Nov 08, 2009

メモ

RIMG0003


http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_01/a01_kan/
(メンテ)

http://www.haizara.net/~shimirin/on_poem/rin_1/upload.php
(アップロード)
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Sep 25, 2009

別室

Fukurou

 季節はめぐり、立秋をすぎました。少しだけ気分を変えて、「ふくろう日記・別室」を開きました。ご訪問をお待ちしています。しばらくはここをお休みいたしますが、鍵をかけることはありません。またここに書くこともあると思います。では、よき秋の日々をお過ごしくださいませ。
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Sep 17, 2009

ベルギー幻想美術館

 15日午後より、澁谷のBunkamura・ザ・ミュージアムにて観てまいりました。副題は「クノップフからデルヴォー、マグリットまで」となっています。大雑把に括れば19世紀末のベルギーの「象徴主義」の画家たちと言えるのでしょうが、それぞれの目指した絵画は、さまざまな主張と試みがみられます。

フェルナン・クノップフ(1858~1921)
ポール・デルヴォー(1897~1994)
ルネ・マグリット(1898~1967)
フェリシアン・ロップス(1833~1898)
ジェームズ・アンソール(1860~1949)
ジャン・デルヴィル(1867~1953)
エミール・ファブリ(1865~1966)
レオン・フレデリック(1856~1940)

 これらの画家の113点の作品は「姫路市立美術館」所蔵のものです。1983年(昭和58年)に開館したこの美術館は、開館以来、ベルギー美術品の収集に力を入れたのは、姫路市とベルギーの工業都市シャルルロワ市と姉妹都市関係にあったからです。ベルギーの近代美術史を語れるほどの作品が収集されているとのことです。


 1830年に建国したベルギーの文化はフランスの影響を大きく受けていました。フェリシアン・ロップスは、パリで活躍した画家で、風刺画や本の挿絵を多く描くようになり文学者との交流を深めていきました。詩人シャルル・ボードレール(1821~1867)の「悪の華」の挿絵も担当しています。こうした文学者たちとの交流が多く見られるというのが、19世紀ベルギーの画家の1つの特徴と言えるかもしれません。

akunohana
(多分、この絵ではないか?と思います。展覧会にはありません。念の為。)

*訂正。この表紙絵は「エドワルド・ムンク」の「マドンナ・1895年」です。失礼しました。

 またジェームズ・アンソールの「キリストの生涯・32点組」のリトグラフ。あるいはポール・デルヴォーの「クロード・スパークの小説「鏡の国」のための連作・最後の美しい日々・8点組」のエッチングや「ヴァナデ女神への廃墟の神殿の建設・11点組」のエッチングなどもありました。

 この絵画の時代的背景をみますと、19世紀後半から20世紀前半にかけてのベルギーは、本国の何十倍もある植民地(コンゴ)からの富が産業革命を加速させ、飛躍的な繁栄をもたらした時代です。その恩恵は芸術の世界にも及び、リベラルな若い実業家たちは新しい芸術を支えました。こうして芸術は宮廷文化から、裕福な階級の人間たちの文化に変わってゆきました。宮廷に庇護されることから、値踏みされる芸術の時代の到来と言ってもいいかもしれません。しかしながら皮肉にもその芸術の中身は、発展する近代社会における人間の疎外を表わすものともなったのです。

 展覧会全体のなかで気付いたことですが、女性を描いた絵画の圧倒的な多さでした。それは美しい女性像であったり、あるいは世紀末の魔性の女性であったりと。。。これがベルギー幻想美術の1つの特徴です。

jan_delvil
(ジャン・デルヴィル夫人・ジャン・デルヴィル)

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(ヴェネツィアの思い出・フェルナン・クノップフ)


 さらに産業革命は、19世紀後半のベルギーでは労働争議などが頻発していました。画家たちも労働者の現実に目を向け、それを題材にした作品も描きました。

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(チョーク売り・レオン・フレデリック)

 絵画のみならず、あらゆる芸術は、その時代背景(戦争、経済など。)を如実に表わすものであることをわすれてはならないでしょう。
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Sep 15, 2009

オルフォイスへのソネット・・・メモ3 

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 順不同ではありますが、このソネットのなかで何度もわたくしが立ち止まった「第二部・24」について書いてみます。冒頭からは大分飛んでしまいますが、もともとソネット全文について書くつもりはありませんので、気付いたことから書いてゆきます。ちなみにドイツ語は全くお勉強したことはありません。赤子と同じです。翻訳者の註解を頼りにしつつ、反面ナマイキにもそれらを疑ったりしながら読んでいます。だって翻訳者同士の解釈の異論が錯綜するのですから、最後の決断はこの未熟な読者のキッパリ(?)とした判断しかないのです。

  *   *   *

《第二部・24》

おお この歓び、つねに新たに やわらかな粘土より!
最古の敢行者たちにはほとんど誰も助力しなかった。
にもかかわらず、街々は祝別された入江にそって立ち、
水と油は にもかかわらず 甕をみたした

神々を、まず大胆な構想をもって、私たちの描く者たちを
気むずかしい運命はまた毀してしまう。
だが神々は不滅の存在。見よ ついに私たちの願いを聴き入れる
あの神の声が 私たちにひそかに聴き取れるのだ。

私たちは 幾千年も続いてきたひとつの種族――母であり父たちであり
未来の子によってますます充たされてゆき、
のちの日にひとりの子が私たちを凌駕し、震撼させるだろう。

私たち 限りなく敢行された者である私たちは、何という時間の持ち主なのだろう!
そしてただ寡黙な死 彼だけが知っているのだ、私たちが何であるかを、
そして彼が私たちに時を貸し与えるとき、何をいつも彼が得るかを。

(田口義弘訳・「オルフォイへのスソネット」河出書房新社)


ゆるく溶かれた粘土からうまれる歓喜、たえずあらたなこの悦び!
最古のころの敢行者を助けた者はほとんどなかった。
街々は、それにもかかわらず祝福された入り海にうまれ、
水と油は、にもかかわらず甕をみたした。

神々を当初われらは大胆な構想をもって設計するが
気むずかしい運命がふたたび砕いてしまう。
しかし神々は不滅だ。ついには望みをかなえてくれる
あの神々の声音を盗み聞くがよい。

われらは何千年を閲した種族。母たち そして父たち、
未来の子によっていよいよ実現せられ、
ついには、いつか、その子らはわたしたちを超え、わたしたちの心をゆるがす。

限りなく賭けられたもの、なんとわれらの時は広大なのか!
そして無言の死だけが、わたしたちがなんであるかを見通し、
わたしたちに時を貸すとき、なにを獲(う)るかを知っている。

(生野幸吉訳「世界の文学コレクション36・リルケ」・中央公論社)


  *   *   *

 恐れもなく自己流解釈をします。「粘土」という言葉からは、当然神が人間を粘土から作り賜うたというものであるという前提はあります。「祝別された入江」あるいは「祝福された入り海」というところからは、人間の集落は必ずと言っていいほど、水辺から始まったということ(これはわたくし自身の永年の確信犯的発想です。)に繋がってゆくようです。そこには粘土で作られた家、それから甕、そしてそこには水も油も満たされている。人間のいのちはそこで「幾千年も続いてきたひとつの種族」となっていくのでしょう。そして「未来の子によってますます充たされて」あるいは「未来の子によっていよいよ実現せられ」人間社会は連鎖してゆきます。ですが気むずかしい神の手によって毀されることもある。人間が堕落した時の神の怒りでしょう。こうして人間は生きながらえてきました。「何という時間の持ち主なのだろう!」・・・と。人間のいのちには限りがありますが、それを連結してゆくことは可能です。時間はこのように神から人間に賜ったものではないか?このような解釈ではいかがなものかな?(←最後は気弱だなぁ。)

《付記》  生野幸吉訳を追加しました。
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Sep 11, 2009

オルフォイスへのソネット・・・メモ2 

Orpheus

ふたたび冒頭の「第一部の(1)」の4行について、お2人の邦訳を並べてみました。


すると一本の樹が立ち昇った。おお 純粋な超昇!
おお オルフォイスが歌う! おお 耳のなかの高い樹よ!
そしてすべては沈黙した。 だが その沈黙のなかにすら
生じたのだ、新しい開始と 合図と 変化とが。   (田口義弘訳)


そのときひともとの樹が生い立った。 おお純粋の昇騰!
おおオルフォイスは歌う! おお耳のなかに聳立(そばだ)つ大樹!
そしてすべては黙っていた。そして沈黙のうちにさえ
あらたな開始、合図、変化が起きつつあった。    (生野幸吉訳)


「メモ1」では、先走りの解釈をしてしまったようですので、改めて書いてみます。まず「オルフォイス」の歌声あるいは竪琴の音色だろうか?それによって、1本の(ひともとの)樹が超昇(昇騰)するのですが、これは耳のなかに聳立つ樹なのでした。あくまでもここでは聴覚の段階です。しかしそこには沈黙もあり、その対比のなかで、なにかが起きるであろうという予感です。大変すぐれたプロローグとなっています。「うつくしい耳鳴り」と言ったら叱られるかな?

《追記》

過去ログを検索しましたらリルケの「若き詩人への手紙」について書いた日記が出てきました。リルケに拘り続けた原点をみつけたような気持でした。
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Sep 10, 2009

オルフォイスへのソネット  リルケ ・・・メモ1 

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翻訳:田口義弘

 この詩集の初めには「ヴェーラ・アウカマ・クノープのための墓碑として書かれる」と記されています。
 
 このソネットは「ドゥイノの悲歌」が書かれた時期と大分重なっているようです。ただし「悲歌」のように第一次大戦などの大きな障害のなかで、ペンが進まず10年の歳月がかかったのに比べて、比較的順調に書かれたようです。このソネットに大きな影響を与えたものは、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」でした。この詩は手書きで紹介するのにはあまりにも長いので、ここにリンクさせていただきました。この翻訳者の方は存じ上げませんが。リルケはこの詩を独訳していますが、この「海辺の墓地」との類想と対峙が「オルフォイスへのソネット」にはみられます。

 このポール・ヴァレリーの詩は、堀辰雄の「風立ちぬ」のなかで引用されている1行「風立ちぬ いざ生きめやも」でも有名な詩ではありますが、どうもこの1行だけが1人歩きしているような気がします。
 
 「ドゥイノの悲歌」のなかで呼び出される「天使」は、彼岸でも此岸でもなく、この大きな統一体に凌駕するものとして存在しましたが、この「ソネット」のなかでの「オルフォイス」は、神話のなかに登場する比類なき楽人のことです。神ではありますが、絶対化されていながら、無常な一個の人間としての姿も見えてきます。

 冒頭の4行は・・・

すると一本の樹が立ち昇った。おお 純粋な超昇!
おお オルフォイスが歌う! おお 耳のなかの高い樹よ!
そしてすべては沈黙した。 だが その沈黙のなかにすら
生じたのだ、新しい開始と 合図と 変化とが。



 ・・・・・・とはじまります。そこから第一部(1~26)第二部(1~29)の55のソネットが続きます。この冒頭の4行から予感されることは、1本の樹が立ち「昇った」という邦訳から、地上にこの1本の樹が在るということは、葉が繁り、花が咲き、果実が実り、ということは地下に眠るさまざまな死者からの「押しあげ」ではないか?と言うことです。梶井基次郎の「桜の樹の下には」なども思い出されます。

 この「オルフォイス」はかなりポピュラーな神であって、絵画、オペラ、彫刻、戯曲、バレエなどなどさまざまな分野で表現されています。わたくしの古い記憶を辿れば、映画「黒いオルフェ」もそれだったと思います。

 では序章はここまでと致します。

  (2001年・河出書房新社刊)
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Sep 06, 2009

若き女性への手紙  リルケ

Duino castello

 「リルケ」と「リーザ・ハイゼ」との往復書簡は、1919年「ベルサイユ条約」調印式によって、第一次世界大戦が終息した時期の1年前の1918年から1924年まで続きました。「リルケ」はスイスにいましたが、「グラウビュンデン、ソリオ」「ロカルノ(テッシン)」「チューリヒ州、イルヘル、ベルク館」「ヴァレリー州、上ジエル、ミュゾット館」と次々に住いを変えていますが、「リーザ・ハイゼ」からの手紙はもれなく届いているようです。最後の「ミュゾット館」において、1914年以来中断されていた「ドゥイノの悲歌」が1922年に完成され、それと時期が重なるように「オルフォイスヘのソネット」も完成します。1923年、この2冊が「インゼル書店」から出版されます。

 この往復書簡の始まりは「リルケ」の「形象詩集」を読んだ「リーザ・ハイゼ」が感動して、未知の詩人に手紙を書いたことから始まります。残念ながら2冊の本にあたりましたが、「リーザ・ハイゼ」の手紙は省略、あるいは簡単な説明があるだけでした。手紙好きの「リルケ」ではありますが、こうして未知の女性に真剣に優しい言葉を書き送るという厚意は稀有なことに思えます。若くして両親のもとを離れ、その後、夫はなく1人息子と共に真摯に生きようとする彼女(=自然を生きるということ。)への尊敬と危惧を抱きながら、送られた手紙でした。最終部分では「リルケ」はすでに病んでいます。


 リルケの第1信ではこのように書かれています。『芸術作品と孤独な人間とのあいだに起こるこの欺瞞は、太古以来神の所業を促進するために聖職にある者が用いてきたあの欺瞞と相通ずるものがあります。(中略)ですから私の方でも、あなたに劣らず正確に立ち向かいたいと思い、ありきたりのご返事ではなしに、心に触れたありのままの体験をお話しようと思います。』・・・と長い時間をかけて続くであろう、この往復書簡の予感をすでに書いています。

 最後の手紙は不安を残しているようです。これは「リーザ・ハイゼ」の転々と変わる境遇への不安、それを見届け、手を差し伸べることの出来ない「リルケ」自身への不安でしょうか?『あれほどに力を注いで素朴な、価値ある仕事をなさったあとで、謙虚に、しかしやっぱりなんらかの形で認められたいという純粋な期待を持ちながら立っておられるあなたには、偽りのものが語りかけたり、触れたりすることはできるはずがない――と思います。』

 
(1994年「世界の文学セレクション36」所収・中央公論社刊)
 (翻訳:神品芳夫)

(平成19年・第62刷・新潮文庫「若き詩人への手紙・若き女性への手紙)
 (翻訳:高安国世)

  *   *   *

 さてさて「リルケ」の追っかけ(?)がどこまで続くことか?我が書棚には、大作「オルフォイスへのソネット」「オーギュスト・ロダン」などが、どっしりと鎮座していますが。。。
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Sep 05, 2009

音の歳時記

5

今朝の天声人語昨日の天声人語の麻生太郎の「バッド・ルーザー」ぶりと、うってかわって、さわやかな話題でした。「詩の歳時記」などを続けている自分が恥ずかしくなりました。


「音の歳時記」    那珂太郎

一月 しいん

石のいのりに似て 野も丘も木木もしいんとしづまる
白い未知の頁 しいんーとは無音の幻聴 それは森閑の
森か 深沈の深か それとも新のこころ 震の気配か
やがて純白のやははだの奥から 地の鼓動がきこえてくる

二月 ぴしり

突然氷の巨大な鏡がひび割れる ぴしり、と きさらぎ
の明けがた 何ものかの投げたれきのつけた傷? 凍湖の
皮膚にはしる鎌いたち? ぴしりーそれはきびしいカ行音
の寒気のなか やがてくる季節の前ぶれの音

三月 たふたふ

雪解の水をあつめて 渓川は滔々と音たてて流れはじめ
る くだるにつれ川股に若草が萌え土筆が立ち 滔々た
る水はたふたふと和らぎ 光はみなぎりあふれる 野に
とどくころ流れはいっそう緩やかに たぷたぷ たぷ
たぷ みぎはの草を浸すだらう

四月 ひらひら

かろやかにひらひら 白いノオトとフレアアがめくれ
る ひらひら 野こえ丘こえ蝶のまぼろしが飛ぶ ひら
ひら空の花びら桃いろのなみだが舞ひちる ひらひら
ひらひら 緩慢な風 はるの羽音

五月 さわさわ

新緑の木立にさわさわと風がわたり 青麦の穂波もさわ
さわと鳴る 木木の繁りがまし麦穂も金に熟れれば ざわ
ざわとざわめくけれど さつきなかばはなほさわさわ
と清む 爽やか、は秋の季語だけれど 麦秋といふ名の
五月もまた 爽やか

六月 しとしと

しとしとしとしとしとしとしとしと 武蔵野のえごのき
の花も 筑紫の無患子の花も 小笠原のびいでびいでの
花も 象潟の合歓の花も うなだれて絹濃のなが雨に聴き
いる しとどに光の露をしたたらせて

七月 ぎよぎよ

樹樹はざわめき緋牡丹は燃え蝉は鳴きしきる さつと白
雨が一過したあと 夕霧が遠い山影をぼかすころ ぎよ
ぎよぎよ 蛙のこゑが宙宇を圧しはじめる 月がのぼる
とそれは  ぎやわろっぎやわろっぎやわろろろろりっ
と 心平式の大合唱となる

八月 かなかなかな

ひとつの世紀がゆつくりと暮れてゆく 渦まく積乱雲の
ひかり 光がかなでる銀いろの楽器にも似て かなかな
 かなかなと ひぐらしのこゑはかぼそく葉月の大気に
錐を揉みこむ 冷えゆく木立のかげをふるはせて

九月 りりりりり

りりりりり......りり、りりり......りりり、りり......り、
りりりり...... あれは草むらにすだく虫のこゑか それと
も鳴りやまぬ耳鳴りなのか ながつき ながい夜 無明
長夜のゆめのすすきをてらす月

十月 かさこそ

あの世までもつづく紺青のそら 北の高地の山葵色の林
を しぐれがさっさつと掠めてゆくにつれ 幾千の扇子
が舞ひ 梢が明るみはじめる 地上にかさこそとかすかな
気配 栗鼠の走るあし音か 地霊のつぶやきか

十一月 さくさく

しもつきの朝の霜だたみ 乾反葉敷く山道を行けばさり
さり 波うちみだれる白髪野を行けばさくさく 無数の
氷の針は音立ててくづれる  澄んだ空気に清んだサ行
音 あをい林檎を噛む歯音にも似て

十二月 しんしん

しんしん しはすの空から小止みなく 白模様のすだれ
がおりてくる しんしん茅葺の内部に灯りをともし 見
えないものを人は見凝める しんしんしんしん それは
時の逝く音 しんしんしんしん かうして幾千年が過ぎてゆく
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Aug 29, 2009

子どものいない世界  フィリップ・クローデル

Claudel

翻訳:高橋啓
挿画:ピエール・コップ


 「フィリップ・クローデル・1962年フランスのローレンス生まれ」の著書は、「リンさんの小さな子」「灰色の魂」に続いて彼の著書を読むのはこれが3冊目です。前記の2冊とも全くタイプの違う小説でしたが、この「子どものいない世界」は絵本です。翻訳者の高橋啓氏も大いに戸惑い、かつ翻訳に苦しんだようでしたが、でも楽しんだのではないでしょうか?この著書の献辞には・・・・・・


  日々驚嘆させてくれるうちのプリンセスのために
  いずれは大人になる子どもたちのために
  そして、かつて子どもだった大人のために


 ・・・・・・と書かれています。この「うちのプリンセス」とは、「フィリップ・クローデル」のベトナム生まれの養女「クレオフェ」のことでしょう。この著書のプロデュースは「クレオフェ」の養母であり、また「フィリップ・クローデル」の奥さまでもある「ドミニク・ギョーマン」です。ここには20篇のお話や詩篇が収録されています。

 その第一話が「子どものいない世界」です。ある日突然世界中の子どもたちがいなくなってしまうのです。以下のメッセージを残して。


 『いつもしかられてばっかで、ぼくらのはなしなんかぜんぜんきいてくんないし、あそびたくてもあそべないし、やたらにはやくねなくちゃなんないし、ベッドでチョコたべちゃだめだし、いっつもはをみがけってうるさい。おとなにうんざり、でていくからね。あとはかってにしたら! 子どもいちどう』

 
 ここの部分の「高橋啓」の翻訳作業はさぞ楽しかったのではないかと想像します(^^)。さて、子どもたちが行ったのは、世界中の大人が知らない「マデラニア」という国の南の果てにある「ケランバラ」というオアシスでした。子どものいない世界は奇妙な眠りのなかにおちてしまったようで、教皇、ダライダマ、各国の大統領、元首、首相、親たちがテレビとラジオで必死で呼びかけ、子どもたちはようやく帰宅したものの、その子どもたちもやがて大人になって・・・・・・。お話はえんえんと繰り返されていくのです。。。

 もう一話「どうかでかっぽじっとくんなさい!」という奇妙なタイトルの物語は、意味をなさない造語で綴られた作品で、フランス語の「音」の効果で出来た作品ですので、翻訳者が「ほとんど翻訳不可能に近い。」と言いつつも、匙を投げるわけにはいかず、著者とのメールのやりとりで、なんとかかたちにしたそうです。フランスの子どもたちなら大笑いするそうですが、日本の子どもにはわかるだろうか???この物語の全部がこうした言葉で翻訳されているのですから。最後はこのように終ります。わかりますか?

