Apr 28, 2008

没後50年 モーリス・ド・ヴラマンク展

Vla-mizu(川の辺り・一九一二年)

Vla-rose(花・クリスマスのバラ・一九三一年)

 二十三日午後、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館にて、「ヴラマンク展」を観てきました。「 モーリス・ド・ヴラマンク(一八七六年~一九五八年)」の画家の道に入るまでの経歴はちょっと変わっています。パリで音楽教師の子として生まれましたが、十六歳の時には家を出てシャトゥーに行きます。十八歳の時に結婚し、自転車選手をしたり、オーケストラでバイオリンを弾いて生計を立てていました。独学で絵を学び、一九〇〇年、シャトゥー出身の画家、アンドレ・ドランと偶然知り合って意気投合し、共同でアトリエを構え、画家として本格的な活動を開始しました。

 ゴッホなどの影響から、鮮やかな色彩と骨太な筆致を学び、マティスやドランなどと共に「フォーヴィズム」の中心人物として評価されました。第一次世界大戦後は「フォーヴィスム」から離れて、ポール・セザンヌの影響を受けて、構図に変化がおこり、沈んだ色合いの作品に変わり、画家を志してから約二十年後には、独自の画風を確立しています。しかし決して抽象画へ移ることのない画家だったようです。

 風景画がほとんどで、次には静物画、人物像は自画像一枚だけでした。(これは今回の展覧会にあったものだけの印象ですので、「ヴラマンク」の全作品についてはわかりかねます。)繰り返し、よく似た構図の村の風景があったり、それには季節があって、その上の空の描写には深い思いいれがあるようでした。それは雲と光の作り出す、片時も静止することのない流れる風景です。人間が日々空に囲まれて生きていることを、改めて思うのでした。

 空に対して、地上には水がありますね。そこには逆さまの風景が映る。そして揺れる。日常の親しい風景、揺れる、あるいは流れる感覚が絵画になったようでした。
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Apr 24, 2008

つぐない

tugunai

監督:ジョー・ライト

原作:イアン・マキューアン著 『贖罪』

キャスト:
ブライオニー:シーアシャ・ローハン・・・ロモーラ・ガライ・・・ヴァネッサ・レッドグレイヴ
セシーリア:キーラ・ナイトレイ
ロビー:ジェームズ・マカヴォイ


 まずは、フィリップ・クローデルの小説「灰色の魂」から引用したい言葉があります。

 『人はひとつの国に暮せるように、悔恨のなかで生きられるものだということだ。』

 この映画の舞台は第二次世界大戦前のイングランド。ある政府官僚一家には、大学を卒業したばかりの美しい長女「セシーリア」と、作家を夢みる十三歳の次女「ブライオニー」の二人の娘がいる。二人は共に、使用人の息子で幼なじみの「ロビー」に恋していたが、彼はまだ幼い「ブライオニー」の気持には気付かずに、「セシーリア」との恋におちる。

 そんな折に、屋敷内で「強姦事件」が起きる。被害者は屋敷に同居していた親戚の娘。その強姦犯人が「ロビー」だと「ブライオニー」が偽証する。十三歳の少女の嫉妬がここまでの大きな罪を犯してしまう。。。しかしここでちょっと疑問なのは、この十三歳の少女の証言だけで、彼が刑務所に入ることだ。政府官僚の娘の証言がそこまでの力を持っていた時代だったのだろうか?しかしこの「偽証」が「つぐない」というドラマの出発点の役割は果たしているのだ。なんとも居心地が悪いなぁ。。。

 そして時代は急速に第二次世界大戦に突入してゆく。刑務所よりも戦場を希望した「ロビー」は、当然困難な兵役につくことになるが、「セシーリア」に束の間逢える時間はわずかに持てた。ここで思いがけなく、古いロシア映画(一九五九年作)「誓いの休暇」を思い出す。

 成長して看護婦になった「ブライオニー」は二人の前で謝罪をするが、彼は汚名が晴れないままに戦病死。姉も戦禍で死亡する。二人に赦されないままに「ブライオニー」の罪は生涯のものとなる。生き残った彼女は作家となるが、いのちの汀で絶筆とも処女作とも言える小説のなかで、すべてを告白する。「墓場まで持っていく秘密」とはしないことがキリスト教的な考え方なのか?その老作家を演じたのが「ヴァネッサ・レッドグレイヴ」・・・素敵な老女優(^^)。。。

