Jul 21, 2009

マルテの手記ーメモ2

7-16belly2

 以下に引用する文章は、名言集や定義集などでおなじみのところですが、「詩」というものの再確認のために、あえて書いてみます。

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 詩は人の考える感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩は本当は経験なのだ。1行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。(中略)さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。静かなしんとした部屋で過ごした一日。海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海。ここの海。空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。それらに詩人は思いめぐらすことができねばならぬ。いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人々の枕元についていなければならぬし、(中略)・・・・・・追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。(中略)一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生まれてくるのだ。

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 以上の言葉は自身(マルテあるいはリルケ?)のために書かれたものであって、けっして教訓として書かれたものではありません。これは自らの「詩」に対する考え方であり、さらに過去において書いた自らの「戯曲」への失敗と反省も込められています。
 さらに「マルテの手記」に、あるいは「ドゥイノに悲歌」にも「リルケ」が登場させる「妊婦」という言葉は素通りできないものとなります。それは「いのちのはじめ」であり、時には天使が宿る瞬間を、あるいは生きることの「回復期」をこの「妊婦」に託したのでしょうか?
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