Sep 17, 2009

ベルギー幻想美術館

 15日午後より、澁谷のBunkamura・ザ・ミュージアムにて観てまいりました。副題は「クノップフからデルヴォー、マグリットまで」となっています。大雑把に括れば19世紀末のベルギーの「象徴主義」の画家たちと言えるのでしょうが、それぞれの目指した絵画は、さまざまな主張と試みがみられます。

フェルナン・クノップフ(1858~1921)
ポール・デルヴォー(1897~1994)
ルネ・マグリット(1898~1967)
フェリシアン・ロップス(1833~1898)
ジェームズ・アンソール(1860~1949)
ジャン・デルヴィル(1867~1953)
エミール・ファブリ(1865~1966)
レオン・フレデリック(1856~1940)

 これらの画家の113点の作品は「姫路市立美術館」所蔵のものです。1983年(昭和58年)に開館したこの美術館は、開館以来、ベルギー美術品の収集に力を入れたのは、姫路市とベルギーの工業都市シャルルロワ市と姉妹都市関係にあったからです。ベルギーの近代美術史を語れるほどの作品が収集されているとのことです。


 1830年に建国したベルギーの文化はフランスの影響を大きく受けていました。フェリシアン・ロップスは、パリで活躍した画家で、風刺画や本の挿絵を多く描くようになり文学者との交流を深めていきました。詩人シャルル・ボードレール(1821~1867)の「悪の華」の挿絵も担当しています。こうした文学者たちとの交流が多く見られるというのが、19世紀ベルギーの画家の1つの特徴と言えるかもしれません。

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(多分、この絵ではないか?と思います。展覧会にはありません。念の為。)

*訂正。この表紙絵は「エドワルド・ムンク」の「マドンナ・1895年」です。失礼しました。

 またジェームズ・アンソールの「キリストの生涯・32点組」のリトグラフ。あるいはポール・デルヴォーの「クロード・スパークの小説「鏡の国」のための連作・最後の美しい日々・8点組」のエッチングや「ヴァナデ女神への廃墟の神殿の建設・11点組」のエッチングなどもありました。

 この絵画の時代的背景をみますと、19世紀後半から20世紀前半にかけてのベルギーは、本国の何十倍もある植民地(コンゴ)からの富が産業革命を加速させ、飛躍的な繁栄をもたらした時代です。その恩恵は芸術の世界にも及び、リベラルな若い実業家たちは新しい芸術を支えました。こうして芸術は宮廷文化から、裕福な階級の人間たちの文化に変わってゆきました。宮廷に庇護されることから、値踏みされる芸術の時代の到来と言ってもいいかもしれません。しかしながら皮肉にもその芸術の中身は、発展する近代社会における人間の疎外を表わすものともなったのです。

 展覧会全体のなかで気付いたことですが、女性を描いた絵画の圧倒的な多さでした。それは美しい女性像であったり、あるいは世紀末の魔性の女性であったりと。。。これがベルギー幻想美術の1つの特徴です。

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(ジャン・デルヴィル夫人・ジャン・デルヴィル)

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(ヴェネツィアの思い出・フェルナン・クノップフ)


 さらに産業革命は、19世紀後半のベルギーでは労働争議などが頻発していました。画家たちも労働者の現実に目を向け、それを題材にした作品も描きました。

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(チョーク売り・レオン・フレデリック)

 絵画のみならず、あらゆる芸術は、その時代背景(戦争、経済など。)を如実に表わすものであることをわすれてはならないでしょう。
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Sep 05, 2009

音の歳時記

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今朝の天声人語昨日の天声人語の麻生太郎の「バッド・ルーザー」ぶりと、うってかわって、さわやかな話題でした。「詩の歳時記」などを続けている自分が恥ずかしくなりました。


「音の歳時記」    那珂太郎

一月 しいん

石のいのりに似て 野も丘も木木もしいんとしづまる
白い未知の頁 しいんーとは無音の幻聴 それは森閑の
森か 深沈の深か それとも新のこころ 震の気配か
やがて純白のやははだの奥から 地の鼓動がきこえてくる

二月 ぴしり

突然氷の巨大な鏡がひび割れる ぴしり、と きさらぎ
の明けがた 何ものかの投げたれきのつけた傷? 凍湖の
皮膚にはしる鎌いたち? ぴしりーそれはきびしいカ行音
の寒気のなか やがてくる季節の前ぶれの音

三月 たふたふ

雪解の水をあつめて 渓川は滔々と音たてて流れはじめ
る くだるにつれ川股に若草が萌え土筆が立ち 滔々た
る水はたふたふと和らぎ 光はみなぎりあふれる 野に
とどくころ流れはいっそう緩やかに たぷたぷ たぷ
たぷ みぎはの草を浸すだらう

