Dec 31, 2005
Dec 30, 2005
十二月。。。
十二月になると色々なことを思い出す。昨年十二月は「声帯ポリープ」のために、一ヶ月近く通院治療、禁酒、禁会話、禁煙草の煙、の日々であった。母が急逝したのも、父の末期癌宣告を受けたのも十二月。姉の末期癌の入院中の病院に毎日通っていた日々にも雪で電車が止まった十二月があった。
今年の十一月から十二月は、病気も、不幸な出来事もなかったが、思いがけず以前の仕事を再度引き受けることになった。さすがにここまで来ると神経がまいってくる。頭痛薬、胃腸薬のお世話になっている。寝込むほどの出来事ではないが、年末になるとさすがに苛立つ。仕事を放棄することにした。年末は笑顔で終わりたいものだ。。。
「もっとひかりを。」なんちゃって(^^;)。。。
Dec 27, 2005
師走の新宿
22日、灰皿町の面々との「ぼーねんかい」に行く前に、「紀伊国屋」と「ハンズ」で買い物をしたり、コーヒーを飲んだり。。。その途中で12月の新宿のイルミネーションを撮ってみました。遅いアップですが、初めて見たので記念に(^^)。まだこのイルミネーションはあるのだろうか?
Dec 25, 2005
折 鶴
なんと切ない句だろう。。。一日はやっと折鶴ほどの形になっても、また一枚の紙のようになって、うっすらとした哀しみのなかで眠るのだろうか。。。
この句は、今日の清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」で読みました。一読して、わたしは迂闊にも女性俳人の句だと思ってしまいましたが、この句は男性俳人の詠まれたものでした。しかし一旦「女性」だと思いますと、もうそこを抜けることはできません。
わたしくは以前、吉祥寺の「ゆざわや」で買い求めたまま、しまってあった和紙を探し出して、鶴を折ってみました。一旦折ってから、また一枚の紙に戻すことは不可能でした。たくさんの折跡の線がくっきりと残された一枚の紙があるだけでした。これは、さらに哀しいことになってしまった。。。かくして、わたくしの一日はこの「折鶴」に支配される結果となってしまった。。。
Dec 23, 2005
Merry Christmas♪♪♪
このクリスマス・ツリーは全部ガラス製です。ツリー全体に曲がった小枝があって、そのそれぞれの小枝に小さな飾り物をぶら下げるのです。小さなオマケ(^^;)の長靴は桐田真輔さんから頂きました。
この本は紀伊国屋に行く度に見とれていた本ですが、思い切って買いました。わたしからわたしへのクリスマス・プレゼントです(^^)。
Dec 19, 2005
いまさらながら「詩作」について。
もう大分過去のことですが、ある方から「本など読むな。詩は知識を積んだから書けるものではない。それらは詩作のたった5%ほどの助けにしかならない。詩作は自らの感性だけが力だ。」と言われたことがあります。その言葉は強烈な記憶としてわたくしに残り続けました。
数年前に詩人吉原幸子さんが逝去されて、その後に「偲ぶ会」が開かれました。その折に献杯の役を引き受けられた詩人那珂太郎さんのお言葉が大変印象に残りました。那珂太郎さんは吉原幸子さんの高校時代の恩師でもいらっしゃいます。
『詩人吉原幸子は、あふれる程の教養と知識がありながら、それを全部背後に押しやって、その澄んだ感性だけで詩を書いた人でした。』
つまり、わたくしは全く同じ言葉を、全く関係のないお二人から聞いたことになったので、大変に驚きました。すぐにその那珂太郎さんのお言葉を、前記の方に伝えましたが「そうだろう?」と微笑んで答えられました。ううむ。これはわたくしには都合がよい「教え」なのですが、反面では厳しい感性の持続を迫られることでもあるのです。
これを反転させて、わたくしが詩の読者にまわった時に、その知識を強要してくる作品に出会うことがあります。つまりその知識がなければ読み取れないという作品、あるいはさまざまな書物からの「引用」を入れて書かれた作品です。おそらくそれらは書き手にはとても好きな世界で、どうしてもそれを詩作の上で生かしていきたいという思いがあるのでしょう。しかし、それが読み手にうまく伝わらないものであったとしたら、それは生かしたことにはならないでしょうし、それらの知識を自らの詩作の栄養として吸収しきれていないか、あるいはその知識を超えることができない状況なのではないかと思います。もっときつい言い方をするならば、その知識に拠りかかった詩作だとも言えるかもしれません。
乞う。反論(^^)。。
Dec 15, 2005
Dec 07, 2005
幼年連祷 吉原幸子

子供は初めに大人の世界に産まれ出てくる。そこはなにもかにも子供には大きすぎる世界だった。この巨人の国で大人に守られながら、子供は少しづつ大きくなる。(守られることなく大きくなる子供もいるだろうが。。)そして大人の背丈に近づくにつれて子供は脱皮の季節を迎える。これは「自然」なことではないか。人生はそれからの時間の方がはるかに永い。その時間のなかで人間はどこまで「内なる子供」を養いつづけることができるのだろうか?それは決して「純粋性」という意味ではない。
子供が育ってゆく期間、母親も同時に二度目の「子供の時間」を生きてきたのではないだろうか?それは、かがやくような「時間の子供」を内部に育てたのだといえるかもしれない。こんなことを考える時に必ず思い出すのは、この詩集です。おそらく詩人吉原幸子のご子息の幼年期の時代に書かれたものでしょう。
喪失ではなく 吉原幸子
大きくなって
小さかったことのいみを知ったとき
わたしは〝えうねん〟を
ふたたび もった
こんどこそ ほんたうに
はじめて もった
誰でも いちど 小さいのだった
わたしも いちど 小さいのだった
電車の窓から きょろきょろ見たのだ
けしきは 新しかったのだ いちど
それがどんなに まばゆいことだったか
大きくなったからこそ わたしにわかる
だいじがることさへ 要らなかった
子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
そのなかにゐて 知らなかった
雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
いちどのかなしさを
いま こんなにも だいじにおもふとき
わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる
もういちど 電車の窓わくにしがみついて
青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
わたしは ほんたうの
少しかなしい 子供になれた――
Dec 04, 2005
無能の人 つげ義春

先日ここに書いた正津勉の著書「脱力の人」の一人として登場した、つげ義春の「無能の人」に興味を持ちました、と書きましたら桐田真輔さんが貸して下さいました。もう古い貴重な本です。この本は「連作《石を売る》総集版」となっています。この漫画は読みながら、やりきれない思いになってゆく感覚を否めない。しかしそこに人間の「死」と隣接する「生きる」ということの暗い「根」のようなものを感じてしまう。ちょっとこの感想は書きにくい。
これは、1.石を売る、2.無能の人、3.鳥師、4.採石行、5.カメラを売る、6.蒸発・・・という六章からなっている。多摩川べりで多摩川の石を売ってみる。貧しくとも平等に人間の髪は伸びるが、切った髪を有効に生かせないかと悩む。虚無僧は儲かるのかとうらやむ。妻に「マンガ書いてよ」と嘆かれる。息子と「父ちゃん、虫けらってどんな虫」「ハハハ虫けらというのはね、世の中の何の役にも立たぬ・・・」「母ちゃんがね、父ちゃんは虫けらだって」などど夕暮の多摩川べりで寂しい会話をしてしまう。ミニマムな暮らしが、ますますミニマムな暮らしを誘発してゆく。あるいは加速する。人間が働くのは何のためなのか?とみずからに問いたくなる。伊那谷の俳人井月の話を最後にもってきたのは何故だったのか?
