Dec 16, 2006

吉本隆明の読む明石海人―その2

arabunogakuzin-Odilon Redon

 何故こんな大変なテーマについて、無力なわたくしがあえて書くのか、自分でもわからないのですが、無力を承知で書くしかないとも思うのです。少しだけ明石海人についての簡単なメモも書いておきます。海人は一九〇一年生まれ、一九二六年頃にハンセン病を発病、一九三三年作歌を始める。一九三九年逝去。下記は歌集「白猫」に書かれた明石海人自身の言葉です。(抜粋)

 『第一部「白描」は癩者としての生活感情を有りの儘に歌ったものである。けれども私の歌心はまだ何か物足りないものを感じていた。あらゆる假装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思いの儘に飛躍させたい、かういう気持ちから生まれたのが第二部「翳」で、概ね日本歌人誌に発表したものである。が、仔細にみれば此處にも現實の生活の翳が射してゐることは否むべくもない。この二つの行き方は所詮一に帰すべきものなのであろうが、私の未熟さはまだ其處に至ってゐない。第一部第二部共に昭和十ニ年乃至十三年の作で、中には回想に據ったものも少なくない――昭和十四年一月、長島愛生園にて。』
 この歌集が出版されたのは二月、この年(一九三九年)の六月に明石海人にこの世を去りました。

 さて、吉本隆明は一旦は明石海人の短歌の昇華を見たようですが、さらに別の視点から考察を続けています。たとえば短歌的声調を整えてはいるが、修辞的な統合を欠いた作品が海人の短歌に頻出することが、吉本にはどうしても気がかりだったらしいのです。下記の短歌は吉本がその例としてあげた作品の一部です。

  (1)銃口の揚羽蝶(あげは)はついに眼(ま)じろがずまひる邪心しばしたじろぐ
  (2)水銀柱窓にくだけて仔羊ら光を消して星の座をのぼる

 (1)については、わたくし自身は、詩「韃靼海峡と蝶―安西冬衛(一八八九年~一九七五年)」の最後の一節である『すると一匹の蝶がきて静かに銃口を覆うた』をふと思い出しますが、この関連性については残念ながら、わたくしには裏付けはとれません。

 そして、吉本隆明は一気に明石海人の短歌から彼の散文詩へと飛ぶ。この散文詩こそが明石海人が自己についても自己の死についても、非常によく相対化されていると吉本隆明は断言しています。海人の短歌の特徴である「過剰性」は、短歌のなかに散文的な資質が内包されていたことに起因するのかもしれませんね。

 明石海人が生きた時代は、ハンセン病は絶望的な病気であり、さらに社会からの隔離、隠蔽が強いられた時代である。作歌の手法としても、過剰と思えるほどの意味づけへの欲求がありながら、それを押しとどめることを余儀なくされたという「理不尽」が明石海人の短歌の混迷を生んだのではないだろうか?ともわたくしには思えます。その理不尽の一例として。。。

  そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる
  みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

 わたくしの未熟さはわたくしが一番よくわかっていますが、それでもこれを書いておかなければ先へ進めないという思いがありますので、書いておきました。最後にこの一首を置いて、とりあえずこの項を終わることにします。

  いずくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ
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