四月 ひらひら

かろやかにひらひら 白いノオトとフレアアがめくれ
る ひらひら 野こえ丘こえ蝶のまぼろしが飛ぶ ひら
ひら空の花びら桃いろのなみだが舞ひちる ひらひら
ひらひら 緩慢な風 はるの羽音

五月 さわさわ

新緑の木立にさわさわと風がわたり 青麦の穂波もさわ
さわと鳴る 木木の繁りがまし麦穂も金に熟れれば ざわ
ざわとざわめくけれど さつきなかばはなほさわさわ
と清む 爽やか、は秋の季語だけれど 麦秋といふ名の
五月もまた 爽やか

六月 しとしと

しとしとしとしとしとしとしとしと 武蔵野のえごのき
の花も 筑紫の無患子の花も 小笠原のびいでびいでの
花も 象潟の合歓の花も うなだれて絹濃のなが雨に聴き
いる しとどに光の露をしたたらせて

七月 ぎよぎよ

樹樹はざわめき緋牡丹は燃え蝉は鳴きしきる さつと白
雨が一過したあと 夕霧が遠い山影をぼかすころ ぎよ
ぎよぎよ 蛙のこゑが宙宇を圧しはじめる 月がのぼる
とそれは  ぎやわろっぎやわろっぎやわろろろろりっ
と 心平式の大合唱となる

八月 かなかなかな

ひとつの世紀がゆつくりと暮れてゆく 渦まく積乱雲の
ひかり 光がかなでる銀いろの楽器にも似て かなかな
 かなかなと ひぐらしのこゑはかぼそく葉月の大気に
錐を揉みこむ 冷えゆく木立のかげをふるはせて

九月 りりりりり

りりりりり......りり、りりり......りりり、りり......り、
りりりり...... あれは草むらにすだく虫のこゑか それと
も鳴りやまぬ耳鳴りなのか ながつき ながい夜 無明
長夜のゆめのすすきをてらす月

十月 かさこそ

あの世までもつづく紺青のそら 北の高地の山葵色の林
を しぐれがさっさつと掠めてゆくにつれ 幾千の扇子
が舞ひ 梢が明るみはじめる 地上にかさこそとかすかな
気配 栗鼠の走るあし音か 地霊のつぶやきか

十一月 さくさく

しもつきの朝の霜だたみ 乾反葉敷く山道を行けばさり
さり 波うちみだれる白髪野を行けばさくさく 無数の
氷の針は音立ててくづれる  澄んだ空気に清んだサ行
音 あをい林檎を噛む歯音にも似て

十二月 しんしん

しんしん しはすの空から小止みなく 白模様のすだれ
がおりてくる しんしん茅葺の内部に灯りをともし 見
えないものを人は見凝める しんしんしんしん それは
時の逝く音 しんしんしんしん かうして幾千年が過ぎてゆく
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Aug 26, 2009

女児として育てられたリルケ


毎度ばかばかしいお話ですみませぬ。
こんなことを書くきっかけになったのは、愚息一家が帰省した日の出来事からです。1日だけだからと思って1歳5ヶ月の男児の「むつき」の用意はしてきたものの、着替えを持ってきませんでした。しかし公園に連れ出したら、砂遊び、水遊びで、そのまま家には入れられない状態に。バスルームで裸にして、洗って拭いてから「むつき」だけははかせたものの、さて着替えがない。

思いついたのは、身長120~130センチ用の女児タンクトップでした。(自慢じゃないけど、これを着られるわたくしめです。)わたくしはチビですので子供服売り場で、セーター、Tシャツ、パジャマ、スパッツなどをよく買いますが、こういう時にも役立つのでした。さすがにそれでも孫には大きくて、ワンピースになってしまって、でも結構似合い、女の子にみえます。あわてて洗って乾かした元の男児服に着替えたら、あら不思議!男児に戻りました。その姿からの連想が以下のものです。

joshua

この絵画は、イギリスの画家ジョシュア・レノルズ(1723~1792年)が最晩年の1788年に描いた「マスター・ヘアー」です。2歳の「フランシス・ジョージ・ヘアー(1786~1842年)」の肖像画です。このころの就学前の男児がみんなそうであったようにモスリンの女児服を着て、長い髪形ですね。何故このような風習があったのか?一説によれば、女児の方が男児よりも生命力が強いので、その願いからとも言われていますが、イギリスは女王の国でもありますね。

Rilke-2

リルケは1875年生まれですから、これは1877年の写真ですね。これは「マスター・ヘアー」のような考え方からきたものではなく、母親ゾフィアの屈折した考え方からきたのではないかしら?「ゾフィア」は裕福な商家に生まれ、フランスの血をひくと自称し、大皇紀のような黒衣を好み、虚栄心が強く、凡庸な夫のとの生活に幻滅して、「リルケ=ルネ」を連れて別居します。そこで女の子として育てられました。「ゾフィア」は「リルケ」よりも長生きをしていますが、彼の生涯にわたる影響力を持っていました。良きにつけ悪しきにつけ・・・・・・。