 『では、たらっちょ、こむむすさま、たらっちょ、がりれば、よいほろんちを!』

 同じ日本国内であっても、ほぼ標準語で育ったわたくしには、特に高齢者の方言は理解不可能なほどわからないことがありますが、音を聞き分けるとなんとかぼんやりと標準語に置き換えることはできます。そんなことを思いだしました。

  *   *   *

 近頃「翻訳」というものがいかに困難なことであるのかを実感(←と言ってもわたくしができるわけではありません。すみませぬ。)しています。「翻訳」ということを考える時にいつも思い出す言葉があります。それはポーランドの1996年ノーベル文学賞受賞詩人「ヴィスワヴァ・シンボルスカ」の「橋の上の人たち」を翻訳された「工藤幸雄」の言葉です。

 『未知であった彼女の詩集の1冊をこのように晴れがましい形で〈試訳〉する幸福を訳者は恵まれた。あえて〈試訳〉とへりくだって、そこに拘泥する。訳詩とは、あくまでも〈試みの翻訳〉に過ぎないと思うからだ。ひとつの訳語の選択は詩想の伝達を大きく左右する。原詩の心の揺れの総量がそのまま伝達できるとは訳者は思えない。
 畏れ多い名を掲げるなら、かの上田敏「海潮音」、また堀口大学「月下の一群」ほか諸先輩の訳業に及ぶべくもない。』

 (2006年・みすず書房刊)
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Aug 26, 2009

女児として育てられたリルケ


毎度ばかばかしいお話ですみませぬ。
こんなことを書くきっかけになったのは、愚息一家が帰省した日の出来事からです。1日だけだからと思って1歳5ヶ月の男児の「むつき」の用意はしてきたものの、着替えを持ってきませんでした。しかし公園に連れ出したら、砂遊び、水遊びで、そのまま家には入れられない状態に。バスルームで裸にして、洗って拭いてから「むつき」だけははかせたものの、さて着替えがない。

思いついたのは、身長120~130センチ用の女児タンクトップでした。(自慢じゃないけど、これを着られるわたくしめです。)わたくしはチビですので子供服売り場で、セーター、Tシャツ、パジャマ、スパッツなどをよく買いますが、こういう時にも役立つのでした。さすがにそれでも孫には大きくて、ワンピースになってしまって、でも結構似合い、女の子にみえます。あわてて洗って乾かした元の男児服に着替えたら、あら不思議!男児に戻りました。その姿からの連想が以下のものです。

joshua

この絵画は、イギリスの画家ジョシュア・レノルズ(1723~1792年)が最晩年の1788年に描いた「マスター・ヘアー」です。2歳の「フランシス・ジョージ・ヘアー(1786~1842年)」の肖像画です。このころの就学前の男児がみんなそうであったようにモスリンの女児服を着て、長い髪形ですね。何故このような風習があったのか?一説によれば、女児の方が男児よりも生命力が強いので、その願いからとも言われていますが、イギリスは女王の国でもありますね。

Rilke-2

リルケは1875年生まれですから、これは1877年の写真ですね。これは「マスター・ヘアー」のような考え方からきたものではなく、母親ゾフィアの屈折した考え方からきたのではないかしら?「ゾフィア」は裕福な商家に生まれ、フランスの血をひくと自称し、大皇紀のような黒衣を好み、虚栄心が強く、凡庸な夫のとの生活に幻滅して、「リルケ=ルネ」を連れて別居します。そこで女の子として育てられました。「ゾフィア」は「リルケ」よりも長生きをしていますが、彼の生涯にわたる影響力を持っていました。良きにつけ悪しきにつけ・・・・・・。

Pieter_de_Hooch

今度はオランダの画家「ヨハネス・フェルメール・1632~1675」と同時代の「ピーテル・デ・ホーホ・1629~1684」の描いた「食料貯蔵庫の女と子供」です。この子も実は男の子です。肩布と金のボタンで、男の子だとわかるのだそうですが、帽子、ドレス、髪型は女の子ですね。


さてさて、こうして男児が女児の服装で育てられた真相ははっきりとはしませぬが。。。
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Aug 24, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ7

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リルケの翻訳者

リルケの「ドゥイノの悲歌」の翻訳者は、今まで把握できた範囲では「手塚富雄」と「古井由吉」のお2人しかいらっしゃいませんでした。図書館から借り出した「世界の文学セレクション36・中央公論社・1994年刊」の「リルケ」では以下のとおりです。


マルテの手記       杉浦博      (大山定一)
神さまの話        手塚富雄     (谷友幸)
ドゥイノの悲歌      手塚富雄     (手塚富雄&古井由吉)
オルフォイスへのソネット 生野幸吉     (田口義弘)
オーギュスト・ロダン    星野慎一    (塚越敏)
若き詩人への手紙     生野幸吉     (高安国世)
若き女性への手紙     神品芳夫     (高安国世)

解説:生野幸吉   年譜:神品(こうしな)芳夫

やはり「悲歌」の翻訳者は2名しか見当たりませんでした。
新しく知ったリルケの翻訳者は「神品芳夫」でした。

*( )内のお名前は、わたくしの手持ちの本の翻訳者のお名前です。
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Aug 16, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ6

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リルケの「1913~1920年の詩」のなかに、「天使」について書かれた作品があります。「ドゥイノの悲歌」のなかで、度々呼びかけられる「天使」と同じ「天使」ではないか?と推察いたします。「1913~1920年の詩」たちは「ドゥイノの悲歌1912 ~1922年」の序曲と思われますが、書かれた時期の重複期間から察するに、同時進行だったのではないでしょうか?「ドゥイノの悲歌」全体の完成までの期間には、修行僧のごとき詩作が繰り返されていたように思います。「天使」という大きなキーワードから決して離れなかったリルケがいたということですね。


天使に寄す  リルケ   富士川英郎訳

たくましい 無言の 境界に置かれた
燭台よ 空は完全な夜となり
私たちはあなたの下部構造の暗い躊躇のなかで
むなしく力を費している

私たちの運命は内側の迷宮の世界にあって
その出口を知らぬこと
あなたは私たちの障壁のうえに現われ
それを山獄のように照らしている

あなたの歓喜(よろこび)は私たちの世界を超えて高く
だが 私たちはほとんどその沈滓(おり)を捉えることはない
あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている

誰にできようか 私たちをひそかに濁らせている
この調剤をあなたに注ぎこむことが。
あなたはあらゆる偉大さの光輝をもち
私たちは区々たる小事になれている

私たちが泣くとき 私たちは可憐のほかのなにものでもない
私たちが見るとき 私たちはせいぜい目覚めているにすぎない
私たちの微笑 それは遠くへ誘いはしない
たとえ誘っても 誰がそれについてゆくだろう?

行きずりの或る者が。天使よ 私は嘆いているだろうか?
だが その私の嘆きはどんな嘆きだろう?
ああ 私は叫ぶ 二つの拍子木をうちたたく
でも 私は聞かれることを思ってはいない

私がここにいるとき あなたが私を感じるのでないならば
叫ぶ私の声もあなたの耳に大きくなりはしないのだ
ああ 耀けよ 耀けよ 星たちの傍らに
私をもっとはっきりさせるがいい なぜなら私は消えてゆく


ここで少し解説が必要ですね。
最初の一行目の「境界」は人間の世界の果て。人間の可能性の限界を言っています。
二行目の「燭台」は、天使の光り輝く燭台でしょう。三行目の「暗い躊躇」は人間の世界は天使のいる位置からすれば、ずっと下方(下部構造)の闇のなかにある。その闇そのものが落ち着きなく浮遊していることと、人間の不決断を現しているのだろうと思います。「この調剤」は人間を譬えたもので、濁って不純な混合液なのです。


《追記》
このメモを書く度に、いろいろなことを教えて下さる方がいらして、再考する機会を頂けます。恥多きメモも度胸よく書くのもいいものですよ(^^)。

あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている
(3連目の2行)

つまり「春分(秋分も同じですが。)」は夜と昼の時間が同じになること。ですから、その季節の夜は、大変うつくしく「昼と昼」を分割しているということです。

リルケは詩作の日々のなかで、繰り返し繰り返し「天使」に呼びかけましたが、その歳月のなかで、天使との距離が変化してきた、あるいは「啓示」を受けるようなこともあるということですね。
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Aug 15, 2009

ビルマの竪琴(1985)

biruma

監督:市川崑
原作:竹山道雄
脚本:和田夏十
音楽:山本直純

《キャスト》
中井貴一(水島上等兵)
石坂浩二(井上隊長)


 原作者の「竹山道雄・1903年~1984年)は、評論家、ドイツ文学者、小説家。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。一高教官として多くの教え子を戦場に送り出した体験に基づき、1947年に小説『ビルマの竪琴』を発表。1948年に毎日出版文化賞を受賞。「竹山道雄」が唯一書いた「児童読み物」という意味でも、この小説への思いの深さがわかります。
 さらに、この小説の映画化は、同じ監督「市川崑」によって、1956年、1985年と2回行われているということも稀有なことかもしれません。

 ビルマ(現・ミャンマー)に送られた部隊の兵士たちの敗戦から捕虜収容所での日々と帰国までの物語です。事実ではないと言われてはいますが、水島上等兵のモデルは、福井県永平寺で修行中に召集され、南方戦線を転戦しビルマで終戦。捕虜収容所では合唱団を結成していたという。復員後、群馬県昭和村で僧侶になった方のようです。その後ミャンマーキンウー市に小学校を寄贈、2008年12月17日死去。享年92。

 小説と映画のなかでは、「水島上等兵」は部隊の方々と共に復員せず、ビルマで僧侶となり、ビルマで戦死した多くの兵士たちの御霊を守るために残ります。

inko

 おそらくビルマにはたくさん生息していたのではないか?と思われる、人なつこい「インコ」が2羽登場します。1羽は部隊を離れて僧侶として、ビルマの戦没者埋葬に働く「水島上等兵」の肩に。もう1羽は「井上隊長」率いる部隊に。前者が覚えた言葉は「にほんにいっしょにかえれない。」・・・後者は「みずしま、いっしょににほんへかえろう。」でした。この「インコ」は島に住む老婆によって交換され、後者は復員船に乗りました。

ミャンマーの竪琴

 竪琴の美しい音色はいつまでも耳に残ります。戦争は何だったのでしょう?さまざまな凄惨な場面を見て、あるいは体験してきた人々すべてが狂気の時間だったはずです。その「シンドローム」から開放された人々が果たしているだろうか?
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Aug 11, 2009

HACHI・約束の犬

HACHI

監督:ラッセ・ハルストレム
パーカー・ウィルソン教授:リチャード・ギア



HACHI・約束の犬


ご存知、渋谷駅前の「忠犬ハチ公」物語のアメリカ版です。
アメリカ郊外のベッドリッジ駅。寒い冬の夜に、迷い犬になった秋田犬の子犬を保護したパーカー・ウィルソン教授は、子犬を飼うことになりました。首輪のタグに刻まれていた漢字「八」から、「ハチ」と名づけられた子犬は、パーカーの愛情を受けてすくすくと成長していくのでした。ここまではアメリカ版。何故迷い犬になったか?それは日本の「山梨」という土地のお寺(←なぜだか、わかりませぬ。)からアメリカまで送られることになった子犬の檻に、付けてあった荷札が、列車、飛行機、トラックと移送される間にちぎれてしまい、しかもアメリカに辿りついたものの、走行中のトラックから落とされてしまった檻から逃げ出した子犬だったのでした。

 これ以上のお話はいりませんね(^^)。

 では一言。秋田犬はとってもお利口で可愛い。ただし実は、子犬の「ハチ」には柴犬の子犬を使っていたのです。以前のテレビドラマ「幼獣マメシバ」というのも観ていたのですが、これには柴犬の子犬が登場していました。あまりにも似ていたので、事実を知って「やはり・・・」とも思いましたが、秋田犬はすぐに大型犬になってしまうからだったそうです。わたくしは実は犬好きなのです。夢は「セントバーナード犬」ですが、人間よりも短命だと知った少女期から犬は飼っていません。それなのに「ハチ」は教授に先立たれてしまうのです。

 リチャード・ギア教授はステキ♪でも、講義中に倒れ突然死だった。。。

 地元の「MOVIX」に初めて行ってきました。


以前観た、教授役「仲代達矢」の「ハチ公物語」の日本版です。
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Aug 10, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ5

picasso
 「サルタンバンク・大道軽業師  ピカソ」

 ドゥイノの悲歌・5」について書いてみます。ここの章は、パリの広場で興行する旅の「曲芸師」たちのことが書かれています。これは「リルケ・1875年~1926年」が最後に書いた章ですが、これはもともと10番までありますが、書かれた順番にはなっていません。まずは古井由吉が、この5番を翻訳しながらつぶやきのようなメモも書いていますので、そこから引用します。

 「過少」とある脇に「できない」と、「過多」とある脇に「できる」と、それぞれにルビをふろうかと思うが止めておこう。

 この古井由吉のつぶやきは、曲芸師を有能な外科医と例えてみてもいいかもしれません。難しい手術を冷静沈着にやり終えて、患者の経過も良好、しかし時には外科医は悪夢をみる。そして曲芸師は時には失敗して落下することもある。見事に拍手喝采をあびることもある。「できる」と「できない」との境界線は、揺れながら存在するだけで、子供の曲芸師であれ、老練な者であれ、太った大男、小人であれ同じことだが、しかし本当に「できない」時は必ずくるのです。

 そして、別の場面から登場してくる「マダム・ラ・モール」とは「死の夫人」であり、街の雑踏を歩きまわりながら、美しいモードを飾りつけたりしながら、時には「死の衣装」を纏わせたりする存在かもしれないのだった。


 この街を1枚の絵画として考えてみませうか。もう1人の翻訳者「手塚富雄・1903年~1983年」の生きた時代ならば(もちろん古井由吉・1937年生まれも。)「ドゥイノの悲歌・5」と、「ピカソ・1881年1~1973年」の絵画「サルタンバンク・大道軽業師」とを連想することは容易なことです。(リルケはピカソを知っていたのだろうか?)この絵画のような人々が、パリの広場に小屋を建て、使い古した絨毯を敷き、曲芸を見せて、客の喝采を浴びたり、驚かせたりするのです。もちろん詩人リルケも驚き、喝采するのですが、この曲芸師たちから立ち昇ってくる「死のにおい」までも吸い込んで苦しむことになるのです。それは曲芸とは、組み上げられた樹のようなものでありながら、その樹の果実は「落下」しかないということに注目するからでした。わたくし的には映画「道」まで思い出しました。

 「マダム・ラ・モール」、「曲芸師」・・・・・・パリの広場では際限もなく見世物小屋が建つ。客が投げ出してゆく硬貨・・・・・・それはいつか、すべて死者が隠し持っていた硬貨になってしまうのではないか?

 
 この解釈は、どこからからか猛烈なお叱りを受けるだろうなぁ。これも楽しみです。曲芸の詩ならば、読む方も曲芸なのですからね(^^)。恐るべき誤読やもしれぬ。


  *   *    *

 リルケの詩には、「悲歌」に限らず、何度も「噴水」という言葉が使われています。それはこの地上のさまざまな出来事を「詩の言葉」として、噴水のように昇りつめては、天使に届かずに落ちてきてしまうことの哀しみなのではないかと思われます。この「悲歌」全体は天使への呼びかけであり、「愛する女たち」への捧げ物であったりしますが、「愛の呼びかけ」を届け続けることをやめることはできないのでした。


 噴水   リルケ

ああ 昇ってはまた落ちてくることから
この私の内部にも このように「存在するもの」が生まれでるといい
ああ 手なしで さし上げたり 受け取ったりすることよ
精神のたたずみよ 毬のない毬遊びよ


《付記》
今夜は台風が来るというので、過剰なニュースに脅えて不寝番中です。


《もっと大切な付記です。》
ピカソの軽業師の絵を買うようにと、リルケは、この悲歌5番を献呈している女流作家、Hertha Koenigに助言をしたそうです。ですから、リルケは、ピカソのこの絵を知っていたのです。これはここをお読み下さったI氏からの助言です。ありがとうございました。
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Aug 06, 2009

現代詩手帖創刊50年祭

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 「現代詩手帖・8月号」を久しぶりに購入しました。これは大方のページをさいて、上記の大型イヴェントの報告書となっていたからです。「これからの詩どうなる」というのが、この催しものが掲げたテーマなのですが、この言葉は舌足らずで寒いですね。


 この「前座←谷川さん本人がおっしゃっています。念の為。」は、「谷川俊太郎、賢作父子」の楽しい会話と朗読と音楽でした。テーマは「詩ってなんだろう」でした。

 「そういうもんなんですよ。言語っつうのは。自分で出そう出そうとすると、なかなか出てこなくて。おれレモンのしぼりかすって自分で思ったことがあるんですよ。君(賢作)ぐらいの年ごろのときに。いまはしぼりかすなんて、自分がそんなに豊かだとは思わない。自分をからっぽにしておけば何でも入ってくるから、それを拒まなければいいっていう、大変にいい加減な感じですね。」←いかにも谷川俊太郎らしい言葉です。


 ここから2つくらいのプログラムは飛ばして、1番気になっていた「吉本隆明」の講演の記録を読みました。テーマは「孤立の技法」です。聞き手は「瀬尾育生」です。雑誌に掲載された吉本隆明は車椅子で壇上にいらっしゃいましたが、おだやかな表情をなさっています。いいのです。誰がなんと言おうとも、人は老いる。そこまでの時間のなかでどれほど真摯に「詩」と向き合っていらしたのか?それを忘れてはいませぬ。吉本隆明を過去へ送ることは誰であろうとも許さない。

 「すぐれた詩人たちのあとを追っかけて、書きつづけてゆくこと以外に、これからの詩の未来が開けてくるということはありえない。」←長い講演記録のなかから、この言葉を両手でしっかりと掬いとりました。


 次は「詩の現在をめぐって」と題されたシンポジウムで、パネラーは、北川透、藤井貞和、荒川洋治、稲川方人、井坂洋子、松浦寿輝、野村喜和夫、城戸朱理。司会は和合亮一です。大分時間が押してきたようで、パネラーは3分という持ち時間でした。長い催し物によくある「おせおせ」タイムだったようです。ここで気になった言葉だけを抜粋します。


★ 北川透
「詩の孤立は絶対的に擁護されなければならない。そうしないと、詩の言葉は次の世代、また次の世代に繋がってゆかない。リレーされていかない。」

「自由詩の今日というのは、言葉が裸の状態で置かれていることでしょう。(中略)この時代に詩が自由であること、つまり裸であることは一見清潔に見える。それは言葉がノイズに近い状態ということで、これが果たして時間的に空間的に遠くに届く言葉でありうるか?」

★ 松浦寿輝
「われわれが生きている世界というものはひとつの大きなテクストであって、それを一枚の紙のながにぎゅっと握り締めて、ほんの十数行ぐらいに凝縮したエッセンス、それが詩。それが読まれるということがない限り、凝縮されたものがもとの世界の大きさにまで戻るということがない。」

★ 野村喜和夫
「凧というのは地上におしとどめようとする力とそれから風に運ばれて行こうとする力のせめぎあい、あるいはぎりぎりの均衡だと思うんですけれども、その凧の舞い狂う姿。これが今の詩、あるいは僕が夢見ているこれからの詩のあり方。」

★ 城戸朱理
「〈前衛俳句〉〈前衛短歌〉は〈戦後詩〉と同時期ではあっても、〈前衛詩〉というものはなかった。〈定型詩〉を失ったがゆえに、私たちの書く詩はつねに前衛でなければならなかったのではないか。」

★ 稲川方人
「敵対すべきははっきりと敵対し、議論すべきは議論する、解体すべきものは解体する、破壊するものは破壊する、という意志を持った詩人が1人でもいれば、現代詩は信頼の足る文学の形式を失わないと思います。」

★ 井坂洋子
「牟礼慶子詩集《夢の庭へ》の最後の詩の最終連に《詩は次の世代のためのものかもしれない》という、オーエンの詩の1行が引用されていました。ああ、人間というものを信じている言葉だと思いました。」


以上、ランダムに勝手に選び出しました。わたくしのこれからの詩作の道標として。
また、そのほかのプログラムについては省きます。あしからず。
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写楽 幻の肉筆画

syaraku
 (四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪・寛政7年・1795年)

 5日、竹橋の東京国立近代美術館を出てから、欲張って足をのばして両国まで行きました。「日本・ギリシャ修好110周年記念特別展」として、「江戸東京博物館」にて、126点の日本絵画、版画(初期~中期~後期)、摺物、絵本などが公開されました。これらの作品は、すべて「グレゴリオス・マノス」が全財産をかけたコレクションのなかから発見されたものです。

 「グレゴリオス・マノス」は、イスタンブール生まれ。パリ、ウィーンなど各地の大使館勤務のなかで、赴任先で日本の絵画、版画、工芸などを蒐集。定年退職後には、ジャポニズムに沸くパリに移住して、主に1910年~1920年にかけて、日本、中国、朝鮮の作品を熱心に購入しました。

 この蒐集にすべての財産を使い果たした「グレゴリオス・マノス」は、ギリシャに帰国して、コルフ島(別名・キルケラ島)にイギリス占領下時代の建造物である「総督府」に「グレゴリオス・マノス・コレクション」をすべて寄贈して、美術館として一般公開する代りに、ギリシャ政府からわずかな給付金と館内の1室を与えられて余生を過ごすことになりました。マノスの死後、日本美術コレクションは本格的に調査されることなく、その後1世紀近く封印されたままでした。2008年7月より、日本からの調査団が入り、膨大なコレクションが再確認されたのでした。その数は、浮世絵、1600点、絵画200点(日本のみ)、工芸品600点(日本、中国、朝鮮)でした。この調査の後で、日本での公開が実現したのでした。

展示作品リストはここにあります。(すべて、ギリシャ国立コルフ・アジア美術館所蔵です。)


 《余談》
 ホメロスの「オデュッセイア」のなかで「コルフ島」の王女「ナウシカア」が、島に漂着した「オデュッセイア」を救ったという神話がありますね。宮崎駿アニメ「風の谷のナウシカ」の名前は、この神話に由来します。本当に余談ですね(^^)。



 さてさて、この展覧会の目玉は、「東洲斎写楽」が描いた肉筆画扇面「四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」です。写楽の役者絵版画は、彫師との共同作業であったわけです。写楽が役者絵の世界から隠遁したのは寛政7年(1795年)1月ですが、この芝居が上演されたのはその年の5月ですから、扇に描かれたこの肉筆画は隠遁の4ヵ月後となります。紙だけが残されて観賞用の絵画となっていたとは。。。

 屏風や襖絵などはよく観ますが、もう1点驚いた作品は、障子絵があったことでした。これは障子の桟の痕がうっすらと見えていましたが、やはり和紙だけでした。作者は「狩野養信・他狩野派」、作品名は「郊坰佳勝図帖」、「絹本墨画着色」で「1帖8面」、江戸時代後期のものです。

下の作品は現代とあまり変わらない花火大会の賑わいがわかって楽しい作品でした。
この季節にふさわしく。。。

hanabi
 (歌川豊国・両国花火之図・三まへつゝき・大判錦絵・1804~18)
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Aug 05, 2009

ゴーギャン展

Gauguin-1
《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか・1897-98年》
   

 5日、東京国立近代美術館にてポール・ゴーギャン(1848パリ生まれ-1903)の53点の絵画、版画、彫刻を観てきました。上記の大型の絵画は日本初公開だそうです。この絵画は、ゴーギャンの遺言のごときものと思われます。ゴーギャンは1998年2月に、パリに住む友人の画家ダニエル・モンフレーへの手紙には、このようなことが書かれています。

 「 私は12月に死ぬつもりだった。で、死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思った。まるひと月の間、昼も夜も、私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした。(中略)この作品がこれまで描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、今後これより優れているもの、これと同様のものも、決して描くことはできまいと信じている。(以下略)」

 この絵の向かって右側には産まれて間もない幼児、左側には「死」を予感して恐れている老婆、黒い犬は、ついにこのタヒチで「よそ者」でしかなかったゴーギャン、中央には禁断の木の実に手を伸ばしている若い女・・・人間の生誕から死までのすべてがここにありました。


 株式仲買人として成功を収めたゴーギャンは、デンマーク人女性メット・ガッドとの幸福な家庭生活を送っていましが、ピサロをはじめとする印象派の画家達との交友のなかで、徐々に絵画への情熱がたかまり、1883年(35歳)に画家として生きる決意をします。家庭は破綻し、孤独な放浪が始まりました。印象主義の影響が色濃く残る初期のスタイルは、ケルトの伝説が息づくブルターニュ地方との出会いによって、ゴーギャンの内面の「野性」が目覚め、大きな変化をもたらしたのでした。さらに熱帯の自然が輝くマルチニック島、ゴッホとの伝説的な共同制作の舞台となった南仏アルルなど、それらの土地はパリからタヒチへの移動過程でした。


