Jan 05, 2007

詩の履歴書 「いのちの詩学」  新川和江

shinkawa mucha011

 この一冊は「日本のうたごえ全国協議会発行の季刊誌「日本のうたごえ」に一九九三年から二〇〇四年までに連載したものをまとめられたものです。そこではご自身の詩がどのように歌われ、どのような雑誌や新聞に掲載されたか、また詩人や編集者や音楽家との交流などが書かれています。

 新川和江さんは一九二九年茨城県生まれ。少女期からすでに身の回りにはない、書物のなかにある世界や言葉に憧れを抱き、詩を書いていらっしゃいましたが、一九四四年、十五歳の時に隣町に疎開してきた西条八十に出会い、そこから新たに詩作は本格的にはじまりました。それから今日まで、絶えることのない詩作の日々を送られていらっしゃいます。

 昨年の十二月に新川さんにお目にかかった折に、リルケの「マルテの手記」が話題になりましたが、とりわけ新川さんが拘り、今でも大切に抱いている言葉を改めて読みかえしてみました。新川さんが繰り返しおっしゃった言葉も同時に思い出されます。それは「たくさん読みなさい。たくさん見なさい。」でした。「マルテ」が二十八歳の時のメモを引用します。

 『詩は、年若くして書いたものでは何ほどのものでもない。それには待つことが必要だ。一生のあいだ、しかもできるだけ永い一生をかけて、意味と甘美を集めることが必要だ。そうしてはじめて、まったくの終わりに、あるいはりっぱな十行の詩が書けるかもしれない。なぜなら、詩は、人々が思っているのとは違って、感情ではない(感情なら、早くにも十分持てる)、詩は体験なのだ。詩の一行を書くために、人は多くの街を見なければならない。人々や、物や、獣たちを識らなければならない。鳥たちの飛翔の仕方を感じ取らなければならず、小さな草花たちが朝開くときの身振りを知らなくてはならない。見知らぬ土地の道を、思いがけない邂逅を、おもむろに近づき来る別離を、思い起こすことができなくてはならない。――まだ解き明かされていない幼かった日々を、(中略)人は多くの愛の夜々の、一夜一夜がそれぞれに違っていた愛の夜々の思い出を、陣痛の苦しみに喘ぐ女たちの叫びや、肉の閉じるのを待ちつつ眠る、かるがると白い産褥の女たちの思い出を、(中略)しかしまた、臨終の者たちの枕辺にいたころもなければならないし、(中略)そしてそれらの思い出が忘却のかなたからふたたびよみがえる時を待つ、大きな忍耐を持たなければならないのだ。』

 新川さんは近代詩の時代から詩作の出発をされて、「荒地」を中心とした「戦後現代詩」に移行する流れのなかで、戸惑いつつも、女性だけの持ちうる感性の豊かさを守りつつ、繰り返し「愛」を問い続け、書き続けていこうとなさったようでした。そしてそれは女学校が軍需工場と化し、校庭はカボチャ畑となり、勉強よりも勤労を強いられた時代からの開放でもあったわけです。

 また新川さんは作詞家ではありませんが、多くの作曲家に愛されて、書かれた詩が「歌われる詩」となったことでした。また校歌作詞の依頼も多く、それもかなり自由に書くことが許された詩となっています。また少年少女雑誌への詩の連載、新聞への詩の連載など、「多くの読者へ届く詩」を書かれた詩人なのです。これはとても詩人として大切なことだと思います。街のレコード屋さんで、偶然に聴いたご自分の「歌われた詩」を聴いた時の歓び、あるいは中学校へ招かれての講演の折に、新川さん作詞の校歌を歌う会場いっぱいの生徒たちに迎えられたことの歓びなどを書かれています。

 さてこのサブタイトルとなっている「いのちの詩学」は、新井豊美さんがこの著書に寄せられた六ページの新川和江論のタイトルなのです。新井さんはここでこのように書かれています。

 『新川さんが「戦後現代詩」に感じた違和は、一言で言えば生きている人間の「いのち」という確かな手ざわりを欠いた、その意味で空なる「観念」の言語に対する違和であり、それに向かって彼女は「愛」という「いのち」そのもの、その全体性を提出してみせたのだ。』

 さらに続いて石原吉郎の言葉が引用されています。

 『新川和江にあって、愛とは地軸の傾きと同義であって、修正の余地のないものである。』
 この石原吉郎の言葉は美しい。

 最後にこれに触れなければ、わたくしが書く意味はありません。それは一九八三年から十年間、吉原幸子さんとともに主宰された季刊誌「ラ・メール」の存在とその大切な十年の時間です。この「ラ・メール」は「現代詩手帖」と良い意味での拮抗した存在として誕生しました。そこに集う女性たちは、ある時には赤子を負ぶって出席する方がいらして、赤子が泣き出すとあわてて部屋を出ようとするその女性を皆が引き止めるという光景があったり、フロアーで赤子のむつきを取り替えるという光景もありました。こうしてわたくしは新川和江さんから、たくさんのことを学びました。新川さんのもとから生意気にも「自主卒業をします。」と告げて離れたのは七年くらい前だったでしょうか?新川さんがわたくしの唯一の師であったからなのです。詩を書きながら今でもそばに新川さんの気配を感じます。最後にわたくしの一番好きな新川和江さんの詩をご紹介致します。


   胡桃   『はね橋・一九九〇年・花神社刊』より

   梨畑では梨が甘くなってゆく
   葡萄園ではむらさきの房がずっしりと重くなってゆく
   それらと釣り合う甘味と水気と重さを内に蓄えることが
   世界と調和するわたしの唯一の方法だった
   けれども深まりつつあるこの秋には
   わが脳髄よ 森の胡桃のように
   よく乾いて落ちることを考え 企てなさい
   こまやかに山河を刻んだミニチュアの地球儀になって
   草むらで この天体と同じリズムで
   ひっそりと
   回り続けるであろうこれからの日と夜を夢みなさい


    (二〇〇六年・思潮社・詩の森文庫E08)
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