Apr 13, 2008
イタリアの詩人たち 須賀敦子
この本は、須賀敦子が選んだ、十九世紀から二十世紀を生きた五人の詩人についてのエッセーであり、それぞれの代表的な作品の紹介ともなっています。彼女の細やかな、そして真摯な眼差しが感じられる心地よい文章です。しかしながら読み手のわたくしはそこに紹介されている詩の原文にあたることはできない。「完璧な韻律」と言われても、わたくしは須賀敦子によって日本語に翻訳された詩を読むしか手立てがない。これがもどかしい。
ウンベルト・サバ(一八八三年~一九五七年)
「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら・・・・・・なにげなく選んだ道を、サバと歩くことができたなら・・・・・・」と、一九五八年(サバの亡くなった翌年。)に言ったのはジャコモ・デベネデッティだが、その同じ思いを抱いて須賀敦子は「サバ」について書きはじめる。この思いが彼女のエッセー「トリエステの坂道」にも繋がっているのだろう。
「サバ」はヘブライ語で「パン」を意味する。母親はユダヤ人だったが、彼女は「サバ」誕生の前に、「美しくて軽薄な」白人の夫に捨てられ、幼い「サバ」はこの町のゲットーで育つ。父親のイタリア名はすすんで捨てて、「サバ」というペンネームとする。
彼の詩作の源泉は「トリエステ」と妻の「リーナ」、時代に遅れた詩人と見られる傾向もあり、ユダヤ人であることの孤独などから、孤高の詩人でもあったが、須賀敦子は彼の貧しさのなかで育った誠実なやさしさ、韻律の美しさに注目した。
ジョゼッペ・ウンガレッティ(一八八八年~一九七〇年)
「ウンガレッティ」はエジプトのアレキサンドリア生まれ。両親はルッカ(トスカーナ)出身。二歳で両親を亡くし、二十四歳でアレキサンドリアからパリに出る。「アフリカ人」の彼が、フランス文化とイタリア文化の坩堝に巻き込まれることになる。「ウンガレッティ」の詩作は彷徨し、姿勢が整わないままに、ヨーロッパは第一次大戦の舞台と変わる。この「死の時代」のなかで皮肉にも彼の詩は生命に肉迫するものとなる。そうして新しいイタリア詩の誕生を迎える。季節をめぐるように「ウンガレッティ」の詩作は充足の秋へと向かう頃に兄を失い、九歳の息子を失う。「死は生きることで贖われる。」と、二十八歳の「ウンガレッティ」は戦場でうたったが、秋の終わりには「挽歌」とともに、詩人の冬の季節が来てしまった。
エウジェニオ・モンターレ(一八九六年~一九八一年)
オペラ歌手を目差したこともあった彼は、彼の詩の重要な特徴となった音楽的ともいえる韻律として詩のなかに活かされている。さらにフランス語、スペイン語、英語 などを独学で学び、外国文学を原語で親しんでいる。音楽評論、外国の詩のイタリア語訳など、彼の活動の範囲は広く、それが詩人「モンターレ」の豊かな土壌ともなっている。
一九三八年に、ファシスト政党党員になることを拒否。翌一九三九年に出版された第二詩集「機会」は、前線に送られた若きインテリ兵士の限られた荷物のなかには、しばしばこの詩集があったという伝説をもつ詩集となっています。
彼は「サルヴァトーレ・クワジーモド」とともに「ノーベル文学賞」受賞者でもあるが、「サルヴァトーレ・クワジーモド」の受賞は否定論者が多かったのに対して、「モンターレ」の受賞は否定論者はなく賞賛されている。
また、人生の大半を精神病院で過ごした「ディーノ・カンパーナ」の死後の評価はさまざまに拡散するばかりであったが、その彼に確固たる評価を与えたのも「モンターレ」だった。
ディーノ・カンパーナ(一八八五年~一九三二年)
「ディーノ・カンパーナ」は精神分裂病者で、生涯の大半を放浪と病院で過ごしていることによって、彼の二十世紀詩人としての存在そのものが特異なものとなっています。この難しい詩人に向き合い、須賀敦子は粘り強く彼の作品と生涯を書いていらっしゃいました。「ディーノ・カンパーナ」がこの地上に残した詩集は「オルフェウスの歌」(自費出版である。)一冊だけであったが、彼の残したものの特異ともいえる大きな存在感は、のちのち文学評論家を迷わせるものとなる。
死後「オルフェウスの歌」は再評価され、復刻されます。さらに「初稿」「未完詩集」、「評伝」「注釈」など、続々と出版されます。須賀敦子は最後にこのように記しています。
『彼は狂気に守られて、純粋詩の世界だけを追求することができた、数少ない幸福な詩人であったとさえいえるのではないか。その意味からも、彼は、やはり《見者》の群に属する、光彩を放つ存在だったと、私は考えたい。そして《見者》はいつも不幸である。』
サルヴァトーレ・クワジーモド(一九〇一年~一九六八年)
さて。須賀敦子も苦しみつつ書いているようで、この詩人の評価は難しい。「ノーベル文学賞」受賞者ではあるが、この受賞そのものが不評であったという詩人です。
シチリア島のラグーサという小さな町で、駅長の子として生まれる。文学仲間に出会うのはパレルモの中学時代。その出発点からスムーズに一九三〇年詩壇に登場してゆくことになる。幸運ともいえる道筋だったように思えます。しかし須賀敦子の「クワジーモド」への言及には厳しい言葉が並ぶ。何故か?
