Sep 20, 2005

千々にくだけて   リービ英雄

tizi-ri-bi

 この「千々にくだけて」というタイトルは、芭蕉の松島を詠んだ句「島々や千々にくだけて夏の海」からとられているようだ。これが最初に登場するのは、ヘビー・スモーカーの主人公エドワードが禁煙の飛行機の窓外に広がる島々を見て、苦し紛れに思い出したものである。禁断症状のなかで、その言い難い心身状況を、日本語の句と、その米語訳との混線のなかにあらわしているようです。しかしそれはやがて彼のその後に起こる出来事の予兆ともなったようです。

 エドワードは米国人だが、日本に住み日本語で著書を書いている。その彼が忙しい仕事の合間をぬって、米国の母親と妹に会いにゆくために飛行機に乗る。ヘビー・スモーカーの彼は、長時間の直行便に乗ることが出来ず、乗り換えを入れる便にわざわざ乗ったのだが、それでもその禁断症状はすさまじく「嗅ぎ煙草」「噛み煙草」など、わたしがまるでしらなかったものが登場してきて驚かされた。

 しかしエドワードの乗った飛行機が米国に着く前に、あのニューヨークの「9・11事件」が起きたのである。「深夜でもいいから、ニューヨークの妹のところに帰りたいのだが。」が「今夜なら徳川時代の日本に上陸できるか。」に変換されそうな錯覚におちいるほどにエドワードの二国語が混乱をはじめることになる。

 エドワードは飛行機を降り混乱する空港を抜けて、足止めを余儀なくされて入国したところはカナダであった。バンクーバーのダウンタウンのホテルにようやく入ったものの、彼はテレビ・ニュースを見たり、消したりを繰り返し、母親と妹との困難な連絡をとったりする時にも、彼の二国語の混線はますますくっきりと浮き彫りされてゆくのである。

 民族の坩堝のような大国に起きる大惨事は、複雑な多面性を持つものだからとても言い切れるものではないだろう。さまざまな肌の色、さまざまな言語、さまざまな世代とその親族、宗教、思想、どこからも切り込めない問題を抱えたまま、人々の心に長く重くいだかれてゆくのだろう。そしてその惨事に巻き込まれることのなかった幸運な人々もいる。そうしたさまざまな局面を、エドワードは深く深く二国語の悲しみとしてきしむのだったと思う。

    (二〇〇五年・講談社刊)
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