May 30, 2007

あなたが、いなかった、あなた  平野啓一郎(2)

07-5-23sinryoku2

 あのね。啓一郎クン。あなたの若さと多彩な才能は認めますけど、「これでもか。これでもか。」と一編づつ書き方変えなくてもいいでしょ。お母さんはとっても楽しかったけど、とっても疲れました。「僕って、こんなにいろいろな書き方ができるんだよ。」と言いたいのかどうか邪推はいたしませんが、若き作家の立たされている苦しい位置をひしひしと感じました。それとも楽しんでいるのでしょうか?それなら安心しますけど。。。(1)ですでに冒頭作品について書きました。その他に十編収録されています。気がついたことだけメモします。

「鏡」はたった一行の作品です。「私がいない間にも、私の不在を生真面目に映し続けているのだろうか?」これだけ。リチャード・ブローディガンの詩集「ロンメル進軍」を何故か思い出します。

 「フェカンにて」はほとんど自画像でしょう。日本での多忙なスケジュールをこなして、「フェカン」への旅に出る。勿論仕事をかねての旅だが、その海辺の断崖で自殺する青年という小説の構想を固めるための旅のようでもある。彼の小説の構想源は若く絶えることがない。時にはあやうく主人公と同化する。しかし構想を捨てることにも躊躇いがない。

 「女の部屋」は言葉のジグゾー・パズルです。藤富保男の詩法に似ています。

 「クロニカル」。これは作家に対する女性の語りだけで構成されています。二人の恋人について語っているだけです。これもまた、リチャード・ブローティガンの遺作「不運な女」を思い出しますね。

 「母と子」。これは双六的小説形態です。二段組の各ページの文章の下には(1-1~16)というような番号が付けられて、それを追って読んでいきます。それは四種類のストーリーとなっています。その四つのストーリーは似ていますが、細部が微妙に変わります。それは、多分これから子供と共に家を出ようとしている母親の逡巡、あるいは死への誘惑、それらをこうした文体構成にしたのでしょうか?
 この小説の(1-1)の舞台設定は公団住宅がコの字型に取り囲む駐車場と公園から始まります。その高層住宅の同じ形のそれぞれの窓辺に、ひっそりとあるかもしれない、ありふれた日常のなかの出来事なのでしょうか?

 「慈善」。この作品がこの一冊のなかで、一番小説らしい(?)作品ですね。四二歳の妻、中学生、小学生、幼稚園児の三人の娘がいる、文房具メーカーに勤める四六歳の男。中流家庭の経済の動きと、国外のテロが引き起こす経済の動きが、実は繋がっているようで、どこかでずれてしまう感覚を何気ない様子で書いています。


 「あなたが、いなかった、あなた」というタイトルはどこから生まれたのでしょう?「あなた」とは誰ですか?この十一篇の小説のなかで、ついにとらえることのできなかったひとのことでしょうか?「書く」ということは「あなた」をさがす旅なのでしょう。
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May 24, 2007

あなたが、いなかった、あなた  平野啓一郎(1)

07-5-18buranko

07-5-23sinryoku

 万緑の五月、家を出る度に、風花が舞うようにふわふわとやわらかく漂っているものが見える。それはタンポポをはじめとする、さまざまな野花の綿毛が飛んでいるのだ。音もなくわたくしのからだのまわりをすり抜けてゆく。これは「死」でありながら、次の「生」への営みであり、その「生」への確率がきわめて低いゆえに、綿毛たちはおびただしい数となって風に乗る。行き先の選択もできないままに。。。

 この季節に、平野啓一郎の短編集「あなたが、いなかった、あなた」を読んでいる。その冒頭の作品は「やがて光源のない澄んだ乱反射の表で・・・・・・/『TSUNAMI』のための32点の絵のない挿絵」は、三二ページの一ページ毎に「文字で表現された絵」がページの下の部分に横書きされて置かれているというレイアウトになっている。
 この物語は、中年初期にさしかかった主人公の男性のからだから、「砂」が少しづつこぼれ落ちる現象が表れるということから始まる。少年期に見た祖父母や父母もおなじことが起きたと回想する。その「砂」への処し方がその人間の生き方であったかのように。。。恋人(主人公より三歳年上。)との性愛の時間にも、その二人のからだから、おびただしい「砂」が降るというのだ。いのちは成熟する。その成熟の頂点を終える時、いのちは繰り返し降りつづける「砂」となってゆく。。。

   ふたりの上に砂嵐が
   いくにちも いくにちも 吹いて
   わたしたちが
   そこに眠りながら
   次第に埋もれてゆく風景を思う  

   (砂嵐・高田昭子/抜粋)

 誰の詩だったろうか?老父が風呂に入ると、浴槽につかった老父の首のまわりから、白い粉のようなものが水面に拡がってゆく、という詩があった。そしてわたくしも、かつて老父母の介護の時期に、それぞれのからだから降る白い粉を幾度か見たことを思い出す。人間のいのちとは固体のようでありなから、実は「砂、あるいは粉」の集合体にすぎないのではないか?とふと思う。「風化」という言葉がわたくしのなかをよぎる。

 今朝もベランダに出ると、野花の綿毛たちが風の行方を知らせてくる。五月・・・いのちの交代は絶え間なく続くのみだ。子供が産まれて三十余年の歳月を育ちゆくいのちと共に暮らし、反面死者を看取る日々もそこにあった。若いいのちとの暮らしに別れを告げ、新しい住処に移住して、約一ヶ月が経った。

