過日、詩人たちの朗読会に行きました。テーマは「幼年」ということに統一されていたのは、聞き手としてはとても聞きやすいもの。朗読の後で司会者の詩人たちへの「あなたの幼年について一言。」という質問にはさまざまな言葉が返ってきました。一番心に残ったのは、我が憧れの詩人(ご本人はご存知ありません。念の為。)新井豊美さんの「戦争」でした。これは自ら望んだ時代に生まれることのできない悲痛な思いがいたしました。
子供は初めに大人の世界に産まれ出てくる。そこはなにもかにも子供には大きすぎる世界だ。この巨人の国で子供は少しづつ大きくなる。人生はそれからの時間の方がはるかに永い。その時間のなかで人間はどこまで「内なる幼年」を養いつづけることができるのだろうか?それは決して「純粋性」という意味ではない。
ここで断っておきますが、わたくしは「トラウマ」という言葉が嫌いです。幼い記憶がこういう言葉で言い換えられることだけはどうか避けて欲しいと願います。
「幼年」の記憶とは、実質的に見ると、祖父母、父母などの大人のお話と、自らのかすかな記憶との混在したものではないでしょうか?そこが「少年期」「少女期」との踏み上がる記憶の階段数の違いではないだろうか?
喪失ではなく 吉原幸子
大きくなって
小さかったことのいみを知ったとき
わたしは�爐┐Δ佑鶚瓩�
ふたたび もった
こんどこそ ほんたうに
はじめて もった
誰でも いちど 小さいのだった
わたしも いちど 小さいのだった
電車の窓から きょろきょろ見たのだ
けしきは 新しかったのだ いちど
それがどんなに まばゆいことだったか
大きくなったからこそ わたしにわかる
だいじがることさへ 要らなかった
子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
そのなかにゐて 知らなかった
雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
いちどのかなしさを
いま こんなにも だいじにおもふとき
わたしは�爐┐Δ佑鶚瓩髻,呂犬瓩得犬�る
もういちど 電車の窓わくにしがみついて
青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
わたしは ほんたうの
少しかなしい 子供になれた――
(詩集「幼年連祷」より。)