「クワジーモド」は詩壇で、それ相当の評価をほぼ持続的に維持していたが、いつでも「疑惑」がついてまわった。それは彼の作品の言葉の美しさとは裏腹に見えてくる、ものごとの本質性に対する徹底した無関心による非情さだった。
彼にも戦争は無縁ではなかった。しかし戦前の若い時代のみ、彼の詩は熱く息づいていたが、戦後の「クワジーモド」は「水子の儚さにも似た世界にしかもとめられない。」ような「夢の職人」だったという厳しい言及となっていました。
* * * * *
以上五人のイタリア詩人について読んできましたが、読了後に驚かされたのは、このタイプの異なる詩人たちの生涯についてよりも、須賀敦子が詩人をみつめる時のやさしさと同時にある「厳しさ」の方でした。それは「権威」に阿ることのない視線の確かさだったように思います。
(一九九八年・青土社刊)
Mar 29, 2008
ベルト・モリゾ 坂上桂子
サブ・タイトルは「ある女性画家の生きた近代」となっています。ベルト・モリゾが日本に本格的に紹介されたのは意外にも最近のことでした。二〇〇四年一月東京都美術館で開催された「マルモッタン美術館展」であり、モネとベルトを中心としたもので、ベルトの作品は四〇点展示され、その後京都、仙台、名古屋を巡回しています。
この展覧会のカタログの監修にあたったのが、この本の著者であり、日本で初めて書かれた「ベルト・モリゾ論」となったわけです。坂上桂子がこの執筆にあたり、最大限の資料に触れ、研究された足跡がまとめられたものです。多くの関係者や研究者の協力があったことも明かされています。
ベルト・モリゾは一八四一年生まれ。ルノワールと同じ年に生まれています。三人姉妹の三女として、裕福な家庭に育つ。この時代のこの階級の娘たちの「花嫁修業」の一環として、「美術」もあったということで、特別な出会いではない。母親は娘たちのさまざまな修業のためには、よき師を捜す。そのモリゾ家の次女エドマと三女ベルトが、「絵画」に強く惹かれ、才能を開花させたが、この時代に女性が「画家」となることはとても困難なことで、美術学校にすら入学できない。個人的に画家に指導を受け、ルーブル美術館で「模写」による勉強などに専念した。
エドマは結婚とともに「絵画」をあきらめるが、ベルトはあきらめずに絵を描き続け、当時「印象派」といわれたグループに入る。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めたこともあります。マネとの恋仲を噂されることもあったが(これに関してはこの本では触れていないが。。。)、一八七四年に彼の弟ウジェーヌ・マネと結婚、一八七九年に娘ジュリーを出産。ウジェーヌは一八九二年に亡くなるまで、ベルトのよき理解者であった。ベルトは画家としても、女性としても幸福な人生であったのではないかと思える。それは画風にも表われて、「メアリー・カサット」とは対照的な位置に立った画家とも言えるかもしれない。まだ男性中心の十九世紀における女性画家ということもあって、フェミニズム研究の対象とも言えるだろう。
モリゾの画家としての視線はさまざまであり、まず結婚とともに「絵画」をあきらめた姉と子供。夫と娘。家で働く女性たち。舞踏会や観劇などで、男性の注目にさらされた女性ではなく、出掛ける前の女性の支度の様子などなど、女性の目でしか見えない女性(夫以外は。)を描いた作品が多い。上に挙げた「自画像」は一八八五年、四十四歳のベルトだが、華やかさを極端なほどに排除し、意志の強さが表出された作品となっている。これがベルトの女性画家としての姿勢であろうと思われます。風景画ももちろん描いていますが、長くなりますのでここでは省きます(^^)。
モリゾは一八九五年、娘の看病によって、五十四歳の若さで亡くなっています。モリゾの死後、マラルメ、ドガ、ルノワールは、十六歳で孤児となったジュリーの後見人となる。ジュリーは同じく「印象派」の画家アンリ・ルアールの息子エルネストと結婚している。最後まで読んで、わたくしが思うことは「女性画家としての創作の苦しみは終生続いたとしても、母子共に、とても人々から愛された人生だった。」ということ。これはとても大切なことだと思えます。
しかしながら、これは「坂上桂子」による「ベルト・モリゾ」像であることに注意深くありたいとも思いました。
(二〇〇六年・小学館刊)
Mar 03, 2008
自由死刑 島田雅彦
人間が「自殺」に最も縁が深いのは思春期であり、その次が四十代だと言われています。この小説は島田雅彦(一九六一年・東京生まれ)が、その四十代を迎える前の精神上の危機管理を図るために、自らが「自殺」を考えること自体に飽きておく必要性から生まれたものだったようです。
理由もわからずに「自由死刑」を言い渡された三五歳の独身男性が主人公。それまでの仕事は健康食品のセールスマン。言い渡される理由もない。言い渡した人間も居酒屋にいた赤ん坊であり、法廷ではない。人間は誰しも罪深いものですが、この「自由死刑」を宣告されるほどの罪は犯していない。そしてその死に方は強制的な「死刑執行」ではなく、一週間の間に自分で死ぬことでした。これを「何故?」と訊かれても困る。つまりそれからの一週間、三五歳の独身男性がたどる物語を作家が書き始めなくてはならないからでしょうね。。。
ここからが作家の想像力が試されるわけで、一週間という制限のなかで人間がどのように生ききるのか?あるいは死にきれるのか?一章の金曜日夜からはじまって、曜日毎に次の金曜日夜まで、そしてそのあとに「SOMEDAY」、合計九章の小説になっています。
これを特異な世界とはせずに、木曜日までは書いた。平凡な三五歳の男性が、多分死ぬ前にやっておくであろうと思われる出来事にすぎない。あるいは「死」を覚悟すれば、人間はこれくらいのことは出来るであろうというほどの日々である。「生命保険屋」「秘密の臓器移植売買業者」「外科医兼殺人鬼」の登場。そして百万円ほどの預金を持った三五歳の男の「ありふれた酒池肉林」などなど。。。
