Dec 10, 2006

わが悲しき娼婦たちの思い出  G・ガルシア=マルケス  木村栄一訳

rudon

 手に取るなやはり野におけ蓮華草   滝瓢水

 この小説は川端康成「眠れる美女」がベースになっています。お二人共「ノーベル賞作家」ですね。読んでいる途中の時期に、友人との対話のなかで俳人「滝瓢水(1684~1762)」のことが話題になったことがありましたが、その時にこの句を思い出しました。この句はたしか遊女を身請けしようとしている知人をいさめて詠われた句だったと思います。

 独り身で生きてきた新聞社のフリー・コラムニストの男の九十歳の誕生日から、この物語は始まります。冒頭は『満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。』と書かれています。主人公の永年の友である娼家を営むローサ・カバルサスが彼のために探した十四歳の少女「デルガディーナ」に、主人公は恋に落ちる。彼は睡眠薬で眠っている「デルガディーナ」に寄り添い、一夜を過すだけでした。睡眠薬で「眠る」ことと、「眠らされる」こととは意味が大きく違います。後者の受動としての眠りは「仮死」です。ロミオの眠り、あるいは白雪姫の眠りの姿に似ています。寄り添う者が幸福な目覚めを願ってくれない限り「死からの幸福な蘇り」は訪れることはないのです。

 彼のそれまでの人生でどうやら「恋」と言えるものは一回限り、それは彼が破局をさせた。「人を愛する」ということがなかったのです。その後の彼の人生は、必要な時だけ娼婦と過すという人生だった。そしてこの物語は九十一歳の誕生日で終わる。幸福な終わり方です。『これで本当の私の人生がはじまった。私は百歳を迎えたあと、いつの日かこの上ない愛に恵まれて幸せな死を迎えることになるだろう。』と・・・。その後に残される「デルガディーナ」のそれからのはるかに永い時間。。。。

 この小説が何故書かれたのか?わたくしは答えを見出すことがなかなかできませんでした。訳者の解説によれば、一九八五年にマルケスが発表した小説「コレラの時代の愛」のなかで自殺した少女「アメリカ・ビクーニャ=デルガディーナ」を蘇らせる意味があったと書かれていました。この二十年間の時間に込められたマルケスの思いが、川端康成の小説「眠れる美女」の世界と交錯しながらこの小説はこのような物語となったのでしょう。

 ちなみに比べてみますと、この小説を発表した時、マルケスは七十七歳、小説のモデルは九十歳。それに対して川端康成は六十一歳で「眠れる美女」を書き、モデルは六十七歳です。マルケスがこの小説を世に送ったのは二〇〇四年、日本で翻訳出版されたのは二〇〇六年となります。

 (二〇〇六年・新潮社刊)
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