Pieter_de_Hooch

今度はオランダの画家「ヨハネス・フェルメール・1632~1675」と同時代の「ピーテル・デ・ホーホ・1629~1684」の描いた「食料貯蔵庫の女と子供」です。この子も実は男の子です。肩布と金のボタンで、男の子だとわかるのだそうですが、帽子、ドレス、髪型は女の子ですね。


さてさて、こうして男児が女児の服装で育てられた真相ははっきりとはしませぬが。。。
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Aug 06, 2009

写楽 幻の肉筆画

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 (四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪・寛政7年・1795年)

 5日、竹橋の東京国立近代美術館を出てから、欲張って足をのばして両国まで行きました。「日本・ギリシャ修好110周年記念特別展」として、「江戸東京博物館」にて、126点の日本絵画、版画(初期~中期~後期)、摺物、絵本などが公開されました。これらの作品は、すべて「グレゴリオス・マノス」が全財産をかけたコレクションのなかから発見されたものです。

 「グレゴリオス・マノス」は、イスタンブール生まれ。パリ、ウィーンなど各地の大使館勤務のなかで、赴任先で日本の絵画、版画、工芸などを蒐集。定年退職後には、ジャポニズムに沸くパリに移住して、主に1910年~1920年にかけて、日本、中国、朝鮮の作品を熱心に購入しました。

 この蒐集にすべての財産を使い果たした「グレゴリオス・マノス」は、ギリシャに帰国して、コルフ島(別名・キルケラ島)にイギリス占領下時代の建造物である「総督府」に「グレゴリオス・マノス・コレクション」をすべて寄贈して、美術館として一般公開する代りに、ギリシャ政府からわずかな給付金と館内の1室を与えられて余生を過ごすことになりました。マノスの死後、日本美術コレクションは本格的に調査されることなく、その後1世紀近く封印されたままでした。2008年7月より、日本からの調査団が入り、膨大なコレクションが再確認されたのでした。その数は、浮世絵、1600点、絵画200点(日本のみ)、工芸品600点(日本、中国、朝鮮)でした。この調査の後で、日本での公開が実現したのでした。

展示作品リストはここにあります。(すべて、ギリシャ国立コルフ・アジア美術館所蔵です。)


 《余談》
 ホメロスの「オデュッセイア」のなかで「コルフ島」の王女「ナウシカア」が、島に漂着した「オデュッセイア」を救ったという神話がありますね。宮崎駿アニメ「風の谷のナウシカ」の名前は、この神話に由来します。本当に余談ですね(^^)。



 さてさて、この展覧会の目玉は、「東洲斎写楽」が描いた肉筆画扇面「四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」です。写楽の役者絵版画は、彫師との共同作業であったわけです。写楽が役者絵の世界から隠遁したのは寛政7年(1795年)1月ですが、この芝居が上演されたのはその年の5月ですから、扇に描かれたこの肉筆画は隠遁の4ヵ月後となります。紙だけが残されて観賞用の絵画となっていたとは。。。

 屏風や襖絵などはよく観ますが、もう1点驚いた作品は、障子絵があったことでした。これは障子の桟の痕がうっすらと見えていましたが、やはり和紙だけでした。作者は「狩野養信・他狩野派」、作品名は「郊坰佳勝図帖」、「絹本墨画着色」で「1帖8面」、江戸時代後期のものです。

下の作品は現代とあまり変わらない花火大会の賑わいがわかって楽しい作品でした。
この季節にふさわしく。。。

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 (歌川豊国・両国花火之図・三まへつゝき・大判錦絵・1804~18)
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Aug 05, 2009

ゴーギャン展

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《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか・1897-98年》
   

 5日、東京国立近代美術館にてポール・ゴーギャン(1848パリ生まれ-1903)の53点の絵画、版画、彫刻を観てきました。上記の大型の絵画は日本初公開だそうです。この絵画は、ゴーギャンの遺言のごときものと思われます。ゴーギャンは1998年2月に、パリに住む友人の画家ダニエル・モンフレーへの手紙には、このようなことが書かれています。

 「 私は12月に死ぬつもりだった。で、死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思った。まるひと月の間、昼も夜も、私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした。(中略)この作品がこれまで描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、今後これより優れているもの、これと同様のものも、決して描くことはできまいと信じている。(以下略)」

 この絵の向かって右側には産まれて間もない幼児、左側には「死」を予感して恐れている老婆、黒い犬は、ついにこのタヒチで「よそ者」でしかなかったゴーギャン、中央には禁断の木の実に手を伸ばしている若い女・・・人間の生誕から死までのすべてがここにありました。


