Oct 21, 2006

筑波根物語  水上勉

tukubane

 この藤の花は「横瀬夜雨」最期の日に幻覚として見た花です。

 『ちらちらと雪が降りはじめた。常陸にはめずらしいことであった。多喜は夜雨に雪をみせてやろうと思って縁先の障子をあけた。
 「きれいな藤の花だな」
 と夜雨は言った。どこにそんな花が咲いているのだろう。降りしきる雪片が空に舞うばかりで・・・・・・』


 これは水上勉が長い時間をかけて書いた、明治中期から大正全期に活躍した詩人「横瀬夜雨」の評伝小説です。「横瀬夜雨」は明治十一年元旦に、筑波山のふもとに近い大宝村(現・下妻市)の素封家に生まれましたが、四歳から「くる病」にかかり、生涯を不自由な身で生きることになりました。本名は「虎寿」。十八歳で詩人としてのスタートをきりましたが、彼の作品に最初に注目したのは「河井酔茗」でした。

 「河井酔茗」は、新興詩壇「文庫派」の主唱者であり、彼のもとに集まった青年詩人は、伊良子清白、小島烏水、滝沢秋暁、千葉亀雄、島木赤彦、五十嵐白蓮、鮫島紫紅、窪田空穂、水野茶丹、一色醒川、清水橘村、山村暮鳥、そののち沢村胡夷、北原白秋、人見東明、長田秀雄、さらに有本芳水、三木露風、萩原朔太郎と続く。

 「横瀬夜雨」は不自由な身で美しい恋の詩を書き、女性詩壇の選者にもなったことから、女性詩人からの注目を集めることになりました。「文通」という言葉が生き生きとしていた時代のこと、彼の不遇とともにある美しい詩から、まだ見ぬ詩人同士の恋はまたたくまにはじまり、女性たちは「横瀬夜雨」の看とり女を願って結婚や同棲へと進むのでしたが、どれもすぐに破局を迎えました。彼の現実はあまりにも過酷であり、彼の住む村落が暗い風土だったこともあるのでしょう。

  稲架(はざ)解くや雲またほぐれかつむすび  木下夕爾

 その一人「山田邦子」は信州、函館などで暮したせいか、大宝村の印象はとても重苦しかったようだ。「ここにも信州でみられる稲干しの架木(はさ)はなく、ところどころにポプラがたっているだけで、ただののっぺらぼうに見えるのだった。邦子は不安をおぼえはじめた。」とある。

 大正六年六月三十一日、最後に出会った「小森多喜」と結婚し、生涯をともに過しました。多喜二十歳、夜雨四十歳でした。大正八年二月長女「糸子」、大正十一年次女「百合」をもうける。それまでの女性詩人と比べると、「多喜」だけが一切の打算のない純粋なひたむきな女性詩人だったのだろう思えます。母親のあたたかい愛情に育まれて生きてきた「横瀬夜雨」にとって、最もふさわしい女性でした。

 水上勉はなぜ「横瀬夜雨」に魅せられたのでしょうか?歩くことすらできない人間が紡ぎ出す美しい詩語の根源に引き寄せられたのでしょう。それにしましても、この本を読んでわたくしが一番驚いたことは、「言葉がこんなにも生きていた。」「言葉がこんなにも人の心を動かした。」ということです。わたくしたちはこんなにも「言葉の力」を信じて、詩を書き、手紙を書いてきたのでしょうか?

 (二〇〇六年・河出書房新社刊)
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