリカ
言語: 英語

【キャスト】
マリア:ジュリー・アンドリュース
トラップ大佐:クリストファー・プラマー

 このミュージカル映画の舞台背景は、一九三八年のオーストリア・ザルツブルク。 ナチス・ドイツによるオーストリア合邦(アンシュルス)及び第二次世界大戦の時代 にあたります。

 修道女見習いのマリアは、院長に、数年前に妻を亡くしたトラップ大佐の七人の子供たちの家庭教師をするように勧められ、大佐宅で暮すことになります。トラップ大佐はオーストリア海軍退役軍人。大佐は、子供たちを軍隊的に厳しくしつけていますが、過去の何人もの家庭教師が長く勤めてくれない状況にあった。それは父親の厳しさへの反動が家庭教師に向けられていたからだったのです。。

 ある激しい雷雨の夜に、雷を怖がる子供たちは次々にマリアの部屋に集まってきた。マリアは、「哀しい時や辛い時は楽しいことを考えましょう。」と教える。母を亡くしてからずっと家の中に聴こえることのなかった音楽を、マリアが子供たちに取り戻すことによって子供はみるみる快活になってゆく。それは大佐の逆鱗に触れることとなり、マリアは「解雇」寸前となるが、子供の歌声が父親に音楽を呼び起こし、マリアは解雇を免れる。

 子供たちは父親の厳しい躾から開放され、音楽、人形劇などを一家で楽しむ生活にかわる。そして父親の再婚話がはじまる。しかし大佐とマリアはお互いの心に気付き、二人は子供たちや修道院の修道女たちに祝福されて結婚式を挙げ、新婚旅行に出かける。

 二人が新婚旅行をする間に、アンシュルスに伴いナチス率いるドイツ軍がザルツブルクにも進駐していた。新婚旅行から戻った大佐の家にはナチス旗が掲げられており、激昂した大佐はその旗を引きずりおろす。しかし、同時に大佐に対してドイツ第三帝国海軍から出頭命令の電報が届いていた。ドイツによるオーストリア併合に反対する大佐は、ドイツ軍の言うとおりに出頭する気はなく電報を無視するが、ドイツ海軍も有能な軍人である大佐を欲しがり、再三、電報を寄こし出頭を要請する。彼は時代の大きな波を感じとり一家の亡命を決意する。

 一家は歌のコンクールに出場する予定があったので、この機に乗じて中立国であるスイスへの亡命を計画。審査の結果、トラップ一家が優勝するが、その表彰式の隙に家族は逃げ出す。まず家族は修道院に逃げ込む。裏口から車で家族は逃走するが、追跡しようとするナチスの車はエンジンがかからない。その頃懺悔に来た修道女たちの手にはその車の部品が握られていた。「大きな罪を犯しました。」と微笑む彼女たちの笑顔のすばらしさ。。。全ての国境へ向かう道が閉鎖されているため、家族は山を越えて自由の地スイスへ向かう。

 マリアの明るい笑顔と歌声、それはとりもなおさず、人間のおろかしい戦争への正面からの反戦歌ではないだろうか?

 【付記】

 三日と四日の夜、長時間映画の「風ととに去りぬ」と「サウンド・オブ・ミュージック」を観るという、わたくしとしては稀有な快挙(???)であった。名作として残っているこの二作の映画の背景は「アメリカ南北戦争」であり「ナチス・ドイツによるオーストリア合邦(アンシュルス)及び第二次世界大戦」であったことは、偶然とは思えない。
 また、全く違う視点での共通項は「カーテン」でした。スカーレットは、タラでいよいよ困窮し、レットに借金を申し込むために着てゆくドレスすらない。そこで彼女はビロードのカーテンをドレスに仕立て直すのだった。マリアは子供たちの遊び着をつくる生地を大佐に願い出るが断られる。そこで思いついたのが自室のカーテン生地だった。思わぬ共通項に内心「うふふ。」でした。
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Jan 06, 2008

風ととに去りぬ

clark vivien
(本当はクラーク・ゲーブルだけを掲載したいのですが。。。独り言。)

監督:ヴィクター・フレミング
原作:マーガレット・ミッチェル
スカーレット・オハラ:ヴィヴィアン・リー
レット・バトラー:クラーク・ゲーブル
アシュレ・ウィルクス:レスリー・ハワード
メラニー・ハミルトン:オリヴィア・デ・ハヴィランド

 今更言うまでもないことですが、「風と共に去りぬ(Gone with the Wind)」は、一九三九年制作のアメリカ映画です。全編で三時間四十二分という大長編であるにも関わらず、当時空前のヒットを記録したそうです。この制作年を改めて確かめてみると、この時にはわたくしはまだ生まれていません。さらに日本で公開されたのは一九五二年です。この長い空白には「戦争」があったということですね。さらに言えばわたくしが十代に郷里の映画館で観た記憶はありますが、その時すでに新作映画ではなかったのだと初めて気付かされました。これをあらためてNHKのBSで観られたということですね。
 これはアメリカの南北戦争に巻き込まれ、運命を翻弄された、男女の愛の物語であり、石原吉郎の言葉を借りれば「戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命に対する罪である。」とも言える物語です。