 株式仲買人として成功を収めたゴーギャンは、デンマーク人女性メット・ガッドとの幸福な家庭生活を送っていましが、ピサロをはじめとする印象派の画家達との交友のなかで、徐々に絵画への情熱がたかまり、1883年(35歳)に画家として生きる決意をします。家庭は破綻し、孤独な放浪が始まりました。印象主義の影響が色濃く残る初期のスタイルは、ケルトの伝説が息づくブルターニュ地方との出会いによって、ゴーギャンの内面の「野性」が目覚め、大きな変化をもたらしたのでした。さらに熱帯の自然が輝くマルチニック島、ゴッホとの伝説的な共同制作の舞台となった南仏アルルなど、それらの土地はパリからタヒチへの移動過程でした。


Gauguin-2
《純潔の喪失・1890-91年》  


 ゴーギャンがタヒチに旅立つのは1891年。つまりこの絵を最後に、タヒチへ行きます。しかし、1880年にフランスの植民地となったこの南太平洋の島は、すでに「楽園」ではありません。ゴーギャンは、原初の人間の生命力や性の神秘、さらに地上に生きるものの苦悩を、タヒチ人女性の黄金色に輝く肉体を借りて描きました。その豊かなイメージには、タヒチの風土と、エヴァやマリアといったキリスト教的なモチーフなどが混ざりあって独自の絵画を生み出しました。

 1895-1901年、2度目のタヒチ滞在。1897-1898年《我々はどこから来たのか》を描く。1898年パリのヴォラール画廊で《我々はどこから来たのか》を中心とする個展開催。1901年マルキーズ諸島のラ・ドミニック島(現ヒヴァ=オア島)に移り住む。1903年心臓発作により死去。出発点が遅く、不遇な画家ではありましたが、最期に大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」をわたくしたちに残してくださいましたね。幾たりかの女性を悲しませたけれど。。。


 美術館を出て、お堀端で見つけた「槐 (えんじゅ)」です。

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Jul 01, 2009

奇想の王国 だまし絵展

 6月30日、天気予報は当らず(^^)。雨は出掛ける時間には止んで、帰宅時間寸前で降っただけでした。心がけのよいわたくしです。季節のせいではないにしても、鬱状態でどこかへ出掛けたかったのでした。それならおもしろい美術展へ、ということになって、澁谷Bunkamura ザ・ミュージアムに行きました。
 とりあえず、1番好きだったのは、ヤーコブ・マーレルの「花瓶の花」です。この美しい花瓶に写っているのは、絵を描いている画家なのです。

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 目玉の展示作品は、初来日のスウェーデンのジョゼッペ・アルチンボルドの「ルドルフ2世」だそうです。63種の野菜、果物、花、木の実などで構成された王様のお顔です。さぞや王様はお怒りになったのではないか?と思うのですが、意外や王様は大喜びだったそうです。

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 17世紀、静物画におけるオランダの画家の優れた細密描写の究極の遊びと言えばいいのか?「トロンプルイユ・目だまし」と呼ばれる絵画の系譜が確立し、やがてアメリカにも広がっていきました。そして、ダリ、マグリット、それからエッシャーへ。。。

damasie

 日本でも「だまし絵」は特に幕末から明治の高名な画家が、まるで座興のように描いたものがあります。お化けの掛け軸、影絵遊び、歌川国芳の「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」などが代表的でしょうか。

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 さらに時代は新しくなって、多様なイリュージョニズムの時代に入ります。これは最も新しい絵ではなくて写真です。本城直季の「small planet」シリーズの1つです。高所から街の風景を撮っていますが、それがまるでフィギアのように見える写真となっています。わたくしたちが歩いた澁谷の駅付近のようです。

shibuya

 138点の作品ですが、このような絵画はどうしても1枚毎に立ち止まってしまいます。観終わって時計をみたら2時間以上絵画とにらめっこしていたのでした。お疲れさまでしたが、なんとも楽しい時間ではありました。ただし「トロンプルイユ・目だまし」だけでよかったような気もします。ダリ、マグリット、エッシャーなどは個別に美術展を観ていますし、日本の「だまし絵」との同居も(テーマは似ているかもしれませんが。)ちょっと不自然でした。
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Jun 17, 2009

水元公園&南蔵院

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 6月になってから、何故か梅雨の前に水辺を歩きたいと思うようになった。どこにしようかと考えていた時に、古い記憶が蘇ってきました。そこは子供たちが10歳と8歳まで住んでいた東京都葛飾区に隣接する土地(三郷市)で、よく遊びに行っていた葛飾区と三郷市にまたがった「水元公園」と「南蔵院」でした。

 今住んでいるのは同じ三郷市でも、葛飾区から最も遠い場所ですので、電車とバスを乗り継いで行きました。なんと20数年ぶりの訪問でした。

 15日の天気予報は曇り、夜は雨でしたので決行。早く行かないと「花しょうぶ」が終ってしまうのです。どうやら間に合ったようでした。水元公園は都内の公園としてはめずらしく入園無料、釣りは自由という開放された、広大な公園です。

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 川辺で大きな鯉を釣りあげた方がいらして、お願いして写真を撮らせていただきました。大きさはご覧のとおりです。ご本人も写真を撮っていらっしゃいました。

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 「南蔵院」は「しばられ地蔵」で知られたお寺です。

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Jun 01, 2009

老親看護は繰りかえされるのか?