Gauguin-2
《純潔の喪失・1890-91年》  


 ゴーギャンがタヒチに旅立つのは1891年。つまりこの絵を最後に、タヒチへ行きます。しかし、1880年にフランスの植民地となったこの南太平洋の島は、すでに「楽園」ではありません。ゴーギャンは、原初の人間の生命力や性の神秘、さらに地上に生きるものの苦悩を、タヒチ人女性の黄金色に輝く肉体を借りて描きました。その豊かなイメージには、タヒチの風土と、エヴァやマリアといったキリスト教的なモチーフなどが混ざりあって独自の絵画を生み出しました。

 1895-1901年、2度目のタヒチ滞在。1897-1898年《我々はどこから来たのか》を描く。1898年パリのヴォラール画廊で《我々はどこから来たのか》を中心とする個展開催。1901年マルキーズ諸島のラ・ドミニック島(現ヒヴァ=オア島)に移り住む。1903年心臓発作により死去。出発点が遅く、不遇な画家ではありましたが、最期に大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」をわたくしたちに残してくださいましたね。幾たりかの女性を悲しませたけれど。。。


 美術館を出て、お堀端で見つけた「槐 (えんじゅ)」です。

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Jul 28, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ4

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 今日、リルケの「オルフォイスへのソネット・田口義弘訳・2001年・河出書房新社刊」が古書店から届きました。翻訳された「ソネット」の部分は、395ページのうちの最初の123ぺージまでで、あとの部分の大半は「註解」に費やされています。そして「あとがき」「索引」となっています。この1冊の大半を占める「註解」はとても読みやすい。

 この「註解」では、「ドゥイノの悲歌」の書かれた時期と「オルフォイスへのソネット」が書かれた時期がわずかにクロスしていることがわかります。またさらに再度ここで言っておかなければならないことは、以前に「ドゥイノの悲歌」でも少しだけ書きましたが、「悲歌・1」「悲歌・2」が書かれた後には、第一次世界大戦の勃発、この「悲歌」の進行に大きな打撃を受けています。リルケは彼の生涯のうちで、最も苦しい日々を生きたのです。この時代背景を抜きにして「ドゥイノの悲歌」を語ることは許されないことでしょう。



  *   *   *

 無駄話をすれば(^^)、この本には「謹呈・著者」と書かれた栞がはさみこまれたままでした。さらに栞紐はページ内で折り曲げられたままだったということは、この本を贈られた方は、ほとんどお読みになっていないと言うことですね。おかげで新品同様の本でした。お値段も新品よりもお安いのでした。ラッキー♪
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Jul 27, 2009

ポルトガル文・続

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 ポルトガルの尼僧「マリアンナ・アルコフォラド」の5通の手紙については、すでに書きましたが、これは「マルテの手記ーメモ4」だけではなくて、「ドゥイノの悲歌ーメモ3」にも書いたように、2つの著書のなかで、この女性は取り上げられているのです。リルケにとって、どれほど大きな存在だったか?が、深く理解できます。
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ポルトガル文 

07-7-13azami

ドイツ語訳:リルケ
邦訳:水野忠敏


 これを短編小説と言うべきだろうか?「マルテの手記ーメモ4」で取り上げましたように、ポルトガルの尼僧「マリアンナ・アルコフォラド」が、彼女を置き去りにして、帰国してしまったフランスの武人に宛てて書いた5通の手紙ですので、虚構の短編小説ではありません。まずはフランス語に翻訳されて、それをリルケがドイツ語訳をしたのですが、元の手紙はフランス語訳の後で、行方不明です。リルケはこの手紙を、ドイツ語訳をする際に、この手紙を1つの文芸作品として高めることをしたように思えてなりません。

 「マリアンナ・アルコフォラド」は、尼僧とは少し違う立場を生きた女性のようです。アルコフォラド家は名門であり、恵まれた環境のなかで1640年に生まれました。当時の戦乱の時代には、子女を修道院に預けることが最も安全な道だったのです。彼女は、ベジャーのクララ教会修道院に入れられました。その上、財産家の父は娘のために、修道院の敷地内に、街路に面した特別な建物を建て与えたそうです。「マリアンナ・アルコフォラド」は、今日では想像もつかないほどに自由な生活だったわけです。

 彼女の恋の相手は、数々の武勲に輝く、若くして大佐となったフランス軍の「シャミリー・ノエル・ブトン・1636年生まれ」。スペインの支配から脱しようとしていたポルトガル軍を助けるために、彼の属する部隊がベジャーの町に進駐したことがはじまりでした。この時期ポルトガルの子女がフランス軍人に強い関心を抱くことは、必然のことだったのでしょう。

 その美しい武人に去られた彼女の5通の手紙は、悲嘆と怨み事に終始していましたが、すべての思いを書きつくし、最後の5通目の手紙できっぱりと別れを告げています。ここをリルケは「マルテの手記のなかで「男を呼び続けながらついに男を克服したのだ。去った男が再び帰らなければ、容赦なくそれを追い抜いていったのだ。」と書いているのでしょう。

 この5通の手紙が当時の社交界で話題になったことは当然のことで、彼女を置き去りにした武人の手紙があったとされたり、5通以後の手紙が創作されたりと、この手紙にはたくさんの逸話もどきが流布しましたが、おそらく「リルケ」がこの5通のみの手紙を、彼の「愛する女性像」の1人として、翻訳されたのでしょう。それにしましても、この5通の手紙が、1編の小説のごとく何故ここまで時を超えて残されたのでしょうか?

(昭和36年初版・平成2年再販・角川書店刊)
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Jul 24, 2009

マルテの手記ーメモ4

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 ここでは「愛する女性」について書かれたところを引用します。

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 彼女たちは幾世紀もの間、ただ愛だけに生きてきたのだ。いつも一人で愛の対話を、たった一人で二人分の長い対話を続けてきたのだ。男はへたにただそれを口まねするだけだった。男はうかうかしていたし、ひどく物ぐさだったし、嫉妬深かった。(嫉妬は物ぐさの1つに違いない。)男はむしろ彼女たちの真実な愛の邪魔ものにすぎなかったと言わねばならぬ。それに彼女たちは夜も昼もじっと耐えて来たのだ。愛と悲しみをじっと深めてきたのだ。無限な心の苦しみと重圧におしひしがれながら、いつのまにか彼女たちは根強い「愛する女性」になってしまった。男を呼び続けながらついに男を克服したのだ。去った男が再び帰らなければ、容赦なくそれを追い抜いていったのだ。

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 この「愛する女性」の代表的な人物として、マリアンナ・アルコフォラド(ポルトガルの尼僧)とガスパラ・スタンパ(イタリアの詩人)が登場します。

 リルケの著作に「ポルトガル文」というものがありますが、この作品の元となったものは、あるポルトガルの尼僧が、自分を捨てて、遠い国へ帰ってしまったフランスの武人に宛てて書いた5通の手紙です。そのもとの原文書はすでになく、1669年フランス語に訳されて出版されたものが唯一残されたもので、武人の名も「マリアンナ・アルコフォラド」の名前もなかったものですが、大変な評判となったのでした。それをドイツ語に翻訳したのが「リルケ」でした。まだこの「ポルトガル文」には尾ひれのついたお話がありますが、それは省きます。

 イタリアの詩人「ガスパラ・スタンパ」については、「リルケの手紙」のなかに登場しますが、「ガスパラ・スタンパは少なくとも1部分でも翻訳したいと常に考えています。ベネチアの女で1550年ごろ、コラルティノ・コラルトオ伯爵に愛の手紙や詩を贈っているのが、彼女の名前を純粋な永遠なものにしたのです。」と書かれています。

 この2人は代表的な方たちで、リルケが思う「愛する女性」は、追い詰められた困難のなかで、ぶくぶく太った女性、意識的に男と同じになってしまった女、8人もの子供を産まされて、産褥で死んだ女、場末の酒場の女、などなど手紙や詩さえ残すことのなかった女性などを含めて「愛する女性」と言っています。

 さてさてリルケ(マルテ?)は、このあとで「こんどは僕たちが少しばかり苦しい坂道を切り開き、だんだんに、ゆっくりと、少しずつ愛の仕事の一部を引き取ってゆかねばならぬのかもしれぬ。」と書いていますが、どうなったことやら。。。
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Jul 22, 2009

マルテの手記ーメモ3

ogawa

 しつこく「メモ」を書きます。この下記の引用部分には、そのなかに挙げられている、ボードレエルの詩「死体」をみつけるために詩友からのご協力をいただきました。この大山定一訳の「マルテの手記」のなかではタイトルが「死体」となっていますが、この詩は翻訳者によってさまざまなタイトルの翻訳がなされています。ボオドレエルの詩集『悪の華』のなかの「憂鬱と理想」の章に収められた作品で、「腐肉」「腐れ肉」「腐屍」といろいろな翻訳がありますので、「踊る蛇」の次に置かれた詩編であると記憶しておきましょう、と丁寧に教えていただきました。お蔭さまでなんとかこの詩をさがせました。 ありがとうございます。まずは「マルテの手記」の引用から。。

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 ボードレエルの「死体」という奇態な詩を君は覚えているか。僕は今あれがよくわかるのだ。おしまいの一節は別として、彼は少しの嘘も書いてはおらぬ。あんな出来事が起こった場合、彼はいったいどうすればよいのだ。この恐怖の中に(ただ嫌悪としか見えぬものの中に)あらゆる存在を貫く存在を見ることが、彼にかけられた負託だったのだ。選択も拒否もないのだ。

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腐肉  ボオドレエル  齋藤磯雄訳 (悪の華・「憂鬱と理想」・29)

戀人よ、想ひ起せよ、清かなる
  夏の朝(あした)に見たりしものを。
小徑の角の敷きつめし砂利の褥に
  忌はしき屍一つ。

淫婦のごとく、脚空ざまに投げやりて、
  熱蒸して毒の汗かき、
しどけなくこれ見よがしに濛濛と
  湯気だつ腹をひろげたり。

太陽は腐肉の上に照りつけて、
  程よくこれを炙りし、
「自然」の蒐めし成分を百倍にして
  返さむと務むるごとし。

大空はこの麗しき亡骸の
  花と咲く姿を眺め、
漂ふ臭気の烈しさに、危く君も
  草の上(へ)に倒れむばかり。

靑蝿(さばへ)の翼高鳴れる爛れし腹より
  蛆蟲の黒き大軍
湧きいでて、濃き膿のどろどろと
  生ける襤褸を傳ひて流る。

なべてこれ寄せては返す波にして、
  鳴るや、鳴るや、煌くや、
そことなき息吹に五體はふくらみて、
 生き、肥ゆるかと訝まる。

斯くて此処より立ち昇る怪しき樂は、
  流るる水か風の音(ね)か、
はた穀物を節づけて篩の中に、
  覆し、ゆする響か。

形象(かたち)は消えても今はただ一場の夢、
  ためらひ描く輪郭の、
畫布の面(おもて)に忘れられて、繒師は唯
  記憶をたどり筆を執るのみ。

巌かげに心いらだつ牝犬ありて
  怒れる眼(まなこ)にわれらを睨み、
喰ひ残せし肉片を、またも骸より
  奪はむと隙を窺ふ。

――さはれこの不浄、この凄じき壊爛に、
  似る日來らむ君も亦、
わが眼の星よ、わが性(さが)の仰ぐ日輪、
  君、わが天使、わが情熱よ。

さなり、亦斯くの如けむ、都雅の女王よ、
  終焉の秘蹟も果てて、
沃土に繁る草花のかげに君逝き、
  骸骨(むくろ)に雑り苔むさん時。

その時ぞ、おゝ美女(たをやめ)よ、接吻(くちづけ)をもて
  君を咬はむ地蟲に語れ、
分解せられしわが愛の形式(かたち)と真髄
  これを我、失はざり、と。


(ボオドレエル全詩集「悪の華」「巴里の憂鬱」・昭和54年東京創元社刊)

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 「ボードレエル」という表記は「マルテの手記」の翻訳者「大山定一」であり、「ボオドレエル」はこの全詩集の翻訳者「齋藤磯雄」の表記です。一応出典に合わせて書きました。ううむ。これだけで疲れたなぁ。読む方々もお疲れでしょうね。では簡単にメモします。

 つまりこのメモは「マルテの手記ーメモ1」に引用した文章の前の部分なのです。「フロベエル」が書いた「修道僧サン・ジュリアン」についての引用文は、上記の引用文に繋がるのです。何故、順序を前後させてしまったのか?それは「ボオドレエル」の詩「死体」を特定するのに手間どったからでした。「それなら、待っていなさい。」と言われそうですが、後者の引用を何故急いだのか?それは「癩者」という言葉に立ち止まったからでした。これについての私的な事情は省きますが、この言葉の歴史は深く重いもので、語り尽くすことはできない程です。


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 リルケの10年をかけて書かれた「ドゥイノの悲歌」は、6年余をかけて書かれた「マルテの手記」執筆後、2年の空白を経て書かれたものです。ここで気付いたのですが、「ル・アンドレス・ザロメ」の言葉 『結局それは絶えざる受苦であり、殉教であり、同時にまた人知れぬ昇天でもあった。」は、この2冊の流れのなかにあるような気がします。
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Jul 21, 2009

マルテの手記ーメモ2

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 以下に引用する文章は、名言集や定義集などでおなじみのところですが、「詩」というものの再確認のために、あえて書いてみます。

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 詩は人の考える感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩は本当は経験なのだ。1行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。(中略)さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。静かなしんとした部屋で過ごした一日。海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海。ここの海。空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。それらに詩人は思いめぐらすことができねばならぬ。いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人々の枕元についていなければならぬし、(中略)・・・・・・追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。(中略)一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生まれてくるのだ。

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 以上の言葉は自身(マルテあるいはリルケ?)のために書かれたものであって、けっして教訓として書かれたものではありません。これは自らの「詩」に対する考え方であり、さらに過去において書いた自らの「戯曲」への失敗と反省も込められています。
 さらに「マルテの手記」に、あるいは「ドゥイノに悲歌」にも「リルケ」が登場させる「妊婦」という言葉は素通りできないものとなります。それは「いのちのはじめ」であり、時には天使が宿る瞬間を、あるいは生きることの「回復期」をこの「妊婦」に託したのでしょうか?
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Jul 20, 2009

マルテの手記ーメモ1

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 前日に「マルテの手記」について全体の大雑把な感想を書きましたが、あらためてわたくしがこころに留めておきたいメモを書いてゆきます。こうした手段を使わなくては、どうにもこの1冊を読み終えたことにはならないでしょう。いやいや、これでも「読みました。」というところには多分到達できないでしょう。まず引用から・・・。

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 君はフロベエルが「修道僧サン・ジュリアン」を書いたのが偶然だと信じるか。癩者のベッドに寝て、恋人の閨のぬくもりと同じ心の暖かみで患者を暖める――そこまで思いきれるかどうか、が最後の決着だと僕は思っている。その決意はきっとすばらしいものをもたらしてくれるのだ。
 僕がパリで悲しんでいると思ってもらっては困る。(中略)僕は進んで、現実のためだったらすべての夢を葬ることができるのを自分ながら驚いているくらいだ。ああ、これが少しでも君に書いてやれるのだったら!しかしいったい現実というものは友達と分けあうものだろうか?いや、いや、現実は孤独の中へ閉じこめておかねばならぬ。

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 ここの引用部分は「手紙の書きつぶし」だそうです。つまり友達に宛てて書いた手紙でありながら、「マルテ」は出さなかったということで、結局「独り言」ということですね。「修道僧サン・ジュリアン」の魂のぎりぎりの純粋性を友達へではなく、自らに突きつけたということになります。さらに「現実」を孤独のなかに閉じこめるところまでみずからを追い込んでいます。
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Jul 19, 2009

マルテの手記  リルケ

Rilke

 「マルテの手記」はリルケの書いた唯一の長編小説です。モデルとなったのは、リルケが敬愛した「ヤコブセン」の国であるデンマークの「オプストフェルダー」というほとんど無名の作家であり、30歳前後で夭逝しています。
 しかし、リルケは彼の評伝小説を書いたわけではありません。またリルケの自伝小説でもありません。リルケのパリでの日々は、1903年にはじめて近代都市の渦のなかに投げ込まれたことから始まりますが、「マルテ」に仮託して、リルケのパリにおける孤独で貧しい日々や少年期の思い出などを書いたものでもありません。

 「マルテ」と「リルケ」の孤独な精神的危機は、どちらが運命として背負おうとしたのか?この小説は「死」におびえ、その「死」と引き換えに書かれたのではないか?と思えるほどに疲弊したものでした。そしてこの小説(あるいは長い散文の集合体?)のリルケ自身の自己評価も無残なものでした。
 しかし、この「マルテの手記」は、リルケの作家としての再出発でもあり、6年余の歳月を費やし、その後の「ドゥイノの悲歌」執筆の10年間に入る前には、2年の空白と精神的回復が必要なほどでした。そして結局「マルテの手記」は最後の小説となりました。晩年「ドゥイノの悲歌」と「オルフェイウスに捧げる14行の詩」によって、リルケはようやく高い境地を切り開いたのかもしれません。

 さて、「マルテの手記」は、第1部と2部に分けられているだけで、章分けは一切ありません。それは堅牢で隙間のない散文の連なりとなっていますので、読者にとって辛い読書となります。日付けすらない日記、断片的感想、書きつぶしの手紙の残片、散文詩めいた文章、少年期や過去の追想、備忘録の切れ端、今みている風物と人間などなどが順序も脈絡もなく書かれているのでした。小説という時間の流れや人間の心の移ろいなどを見出すことは不可能でした。

 リルケはこのような手法を自覚的にやりとげ、この1冊から読者に「マルテ像」を作り出してくれることを委ねたのだろうか?しかしここで大切なことは、「マルテの手記」は痛ましく孤独なものだと断定してしまうことは用心深く避けなければならない。「孤独」や「不安」というものは、文学を目指す若い未熟な者にとっては、麻薬のように魅惑的だからです。リルケは「マルテ」を通して、その時代に読者に伝えたかったことは「人間はいかに生きるか?」ということであって、人間の危うさ、死についての無力感、愛の哀しみではなかったと思います。

 それにしても、「マルテ」がパリで見たものは、どうしてこのように悲惨なものばかりなのだろう?行路病者、重たい体を運ぶ妊婦、街のヨードフォルムと油脂と不安の匂い、電車と自動車の騒音、火事場、瀕死の病人を乗せて駆ける馬車、突然目前で死ぬ酒場の男、廃屋、盲目の新聞売り、乞食、不具者・・・・・・近代都市パリの裏側とはこのようなものかもしれぬと、読者は奇妙に得心がいく。
 「マルテ」はこれらを能動的に見ることによって、それらすべてを受容したのだろう。そしてそこから「人間の死」について考えることに繋がってゆくようでした。

 最終部分で、「愛の女性たち」が書かれはじめることが救いとなる。サフォー、ベッティナ、マリアナ・アルコフォラド(ポルトガルの尼僧)、エロイーズ、アベローネ・・・・・・そして「ドゥイノの悲歌」にも登場する詩人の「ガスパラ・スタンパ」などなどです。

 「ル・アンドレス・ザロメ」の言葉を最後に引用します。

 『結局それ(マルテの手記)は絶えざる受苦であり、殉教であり、同時にまた人知れぬ昇天でもあった。」と・・・。


*   *   *

 わたくしが「ドゥイノの悲歌」に引き続き、この「マルテの手記」について書くことは、到底無理なことで、それでも書かずにいられなかったのは何故だろう?それは多分長い間「詩」というものを書き、かつ読んできたわたくし自身を、詩の源のようなところまで自分を引き戻してみたかったということかもしれません。新しい詩は産まれ続けています。読みきれないほどに・・・。しかし時を超えて読まれ続けるものたちにわたくしはどうしても遭いにゆきたいのです。

 (2007年・新潮文庫・57刷)
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Jul 13, 2009

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トランペットを吹くジェルソミーナ

監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ
音楽 ニーノ・ロータ

アンソニー・クイン
ジュリエッタ・マシーナ


昨夜、娘が録画しておいた映画「道」を観ました。


おお~ ジェルソミーナ
あわれな子
口笛ふいておどけてみせる~♪


あの有名なトランペットの曲が流れると、自然と歌っていましたが、娘に「誰が歌ったの?」と聞かれて、あらためて思いなおすと、誰がこの日本語の歌を歌っていたのかわかりませんでした。

「いい映画だったでしょ?」と娘に聞きましたら、「あんまりだわ。ジェルソミーナが可愛そうすぎるわ。」と言いました。今夜になってから「あの映画の良さはジェルソミーナの天使のような優しさ、繊細さ、にあるのですよ。」と再度問いかけましたが、「相手の男がひどすぎる。」と言うのでした。たしかにジェルソミーナの優しさに気付くのが遅すぎましたね。

  *   *   *

この女優さんがチビで目が大きくて、娘から「お母さんにそっくり。」ともいわれました。喜ぶべきか?否か??? そうです。お母さんも笑顔でいろんなことに耐えてきたのだよー♪
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Jul 09, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ3

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 (ガスパラ・スタムパ)

古井由吉訳の「ドゥイノ・エレギー訳文 1」のなかの2連目を引用します。この連は何度読んでも溜息がでるほど魅力的です。繰り返し読みました。

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 たしかに、春はお前をもとめる。幾多の星もお前に、その徴(しるし)を感じ取ることを望む。過去から波が立って寄せる。ひらいた窓の下を通り過ぎると、弦の音がお前に寄り添う。すべて、何事かを託したのだ。しかし、お前はそれを果たしたか。そのつど、すべては恋人の出現を告げているかのような、期待にまだ紛らわされていたのではないか。大きな見知らぬ想いの数々が出没して、しばしば夜まで去らぬという時に、恋人をどこに匿うと言うのか。それでも憧憬の念の止まぬものなら、愛を生きた女たちのことを歌うがよい。かの女(おんな)たちの名高き心はひさしくなお十分の不死の誉れを得てはいない。男に去られながら、渇きを癒された者よりもはるかに多くを愛したあの女たちを見れば、お前は妬まんばかりになるはずだ。けっして十全な称賛とはなりきらぬ称賛を、繰り返し新たに始めよ。考えてみるがよい。英雄はおのれを保つ。滅びすら彼にとっては生きながらえるための口実にほかならず、じつは究極の誕生にひとしい。しかし愛の女たちは究め尽くした宿命を、内へ納め戻す。あたかも二度と、これを為し遂げる力も尽きたかのように。かのガスパラ・スタムパの生涯をお前は十分に思ったことがあるか。恋人に去られたどこかの娘がこの愛の女の、高き手本に接して、わたしももしや、あの人のようになれるのではと感じる、そんな学びもあるということを考えたか。これら往古よりの苦悩を、われわれにとってついに稔りあるものと成すべきではないのか。愛しながらもなおかつ、愛する人のもとから身を解き放たんとして、その解放の境に震えつつ堪えるべき、その時が来たのではないか。矢が弓弦(ゆんづる)に堪えて、放たれる際(きわ)に力を絞り、おのれ以上のものにならんとするように。滞留は何処にもないのだ。

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ふぅ~。まずはこれを書いた自分を誉めてあげようかな(^^)。

「ガスパラ・スタムパ(Gaspara Stampa)・1523年~1554年」という女性は、イタリアの詩人です。「ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)1875年~1926年」よりも350年以上前に生まれた方ですね。この女性詩人をここに蘇らせたリルケの功績は大きなもののようです。

『しかし愛の女たちは究め尽くした宿命を、内へ納め戻す。』

この「納め戻す」という表現は記憶しておきましょう。時を超えて読まれつづける詩や小説に登場する女性というものは、いつでも過去の時間から、今の時間までを生き生きと生きているのです。決して古びることがない。天使のように。。。
 流れ出てしまったものを、そのもののうちへと取り戻して、旧に復する、あるいは恢復することは、リルケの一貫した考え方、感じかたですとは、I氏が教えて下さった解釈です。
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Jul 08, 2009

ドゥイノの悲歌ーメモ2

enjel

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 手塚富雄訳と古井由吉訳両方の読み合わせをしなくてはならないでしょうが、古井だけにしぼりましたのは、何故か古井の訳が好きなのです。翻訳の合間でぶつぶつと私語でつぶやく古井の翻訳の困難さや、それでも訳してみたい「悲歌」の魅力のありかがわかりやすいからでしょうか?