 ざっと、あらすじはこのようなものですが、映画を観終わってから、しばし考えました。この映画のメイン・テーマはなんだったのか?戦争が「ブライオニー」の「つぐない」を阻んだ?「戦争」という人類最大最悪の罪と、十三歳の少女の犯した罪とが、秤にかけられるものではない。これが小説だとすると、「戦争」は時代背景にすぎないのか?この戦争が一人の少女をどのように成長させていったのか?ということが中心ではなく、戦争と少女の偽証とが、恋人たちの運命を翻弄し、そして殺した、ということだろうか?

 原作がどこまで書きこんでいるのかは未読なのでわかりかねる。「ブライオニー」の生涯がこの映画だけでは見えにくいようだ。多くの小説や映画の背景には「戦争」がある。言い換えればそれほどに人間の歴史は戦争の歴史かもしれないのだ。その歴史のなかに、もみくしゃにされ、ひきちぎられた一通の手紙のように十三歳の少女の罪が暗い風のように時間を覆っていたようだった。

 第八十回アカデミー賞作曲賞受賞作品
 本年度アカデミー賞の作品賞候補作

【追記】

 ある先輩女性詩人の言葉も思い出しました。「あなたは悪意の言葉に傷つけられた。その原因がわからないと?一番わかりやすい原因はあります。それは大方は嫉妬です。」その時は驚きましたが、やがて納得しました。なんだか思い出すものの方が多かったようですね。
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Apr 13, 2008

イタリアの詩人たち    須賀敦子

itaria

 この本は、須賀敦子が選んだ、十九世紀から二十世紀を生きた五人の詩人についてのエッセーであり、それぞれの代表的な作品の紹介ともなっています。彼女の細やかな、そして真摯な眼差しが感じられる心地よい文章です。しかしながら読み手のわたくしはそこに紹介されている詩の原文にあたることはできない。「完璧な韻律」と言われても、わたくしは須賀敦子によって日本語に翻訳された詩を読むしか手立てがない。これがもどかしい。


 ウンベルト・サバ(一八八三年~一九五七年)

 「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら・・・・・・なにげなく選んだ道を、サバと歩くことができたなら・・・・・・」と、一九五八年(サバの亡くなった翌年。)に言ったのはジャコモ・デベネデッティだが、その同じ思いを抱いて須賀敦子は「サバ」について書きはじめる。この思いが彼女のエッセー「トリエステの坂道」にも繋がっているのだろう。
 「サバ」はヘブライ語で「パン」を意味する。母親はユダヤ人だったが、彼女は「サバ」誕生の前に、「美しくて軽薄な」白人の夫に捨てられ、幼い「サバ」はこの町のゲットーで育つ。父親のイタリア名はすすんで捨てて、「サバ」というペンネームとする。
 彼の詩作の源泉は「トリエステ」と妻の「リーナ」、時代に遅れた詩人と見られる傾向もあり、ユダヤ人であることの孤独などから、孤高の詩人でもあったが、須賀敦子は彼の貧しさのなかで育った誠実なやさしさ、韻律の美しさに注目した。


 ジョゼッペ・ウンガレッティ(一八八八年~一九七〇年)

 「ウンガレッティ」はエジプトのアレキサンドリア生まれ。両親はルッカ(トスカーナ)出身。二歳で両親を亡くし、二十四歳でアレキサンドリアからパリに出る。「アフリカ人」の彼が、フランス文化とイタリア文化の坩堝に巻き込まれることになる。「ウンガレッティ」の詩作は彷徨し、姿勢が整わないままに、ヨーロッパは第一次大戦の舞台と変わる。この「死の時代」のなかで皮肉にも彼の詩は生命に肉迫するものとなる。そうして新しいイタリア詩の誕生を迎える。季節をめぐるように「ウンガレッティ」の詩作は充足の秋へと向かう頃に兄を失い、九歳の息子を失う。「死は生きることで贖われる。」と、二十八歳の「ウンガレッティ」は戦場でうたったが、秋の終わりには「挽歌」とともに、詩人の冬の季節が来てしまった。