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5月23日の日記に「手紙 ~親愛なる子供たちへ~」を書きましたが、そのなかでわたくしは娘に向かってこう言いました。


 ・・・・・・そして娘に宣言しました。「お母さんが今、あなたの祖父母にしてあげていることと、同じことをお母さんにして欲しいとあなたには望んでいません。のたれ死にで結構です。」と。娘は沈黙していました。・・・・・・


 詩人&作家の「伊藤比呂美」は現在カリフォルニア州に在住しつつ、日本の老親の介護のために、両国の往復生活を送っているとのことを、娘から聞きました。(←朝日新聞に掲載されていた記事だったそうですが、わたくしは読み落としました。)費用も体力も時間も過度に要する生活ですが、彼女はこのやり方を変えず、帰国することもなく続けるそうですね。そのお気持はわかるような気がしますが。

 そして「伊藤比呂美」はやはり、こう言っていたそうです。「このようなことは自分の代で終わりにしたい。」と。これはわたくしの10数年前の感慨でした。全く同じことを彼女も10数年後におっしゃっている。娘はこのことをどう思っているだろうか?そして10数年前のわたくしの上記の言葉を覚えているだろうか?


 娘よ。息子よ。どうか忘れないでいて欲しい。
 「繰りかえしてはならない。」と・・・・・・。
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May 26, 2009

片岡球子展

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 (海「鳴門」・1962年・57歳)

 25日天気予報がはずれて快晴となった午後、日本橋高島屋8階ホールにて、昨年1月16日に103歳で逝去された日本画家の「片岡球子」の追悼展覧会「天に捧げる地上の花」を観てきました。「油絵のごとき日本画」という表現もおかしなものだと我ながら思いますが、彼女の絵画にはそのような比喩しか思い浮かばないものでした。鮮烈な色彩、大胆な絵の具の配置は「片岡球子」という画家の満身の力を込めた直球を受けるようでした。それは彼女の生き方そのものなのでしょう。

 「片岡球子」は1926年女子美術専門学校日本画科高等科卒業後、横浜市尋常小学校教諭となります。絵画と教諭との両立に多忙な日々ではあっても、彼女は「私が教育を一生懸命やって子どもを教えることが、絵を一枚描くのと同じ・・・」という言葉が心に残りました。初期作品にはその教え子たちが描かれています。

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 (枇杷・1930年・25歳)

 1930年、第17回院展にて「枇杷」が初入選しますが、それはわたくしたちが通常「日本画」と括っているような静謐で緻密な絵画でしたが、そこから彼女の絵画はどんどん溢れ出て、その括りを壊してゆくものとなっていくのでした。

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 (富士に献花・1990年・85歳)

 そこには3つの流れがありました。1つは「富士山」シリーズ、2つ目は「面構」シリーズです。そして最後に78歳から「裸婦」に挑戦していますが、これが「片岡球子」の最後のシリーズと言えるのかもしれません。若き日には、婚約者との結婚も取り消して、一筋に絵画の道を103歳まで生きた一人の女性、危うさと強靭さを併せ持つ、あるいは頑固とも言える人生を、生き抜いた女性だったのだと思います。


 《付記》

 最近のわたくしは「美術館中毒」にかかってしまったようです。あのちょっと肌寒く、明るすぎない空間で、さまざまな世界を彷徨う自分が好きです。混雑が過度でないこと。観る方々の会話が静かであることは必須条件ですが、でもそれがなかなか難しいのですね。
 今回はデパート内の美術館であったこと、人々を引きつけないではおかないであろう女性画家であったこと、などの条件が重なって、ほとんどが数人の徒党を組んだ女性客でしたので、同性ながらちょっと辛いものがありました。「あら、あなたのお召し物は素敵ですね。ご注文服ですか?」・・・・・・こういう会話は観おわった後のティータイムにでもやってほしいものです。それからね。どこぞで聞きかじった知識を信じこんで、ご自分の目ではなく、その知識の視点でのみ絵画を観ることもやめて欲しい。その上それをお友達に解説することも。(←暴言多謝。)
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May 24, 2009

ルーブル美術館展・美の宮殿の子どもたち

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(ジュシュア・レノルズ  マスター・ヘア)

 22日、快晴、やや強風。またまた大計画(?)をたてて、まずは乃木坂の「国立新美術館」に上記のタイトルの美術展に行きました。その後で上野の「国立西洋美術館」にて「ルーブル美術館展・17世紀ヨーロッパ絵画」を観るべく上野へ行きましたが、美術館入口は大行列で「40分待ち」ということでしたので、入場はあきらめて「図録」のみ購入してきました。この2つの企画は連携したものですが、何故このように混雑ぶりに差があるのか?不思議でした。しかし、より観たい方を観ましたのでこれでよしといたしませう。