 あちこち順不同に読みながら、わかってきたことは、この悲歌の中心は天使への呼びかけだと言うことでした。だからこそ「悲歌」なのかもしれないとさえ思います。そうしてなぜか「天使の階段」を思い出しました。これはこの写真のような気象現象にすぎないと言えばそれまでですが、雲の隙間から光が線となって降りてくる現象です。長い間そう言ってきたのですが、この言葉の由来はよくわかりません。あるいは「ヤコブの梯子」とも言います。

 季節のなかで、時としてこの「天使の階段」は天からおろされます。それに遭遇した時には、わたくしは「恩寵」という言葉をいつも思い出しました。そういう時には、聴こえるか聴こえないか、その境目あたりの音調の天使の笑い声を聴いたような気がするのでした。その時天使は束の間降りてくるようでした。

Bath Abbey
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ドゥイノの悲歌ーメモ1

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 リルケの「ドゥイノの悲歌」につきましては、以前に簡単なメモを書きましたが、再びこの「難物」を小さな力を振り絞って、少しずつメモを書くことにしました。テキストは主に古井由吉の「詩への小路」の後半部にある「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」といたします。このメモをまた書くきっかけとなったのは、原文を読み解ける詩友のI氏の「ドゥイノの悲歌」の翻訳と解釈への挑戦によって、飛び火を浴びた(?)状態の中で、ドイツ語がまったくわからないわたくしは、新たな展開を目にする機会に恵まれたからなのです。感謝いたします。


 わたくしはこの悲歌を正しく理解できているという自信はまったくありません。けれども理解の困難な詩に出会った時に、自らに用意するものは漁師のように「潮流を読む。」というような視線ではないか?といつでも思います。それから詩は必ず「人間の孤独あるいは絶望」から生み出されるものではないかと思っています。その孤独をどこまで見つめ、熟成させて、言葉にするまでの「再生の時間」が「詩作」ではないかと思っています。これは「天使」にもっとも遠いところで行われることであって、「天使」と隣接する世界で行われる営為ではないと思います。

 過日、ある詩友が「神との境界」に隣接する者のみが、芸術家たりうる、というようなことをおっしゃっていましたが、これには違和感があります。この違和感の記憶がこれを書かせているのかもしれません。


 「ドゥイノ・エレギー訳文 2」のなかで、古井由吉はこう書いています。

『訳すとなると時制(テンス)の自在さに躓く。(中略)しかし、原詩の「時」はさわらぬほうがよい。』

 作家である古井は、おそらくリルケの詩のなかにおける時間の自在さ、悲痛ともいえる時間の跳躍に振り回されることになったような気がします。「さわらぬ方がいい。」というのは、小説や散文としてでは成立させることはできない、詩という魔物をそのまま生かしておけ、そして自由なまま動かしてみるしかないだろう、という意味かもしれません。

 この悲歌は、1912年から1922年まで、10年かかって書き上げられたもので、その間には「第一次世界大戦・1914年~1918年」がありました。この時代背景を見逃すわけにはいかないでしょう。「若い死者」のイメージを肥大させた大きな要素ではないだろうか?

 さらに関連することは「マルテの手記」が1904年から1910年の6年間で書かれています。この「マルテの手記」の主人公の光と影が「ドゥイノの悲歌」に尾を引いているように思えますが、いかがなものだろうか?それは「天使」であり、「死者」であり、生きている自分自身なのであって、この混在が光と影を織り成してゆく。時を超えながら。。。
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Jul 01, 2009

奇想の王国 だまし絵展

 6月30日、天気予報は当らず(^^)。雨は出掛ける時間には止んで、帰宅時間寸前で降っただけでした。心がけのよいわたくしです。季節のせいではないにしても、鬱状態でどこかへ出掛けたかったのでした。それならおもしろい美術展へ、ということになって、澁谷Bunkamura ザ・ミュージアムに行きました。
 とりあえず、1番好きだったのは、ヤーコブ・マーレルの「花瓶の花」です。この美しい花瓶に写っているのは、絵を描いている画家なのです。

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 目玉の展示作品は、初来日のスウェーデンのジョゼッペ・アルチンボルドの「ルドルフ2世」だそうです。63種の野菜、果物、花、木の実などで構成された王様のお顔です。さぞや王様はお怒りになったのではないか?と思うのですが、意外や王様は大喜びだったそうです。

Rudolf2

 17世紀、静物画におけるオランダの画家の優れた細密描写の究極の遊びと言えばいいのか?「トロンプルイユ・目だまし」と呼ばれる絵画の系譜が確立し、やがてアメリカにも広がっていきました。そして、ダリ、マグリット、それからエッシャーへ。。。

damasie

 日本でも「だまし絵」は特に幕末から明治の高名な画家が、まるで座興のように描いたものがあります。お化けの掛け軸、影絵遊び、歌川国芳の「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」などが代表的でしょうか。

kunuyosi

 さらに時代は新しくなって、多様なイリュージョニズムの時代に入ります。これは最も新しい絵ではなくて写真です。本城直季の「small planet」シリーズの1つです。高所から街の風景を撮っていますが、それがまるでフィギアのように見える写真となっています。わたくしたちが歩いた澁谷の駅付近のようです。

shibuya

 138点の作品ですが、このような絵画はどうしても1枚毎に立ち止まってしまいます。観終わって時計をみたら2時間以上絵画とにらめっこしていたのでした。お疲れさまでしたが、なんとも楽しい時間ではありました。ただし「トロンプルイユ・目だまし」だけでよかったような気もします。ダリ、マグリット、エッシャーなどは個別に美術展を観ていますし、日本の「だまし絵」との同居も(テーマは似ているかもしれませんが。)ちょっと不自然でした。
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Jun 17, 2009

水元公園&南蔵院

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 6月になってから、何故か梅雨の前に水辺を歩きたいと思うようになった。どこにしようかと考えていた時に、古い記憶が蘇ってきました。そこは子供たちが10歳と8歳まで住んでいた東京都葛飾区に隣接する土地(三郷市)で、よく遊びに行っていた葛飾区と三郷市にまたがった「水元公園」と「南蔵院」でした。

 今住んでいるのは同じ三郷市でも、葛飾区から最も遠い場所ですので、電車とバスを乗り継いで行きました。なんと20数年ぶりの訪問でした。

 15日の天気予報は曇り、夜は雨でしたので決行。早く行かないと「花しょうぶ」が終ってしまうのです。どうやら間に合ったようでした。水元公園は都内の公園としてはめずらしく入園無料、釣りは自由という開放された、広大な公園です。

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 川辺で大きな鯉を釣りあげた方がいらして、お願いして写真を撮らせていただきました。大きさはご覧のとおりです。ご本人も写真を撮っていらっしゃいました。

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 「南蔵院」は「しばられ地蔵」で知られたお寺です。

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Jun 10, 2009

トニオ・クレエゲル  トオマス・マン

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翻訳:実吉捷郎

 トーマス・マン(1875~1955)の少年期から青年期までを書いた短編「トニオ・クレエゲル」再読。11ページ目のこの↓数行で、すでに涙がでてきました。


 打ち明けていえば、トニオはハンス・ハンゼン(同級生の美しい男子)を愛していて、すでに多くの悩みを彼のためになめて来たのである。最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まなければならぬ――この素朴でしかも切ない教えを彼の14歳の魂はもはや人生から受け取っていた。

 さらに金髪の美少女「インゲボルグ・ホルム」への恋も発展はみられず、トニオは社会的には恵まれた一族(名誉領事クレエゲル家)の少年でありながら、孤独と離れることはできず、夜の庭に立つ大きな栗の樹と語り合うのだった。無論生きていることの幸福感がなかったわけではないが。しかし「クレエゲル家」は衰退してゆきます。青年トニオは故郷を離れて暮しますが、文学者として生きてゆくことはできても、孤独からは逃れることはできませんでした。そこまでがこの小説です。
 トーマス・マン自身の生涯は、幸福(と、言っていいのかな?)な家族も、不足ない経済力も手にいれています。


 トオマス・マンの「トニオ・クレエゲル」を読みながら想起されるものは、ゲーテ(1749~1832)の「若きウェルテルの悩み」、リルケ(1875~1926)の「マルテの手記」・・・・・・この連想は無理ではないように思われる。「マン」と「リルケ」は同年に生まれています。80歳まで長生きしたのが「マン」であること、「リルケ」は10年かけて「ドゥイノの悲歌」を完成させて間もなく、51歳でスイスで亡くなっています。同じナチス時代を亡命という運命を辿ったこと、スイスにいたことなど、2人の共通性は多いのです。

 さらに日本の老作家大江健三郎の「憂い顔の童子」を思い出したら、どこからかお叱りを受けるだろうか???

 さて小説とは摩訶不思議な世界です。一見「自伝小説」に思わせる作品であっても、これはあくまでも小説なのです。事実ではありませぬ。これについては大江健三郎の小説「憂い顔の童子」から引用してみましょう。これは主人公の老作家「古義人」の母親の言葉です。(しつこく言いますが、これは小説です。誤解なきように。)


 「古義人」の書いておりますのは小説です。小説はウソを書くものでしょう?ウソの世界を思い描くのでしょう?そうやないのですか?ホントウのことを書き記すのは小説よりほかのものやと思いますが・・・・・・

 あなたも『不思議な国のアリス』や「星の王子さま』を読まれたでしょ?あれはわざわざ、実際にはなさそうな物語に作られておりますな?それでもこの世にあるものなしで書かれておるでしょうか?

 「古義人」は小説を書いておるのですから。ウソを作っておるのですから。それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、と御不審ですか?それはウソに力をあたえるためでしょうが!



 以上が引用です。マンやゲーテやリルケと大江の違いといえば、ドイツの文学者たちが比較的若い時期に書いていますが、大江は老年になって書いているということです。これで多くの文学者たちが生涯に渡って「世界との違和」のなかで書き続けたのではないか?という思いは引き出せました。

「続く」と書きたいところですが、さてさてどうなることやら。。。


(2008年・第5刷・岩波文庫)
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Jun 04, 2009

詩が生まれるとき  新川和江

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 これは新川和江さん自身の作品を挙げながら、その言葉が生まれる過程について書かれたエッセー集です。初出は2006年から2008年までの「朝日新聞」「「みすず」「詩人会議」などに掲載されたものの集成です。2006年に出版された「詩の履歴書・思潮社刊」の続編と見てもよいかもしれません。

 おそれながら申し上げれば、わたくしは母からいのちをもらいましたが、「詩を書く者」としてのいのちの始めには、新川和江さんがいてくださったのだと、この本を読みながら再確認した次第です。(不肖の弟子ではありましたが、あしからず。)お教えくださった言葉は今でも覚えています。


①たくさん読みなさい。あなたが新しい表現だと思いこんだものが、実はすでにどなたかによって書かれたものかもしれないのです。

②師の後ばかり歩いてはいけません。いつの間にか横を歩いていて、そして前を歩いていたと言うところまで歩きなさい。



 上記の教えを守れたのかどうかはわかりませんが、生意気にもわたくしは師に対して「自主卒業宣言?」をして、一人で書いてゆく決心をしたのは第1詩集「河辺の家」を出した後でした。小生意気な弟子でしたが、新川さんは今でもわたくしにはおおきな師です。この本はそれを再確認するものでした。以下にこころに留めておきたいところを引用(太字部分)いたします。


《チドメグサ》

 個人的な傷や不幸を抱えていないわけではなかったが、長じて詩を書くようになってからも、その傷口を自分から暴いて衆目に晒すことは潔しとはしなかった。役者でもないのに、ひとつの詩をひとつの舞台として見立てているところがあった。私ひとりの悲哀や苦悩を、読んでくださる方に押しつけるのは、無礼であり不様でもある。社会的な事象をテーマにした作品であっても、直接傷を剔るのではなく、その傷口に貼るチドメグサを探しに行くのが、私の性分に合った〈詩の仕事〉だという思いがあった。



 わたくしはこの教えは守ってきたように思います。たとえ書いてしまったとしても、最終的には詩集に収録しなかったし、それ以前に自ら捨てたと思います。詩を書いているわたくしの向こう側には、わずかでも読み手がいます。そこに届けるためには、詩はどのようなものであればいいのか?それを思わない日はありませんでした。



《散らばる活字》

 植字工が原稿と首っ引きで活字を広い、版型のなかに配列していた。組み終えた版型を運ぼうとしていた植字工のひとりが私の前を通る時、誤ってその版型を取り落とした。(中略)50年後の今でも私は、詩を書こうとして言葉を選んでいる時、必ずといってよいほど、その時に受けた衝撃と、活字が四散した光景を思い出す。

壁から鋲をはづすように
空の一角から その星をはづす
すると満天に嵌めこまれてゐた星たちが
一挙に剥げ落ち
(そういう星が・・・・・・  より抜粋)



 新川さんの印刷所での実体験がこの「そういう星が・・・・・・」の詩を産んでいます。いかに言葉を大切に思い、そのうつくしい詩行を組み立て、配置し、揺るぎない形にしていらしたのか、とてもよく理解できます。
 昨今の合評会などで、仲間同士が無造作に「この行、あるいは連はいらないのではないか?」という批評が頻発しますが、書き手にとっては不用意に無造作に書いたものではないと思います。そこを認めた上で批評を始めなければならないように思います。この一冊はさまざまなことを考え直す、というよりもすでに教えられていたことを再確認できた読書時間でした。

(2009年・みすず書房刊)
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Jun 01, 2009

老親看護は繰りかえされるのか?

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5月23日の日記に「手紙 ~親愛なる子供たちへ~」を書きましたが、そのなかでわたくしは娘に向かってこう言いました。


 ・・・・・・そして娘に宣言しました。「お母さんが今、あなたの祖父母にしてあげていることと、同じことをお母さんにして欲しいとあなたには望んでいません。のたれ死にで結構です。」と。娘は沈黙していました。・・・・・・


 詩人&作家の「伊藤比呂美」は現在カリフォルニア州に在住しつつ、日本の老親の介護のために、両国の往復生活を送っているとのことを、娘から聞きました。(←朝日新聞に掲載されていた記事だったそうですが、わたくしは読み落としました。)費用も体力も時間も過度に要する生活ですが、彼女はこのやり方を変えず、帰国することもなく続けるそうですね。そのお気持はわかるような気がしますが。

 そして「伊藤比呂美」はやはり、こう言っていたそうです。「このようなことは自分の代で終わりにしたい。」と。これはわたくしの10数年前の感慨でした。全く同じことを彼女も10数年後におっしゃっている。娘はこのことをどう思っているだろうか?そして10数年前のわたくしの上記の言葉を覚えているだろうか?


 娘よ。息子よ。どうか忘れないでいて欲しい。
 「繰りかえしてはならない。」と・・・・・・。
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May 26, 2009

片岡球子展

naruto
 (海「鳴門」・1962年・57歳)

 25日天気予報がはずれて快晴となった午後、日本橋高島屋8階ホールにて、昨年1月16日に103歳で逝去された日本画家の「片岡球子」の追悼展覧会「天に捧げる地上の花」を観てきました。「油絵のごとき日本画」という表現もおかしなものだと我ながら思いますが、彼女の絵画にはそのような比喩しか思い浮かばないものでした。鮮烈な色彩、大胆な絵の具の配置は「片岡球子」という画家の満身の力を込めた直球を受けるようでした。それは彼女の生き方そのものなのでしょう。

 「片岡球子」は1926年女子美術専門学校日本画科高等科卒業後、横浜市尋常小学校教諭となります。絵画と教諭との両立に多忙な日々ではあっても、彼女は「私が教育を一生懸命やって子どもを教えることが、絵を一枚描くのと同じ・・・」という言葉が心に残りました。初期作品にはその教え子たちが描かれています。

biwa
 (枇杷・1930年・25歳)

 1930年、第17回院展にて「枇杷」が初入選しますが、それはわたくしたちが通常「日本画」と括っているような静謐で緻密な絵画でしたが、そこから彼女の絵画はどんどん溢れ出て、その括りを壊してゆくものとなっていくのでした。

fuji
 (富士に献花・1990年・85歳)

 そこには3つの流れがありました。1つは「富士山」シリーズ、2つ目は「面構」シリーズです。そして最後に78歳から「裸婦」に挑戦していますが、これが「片岡球子」の最後のシリーズと言えるのかもしれません。若き日には、婚約者との結婚も取り消して、一筋に絵画の道を103歳まで生きた一人の女性、危うさと強靭さを併せ持つ、あるいは頑固とも言える人生を、生き抜いた女性だったのだと思います。


 《付記》

 最近のわたくしは「美術館中毒」にかかってしまったようです。あのちょっと肌寒く、明るすぎない空間で、さまざまな世界を彷徨う自分が好きです。混雑が過度でないこと。観る方々の会話が静かであることは必須条件ですが、でもそれがなかなか難しいのですね。
 今回はデパート内の美術館であったこと、人々を引きつけないではおかないであろう女性画家であったこと、などの条件が重なって、ほとんどが数人の徒党を組んだ女性客でしたので、同性ながらちょっと辛いものがありました。「あら、あなたのお召し物は素敵ですね。ご注文服ですか?」・・・・・・こういう会話は観おわった後のティータイムにでもやってほしいものです。それからね。どこぞで聞きかじった知識を信じこんで、ご自分の目ではなく、その知識の視点でのみ絵画を観ることもやめて欲しい。その上それをお友達に解説することも。(←暴言多謝。)
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May 24, 2009

ルーブル美術館展・美の宮殿の子どもたち

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(ジュシュア・レノルズ  マスター・ヘア)

 22日、快晴、やや強風。またまた大計画(?)をたてて、まずは乃木坂の「国立新美術館」に上記のタイトルの美術展に行きました。その後で上野の「国立西洋美術館」にて「ルーブル美術館展・17世紀ヨーロッパ絵画」を観るべく上野へ行きましたが、美術館入口は大行列で「40分待ち」ということでしたので、入場はあきらめて「図録」のみ購入してきました。この2つの企画は連携したものですが、何故このように混雑ぶりに差があるのか?不思議でした。しかし、より観たい方を観ましたのでこれでよしといたしませう。

 「国立新美術館」に入場してまもなく、赤ちゃんの声を聴きました。一瞬絵画か彫刻から聴こえる幻聴かと我が耳を疑いましたが、若いお母さんが1歳前の赤ちゃんを抱いて「美の宮殿の子どもたち」を観にきていらしたのでした。この企画にふさわしい光景に出会って、思わず微笑んでしまいました。その赤ちゃんはぐずることも、大声で泣いたり、騒いだりすることもなくおかあさんの腕のなかで落ち着いていました。この光景は絵画と同じほどの思いがするのでした。

 作品は200点、7章に分かれて展示されていました。

 「河から救われるモーセ」、「聖母と幼いキリスト」、「授乳するイシス女性」、「愛の天使・プットー、アモール」、「子供のサテュロス」、「両親と男児」などなど「子供」をテーマとした、古代エジプト、ローマ、ギリシャ、オリエントから、19世紀あたりまでの永い時間を辿る美術の旅でした。絵画、彫刻、素描、版画、工芸品、陶器、玩具、人形、タペストリー、置物、美しい装飾を凝らした子供の棺など大小さまざまなものが展示されていました。
 ルーヴル美術館唯一の《少女のミイラと棺》は日本初公開だそうです。このミイラは、19世紀にギメ美術館に入り、次いでルーヴル美術館に移管されたものです。古代から子どもたちは死と背中合わせでした。幼年期を女児の服装で育てられた男児の絵画もありましたが、これはおそらく女児のより強い生命力に願いを託したものだったのではないでしょうか?

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(ピエール・パテル父  ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト)

 さらに個人的に気付いたこと。それは国立新美術館にあった「河から救われるモーセ」のタペストリーと、国立西洋美術館の図録にあった「ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト」でした。これは「子供のいのち」という大きなテーマの1つではないでしょうか?最近「出エジプト記」に出会うことの多い日々でしたので、一層心に残るものでした。


《付記》
 美術館に行って、歴史のなかで永く保存されてきた美術品を観ていますと、どうしても心をかすめる思いは拭えません。それらの「名品」は、言い換えれば「戦利品」なのですね。侵略と権力に運命を翻弄されたものでもあったということです。
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May 23, 2009

手紙 ~親愛なる子供たちへ~

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歌:樋口了一
詞:樋口了一・角智織
曲:樋口了一

 この元の詞はポルトガル語で書かれており、作者不詳。樋口了一の友人、角智織の元に偶然届いたチェーンメールに詩が記載されていて、この詩に感銘を受けた角が詩を翻訳、樋口に見せたところ樋口も感銘を受けたため、曲の制作・発売に至ったとのことです。(某所から頂いた情報です。)以下はその歌詞です。


年老いた私がある日
今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを
理解して欲しい

私が服の上に食べ物をこぼしても
靴ひもを結び忘れても
あなたにいろんな事を教えたように
見守って欲しい

あなたと話す時同じ話を
何度も 何度も 繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずに
うなずいて欲しい

あなたにせがまれて 繰り返し読んだ
絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を
平和にしてくれた

悲しい事ではないんだ
消え去ってゆくように 見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい

楽しいひと時に私が思わず
下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがる時には
思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり
様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った
懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ
旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ
出来なくなるかも知れない
足も衰えて 立ち上がる事すら
出来なくなったなら
あなたがか弱い足で立ち上がろうと
私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの
手を握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり
自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを
知るのはつらい事だけど
私を理解して支えて
くれる心だけを持っていて欲しい

きっとそれだけで それだけで
私には勇気がわいてくるのです

あなたの人生の始まりに
私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ
付き添って欲しい

あなたが生まれてくれたことで
私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って
笑顔で答えたい

私の子供たちへ

愛する子供たちへ


 この詞を初めて知りました。ヒットしている歌なのでしょうか?これは不自然というか、無理に子供時代と老年を重ねようとしているようです。多分これを詞にした方は「老人」でもなく、「子供」でもない。どちらにも属していない(つまり立ち位置がない。)人間の考えた詞であろうと思います。あるいは翻訳の段階で何があったのか?という思いもあります。または「ポルトガル」という国の家族意識との相違があるのでしょうか?

