Dec 29, 2005

マラルメもみんな「要らない」と叫ばれた・・・、

母に、育った犬を見せに行った。
ついでに情けなくなった、クリスマスローズに水をやろうとしていた。
母が風邪気味なのでその帰りに墓の掃除をしようと思っていた。
具合が悪いと言っていたので、家にいると思っていたが、留守だった。
犬はウッドデッキで遊ばせていたが結局、温室に閉じこめて母を捜しに近所のクリニックにいった。
幸いそこにはいなかった。
ウッドデッキに座って犬の相手にくたびれたころ、母が戻ってきた。
母と話していたら、わたしのなかにいっぱい悲しみと怒りがたまっていたようで号泣してしまった。
このまじめな母に育てられてきた。
このまじめな母にしばられてきた。
これは同義だ。
そして、それから開放されるまで「病んだ」のだと思う。
昔の話だ。


寝不足だったのかもしれない。
わたしのとめどない涙に母は狼狽していた。
一日そうしていて、夕方、倉庫に本を探しにいった。
汚くなってうち捨てられていた、プロレタリア文学の機関紙「戦旗」などをわたしは持っていて、研究者にあげると約束したのだ。
当時ウェイトレスだった佐多稲子や、夫窪川鶴次郎の、名がはいっている。

見つからない。
また、来ねばならない。


母はやさしかった。
でも、この家はわたしが来るのを拒んでいる。
本も、ビデオも、ライティングデスクも、マラルメも、はてはアルバムまで、何の断りもなく要らない」と叫ばれ倉庫に詰め込まれた。
わたしの部屋はほかの人のものになった。
わたしを歓迎してくれるものもなければ、いる場所ももはや無い。
わたしは弟一家にすべてを明け渡した。
葬式のあと、しかも父の49日も済まないうちに。
そして弟だけがいる。
つまり、お嫁さんもこないまま一年。
老人の喘息は死活問題なのだ。
身勝手も大概にしてくれ!
何をやってあげようとも、不平をいう人たちとつきあうのは、まっぴらだ。
恩にあずかっていて、「恩にきせる」から嫌だというくらいならさっさとケリをつけて、付き合わないことだ。
こういうことを昔の人は罰当りといい人でなしと言ったはずだ。
そういう言葉が「死語」になってしまった今、恩人になど決してなってはいけない。
わたしとの同居は、母がかたくなに拒む。
長男という言葉が、母の口をついて出る。
やっぱりわたしは、たたき出されたのだ。


父は病床で3度も「お前はどこに住むのか?」ときいた。
それは、暗にここに住んでほしいということのように聞こえた。
わたしは最後に、子供のいる弟に・・・と言った。
父は不服そうな顔をした。
癌の進行は一定までいくと速やかだった。
だがすこし、具合のいいときに、そんな会話をした。
父は遠いように見えて、とてもちかい存在になっていた。
わたしが注射をぬいたりして、二度目は長引いたので「痛いよ」といわれたが、それはわたしが悪かったのだ。
父はわたしを信頼していた。
いつも「小遣いあるか?」と聞いて、わたしは一回も貰ったことが無い。
一回くらい貰っておけばよかった。

ふたり
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