 「国立新美術館」に入場してまもなく、赤ちゃんの声を聴きました。一瞬絵画か彫刻から聴こえる幻聴かと我が耳を疑いましたが、若いお母さんが1歳前の赤ちゃんを抱いて「美の宮殿の子どもたち」を観にきていらしたのでした。この企画にふさわしい光景に出会って、思わず微笑んでしまいました。その赤ちゃんはぐずることも、大声で泣いたり、騒いだりすることもなくおかあさんの腕のなかで落ち着いていました。この光景は絵画と同じほどの思いがするのでした。

 作品は200点、7章に分かれて展示されていました。

 「河から救われるモーセ」、「聖母と幼いキリスト」、「授乳するイシス女性」、「愛の天使・プットー、アモール」、「子供のサテュロス」、「両親と男児」などなど「子供」をテーマとした、古代エジプト、ローマ、ギリシャ、オリエントから、19世紀あたりまでの永い時間を辿る美術の旅でした。絵画、彫刻、素描、版画、工芸品、陶器、玩具、人形、タペストリー、置物、美しい装飾を凝らした子供の棺など大小さまざまなものが展示されていました。
 ルーヴル美術館唯一の《少女のミイラと棺》は日本初公開だそうです。このミイラは、19世紀にギメ美術館に入り、次いでルーヴル美術館に移管されたものです。古代から子どもたちは死と背中合わせでした。幼年期を女児の服装で育てられた男児の絵画もありましたが、これはおそらく女児のより強い生命力に願いを託したものだったのではないでしょうか?

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(ピエール・パテル父  ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト)

 さらに個人的に気付いたこと。それは国立新美術館にあった「河から救われるモーセ」のタペストリーと、国立西洋美術館の図録にあった「ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト」でした。これは「子供のいのち」という大きなテーマの1つではないでしょうか?最近「出エジプト記」に出会うことの多い日々でしたので、一層心に残るものでした。


《付記》
 美術館に行って、歴史のなかで永く保存されてきた美術品を観ていますと、どうしても心をかすめる思いは拭えません。それらの「名品」は、言い換えれば「戦利品」なのですね。侵略と権力に運命を翻弄されたものでもあったということです。
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May 23, 2009

手紙 ~親愛なる子供たちへ~

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歌:樋口了一
詞:樋口了一・角智織
曲:樋口了一

 この元の詞はポルトガル語で書かれており、作者不詳。樋口了一の友人、角智織の元に偶然届いたチェーンメールに詩が記載されていて、この詩に感銘を受けた角が詩を翻訳、樋口に見せたところ樋口も感銘を受けたため、曲の制作・発売に至ったとのことです。(某所から頂いた情報です。)以下はその歌詞です。


年老いた私がある日
今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを
理解して欲しい

私が服の上に食べ物をこぼしても
靴ひもを結び忘れても
あなたにいろんな事を教えたように
見守って欲しい

あなたと話す時同じ話を
何度も 何度も 繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずに
うなずいて欲しい

あなたにせがまれて 繰り返し読んだ
絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を
平和にしてくれた

悲しい事ではないんだ
消え去ってゆくように 見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい

楽しいひと時に私が思わず
下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがる時には
思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり
様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った
懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ
旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ
出来なくなるかも知れない
足も衰えて 立ち上がる事すら
出来なくなったなら
あなたがか弱い足で立ち上がろうと
私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの
手を握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり
自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを
知るのはつらい事だけど
私を理解して支えて
くれる心だけを持っていて欲しい

きっとそれだけで それだけで
私には勇気がわいてくるのです

あなたの人生の始まりに
私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ
付き添って欲しい

あなたが生まれてくれたことで
私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って
笑顔で答えたい

私の子供たちへ

愛する子供たちへ


 この詞を初めて知りました。ヒットしている歌なのでしょうか?これは不自然というか、無理に子供時代と老年を重ねようとしているようです。多分これを詞にした方は「老人」でもなく、「子供」でもない。どちらにも属していない(つまり立ち位置がない。)人間の考えた詞であろうと思います。あるいは翻訳の段階で何があったのか?という思いもあります。または「ポルトガル」という国の家族意識との相違があるのでしょうか?