俳人井上井月はもと武士であり、伊那谷を放浪する頃から「放浪俳人」「乞食俳人」と言われるようになっているが、実は芭蕉、一茶、蕪村の流れを継ぐ俳人ではなかったのだろうか?この放浪の時期は大体が島崎藤村の「夜明け前」に重なるのではなかろうか?
世の塵を降りかくしけり今朝の雪
落栗の座を定めるや窪溜まり
何処やらに鶴の声聞く霞かな
この井月を慕って、後には山頭火がこんな俳句を残している。時代は移る。しかしひとの心になにかを残してゆく先人がいつの時代にもいるということなのだろう。
お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました
(1987年・日本文芸社)
Dec 03, 2005
点子ちゃんとアントン エーリヒ・ケストナー
何故か偶然に「アントン」が続く。まぁ。名前ですから、不思議ではないでしょう。
このアントン少年は、同作家による「エーミールと探偵たち」の主人公のエーミール少年と、ほとんど同じタイプの少年である。これについて、ケストナーは「このような少年は世界にいくら大勢いても足りないし、将来いつか非常に役に立つ大人、私たちが必要とする大人であるからだ。」と解説する。
たしかにアントンは貧しい病気の母を深く愛して、看護し、家事をやり、学校にも行き、お金のために働きもした。そしてお金持の点子ちゃんにとっては最高の友であり、正しいボディーガードだった。この二人は模範的な少年少女なのだ。
点子ちゃんが空想好きのちょっとおかしな少女であり、疑うことを知らない天真爛漫さが、この物語の躍動感となっているが、全体としてはかなり教訓めいた作りになっている。それは物語の合間に、作者はたたみかけるように、登場人物の過ちや正しさについて解説してしまうからだろう。エーリヒ・ケストナーはかなり多くの児童文学を世に送り、高名な児童文学者ではあるようだが、読者に判断をゆだねないというところは「ちょっとねぇ。。。」という気持にさせられる。作者は読者を自分と同じ方向へ行くことを望んでいるようだ。
地下室アントンの一夜 尾崎翠
ある日ある時、わたしが「尾崎翠」を話題にした時、F氏が「アントンが一番おもしろい。」とおしゃったので、未読だったこの本を改めて読みました。たしかにこれは面白い短編だった。学者と詩人との「スピリット」の差異性を見事に描いているのだ。
動物学者の松木は実証派であり、「スピリット」を殺す度に一冊の著書が書き上げられるのだと、詩人土田九作は思っている。そして土田自身は一冊の肉筆詩集を持っているだけなのだ。その詩人は恋をすると恋の詩が書けない。「おたまじゃくし」の詩を書こうとする時に、松木は詩人に、失恋したばかりの少女(小野町子)に、一瓶の「おたまじゃくし」を届けさせる。
すると詩人は、少女にも「おたまじゃくし」にも心を占拠されてしまって、ますます詩が書けなくなった。松木の好意は伝わらず、松木は怒り、土田も怒る。お互いに一発お見舞いしようとするのだが、精神科医の登場でこの一夜は無事に終わり。。。
夜の火葬場の煙突はただちに星に連なっている。地上はつねに空と隣り合わせである。だから人間は「空」というものに感情移入をしてしまう生き物らしい。北風、南風によって煙も人間もおおいに影響を受ける。土田の頭も北風の日には冴えるのだが、南風の日には何度も頭を振って、ようやく肩の上に頭があることを確認するという状態なのだ。「スピリット」とはかくも困難なものなのだった。。。
「アントン」は、どこかの国の黄昏期に棲んでいて、いつでも微笑んでいるという医師「アントン・チェホフ」の名に由来するらしいのだが。。。
Nov 30, 2005
Nov 29, 2005
世界とのめぐりあい
久しぶりに数年前の仕事に呼び出されて、その再開の機会を得た。つまり補遺の仕事である。
かつては不治の病とされ、あるいは遺伝性、伝染性などの観点から世間に恐れられ過酷な運命を辿った病が、医学の進歩とともにそれらは撤回されるという病の歴史は多々ある。この仕事も、その過酷な病の永い歴史を辿った人々の書かれた文学作品の集大成である。わたくしはその作品の整理を手伝うにすぎない、微々たる戦力でしかないのだが、こうして多分世間の大方の人々よりもわたしはこの世界の方々の声を聞いたのかもしれないと思う。またこれらの文学をさらに背後から支えた宗教、思想などもおぼろげに垣間見たと思う。
数年前のわたくしはその仕事に溺れそうになりながら、やみくもに読んだという必死の記憶ばかりがあるのだが、今回は少しだけ変った。少なくとも、その空白の数年の期間に、わたしはこうした閉鎖された過酷な世界から紡ぎ出される言葉について、わたしなりの考え方、あるいは向き合い方を手に入れたのだと思う。
また、人間の本当の優しさとはなにか?あるいは目をそむけてはならないものに、視線をそそぎ続ける強い意志と愛はなにか?そのようなものを、この仕事と、それに関わる方に教えて頂いている。
『一尾の魚を網はとらえる。けれども網が存在するのは、網よりも広い世界がそこにあるからである。そして一尾の魚は、その広い世界に属している。網は、魚を捕まえることで、その広い世界と関係をもつのだ。』 加藤典洋
Nov 23, 2005
相聞(あいぎこえ)・・・ふたたび
『相聞・あいぎこえ』のページに、『睡眠詩篇---ららばい』の一対の詩篇を追加いたしました。わたくしが最近「眠り」や「夢」にこだわって詩作していましたので、桐田真輔さんが若き日の作品を思い出して下さったようです。
最近、詩作品の類似性についての論議が起きているようですが、わたくしは、自作詩と似ている詩作品に出会うことは、とても嬉しい出来事だと思っています。
Nov 22, 2005
Nov 18, 2005
うろうろうろ。。。
久方ぶりに「お仕事」を少しだけ引き受けることになった。16日の午後に、それを受け取りに行く時に、家から駅までの道すがら撮った秋の風景です。仕事先の出版社に着く頃は、もう暗くなっていましたが、美しい満月でした。
さて、自宅に持ち帰り、家事の合間をぬいながら「お仕事」をするわけですが、それに自分を集中させるためには、家事をきちんとやらなければならないのだ。なんだかヘンな現象なのですが、仕事に集中するために、気がかりなことを減らそうとすると、わたしは働き者になってしまうのだった。
さらにさらに、パソコン周辺の整理整頓までやりました。そうしないと資料を置くスペースすらないというひどいデスク状況でした。これで、パソコン入力作業がスムースに運ぶようになるでしょう。わはは。ま。今のわたしは詩作低迷の時ですから「お仕事」に向かうのは救いとなるでしょうけれど。。。
Nov 15, 2005
脱力の人 正津勉
(↑この写真、本文と関係あるのかいな???)