 わたくしが老親の介護の最中に思ったことは、そこには老いに逆行する可能性はないということでした。それはわたくしの努力では取り戻せるものではありませんでした。子供を育てることも困難なことは多いのですが、この困難はいつか終わるのです。子供は「育つという希望」があるのですから。しかし老親には長い視点に立って見える希望はないのだと思い知らされました。残酷な言い方をどうぞお許しください。それでも老親にかすかでも希望を抱いてもらうことが、娘としての最後の仕事だったのだと思います。

 子供を育てることには、何の代償も求めるものではありません。将来その子供が親の面倒をみるのだとも考えたことなどありませんでした。わたくしがまさに狂気寸前まで老親の看護をしましたが、愛娘は「そんなに苦労しなくても、社会には福祉というものがあるでしょう。」と言いましたが、お粗末な国の福祉に委ねることは、心身ともにぎりぎりまで拒否しました。そして娘に宣言しました。「お母さんが今、あなたの祖父母にしてあげていることと、同じことをお母さんにして欲しいとあなたには望んでいません。のたれ死にで結構です。」と。娘は沈黙していました。それでも娘と息子(その頃は高校生から大学生の時代でした。)の溌剌とした若いいのちがそこに存在してくれることが、老親の看護に疲れたわたくしのひかりある唯一の存在でした。「なにもしてくれなくてもいい。老親の看護に大方の時間を費やして、母親が充分に機能していないもう1つの家庭のなかで、元気で生きていてください。」と密かに祈りましたが、子供たちは自然に生きていたことでしょう。

 我が子を育てることはごくあたりまえのことで、その時間のなかで母親も育てられたのです。繰り返し子供のお願いに応えることで、母親はもう一度子供時代を自覚的に過ごすことができたのです。それは大きな収穫でした。その時間のなかで母親が育てられたことの力が、老親の看護に生かされたことだったということです。 
 子供を育てることと、老親を見守ることとは全く次元の違うことです。いかにもきれいに整えられた詞のように見えますが、これは「嘘」だとしか言いようがありません。

暴言多謝。
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May 15, 2009

言葉の共有イメージ

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 過去の私事でもうしわけありませんが、第一詩集を出す時にその表題を「河辺の家」と決めたのは編集者でした。わたくしは「明けきらぬ朝」を提案したのですが、却下されました。
 その理由は「河辺の家」という言葉ならば、読者がそれぞれの「河辺の家」というイメージを明らかな姿で思い描くことができる。しかしながら「明けきらぬ朝」をイメージすることは茫漠たるものです。・・・ということでした。


 さらにこの表題となった「河辺の家」は、詩集になる前に一編の詩として、あるささやかな賞をいただきました。その賞の第1回目の受賞作品であったことから、「このタイトルではイメージが悪い。」という理由でこの「河辺の家」となったのです。もとのタイトルは「喪失」だったのでした。多額の賞金に目がくらんで(?)というか、わたくしの師が決めて下さったタイトルで、無事受賞したのでした。


 そこから「河辺の家」は、わたくしの手を離れて1人歩きを始めたのでした。「主婦詩人」と言われ、「介護詩人」と言われ、またまた「墓場まで、戦後を引きずっていく詩人」とまで評価され、その周囲の反応には、もうわたくし自身が傍観者でした(^^)。そのさまざまな批評のなかで、今でも胸にあたためている言葉は「水の詩人」と「耳の詩人」の二つです。
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May 14, 2009

詩への小路  古井由吉

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 この著書の初出は「るしおる」の31号(1997年6月)~56号(2005年3月)までに連載されたもので、古井由吉が、ドイツの詩人達の作品を、散歩のように訪ね歩きながら、その詩を邦訳(行を立てぬ半散文の訳←本人のお言葉です。)しながら、迷ったり、短い解説を書いたり、独り事をつぶやいたり、またテーマの似た作品を並べてみたり、そして最後はリルケの「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」で締めくくった1冊でした。これはわたくしにとっては「詩への小路」どころではない「詩への大旅行」でありました。にもかかわらず、この大老はこともなげにこのようなことさえつぶやくのです。


 『豚に真珠というところか。私などには所詮活かしようにもなかった知識を、若い頃にはあれこれ溜めこんだものだ。あんな無用の事どもを覚える閑があったのなら、今ごろはとうに失われた町の風景でも、つくづくと眺めておけばよかったのに、と後年になり悔やまれることもあったが、さらに年を重ねて、それらの知識もすっかり薄れた頃になり、その影ばかりに残ったものが、何かの機会に頼りない足取りながら、少々の案内をしてくれる。』


 上記の抜粋した一文でもわかるように、壮年を過ぎ、晩年に至った著者の積み重ねた日々の豊かな収穫を、わたくしは幸運にもこの手に授かったのだという思いがしてならない。この思いはそのまま下記のヘッペルの詩に繋がってゆきました。ヘッペルは50歳の生涯でしたので、この詩はすでに晩年でしょうか?


 ――このような秋の日は見たこともない。あたかも人がほとんど息をつかずにいるように、大気は静まり返っている。それなのに、あちこちでざわざわと、木という木から、世にも美しい果実が落ちる。
 乱さぬがよい。この自然の祭り日を。これは自然が手づからおこなう獲り入れだ。この日、枝を離れるのはすべて、穏やかな陽ざしの前で落ちるものばかりなのだ。

 (ヘッペル「秋の歌」1857年・44歳)


 「ドゥイノの悲歌を読みたい。」と言うわたくしに、この本を薦めてくれた夫に感謝しよう。過去にも古井由吉の本を薦めてくれたことがありましたが、この本が1番好きになりそうです。安心して心を委ねることのできる本のなんと豊かな存在よ。
 古井由吉が訪ねた詩人は以下の通り。リルケ、ムージル、ブロッホ、マラルメ、ゲオルグ、ヴァレリー、ソホクレース、アイスキャロル、ダンテ、ヘルダーリン、シラー、ボードレール、ヘッペル、マイヤー、メーリケ、シュトルム、ケラー、ドロステ=ヒュルスホフ、etc・・・・・・。


  *   *   *

 以前観た映画 「約束の旅路」の最後は、主人公の若者が生き別れた母親に、やっと巡り会った時に、彼は靴をぬいで裸足で母親に歩みよるシーンでした。この映画の下敷きとなっているものが「出エジプト記」であることはどうにか理解していましたが、この最後の靴をぬぐシーンがナゾのまま日が過ぎていました。怠慢ですね。なんと、わたくしは「出エジプト記」の2章までしか読まなかったのでした。3章にあるではありませんか!以下引用です。まずはその詩の抜粋から。。。


見紛うかたもなく あなたはわたしと異なる
わたしが近づくにはモーゼに倣って
靴を脱がなくてはならぬ存在
(アンネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ「鏡像」より)


 上記の詩に対する筆者の解説によれば、『靴を脱ぐとは、旧約聖書の出エジプト記の第3章、ホレブの山で棘(しば)の燃えるその中からヤーヴェがモーゼを呼び、そして戒めた、「それより近寄ってはならん。靴を脱げ。お前のいま立っているところは聖なる地なのだ」から来る。』・・・・・・と書かれていました。あの若者の「靴を脱ぐ」行為は母への最上の敬意を表したものだったのですね。無知な自分を嘲笑してもいい。しかし、晩学ながら新しいことを知る歓びを大切にしたいと、この大老の本はしっかりと教えて下さいました。


 (2005年初版第1刷・2006年初版第3刷・書肆山田刊)
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May 12, 2009

日本の美術館名品展

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レオナルド藤田「私の夢」・1947年・新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵

 
 11日、新緑の快晴の午後に、上野の東京都美術館で観てきました。

 日本全国の公立美術館100館が参加し、そこに所蔵された膨大なコレクションから220点を選び一堂に公開。これは公立美術館のネットワーク組織「美術館連絡協議会」の創立25周年を記念して開催された展覧会でした。西洋絵画50点、日本近・現代洋画70点、日本画50点、版画・彫刻50点の220点!!が集合していました。


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川上澄生「初夏の風」1926年・栃木県立美術館蔵


 しかしながらこの展覧会は正直言って疲れました。時代はほぼ第一次世界大戦以前から、第二次世界大戦後までの時代に渡り、西洋美術から日本美術まで広範囲であって、画家の人数も数えきれません。順路に沿って絵画と彫刻を見ながら、繰り返し意識の転換を要求されるようで、溺死状態の鑑賞と相成りましたが、言い替えれば浮遊(あるいは彷徨?)状態とも言えるかも知れませんね(^^)。


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マルク・シャガール「オリジュヴァルの夜」1949年・高知県立美術館蔵


・・・・・・というわけで、観終わってから、地方の美術館にはあまり行ったことがなかったなぁーということに気付きました。招待券をプレゼントして下さった方にお礼を申し上げます。
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May 06, 2009

ドゥイノの悲歌 ライナー・マリア・リルケ

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 テキストとなった邦訳書は以下の3冊です。

①ドゥイノの悲歌 手塚富雄訳(岩波文庫・1957年第1刷・1998年第27刷)

②2003年、①は岩波書店および手塚富雄ご家族の承諾のもとに、アトリエHBより再版されています。こちらでは「詳解」の代りに原文(勿論読めませぬ。)を掲載しています。詩の翻訳、解説は書き直されていません。

③詩への小路 古井由吉訳(書肆山田・2006年第1刷)
  P171~P250・ドゥイノ・エレギー訳文1~10
  「初出・るしおる2002年~2005年あたり?」

  *   *   *

 手塚富雄の解説によれば、リルケ(1875年~1926年)の「ドゥイノの悲歌」は1912年から書き始めて、1922年の完成までに10年の歳月が流れていますが、これは順序だてて書かれたものではありません。書き始められた場所は、「ドゥイノの悲歌」のサブタイトルとなっている「マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローニの所有より」でわかるように、この公爵夫人の招きにより、北イタリアのトリエステの付近、アドリア海に臨む断崖の上にある「ドゥイノの館」ですが、「マルテの手記」完成後の疲労から、リルケのペンは進まなかったようです。放浪を繰り返した後、「ドゥイノの館」に再び戻り、それから書き始めたようです。

 その館は第1次大戦時に崩壊しました。第1次大戦中にはミュンヘンにいて、一時軍召集を受けるが、パトロンである「インゼル書店主のキッペンベルグ婦人」たちの尽力で免除されたものの、戦中戦後は空白の時期でした。戦後のリルケは主にスイスで書き継いで、書きあげてその3年後に51歳で亡くなっています。

 手塚富雄の「邦訳」と「詳解・・・これは悲歌を理解するための解説書のようなものです。」「解説・・・悲歌が書き終えるまでの10年間の出来事。」は懇切丁寧でありました。


 それに対して古井由吉は難物を邦訳することへの恐れを「試訳」という言葉で表現しています。また6韻律1行と5韻律1行という一対を単位とした原文の詩の組み立ての邦訳の不可能性をはっきりと語ってもいました。「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」として、その10章の前後には、10数行の訳者としての困難や独り言を記しています。またリルケの言葉の持つ激しさを、時としてブレーキをかけるようにして配慮しながら、邦訳しているようにも思えました。

 
 「ドゥイノの悲歌」は、「天使」への呼びかけから始まります。この「天使」はどうやら神から派遣された者ではなくて、さまざまな人々への呼びかけとして、その総称としての「天使」ではないだろうかと思います。リルケの「書簡」にはこのような言葉が記されています。「此岸(この世)もなければ彼岸(あの世)もありません。あるのは大きな統一体です。そこに私たちを凌駕する存在、《天使》は住まっているのです。」と・・・。
 また、最終行(第10の悲歌)を並列させて書いてみますと、この2人の翻訳者としての個性が浮かびあがるかもしれません。


 そしてわれわれは、上昇する幸福を思うわれわれは、おそらく心を揺り動かされ、そのあまり戸惑うばかりになるだろう――幸福な者は下降する、と悟った時には。
  (古井由吉訳)

そしてわれわれ、昇る幸福に思いをはせる
ものたちは、ほとんど驚愕にちかい
感動をおぼえるであろう、
降りくだる幸福(さち)のあることを知るときに。

  (手塚富雄訳)


 古井由吉は邦訳において行変え詩の形になることをせずに、散文としたようですが、手塚富雄は、もしかしたら原文の韻律を行変えすることによって、それに近づけようとしたのではないか?という推測をしてしまいました。この「ドゥイノの悲歌」を邦訳された翻訳者は他にももちろんいらっしゃいます。そのそれぞれの翻訳者は、古井由吉の書かれたように「難物との言葉の闘い」であったのではないでしょうか?

 いずれにしましても10年の歳月を費やしたこのリルケの詩集と、これを支えた人々がいた時代だったということは、驚愕するばかりです。「詩人」という呼称が確かにあった時代でした。


《追記》
「マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローニの所有より」というところを、わたくしは「サブタイトル」と書きましたが、コメントして下さった方より「献辞」であるというご指摘を頂きました。ありがとうございました。
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Apr 29, 2009

おりこうな王子

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 一歳を過ぎて、王子のなんと知恵とからだの発育のよいことよ。
・・・・・・という冒頭でも書かないと、どうも最後は感傷的なお話で終わりそうですので、とりあえず予防線をはっておきます。こんな小細工をしてでも、書いておきたいという自分の気持が、よくわからないのですが。

 王子さまは「高い高い」や「肩車」をおねだりするときは父親の胸によじ登って、意志表示。おいしいものが食べたい時は、お菓子の袋をみつけて、母親に「開けてちょうだい。」と意志表示。母親がある程度まで出して食べさせてあげてから、「これ以上食べては、いけません。」と言って、かごの中に戻す。すると、今度はそれを持ってきて、ばあばに「開けてちょうだい。もっと食べたい。」と意志表示。ばあばは母親の目を盗んで、王子さまの共犯者となる(^^)。

 そうしているうちに、王子さまは、ばあばの前歯にちょっと隙間があることに気付いて、小さな指をつっこんでくる。「ぱくっ!」とやわらかく唇で小さな指をつかまえてあげたら、その遊びを覚え、おおいに気にいったようで、何度も指をつっこむ。

 そうしているうちに、母親が部屋を出て、トイレに行こうとしたら、ものすごーい「高速はいはい」で追いかける。あわてた父親に引き戻される。「おりこうアンテナ」は何本立ってるのかな?


 こう書きながら、涙が出てくる。王子は好き嫌いなく何でも食べる良い子です。体重、身長は標準で順調に育ちました。若い両親もよく頑張りました。

 わたくしは1歳半ば頃に死の瀬戸際までいった幼児でしたし、3歳まで歩くこともできない状態で、父母や祖父母の心配の種でした。さらに小学1年生の夏休みには「疫痢」にかかり、またまた死にかかったのです。当然「隔離」されるべきところを、不憫に思った祖父母と父母は主治医と相談して、自宅治療となりました。これが許されたのはおそらく主治医の法を超えた独断であったのだろうと思います。家族はすべておそらく息をつめて生活していたことだろう。小さなわたくしは殆ど意識のない状態で、記憶といえば、庭のほおずき、蝉の声など・・・・・・母はわたくしの快復とともに、過労で倒れました。ありがとう。

 小学校の昼休みには、母はこっそりと校庭の柵越しに、わたくしの様子を見にきていたそうです。みんなが元気で走りまわっているのに、校庭の花壇の縁に腰掛けてぼんやりしているわたくしを何度も、悲しい思いで見ていたそうです。ありがとう。どうにか人並みの体力となった頃には、すでに思春期にはいっていました。


 そんなこんなで子供に望むことは、ただ1つ。健康なことでした。ここまで生きていてよかった。2人の子の母となり、そして祖母ともなった。無事にいのちは引き継がれたのです。亡くなった祖父母、父母に、あらためてありがとう。
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Apr 24, 2009

桜さくらサクラ・2009―さようなら、千鳥ヶ淵―

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 (奥村土牛・醍醐)

 すでに23日午後の「千鳥ヶ淵」は桜がすべて散っていました。快晴の空の下、水辺の美しい新緑の並木道を歩いていると、桜の蘂が敷き詰められている道は足裏にやわらかく花の終わりを伝えていました。そこを歩いて「山種美術館」に行ってまいりました。そこには「桜」の絵画50点が待っていてくださったのでした。

   さまざまの事おもひ出す桜かな    芭蕉

 遠い昔から、誰にでも「桜」の思い出はあるでしょう。その思い出がたった1人で抱えあたためるものであったり、共有者がもう1人いたり、多くの人々との共有であったりと、さまざまなものとなるのでしょう。

 さらに絵画の魔術は、山一面の桜を一斉に咲かせることさえできること、また一輪一輪を丹念に描き出し、さながら浮き彫りのごとく桜を見せることさえ出来るのだと思うのでした。

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(橋本明治・朝陽桜)

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 (川端龍子・さくら)

 山種美術館が千鳥ヶ淵に隣接していたことから、千鳥ヶ淵に因んで「桜」をテーマにした展覧会は、毎年行われていました。しかし、今年10 月に広尾への移転にともない「桜さくらサクラ展」も最終回だそうです。リクエストの多い桜を描いた作品を約50 点を展示して、最後の「桜さくらサクラ」美術展でした。このくらいの作品数が1回の美術展では、とても適当な点数だと思いました。それからテーマが統一されていることも、大変に心休まる展覧会でした。

主な出品作品は、以下の通りです。

菊池芳文《花鳥十二ヶ月》
渡辺省亭《桜に雀》
川合玉堂《春風春水》
菱田春草《桜下美人図》
小林古径《清姫・入相桜》
土田麦僊《大原女》
奥村土牛《吉野》《醍醐》
小茂田青樹《春庭》
速水御舟《夜桜》
東山魁夷《春静》
守屋多々志《聴花(式子内親王)》
石田武《千鳥ヶ淵》
加山又造《夜桜》・・・・・・・・・ほか約50点 でした。
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Apr 18, 2009

哲学塾  土屋賢二

Socrates_and_Xanthippe
(ソクラテスに水を浴びせるクサンティッペ)
オランダの画家オットー・ファン・フェーン・1607年の作品

 サブタイトルは「もしも ソクラテスに口説かれたら―愛について・自己について」となっています。これは土屋教授が勤務する「お茶の水女子大学」におけるゼミの実況中継のような形となっています。テキストは「プラトン」の書いた対話篇「アルキビアデス篇1・田中亨英訳」からの抜粋です。ちなみに「ソクラテス」自身は著書を持っていないようですね。これらの哲学問答は、弟子たちによって残されています。

 「アルキビアデス」も「ソクラテス」の弟子の1人で、彼は才能、容姿、家柄、人望全てにおいて卓越した人物であったようです。つまり「アルキビアデス」は「ソクラテス」の「ティーチャーズ・ペット」だったわけですか???テキストの最後の部分だけ、「ソクラテス」の言葉を引用します。


「君を恋する者は誰にしろむしろ君の魂を恋する者だね。」
(中略)
「・・・・・・クレイニアスの子アルキビアデスを恋する者は誰もいなかったし、そして今もいない。どうもそうらしい。ただたった1人いる、例外だね、その人は。その1人の人で満足しなくちゃいけない。つまりソプロニスコスとパイナレテーとの子ソクラテスでね。」



 「ソクラテス」はどうやら結論としては「アルキビアデス」に「わたしはあなたの顔も性格も嫌いですが、あなた自身の魂を愛しています。」と言ったことになるようです。ここから土屋教授と女子学生たちとの哲学問答が開始されたのでした。相対する言葉との関係性における学生から湧き出してくる矛盾、反発、疑問などが教授に投げかけられ、それらに丁寧に、時にはムキになって(^^)教授は答えています。この長い問答のなかで、学生は徐々に「日常的な曖昧な言葉のイメージ」から「哲学の言葉」としての構造と考え方を習得していったようでした。

 この本の帯文には・・・・・・

 きみって誰?
 愛にひそむ哲学の罠―
 罠にはまる方法・脱出する方法


 ・・・・・・と書かれています。ソクラテスはほとんど独力で、このような理屈の世界があることを発見し、それが「哲学」の第1歩だったわけで、ここから考えてみることも時には必要かもしれません。教授の最後の言葉は「そういう世界にちょっとでも入って迷ってみると、自分の思考力に自信が持てなくなるでしょう?そうじゃないですか?ぼくも自信がもてないんですよね。じゃあこれで終わります。」でした。これで教授の目論見はわかったなぁ(^^)。

 ソクラテスは政治家、芸術家、職人、知識人など、さまざまな人々に対してこのような問いかけを死刑になるまでやり続けました。おそらくソクラテスの脱獄と亡命を手伝おうとした弟子たち、あるいは牢獄の扉を開けたままにしておいてくれた牢番にも、同じく問いかけたのかもしれませんね。そしてソクラテスは権力者による死刑よりも、みずから毒を飲むことを選んだのでしょうか?

