Oct 14, 2021

顔と自画像

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モディリアーニって、
この写真見ると、すごく美男子だったんだね。
マンスフィールドさんに訊いてみよう。

というわけで、
今回はモディリアーニの顔と自画像について(^_^)


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これは小学生時代。
どのこでしょう?
わかる気がする。


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15歳のとき、1899年作の木炭画。

リヴォルノのミケーレ画塾で
風景画、肖像画、静物画、裸体画を学んでいた時期。
この絵がモディリアーニの手によるものか、
確定はされていないみたいだけど、
カタログの年譜などでは自画像として掲載されている。


「その作品には「A・モディリアーニ」と
はっきりサインされているが、
おそらくは自画像であろう。
たしかに彼の容貌とよく似ているし、
力強さと気品にみちた素描力は、
彼のすぐれた才能と将来性を示している。」
(キャロル・マン 「アメデオ・モディリアーニ」P20)


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ロミティ(画塾の仲間)のアトリエでの写真。
やがてフィレンツェではファットーリの経営する
美術学校に入り、人体クラスに登録。
ミケランジェロの彫刻に感動したり、
ピエトラサンタの採石場を訪れて、
この頃彫刻家を志望し、
夏に初めて彫刻作品を試みる、
って伝記にはある。


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これは21歳のときの写真とされる。
前年の3月から、ヴェネチアの
国立美術研究所に入学していた。
翌年の1月、パリに出る。

これはよくモディリアーニの紹介サイトなどに
でてくる写真。

イケメンだね。
コクトーがジェラール・フィリップより、
いい男だったといったのは、有名なエピソード(注1)。


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「ピエロ」(1915)

モディリアーニは、
肖像画ばかり描いていたのに、
自画像は描かなかったの?

油彩では、たぶん象徴的な意味で、
自画像だっていわれてるこの作品と、
晩年に描いた1枚だけが残されている。

「《ピエロ》には画家に似た外見は
どこにもないが、作品の下方にあるPIEROT
という銘記から、私たちはそれが自画像であると
推測することができる。モディリアニには
ピエロやクラウン、あるいはサーカスの芸人に
扮した自画像の伝統に関する知識があった。
以前、特にパリに到着したばかりの時期に、
彼がもっぱら劇場やミュージック・ホールを
テーマに制作していたことは多くの素描から
明らかである。彼はまた、ピカソが描いた芸人や
曲芸師の肖像画もよく知っていた。こうしたことを
背景にして、また彼が自身について抱いていた
イメージを考慮すれば、私たちはこの作品が
自分を描いたものと推測してもいいように思われる。
彼自身、他人を芸でもてなしながらも、
その本当の性格は謎に包まれた人間に見られることを
好んでいたということも十分にありえるだろう。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ
 裸婦と肖像」P106)


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「モジリアニ自画像」(1916)


ほとんど自画像を描かなかったっていうことと、
また友人たちにも自分の肖像画を描かせなかった
っていうのも、謎といえば謎だね。

これはその例外みたいな、珍しい素描。
「モジリアニ名作展」(1968)のカタログの解説によると、
「署名にモジリアニ、キスリングの名が
並んでいるように、これは二人の手によって制作された。
したがってモジリアニの自画像であると同時に、
エコール・ド・パリの仲間キスリングの見た
モジリアニ像でもある。」

なぜ自画像を描かせなかったのか、
キャロル・マンが評伝の中で、
興味深い見解を披瀝している。

「制作中のモディリアーニを他の画家が描いた作品は
一点も残されていない。
今日私たちが見ることができる彼の姿は、
かなり念入りにポーズをした写真だけである。
そうした写真の彼は、たいてい小粋なボヘミアンとして
振る舞っている。
他の画家に自分の姿を描かせなかった理由は、
粗野でやつれた姿のままに描かれるのではないか、
という全く根拠のない心配からであった。
生涯、彼は世間向けの自分のイメージを厳しく守り通して
きたので、そのイメージにはずれるものを、
彼は決して他人に作らせなかった。
ジャンヌが彼を描いたデッサンも、
彼の承認を得て公開された写真を思わせる。
ジャンヌにしても、あくまで超人的なまでに自由奔放な
芸術家としてのモディリアーニを愛していた。
彼に寄せるジャンヌのこうした夢想から、
やがてモディリアーニ伝説の多くが巣立っていくのである。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p266)