この著書は、天野忠、和田久太郎、尾形亀之助、淵上毛銭、鈴木しず子、辻まこと、つげ義春の七人について作品を引用しながら、その人となりを書かれたものです。大変なはにかみやさんで、あるいは著者ご本人も「脱力の人」かもしれないと思われる詩人正津勉氏が、楽しく魅力的に書いていらして、読み手を引いてゆく力が充分にあった一冊だったと思います。わたくしは総括的に物事を書く力はありませんので、それぞれ七人の方々について書いてゆきます。
【天野忠】
わたくしは京都の詩人天野忠は、本当は「怒りの詩人」なのではないかと思っています。どんなに「脱力」の振りをしても、その言葉の背後にあるものは「怒り」です。そうでなければ「米」などという作品は生まれなかったと思うからです。
また、江戸っ子気質の学匠詩人西脇順三郎を京都に迎え、南禅寺を訪れた折に、天野忠が語ったと言われる「庭は便所の窓からみるのがよろしいな。庭が油断してますさかいに。」は、どこかの本で読んで忘れずにいた言葉でした。正津勉氏にも記憶に深く残っていたのでしょう。これは天野忠の「いけず」でしょう。この言葉は実に面白い。天野ファンとしては彼を筆頭に挙げて下さっただけで嬉しい。
【和田久太郎】
大杉栄等とともに、アナキスト活動に参加。性病と不幸な恋、そして獄中生活、「死刑」を望んだにも関わらず「無期懲役」という生き地獄の日々の果てに縊死した俳人である。享年三五歳であった。和田久太郎に関しての著書はほとんど読んでいませんでしたが、気になる存在ではありました。和田久太郎を一茶と結びつけたこともとても納得のいくものでした。
最近のわたくしには、それほど深い理解をしているわけではないのですが「アナキスト」という言葉が奇妙になつかしいのは何故だろう?和田久太郎については、もう少し別の本も読んでみたい気持になりました。獄中からの書簡が禁じられ、さらに本の差し入れも禁じられた獄中生活のなかの和田をもう少し知りたいと思います。もっとこのことに早く気付くべきだったと残念に思う。これから先どのくらい読めるかどうかわからないし、わたくし自身に残された時間も少ない。
月も照らせこれも浮世の一世帯 和田久太郎
【尾形亀之助】
最初に言っておきますが、わたくしはこの詩人が嫌いです。下記の言葉に出合ったのはこの本が初めてのことではないのですが、これは「脱力」ではないでしょう。尾形亀之助の生き方をよしと思うほどに、わたくし自身は壊れることはできないのです。それでもこのわたくしに尾形亀之助を必死に理解させようとした友人もいらっしゃいましたが、やはり納得できない。作品を読んで魅力的だとも思わなかった。作品が魅力的ならどのような生き方でもいいのですよ。
『・・・・・・働かなければ食へないなどとそんなことばかり言ってゐる石頭があったら、その男の前で「それはこんなことか」と餓死をしてしまってみせることもよいではないか。』(無形国へ)
【淵上毛銭】
淵上毛銭は結核からカリエスへと苦しい病床のなかで、作品のほとんどを書いたようです。墓碑銘は表に「病床詩雷淵上毛銭の墓」とあり、裏には「生きた。臥た、書いた」とあるそうです。さらに付け加えるならば「恋した」となるのでは?この壮絶な闘病生活の最終期に生まれた作品は、まさに「脱力」のようです。
死算
じつは
大きな声では云へないが
過去の長さと
未来の長さとは
同じなんだ
死んでごらん
よくわかる。
しかし、俳句はこうなります。「賃借りの片道さえも十万億土」。また、病気の初期にはこのような詩も書かれていました。彼は病床にいながらも、いや病床だからこそ常に恋をしていたようですね。
抱擁
愛してゐるのだと
その胸にとびこんで
だからそのあたりを
むしって食べながら
こんなに 愛してゐると
言ってゐるぢゃないか
椿の花がむかふに
見えてゐた
【鈴木しず子】
この俳人については、わたくしは、アンソロジー「愛の詩を読む」を始める頃に、あるフリーの編集者の方から初めて教えていただきました。その後でネットで正津勉さんのお書きになった一文に出会いました。女優のように美しい彼女は、少女期には太宰治を愛し、専門学校卒業後には製図工として働き、恋愛、婚約、婚約者の戦死を経ながらも、俳句を手放すことはなかった。また新しい恋のあとで、職場の上司との結婚もしたが、離婚。そこから彼女は全く違う人生を生きることになった。ダンサー、そして米兵のオンリー、その米兵の死、そうした日々のなかでさえ彼女の絶えることのない句作を見守りつづけた師がいました。彼女の二冊の句集はその師の尽力によって出版されていますが、爆発的に売れたそうです。しかし彼女は二冊目の句集出版祝賀会の後で、消息を絶ちました。
美しく、謎めいた鈴木しず子と、その大胆な作品は、世間の好奇の目にさらされながらも、彼女は真剣にその運命を生き抜いたのだと、わたくしは思います。
好きなものは玻璃薔薇雨指春雷
実石榴のかっと割れたる情痴かな
雪はげし妻たりし頃みごもりしこと
薔薇白く国際愛を得て棲めり
遊び女としてのたつきや黄水仙
【辻まこと】
一人づつ書いてゆくのが面倒になってきましたので、「この人は知らないよー。」と書いて逃げようと思っていましたが、なんとも面白い方だった。彼の父親は辻潤、母親は伊藤野枝、父親は放浪の果てに、誰にも看取られることなく虱に食われて死んでいた。つまり餓死である。母親は家族を捨てて大杉栄のもとに走り、挙句共に虐殺されている。つまり辻まことにはほとんど家庭生活というものはなかったようだ。
『存在はいずれ両親の横っつらを張り倒さなければならない。100%信ずべきことなど信じない勇気を持つべきだ。』
この辻まことの言葉はすごい。いい言葉だ。わたくしも人の子の親だ。奥歯噛み締めて子供から張り倒されてもいいなぁなどと思う。張り倒せる子であって欲しいよ。
しかも、もっと驚いたことは、辻まことは前記したわたくしの嫌いな「尾形亀之助」の超愛読者だったのです。戦地に赴く際にも彼の本を持参していました。尾形亀之助、辻の父親が「餓死」という最期をとげたことの共通性、さらに辻の父親も尾形亀之助の愛読者だったのですね。その父親の所蔵していた本を、息子の辻まことが読んだようです。わたくしはもう泣き出したくなる。
【つげ義春】
わたしは漫画家というものは皆目わからない。「つげ義春」は名前しか知らなかったのです。一冊も読んでいないので、正津勉氏の書かれたことの半分も理解できませんでした。ただ「無能の人」には興味を持ちました。これこそ「脱力の人」ではないかと。。。
さて、七人について書いてみましたが、この七人を「脱力の人」として括るのは、なんだか無理があるように思えます。どうしてもこの「脱力」という共通性を見出すことはわたしにはできなかったのです。正津さん、ごめんなさい。この七人は正津勉氏の青春時代に、少なからず影響を及ぼした人々であり、そこに正津氏の内面の共通性などがあったのでしょうか?また正津氏の大学時代から深い親交のあった詩人清水昶氏の存在も案外に大きかったようですね。共に「赤面症」という点においても。。。清水昶氏は「脱力の人」ではなかったのかなぁ?
