Jul 07, 2005

母の日傘

 我が愛する(?)おじさまから古い貴重な本をいただいた。「をんなの四季―中村汀女、昭和31年・朝日新聞社刊」、汀女書き下ろしのエッセー集である。俳句はそのなかに配されている。つまり俳句の成り立ちがわかる仕組になっているのだ。
おじさま曰く「句集よりもこういう本がいいね。読者と書き手との自然な対話が成立する。」読みながらこの言葉を納得しました。主婦としての汀女の日々の出来事が丁寧な描写とおだやかな感性によって、とても美しい文章になっている。汀女は明治33年(1900年)生まれ。熊本第一高女卒。昭和63年(1988年)没。虚子の主宰する句誌「ホトトギス」が女性俳人輩出のために設けた投句欄「台所雑詠」から誕生した俳人の一人である。

この本のなかには、句会に出席してもいつも途中で抜け出して急いで帰宅する汀女がいる。それに不満や無念を抱きながらも、家族の夕餉を整えられたことに安堵する彼女もいる。また幼い子供が重い病にかかり、病院で手厚い治療を受けている最中、罪の意識にかられながらも、それを書かずにはいられない汀女がいる。静かな病室では鉛筆の音さえ響くのだった。

季節柄「日傘」にまつわる一文について書いてみよう。
炎暑のなか、日傘をさした見知らぬ母子の姿に出会う。その必死な姿に、汀女は自らの若い母親だった頃を思い、遠い土地に暮らす娘もこんなであろうかと思い、さらに母上の日傘の思い出へと、その想いの道のりを伸ばしてゆく。
麦刈りに忙しい村に帰省した汀女が、日傘をさした母上と別れてふたたび戻ってゆくときに歩くのは「堤」であった。この「堤」での別れは辛いものだ。お互いの相手の姿が見えなくなるまでに大層時間のかかることになる。しかし視力の衰えた母上の方が汀女よりもその時間が短いであろうことに不思議な安堵を覚える。「ここまで。」という地点も見つけにくい。母上が汀女と別れがたく送ってくれる道のりの長さは、母上の戻って帰る道のりの長さにもなるのだ。

そうして別れて戻ってゆく母上と汀女の間に、麦の穂束を満載した荷車が現れ、彼女は母上の後姿が見えないことにわずかに救われていた。そして村全体が麦刈りに忙しく活気に満ちていることにも救われている。手には母上と女中さんが作ってくれた車中の弁当が少し重い。

炎天を歩けばそゞろ母に似る   中村汀女
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