May 16, 2007

とりかえばや、男と女  河合隼雄

torikaebaya

 「とりかえばや」という古い日本の宮廷物語がある。姉が男子として、弟が女子として育てられるというお話です。このような物語は時を超えて世界中にあるのは何故でしょう?それはとりあえず簡単に言ってしまえば、かつてさまざまな「神話」から生まれた人間の男女の在り方が、ほとんど「男尊女卑」を基底にしているからではないでしょうか?(無茶な言い方ですね。申し訳なし。。。)

 例として、旧約聖書における「女性が男性のあばら骨から生まれた。」という説だけではとどまらないのです。タイのカレン族では「世界の初めに仏陀が一人の男をつくり、その男のふくらはぎから男女の一対が生まれた。」とあり、ジャワの神話では「創造主は男を作ったあとで粘土がなくなり、月の丸み、蛇のうねり、蔓のからみ、草のふるえ、大麦のすらりとした形、花の香り、木の葉の軽やかさ、ノロ鹿のまなざし、日光の快さとたのしさ、風のすばやさ、雲の涙、わた毛の華奢なこと、小鳥の驚きやすいこと、密の甘さ、孔雀の虚栄心、燕の柳腰、ダイアモンドのうつくしさ、雉鳩の鳴き声、これらを混ぜ合わせて女を作り、男に妻としてあたえた。」とあります。ふぅ~。書き写すだけでも大変なこと。なんと女性は多くのものを神から与えられたのでしょう。しかし、どのような神話も「女性が産む性」であり、いのちの源であることには逆らえないのです。神話とはどうしてこのように作られたのでしょうか?

 それらの神話によって社会的権威、あるいは家族的規制も成り立ってきたのです。その基底に揺さぶりをかけるために、物語の書き手たちはさまざまな形で「とりかえばや」を書きついできたのではないでしょうか? 

  オウィディウス「変身物語」
  山本周五郎「菊千代抄」
  岡本かの子「秋の夜がたり」
  ラディン・ケレーニイ・ユング「トリックスター」
  シェイクスピア「十二夜」
  塩野七生「女法王ジョヴァンナ」

 河合隼雄は、主に上記の物語を手掛かりとして、また吉本隆明、富岡多恵子との対談なども紹介しながら、「男性」と「女性」という存在が、くっきりと二極分化できない関係であるということを主題として書いていらっしゃいます。また精神科医としての見解も交えながら、わかりやすく書いて下さった著書でした。

 (平成六年・新潮文庫 かー27-1)
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