Mar 23, 2007

心ときめかす  四方田犬彦

gohho

 いやはや、驚きましたね。古今東西の文学者、哲学者、思想家、映画関係者、音楽家たちを呼び集め、それらの歴史を今の時間軸に立って、かるがると語る四方田犬彦の筆力とそれを裏付ける膨大な知識によるエッセー集でした。当然浅学のわたくしには、知らない方々も登場しますが、それについての予備知識がなくても、彼の簡略な解説や適切な引用から、未知の世界に触れることができるのでした。しかもその方々への興味までわたくしから引き出す力がありました。

 最初に取り上げられているのは清少納言の「枕草子」です。この著書は千年前に書かれた美しいエッセー集「枕草子」へのオマージュだそうです。このエッセー集もその「枕草子」の構成法に倣っているようですね。

 時折辛辣なことも書いていますが、「なるほどね。」と新しい局面を考えさせて下さることもありました。たとえばこのようなことを書いています。かつての詩人たちへのノスタルジアは現代のキッチュ産業になる??この考え方はこの著書の本髄になっているようにも思えますので、長いですが引用しましょう。

 『ありていにいって、廃墟を最初に訪問するのは考古学者である。彼らは測量と発掘を通して、その年代を測定する。次に到来する歴史家は文献を渉猟し、対象がいかなる意味において、われわれの住まうこの世界と連続的なところにあるかを、物語を通して解釈しようとする。やがて権力者が廃墟を訪れ、そこに国家なり、民族の起源の巨大な物語が封じこめられていると発言し、その場所に仮初の神聖さを付与する。最後に匿名の観光客が束をなしてやって来る。彼らはあらかじめ準備された単純な神話的物語を受け入れ、その巨大な時間の展がりと自分たちの卑小な時間とのあいだになんとか虚構の連続性を築きあげたいという欲望に促される。(中略)われわれが通常に訪れることのできるのは、どこまでも観光地化された廃墟、すなわち廃墟の廃墟にすぎない。』

 中間部には「吉岡実 はやわかり」という章があります。それは吉岡実の没後に出版された全集へのレクイエムと言えばいいだろうか?四方田犬彦が簡略にまとめた年譜は魔術師のように見事で、全部読んだような気分にさせます(^^)。。戦後まもなく吉岡実が書いたと言われる言葉が最後に引用されていました。さりげなく、そして深い詩人の言葉ですね。

    多くのもの
   犬には不用のもの
   一人の男にとっては少ないが
   意味のあるもの


 こんな感想を書き連ねていてはきりがありませんので、この位にしておきましょう。最後にこの本から、わたくしが最も興味を持ったポルトガルの詩人「フェルナンド・ペソア(一八八八年~一九三五年)」の言葉を記しておきます。彼はこの名前の他に「カエイロ」「レイス」「カンポス」という三つ筆名を持った詩人だったのです。

 『わたしは自分のなかにさまざまな人格を作りあげた。そして休みなく人格を作りあげる。わたしの夢は、夢として現れたそのときから、別の人格のかたちをとる。その人格はみずからを夢見るが、わたしが夢見ているわけではない。』

 四方田犬彦は「あとがき」の最後に、ロラン・バルトの言葉を引用しています。いやはや「引用」の多い感想となりました。申し訳ございませんが、これが最後です。

 『愛するものについては、本当のところ人はいつも語り損ねてしまうものだ。』

 (一九九八年・晶文社刊)
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