しかし予定の金曜日に、車ごと海に飛び込む「自殺」に失敗した(つまり、半自殺状態です。)男性が、本当の「死」に向き合う「SOMEDAY」が書き加えられています。ここで人間は初めて「死」の困難に遭遇するわけです。しかしこの小説の最後は「主人公は死んだ。」とは書かれていません。「ヘリコプターの音」「人の声」という暗示。そして最終行は「ここは何処だ。まだ”あいだ”か?」でした。
ここでわたくしは島田雅彦の弁護人になり(^^)、最後に彼の一文を引用しておきます。
『もし、虚無が癌や免疫不全を引き起こすウィルスの仲間であるならば、宿主の細胞に忍び込み死に至らしめてくれるものならば、歓迎もしよう。でも虚無は何もないってことだ。何もないくせにあらかじめ全ての結論にするのは詐欺だ。その時、虚無には怪しい実体がつきまとっている。本当の虚無は死に結びつくことはない。ただ清らかなゼロとして、無限の彼方に漂っているはず。虚無と諦めは違う。思考停止と虚無も別物だ。(中略)それは虚無と死の本来の結びつきではない。あいだになにか邪魔が入っている。そいつをつまみ出してから、清らかな無限のゼロと一体化したい・・・・・・(中略)虚無は汚れている。虚無の発見以来、人はわけのわからない衝動やモヤモヤした気分を全て虚無に委ねてきた。結果、虚無はファンシーグッズになった。』
(一九九九年・集英社刊)
Feb 15, 2008
一茶 藤沢周平

この本を読むきっかけは、江戸学者の「田中優子」が「江戸文化の多くを、この本から学んだ。」という言葉からでした。
小林一茶(一七六三年~一八二七年)江戸後期の俳人。名は弥太郎。信濃柏原出身。継母と異母弟との折り合いが悪く、それほど貧しくはない農家の長男でありながら、十五歳で江戸に出て奉公先を転々としながら、「俳諧」の世界を知ることになります。俳諧の宗匠「二六庵竹阿」の弟子と言う説がありますが、この小説のなかでは僭称であるとなっています。
江戸前期には、俳人松尾芭蕉(一六四四年~一六九四年)は、「俳諧」に高い文学性を賦与してはいますが、短歌が宮廷文学から出発したのに対して、もともと「俳諧」は庶民(博打に似たものとして。)の遊びから出発していることが、わかりやすく書かれていました。幕府が禁止令を出した俳諧遊びの「三笠付け」は、さまざまに形式を変えながらも密かに続いていました。
一茶の俳諧の出発点はそういう世界だったわけです。思わぬ才能が一茶に「賞金」をもたらし、それが奉公先を転々とする一茶の生活費ともなったわけです。しかし、この時期の一茶の経歴はどこにも書き記されていません。その時代の農民出身の若者の記録などあるはずもないことでしょう。これはあくまでも作家の創作でありましょうが、この時代の「俳諧」に自らの生き方を求めた若者の姿とは、このようなものであったことでしょう。一茶は「俳諧」の世界で、農民から脱却して一流の俳諧師をめざしたのですね。
しかし、江戸で一茶が一流の俳諧師(家を構え、人並みに家族生活を営み、宗匠として弟子を多く抱えて、生活にゆとりがあること。)になることはありませんでしたし、江戸俳諧の傾向と信濃出身の貧しい一茶との句には、お互いに相容れないものが「障壁」のようにいつでもあり、一茶の俳諧師としての日々は、地方を回りながら草履銭で、なんとか「食い繋ぐ・・・・・・あまり好きな言葉ではありませんが、ここにはある意味これしかない、と言う言葉ですね。」生活の連続でした。
やがて不本意ながら、一茶を江戸へ奉公に出した郷里の父親が病に倒れる。看病に帰郷する一茶の先々の生活を思い、父親は直筆の遺言状を書きます。「山林、田畑、家、すべて半分を長男弥太郎(=一茶)に譲渡する。」という思いがけないものでした。この時代から直筆の遺言状が大きな権利を持つということはあったのですね。
この遺言状が実現するまでには、かなりの歳月を要しましたが、最後には遺言状以上のものを手に入れるという一茶の強引さ、狡猾さもここに表出します。その期間に一茶は徐々に江戸俳諧から離れ、北信濃周辺の門人との繋がりを準備、地方の俳諧師として信濃に帰郷するのでした。この時の一茶は五一歳でした。その後結婚、三人の子に恵まれながらも三人とも幼くして病死、妻の菊も病死しました。後、再婚と離婚、三度目の子連れの妻と継母に看取られて、六五歳で亡くなります。俳句は二十万句と言われています。
継母の言葉が心に残ります。
『旅ばっかりしてらったひとでなえ。もう出かけることもなくて、眠ってるようだなえ』
さて、一茶という人間をどのようにとらえるか?難しいところです。それぞれの人間の生きている足場から、とらえるしかありませんね。水上勉が「良寛」に自らの境涯を重ねるように愛しい思いで書いたように、藤沢周平もそのような「愛しさ」を一茶に抱きつつ書いたのでしょう。歴史上実在した人間を「評伝」としてではなく「小説」として書く時、そこにどこまでの「嘘」と「真実」が錯綜し、小説となるのか?そのようなことも考えさせられる一冊でした。
(一九八一年初刷・二〇〇七年三四刷 文藝春秋・文春文庫)
Jan 25, 2008
緑の影、白い鯨 レイ・ブラッドベリ著 川本三郎訳
この小説は、当時三十三歳の若き作家だった、レイ・ブラッドベリ(Raymond Douglas Bradbury, 一九二〇年・アメリカ・イリノイ州ウォーキガン生まれ。)のアイルランドにおける体験の自伝的小説であり、かつて短編であった作品も含めた長編小説となっています。
何故彼がアイルランドに呼ばれたのか?それは、メルヴィルの『白鯨』という難解な小説を映画化しようと計画したアメリカ映画界の巨匠、ジョン・ヒューストン監督に、脚本を依頼され、一九五三年、当時ヒューストン監督が住んでいたアイルランドにわざわざ呼び寄せられたのです。この作品は一九五六年に完成しました。
繊細な抒情詩人としても知られるブラッドベリと、アメリカ文学史上もっとも手ごわいと評価されている『白鯨』、そして怪物のようなヒューストン監督という組み合わせから生まれた小説だと言えるかもしれない。アイルランド滞在は約半年、その体験をもとに、四十年後に書かれたものです。ヒューストンは当時アメリカで荒れ狂った赤狩りを嫌って、アイルランドに住んでいました。