 (二〇〇七年・新潮社刊)
Posted at 13:09 in book | WriteBacks (0) | Edit

May 17, 2007

ストリングス~愛と絆の旅路

strings

監督:アンダース・ラノウ・クラーランド(デンマーク)
日本語版監督:庵野秀明
脚色:長塚圭史
配給:エイベックス・エンタテイメント+ジェイ・ドリーム
制作:ジェイ・ドリーム

 ストリングス(strings)とは弦楽器のことであり、(string)は弦の意味です。このタイトル通り、映画はあやつり人形を使ったドール・ムービーでした。そしてさらにこの(strings)とは、この映画の大きなテーマ「愛と絆」ともなっています。ここに登場する人間(人形?)たちは、生まれた時(それはあたかも、願いを込めてピノッキオを作ったジェベットおじいさんの思いに似て。)、天から降ろされる紐(弦あるいは絆)を手足や頭に繋ぐことによって、はじめていのちを吹き込まれるのです。ですから「死」とはこの紐を切られるということになります。それぞれのいのちは天に守られているということです。ここが、今までのあやつり人形劇には見られなかった視点と言えるかもしれません。

 しかし、天から降ろされるこれらの膨大なあやつり紐は、絡み合えば、地上の人間の混沌を生むことにもなります。この映画の制作過程もデンマークで一旦出来上がって、カンヌ映画祭で上映されて、それを観た庵野秀明監督が「ジャパン・バージョン」編集したという経緯があります。この経緯によって、観る者は物語の筋道にわずかに迷うことになるのです。

   物語の舞台は権力争いの絶えることのないへバロン王国。国王カーロはそれを嘆き、王子ハル・タラに国の平和を託して自害しますが、それは反国王派による暗殺であるという誤解によって、王子も観る者も混乱と殺戮とに向かってしまうのです。王子の妹ジーナ姫は幽閉の後紐を切られます。そして戦いの旅で出会い、王子が愛する異民族の娘ジータの住む豊かな緑の森が焼き払われ、多くの戦死者が出たあとでやっと戦いの日々は終わります。神の絆では守るきることのできない地上の平和の困難さを観る思いです。

 映画館を出た後に見た、うつくしい夕焼け。天の紐は見えません。。。

07-5-15yuugure

 この映画は五月十五日、さいたま新都心駅前の「MOVIXさいたま」という映画館で観ました。この「MOVIX」を都心周辺地で見かけるようになったのは最近のことのように思います。たとえば新しい電車の路線が出来る、そして新しい駅が出来る、その駅に大きなショッピング・モールが展開される。そこに参入しているのが、どうやらこの「MOVIX」のようです。一五〇人から二〇〇人ほどの座席数のある映写室が十数室並んでいて、それぞれの映写室でそれぞれの映画を選んで観られるというシステムです。上映期間もいわゆる今までのロードショウのように長くはない。おそらく映画フィルムが映画館を回るというシステムではなく、巨大DVDなのでは??
Posted at 15:04 in movie | WriteBacks (0) | Edit

May 16, 2007

とりかえばや、男と女  河合隼雄

torikaebaya

 「とりかえばや」という古い日本の宮廷物語がある。姉が男子として、弟が女子として育てられるというお話です。このような物語は時を超えて世界中にあるのは何故でしょう?それはとりあえず簡単に言ってしまえば、かつてさまざまな「神話」から生まれた人間の男女の在り方が、ほとんど「男尊女卑」を基底にしているからではないでしょうか?(無茶な言い方ですね。申し訳なし。。。)

 例として、旧約聖書における「女性が男性のあばら骨から生まれた。」という説だけではとどまらないのです。タイのカレン族では「世界の初めに仏陀が一人の男をつくり、その男のふくらはぎから男女の一対が生まれた。」とあり、ジャワの神話では「創造主は男を作ったあとで粘土がなくなり、月の丸み、蛇のうねり、蔓のからみ、草のふるえ、大麦のすらりとした形、花の香り、木の葉の軽やかさ、ノロ鹿のまなざし、日光の快さとたのしさ、風のすばやさ、雲の涙、わた毛の華奢なこと、小鳥の驚きやすいこと、密の甘さ、孔雀の虚栄心、燕の柳腰、ダイアモンドのうつくしさ、雉鳩の鳴き声、これらを混ぜ合わせて女を作り、男に妻としてあたえた。」とあります。ふぅ~。書き写すだけでも大変なこと。なんと女性は多くのものを神から与えられたのでしょう。しかし、どのような神話も「女性が産む性」であり、いのちの源であることには逆らえないのです。神話とはどうしてこのように作られたのでしょうか?

 それらの神話によって社会的権威、あるいは家族的規制も成り立ってきたのです。その基底に揺さぶりをかけるために、物語の書き手たちはさまざまな形で「とりかえばや」を書きついできたのではないでしょうか? 

  オウィディウス「変身物語」
  山本周五郎「菊千代抄」
  岡本かの子「秋の夜がたり」
  ラディン・ケレーニイ・ユング「トリックスター」
  シェイクスピア「十二夜」
  塩野七生「女法王ジョヴァンナ」

 河合隼雄は、主に上記の物語を手掛かりとして、また吉本隆明、富岡多恵子との対談なども紹介しながら、「男性」と「女性」という存在が、くっきりと二極分化できない関係であるということを主題として書いていらっしゃいます。また精神科医としての見解も交えながら、わかりやすく書いて下さった著書でした。

 (平成六年・新潮文庫 かー27-1)
Posted at 22:44 in book | WriteBacks (0) | Edit
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