 (岩波書店・2007年刊)
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Apr 14, 2009

哲学者 鶴見俊輔(続)

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 書き忘れたことがありましたので、続編を書きます。

 鶴見俊輔には膨大な著書がもちろんありますが、鶴見氏たちの大きな仕事の1つに「思想の科学」という雑誌を長きに渡り、発行し続けたことにもありました。「思想の科学」は1946年(敗戦直後!)から1996年まで刊行された月刊の思想誌でした。

 鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子の7人の同人が「先駆社」を創立し「思想の科学」を創刊しました。出版社はその後建民社、講談社、中央公論社と変わりましたが。

 1961年の「天皇制」特集号(1961年12月号)を、出版社が編集者の「思想の科学研究会」に無断で雑誌を断裁してしまう事件が起こりました。編集者らは抗議し自主刊行すべく1962年3月に有限会社「思想の科学社」を創立。初代の代表取締役に哲学者の久野収が就任しました。1996年3月に刊行された5月号をもって通算536号で休刊となり50年の歴史に終止符を打ちました。


刊行の歴史は以下の通り。
第一次思想の科学(先駆社版) - 1946年5月〜1951年4月
第二次思想の科学(建民社版) - 1953年1月〜1954年5月
第三次思想の科学(講談社版) - 1954年5月〜1956年2月
第四次思想の科学(中央公論社版) - 1959年1月〜1961年12月
第五次思想の科学(思想の科学社版) - 1962年3月〜1972年3月
第六次思想の科学(同上) - 1972年4月〜1981年3月
第七次思想の科学(同上) - 1981年4月〜1993年2月
第八次思想の科学(同上) - 1993年3月〜1996年5月

  *   *   *

 「アサヒジャーナル」が「週間朝日」の増刊号という形をとって、復刊の試みをしているようです。さてさて、その後はいかなるものか?
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Apr 13, 2009

哲学者 鶴見俊輔

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 12日、NHK教育テレビで、PM10:00から11:30まで放映された「哲学者・鶴見俊輔」のインタビュー番組がありました。聞き手は「黒川創」です。これは去年に収録されたものです。現在は体調をくずされて、ある3月の講演会が残念ながら、代理の方に変わったという情報もありましたので、寂しく思っておりましたが、鶴見さんのしっかりとした語り方をテレビを通して観られたことは幸せなことでした。さらに驚いたことは鶴見氏の眼光でした。決して鋭いわけではないのです。それはむしろ「明るい光」のようなやさしさのなかに、決して世界のあやふやな動静を見逃すまいという眼でした。そして少年のような笑顔、インタビュアーの質問に即答できる豊かな「引き出し」を感じました。

 哲学者・鶴見俊輔(86歳)は、自分より先に逝ったさまざまな人に「悼詞」を書いてきました。鶴見氏の著書は膨大なものですが、この番組のなかでは、その「悼詞」を中心として語られていました。1951年、銀行家・池田成彬から始まって、2008年、漫画家の赤塚不二夫まで57年間で125人にも及ぶそうです。高橋和巳、竹内好、志賀直哉、寺山修司、手塚治虫、丸山眞男、小田実などなど戦後日本に大きな影響を与えた人たちに送った「悼詞」です。この「悼詞」に登場する人々から、鶴見氏はさまざまな考え方を授かったことに感謝しながら、生きている者の使命として、まだ語り残さなければならないことが、多くあるとのことでした。それはまた鶴見氏の残された時間との戦いでもあるのでしょう。

 鶴見俊輔は、知識人の戦争責任(転向)、原爆、60年安保、ベ平連、憲法九条の会、など精力的に活動し、ふつうの市民(ここが大事な点!)と共に歩いてきました。こうして鶴見氏は「死者125人」の「戦後」を見つめ続けてきました。

 このインタビューのなかで、最もわたくしの心に残ったものは「人民の記憶が大事なものであって、国家の記憶などは意味がない。」という言葉でした。たとえばかつての戦争で、自らの意志ではなく、戦場に行かされた人民が、家族にさえその実体を隠すことなく語れた者がいただろうか?という言葉でした。
 もうひとつのお話は、アメリカ留学中に鶴見氏は実際に「ヘレン・ケラー」に会っています。お互いに大学が近かったそうですが、彼女は大学でよく学びました。もちろん鶴見氏も不良少年、自殺願望少年を経て、よく学びました。しかし大学を卒業した「ヘレン・ケラー」は、その学んだものを「学びほぐす」ということを実践したそうです。

  *   *   *

国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる。
それは冷たい顔で欺く。
欺瞞はその口から這ひ出る。「我国家は民衆である。」と。
            (ニーチェ 「ツァラトゥストラはかく語る。」)

死んだ人たちの伝達は生きている
人たちの言語を越えて火をもって
表明されるのだ。
   (T・S・エリオット「西脇順三郎訳」)

  *   *   *

記憶がホットなうちに急いで書きました。パスカルのように(^^)。
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Apr 11, 2009

国立トレチャコフ美術館展  忘れえぬロシア

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(忘れえぬ女・イワン・クラムスコイ・1883年)

 桜の散りはじめた、あたたかな9日の午後に、澁谷Bunkamura ザ・ミュージアムにて、寒い国の静かな絵画たちに会いに行ってまいりました。おだやかな空間のなかで、しばしの時間を過ごしました。

 ロシア国立トレチャコフ美術館は12世紀の「イコン」からはじまり、約10万点の所蔵作品があります。この美術館の創設者「パーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)」はモスクワの商家に生まれ、紡績業で成功して、その利益を社会に還元しようと数多くの慈善事業を行ないましたが、とりわけ力を注いだものは「ロシア芸術家によるロシア美術のための美術館」であり、あらゆる人に開かれた公共美術館の設立でした。トレチャコフは1880年代から自宅の庭に立てたギャラリーでコレクションの一般公開を始め、1892年には亡くなった弟のヨーロッパ絵画の収集品と併せてコレクションをモスクワ市に寄贈しました。彼の死後、住居も展示室へと改装されて、ワスネツォフの設計による古代ロシア建築様式の豪奢なファサードが建てられ、20世紀初頭には現在のような姿になり、ロシア革命後、国に移管されました。

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(鳥追い・ワシーリー・ペローフ・1870年)

 国立トレチャコフ美術館の所蔵絵画のなかで、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシア美術の作品は、同時代を生きた創始者トレチャコフがとりわけ熱心に収集したものです。この美術展は、その所蔵作品の中からロシア美術の代表的画家、レーピンやクラムスコイ、シーシキン等、38作家による75点の作品を紹介しています。このうち50点以上が日本初出品だそうです。19世紀半ばからロシア革命までの人々の生活や、壮大なロシアの自然、美しい情景を描いた作品と共に、チェーホフ、トルストイ、ツルゲーネフ等の文豪の肖像画も加えて構成し、リアリズムから印象主義に至るロシア美術の流れを追う展覧会でした。革命までの歴史は以下のとおり。

1904  日露戦争(-05)
1905  第一次ロシア革命、血の日曜日事件
1914  第一次世界大戦勃発(-18)
1917  ロシア革命、ロマノフ王朝の崩壊

 19世紀から20世紀前期のロシアは、まさに歴史に残る偉大な芸術家の出現した時代だと言っても過言ではないような気がします。音楽では、アレクサンドル・ボロディン、モデスト・ムソルグスキー、ニコライ・コムスキー=コルサコフ、ピョートル・チャイコフスキー、セルゲイ・ラフマニノフ。文学では、イワン・ツルゲーネフ、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、アントン・チェーホフなどなど。

《追記》

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(冬・ニコライ・ドゥボフスコイ・1884年)

この↑絵画を行きつ戻りつしながら、何度も見つめてしまいましたが、この絵は「モネ」の「かささぎ」にとてもよく似ていました。「かささぎ」は彼がフランスのエトルタに滞在していた1868年の冬に描かれたようです。

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(かささぎ・モネ・1868年)
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Apr 08, 2009

さようなら、私の本よ!  大江健三郎

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 これは「取り替え子・チェンジリング・2000年」と「憂い顔の童子・2002年」との3部作となっています。すべて講談社刊。3部とも主人公の老作家「長江古義人」をはじめとして、その家族、友人たちとの物語です。そしてこれらはすべて「いのち」の根源を辿る道のりであり、死者への語りかけでもあり、古義人は何度も少年期に戻り、そこに置き去りにされたままでいるもう一人の分身の「童子」とのはるかな対話を続けながら、さらに老境に入った小説家としての「総括」あるいは「覚悟」かもしれません。それを建築家の「繁」と「おかしな2人組・スウード・カップル」として締めくくろうとしたのだろうか?

さようなら、私の本よ! 死すべき者の眼のように、
想像した眼もいつか閉じられねばならない。
恋を拒まれた男は立ち上がることになろう。
――しかし彼の創り手は歩き去っている。


 この詩は、老年になって、暴力事件の被害者となり、深手を負って入院した「古義人」が、集中治療室から集団快復病棟に移された夜に見た夢のなかで、若いナバコフの小説(ドイツ語)の結びとなっていた詩のような一節を「古義人」が邦訳したものだった。それが、この小説のタイトルとなっています。

 この物語の第1部の扉は、このエリオットの詩から開かれた。

  もう老人の知恵などは
聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい
不安と狂気に対する老人の恐怖心が
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)


 上記の3冊の小説のなかで、老作家は次々に大切な友人を亡くしています。映画監督、音楽家、編集者などなど・・・・・・そして残された友人の建築家の「繁」を中心としてその周囲の若い人間たちとのドラマが「さようなら、私の本よ!」だった。「繁」はアメリカの大学で教鞭をとっていたが、長い空白ののちに帰国して「古義人」とともに、深く関わる時間を共有することになります。
 エリオットの詩に「ゲロンチョン」という作品があります。ギリシャ語で、geron(old man)とtion(little)を組み合わせた言葉で、「小さな老人」の意味ですが、一般的な意味では、精神が萎縮しつつある人間と社会を象徴しているようです。主人公の老作家の軽井沢の別荘は、この「小さな老人=ゲロンチョン」という名前が付けられています。かつて設計と建築に関わったのは「繁」であり、案は「古義人」だった。

 ――ぼくの父親がいったのは、ぼくの代りに死んでくれるほかの子供ということだが、きみのお母さんがいわれたのは、ぼくがきみの代りに死ぬ、ということだね。(古義人)

 ――それでも、事の始まりは、われわれお互いの母親が、それぞれの子供をね、相手のために死ぬ人間へ育てようと、そういう密約だったのじゃないか?(繁)


 少年期に不思議な出会いをした二人の少年の、再び老齢にはいってから交わされたこの会話は一体なんだろう?

 これは、第2部の扉にかかれた詩です。

死んだ人たちの伝達は生きている
人たちの言語を越えて火をもって
表明されるのだ。
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)


 第3部の扉では・・・・・・

老人は探検家になるべきだ。
現世の場所は問題ではない
われわれは静かに静かに動き始めなければならない。
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)



 三島由紀夫の自決、「古義人」のかつての自殺未遂(生まれた長男が障害児であったことへの苦しみ?あるいは罪の意識か?)、「古義人」の大学時代の恩師の示したもの。「古義人」と「繁」を中心として会話があり、そこに集まった若い人たちの考え方あるいは1人の老作家の見方など、錯綜する対話のなかで、「古義人」は、1つの時代を終えて、あらたな老作家として、どう書いて生きてゆくのか?を模索するのでした。

 3冊をなんとか読み終えて、考えたこと。「古義人」をとりまく世界には「知的エリート」しか存在しないことだった。これがいけないことだとは思わない。こうした必然性は逃れようもないことだろう。作家「大江健三郎」が数100年後の歴史のなかを生きながらえていくことを祈る。

 (2005年・講談社刊)
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Apr 04, 2009

不思議な少年 マーク・トウェイン

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 マーク・トウェインはこの小説を1890年頃から書き始め、20年後に亡くなるまで何度も改稿し、それによって複数の原稿が残されている。どれも未完成ですが、「サタン」を象徴とする少年が登場する点で共通している。

①The Chronicle of Young Satan。
1702年のオーストリアの村を舞台に、サタンの甥である「サタン」が主人公。しかしこの原稿は、インド旅行中断している。

②Schoolhouse Hill。
舞台を『トム・ソーヤーの冒険』に合わせ、トム・ソーヤーや、ハックルベリー・フィンを登場させている。主人公の少年の名前は「第44号」となっている。これは残された原稿の中で最も短い。

③No. 44, The Mysterious Stranger。
舞台を1490年のオ-ストリアの古城とし、「第44号」と名乗った少年は古城の中の印刷工場で働くことになっている。この版は3つの中で最も分量が多いが、完成していない。

 現在広く知られている「不思議な少年」は、マーク・トウェインの死後、遺産管理人のアルバート・B・ペインが1916年に出版した「Mysterious Stranger, A Romance」である。これはペインが①の原稿を基に③の結末を付け加えたもの。1937年にペインが死亡し、遺産管理人となったバーナード・デヴォートが、1960年代になって「トウェイン」のすべての原稿を公開して、1916年の作品はペインの手が加わったものだと判明した。


 少年「テオドール」が語るこの物語は、1590年5月、オーストリアのエーセルドルフ(Eseldorf 、ドイツ語でロバの村、すなわち愚者の村)に、自らを「サタン」と名乗る、年齢は1万6000歳の少年が現れることからはじまる。その物語のなかで語られる下記の言葉が魅力的でしたので、そこだけ抜粋しました。


 『未開人にしろ文明人にしろ、大多数の人間ってものは、腹の底は案外やさしい。人を苦しめることなんて、ほとんどできやしないんだ。だが、それが攻撃侵略的で、まったく情け知らずの少数者の前に出ると、そういう自分を出し切る勇気がないんだな。・・・・・・戦争を煽るやつに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて1人としていなかった。僕は百万年後だって見通せるが、この原則に外れるなんてことは、まずあるまいね。あっても、せいぜい5、6人ってところかな。いつも決まって声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに宗教家どもは、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。国民の大多数も、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして心から腹を立てて叫ぶのだ。「不正な戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない」ってね。するとまた例のひと握りの連中が、いっそう声をはり上げてわめき立てる。これも少数だが、もちろん戦争反対の立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうさ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それはとうてい長くは続かない。なにしろ扇動屋のほうが、はるかに声が大きいんだから。やがて聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまう。すると今度はまことに奇妙なことがはじまる。まず戦争反対論者たち石をもて演壇を追われる。そして凶暴になった群集の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。・・・・・・そう、教会までも含めてそうなのだが、いっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて襲いかかるわけだ。まもなくこうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国についての悪宣伝をやる。国民は国民で、うしろめたさがあるせいか、それらの気休めにこれらの嘘をよろこんで迎えるのだ。こうしてそのうちにまるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、この奇怪な自己欺瞞のなかでぐっすり安眠を神に感謝することになるわけだな。』
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Apr 02, 2009

不思議な少年 マーク・トウェイン

4-2sakura-4

 マーク・トウェインはこの小説を1890年頃から書き始め、20年後に亡くなるまで何度も改稿し、それによって複数の原稿が残されている。どれも未完成ですが、「サタン」を象徴とする少年が登場する点で共通している。

①The Chronicle of Young Satan。
1702年のオーストリアの村を舞台に、サタンの甥である「サタン」が主人公。しかしこの原稿は、インド旅行で中断している。

②Schoolhouse Hill。
舞台を『トム・ソーヤーの冒険』に合わせ、トム・ソーヤーや、ハックルベリー・フィンを登場させている。主人公の少年の名前は「第44号」となっている。これは残された原稿の中で最も短い。

③No. 44, The Mysterious Stranger。
舞台を1490年のオ-ストリアの古城とし、「第44号」と名乗った少年は古城の中の印刷工場で働くことになっている。この版は3つの中で最も分量が多いが、完成していない。

 現在広く知られている「不思議な少年」は、マーク・トウェインの死後、遺産管理人のアルバート・B・ペインが1916年に出版した「Mysterious Stranger, A Romance」である。これはペインが①の原稿を基に③の結末を付け加えたもの。1937年にペインが死亡し、遺産管理人となったバーナード・デヴォートが、1960年代になって「トウェイン」のすべての原稿を公開して、1916年の作品はペインの手が加わったものだと判明した。


 少年「テオドール」が語るこの物語は、1590年5月、オーストリアのエーセルドルフ(Eseldorf 、ドイツ語でロバの村、すなわち愚者の村)に、自らを「サタン」と名乗る、年齢は1万6000歳の少年が現れることからはじまる。その物語のなかで語られる下記の言葉が魅力的でしたので、そこだけ抜粋しました。


 『未開人にしろ文明人にしろ、大多数の人間ってものは、腹の底は案外やさしい。人を苦しめることなんて、ほとんどできやしないんだ。だが、それが攻撃侵略的で、まったく情け知らずの少数者の前に出ると、そういう自分を出し切る勇気がないんだな。・・・・・・戦争を煽るやつに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて1人としていなかった。僕は百万年後だって見通せるが、この原則に外れるなんてことは、まずあるまいね。あっても、せいぜい5、6人ってところかな。いつも決まって声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに宗教家どもは、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。国民の大多数も、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして心から腹を立てて叫ぶのだ。「不正な戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない」ってね。するとまた例のひと握りの連中が、いっそう声をはり上げてわめき立てる。これも少数だが、もちろん戦争反対の立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうさ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それはとうてい長くは続かない。なにしろ扇動屋のほうが、はるかに声が大きいんだから。やがて聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまう。すると今度はまことに奇妙なことがはじまる。まず戦争反対論者たち石をもて演壇を追われる。そして凶暴になった群集の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。・・・・・・そう、教会までも含めてそうなのだが、いっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて襲いかかるわけだ。まもなくこうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国についての悪宣伝をやる。国民は国民で、うしろめたさがあるせいか、それらの気休めにこれらの嘘をよろこんで迎えるのだ。こうしてそのうちにまるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、この奇怪な自己欺瞞のなかでぐっすり安眠を神に感謝することになるわけだな。』
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Mar 27, 2009

忘れられし王妃―イラン革命30年、ふたりの女性の人生の空白

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BSハイビジョン特集(3月24日(火) 午後8:00~9:30)

1979年のイラン革命から30年後。革命によって人生の大転換を迫られた、2人の女性の対話を追ったドキュメンタリー番組でした。1人は、イランのパーレビ国王の3番目の妻であり、国王と共に革命によって追放され、さまざまな国を彷徨い、国王を亡くし、今はイギリスに亡命中の「元王妃ファラ・パーレビ」。もう1人はこのドキュメンタリーの監督であり、スウェーデンに亡命中の、イラン人女性の「ナヒード・ペーション」。イギリスにおいてさまざまな場面での二人の対話を追ったものでした。一旦は中断し、これ以上の対話は無理ではないか?と思いつつ観ていましたが、再開され二人の対話は続き、監督はねばり強く「元王妃」と行動を共にする。しかし、二人が会うことの決定権はすべて「元王妃」にあったことを書いておこう。

 監督は30年前、共産党員として革命に加わり「王妃」たちを追放した側にいました。だがこの革命の実態はどうだったのか?この革命の指導者「アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー・1902年~1989年」は、イランのシーア派(十二イマーム派)の精神的リーダーであり、1979年にイラン国王を追放したイラン革命の指導者である。イランの現在の政体、イスラム共和制は彼によって打ち立てられた。この宗教色の濃厚なやり方はあまりにも残酷なことであった。だからと言って「王政」が正しかったとも言ってはならないことだろう。

 「ぺーション監督」は、学生の頃、共産主義信奉者で、学生運動にも参加していました。彼女の17歳と15歳の弟は、革命後に、捕らえられ、17歳の弟は、身代金を用意している間に処刑され、遺体を引き取りたいのなら、お金を払えと言われた。 「ぺーション監督」は、母親の絨毯織りで生計を立てる貧しい家庭に育った。それに対して「元王妃ファラ・パーレビ」の生活には貧しさは微塵もなかった。「生涯愛した方は国王のみ。」という矜持はたしかに美談だが、貧しさの渦中においてなら人間はどこまで矜持を保ち続けることができただろうか?フランスの著名なデザイナーのショーに招かれる「元王妃」には、専用の送迎の飛行機が用意されるという身分なのですからね。イラン革命30年後の「2人の女性の対話」として、どこか腑に落ちないものがある。「監督」は「元王妃」が革命を本当はどう総括しているかについては迫りきっていない。次第に「元王妃」を老いをみつめる「ひとりの女性」として描き始めるのだった。。。

  *   *   *

 ふと、ある友人の言葉を思い出す。「文学者が国会に出て意見を述べなくてはならない政治というものは、まだ未熟な政治ではないのか?」。これはかつてアフリカのノーベル賞作家「ウォレ・ショインカ」が、国会で弁舌したという事実への言及であったのだが。。。
 これは、フセインの宗教に結びつけた政治と権力とを前面に出した、無謀で残酷な革命後の政治の大きな誤りにも言えることではないか?異教徒の存在は排除されるという大きな犠牲が生まれるのですから。。。「ウォレ・ショインカ」は、「ヨルバ神話」「ギリシャ神話」からアフリカ文化の根源を見つめながら、キリスト教との宗教共存を望んだ文学者だった。

 書き終えて、自らあきれる。手に負えないような大きな問題を無知を承知でよくも書くものですねぇ・・・・・・と。お粗末さまでした(^^)。
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Mar 20, 2009

ミロ展

「私は物たちの神秘の生命に固執することに決めました、(…)そして表意文字のような暗号へ到達するために、少しずつ外側の現実を取り除いていきたいのです。」 (ジョアン・ミロ)

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 (女と鳥たち・1968年)

「大丸ミュージアム・東京」で観てまいりました。作品数は約70点ほどで、サイズも小さな作品が多く、静かでこじんまりとした「ジョアン・ミロ」のみの油彩画と彫刻の美術展でした。クスリと笑ってしまうような絵画、色彩の鮮やかさ、お散歩するような楽しい展覧会でした。

 以下の2点はちょっと楽しい。この画家は女性の悪口を表現する時が、一番鮮明な絵画になるのではないかしらん(^^)。。。

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 (ガミガミ女と月・1973年)

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 (間抜け女・1969年)

 「ジョアン・ミロ・1893年~1983年」は20世紀のスペインの画家。カタルーニャ地方のバルセロナ出身。(ガウディ、ダリも同じく。)フランコ体制下の時代にあって、スペインではカスティーリャ語以外の言語は公的には禁止されていたので、「ホアン・ミロ」と表記されることがありましたが、独裁者フランコの死去(1975年)以降、地方語は復権され、現在ではカタルーニャ語の原音を尊重して「ジョアン・ミロ」または「ジュアン・ミロ」と表記されるようになりました。

 ミロは1912年、バルセロナの美術学校に入学した。1919年にはパリに出て、ピカソやダダといった芸術家とも知り合い、また、シュルレアリスム運動の主唱者であるアンドレ・ブルトンと出会う。さらにマグリットやダリなどにも出会う。ミロは「シュルレアリスト」のグループに迎え入れられることとなったが、ミロは「画家」という狭い世界を嫌い、パリでは作家の「ヘミングウェイ」や「ヘンリー・ミラー」などとも交流があった。

 今回の展示作品は、サイズの小さなものばかりでしたが、大きな作品を晩年にはたくさん手掛けています。たとえば1970年大阪万国博覧会のガス館に展示された陶板壁画『無垢の笑い』など。
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Mar 13, 2009

アジアとヨーロッパの肖像・その2

perry
 (これらはすべて「ペリー」です。)

 この美術展はASEMUS(アジア・ヨーロッパ・ミュージアム・ネットワーク=アジア、ヨーロッパの18カ国の博物館・美術館が共同で作り上げた組織。)の第1回国際巡回展です。さらに、この美術展は「神奈川開港・開国150周年メモリアルイベント」ということで、「神奈川県立近代美術館・葉山」と「神奈川県立歴史博物館」の2箇所で開催されたものです。美術品が語りかけてくるものは「アジア」と「ヨーロッパ」の文化であり、日本の開国以前と以後とのおおきな歴史の変化と流れでした。

 アジアとヨーロッパの人々は、自国の人間をどのようにとらえ、他国の人間をお互いにどのように想像し、出会い、受け入れてきたのか?ということを、巨匠たちの作品(多くの肖像画、彫刻、風俗画、写真、屏風、陶磁器、地図、映像、人形)のなかに、あるいは現代美術の作家たちの挑戦のなかに辿っていく展覧会でした。人と人との出会いの記憶と印象、違和感、差別感、誤解などなど、異国の人間同士のさまざまな視点と、その認識のうつりかわりなどを、約200点の作品の流れのなかに見つめてゆく展覧会でした。 展開は以下のように、代表的な作品を。

第1章:それぞれの肖像
・レンブラント・自画像
・東洲斎写楽・三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ(←この白人は江戸時代の私娼の異称)

第2章:接触以前―想像された他者
・寺島良安「和漢三才図会(巻4・外夷人物・部分)
 (中国の書物にもとづいて描いた異人像です。)
wakan

第3章:接触以降―自己の手法で描く
伊東マンショ肖像画・作者不詳
itomantio

第4章:近代の目―他者の手法を取り入れる
・マンドリンを持つ少女・百武兼行(1879年)
mamdlin

第5章:現代における自己と他者(ここは県立近代美術館のみの展示です。)
・コスロウ・ハサンダデ・テロリスト・コスロウ
・ジュリアン・オピー・ファイルを持つヒロフミ

  *   *   *

 肌色の違い、髪の色の違い、鼻の高さ、背丈、言葉、風習、宗教、権力者の有り様などなど、海を越えた文化の出会いは、人間の永い歴史のなかで、徐々に侵蝕し、反発し、融合しながら、なお今も世界は決して理解しあえたわけではないでしょう。そんなことを思いながら、海の見える町を彷徨った一日でした。
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Mar 12, 2009