この小説は、別の面を見れば、ブラッドベリのアイルランド賛歌になっているようです。雨の多いアイルランドは、ひかり輝く緑の自然を観ることは稀なことです。そこに貧しいながら、たくましく暮らす庶民たちのさまざまな姿も見事に描かれていました。狡猾な乞食、優れた路上音楽家、下町のバーの人々、個性的な牧師、それにまつわる祝福と死などなど、アイルランド人のユーモア、抒情、幻想性、息をのむほどに濃密な描写でした。笑ってしまった牧師の言葉(^^)。。。
『いまここで、二人を夫と妻と認めます。汝ら行きて、さらなる罪を犯せ。』
この小説を読みながら、しきりに思い出していたのは、トム・クルーズ主演の映画「はるかなる大地へ」でした。アイルランドの暗い寒村の貧しい農家の若者が、西部開拓に沸き立っていたアメリカを目指す物語で、この小説とは全く逆の視点から描かれた映画だったと思います。主人公の最後の言葉はこうでした。
『教会がアイルランドを跪かせ、雨がアイルランドを溺れさせ、政治がアイルランドを地に埋めてしまう・・・・・・しかし、それでもなおアイルランドは、あの遠い出口に向かって走る。そして、おわかりでしょう、神かけて私は思うんです。アイルランドはきっとたどり着くって!』
(二〇〇七年・筑摩書房刊)
Dec 21, 2007
となりのカフカ 池内紀
「池内紀」はドイツ文学者。エッセイスト。ゲーテやカフカの翻訳者でもある。この著書は「カフカ初級クラス」向けのカフカ論であって、とてもわかりやすい。悪い夢に出てきそうなカフカ・イメージを解体して、カフカを身近な人間存在として持ってきたという貴重な本と言ってもいいかもしれません。
カフカは一八八三年七月三日、チェコのプラハで生まれる。(わたくしと誕生日だけが同じです。)チェコ国籍。ユダヤ人。小説はドイツ語で書くが、チェコ語ももちろん話せる。一九〇八年、二五歳のカフカは「ボヘミア王国労働者障害保険協会プラハ局」に採用される。幹部は全部オーストリア人、ドイツ語を使用した。「書記見習い」から「書記官」になった有能なサラリーマンだったと言える。
二十世紀到来とともに、工場の近代化がはじまり、工場労働者の事故は多発する。「労働者障害保険」の先駆けの時期と思われます。
カフカの勤務時間は午前八時から午後二時まで。家に帰ると自室にこもり、睡眠不足になるほどに執筆に集中したと思われます。壁の薄い家で、家族の声や日常の音に囲まれながらも、唯一個室を持った長男カフカの執筆は続きます。しかし病弱なために、仕事を休んで転地療養を何度か繰り返しています。そのような時でもカフカは執筆することは休まなかったようですね。
また勤勉な書記官としてのカフカには、いわゆるサラリーマンの憂鬱や嘆きのようなものが作品に投影することがなかったように思います。仕事と執筆とのストイックとも見える生活ぶりは、カフカにとってはごく自然なものだったのではないか?小説世界での奇異性は、カフカの夢の中の世界から生まれているようですが、それを単純に夢判断的に解釈することもはばかれる。これらはすべてカフカ自身の淡々とした精神世界だったように思われます。
カフカの度重なる婚約破棄、あるいは恋愛遍歴は有名なお話ですが、カフカの四十一年の生涯は、結局「新しい家族」を持つことはなかった。これはユダヤ人としては決してよい生き方ではなかったということです。ユダヤ人はみずからの宗教を強固なものとして定着させて、広めてゆくためにはユダヤ人口を増やすことに力を注いでいたのですから。
カフカが生きている間に本となって世に出たものはわずかな「短編小説」だけでした。「死んだ後はすべて焼却するように。」というカフカの遺言を「誠実に裏切って」友人はすべての日記や小説を整理して、世に送ったために、わたくしたちは、長編小説を含めてのカフカ小説を読むことができたのです。日記と小説はノートに混在して書かれていたものも多く、主人公が別の小説の名前と入れ替わっているという混乱すらありましから、カフカのよき理解者がいなければ、これらは形をなさなかったのかもしれないとさえ思われます。
また、たくさんの恋人にめぐりあったとしても、カフカ文学の寛大な理解者はそこには一人もいなかった。それは大きな哀しみのように、わたくしの心に残りました。
(二〇〇四年・光文社刊)
Nov 28, 2007
荒地の恋 ねじめ正一
![neko1[1]](/~shimirin/blog/akiko/entries/book/20071128162115.files/0001.jpg)
「荒地」の詩人たちの実名を使ったこの「小説」はかなり危ういところにあるのではないでしょうか?主人公は北村太郎。初出は雑誌「オール讀物」二〇〇三年二月号から二〇〇七年一月号にかけて、十三回にわたり連載されたものです。そして主人公の詩人「北村太郎」の没後十五年という短い時間で、単行本となっています。それ以後の時間を生きていらっしゃる北村太郎の関係者に「連載」の度に、目を通していただいて承諾を得て、書かれたものだそうですが、それが「小説」と言えるのだろうか?という疑問が残ります。
しかしこれは評伝でもノンフィクションでもない。「これは事実ですか?」と問われた時には、筆者は「いえいえ、これはあくまでも小説です。」という逃げ道が用意されているような気がして、釈然としない。
「そこが、ねじめさんのやさしさ」という声も聞こえてきますが、それも納得いくものではありません。某俳人のスキャンダルがその後の二代に渡って封印されているということの方がむしろ「真実」に思えてくるから不思議です。この釈然としないという思いは、この小説のなかに描かれた「荒地」の男性詩人たちの生き方、恋人への向き合い方も同じことだった。もちろんこの小説の書き手も男性詩人の一人だということも興味深い。みんな同様にエゴイストだと思うわ。暴言多謝(^^)。。。
だからあなたは
あたしを〈愛する〉なんてけしていわなかった
あたしと〈愛をする〉といっただけ
