Nov 04, 2008
さらば、わが愛 覇王別姫 (1993)

監督: 陳凱歌
脚本: 李碧華
製作国: 香港&中国
上映時間: 約一七二分
《キャスト》
程蝶衣〈チョン・ティエイー〉:張國榮(レスリー・チャン)
段小楼〈トァン・シャオロウ〉:張豊毅(チャン・フォンイー)
日中戦争や文化大革命など近代中国の五十年の時代に翻弄された京劇役者の段小樓と程蝶衣の生涯を描いた映画です。「覇王別姫」とは、四面楚歌で有名な項羽と虞美人を描いた京劇であり、この役で人気を得た二人であった。また、わたくし自身が産まれ、生きてきた日々は、ほとんどこの時代に当てはまるという事実にも深く考えさせられることとなりました。
「京劇」について少しだけ書いておきます。これは日本の「歌舞伎」ととてもよく似ていて女性の役者はいません。「女形」です。多分この映画が描きだした時代の五十年に限って言えば「歌舞伎」は世襲制だったのではないでしょうか?しかし「京劇」の役者は、男子の孤児や貧民の子や捨子ばかりです。京劇の養成所では、暴力的かつ残酷な訓練が日々繰り返され、やがて役者として育てられます。その教育過程は目を覆いたくなるほどの残酷なものでした。
さらに驚愕したことは、娼婦の母親に連れられてきた私生児の程蝶衣(本名=は小豆子。)は、片手の指が六本あるという奇形でしたので入所を断られます。母親は息子の行く末を思い、その余分な指を自分の手を下して切断してまでも、強引に養成所に入れるのでした。
* * *
ここで気になりますので、ざっと日本の「歌舞伎」の歴史に触れてみます。もとよりこの方面には疎いわたくしですが、必要最小限の範囲でメモしておきます。
一六〇三年に北野天満宮興行において、京都の出雲阿国(いずものおくに)の演じたものが「歌舞伎」の発祥というのが定説でしょうか?阿国は出雲大社の巫女であったとも河原者でもあったとも。。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また男装するなどして当時最先端の演芸を生み出した。
阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)や、前髪を剃り落としていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎がおこなわれていたが、風紀を乱すとの理由から前者は一六二九年に禁止され、後者も売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから一六五二年に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となる。歌舞伎において「女形」が存在するのはその理由からであろう。それは江戸時代に洗練され完成した。このあたりから「世襲制」となったのだろうか?
* * *
新入りの小豆子(のちの程蝶衣)は他の子供たちからいじめられたが、彼を弟のようにかばったのは小石頭(のちの段小楼)だけだった。二人は成長し、女性的な小豆子は女形に、男性的な小石頭は男役に決められる。やがて成長して京劇『覇王別姫』のコンビとして人気役者となりますが、段小楼は娼婦の菊仙(鞏俐)と結婚、ひそかに彼を慕い続けた程蝶衣の孤独感は深いものとなった。ここでコンビの決別。程蝶衣の人生は頂点から次第に奈落へと。。。
その時期に北京は日本軍に占領された。理不尽な風の吹くなかで、深く傷ついてゆく三人の運命。程蝶衣はアヘンに溺れることも、刑務所に入ることもありました。日本軍の敗退で抗日戦争は終わりますが、一九四九年に共産党政権樹立。一九六六年には「文化大革命」。共産党の厳しい政治的圧力を受け、「京劇」は堕落の象徴として禁止され、三人ともがまたまた精神的に極限まで追い詰められ、生き延びるために醜く罵りあうことすらあった。この時期に菊仙は自殺。