アジアとヨーロッパの肖像・その1

 この美術展は「神奈川開港・開国150周年メモリアルイベント」ということで、「神奈川県立近代美術館・葉山」と「神奈川県立歴史博物館」の2箇所で開催されたものです。前者は「逗子駅」からさらにバスで20分、後者は桜木町から歩いて10分、こんなに遠いところまで行って、しかも2箇所観るのはしんどい。それに予定していた日がことごとく雨にみまわれて、ほとんどあきらめていたのでした。

 しかし沼津漁港まで日帰りができた快挙(?)に勇気づけられて、いただいた招待券を無駄にすることなく、晴れた日を選んで、どうやら決行いたしました。この美術展には正直に申し上げますと、大きな期待を抱いてはいませんでしたが、これは浅はかな判断でした。美術品の充実とそれが語りかけてくる「アジア」と「ヨーロッパ」の文化の開国以前と以後とのおおきな歴史の流れが観られました。

 それにつきましては次回書くことにいたします。・・・というのは、この「神奈川県立近代美術館・葉山」と「神奈川県立歴史博物館」の周囲の風景、建物の歴史なども大きな収穫だったからでした。すでにご存知の方には新鮮ではないでしょうが、わたくしには予想外の収穫となりました。

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(神奈川県立近代美術館・葉山です。建物のうしろは海です。)

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(神奈川県立歴史博物館です。)

 この建物は大空襲を免れ、大震災にも壊れることのなかった古い建物です。この建物に沿って「馬車道」があります。幕末に幕府は神奈川(横浜)を開港させ、「吉田橋」に関門を設け、それに開港場側から至る道が馬車道となりました。

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Mar 08, 2009

パンセ・463  パスカル

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 この「ふくろう日記」の2月22日に書いた「プロヴァンシアル(田舎の友への手紙)「第16の手紙」・パスカル」と関連づけて、この「パンセ・463」について、もう少しだけ記しておきたいことがあります。みずからの知識の浅いことをしっかりと(^^)自覚しつつ、我が脳髄にふつふつとたまってしまったことを書いてみます。まずは「パンセ・463」を・・・・・・

〔イエス・キリストなしに神を持つ哲学者たちに対して〕
 哲学者たち。
 彼らは、神だけが、愛され賛美されるに値するということを信じながら、自分たちが人から愛され賛美されることを願った。彼らは自分の堕落を知らない。もし彼らが神を愛しあがめる感情に満ちているとみずから感じ、そこに彼らの主要な喜びを見いだすならば、自分を善だと思うがよい。それは結構なことだ。しかし、もし彼らがそれに嫌悪をおぼえ、人々の尊敬の的になりたいという意向しか持たないとしたら、また十全な理想として彼らのなしうる唯一のことが、人々を強制せずに彼らを愛せしめ、それによって人々を幸福にしようとするのであるならば、わたしはそのような理想を恐るべきものだと言うであろう。なんたることか。彼らは神を知っていて、しかも神を愛することだけを願わず、彼ら自身にとどまってくれることを願ったのだ。彼らは人々の気ままな幸福の対象になることを望んだのだ。


 ・・・・・・「パスカル・1623~1662」のこの哲学者たちへの呼びかけは、「プロヴァンシアル」に書かれた「イエズス会士」との論争と同じ流れのなかにあるのではないだろうか?また、わたくしの漠然とした小さな気付きですが、人間の永い歴史は、言い換えれば、宗教と権力と富との永い闘いの歴史でもあるのですね。「人間は考える葦である。」というあの名言にあるように、未知の宇宙よりも、人間の小さな愛の業の方が偉大であるはずですが、「物体・精神・愛」という秩序の三段階が整えられた時代はなかったのではないのか?

 聖書もろくに読んではいませんが(汗。。。)、おそらくそれは口承から始まり、文字ある時代を迎えて、羊皮紙に書かれ、やがて紙に書かれ、一冊の「聖書」となり、その文脈も時代のなかで、推敲され、訂正され、差別語を隠されて・・・と何度も何度も書き直された結果が今日に至っているわけでして、これについてはわたくしの手に負えるようなものではないでしょうね。 しかし暴言を許されるならば、キリストの予想だにもしなかった、この宗教を媒体として常に権力と富がからみ、原始宗教、民族宗教などよりも世界的宗教となっていった歴史とは一体何だったのでしょうか?

 急いで書かなければならなかったので、中途半端ですみませぬ(^^)。

 *引用は「中公文庫・パンセ・前田陽一&由木康訳」より。
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Feb 27, 2009

生活と芸術―アーツ&クラフト展(続)

 東京都美術館における、この展覧会には、ウイリアム・モリスが、1859年に結婚した時に建てた新居「Red House」の写真が展示してありました。それを模倣して建てられたという、金沢の「ステンドグラス美術館」に数年前に行きましたが、それと全く同じ外観でしたので驚くというか、嬉しかったというか?……というわけで、過去ログから写真を探し出してみました。モリスの壁紙が貼られ、大小の窓がすべて宗教画のステンドグラスで出来ていました。小さな教会のような美術館でした。

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生活と芸術―アーツ&クラフツ展

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 東京都美術館にて、観てまいりました。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館との共同企画で約280点が展示されていました。
 19世紀後半にイギリスの「国策」という背景をもったデザイン運動「アーツ&クラフツ運動(美術工芸運動)」は、ウィリアム・モリスを中心とするイギリスのウィーン工房からヨーロッパへ、そして日本での民芸運動にまで影響を与えました。
 ウィリアム・モリス(William Morris, 1834年~1896年)は19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。「モダンデザインの父」と呼ばれている。

 ヴィクトリア朝の時代、産業革命の結果として大量生産による安価で粗悪な商品があふれていました。モリスはこうした状況に対して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコット・プレス)やインテリア製品(壁紙、ファブリック、テーブルウェア、家具、食器、カーテン、タピストリー)、ステンドグラス、さらに服飾、封筒&葉書、ポスターにまで及ぶ広範囲な製作をしました。

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 しかし、庶民のわたくしが思うに、モリスの運動は結局高価な製品を作ることになって、裕福な階層にしか使えなかったのではないか?と思う。生活と芸術を一致させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなど各国の美術運動にその影響が見られるということではありますが。。。

 また日本の柳宗悦もモリスの運動に共感を寄せ、1929年、かつてモリスが活動していたケルムスコットを訪れたということではあるが、モリスの影響をどのように受けたのかは作品からはよくわからない。柳宗悦はトルストイの近代芸術批判の影響も受けているらしい。ますますわからないなぁ(^^)。

 柳宗悦らが昭和初期に建てた「三国荘」の再現展示が目玉のようです。柳宗悦の収集品や若き濱田庄司、河井寛次郎、黒田辰秋らの作品で飾られた室内を見ることができます。

 ・・・・・・と、言いつつ「マグ・フェチ」のわたくしの今回の収穫はこれでした(^^)。

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Feb 22, 2009

プロヴァンシアル(田舎の友への手紙)「第16の手紙」・パスカル

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この本との出合いはここから始まった。

天声人語 2009年1月20日(火)

 短いコラムを書きながら言うのも気が引けるが、ものごとを簡潔に述べるのは、そう簡単ではない。長い文より苦心することも多い。「今日は急いでいるので長い手紙になってすみません」。そう断って書き出した西洋の賢人がいたのを思い出す▼スピーチにも似たところがある。「1時間の話なら今すぐ始められるが、10分の話は準備に1週間かかる」と、これは米国の28代大統領ウィルソンが言った。ノーベル平和賞を受けた人で、なかなか雄弁家でもあったらしい▼さて、オバマ次期大統領の就任式が明日(日本時間)に迫り、かの地の盛り上がりは最高潮のようだ。祝祭的な華やかさは戴冠式を思わせる。そして就任演説を、米国だけでなく世界が耳を立てて待つ。その演説は長いだろうか、それとも短いのだろうか▼長きがゆえに貴からずの模範は、オバマ氏が仰ぐリンカーンのゲティズバーグでの演説だ。「人民の、人民による……」で知られる不朽の演説は272語、わずか3分だったと伝えられる▼直前に登壇した弁士は2時間の大演説をぶったが、こちらはとうに忘れられた。短さゆえというべきか。リンカーンの言葉は言霊を宿したかのように聴衆をゆさぶった。オバマ氏も十分意識しているに違いない▼あのケネディもリンカーンをお手本に就任演説を練り上げた。「私は」ではなく「我々は」を多く用いた若々しい15分は、歴代で何番目かに短く、名演説の誉れが高い。世の憂さはしばし忘れて、これも歴史に残るであろう明日の演説を興味津々待つとする。


 このアサヒ・コムの「天声人語」に、思わせぶりに書かれた「西洋の賢人」 とは誰なのか?気になっていろいろ調べたり、友人に尋ねたり・・・とうとう1月24日の 午後、アサヒ・コムに直接問合せしました。お返事は以下のとおりです。早い対応で した。感謝いたします。

朝日新聞をご愛読いただきありがとうございます。
アサヒコム・読者窓口へいただいたメールですが、
朝日新聞社の窓口である東京広報部から返信いたします。
賢人は「パスカル」です。「プロヴァンシアル」(田舎の友への手紙)の中の「第16 の手紙」に書かれております。これからも朝日新聞をよろしくお願いいたします。

朝日新聞社 東京本社広報部  2009年1月24日-16:18

さて、ここから本さがしが始まりました。

 「田舎の友への手紙―プロヴァンシアル―:森有正訳:白水社」というものが県立 図書館にあることをネットで探しあてて、地元の図書館に回送して頂きました。2月7 日、わくわくしながら受け取ってびっくり!昭和24年の本で、セピア色になった本で した。よくぞご無事で。。。しかしながら、この本は原文を翻訳したものではありま せんでした。「森有正訳」ではなくて、全文彼の解説と考察でした。ううむ。もう一 度仕切り直しです。記念写真を撮っておきました。「第16の手紙」はこのようなもの です。

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 友人が教えて下さったことを頼りに、2月12日に「パスカル著作集・第4巻・プロヴ ァンシアル・教文館:1980年6月刊」をやっとつかまえました。お隣の市立図書館から まわってきました。この「第4巻」に「第16の手紙」が収録されていました。奥付を見 ましたら「配給元・日本キリスト教書販売株式会社」というものがあります。「発行 所・株式会社教文館」とも。「配給元」と「発行所」はどう違うのか?それは出版専 門家にお任せするとして、この手紙は「ジャンセニスム(パスカル)」対「イエズス 会(ジェジュイットの神父たち)」との宗教論争であることから、少しは察しがつく ようだ。

 アサヒ・コムでは「書き出し」に置かれていたような表現でしたが、実は手紙の最 後の部分に書かれているのでした。この手紙の最後にはこう書かれています。
 「尊敬します神父さま、わたしの手紙がこんなに間なしに出されることも、こん なに長くなってしまったことも例のないことです。わたしにわずかな時間しかなかっ たことが、このどちらの原因でもありました。この手紙がいつもより長くなってしま ったのはもっと短く書き直す余裕がなかったからにほかなりません。急がなければな らなかった理由については、あなたがたの方がよくご承知です。(以下略)」と いうことでした。

 手紙は「パスカル著作集」の第3&4巻にわたり、19通の手紙から構成されています が、10通までは「田舎の友への手紙」となっていますが、パスカルが11通からは「田 舎の友への手紙の作者が、ジェジュイットの神父がたにあてて書いた」という前書き の付された手紙となっています。そのなかで最も長い手紙が「第16の手紙・1656年12 月4日」だったということでした。「ジェジュイット」による「プロヴァンシアル」弾 圧を予想しつつこの手紙は書かれています。

   「ジャンセニスム」は17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされた キリスト教思想。「ヤンセニズム」ともいわれる。神学者コルネリウス・ヤンセン (1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス・1641年』の影響によって、特にフラン スの上流階級の間で反響を呼び、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。
 パリ郊外の女子修道院「ポール・ロワヤル修道院」が「ジャンセニスム」の拠点と なり、これにイエズス会員たちが反論したため、以後、ジャンセニスム対イエズス会 という図式が出来上がっていく。当時のフランスで「ジャンセニスム」に傾倒した著 名人の中に「パスカル」がいて、彼は「ジャンセニスム」への批判に反論して1656年 に「プロヴァンシアル」を執筆しているということです。その後「ジャンセニスム」 は歴史のなかで幾度も激しい論議の元となり、歴史のなかを彷徨うことになるようで すが、そこまではとても書きつくせません。

 訳者の「あとがき」には・・・・・・
 『異国の、それも300年前の特殊な時代的背景の前で展開される宗教論争であるが、 (中略)パスカルのいきいきとした筆づかいにのせられて論争の渦中へ身をおいてみ ると、わくわくするようなおもしろさに次々におそわれずにはすまないほどである。 強大な権力をわがもの顔にふるっている、尊大で、しかつめらしい連中が「落ちた偶 像」の醜態をさらすのは、いつの世でも大衆から拍手喝采をもってむかえられる。ジ ャーナリスト「パスカル」はそういう読者大衆の野次馬心理をちゃんと心得ている。 パリの一般市民が、出版のつど「プロヴァンシアル」を争って読んだのは、いうま でもなく著者の卓抜な才覚の思わくにはまったからだ。」・・・と書かれています。

  *  *  *

「パンセ」より。

☆ 隷従は迷信に通じる。このどちらもが宗教を破滅に導く。
☆ 真理が破壊されているときに、平和のうちに安らっているのもまた罪であることは明らかである。

《追記》
「教会こそ、イエスがそれに反対して説教し―またそれに対して戦うことをその使徒たちに教えたもの、まさにそのものである。」    (ニーチェ・「権力への意志」)
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Feb 12, 2009

青春のロシア・アヴァンギャルド

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 埼玉県立近代美術館にて、観てまいりました。ここは北浦和公園(旧埼玉大学跡地)のなかにあって、樹々と美しい「音楽の噴水」という楽しみもあるところです。「モスクワ市近代美術館」所蔵の、およそ100年前のロシアの若き画家たちの作品70点(うち、ニコ・ピロスマニの作品は10点、特設コーナーとなっていました。)の展示です。

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 (農婦、スーパーナチュラリズム:カジミール・マレーヴィチ:1020年代初頭)

 さて、「ロシア・アヴァンギャルド」とはなにか?
 20世紀初め、帝政への不満からロマノフ王朝の崩壊、ソ連誕生という革命の機運の高まる時代にあって、若きロシアの画家たちは西欧のマティス、ピカソに学び、さらにその先を行く前衛芸術を目指したものの、スターリンの登場とともに衰退する。亡命する者、この運動の代表的な画家であった「カジミール・マレーヴィチ」は具象に戻る。「いずれにせよ、画家たちは政治と無縁ではなかった。」とは、トルストイの言葉である。

 ではこの「ロシア・アヴァンギャルド」に、何故グルジアの画家「ニコ・ピロスマニ」が登場するのか?その時期の若きロシアの画家たちがピロスマニに夢中になったのは、そのボヘミアン的生き方への憧憬と尊敬があったのではないか?モスクワ市近代美術館は、1999年に開館。「ロシア・アヴァンギャルド」の作品を中心に収蔵、展示。初代館長を務めたグルジア出身の彫刻家、ズラーブ・ツェレテーリ氏が海外から買い戻した個人コレクションが基になっている。この初代館長のもたらした幸運だったのか?

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 (小熊を連れた母白熊:ニコ・ピロスマニ:1910年代)

 ニコ・ピロスマニ(1862年~1918年)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のミルザーニの村で生まれ、後にトビリシに出て、グルジア鉄道などで働いたが、その後、独学で習得した絵を描くようになる。
 彼はプリミティヴィズム(原始主義)あるいは素朴派(ナイーブ・アート)の画家に分類されているが当人にはいかがなものであったのか?彼はグルジアを流浪しながら絵を描いてその日暮らしを続けた。一旦はロシア美術界から注目され名が知られるようになったが、そのプリミティヴな画風ゆえに非難もあった。
 失意の彼は1918年、貧困のうちに死去したが、死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになり、ふたたびロシアをはじめとした各国で注目されることになる。

 「百万本の薔薇」という歌をご存知の方も多いことでしょう。このモデルとなった画家が「ニコ・ピロスマニ」であり、フランスの女優「マルガリータ」が彼の町を訪れた時に、彼女を深く愛したピロスマニは、その愛を示すために彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという。この実話はロシアの詩人アンドレイ・ヴォズネセンスキーの詩によって有名になり、ラトビアの作曲家が曲をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌い、世界的にヒットした悲恋の歌です。日本では「加藤登紀子」によって歌い継がれています。
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Feb 11, 2009

ジョージア・オキーフ 人生と作品

著者:チャールズ・C・エルドリッジ
翻訳:道下匡子

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 (夫の写真家「アルフレッド・スティーグリッツ」撮影)

 作品も当然わたくしを魅了しましたが、アメリカを代表する女性画家である「ジョージア・オキーフ」のうつくしい姿と、その潔い生き方に引き込まれる思いが致しました。出会いはどこぞのテレビの美術番組でしたが、すぐに図書館を検索して、この大判の重い本を借りてきました。いつでも「女性画家」というものは同性として気になる存在ですが、魅了して下さる条件といえば、その「潔さ」かもしれません。

 「ジョージア・オキーフ」は1887年、ウィスコン州のサンプレリーの酪農家に生まれる。ここはアメリカ西南部の平原で、ウィスコンシン州内での代表的な祖先グループは、ドイツ系 、アイルランド系 、ポーランド系 、ノルウェー系、イギリス系、ハンガリー系、オランダ系など、さまざまです。彼女は、アイルランド、ハンガリー、オランダを先祖にもち、決して豊かではない、子沢山のなかで育ちます。
 マディソン(おおお。懐かしい映画、クリント・イーストウッドの「マディソン郡の橋」を思い出す。)で高校時代をすごした後にシカゴ美術研究所で絵画を学ぶ。更にニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学、ウィリアム・メリット・チェイスに師事した。ニューヨーク滞在中に将来の夫となる、写真家で画廊主の「アルフレッド・スティーグリッツ」に出会っている。短い夫婦生活ではあったが、夫は妻を育てたという功績は大きい。また「ジョージア・オキーフ」はフェミニズム活動家でもあり、この時代の女性をリードする存在でもありました。

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 長い画歴のなかで、作品はほとんど風景、花、そして砂漠の動物の骨だけをテーマとして描きつづけた。どれも色彩は美しく、雄大なものです。これらの作品を生んだ風土は、ニューメキシコの砂漠地帯、サンフェタなど、さらに旅も多く、夫との生活は空白が多く、孤独だった夫の「アルフレッド・スティーグリッツ」は、妻を残して1946年に逝去。その後「ジョージア・オキーフ」は40年を一人で生きて描き続けることになります。都会を離れ、荒涼たる土地にアトリエを置いて、作品は膨大に描かれました。彼女は忘れ去られることすら恐れない生き方を選びながらも、めったに開催されない展覧会では、多くの観客動員がありました。またいざ展覧会を開くことになりますと「彼女の展覧会にはプロデューサーはいらない。」という定説ができるほどに、彼女のこだわりには強い意志が貫かれていました。

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 そして「ジョージア・オキーフ」のこの言葉が心に残り続けています。

 『私は自分の作品を人には見せたくないのです―私の言っていることは矛盾しています―人々が理解しないことを恐れ、そして彼らが理解しないことを望み、そして彼らが理解することを恐れるのです。(1915年)』

「ジョージア・オキーフ」1986年3月、98歳で逝去。

       (河出書房新社刊)
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Feb 07, 2009

モーターサイクル・ダイアリーズ

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監督:ウォルター・サレス
製作総指揮:ロバート・レッドフォード
脚本:ホセ・リベーラ
音楽:ホルヘ・ドレクスレル(ウルグアイ人)

《キャスト》
エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ : ガエル・ガルシア・ベルナル
アルベルト・グラナード : ロドリゴ・デ・ラ・セルナ

 この映画は、キューバ革命の指導者「チェ・ゲバラ(本名:エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)」と、友人アルベルト・グラナードの若き日の南米旅行の著作「チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記」をもとに、ロバート・レッドフォードらによって2004年に制作されたもの。

 1952年、本でしか知らない南米大陸を、自分の目で見たいという思いから、アルゼンチンに住む23歳の喘息持ちの医学生のエルネストは、7歳年上の友人のアルベルトと共に1台のバイク(ポデローサ号)で、12,000キロの南米旅行へ出かける。故郷のブエノスアイレスを出発しパタゴニアへ。さらに6000メートルのアンデス山脈を越え、チリの海岸線沿いに南米大陸の北端を目指す。マチュピチュ遺跡、アマゾン川など、ロードムービーとも言えるこの映画は南米独特の風景が美しく哀しい。最下層の労働者やハンセン病患者らとの出会いなど、さまざまな出来事を通して、南米社会の暗い現実を若者の目で見ることになる。後にキューバのゲリラ指導者となった若き日のチェ・ゲバラの生涯に大きく影響を及ぼした旅行ともなった。

 この映画のなかで、最も心に残るシーンがありました。ハンセン病の方々は川向こうで集団生活をしています。日本での「強制隔離」と同じものを見た思いがしました。そこでは農業、養豚などなど、さまざまな自立生活が行われ、そこを支配しているのは尼僧たちでした。その尼僧の最高位にいる方の方針では「朝の礼拝に来ない者には食事を与えない。」という冷酷なものでした。 その対岸には病院があり、医師は舟に乗って往診に行くのですが、その時に「エルネスト」と「アルベルト」は同行します。医師はゴム手袋を二人に渡しますが、「何故、その必要があるのか?」と若い二人は質問します。医師の答えは「尼僧からの命令だ。」と答えますが、それを拒む二人の若者に無理に手袋を渡すことはしませんでした。そして二人は川向こうの人々と握手を交わして、彼等の生活に溶け込んでゆくのでした。

 サレス監督は2人の旅程を実際にたどり、またアルベルト本人やゲバラの遺族に面会するなど、リサーチに2年をかけたという。さらにゲバラの医学生としての専攻学科はどうやら「ハンセン病」だったらしい。
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Feb 03, 2009

詩に映るゲーテの生涯  柴田翔

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 もちろん柴田翔の考察による「ゲーテ」を知りたくて、この本を開いたのですが、わたくしにはこの著者「柴田翔」には特別な思い入れがあるのです。この方はドイツ文学研究者ではあるのですが、芥川賞作家でもあります。その小説「されどわれらが日々―」が「文学界・・・だったかな?」に掲載された時には、わたくしは高校生、姉は大学生となって家を出て、東京で一人暮らしをしていました。その姉から送られてきたのがこの雑誌でした。これによってわたくしはその時代の姉たち大学生の実態を知りました。さらに、それまでのわたくしはリアルタイムで書かれた小説というものを知らなかったのでした。この2つのカルチャーショックを与えて下さった方でした。

 柴田翔のこの著書は、1994年4月~1995年11月の間に「学鐙」に連載したもので、ゲーテの詩を読みながら、飛び飛びに彼の生涯を辿ってみようとした試みでした。それがこの一冊の新書版にまとめられたものです。
 読みながら、あああ、じれったい。ドイツ語が読めない哀しさよ。「この詩は美しい頭韻をふんでいる。」と著者&翻訳者は書いていらっしゃるのですが、ご本人ですら邦訳すれば、それは表現できないとおっしゃる。柴田氏がゲーテ詩の翻訳する過程を脇から覗きこみながら、わたくしはなんとか日本語で頭韻をふんで書くことはできないものかなぁ、などと無茶苦茶な希望を持ってしまいました。傲慢な望みだと言わば言え(^^)。


アンテピレマ(語りかけ三たび)

敬虔なる眼差しで
永遠なる織女の傑作を見よ。
足をひとたび踏めば千の糸が動き
左へ右へ杼(ひ)が飛び
糸と糸とが出会い流れる。
ひとたび筬(おさ)を打てば千の織り目が詰められる。
織女はそれを物乞いして集めたのではない
彼女は経糸を太古の昔から機に張っていた
永遠の巨匠が横糸を
安んじて投げることができるようにと。

 ゲーテ(1749年~1832年)が1818年~1820年に書かれたこの詩は、「パラバーゼ(人々への語りかけ)」「エピレマ(再びの語りかけ)」とともに3部作のようになっています。1814年は「ナポレオン退位」「ウィーン会議」、1816年は、妻クリスティアーネの死。大きな歴史の転換期であり、ゲーテの周囲の人間関係も大きく変化した時期でありながら、何故このような明快な詩が書かれたのだろうか?ゲーテには謎が多いようだ。「あとがき」によれば・・・・・・

 『ゲーテは19世紀後半のドイツ・ナショナリズムの昂揚のなかで国民的大作家と評されるようになったのだが、それとともに当時の偽善的道徳律によって飾り立てられた〈ゲーテ像〉も作り上げられて行った。(中略)私がこの本で願ったのは、そうしたゲーテ像を解体し、ヨーロッパの大変動期に生きたゲーテという作家の魅力を読者に感じ取ってもらうことだった。』・・・・・・とある。

 また、このようなことも書かれています。『フランス革命のあとの内的危機の時代、ゲーテは自然ではなく歴史の正義を信じるシラーを必要とし、彼との硬い盟約を結んだのだったが、その時期はもう終わっていた。それは、あえて言うならば、殆どシラーの死を――もとよりゲーテが、ではないにせよ――ゲーテのなかの自然の力が、待ち望んでいたかのようである。』・・・・・・この「自然の力」というものが、ゲーテの創作の困難、職務への勤勉性、人との別れ(晩年には「死」という別れもある。)などなどからの開放と忘却のために、何度もゲーテを救い出した考え方ではなかったのか?