この詩は、北村太郎十三回忌を記念して出版された「北村太郎を探して・二〇〇四年・北冬社刊」のなかの「未刊行未収録詩集」として収録されている作品のなかの一編『悲恋「恋」(抜粋)』です。
北村太郎は十九歳の若さで結婚した最初の奥様と八歳のご子息を事故で同時に亡くしていらっしゃいます。その時の「哀しみ」や「無常感」のようなものがその後の生きる日々の底に流れ続けていたように思います。
あなた わたしを生きなかったわね
これは北村の詩集「冬の当直・一九七二年・思潮社刊」のなかに収められている作品「牛とき職人の夜の歌」のなかの一行です。小説のなかでは亡くなった奥様や別れた奥様の「つぶやき」となって再現されています。
* * *
この小説の世界は「荒地」という詩人グループの狭い世界で繰り広げられています。再婚した北村太郎が二人の子供に恵まれ、順調な家族の日々があり、それを壊すきっかけとなったのは、田村隆一の奥様「明子」との出会い。泥沼のような二人の恋、田村隆一の際限のない女性関係、そして結果としての二組の夫婦の崩壊。友人鮎川信夫が生涯隠し続けた奥様は、同人加島祥造の恋人だったなどなど、男女関係は息苦しいものだった。「恋」というタイトルがついているのですから、当然小説の世界は恋愛沙汰に終始するわけで、「荒地」の詩人全体の歴史的証言のわずかな部分でしかないでしょう。
「明子」との一時的な別離の期間に、北村太郎には「阿子」という若い看護婦との恋が始まりますが、彼女だけが「性。愛。死。狂気。」の「詩人の世界」ではないところから来て、またそこへ帰ってゆくことが、この小説の最後の救いだったかもしれません。「阿子」は北村の死の前に、すでに新しい家族を出発させていたのでした。
たしかにそれは
スイートなスイートな、終わりのない始まりでした。
この詩は死んだ奥様とご子息へ送られた北村太郎の詩の一行です。人間の愛に「終わりのない」ということは「死」によってしかもたらされることはないのでしょうか。
(二〇〇七年・文藝春秋刊)
Oct 28, 2007
ホルトの木の下で 堀文子
これは画家「堀文子」の自伝です。堀文子は一九一八年(大正七年)東京生まれ、現在八九歳になられました。ご両親ともに中央大学で西洋史を教えていらしたという環境のもと、六人兄姉の四番目の子供、待ち焦がれていたすぐ上の兄の誕生の後に生まれた娘ということで、堀文子には期待されずに生まれたという感覚があったようです。
わたくしは三人姉妹の三女、父親を絶望させた娘です。この感覚は生涯ぬぐいきれるものではありませんが「恨み」というものではないのです。それが「家族」というものに対して、生まれついてからずっと客観的であり続けるという感性も同時に育てる、豊かな土壌となるからです。まず思春期に一旦親を捨てる。独立する。自由に生きることを無茶を承知でやる。孤独と向き合う。そんなことを行動に移すエネルギーともなったのですから。
堀文子はわたくしの亡母より五歳年下です。ほぼ同じ時代を生きています。と言うことは「戦争」を見ている。「いのち」というもののはかなさや哀しみは、これを見た者にだけある視点が育てられます。たくましい生き方もからだに覚えさせられる世代でもありました。
さらに、一九四六年、二八歳の時に結婚した病弱な外交官の夫との生活は、一九六〇年の夫の病死で終わる。夫の箕輪三郎は妻の画家としての活動の理解者でありました。と同時に戦争の結末には自責の念が拭えず、学者の道を目指し、生涯最後の仕事は、岩波書店の「平和への訴え・エラスムス著・箕輪三郎訳」でした。この訳書への堀文子の協力も多大なものだったようです。
また堀文子は大切な画友「柴田安子」の夭逝という悲しみにも出会っています。それは結婚の前年のことでした。
堀文子の画家としての生き方は旺盛で、自由で、その足跡を追うだけで、わたくしは緊張いたしました。女子美術専門学校を卒業後、東京帝国大学の農業部作物学教室で、拡大鏡を使っての農作物の記録の仕事を皮切りに、彼女は絵本、挿絵、日本画を旺盛に描き続け、日本に留まらず、世界を歩いたという行動力から生まれたものなのでした。「留まらない。」ということが堀文子の生涯を貫いているのでしょう。
* * *
「ホルトの木」とは一説には「ポルトガルの木」という意味もありますが、ここでは「オリーブ」の別称です。八十歳半ばの堀文子の向かいの屋敷には樹齢五〇〇年の「ホルトの木」がありましたが、この屋敷が売りに出される折にこの巨木が切り倒されることになり、その反対運動にことごとく失敗したあげく、堀文子自身がこの屋敷ごと買うことになったのです。これに大半の彼女の働いた分は費やされ、そこが彼女の最後のアトリエとなっています。
(二〇〇七年九月・幻戯書房刊)
Sep 30, 2007
南の華 堀文子画文集
一九八八年三月からの三年間のトスカーナと日本との往復生活以前、住み慣れた東京から大磯へ、アトリエを軽井沢に、というように堀文子の「渡り」の生活は留まることはなかった。そして一九九五年三月堀文子はアマゾンからメキシコへと中南米の旅に出る。その時に描かれたものがこの一冊です。
『生物はその環境に順応して生きる。私にとっても住む場所から受ける影響はどんな知識からも強いのだった。自分を変えたければ住処を変えるか、せめて旅に出るのが、私にとってどんな努力もおよばぬ自己改造の方法であった。新しい住処や旅先はわたしの中に眠る未知の因子に火を点した。』
大自然のなかの鮮やかな草木と生き物たちの色彩、人々の素朴な生活の色彩を堀文子は見事に描きわけているようでした。「トスカーナの花野」とこの画文集を背後から支えている人々にも注目すべきかもしれない。アマゾン行きは、森林の復元の研究をされていらっしゃる植物学者「宮脇昭」博士のその地への同行という形で実現している。さらにあの有名な絵『孤絶の花ブルーポピー・二〇〇七年作』が描かれた背景には、高名な登山家がヒマラヤに同行しているはずだ。堀文子という画家の魅力あってこそのことではあるが、「うらやましいなぁ~。」と無名のわたくしは溜息がでるのであった。ぐすっ。。。