一九七七年、程蝶衣と段小楼は無人の体育館で、十一年ぶりに二人だけで最後の「覇王別姫」を演じる。舞い終わった時、程蝶衣は自らの命を断った。なんと言えばよいのだろうか?約三時間のこの映画を観るのは辛かった。辛いからこそ、次の幸福を求めながら観続けるのでしたが、最後まで辛い映画でした。戦争や権力がいかに人間の運命を翻弄することか。今までも何度思ったことか。。。
この映画は一九九三年の第四六回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞。
Sep 04, 2008
日本語で一番大事なもの 大野晋×丸谷才一
これは、今は亡き国語学者「大野晋」と、作家、評論家、翻訳家である「丸谷才一」との日本語の文法解釈と歴史についての対談集です。丸谷才一が聞き手となり、大野晋が応えるという形になっています。話題の初めは「式亭三馬」の「浮世風呂」でした。その登場人物である本居信仰の女性国学者「鴨子」と「鳧子」との珍妙な会話からはじまりました。もちろんこの女性二人は「古語」の「かも」「けり」から付けられた名前ですね(^^)。
日本語の文法の歴史は、遡ればきりがないのですが、以下のこの三人の学者が主に「大野晋」の先達学者として挙げられています。
山田孝雄(一八七五年~一九八五年)
松下大三郎(一八七八年~一九三五年)
橋本進吉(一八八二年~一九四五年)←この橋本文法が今日の学校文法になっています。
ちなみに。。
大野晋(一九一九年~二〇〇八年)
丸谷才一(一九二五年生まれ)
さらに日本語の文法に影響を与えたものが「英語教育」だそうです。これには「主語」「助詞」「述語」「動詞」などが必須であるという文法を日本語にも要求されてくる結果となりました。ここで少し、お二人の面白い対話を引用してみます。
大野:日本語では、「君は」と言うと「うなぎだ」と答える、うどんの話なら「君は」と言うと、「かけ」とか、「おかめ」とか、「きつね」とか返事すれば済む。
丸谷:ある雑誌を読んでいましたら、自然科学の先生が、日本人は「僕はうなぎだ」などという野蛮な言語を使っていると、日本語をさんざんに罵っているんですね(笑)。それは日本語が野蛮なんではなくて、それを文法的に正しく把握しない自然科学の先生の方がむしろ――野蛮とは思わないけれども――間違っている。
このような丁々発止の対談のなかで、日本語の文法の歴史と解釈が、さまざまな和歌からはじまり、口語体の現代短歌までを例に挙げながら語られていきます。まさにこれ自体が辞書さながらの様相を呈しています。図書館で借りて「さようなら」と言えるような本ではないですね。最後の大野晋の替え歌が楽しい。
おろかなるなみだぞ袖に玉はなすわれはせきあへずたぎつせなれば
(古今集・小野小町)
おろかなるなみだが袖に玉と散るわれはせきあえずまるでナイアガラ
↑これは大野晋が「俵万智」風に作り換えたものですが、ここでは「ぞ」が「が」になるまでの言葉の変遷が語られているのでした。「たぎつせ」は激流のことですが、そこを「ナイアガラ」として故意の誤訳(?)を楽しんでいました。
とにもかくにも、この一冊の対談集はまるごと面白いものでした。飽きずに読めますが、絶対に全部が覚えられるものではありませぬ。肉声を聞くような楽しい辞典と思いながら、身近に置いておくものだと思います。
(昭和六二年・中央公論社刊)
Aug 04, 2008
白馬へ。(その3)

その次の提案は「栂池自然園」でした。またゴンドラ乗り場まで車で送っていただきました。ここは「尾瀬」に似ている。入口では靴の泥を落すマットが敷いてあって、外来種の侵入を防いでいる。こちらも標高は高い。「お花畑」の位置でもあった。たくさんの花々、高度に耐えて立っている樹木。ここまで高いところに来れば、人間というものは何かが変わる。それがはっきりとわかる。ただ小さいだけではないのか?



人間関係の困難さ、日常の重さ、そのようなものに押しつぶされそうになっていた小さな自分が見える。見えてしまえば軽くなる。黙々と集中して歩き慣れない木道を用心深く辿っていくと、どろどろとしたものが洗い流されてゆくのがわかる。涼しい風。やわらかな霧の移動。空の色、山の色、木々の色、草花の色などなど。。。