 青年「ハインリヒ・ハイネ」が老詩人「ゲーテ」に会った時を回顧しつつ、「彼は美しいアポロのようだった。但し、それは生命を持たぬ、冷たい石造りのアポロだった」と述べている。ゲーテは移ろいやすい人間(あるいは自己)というものを、不朽のアポロとして刻みこもうとしたようだった。それは中年から晩年まで、さらに最晩年まで執拗に続いた創作の作業だったようだ。それを支えたのは、「ロッテ」「アウグスト」「シュタイン夫人」「クリスティアーネ」などではなくて、ゲーテ独自の「エゴイズム」ではなかろうか?

 ゲーテ26歳の時に書かれた「ファウスト」の初校以来、「ファウスト」は彼の全部の経験を伴走し、「ヴィルヘルム・マイスター」と「ファウスト」とが、ゲーテの生きたすべてを、美しく描き出したと言えるのだろうか?ゲーテの生命力の驚くべき強さは、そのまま創作&執拗な推敲、書き直しへの力ともなった?あるいはそれがゲーテの生命力となった?「死して生きよ。」・・・・・・苦しみを忘却し、深く眠り、暗闇を憎み、輝く時を求め続けたゲーテ・・・・・・「もっと光を。」だったね。


ハーフィズの詩集を携えて
老いたゲーテは故郷の風景のなかに帰る
歴史の谷間にあったわずかな平和の日々

休息日のない言葉のはばたく音が聴こえる
留まることのない言葉の流れ
死して生まれる言葉 繰り返されて・・・・・・   (高田昭子)


 《あとがき》
 以上は無学ゆえの気楽さで書いたものです。お許しあれ。乞う、ご教示。

 (平成8年・1996年・丸善ライブラリー)
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Feb 02, 2009

マラソン

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2月1日、地元で「ハーフマラソン大会」が行われた。娘(地元在住)と息子(横浜在住)が揃って出場することになった。娘は大学時代から「ホノルルマラソン」をはじめとして、国内外のマラソン大会の経験は大分積んでいて、それなりにタイムもよくなっていました。息子は仕事の疲労は、精神的なものだから体を動かすことで解決しようと、趣味程度で走っていただけで、大会には出ていなかったのです。

あ。どっちにしても「趣味」の域は出ていないです。

娘のマラソン大会をこの目で見たことがなかったし、その上息子も一緒ということもあって、母はゴール地点に早目に行って待機することにしました。しかししかし、マラソンが行われると、市内の道路の交通規制が始まるのです。わたくしの体力では、家からゴール地点まで自転車で行くのは無理。歩くのももちろん無理。車は交通規制のために、もちろんダメ。どうしましょ?

まず、いつもの近所のバス停留所からS・M駅までのバスは動く。S・M駅からM駅までM線で2駅、そこからT線に乗り換えてM・T駅まで1駅。そこからならゴール地点まで歩いて20分。市内なのに回り道してゴール地点まで辿り着く。走っている我が子たちも大変でしょうが、スポーツ無縁のこの母も苦労しました(^^)。二人とも元気で完走。娘は35歳以下女子の部で「6位」となり表彰台に。息子は残念ながら。。。

娘の走る姿の可愛いことよ。走り終えた息子の額に流れる汗が風のなかでみるみる塩になってゆくことの、人間のたくましい生命力よ。みんなきれいな光景だった。

すべて終わってから、ビールとワインとランチで乾杯。昔のさまざまなことを思い出すきっかけともなりました。わたくし自身が2度死にかけた子供でしたので、小学校の朝の通学、遠足、体育の授業、すべてが辛くて、幼くして「生きることとはこんなに困難なことなのだ。」と内心感じつつ生きていました。この記憶はなかなか根強くて、それは我が子の育児に反映したようでした。「健全な精神は健全な肉体に宿る。」とまで高い次元で考えたわけではありませんが、健康な体さえあれば人間はなんとか普通に生きてゆけるだろうというのが基本でした。特に英才教育などしない。(所詮はわたくしが産んだ子供ですから。。。)その結果をこの日に見たような気がしました。嬉しい一日でした。

母も頑張りました。寒い大風の日に。。。
君たちも健康に生きていって下さい。

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Jan 29, 2009

加山又造展

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 (夜桜:1998年)

 国立新美術館にて、加山又造展を観てまいりました。彼の絵の美しさはちょっと息をのむような思いがするものですが、実物を観ることができまして本当に幸せな時間でした。展示作品は108点でした。なんとも贅沢な時間だったような気がいたします。彼の絵を観る前に「日本画の歴史を見よ。」という声もどこぞから聴こえてきますが、まぁ、それはそれとして「加山又造」の絵に一目惚れしてしまったのですから、これはいたしかたないことでして、ごめんなさいね(^^)。それはそれとして、この美術展をどのように書いたらよいのやら……言葉が追いつきませぬ。。。

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 (月と駱駝・1957年)

 つまり「加山又造・1927年~2004年」は、「現代日本画家」を代表する一人ということです。京都西陣の衣装図案家の子として生まれ、東京美術学校卒業後は、「山本岳山」に師事、戦後まもなく創立された「創造美術・のちの新制作協会日本画部」に、西洋画の影響をうかがわせる絵画を発表して注目されました。
 しかし、光琳派日本画の古典、浮世絵、北宗山水画から学んだ水墨画などなど、日本美術の本来性に倣いながら、今日的な表現に挑戦した画家だと言えるでしょう。仕事は多岐に渡り、以下の展開となっていました。

第1章:動物たち、あるいは生きる悲しみ、様式化の試み
第2章:時間と空間を超えて――無限の宇宙を求めて
第3章:線描の裸婦たち――永遠のエロティシズム
第4章:花鳥画の世界――「いのち」のかたち
第5章:水墨画――色彩を超えた色
第6章:生活の中に生きる「美」

 「加山又造」が画家としてたくさんのお仕事をなさった時期に、ほとんど重なるようにわたくしは生きてきたのだという奇妙な実感がありました。展示された作品の制作年を確認しながら、「あ、この時娘は生まれたばかり・・・」あるいは「息子が歩き出した時・・・」また「あの仕事をしていた時・・・」「あの詩集を出した頃・・・」などと思いつつ、時間を重ね合わせながら観てまいりました。こんな思いにとらわれたのも不思議な気がしてなりません。
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Jan 25, 2009

グッバイ、レーニン!

good bye lenin

監督:ヴォルフガング・ベッカー
脚本:ベルント・リヒテンベルク&ヴォルフガング・ベッカー
音楽:ヤン・ティルセン
制作:2002年(2003年公開。ドイツ映画)


《キャスト》
アレクサンダー・ケルナー(アレックス):ダニエル・ブリュール
クリスティアーネ・ケルナー(アレックスの母):カトリーン・ザース
ララ(ソ連からの交換留学看護学生。アレックスの恋人):チュルパン・ハマートヴァ
アリアネ・ケルナー(アレックスの姉):チュルパン・ハマートヴァ
ローベルト・ケルナー(アレックスの父):ブルクハルト・クラウスナー

 東西ドイツ統合後に庶民の身に起こった家族劇の一例を描いた作品です。本国ドイツでドイツ歴代興行記録を更新したそうです。 また第53回(2003年)ベルリン国際映画祭の最優秀ヨーロッパ映画賞(嘆きの天使賞)ほかドイツ内外の様々な映画賞を受賞しました。

 アレックスは幼少時代には宇宙飛行士に憬れ、卒業後は東ドイツでテレビ修理工として働いていましたが、ベルリンの壁崩壊で国営事業所の解体により失職。母親は小学校の教師(当然、教育内容が変わる)。アレックスの姉は学生結婚の末離婚したシングルマザー。大学で経済学を学んでいたが、ベルリンの壁崩壊後に中退しバーガーキングに勤務。東西ドイツ統合が市民レベルに及ぼした影響はおびただしいものだったのだ。

 東ドイツの首都東ベルリンに暮らす主人公のアレックスとその家族。父親のローベルトが西ドイツへ単独亡命し、母親は夫からの西側への亡命要望に応えないまま、熱烈な社会主義に傾倒していった。 そんな家庭環境の中、1989年10月7日(東ドイツの建国記念日)の夜にアレックスは家族に内緒で反体制デモに参加する。それを偶然通りがかった母親のクリスティアーネが目撃。強いショックから心臓発作を起こして倒れ、昏睡状態に陥る。

 彼女は二度と目覚めないと思われたが、8ヶ月後に病院で奇跡的に目を覚ます。しかし、その時にはすでにベルリンの壁は崩壊。「もう一度大きなショックを受ければ命の保障は無い。」とドクターから宣告されたアレックスは母の命を守るため東ドイツの社会主義体制が何一つ変わっていないかのように必死の細工を周到に行なう。

 しかし母親はもう余命がなかった。アレックスは西側にいる父親を呼んで、母親に会わせる。また、映画マニアの友人デニスの協力を得て、「資本主義に行き詰まった西ドイツを東ドイツが吸収合併する」という偽りのニュース報道の映像を作成する。既にララから密かに真実を知らされていたクリスティアーネは、息子のやさしい嘘に感謝しながら、永遠に目を閉じたのだった。
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Jan 22, 2009

にせもの美術史 トマス・ホーヴィング

翻訳:雨沢康

La_Tour
(謎につつまれた、ラ・トゥールの「女占い師」)

 本書のサブタイトルは「鑑定家はいかにして贋作を見破ったか」と書かれています。「トマス・ホーヴィング」は1977年までの10年間ニューヨークの「メトロポリタン美術館」の館長を務めた人物であり、古今の贋作についての豊富な実体験を交えながら書かれたものです。前半では古代から現代までの贋作の美術品とそれにまつわるおびただしい数の人間たちのドラマです。後半は美術を学ぶ学生時代から始まる自伝のようになっています。

 千の芸術を知る者は、千の偽物を知っている  (ホラティウス・古代ローマの詩人)

 これは本書の扉に書かれた言葉です。贋作の歴史は美術の歴史とともに歩んできたといっても過言ではないでしょう。そして贋作はひとつの作品と考えることもできる。そしてまた欺くことを目的としたものとに流れはわかれているのでしょう。しかもこの贋作者たちの巧妙ともいえる企みは、高名な美術館や、国の文化庁のようなところまでが翻弄されたというのですから、それは「歴史的事件」でもあったでしょう。

 「トマス・ホーヴィング」は、館長時代にキュレーターに、美術品を新たに購入する際のチェックリストを15項目つくりましたが、そのなかの1項目は特に興味深い。それはこう書かれています。

 ★その作品がなんのために使われていたかを問え。
 かなり最近まで、美術品は実用的なものだった。たとえば、ある種の祭壇画は人々をペストから救うために描かれたものであり、絵の表面には信者のキスのあとが無数についていた。贋作者はそうした敬虔な行為を真似ることはできない。


 「トマス・ホーヴィング」は経験豊かな美術鑑定家であり、さらに大変に雄弁で機知に富んでいる方で、きりがないほどに、贋作問題のお話を抱えていらっしゃる方です。この一冊ではおそらく語り尽くしてはいないのではないでしょうか?感想を書くわたくしとて、この一冊について語ることは無理なようですので、これにて失礼いたします(^^)。

  (1999年・朝日新聞社刊)
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Jan 14, 2009

バティニョールおじさん

pati

監督:脚本:ジェラール・ジュニョ
制作:2002年

《キャスト》
バティニョールおじさん:ジェラール・ジュニョ
シモン:ジュール・シトリュック


 この映画は、1942年夏に、ナチス・ドイツ軍の手中に堕ちたパリを舞台に展開する 「ユダヤ人狩り」をテーマにしたものです。こういう映画や著作物に遭遇した時に、 いつも思うこと。人間は、その存在の尊厳や生死に関わるような究極の状況にある時 に、初めて見えてくるものがあります。それは「愛とはなにか?」「勇気とはなにか ?」・・・・・・と言うような根源的なものです。

 肉屋兼惣菜屋を営む平凡な主人公「バティニョール」はナチス・ドイツを支持する 娘婿、計算高い妻などに囲まれた、こころもとない中年男ですが、後半では命がけで ユダヤ人の子供たちをスイスに逃亡させる手助けをする勇気ある男となっていくというス トーリーです。

 ドイツ軍はフランス国民に対しユダヤ人の一斉検挙を要求する。ユダヤ人外科医で あるバーンスタイン一家は隣人「バティニョール」の娘婿の密告によって検挙され、 「バティニョール」は心ならずも摘発に協力してしまうことになる。このドイツ軍に 対する協力がもとで、軍に没収されたバーンスタイン家の大きなアパートもバティニ ョール家に譲られることになった。
 しかし、バーンスタイン家の息子である12歳の「シモン」と、その従姉妹「サラ」 と「ギラ」は親を失いながらも、検挙の手を逃れることができた。この3人の子供たち をスイスに送り届けることが「バティニョール」の大きな人生の仕事となったのでし た。その危険極まりない旅の資金となったものは、バーンスタイン家から没収された 「ルノワール」の絵画だったのでした。

 「バティニョール」と子供たちの、ドイツ軍からの苦しい逃亡の旅は命がけであり 、スイス国境を越えるまで、勇気と知恵を幾度も試されるのでした。「バティニョ ール」は子供たちをスイスまで送り、自らは帰るつもりでしたが、子供たちと一緒に スイス国境を越え、数年を共に暮しました。

  *   *   *

 「バティニョール」を演じるベテラン俳優ジェラール・ジュニョが、監督&脚本も手掛けています。かねてからこの時代に興味を持っていたジュニョ自身が膨大な資料蒐集とリサーチを続けて完成させた映画です。「あの時代に自分が生きていたらどういう行動をとっただろうか?」という問いかけに対する彼自身の答えがこの作品となったそうです。
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Jan 08, 2009

ピカソとクレーの生きた時代・20世紀のはじまり

Klee-1  Klee-2

 昨年12月の日記に書いたことですが、パリ国立ピカソ美術館の改修工事のため、主 要作品を網羅した約二三〇点の作品の世界巡回展が実現し、その幸運が日本にもやっ てきました。それと大変に似た状況で、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン 州の州都「デュッセルドルフ」にある「ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術 館」の改修工事のために、休館する機をとらえて、ここに所蔵された作品のうちの57 点が世界を回ることになり、それに先駆けて日本へやってきた、ということです。

 所蔵されている代表的な絵画は、「ピカソ」と「クレー」であり、20世紀に活躍し た画家たちの作品が観られました。この展覧会で最も多かったのは27点の「クレー」 でした。「ピカソ」は6点。「カンディンスキー」「ミロ」「マチス」「シャガール」 「マグリット」「エルンスト」などなど。そしてドイツ近代美術の代表的な画家であ る「マックス・ベックマン」「フランツ・マルク」「オスカー・シュレンマー」など で、20世紀前半という極めて変化に富んだ時代の画家たちです。今回は「クレー」が お目当てで、美術館に足を向けました。

 今からほぼ50年前に創設されたこの「ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術 館」は、第2次世界大戦ののちに終結した、ナチスの独裁政治からの復興をかけた建造 物でもあったのでした。ライン川沿いのドイツ国内で石炭の採掘、製鉄業によって、 最も経済的に豊かな州都「デュッセルドルフ」に置かれることになりました。その時 に美術品が用意されていたわけではありません。美術館が最初にコレクトした絵画は 「クレー」でした。
 では、何故「クレー」なのか?1920年代、「クレー」が、デッサウの総合造形学校 「バウハウス」で教鞭をとっていたこと。さらに、1931年「デュッセルドルフ」の「 芸術アカデミー」の教授であったこと。しかし、1933年国家社会主義のもとで、教授 職を失い、故郷のスイスに亡命して、1940年そこで生涯を終わったのでした。

 もちろん「クレー」だけに留まらず、この20世紀のはじまりとは、美術史のなかで も変化に富んだ時代でもあったわけですね。美術展は以下の展開でした。

Picasso

第一章:表現主義的傾向の展開
第二章:キュビズム的傾向の展開
第三章:シュルレアリスム的傾向の展開
第四章:カンディンスキーとクレーの展開

   (渋谷 bunkamura ザ・ミュージアム)にて。 
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Jan 07, 2009

PARIS

s-effel

監督&脚本:セドリック・クラピッシュ

《キャスト》
ピエール:ロマン・デュリス
エリーズ(ピエールの姉):ジュリエット・ビノシュ

 ムーラン・ルージュの元ダンサー「ピエール」は心臓病で余命わずか、助かる方法は心臓移植しかなく成功率は40%~50%。つまり命の希望は半分以下。彼は移植提供者を待つ日々を静かに過ごすことを選ぶ。
 弟を案じて同居を始めるのは、三人の子供を抱えたシングルマザーの「エリーズ」。彼女はソーシャル・ケースワーカーの仕事をしている。「エリーズ」を演じる「ジュリエット・ビノシュ」は化粧もしていないが、なんと魅力的な女優だろう。
 もう若くはない人生を楽しむことを諦めている姉に「人生を楽しむように。」と言うのは「ピエール」だったが、彼の行先の見えない日々の一番の楽しみはアパルトマンのベランダからパリの街を行き交う人々を眺めることだった。

 この姉と弟、三人の子供の暮らしと関係は、映画のなかでくっきりと浮き彫りにされていますが、それ以外の登場人物は、かすかな繋がりがあるだけで、散漫にさまざまな人間が登場して、さまざまな人間の断片が繋がれてゆくという仕掛けとなっている。つまり、これが「ピエール」の見た「RARIS(2008)」の姿だというわけですね。さらに不法移民が多い街。憧れの街。民族の坩堝。そして貧しさや民族差別のことなど、パリは特別の街ではなく、どこにでもある人間の生き死にが繰り返される街にすぎないということか?。

 人々は日々を懸命に生きている?「ピエール」のアパルトマンの向かいに住む、ボーイフレンドのいる美しいソルボンヌの女子大生。彼女に恋をして関係を持つ歴史学者。彼の弟の建築家。元夫婦のジャンとカロリーヌは、離婚後も同じマルシェで働いている。エリーズと恋に落ちるジャン。カロリーヌは同じマルシェで店を構えるジャンの仲間と恋をする。民族差別の代表のようなパン屋の女主人。日々を刹那的に楽しむファッション業界の女たち。食肉野菜市場で働く男たち。その男たちが集まる酒場で働く女たち。カメルーンからの不法移民。etc。。。

 「ピエール」に病院から「心臓移植提供者」の知らせが入る。彼は冷静に病院へ行こうとする。姉にアパートの玄関で別れを告げ、最期の場所となるかもしれない病院へと向かうタクシーの中から、「ピエール」はただじっとパリの街と人々を見ていた。そして、タクシーの窓から彼を照らしているものは、晴れたパリの空だった。映画はそこで終わる。

 耳慣れた音楽だなぁ、と思ったのですが、これは「サティ」の「グノシェンヌNo.1」でした。幾度か静かに流れた音楽でした。(渋谷 bunkamura ル・シネマ)にて。
Posted at 16:16 in movie | WriteBacks (0) | Edit

Jan 02, 2009

たったたった

koguma

 元旦に、二ヶ月ぶりに孫に会う。「はいはい」が上達して、狭い我が家の探検に忙しい。「えんこ」も出来るようになり、卓袱台の縁につかまって「たっち」もできるようになりました。用意した離乳食も好き嫌いなく食べる。産まれてから母乳で育ち、身長も体重もともに標準とのこと。ともかく順調に健やかに育ったことを感謝しませう。「たっち」をすると、なぜか「たったたった」と言うのですが、「えんこ」していても「たったたった」と言います(^^)。あれは君の独創的音楽かな?

 君を見ていると、幼い子供たちを育てた時間をなつかしく思い出だすとともに、自分の若さゆえの至らなさによる、ちょっぴり苦い思い出もあることも。。。そして君の8キロの命はあたたかく重かった。幼い子供たちを育てていた頃のわたくしの若さを思う。その重いいのちに惜しみなく時間を明け渡し、「自分がいつでもそばにいなければ、この子は死んでしまう。」と思い続けた時間でもあった。こんなにも無条件に惜しみなく時間を差し出したのは、あたたかく育ちゆく幼い子供と、「死」をみつめた父母と姉との看取りの時間だけだったのだと、思いました。その時間のなかで、自分は育てられたのだと改めて思うのでした。


春の児


     ちちははを送りしのちの春の児よ


春のあけぼの
  産声が聴こえる
小さな手が世界をまさぐる
その微細な動きはさざなみとなる

ちちの最期の手は
なにに触れたのでしょうか?
それきり戻ってきませんでした
やがて姉が そしてははが
みんな戻ってきませんでした
わたくしはその紲のどこにいるのか?

ちいさないのちのかがやき
見失ったいのち
そのいのちの貨車を
生まれでたものたちが繋ぐのでしょう

ちちははよ
これはすべて地上のできごとです。
Posted at 16:07 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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