(2005年8月・河出書房新社)
Nov 10, 2005
一の酉
昨日は大久保の俳句文学館にて定例の勉強会でした。なんの勉強やら・・・雑談ばかりに流れていまいますが、そのメンバーたちの雑談は結構面白い。たとえば「雪」が出れば、それぞれの雪のイメージを語り合うと、そのイメージは大きな差異がある。「神」が出れば、同じことがおこる。また作品の推敲に苦心した部分を見事にいつも見抜く人がいらっしゃるが、わたしはその方の長い詩歴と経験に対してあらためて頭を垂れる思いである。
その会の後で、新宿花園神社の「一の酉」をのぞいてみました。すごい人込みで疲れましたので、早々に逃げ出しました。
これは俳句文学館のロビーに飾ってあったものですが、烏瓜かいな???
Nov 08, 2005
「眠り」について―「象の消滅・村上春樹」より
「象の消滅」は「The Elephant Vanishes」と言うタイトルで、1993年にニューヨークのクノップス社の副社長であり編集次長でもあるゲイリー・L・フィスケットジョン氏が編集し、英語版として出版した、村上春樹の1980年~1991年に書かれた短編17編の選集である。2005年に、そのもともとの日本語版を新潮社が出版したという経緯がある。このなかに収録されている一編「眠り」について考えていることを、私事を優先して(笑)書いてみようと思う。
これはわたくしの1998年頃から始まって現在も続いている睡眠薬依存生活からくる興味に外ならない。1997年の夏に父が亡くなり、その半年後の1998年冬には独り身の姉を看取った。この二人の最期の看護と看取りの期間には、施設に託した痴呆症の母を引き取ることが、ずるずると引き伸ばされる結果となってしまった。その間にも母の病は急速に進み、わたくしの力量では母を引き取れる状態ではなくなっていた。姉の死後、苦渋の決断の結果わたくしは母をそのまま施設に託すことにした。しかしその「母を捨てたという後ろめたさ」が何度も夢となった。母が夢のなかで泣いていた。叱責していた。あるいは眠っているわたしを起こそうとしていた。これが不眠の始まりだった。2001年冬に、施設から母の異変の急報を受けて、わたくしがあわてて仕事の調整をとっている間に母は施設であっけなく亡くなり、わたくしの「悔い」は、そのまま残った。もう取り返しのつかないことだったのだ。
こんなわたくしにも、自分の「眠り」そのものをしっかりと飼いならした時期が二回ある。はじめは赤ん坊との日々だった。二度目は老いた両親の介護と看護、姉の看護の時期である。夜間すばやく起きて異変に対処し、パタンと眠る。実にうまく「眠り」を飼いならしていたのだった。
わたくし自身はこれを病気とは受け止めていない。薬を飲めばその分量だけの睡眠が保証されるわけで、それによって支障のない目覚めている時間も同時に保障されるのだから。むしろ睡眠薬服用によって、夜間の不眠による昼間の生活の困難さからも開放されたのだともいえる。しかし、服用を増量させると「夢の領域」は完全に取り払われてしまうことになるので、夜の白い精霊を飼いならすにはそこそこの術も必要のようだ。とはいうものの「不眠」の人間への興味というものは常にある。
前置きが長すぎた(^^;。さてこの「眠り」の主人公は、歯科医の妻であり、小学生の男児の母であり、経済的にも精神的にも難題をかかえている女性ではないが、潔癖と思えるほどにみずからの体形の維持に熱心な女性であり、定期的な水泳も欠かさずに通っていた。彼女の一回目の「不眠」は結婚生活の前の大学生の時に訪れたが、その決定的要因はわからない。その時は昼間の生活の困難さも伴っていたので、この「不眠」は正常(?)だと言えるでしょう。
二回目の「不眠」は「夢のなかでの金縛り」から始まったがその原因は不明である。しかし彼女は起き続ける生活に苦痛がないという不思議な症状を呈して、真夜中にはそれまであまり口にしなかったアルコールやチョコレートを食し、そして学生時代に戻ったかのように読書に熱中していた。明け方にはコーヒーとサンドイッチを食べ、起きだしてくる夫と子供にはいつも通りに朝食を作り、二人に「気をつけて。」と言って送り出している。家族は彼女の「不眠」には全く気付かないほど熟睡しているのが不思議だった。
そうした日々のなかで彼女は夫や子供を初めて遠い目で見ることになる。目覚め続ける生活のなかで彼女は初めて「家族」の日常にひそむ「撓み」や「醜悪」に気付いたのかもしれない。そしてある深夜に、かなり古くエンジンのかかりにくい彼女専用の車で深夜のドライブにでかけてしまう。停車した途端に車の両側に見知らぬ男たちが集まり、外側から揺さぶりを掛けられて、そこから逃げようにも、車のエンジンがかからない。彼女は闇のなかで泣くだけだった。男たちは彼女の車を倒そうとしていると感じる。ここでこの物語はおわる。それは「死」の予感なのか。あるいはこの奇妙な不眠生活への少々乱暴すぎる終止符なのだろうか?「翌朝の新聞記事には・・・」などという結末も書かれていない。それともこれは長すぎる夢だったのだろうか?