その後、堀文子はご病気をされて、さすがに旅は無理になっていらっしゃるようです。軽井沢のアトリエも手放されていらしゃる。最近の堀文子はここでどうぞ。
(一九九八年・JTB刊)
トスカーナの花野 堀文子画文集
七十歳の堀文子は人間社会のさまざまな義理を欠いても許される年齢になったという。「老年万歳」とも。そこで日本脱出を企てることとなった。一九八八年三月、ローマに長く住んでいる友人が、広い田園を持つ貴族の古いヴィラを捜してくださって、イタリア語を学ぶ時間もないままにトスカーナに旅立った。三年の歳月、ここでの二ヶ月ほどの滞在と日本での生活とを繰り返しながら、堀文子は自然のおおらかな胸のなかで、たくさんの絵を描いたようです。
春には金色の麦畑とオリーブ畑、夏にはひまわり畑、秋には葡萄畑、冬の聖夜。そしてたくさんの樹々、花々、言葉のなかった頃の子供に戻ってひたすらに描いたようです。このように生きられた彼女をただまぶしく思うのみ。。。
(一九九一年・JTB 日本交通公社出版事業局刊)
Sep 21, 2007
小さな白い鳥 ジェイムズ・M・バリ
翻訳=鈴木重敏 挿画=東逸子
「ジェイムズ・M・バリ」は一八六〇年スコットランドの地方都市キリミュヤに生まれる。地方記者を務めた後に、ロンドンに出て、作家への道に進む。小説と戯曲を手掛けているが、その作風は広範囲に及びます。この小説を最後にかれは戯曲の方へむかったようです。
この物語は第一次世界大戦の最中に書かれています。「ジェイムズ・M・バリ」は徹底的な中立の立場をとっているという点にも注意したい。さらに注目したいことは、一回も執筆の体験のない女性が、このタイトルで本を書こうとしていた、という話を聞いて、彼はその女性を励ますつもりで、「貴女が書かなければ私が書きますぞ。」と脅したのですが、結局その脅しを実行する破目になったそうです。
この物語にはさまざまな子供が登場します。その中心的な子供は「ディヴィド」です。この物語はその母親が書くはずだったのですが、「私」という紳士が書き上げてしまったのです。さまざまな大人と子供を結ぶものは、この紳士です。ちょっと皮肉屋さんですが、彼は「ポーソス」という愛犬と共に暮らす独身者ですが、この愛犬の賢さとやさしささえも高く評価しています。子供も愛犬もこの紳士にとっては、素晴らしく楽しい存在であったのでせう。
『人間の子供も、まだ小鳥だった頃には、妖精たちとかなり親しくしていた。だから人間になったあとも、まだ赤ん坊の間は、妖精のことをたくさん覚えている。残念ながら赤ん坊は字が書けないし、そのうち大きくなるにつれて忘れてしまう。それで、妖精なんか見たことの無いなどと、平気で断言する子供が出てくるというわけだ。』
「ピーター・パン」は、そのなかの一人として登場します。ここに登場する子供たちは、すべて「ケンジントン公園」の鳥たちの取り締まり役の「ソロモン爺さん」の魔法によって小鳥の化身として母親のもとに生まれ、そして人間の子供として育つ間に、おおかたの子供は小鳥だった時の記憶を失くしてしまうのでした。
昼間の「ケンジントン公園」は、小鳥だった記憶を失くした子供たちと、その母親や乳母の遊び場であり、散歩の場でもありましたが、夜になると妖精たちの世界になります。
小鳥だった記憶を辿って、もう一度「ケンジントン公園」に母親を離れて戻ってしまうのが「ピーター・パン」だったのです。そういう子供たちだけが、妖精との遭遇も体験できるのです。「ピーター・パン」の不幸、それは母親に忘れられた、あるいは諦められた子供ということ。小鳥の記憶を忘れることのできない子供の幸福と言ってもいいのでせうか?
(二〇〇三年・パロル舎刊)
Sep 11, 2007
人生の実りの言葉 中野孝次

中野孝次は、一九二五年(大正十四年)生まれ。この本が単行本として出版されたのは一九九九年、中野が七四歳の時となります。中野の最も古い蔵書は十五、六歳ころに求めた「論語」であり、十八歳ではアリストテレスの「ニコマコス倫理学」だそうです。その若き日に、その本に傍線を引き、感想を書き込んだ箇所に、七四歳の中野はもう一度同意しているのですね。ここが中野孝次の一貫した純粋性なのかもしれませんね。
子ののたまわく、後世畏るべし。
いずくんぞ来者の今に如かざるるを知らんや。
四十五十にして聞こゆること無くんば、
斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。
(論語)
相手かたにとっての善を相手かたのために願うひとびとこそが、
最も充分な意味における親愛なるひとびとたるのでなくてはならない。
(アリストテレス「ニコマコス倫理学」)
ここで中野によって取り上げてられている言葉たちは、どれも純粋であり、生真面目であります。そして、これらの言葉たちは長い時間の中野孝次の読書メモのエッセンスの集約なのです。(1)の「愛」から始まり、最後の(40)では「災難と死」で終わっています。その(1)で取り上げられた言葉が下記の詩です。この言葉は最初に置く言葉として最もふさわしいと中野は書いています。
わたしの誕生を司った天使が言った
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも。
(ウイリアム・ブレイク・・・中野孝次訳)
(40)での良寛の言葉は、文政十一年(一八二八年)秋、越後に起きた、マグニチュード7,4という大地震の折に、友人の山田杜皐宛てに書いた手紙の一部です。良寛の住む島崎あたりは被害は少なかったとのこと。
しかし、災難に逢時節には 災難に逢がよく候
死ぬ時節には 死ぬがよく候
是ハこれ 災難をのがるゝ妙法にて候
今日の新潟の方々を思う時には複雑な思いがありましょう。良寛の生死に関するすさまじいまでの達観と思うほか、凡々たるわたくしにはできませぬ。
ここに取り上げられた言葉は、まさに古今東西の文学者、哲学者の言葉が選ばれていますが、ケストナー、シェークスピアが全く見当たりませんでした。どうして?
