Aug 30, 2006

博士の愛した数式  小川洋子

06-8-29seiza

 映画を観た後で、原作にあたるという体験はひさしぶりなことだった。困るのは小説のなかの登場人物と映画の配役とが奇妙なかたちでダブったり、ブレたりすることだ。それによってなかなか人物像が結べないままに読み終えたという感はわずかにあります。  しかし、まず言っておきたいことは、「映画」と「原作」はまったく別物だということです。「原作」が読者のなかで一人歩きはじめるように、「映画」も同じことではないのかな?その「原作」と「映画」との「ズレ」を、わたくしはここで指摘するつもりはまったくないので、今回は「原作」についてのみ書いてゆきます。

 ある事故によって、記憶が八十分しか持たないという優れた老数学博士は、記憶からこぼれることのなかった美しい数式にあてはめて、日々を生きている。博士の汚れのない人格はこの数式が見事に浮き彫りにしてゆく。その博士に関わることになった家政婦とその息子「√」、同じ敷地内に住む義理の姉(博士が唯一愛した女性。同じ事故に遭遇して、足が少しだけ不自由です。)たちは、たとえようもない美しい心の経験をすることになる。読む者にとってもそれは同じ経験を共有することになる。

『瞬く星を結んで夜空に星座を描くように、博士の書いた数字と、私の書いた数字が、淀みない一つの流れとなって巡っている様子を目で追い掛けていた。』

 『私はページを撫でた。博士の書き記した数式が指先に触れるのを感じた。数式たちが連なり合い、一本の鎖となって足元に長く垂れ下がっていた。私は一段一段、鎖を降りてゆく。風景は消え去り、光は射さず、音さえ届かないが怖くなどない。博士の示した道標は、なにものにも侵されない永遠の正しさを備えていると、よく知っているから。』

 『私は神様の手帳の重厚さ、創造主のレース編みの精巧さを思った。どんなに懸命に一日一日たどっていても、ほんの一瞬油断しただけで、次に進むべき手掛かりを見失ってしまう。ゴールだと歓喜した途端、更に複雑な模様が出現する。
 博士だっていくつかの、レースの切れ端を手にしたに違いない。そこにはどんな美しい模様が透けて見えるのだろう。博士の記憶に今もそれが刻み込まれていますようにと、私は祈った。』


 これらはすべて家政婦の「私」の独白です。十歳の息子とともに、博士との人生における偶然の出会いがもたらしたものの豊かさがここに表れていると思いました。

 この小説を書くにあたり、小川洋子は数学者藤原正彦と対談をしているようです。小説のあとに藤原正彦の書いた「解説」から、それがわかりますが、小川洋子は執筆経過報告も藤原にしていたようです。しーかーしー。この数学者の「解説」が美しくないのは何故か?

 (新潮文庫・平成十八年八月・十八刷)
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