 わたくしが老親の介護の最中に思ったことは、そこには老いに逆行する可能性はないということでした。それはわたくしの努力では取り戻せるものではありませんでした。子供を育てることも困難なことは多いのですが、この困難はいつか終わるのです。子供は「育つという希望」があるのですから。しかし老親には長い視点に立って見える希望はないのだと思い知らされました。残酷な言い方をどうぞお許しください。それでも老親にかすかでも希望を抱いてもらうことが、娘としての最後の仕事だったのだと思います。

 子供を育てることには、何の代償も求めるものではありません。将来その子供が親の面倒をみるのだとも考えたことなどありませんでした。わたくしがまさに狂気寸前まで老親の看護をしましたが、愛娘は「そんなに苦労しなくても、社会には福祉というものがあるでしょう。」と言いましたが、お粗末な国の福祉に委ねることは、心身ともにぎりぎりまで拒否しました。そして娘に宣言しました。「お母さんが今、あなたの祖父母にしてあげていることと、同じことをお母さんにして欲しいとあなたには望んでいません。のたれ死にで結構です。」と。娘は沈黙していました。それでも娘と息子(その頃は高校生から大学生の時代でした。)の溌剌とした若いいのちがそこに存在してくれることが、老親の看護に疲れたわたくしのひかりある唯一の存在でした。「なにもしてくれなくてもいい。老親の看護に大方の時間を費やして、母親が充分に機能していないもう1つの家庭のなかで、元気で生きていてください。」と密かに祈りましたが、子供たちは自然に生きていたことでしょう。

 我が子を育てることはごくあたりまえのことで、その時間のなかで母親も育てられたのです。繰り返し子供のお願いに応えることで、母親はもう一度子供時代を自覚的に過ごすことができたのです。それは大きな収穫でした。その時間のなかで母親が育てられたことの力が、老親の看護に生かされたことだったということです。 
 子供を育てることと、老親を見守ることとは全く次元の違うことです。いかにもきれいに整えられた詞のように見えますが、これは「嘘」だとしか言いようがありません。

暴言多謝。
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May 15, 2009

言葉の共有イメージ

otamajakusi

 過去の私事でもうしわけありませんが、第一詩集を出す時にその表題を「河辺の家」と決めたのは編集者でした。わたくしは「明けきらぬ朝」を提案したのですが、却下されました。
 その理由は「河辺の家」という言葉ならば、読者がそれぞれの「河辺の家」というイメージを明らかな姿で思い描くことができる。しかしながら「明けきらぬ朝」をイメージすることは茫漠たるものです。・・・ということでした。


 さらにこの表題となった「河辺の家」は、詩集になる前に一編の詩として、あるささやかな賞をいただきました。その賞の第1回目の受賞作品であったことから、「このタイトルではイメージが悪い。」という理由でこの「河辺の家」となったのです。もとのタイトルは「喪失」だったのでした。多額の賞金に目がくらんで(?)というか、わたくしの師が決めて下さったタイトルで、無事受賞したのでした。


 そこから「河辺の家」は、わたくしの手を離れて1人歩きを始めたのでした。「主婦詩人」と言われ、「介護詩人」と言われ、またまた「墓場まで、戦後を引きずっていく詩人」とまで評価され、その周囲の反応には、もうわたくし自身が傍観者でした(^^)。そのさまざまな批評のなかで、今でも胸にあたためている言葉は「水の詩人」と「耳の詩人」の二つです。
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May 12, 2009

日本の美術館名品展

fujita
レオナルド藤田「私の夢」・1947年・新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵

 
 11日、新緑の快晴の午後に、上野の東京都美術館で観てきました。

 日本全国の公立美術館100館が参加し、そこに所蔵された膨大なコレクションから220点を選び一堂に公開。これは公立美術館のネットワーク組織「美術館連絡協議会」の創立25周年を記念して開催された展覧会でした。西洋絵画50点、日本近・現代洋画70点、日本画50点、版画・彫刻50点の220点!!が集合していました。


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川上澄生「初夏の風」1926年・栃木県立美術館蔵


 しかしながらこの展覧会は正直言って疲れました。時代はほぼ第一次世界大戦以前から、第二次世界大戦後までの時代に渡り、西洋美術から日本美術まで広範囲であって、画家の人数も数えきれません。順路に沿って絵画と彫刻を見ながら、繰り返し意識の転換を要求されるようで、溺死状態の鑑賞と相成りましたが、言い替えれば浮遊(あるいは彷徨?)状態とも言えるかも知れませんね(^^)。


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マルク・シャガール「オリジュヴァルの夜」1949年・高知県立美術館蔵


・・・・・・というわけで、観終わってから、地方の美術館にはあまり行ったことがなかったなぁーということに気付きました。招待券をプレゼントして下さった方にお礼を申し上げます。
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Apr 24, 2009

桜さくらサクラ・2009―さようなら、千鳥ヶ淵―

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 (奥村土牛・醍醐)

 すでに23日午後の「千鳥ヶ淵」は桜がすべて散っていました。快晴の空の下、水辺の美しい新緑の並木道を歩いていると、桜の蘂が敷き詰められている道は足裏にやわらかく花の終わりを伝えていました。そこを歩いて「山種美術館」に行ってまいりました。そこには「桜」の絵画50点が待っていてくださったのでした。

