Mar 04, 2006

アメリカ・家族のいる風景

america

監督 ヴィム・ヴェンダース  原案・脚本・主演 サム・シェバード

 二月二七日午後、「シネスイッチ銀座」にて、桐田さんと一緒にこの映画を観ました。観終わった後で哀しくならなかったのは救いであった。ハッピー・エンドでない映画(本も。)は辛いのだ。
 「家族」とはなんだろう?この主人公のハワード・スペンスは、デビュー当時に、二人の恋人を捨てた西部劇俳優である。その二人にはそれぞれに息子と娘が産まれて、すでに若者になっている。ハワードには常に酒、ギャンブル、麻薬、女性問題とすさんだ生活が続いていたが、ある日突然にロケ先から姿を消して、三十年間会わなかった母親「ネバダ州エルコ在住」に会いに行き、その後にかつてデビュー映画の舞台となった街「モンタナ州ピュート」へ家族探しに行くことになる。

   同じ頃に、娘のスカイはまだ見ぬ父を、映画や雑誌、ネットで追いながら、自分との繋がりをいつもつかもうとしていたが、母親の死という不幸な出来事があり、母の遺骨を連れて母の思い出の街「モンタナ州ピュート」を訪れていた。

 息子アールとその母親ドリーンは共にその街で暮していたが、息子は父親を知らされていなかったので、「父の不在」という心の空白を埋めようがないまま、すさんだ生き方をしていた。突然、母親から本当の父親を知らされて、みずからの生き方が父親と同質の生き方だったことに気付き、彼はさらに混乱し、すさむことになる。
 ハワードはこの街で二人の子供と出会うわけだが、娘スカイの「静謐」と息子アールの「狂乱」が対照的に描かれている。これはとりもなおさず二人の母親のハワードへの「愛の姿勢」も浮き彫りにされることになる。そして、娘スカイがこのちりじりの家族を繋いでゆく天使だったと思われる。

 「家族」とはなんだろう?さまざまな愛の修復をしたり、あるいは連帯を強化したりしながら、家族の階段を一歩づつ登ってきた家族にだって「離散」や「崩壊」や「孤独」が待ち伏せしていることはあるえる。ハワードの家族のように「離散」や「崩壊」や癒しようもない「孤独」から、再出発を試みるという生き方もある。いずれにしても、それらは「こころの丹念な作業」の継続によるものであって、形骸だけでは成しえないことだ。ラストはハワードの子供たちが父親が残していった車(これはハワードの父のもの。)に乗って父親の戻っていった撮影現場へ向うシーンで終わる。このスカイブルーの車は三代に乗り継がれたことになる。ここから家族再生の長い旅がはじまるのだろう。。。

 この映画はアメリカで製作されたものであるが、監督はドイツ人であるとのこと。これはアメリカの「家族意識」への一つの問いかけとも言えるのではないだろうか?また、この映画の舞台となったアメリカ西部の広大な原野を監督は「空虚な場所」と名付けたが、地上に今もある広大な原野というものは「貧しい土地」であるというのがわたしの考え方である。


 【付記】

 今日は我が愚息の誕生日。雛祭りを避けて、四日にこの世に産まれた男の子である。偶然とはいえ、この日にこの映画の感想を書いた。ではお祝いの花などを。。

9mokuba

3
Posted at 16:02 in movie | WriteBacks (1) | Edit
Edit this entry...

wikieditish message: Ready to edit this entry.

If you want to upload the jpeg file:


Rename file_name:

Add comment(Comment is NOT appear on this page):
















A quick preview will be rendered here when you click "Preview" button.