話題は急転換しますが、詩人中井英夫の詩集「眠るひとへの哀歌・1972年思潮社刊」のなかには、このような作品がある。この詩集も「眠る・・・」という言葉にに吊り上げられて開いてしまった。。。
不在の手
たばこが煙をあげている
いつまでも灰皿でけぶっている
誰かがいつか手をのばして
そのたばこをつまむのだろうと
見つめていてついに
手のあらわれなかった
夜
手の持主は
とうに眠ったのか
たばこだけが
まだ煙をあげている
この詩は「眠り」に取り残された人のことだろう。あるいはまだ帰ってこない未決のままの死者への語りかけだろう。眠れずに待っているのだが、待つ人はなかなかここへ戻ってきてはくれない。眠りとは「死」の領域なのだろうか?それとも「夢」の領域なのだろうか?「眠るたびに死の練習・・・」という詩を書いたのは誰だったかな?「人間は眠るたびに死に、目覚めの中で生を得る」と言ったのはピタゴラスだった。ピタゴラスさんは正論すぎてつまんないけれどね。
【付記】
このピタゴラスさんへのわたくしの発言に対して、お叱りを受けました(^^;)。この言葉の抱えている思想の歴史の重さをもう一度再考するようにとのことです。お叱り深謝致します。
Nov 04, 2005
Oct 30, 2005
☆ピポ☆のハロウィン
カボチャの上に鎮座しておりますのは、桐田真輔さんお手製の☆ピポ☆人形です。工作人さん、ありがとうございます(^^)。それからかわいい小さなふくろうの仲間たち。。。
諸聖人飴のつぶてをあげましょか 昭子
Oct 26, 2005
ついてゆく父親 芹沢俊介
まずはじめに、この本に関しては、ちょっと長い文章を書くことになるだろうと思いました。また、このブログを読んで下さっている方からの「エッセーを書いてみないか?」というアドバイスも踏まえて、読書感想文というよりも、エッセーにより近い形で書いてみたいと思います。さらにこの本は三章に分かれていますので、わたくしも章ごとに書いてみることにしました。
【第一章 分解する家族】
まず、ここで「家族」のキーワードとして使われている言葉「エロス」の解釈ですが、これは「フロイト」や「プラトン」的解釈ではなく、わたくしは「ギリシャ神話の愛の神」と解釈したいと思います。芹沢俊介は「家族」あるいはその要となった「女性」という存在を時代を追って、類別化してみたり、統計やその数値、アンケート結果、あるいは実例や小説などを用いて、論じようと試みていますが、そのどこにもわたくし自身、あるいはわたくしが、かつて「家族」と言っていたものがはあてはまることはないのでした。
暴論を言うことを許していただきたいが、女性は「家族論」など書かぬ。これは本来、類型化が不可能なものであって、一つの家族には一つの「家族論」が存在するものだと思うからだ。
「家族」とはつねに幻想の建造物である。この「幻想」の修復を幾度も試みながら、その日々から逃走することなく生きることが、おそらく「エロス」であり、「家族」の完成図なのではないだろうか?そして「家族」とは「子供の巣立ち」ということも含めて、いつでも崩壊するのだという確かな可能性をもはらみつつ成立しているものでもある。
かつてその崩壊を免れさせたものは「家長制」であり、その底辺にいた女性の「忍従」であった。この女性の存在は見えにくいかもしれないが、大きな力で家族を結束させてきたと思う。そして子供は、次世代を担い、また将来的には社会的生産力ともなる期待のもとで誕生したのだろう。この古い家族形態を徐々にゆっくりと変化させていったものは「女子供の反旗」に他ならない。
またこの章には「非婚」という言葉が登場するが、これが今日の「家族」の新しい形態を生みつつあるようです。「結婚」という可能性をいつも抱えながらの「未婚」、あるいは「離婚」を離別として受け止めずに、夫婦から友人関係に移行させた人間関係などを指しているようです。それはそれでいいのかもしれないが、「深傷」を負わない生き方を選択するという人間のひ弱さを垣間見るようであり、そこにはすでに「エロス」は存在していないように思えてならないのだが。。。
【第二章 教導する父 支配する母】
かつては「忍従」という位置にいながら「家族」の核となっていた女性が、徐々に「自分」に目覚めることによって、とりわけ「育児」が女性の生き方の予想外の大テーマとなってしまった。それはさらに母親の子供への「虐待」という一つの社会問題にまで広がってしまった。芹沢は、さまざまな実例を挙げながら〈危機1〉というように母親のこの病状の度合いを分析してゆくのだが、このように分析されてゆく過程を読んでゆくのは背中が寒くなるような寂しさがありました。さらにそれらの母親の子供への「虐待」のルーツを辿ってゆくと、母親のそのまた母親に行き当たってしまうことは、さらに哀しいことだった。
これを書いているわたくし自身も、かつては母親に叱られた記憶はかなり多いと思う。それを何故忘れずにいるかと言えば、大方母親の叱責や禁止などの理由がわからなかったからです。わからないながら、とりあえず母親のための良い子になるという「理不尽」を、重すぎるほどではないが抱えて生きてきたことは確かなことだった。時を経て、わたくしが母親になった時、その子供時代に抱えていた「理不尽」は、取りも直さず我が子の側のものとなったのだろう。これ以上は我が身に刃を突きつけるようなことになりますので、この辺で。。。
子供は無力であり、生きていく上でのさまざまな判断基準を父親よりも「母親」に学ぶものだから、日常における「母親」の会話や行為は、鏡のように子供に反映するものだ。そのことだけはどのように時代が変わり、女性の意識が変わっても、変わることはない。次に「虐待」する母親に育てられた子供が大きくなった時どうなるのか?という方向に目を向けると、そこには「アダルト・チルドレン」が浮上してくる。
この「アダルト・チルドレン」現象が現実のものとなった時には、このタイトル通りに「教導する父」が介入してくることになる。父親は自らが生きて、家族のために働いてきた経験からの尺度で子供を教導しようとすると「暴力」「甘え」「不登校」「ひきこもり」などは、とんでもない人生への「甘え」だということになるので、子供への強烈な「教導」が開始されることになる。母親に任せきっていた子供への接触を、父親がとって代わろうとしたところで、そこに到るまでの父親の傍観者としての時間は取り戻すことはできないのだ。
子供が何故甘えてはいけないのか?何故自立しなくてはいけないのか?何故社会的な規律を守らなくてはいけないのか?子供が親に甘えたければ気が済むまで甘えさせてあげればいい。その内に必ず子供はそれに飽きて親を離れる。そこで「甘え」は自然に終わるものだ。社会的規律などどんどん破ればいいと思う。そんなことは子供時代にしかできないのだから。
この章の最後で、この本のタイトルの意味がどうやら引き出されてきたようだ。『自己の内部の教導する父を解体する道を進むことはむずかしくないだろう。つまり妻についてゆくことで、子供についていくことはできるのである。』とむすばれている。
【第三章 教育家族の闇から】
まず私事から書くことにする。子供を初めて教育機関(幼稚園)に送り出す時のわたくしの気持は「子供を濁流に放り込む」思いだった。目をつむって我が子の背中を押したのだと今でも思っている。そして次の小学校以降からは、わたくしは周囲の母親たちの「異様さ」に驚かされた。彼女たちには子供を「レースの勝ち馬」を育てるような勢いがあり、その熱意に唖然としたのだった。このわたくしの二つの記憶は、やがて世間で騒がれ始めた「アダルト・チルドレン」事件にすべて繋がっていった。それらの事件の根はそこからすでに始まっていたのではないだろうか?