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「ベッドで読書するモディリアーニ」(1919)

これは前掲の引用文のなかでマンが指摘している、
ジャンヌ・エピュテルヌによって描かれたデッサン。

なるほどねー。
でも美化っていうより、
自分の描画スタイルで、特徴を
よく捉えようとしている感じ。


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「アメディオ・モディリアーニ」(1919)

これはジャンヌ・エピュテルヌによる
モディリアーニの肖像画。

ジャンヌは、自身の鋭い目をつきを強調した
個性的な自画像を何枚か残しているけれど、
それらに比べると、またデッサンと比べても、
この作品は、あきらかに系譜が違ってる。
ずっと穏やかで愛情が伝わってくる感じだね。

「彼の承認を得て公開された写真を思わせる」
っていう指摘は、
むしろこの肖像画に当てはまる感じだけど。


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「自画像」(1919)

これがモディリアーニの晩年の自画像だね。
この作品については、
いくつか読んだだけ、だけど、
否定的な作品批評(注2)が多かった。
それはおくとして、どうしてモディリアーニは、
これまで描かなかった自画像を晩年に描いたのか。
ジャンヌと娘のためなんじゃない?


解説)
ネットで検索すると、
モディリアーニの写真や絵画はいろいろでてきます。
撮影年次、制作年次、
時にはタイトルも異なるものもあり、
表記はとりあえずのものです。

注1)「彼は、私たちが彼と知り合ったときには、
つねに誇り高く、そして豊かであった。
文字通りに金をもっていたのだ。
そして、友人たちの肖像を描き、
カフェ・ド・ラ・ロトンドでテーブルから
テーブルへとまるで幸福を告げる使者のように
廻り歩いていた。
「彼は美男子だったろうか?ジェラール・フィリップが
彼の役を演じた映画を見てからというものは、
私はずっと疑問を感じているのだ。いや、彼は、
も少しよかったのだ。」」
(ジャン・コクトー「モジリアニ名作展カタログ」の
「モジリアニ頌」より)

注2)
「1919年に制作された油彩による唯一の自画像は、
絵画であれ文章であれ、彼が自身について語った
ものの中でももっとも消極的なものであろう。
この自画像によって彼が表現したかったものは特別に
何もないように思われる。
技量の冴えも見られない。やせた顔はうつろな
仮面のようであり、生気のない目には精神的な
集中力が感じられない。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p264)

「この人物は芸術との戦いでずたずたに引き裂かれ、
傷ついた芸術家を象徴しているようだ。
色彩や形体のよどみない扱い方と、制作中の自分を
きわめてドラマチックに表現した脚色はあるものの、
そこにはモディリアニの力強い説得力がほとんど
感じられない。
この作品が自画像として証言しているのは、
せいぜい使用された絵の具程度のものなのだ。
それはごく薄く塗られており、はかないのである。」
(アネッテ・クルシンスキー『アメデオ・モディリアニ』p106)

「、、、これまで彼が描いてきた作品がいずれも
似通っているなかで、この自画像は異彩を放っている。
画面の大きさ、「モデル」の姿勢、うわのそらで、
私たちに目を向けることなく画面の外の
どこかをみつめる視線、そして色調。
こうした要素によってモディリアーニの自画像は、
モディリアーニが1913年から描き始めたパリの
芸術的な共同体の親しい人々の肖像画と
同じ雰囲気を分かちもっている。
シエナ派の絵のように引き延ばされた顔や、
ほとんど堅苦しいまでに静止した身体。
彼のモデルとなった多くの人物たちも思い起こしているように、
そこには創作するうえでの少しの動揺も、絵画との戦いに
我を忘れて打ち込む姿も、そして夢中になって線を引く
手の動きの端緒さえも、その跡がまったく見られない。
雄弁さも、あるいは内省的な自己との対面も見せずに、
モディリアーニはうわべの無関心さによって彼自身の系譜を
閉じているように見える。それはあたかもぼかしの効果によって
自身を自分のイメージや別の作品に繋ぎ合わせているかのようである。」
(「モディリアーニ展カタログ」所収
ジャクリーヌ・ムンク「モディリアーニの「危険なる美神」」より)
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