   さまざまの事おもひ出す桜かな    芭蕉

 遠い昔から、誰にでも「桜」の思い出はあるでしょう。その思い出がたった1人で抱えあたためるものであったり、共有者がもう1人いたり、多くの人々との共有であったりと、さまざまなものとなるのでしょう。

 さらに絵画の魔術は、山一面の桜を一斉に咲かせることさえできること、また一輪一輪を丹念に描き出し、さながら浮き彫りのごとく桜を見せることさえ出来るのだと思うのでした。

sakura2009-1
(橋本明治・朝陽桜)

sakura2009-2
 (川端龍子・さくら)

 山種美術館が千鳥ヶ淵に隣接していたことから、千鳥ヶ淵に因んで「桜」をテーマにした展覧会は、毎年行われていました。しかし、今年10 月に広尾への移転にともない「桜さくらサクラ展」も最終回だそうです。リクエストの多い桜を描いた作品を約50 点を展示して、最後の「桜さくらサクラ」美術展でした。このくらいの作品数が1回の美術展では、とても適当な点数だと思いました。それからテーマが統一されていることも、大変に心休まる展覧会でした。

主な出品作品は、以下の通りです。

菊池芳文《花鳥十二ヶ月》
渡辺省亭《桜に雀》
川合玉堂《春風春水》
菱田春草《桜下美人図》
小林古径《清姫・入相桜》
土田麦僊《大原女》
奥村土牛《吉野》《醍醐》
小茂田青樹《春庭》
速水御舟《夜桜》
東山魁夷《春静》
守屋多々志《聴花(式子内親王)》
石田武《千鳥ヶ淵》
加山又造《夜桜》・・・・・・・・・ほか約50点 でした。
Posted at 15:34 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Apr 11, 2009

国立トレチャコフ美術館展  忘れえぬロシア

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(忘れえぬ女・イワン・クラムスコイ・1883年)

 桜の散りはじめた、あたたかな9日の午後に、澁谷Bunkamura ザ・ミュージアムにて、寒い国の静かな絵画たちに会いに行ってまいりました。おだやかな空間のなかで、しばしの時間を過ごしました。

 ロシア国立トレチャコフ美術館は12世紀の「イコン」からはじまり、約10万点の所蔵作品があります。この美術館の創設者「パーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)」はモスクワの商家に生まれ、紡績業で成功して、その利益を社会に還元しようと数多くの慈善事業を行ないましたが、とりわけ力を注いだものは「ロシア芸術家によるロシア美術のための美術館」であり、あらゆる人に開かれた公共美術館の設立でした。トレチャコフは1880年代から自宅の庭に立てたギャラリーでコレクションの一般公開を始め、1892年には亡くなった弟のヨーロッパ絵画の収集品と併せてコレクションをモスクワ市に寄贈しました。彼の死後、住居も展示室へと改装されて、ワスネツォフの設計による古代ロシア建築様式の豪奢なファサードが建てられ、20世紀初頭には現在のような姿になり、ロシア革命後、国に移管されました。

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(鳥追い・ワシーリー・ペローフ・1870年)

 国立トレチャコフ美術館の所蔵絵画のなかで、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシア美術の作品は、同時代を生きた創始者トレチャコフがとりわけ熱心に収集したものです。この美術展は、その所蔵作品の中からロシア美術の代表的画家、レーピンやクラムスコイ、シーシキン等、38作家による75点の作品を紹介しています。このうち50点以上が日本初出品だそうです。19世紀半ばからロシア革命までの人々の生活や、壮大なロシアの自然、美しい情景を描いた作品と共に、チェーホフ、トルストイ、ツルゲーネフ等の文豪の肖像画も加えて構成し、リアリズムから印象主義に至るロシア美術の流れを追う展覧会でした。革命までの歴史は以下のとおり。

1904  日露戦争(-05)
1905  第一次ロシア革命、血の日曜日事件
1914  第一次世界大戦勃発(-18)
1917  ロシア革命、ロマノフ王朝の崩壊

 19世紀から20世紀前期のロシアは、まさに歴史に残る偉大な芸術家の出現した時代だと言っても過言ではないような気がします。音楽では、アレクサンドル・ボロディン、モデスト・ムソルグスキー、ニコライ・コムスキー=コルサコフ、ピョートル・チャイコフスキー、セルゲイ・ラフマニノフ。文学では、イワン・ツルゲーネフ、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、アントン・チェーホフなどなど。

《追記》

huyu-nico
(冬・ニコライ・ドゥボフスコイ・1884年)

この↑絵画を行きつ戻りつしながら、何度も見つめてしまいましたが、この絵は「モネ」の「かささぎ」にとてもよく似ていました。「かささぎ」は彼がフランスのエトルタに滞在していた1868年の冬に描かれたようです。

mone-kasasagi
(かささぎ・モネ・1868年)
Posted at 02:27 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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