芹沢俊介は、ここでさまざまな事件を例にあげて、詳しい分析を試みているが、わたくしはそこに新しい論点を見出すことはなかった。すべてはすでにあの時から始まっていたのだからという思いの方が強い。「養育」「保育」ではなく「教育」を主体とした家族のなかでは子供は荒廃し、窒息する。幼稚園から果ては大学院まで、子供には教育機関に通う長い歳月がある。それは、ある意味では子供の人生そのものに対する一種の「暴力」にもなりえるのではないだろうか?
子供の幼さゆえの「傲慢性」と父親の「教導性」とは常に対立する。しかし子供は傲慢であるべきだ。生意気なほどいいと思う。親がひるむほどの言葉が子供の口から飛び出すことは、一編の詩を読むようにうつくしいものだ。
【付記】
わたくしは、二十代で新しい「家族」の出発点にたった。若さゆえ「エロスの永続」という幻想をも引き連れて、二人の子供の母親にもなった。この時にはおそらく「家族」というものについて何も考えていなかったと思うが、この本を読んで、わたくしが新たに何かを発見したわけでもない。わたくしが「家族」と「もう一世代前の家族」に明け渡した人生の時間は非常に長かったと思うが、決して立派なものではなかったし、さりとて無駄だったとも思わない。ただ放り出してしまえば、またたくまに死んでしまうかもしれない子供(あるいは老親)の「生命の水源」のようなものがいつも存在していて、それによってわたくしは生かされていたのだろう。そしてこれだけの長い時間を経なければ「家族」というものは見えてはこなかっただろう。しかしその役割はすでにすべて終わった。
(2000年・新潮社刊)
Oct 19, 2005
Oct 14, 2005
眼鏡ホルダー
わたしの大好きな詩友のS・Kお姉さまから、お手製の眼鏡ホルダーをいただきました。「いつもシックな(ほとんど、わたしが黒や灰色の服ばかり着ているからです。)服装の昭子さんなので。」ということで少しはなやかなものを作って、送ってくださいました。嬉しいからここにご紹介します(^^)。ありがとうございました。
このお姉さまは「十年後はこういう女性でありたい。」という、わたしの目標の方ですが、多分十年後のわたしは相変わらずだろうとおもいますです。はい。
せめてうつくしい秋空のプレゼントを(^^)。。。
Oct 09, 2005
第七官界彷徨 尾崎翠

この小説が最初に単行本化されたのは、一九三三年(昭和八年)、著者はその時三十七歳であった。この昭和初期という時代に、このような突出した個性の女性作家が存在したことには驚いてもよいのではないかと思う。(わたしは遅れてきた読者だなぁ~。独り言です。)
主人公は、赤いちぢれ毛の若くてやせっぽちな娘、「人間の第七官界にひびくような詩」を書くために上京し、兄や従兄の家の炊事係として住み込んだところからはじまる。彼女が「第七官界」が何であるかを知っていたのかといえば、そうではないのが難儀なことであり、ノートはいつまでも空白であった。名前は「小野町子」と、なにやらいにしえの佳人に似ていて、彼女はこの名が憂鬱らしい。
そこの住人は三人いる。
(1)小野一助。町子の兄。精神科医であるが、患者が心を開かないために、みずからが病んでいるようだ。ややこしいドクターである。「分裂心理」が彼の専門分野であるようだが。。。
(2)小野二助。町子の次兄である。農業科学者であり、肥料研究に余念がない。みずからの失恋体験を「蘚」の花粉交換、発情、開花にたどらせ、恋の成就をそこに託した叙情的科学者である。彼の部屋からはいつも家中に「こやし」の臭いが広がっていて、家族を苦しめた。しかし、二助は、一助の説く「蘚の分裂心理」やら、三五郎の音程のおかしいピアノの音や発声練習に苦しめられ、それが蘚の生育を妨げていると信じてやまない。
(3)佐田三五郎。町子の従兄である。雨漏りのするこの古い家に置かれた、調律されていない古びたピアノに苦しみながら、音楽大学受験中の身であるが、絶望的。町子とは幼少期から兄妹のように育っているために、キスさえも性的な意味をほとんど持っていない。
この三人の奇異とも個性的とも魅力的ともいえる、行動や発言、あるいは研究などに触れながら、それに従いつつ暮らしながら、町子は少しづつ「人間の第七官界」へ結びついてゆく道筋を探しだそうとしているようだが、そのスローテンポがなんともよろしい(^^)。そして町子はついに作品は書かなかったけれど、彼女そのものの存在がすでに「第七官界」だったのではないだろうかと思える。
一見夢見がちで平凡に見えるこの娘は、じつはこの三人の男たちのエゴイズムな日々を通して、その日々に翻弄されることのない、女性の深奥にある揺るぎないものを無意識に育てている娘であり、この娘はおそらく著者自身なのでしょう。
Oct 08, 2005
太宰治 人間失格
秋である。柿の実を見るときまって、この小説を思い出す。もう著作権が切れているようですから、長文引用しましょう。
『また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」
と言いました。
自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓(みみず)の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。』
柿の実を見ながらいつもわたしは苦笑する。「なんと女性は甘くみられたものか。」まぁ。どうでもいいですけれど。。。
柿一つ足の先まであまくなる 昭子
おまけの甘味。たしか一個五百円以上とかいうケーキを買ってきてくれるはずだった娘のお土産である。どこでこれに切り替わったのか、女の子の気持はわたしにもわかりませぬ。。。画像をクリックして、拡大してみてください。
Oct 04, 2005
松本馨氏の追悼講演会
詳細はここをご覧下さい。
10月1日、国立療養所多磨全生園のコミュニティーセンターにおいて、5月23日に逝去されました「松本馨」氏の追悼講演会が行われました。松本氏は文筆家であり、「世俗の中の福音」といわれた無教会主義キリスト教の伝道者でした。また、多磨全生園入所者自治会を再建され、1974年~1987年まで自治会長を努められ、「らい予防法」と闘い続けた方でした。途上で失明されています。
わたしには、これ以上はなにも書けません。こうした問題に長い間向き合って、さまざまな活動を熱心にやっていらっしゃる方々はたくさんいらっしゃいます。わたしはまだどう向き合っていいのかわからないままです。2001年の半年間の膨大な量のハンセン病の方々の詩歌に触れたという貴重な体験を生かすことができないようです。