 エウジェニオ・モンターレ(一八九六年~一九八一年)

 オペラ歌手を目差したこともあった彼は、彼の詩の重要な特徴となった音楽的ともいえる韻律として詩のなかに活かされている。さらにフランス語、スペイン語、英語 などを独学で学び、外国文学を原語で親しんでいる。音楽評論、外国の詩のイタリア語訳など、彼の活動の範囲は広く、それが詩人「モンターレ」の豊かな土壌ともなっている。
 一九三八年に、ファシスト政党党員になることを拒否。翌一九三九年に出版された第二詩集「機会」は、前線に送られた若きインテリ兵士の限られた荷物のなかには、しばしばこの詩集があったという伝説をもつ詩集となっています。

 彼は「サルヴァトーレ・クワジーモド」とともに「ノーベル文学賞」受賞者でもあるが、「サルヴァトーレ・クワジーモド」の受賞は否定論者が多かったのに対して、「モンターレ」の受賞は否定論者はなく賞賛されている。
 また、人生の大半を精神病院で過ごした「ディーノ・カンパーナ」の死後の評価はさまざまに拡散するばかりであったが、その彼に確固たる評価を与えたのも「モンターレ」だった。


 ディーノ・カンパーナ(一八八五年~一九三二年)

 「ディーノ・カンパーナ」は精神分裂病者で、生涯の大半を放浪と病院で過ごしていることによって、彼の二十世紀詩人としての存在そのものが特異なものとなっています。この難しい詩人に向き合い、須賀敦子は粘り強く彼の作品と生涯を書いていらっしゃいました。「ディーノ・カンパーナ」がこの地上に残した詩集は「オルフェウスの歌」(自費出版である。)一冊だけであったが、彼の残したものの特異ともいえる大きな存在感は、のちのち文学評論家を迷わせるものとなる。
 死後「オルフェウスの歌」は再評価され、復刻されます。さらに「初稿」「未完詩集」、「評伝」「注釈」など、続々と出版されます。須賀敦子は最後にこのように記しています。

 『彼は狂気に守られて、純粋詩の世界だけを追求することができた、数少ない幸福な詩人であったとさえいえるのではないか。その意味からも、彼は、やはり《見者》の群に属する、光彩を放つ存在だったと、私は考えたい。そして《見者》はいつも不幸である。』


 サルヴァトーレ・クワジーモド(一九〇一年~一九六八年)

 さて。須賀敦子も苦しみつつ書いているようで、この詩人の評価は難しい。「ノーベル文学賞」受賞者ではあるが、この受賞そのものが不評であったという詩人です。
 シチリア島のラグーサという小さな町で、駅長の子として生まれる。文学仲間に出会うのはパレルモの中学時代。その出発点からスムーズに一九三〇年詩壇に登場してゆくことになる。幸運ともいえる道筋だったように思えます。しかし須賀敦子の「クワジーモド」への言及には厳しい言葉が並ぶ。何故か?

 「クワジーモド」は詩壇で、それ相当の評価をほぼ持続的に維持していたが、いつでも「疑惑」がついてまわった。それは彼の作品の言葉の美しさとは裏腹に見えてくる、ものごとの本質性に対する徹底した無関心による非情さだった。
 彼にも戦争は無縁ではなかった。しかし戦前の若い時代のみ、彼の詩は熱く息づいていたが、戦後の「クワジーモド」は「水子の儚さにも似た世界にしかもとめられない。」ような「夢の職人」だったという厳しい言及となっていました。


 *   *   *   *   *

 以上五人のイタリア詩人について読んできましたが、読了後に驚かされたのは、このタイプの異なる詩人たちの生涯についてよりも、須賀敦子が詩人をみつめる時のやさしさと同時にある「厳しさ」の方でした。それは「権威」に阿ることのない視線の確かさだったように思います。

