Aug 01, 2006

死なないでいる理由  鷲田清一

06-7-27mukuge

 この本を読むきっかけは、実はわたくしの詩集「砂嵐」を読んで下さった方のお薦めでした。この詩集に収録されている「冬の火事」のなかには・・・・・・

   いま なにごともないように
   ここにわたしが生きて在ることが
   深い罪であるような冬の午後

・・・・・・という一節があります。これは父母と独り身の姉とを相次いで看取った後に書いた作品でした。ここに書かれた「在る」という言葉に注目されたU氏は、この本のなかに書かれた「ある」と「いる」についての章を読んでみるようにと薦めてくださいました。「ある」は現代語のなかでは「物」について使われる言葉であり、古語では「生きている」「存在する」「住む」「暮らす」など広い意味を持っています。わたくしはどうやらこの「在る」を古語的に使っていたようです。

 この「ある」と「いる」との間にあるような現代の言葉の悲しみの距離について、筆者はひとつのエピソードを添えています。苦しんで産み出した赤子が死児だとわかった時に、医師は「ああ、死んでる。」と言った。その「看取る」や「看る」ではなく「見る」ことだけで終わった医師の言葉に、母親は激しい怒りを覚えて、医師の袖口をあらん限りの力でつかまえて「死んでるとはどういうことや。美智子さんにもそう言うんか。」と言ったそうです。

 医療機関における「いのち」の尊厳の問題はこれだけではないでしょう。筆者は別の章では、映画「ジョニーは戦場へ行った」にも触れています。戦場で両手両足を失い、胴体と半分壊れてしまった頭部だけとなったジョニーを、医師団は格好の生きる医療実験材料としたのです。ジョニーに感情があることに気付いた看護婦と、唯一動くことの出来る首を動かして頭部で枕を打ってモールス信号で語るジョニーとの心の交流は、やがてジョニーの「殺してほしい」という願いになるのですが、医師団は看護婦の自殺幇助を退けて、ジョニーはたった一人の心の交流者を失い、また医療実験材料となってしまうのでした。

 人が生きるということ(つまり、死なずにいるということ)の意味について、筆者は医療現場だけではなくあらゆる方向から文献やエピソードを交えながら考察しています。寺山修司の「幸福論」が多く登場することも興味深いことでした。
 人が生きなくてはならないという切実な理由を見失ったかに見える現代社会においては、その「見失った」ということが切実な理由になってしまったかに見えます。それはまだたくさんの未来を抱えている若者にも、人生の大方の役割を終えた大人にも同質のものとしてあるように思えてなりません。人々は生きる意味に渇いているということでしょうか?その意味を問えば「喪失」が応えてくるように思えてなりません。

 逆に「何故、人を殺してはいけないのか?」と一個人が問えば、大方の人間は怒りをあらわにすることだろう。ここでは人間の永い歴史は「戦争」という殺戮の歴史だったこと、「殺人」が「正義」だったことすらあったのだということは忘れられているのだ。「生きる理由」ということと同時に「殺してはいけない確かな理由」も問いなおさなくてはならないのでしょう。このような問いかけも答えもあまりにも寂しいものだ。この寂しさからの救済のように、鷲田清一はこう書いている。

 『こぼしたミルクを拭ってもらい、便で汚れた肛門をふいてもらい、顎や脇の下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらった経験・・・・・・。そういう「存在の世話」を、いかなる条件も保留もつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの〈信頼〉を失わないでいさせてくれる。そういう人生への肯定感がなければ、ひとは苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろうとおもわれる。』

 もう、ここだけ読めばいい、とすら思った。学者さんはあらゆる文献やエピソードにあたり、たくさんのことを語って下さいましたが、この珠玉のような文節がこぼれおちた瞬間にすべての知識は息をのんで姿をひそめたように思えてなりません。生意気を申し上げてすみませぬ。

 (二〇〇二年・小学館刊)
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