(二〇〇二年・文春文庫)
Sep 07, 2007
物語と人間の科学 河合隼雄

この本は河合隼雄の五つの講義を収録したものです。実は河合隼雄は講義もしくは講演を筆録されることを極力遠ざけてきた方らしい。講演はあくまでも聴衆との関係において成り立つもの、それを不特定多数の読者に向けて本として差し出すことへの躊躇がある。しかし講義ならば、聴衆との関係をこえて、ご自分の伝えたいこととなる。この考え方から「講義録」として本にされることに同意したとのこと。ここには京都大学における最終講義「コンステレーション」も含まれています。しかし表紙のサブタイトルは「講演集」となっていますね。(岩波さん、騙し討ちは、なしにしてよ。)
この本の読者として嬉しいことは、河合隼雄の「講義」はいつも「物語」の姿をしているということです。それはあたかも「語り部」の役割をなさりながら、充分すぎる「聞き手」の役割もなさるという二重構造になっていて、そこに河合隼雄の「講義」の魅力があるのでしょう。
第一章【物語と心理療法】
「先生は易を信じらてますか?」「易は益ないことです。」と笑って答えてしまっては対話は終わります。その最初の一言から、話し手と聞き手の間にはすでに物語がはじまっているのですね。その物語への道筋が見えない方が話し手、想像する方が聞き手、事実はすでに存在している。その話し手と聞き手との共同作業のなかで、事実から真実が呼び出されるということでしょうか。
第二章【コンステレーション】
「コンステレーション」とは星座という意味だそうです。これは彼の研究分野である「ユング」が使った言葉だそうです。ここでは河合隼雄の言葉を引用します。
『われわれの人生も、言ってみれば一瞬にしてすべてを持っている。例えば、私がいま話している一瞬に、私の人生の過去も現在も全部入っているかもしれない。それは、時間をかけて物語ることができると考えられまして、私が心理療法の仕事をしているのは、来られた方が自分の物語を発見して、自分の物語を見出していかれるのを助けているのではないかな、と思っています。私がつくるのではなくて、来られた方がそれを見出される。』
第三章-1【物語にみる東洋と西洋・・・隠れキリシタン神話の変容過程】
一九四九年、フランシスコ・ザビエルの来日からはじまったキリスト教の布教は、徳川秀吉、家康によってキリシタン厳禁の歴史は二五〇年もに及びます。その時代を「隠れキリシタン」はずっと存在していました。「聖書」は「天地始之事」として口承され、のちに書き物となったそうです。
このなかでは、おそらく未熟な翻訳とともに、西洋の宗教を日本の宗教として民間に定着させるまでには、さまざまな言い換えと書き換えがありますね。そこに河合隼雄は東洋の物語性をみつけられたようです。
第三章ー2【物語にみる東洋と西洋・・・『日本霊異記』にみる宗教性】
『日本霊異記』は五世紀の半ば、雄略天皇の時代から年代順に書かれているようですが、この天皇の時代には、まだ仏教が入ってきていません。その後から仏教が入ってきて、約三百年の歴史が書かれています。この中から河合隼雄は「冥界往還」にお話を限定しておられます。
それは「臨死体験」「遊体離脱」などのお話から、「善行」「悪行」によるあの世での人間の遭遇するさまざまな仕打ちなどが語られています。「浦島太郎」の物語も幾通りかのパターンがありますが、基本的には「善行」の典型なのでしょう。
医療の未熟な時代では「死」の決定は引き延ばされました。そこにさまざまな「臨死体験」「遊体離脱」の物語が生まれるわけですが、どれ一つとして類型がない。それはとりもなおさず「生き方」にも同じことが言えるのでしょう。
第四章【物語のなかの男性と女性】
ここではサブタイトルに「思春期の性と関連して」とあります。テキストとして「源氏物語」と「とりかえばや」という現代の文学ではないものが取り上げられています。そこには欧米文化に見られるような「男らしさ」「女らしさ」という規範を超えた、ゆるやかな男女のあり方が見られるからでしょう。「性」や「精神」の純粋性と不純性を問うよりも、それ全体を「魂」の問題として考えることなのだろうと思われます。
第五章【アイディンティティの深化】
「アイディンティティ」とは「同一性」「主体性」などと訳されますが、河合隼雄は「非常に簡単に言えば、私は私です。」と言っていらっしゃいます。加えて「私は私以外のすべてのものである。」というファンタジー性によって「アイディンティティ」という言葉はやっとそれらしい姿を見せはじめるとも。。。この現実的な方法として河合隼雄は「箱庭療法」を試みたのですね。しかしおそらく世界全体がこの「アイディンティティ」の過程にあると言えるのでしょうか?
(一九九三年・岩波書店刊)
Aug 23, 2007
中流の復興 小田実
「小田実」というお名前だけは若い日から存じ上げている。「べ平連」と言う言葉と共に。しかし、今日まで一冊も読まなかった。とうとうご逝去されたあとで、やっとこの著書を開きました。遅い出会いでした。やはり荒削りな文章に馴染めない感は拭えませんが、しかし小田実の言う(書く、ではないような。。。)言葉は、まっすぐに届きます。はっきりとした意思表示がありました。「語録」と言いたいような言葉が多く、それをここに挙げてみませう。(太字部分は引用です。)
『ただ、ベトナム戦争は勝ったけれども「惨勝」です。惨敗という言葉があるけれど、彼らの場合は「惨勝」、完全に惨めな勝利です。「惨勝」という言葉をつくったのは中国で、一九四五年の日中戦争で使われました。あの時の中国は勝ったけれども、日本に侵略されて、滅茶苦茶にやられた「惨勝」なんです。』
「戦争はやってはいけない。」というのは、考えてみるまでもなく、あたりまえの基本思想でありながら、何故人間は戦争の歴史を断つことができないのか?凡々たるわたくしの変わらぬ「人間の摩訶不思議」です。
八月になると、テレビは必ず「戦争番組」を企画する。やらないよりはいいが。。。偶然見たNHK番組では「憲法九条」の改定の是非について世代を問わずに、スタジオでの討論と街頭インタビューとを放映していました。「否」を主張する方々がほとんど戦争体験者であることは痛ましい限りでした。体験者にとっては「二度と戦争はやらない。」という約束は夢のようなことだったろうと思います。この「九条」の成立の背景が真っ白なものであったとしたら。。。
また街頭インタビューでは、貧しさから抜け出せないフリーターの若者が「是」を主張していました。これにはかつての「満蒙開拓団」の方々が重なりました。このような危険を孕んでいるのではないでしょうか?
