Nov 24, 2008
端役たち 天野忠
破れた去年の蝿叩きをふりふり
雪積む中を
男が歩いて行く
壊れた湯たんぽを抱きしめながら
夏の炎天裡
女が歩いて行く ひとりぼっちで
野越え
山越え
……………
地獄の門の前で
彼らは しみじみと
お辞儀をした
――おかわりありませなんだか
一人が云った
――おかげさまで、どうやら
一人が答えた
それから門があいた
――おいで とやさしく
鬼の小役人が招いた。
――『動物園の珍しい動物・1966年・文童社刊』より。
詩人「天野忠(1909~1993)」の、この詩を何故か思い出した事件だった。
元厚生事務次官宅を相次いで襲撃し、三人の死傷者を出した事件である。出頭した四六歳の男性の犯人の犯行動機がよく理解出来ない。様々なその方面の評論家の話を聞いても、ニュースや新聞を見ていても、分かりにくい人間です。そして、わたくしの胸をよぎった言葉は「主役」と「端役」だった。彼はどのような形であれ、「主役」を生きようとしたのではないか?(←この解釈は犯人の犯行への擁護ではありません。念の為。)
おおかたの人間は人生の「端役」を生きているのだろう。しかしこの詩の「端役」たちは驚くほど見事なものである。男は雪の季節に、破れた去年の蝿叩きを持っている。女は炎天裡に、壊れた湯たんぽを抱いている。なんとも頓馬、間抜け、ずり落ちそうな人生の山坂を二人はそれぞれにとことこと歩いて生きてきた。その末に、やっと二人の男女は地獄の門の前で巡り合うことができたのだ。お互いに深々とお辞儀を交わし、過去など嘆くこともなく、それぞれを思いやりながら……。このようにしてしか再会することのできない男女もこの世にはたくさんいることだろう。
いのちの水際で、ひとにはほんの少しだけ、とても心の内が自由になれる時間が与えられているのかもしれない。その時間のなかに、人間は果たせるか果たせないかわからないが、できることなら果たしてみたい約束や夢を預けることがゆるされているのではないか?
最後に、天野忠はそこにやさしい鬼の小役人を登場させて、やっと読者を微笑ませてくださるのだ。その門の向こうに行った二人は、季節ごとに蝿叩きと湯たんぽを共に譲り合いながら暮らすのだろうか?地獄も悪いところではなさそうだな。
四六歳・・・まだ人生の半分しか生きていないだろう。。。
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