(一九九八年・青土社刊)
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Apr 11, 2008

ゆずり葉 

9

 人間の三歳までの記憶は確かなものではないだろう。祖父母や父母が長い時間をかけて語り続けた物語のなかで、わたくしの三歳までの記憶は確かな形として支えられてきたのではないだろうか。それほどに大人たちが語り続けたことの意味が、今のわたくしにははっきりとわかる。三歳になってから、やっと歩き出したわたくしが一家にとっての戦後の復興の具体的な形であったということだ。歩きはじめた小さないのちは、きっと家族の希望の形をしていたはずだ。この思いに何度も帰りながら、わたくしはとにかくここまで生きてきたようだ。

 三月十一日、息子のところに第一子が産まれた。男児である。十二日に娘と共に病院に会いに行く。初対面を果たして、娘と息子と三人でイタリア・レストランにて、早々の、即席のワイン付きの祝宴となった。このメンバーで話す機会もおそらく長い間なかったことだ。

 息子は父に、娘は伯母になったわけだ。その娘の話を聞きながら胸があつくなった。娘曰く「大人になってから、双方のおじいちゃん、おばあちゃん、それからおばちゃん(わたくしの姉。五六歳で亡くなった。)と、わたしを可愛がってくれた人たちを失うばっかりだった。人間はみんなこうしていなくなってしまうのだと思っていたの。でも甥っ子と対面して、やっとその思いから開放された。このようにあたらしいいのちの誕生があるのね。」と。。。

ちちははを送りしのちの春の児よ    昭子

この「河井酔茗」の詩は、娘の小学校の国語の教科書に載っていたものです。覚えているだろうか?


ゆずり葉   河井酔茗

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずってー

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー。

世のお父さん,お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの,よいもの,美しいものを,
一生懸命に造っています。

今,お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい,花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。


子供たちにゆずられるもののなかに、武器や爆弾がないことを祈ります。
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Apr 05, 2008

モディリアーニ&ガレ

modigliani   gare-ranp
  (若い娘・モディリアーニ・1917年頃)        (ランプ「ひとよ茸」・ガレ)

 四月のあたたかな午後に「国立新美術館」で「モディリアーニ展」を、さらに徒歩五分ほどで行ける「サントリー美術館」で「ガレとジャポニズム」を観てきました。至近距離とはいえ、「梯子」は「基軸を変える。」という精神的な作業がありますので、やはりちょっぴり疲れました。どちらを先に観るか?も問題点・・・・・・わたくしは迷わず「モディリアーニ」を主張、これに決まりました。すみませぬ。

 「モディリアーニ展」を観て、画集や絵葉書や小物などを購入。美術館を出てから最初の言葉は「よかったね。」でした。何故よかったのか?シンプルで地味な服装の女性が美しく描かれている。アンバランス、細長い顔立ちでありながら、そこからこちらに流れ込んでくるものは「しずかなやさしさ」「やすらぎ」のようなもの。また同行者の言葉をお借りすれば「画家もモデルも主張しない静かさ。」だろうと思います。あるいは寂しさ、哀しさ、すべてが静かにそこに在る。一人の女性として。画家はそこに主張を流し込まない。モデルから静かに溢れてくるものを受け止めて描いているようでした。

 さらのその時代は、画家は「サロン」から「画商」によって育てられ、方向性を示される時を迎えていました。生活のため、あるいは健康上の理由から、モディリアーニは彫刻を断念、油絵に移行、またその絵画の歴史には何度かの影響の変化、絵画の変化もみられます。下記のような「モディリアーニ」の絵画の変遷の結果に生まれた作品が、どなたでも思い浮かべるあのやさしい女性像ではないでしょうか?

一章・プリミティヴィスムの発見:パリ到着、アレクサンドルとの出会い
二章・実験的段階への移行:カリアティッドの人物像ー前衛画家への道
三章・過渡期の時代:カリアティッドからの変遷ー不特定の人物像から実際の人物の肖像画へ
四章・仮面からトーテム風の肖像画へ:プリミティヴな人物像と古典的肖像画との統合


 「エミール・ガレ」ですか?上のきのこのランプを将来において、買い取るつもりです。ゆめゆめ忘るることなし。忘るることなかれ(^^)。彼の日本美術への傾斜は想像を超えていました。生物学者でもあった「ガレ」の生き物、植物への視線は細密でもありました。下絵から立体へ移す創作作業の見事さに沈黙。。。
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