『私は世界のいろいろな国に行くたびに、外国人、とくに差別されたり抑圧されたりしている外国人がその国をいかに受け止めているかが、一番大きな指標になると思って、オランダでも、肌の黒い人など、普通ならすぐに差別されたり抑圧されたりする対象となる外国人たちに聞いてみるのです。すると、多くの人が、この国が一番いい国じゃないかと、と言います。(中略)
理由は一つあります。まずオランダの人たちが、私の言う中流の暮らしの土台を形成していることにあります。経済的な問題を解決せずに政治的な問題をせっかちにやると、強制力を伴ってかつての社会主義のようにもなるけれど、普通に人間が中流の暮らしを形成していれば、生活にゆとりができて、その上で政治的な問題が解決できるようになるでしょう。』
ここにこの著書の「中流の復興」の意味が浮き彫りにされますね。小田実は平和産業で復興した日本が、軍事国家に向かってはならないと言っているのでしょうか?さらにオランダでは「尊厳死」への規制をゆるやかにしています。これも注目するべきところですね。
「あとがき」にかえて、と題された四十ページにもなる長い文章は、「恒久民族民衆法廷=PPT(二〇〇七年三月二十一日~二十五日、オランダ、ハーグ)」が調査したフィリピンの惨い状況の報告書です。ここには小田実の最期の叫びが聴こえます。本当に惨い。言葉を失います。これはわたくしにはとても書ききれるものではないと思いましたが、リベルさんのコメントを頂きましたので、やはり拙いながら加筆いたします。小田実はここにも重い「語録」を残していかれました。この言葉にわたくしの思いを託します。
『どの国家でも、その成長と発展は農民、漁民、労働者、先住民族、女性、そして彼らの勤勉な労働にある。しかしこのような民衆が極度の貧困、飢え、失業、土地およびすべての資源の喪失に直面するなら、暮らしそのものが脅かされ、社会が破壊されるため、発展は無意味である。これがフィリピン人の過酷な現実である。』
【付記】
これはわたくし個人の考え方ですが、わたくし個人としては「組織」というものが嫌いです。一つの運動を起すには個人の力では弱すぎて出来ないから、その個人の力を結集したら強い力となるのではないか?という理念は理解します。しかし「組織」となると、そこはもう階級社会となる。リーダーがいる、幹部がいる、兵隊がいる、その兵隊にも階級がつく。経済面でも「塩と水」だけでは闘うことはできない。組織のなかでの人間間の考え方のずれ、そして近親憎悪、異種人間への排除意識、見えないところでは男女間の諍いなどなど。あらゆる場面から腐敗がはじまる。これは文学の世界でも同じことです。あまり理解できていない「べ平連」や「PPT」などについて言っているのではない。身近に起きているささやかな運動組織にそのような状況を垣間見るからです。
わたくしは、ささやかながら「非戦」というコーナーを作った。これはわたくしの父母、祖父母への鎮魂のためです。そしてやがて子供達も読む。個人での行動はここまでです。それぞれ一人の人間が両親の歴史を小声で語り継ぐこと、これで充分ではないか?大きな運動ではない。ひたすら自らの足元を雪ぎ続けることでいい。
あああ。疲れた。慣れないことを書きました。(汗。汗。汗。。。)
(二〇〇七年六月・NHK出版・生活人新書224)
Aug 16, 2007
女性詩史再考 新井豊美
女性詩の歴史について書かれたのは、おそらく新井豊美さんしかいらっしゃらないのではないだろうか?戦前戦後そして現代に至るまでの女性詩人の流れ、主張、表現の変化について、わかりやすく、しかも偏りなく書かれた貴重な著書です。
与謝野晶子からはじまり、今の若手詩人までの足跡を丹念に読み込み、社会における女性のあり方、あるいは抑圧と開放、そして開放後の拡散、しかしそこに見出される一本の流れを新井さんは静かな視線で丹念に追い続けたと思えます。そこには「女流詩人」から「女性詩人」への流れへと移行する「空白期」もありました。
山の動く日 与謝野晶子・「青鞜」
山の動く日きたる、
かく云へど、ひとこれを信ぜじ。
(中略)
すべて眠りし女、
今ぞ目覚めて動くなる。
焔について 永瀬清子
(前略)
年毎の落葉してしまう樹のように
一日のうちにすっかり身も心もちびてしまう私は
その時あたらしい千百の芽の燃えはじめるのを感じる。
その時私は自分の生の濁らぬ源流をみつめる。
その時いつも黄金色の詩がはばたいて私の中へ降りてくるのを感じる。
(後略)
怒るときと許すとき 茨木のり子
女がひとり
頬杖をついて
慣れない煙草をぷかぷかふかし
油断すればぽたぽた垂れる涙を
水道栓のように きっちり締め
男を許すべきか 怒るべきかについて
思いをめぐらしている
(後略)
書き出したらきりがない。白石かず子、富岡多恵子、石垣りん、新川和江、吉原幸子そしてこの本の著者である新井豊美、etc、ここまでの詩人がわたくしにとっての先達詩人となるのでしょう。
女性・・・それは「産む性」である。言い換えれば「産まない選択肢もある性」でもある。この与えられた片側の性は、永瀬清子の「グレンデルの母」という詩語が見事に代弁していますので、今さら書くこともないでしょう。
この一冊は、一九九九年「現代詩手帖」の十二月号に書かれた「空虚から不透明の感覚へ」を中心として、二〇〇〇年以後の状況を書き加えたものです。ここには「女性詩」から、さらに「女性性への詩」という予感を残していました。
(二〇〇七年・思潮社・詩の森文庫E11)