Aug 13, 2008

成熟と喪失 ”母”の崩壊   江藤淳

sendak
《アメリカ絵本作家モーリス・センダック「まどのそとのそのまたむこう」より》

 これは息の長い著書である。河出書房新社より昭和四十二年から版を重ね、函入り上製本、カバー装普及版、さらに講談社文庫にもなっています。わたくしが手にしたものは、カバー装普及版にあたります。

 この著書の主題は、かつての農耕文化のなかで果たされてきた「母」なるものの役割の崩壊でしょう。それはわたくし自身の極論から言えば、母なるものの「忍従」の上に育った文化であり、一見「自然」「源郷」に見えてきたものは、無言で耐えた「母」の築いた文化ではなかったのか?と思います。
 それが時代とともに、西洋文化が徐々に浸透してゆく流れのなかで、「母」のなかにしまいこまれていた「女性の娼婦性」あるいは「母性の放棄」、「ジェンダー」が徐々に表出しました。それが一気に表出した敗戦後の時期に登場した「第三の新人」たちの小説群への、江藤淳の丁寧な批評と言えばいいのだろうか。

 主に「小島信夫・抱擁家族」の主人公である「三輪俊介」とその妻「時子」の米人男性との恋という事件を発端とした夫婦の崩壊を主軸にしながら、江藤淳は「妻=母」なるものの崩壊を見つめようとしています。その筋道に沿って、以下の小説にも触れています。

 まずは「安岡章太郎・海邊の光景」では、敗戦後、戦場で罹った結核の夫(獣医・・・つまり軍医ではなかったということか?)を世間的に恥ずかしい存在だと思う母親に精神的に頼られている息子「浜口信太郎」の苦悩について書かれています。ここでは妻ではなく、「父の崩壊」が引き出した「母の崩壊」について考えられています。 
 さらに「谷崎潤一郎・刺青/痴人の愛/鍵」、カソリック作家である遠藤周作「私のもの/沈黙」、またその以前の時期に書かれた「夏目漱石・行人/明暗」、「志賀直哉・暗夜行路」なども比較として取り上げられています。

 さて崩壊しない「母」とはなんでしょうか?

 そのわたくしの疑問を置き去りにして、江藤淳は、こうした男女や母子関係の束縛への嫌悪から「孤独」を選んだ男の小説に移行します。主人公がいずれも「作家」という共通性はあるものの、時代、生き方は著しく相違していますが。それは「永井荷風・ぼく東綺譚」と「吉行淳之介・星と月は天の穴」でした。

 江藤淳が最後に取り上げた小説は「庄野潤三・夕べの雲/静物」でした。そこには死期に近い「眠り続ける母」、「棚に放置された、子供たちの遊び相手の終わったぬいぐるみ」、「結婚以来いつでも心ゆくまで眠りたがっていたかに見える妻の、突然の長い眠り」などのシーンが象徴的に書かれています。
 そこに「母」はすでに存在しないのかもしれません。人間は「個人」であることを余儀なくされて、そこから書かざるを得ないものが生まれるのでしょうか?

 (昭和六十三年河出書房新社刊・新装版)
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