Aug 12, 2006

幸福論  寺山修司

kaba←これはこの本のおまけの栞です(^^)。

 この本を読むきっかけは、鷲田清一の「死なないでいる理由」に多く引用されていたことによります。寺山修司(一九三五~一九八三年・昭和十年~昭和五八年)はご存知の通り、俳人、歌人、詩人、劇作家、映画監督、エッセイストであり、劇団「天井桟敷」の主宰者であり、座付き作者兼演出家兼プロデューサーと、四八年という短い生涯を駆け抜けた方です。この本の終章ではこう書かれている。これは文庫初版年から推察すると三十代なかばで書かれたものではないだろうか。

 『ところで、私は幸福である。幸福ではあるが、世界や現実を享受している訳ではない。むしろ「自己の存在を、その個別的な品性、志向、恣意に適合させ、自己の現在を享受しうる者の幸福」(ヘーゲル「歴史哲学講義」)の否定を通して、べつの快楽を創造することのなかに、新しい幸福論の時の回路を探りつづけているのだ、と言った方がよいかもしれない。』

 先に終章を書いてしまったが、はじめには従来のさまざまな「幸福論」は、ほとんど書物のなかで構築されている思想であるという主張。かの有名なお言葉「書を捨てよ、町へ出よう。」に裏打ちされた寺山の現実は、読書は「人生のなんらかの理由によって閉ざされている時の代償経験」あるいは「しばらく人生から、おりているときの愉しみ」だったと。そして「走りながら読む書物はないだろうか?」という寺山らしい発想が生まれたりもする。

 しかしながら、この「幸福論」も書物であり、論なのだ。という観点から「アランの幸福論などくそくらえ!」から出発して、寺山がこの書物のなかでエピソードとして取り上げているのは、通り魔的殺人者、監獄の中の人々、ラーメン屋の親父、サラリーマン、場末で性を売る女性たち、障害者、不美人、競馬場の男たちなどなどの姿であり、あるいはその時代の映画(古い女優の名前が出てきてなつかしい。。)、歌謡曲の一節などなのだった。あくまでも人間の当たり前の人生(だからこそ個々には稀有でもある。)にあたりながら寺山は書き進めている。走るように。。。あるいはマイクをつきつけるように。

 また、歴史、経済、政治、性、愛、恋、家族などを通しても考察しているのだが、結論などあろうはずはない。寺山は「第二の幸福論」を書くためにこれを書いたかのようだ。しかし「第二」は書かれたのだろうか?わたくしにはわからない。最後に一番気にいった寺山修司の一節を記して終わりとします。

 『白雪姫のおかあさんが、鏡を見ながら「この世で一番きれいな人は誰ですか?」と訊ねるような美しいものへのあこがれが、どのように幸福を汚してゆくかは、七人の小人でなくても知っている。』

 (昭和四八年初版、平成十七年改版初版、平成十八年改版再版・角川文庫)
Posted at 13:05 in book | WriteBacks (0) | Edit
Edit this entry...

wikieditish message: Ready to edit this entry.

If you want to upload the jpeg file:


Rename file_name:

Add comment(Comment is NOT appear on this page):
















A quick preview will be rendered here when you click "Preview" button.