Jul 06, 2005

袋小路の男  絲山秋子



 この小説の扉には、ロレンス・ダレルの「ジュスティ―ヌ」の一節が置かれている。『「女に対してすることは三つしかないのよ」そうクレアはある時言った。「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」』……これを「女」を「男」に置き換えてみるのはどうだろうか?

 『あなたは、袋小路に住んでいる。つきあたりは別の番地の裏の塀で、猫だけが何の苦もなく往来している。』……と始まる小説である。主人公は「私」。『それでもくじけない。どこかの作家が言っていた。「もっともゆたかな愛は時の仲裁に服するものである」って。私の味方は時間だ。今はだめでもきっといつか。』……中間部では「私」はこんなつぶやきをもらした。
 
 読み終えてわたしはこの「私」を哀しんだ。愛している「あなた」は約束を次々に破ってばかり、長い期間放っておかれたり、気まぐれに呼び出されたり、すべてを「時の仲裁」に服して生きている「私」。これは「純愛」ではない。「私」の生きている「存在証明」を「あなた」に仮託しているだけではないのか?しかもこの「あなた」は「私」が無意識に作りあげた「袋小路」から抜け出ることをしないのだ。「私」は傷だらけの自分に気づいていない。

 この本にはもう一編「小田切孝の言い分」が収められている。主人公は「あなた」から「小田切孝」に代わる。そして「私」は「大谷日向子」として登場する。「袋小路の男」の物語が裏がえされたように展開する。ここでわたしの「哀しみ」は少しだけ救済される。物語の最後では「小田切孝」は「大谷日向子」の愛を受け入れるからだ。決して「結ばれる」という形ではないが……。

 女性が仕事を持ち、一人で生きてゆける時代は来たが、しかしこの女性たちの生き方が真の自立というものではないのだと思えてくる。出会う男性がやはり女性の生き方に大きく影を落しもするし、振りまわされもする。かつての「男尊女卑」の色濃い時代を生きた女性たちよりも、はるかにあやうい生き方をしているように見える。彼女たちは決して「新しい女性」でも「自立した女性」でもないようだ。

 この本にはさらに短篇「アーリオ オーリオ」が収められている。主人公「松尾哲」は清掃工場の機械制御室に勤務する中年男性。「美由」は哲の姪(中学3年生)である。ある日二人はプラネタリウムを観に行く。その時の哲のランチ・メニューが「アーリオ オーリオ エ ペペロンチーノ」だった。これはオリーヴオイル、ニンニク、唐辛子だけで作るスパゲティー料理の名前である。それから二人は文通を始める。すべてが「宇宙」についての話題であった。「破壊」や「消滅」をこわがる少女、「今我々が見ている星の光は、すでに破壊した星の光ではないだろうか。」と思う男とのやさしさに満ちた文通だった。この三篇目でわたしはようやく微笑むことができたようだ。

 この三篇に共通するテーマは、ある意味では社会の背面のようなところで生きている男性が、女性の生き方を目には見えないようだが、しかし大きく揺さぶりをかけているというところにあるように思える。

(2004年10月29日・講談社刊)
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