Oct 03, 2005
プラート美術の至宝展
先日、桐田さん、足立さんとともに損保ジャパン東郷青児美術館に行ってきました。
「プラート」には「聖帯伝説」があり、聖母マリアの「聖なる帯」が実際にあると言われています。毎年9月8日には、大聖堂でこの帯を人々に見せる儀式があるそうです。この絵画でマリアが手にもっている「腰紐」のようなものです。1300年代のこの都市では、絵画の注文が盛んで、それに応えてさまざまな画家が宗教画を描いていました。その絵画たちもさまざまな個性を持っています。
美術展などを見た後で、いつも思うこと。わたしが気に入った絵の複製写真とか、その他もろもろの関連商品があったためしがないこと。毎回高い画集を買うのも、財政と置き場所の問題もあるのだ。今回最も気に入ったものは、ラッファエッリーノ・デル・ガルボ(本名・ラッファエリーノ・デ・カルリ)の描いた「聖母子と幼き洗礼者ヨハネ」でした。ヨハネの可愛かったこと♪しばらくその前を離れられませんでした。
↓の画像は、その美術館の入り口近くにある窓から撮った新宿の街と御苑です。
↓おまけ。おのぼりさんみたいに都庁展望台にも登りました。東京の夕暮れです(^^)。
Sep 29, 2005
ぞうのうんこ 穂村弘&東君平
二十八日午後、久しぶりに近所の図書館に行って、久しぶりにあちことと見てまわった。立ったり、座り込んだりの姿勢を繰り返していたら、立ち上がる時に脳貧血状態になってしまったので、フラフラしながら取りあえず借りてきた本がこの本と「尾崎翠」である。帰ってきてから少し眠って、こちらを先に開いた。これは穂村弘の過去の短歌作品と、東君平の過去の絵とで構成された、薄い本である。
サバンナの象のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさみしい
穂村弘の短歌のなかで、これが一番気に入っているのですが、表紙のイラストを見て、びっくりした。あたしは、サバンナの草原に落ちている、風に少し乾きかかっているような巨大な「うんこ」を想像していたのだが・・・。東君平氏の意図がわかりませぬ。まぁ。どうでもいいですけど。。。
「みえるものが真実なのよ 黄緑の鳩を時計が吐きだす夜も」
「時間」を語る言葉はなんでも好きである。「時間」は代用品がないから。「真実」「事実」はどちらが「より真実」であるか?「事実」にほんの少しの「嘘」を化合させると「より真実結晶体」ができるのであるとあたしは思ふ。それが一番うつくしいと思ふ。
尻にあるネジさえ巻けばシンバルを失くした猿も掌を打ち鳴らす
ううむ。「オペラ座の怪人」を思い出す。
ついでに退屈きわまりない顔をして、溜息まじりでこの映画に付き合ってくれた奴のことも思い出す。
ほんとうにおれのもんかよ 冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
そ奴、こんな夜はないか?
なきながら跳んだ海豚は まっ青な空に頭突きをくらわすつもり
鳩を追いかけ回したり声あげて泣いていいのは五才までだぞ
そうだ。
「酔ってるの?あたしが誰かわかっている?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
「猫投げるくらいがなによ 本気だして怒りゃ ハミガキしぼりきるわよ」
この二首はあたしが意図的に並べたわけではありませぬ。念の為。
本のなかでそういう順番になっていました。
鳥の雛とべないほどの風の朝 泣くのは馬鹿だからにちがいない
あたしの脳貧血はまだ治っていないらしい。。。。。
Sep 27, 2005
退廃姉妹 島田雅彦
「そんな日本へようこそ。いつの時代も退廃姉妹がお相手します。」これがこの小説の結びの一行です。この小説は東京の目黒の一家族の辿った戦中から戦後六十年までの歴史が書かれています。主人公は敗戦を女学生の時にむかえた美しい二人の姉妹(有希子・久美子)です。母親は戦争勃発直前に恋人と心中。父親は映画制作会社をやっていましたが、戦時下では戦争高揚の映画制作を余儀なくされ、また戦後には、「国策」としての「売春組織」へも協力をしていました。一家三人の貧しい生活の最中、父親は納得のいかない罪(米兵の人肉を食した。)により検挙され、父の借財を背負いながら、姉妹は生計の道を考えなければならなかった。
やがて目黒の自宅は、二人の女性も加わって「スプリング・ハウス」となりました。姉は体を売らず(生きて帰れたら、必ず逢いに来る、と約束した後藤青年のため。)妹を含めた三人の女性は体を米兵に売りました。父親が釈放されるまで、その生活は続き、姉は後藤と再会、父の帰宅とともに「スプリング・ハウス」は閉じられた。
姉の有希子は特攻帰りの後藤とむすばれる。有希子はその時、それは原初から引き継がれた人間の営みのその末端にいることを思いめぐらして、亡き祖母や母の視線にさらされている自分の肉体を思うのだった。(稲葉真弓の詩集「母音の川」などをふと思い出す。)
(前略)
祖祖祖祖母から祖祖祖母 祖祖母から祖母に 母にと
白い種子は流れてきた
うめき 叫び ゼリーのようにふるえ
芽吹き 噴火し 落下してゆく カラダのなかの
なづけようもない種の反復
蛇行する川 次々と生まれる川を
きょうも少女たちが渡ってゆく
白い素足を濡らし 生温かい声を上げ
ここは木曽川
(カラダなんてウ~ザッタイじゃん)(足から魚になりたいよ)
(後略)
「22・それでも川は流れていく」より抜粋。
また、二人の姉妹はそれぞれに生き迷いながら、未遂に終わった自殺(母親と同じ)も潜り抜ける。妹の久美子は女優になり、「肉体の門」の主役を演じて好評を得たが、結婚。姉妹は共に母となり、祖母となってゆくが、孫たちはまたその時代の「スプリング・ガール」を繰り返すのだった。この本来重いテーマを島田雅彦はスムーズにストーリー展開させながら、見事にその裏側には、島田特有の戦争と天皇制への皮肉あるいは批判が、チクチクと姿を現すのが小気味よい。
母親の恋と自殺、父親の売春組織の仕事、これらは結局二人の娘が轍を踏む運命を背負っていた。そしてそれは形を変え、表情を変えながらも世代を流れてゆくのだった。戦争もまた。。。
【付記】
戦争体験のない島田雅彦が、何故このような小説を書いたのか、その後でずっと考えていました。そこに「小熊英二」という存在も浮かびあがってきた。まだ未読ですが、この二人の対談もある。つまり時代は受け渡されてゆく。戦争も国家も天皇制も、経験者は高齢化しました。今その実体験のない若い世代の視点から、新たにこれらの問題を雪ぎ直し、再検討されることは必要なことかもしれません。
