Nov 13, 2008

〈うさぎ穴〉からの発信 河合隼雄(その三)

jury-mane

 この本の後半部では、子供の「アイデンティティー」の確立。子供の「内的世界」と「外的世界」。特に「臨死体験」「病気」などを通過した子供の内面などについて書かれています。こうした問題は「ファンタジー」に委ねられてゆくことで、子供はなにかを見つけるのですね。読みながら思い出したのは、この「リルケ」の言葉でした。

幼年時代を持つということは、
一つの生を生きる前に、
無数の生を生きるということである。   (リルケ)


 子供は親の心配や力の及ばないところで、たくさんの心のエネルギーを持っているものです。たとえ小さくても子供は大人と同じくらいに(あるいは、それ以上に。)「生きること」も「死ぬこと」も考えることが出来るのです。(その一)で書いたように、「生」も「死」もすでに受け入れて生きているのです。「死」への不安はもちろんあるでしょう。その時、親の存在によって不安を乗り越えるかもしれませんが、そういう親ばかりではありません。子供は沈黙を守りつつ、その生きる不安と向き合うのでしょう。そこに「ファンタジー」や「アイデンティティー」が働きかけるのでしょう。それがなくて、どうして子供が生きてゆけるでしょうか?

 最後に子供時代の私事ですが。。。
 父に付いていった、ある年配の方のお葬式で、死者を密室に入れた後で、会葬者たちは一室に集まって飲食を始めました。「お父さん、あの人はどこに行ったの?」というわたくしの質問に父は「死者の火葬」の話をしてくれました。火のなかで焼かれる肉体を想像して、小さなわたくしはジュースすら飲めませんでした。大人たちは涙したり、あるいは思い出に微笑んだりしながら飲食していました。「何故、大人はこわくないのだろう?」・・・これは数年続いた疑問でしたが、両親には言いませんでした。
 それではどのように考えたか?まずは「死なない大人になる」こと。次の段階では、「大人になれば、あの火に焼かれる苦痛に耐えられるのかもしれない。」という期待。それでも納得いかない。残されたものは子供が大人になるまでの「猶予の時間」しかない、ということでした。その「猶予の時間」のなかで、どうやら小さなわたくしは「生きて」大人になったようでした。

 (一九九〇年、マガジンハウス刊)
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