  一八六一年、アメリカは南部と北部の対立が深まり、内戦が避けられないところまできていた。ジョージア州タラの大地主ウィルクス家の御曹司アシュレーの結婚相手は自分だと信じていた、同じくタラの大地主ジェラルド・オハラの美しい長女のスカーレットは、彼が従姉妹メラニーと婚約すると聞き、絶望的な状況となる。

 その精神的な痛手と、南北戦争による貧苦の生活など不幸は重なるばかりだった。スカーレットは二度の偽りの結婚、夫の戦死、次には事故死と二度の未亡人となる。こうした日々を、タラの屋敷と土地を守るため、スカーレットは狡猾と思えるほどの逞しさで生き抜く。レット・バトラーは幾たびかスカーレットを救う役割を果たしてきた。

 一八六五年、南軍の降伏で戦争は終わった。数々のすれ違いを乗り越えてやっと結ばれたスカーレットとレットはアトランタに豪邸を新築、まもなく娘のボニーが産まれ、幸せの絶頂を迎える。ようやく訪れたかに見える平和だが、スカーレットはアシュレーへの思いを消すことができない。嫉妬に苦しむレットは、スカーレットとの離婚を決意して、ボニーをつれてロンドンへ行く。母を恋しがる幼い娘が不憫になったレットはアトランタに戻るが、スカーレットとの仲は戻らなかった。それどころか、口論の末にスカーレットが階段から落ち、二人目の子供を流産してしまう。不運は続き、ボニーが落馬して命を落す。そしてレットの愛も消えた。

 すべてを失ってようやくスカーレットはレットへの愛に気付く。スカーレットは絶望の渕から、すぐに希望を取り戻す。ここが最後の有名な台詞です。

 『レットをどうやって連れ戻すか、明日のことは明日、タラに帰って考えればいい……。』

 美しく、情熱的で、気位の高い女性の実りの少ない人生ではあったとしても、スカーレットは「絶望」や「虚無」や「失墜」に堕ちることはなかった。控えめで清楚なメラニーと、対照的に描きだされた女性の生き方は、時代を超えて変わらないテーマでしょう。
Posted at 22:15 in movie | WriteBacks (0) | Edit

Jan 03, 2008

ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート・2008

viora

 二日の夜、NHK・BS2で、三時間番組を観てしまいました。指揮者はフランスの八十二歳のジョルジュ・プレートルさん、かわいい笑顔、そしてすべて「暗譜」であることに驚きました。演奏会場は「ウィーン楽友協会・大ホール( グローサーザール)」です。「黄金のホール」とも言われる豪華な巨大ホールですが、それでも立見客がいることに、この国の音楽の在りようがわかるようでした。もちろん日本人の観客も大分いましたが。
 途中、音楽に合わせてテレビ画面ではバレエや「スペイン乗馬学校」の「白馬」によるうつくしく高度な演技などが挿入されています。会場ではおそらく放映画面が用意されていたことでしょう。

 ここでは毎年、演奏途中でちょっとした楽しい演出が行われます。今年は、オーストリアのサッカーチームのタオルや笛、イエローカード、レッドカードの小道具などを使い、指揮者と第一バイオリン奏者との楽しい寸劇が観客の笑いを呼びました。また「ラデツキー行進曲」では指揮者の合図のもとに、観客は手拍子(しかも強弱まで要求されて。笑。)を送り、観客を巻き込んだ楽しい演奏となりました。

プログラムは下記に。(長くなってごめんなさい。自分のための覚書です。)

1. ナポレオン行進曲 作品156 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
2. ワルツ「オーストリアの村つばめ」 作品164 ( ヨーゼフ・シュトラウス作曲 )
3. ラクセンブルク・ポルカ 作品60 ( ヨーゼフ・シュトラウス作曲 )
4. パリのワルツ ( ヨハン・シュトラウス父 作曲 )
5. ベルサイユ・ギャロップ 作品170   ( ヨハン・シュトラウス父 作曲 )
6. 天国と地獄のカドリーユ 作品236 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
7. ギャロップ「小さな広告」 作品4 ( ヨーゼフ・ヘルメスベルガー作曲 )
8. 喜歌劇「インディゴと四十人の盗賊」 序曲 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
9. ワルツ「人生を楽しめ」 作品340 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
10. ポルカ「かわいい曲」 作品271 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
11. トリッチ・トラッチ・ポルカ ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
12. ワルツ「宮廷舞踏会」 作品61 ( ヨーゼフ・ランナー作曲 )
13. ポルカ・マズルカ「とんぼ」 作品204 ( ヨーゼフ・シュトラウス作曲 )
14. ロシア行進曲 作品426 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
15. ポルカ「パリジェンヌ」 作品238 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
16. 中国風ギャロップ 作品20 ( ヨハン・シュトラウス父 作曲 )
17. 皇帝円舞曲 作品437 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
18. ポルカ「インドの舞姫」 作品351 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )

(ここからは、予定されていたアンコール曲です。)

19. スポーツ・ポルカ 作品170 ( ヨーゼフ・シュトラウス作曲 )
20. ワルツ「美しく青きドナウ」 作品314 ( ヨハン・シュトラウス作曲 )
21. ラデツキー行進曲 作品228 ( ヨハン・シュトラウス父 作曲 )
Posted at 14:29 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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