(二〇〇五年八月十日・文藝春秋刊)
Sep 22, 2005
横浜の風景
かもめの行列。。。↓
どうやら「帝蚕倉庫」と書いてあるらしい。
大正時代にできたらしいという情報をいただきました。
蔦が絵画のように見事です(^^)。↓
大観覧車の窓から撮りました(^^)。↓
(九月十六日)
Sep 20, 2005
来山百句
この著書は大阪の俳人小西来山(1654~1716)について、俳人坪内念典を中心とした「来山を読む会」のメンバー八人がそれぞれの分野を担当しながら、俳人小西来山を浮き彫りにしようとした一冊です。紹介されている百句については、四季に分けて、それぞれ二人づつの俳人が解説を付けていますが、正直申し上げて、これは行き過ぎだと感じる。それは来山の句は、時代はかなり旧いのですが、わかりやすく、現代にも違和感のない言葉だからだと思いますし、また親切が過ぎて、読者の「?」や「誤読の楽しみ」という空間がすべて埋められてしまったように思えます。(素人の暴言ですねん(^^)。)では少しだけ四季に沿って句を紹介してみましょう。ここから来山の生きた足跡もかすかにたどれたらよいのですが。。。
(春) 春の夢気のちがはぬがうらめしい
散る花にねてゐて蝶のわかれかな
むしってはむしっては捨て春の草
(夏) 早乙女やよごれぬ物はうたばかり
みじか夜や高い寝賃を出した事
星あひや思ふねざめや蚊屋の天
(秋) 秋かぜやことし生まれの子にも吹く
幾秋かなぐさめかねつ母ひとり
萩さかば鹿のかはりに寝に行かん
(冬) お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ
揉みにもむ歌舞伎の城や大晦日
酔うて酔うて氷くだいて星を呑む
小西来山は、1654年(承応3年)大阪に産まれる。父親の家業は薬種商だったが、来山9歳の時に亡くなりました。その後は母親との2人暮らしでしたが、生活の詳細はあきらかではありません。俳句は7歳ころからふれているようですが、25歳ころの西鶴との接点が来山の俳人としての出発のようです。この年に「法体」となっていますから。
来山は48歳の時に母親を亡くします。その後の51歳の時に来山ははじめて妻を娶ったようですが、わずか3年で妻子を亡くしています。その後(1708年・宝永5年)に書かれた俳文「女人形記」は、清元「保名」に取り入れられたことによって有名になり、「来山の女人形への偏愛?」はクローズアップされてしまったようです。以下に俳文を抜粋してみます。
『(前略)ものいはず笑はぬかはりには、腹立ず悋気せず、蚤蚊の痛を覚ねば、いつまでもいつまでも居住居を崩さず。留守に待らんとの心づかひなく、酒を呑ぬは心うけれど、さもしげに物喰ぬてよし。白きものぬらねばはげる事なし。四時おなじ衣装なれども、寒暑をしらねば、此方気のはる事更になし。(中略)愛のあまりに腹の上に置時は、呼吸にしたがいてうなずくうなずく、細目してうなずく。』
この俳文に付けられた句は「折事も高根の花や見たばかり」、人形は伊万里柿右衛門様式の陶器製であり、この当時ヨーロッパに輸出されたりもしていたもので、特別なものではない。最後の『愛のあまり・・・』あたりを読むと何故か八木重吉の詩「人形」などを思い出す。
ねころんでいたらば
うまのりになっていた桃子が
そっとせなかに人形をのせていってしまった
うたをうたいながらあっちへいってしまった
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばいになったまま
胸〈腹〉をふくらませてみたりつぼめたりしていた
来山はその後、57歳で再婚し、二人の男児に恵まれますが、長男は1歳で亡くなっています。来山は二人の子供を亡くしたことになります。前出の句『秋かぜやことし生まれの子にも吹く』がせまってくるようです。また『お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ』の一句は、どうやらお上からお縄を頂戴するということもあったらしい。これも歌舞伎「来山」として上演されたらしい記録がありました。清元「保名」と同様に来山の句がちりばめられているようです。小西来山とはそうした話題性の高い俳人だったようです。
閻魔夢魔添い寝もよろしあきの夜 昭子(お粗末でした。)
千々にくだけて リービ英雄
この「千々にくだけて」というタイトルは、芭蕉の松島を詠んだ句「島々や千々にくだけて夏の海」からとられているようだ。これが最初に登場するのは、ヘビー・スモーカーの主人公エドワードが禁煙の飛行機の窓外に広がる島々を見て、苦し紛れに思い出したものである。禁断症状のなかで、その言い難い心身状況を、日本語の句と、その米語訳との混線のなかにあらわしているようです。しかしそれはやがて彼のその後に起こる出来事の予兆ともなったようです。
エドワードは米国人だが、日本に住み日本語で著書を書いている。その彼が忙しい仕事の合間をぬって、米国の母親と妹に会いにゆくために飛行機に乗る。ヘビー・スモーカーの彼は、長時間の直行便に乗ることが出来ず、乗り換えを入れる便にわざわざ乗ったのだが、それでもその禁断症状はすさまじく「嗅ぎ煙草」「噛み煙草」など、わたしがまるでしらなかったものが登場してきて驚かされた。
しかしエドワードの乗った飛行機が米国に着く前に、あのニューヨークの「9・11事件」が起きたのである。「深夜でもいいから、ニューヨークの妹のところに帰りたいのだが。」が「今夜なら徳川時代の日本に上陸できるか。」に変換されそうな錯覚におちいるほどにエドワードの二国語が混乱をはじめることになる。
エドワードは飛行機を降り混乱する空港を抜けて、足止めを余儀なくされて入国したところはカナダであった。バンクーバーのダウンタウンのホテルにようやく入ったものの、彼はテレビ・ニュースを見たり、消したりを繰り返し、母親と妹との困難な連絡をとったりする時にも、彼の二国語の混線はますますくっきりと浮き彫りされてゆくのである。
民族の坩堝のような大国に起きる大惨事は、複雑な多面性を持つものだからとても言い切れるものではないだろう。さまざまな肌の色、さまざまな言語、さまざまな世代とその親族、宗教、思想、どこからも切り込めない問題を抱えたまま、人々の心に長く重くいだかれてゆくのだろう。そしてその惨事に巻き込まれることのなかった幸運な人々もいる。そうしたさまざまな局面を、エドワードは深く深く二国語の悲しみとしてきしむのだったと思う。
(二〇〇五年・講談社刊)
