Oct 24, 2021

モディリアーニのおいたち

e1

マンスフィールドさん。
モディリアーニのおいたちについて
教えてくれませんか。

そーね。
モディリアーニは1884年7月12日、
イタリアのトスカーナの地方都市
リヴォルノに住むユダヤ人家庭の
四人兄妹の末っ子として生まれたの。

育った家庭環境についても、
かなり詳しく分かっているんだけど、
十代のモディリアーニに即して言えば、
病弱で絵を描くことが好きだった子供が、
理解のある母親や親族の援助で
自分のめざす道をどんどん進んでいった。
そんな印象ね。

あっさりしてるんですね。


e4

「ロミティのアトリエでの写真」(1898-2000)

1898年(十四才)の8月、チフスに罹患し、
肺炎を併発する。このとき高熱の譫妄状態で、
突然、画家になりたいとの熱望を母に訴えた、
という「伝説」があった。

8月リヴォルノの美術学校ミケーリの画塾で学ぶ。
同時期の生徒だった八人の氏名も記録に残っている。
ロミティというのはそのうちの一人。

「日曜日には彼らはロミティのアトリエに
集まって裸婦の写生をするのが常だった。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p49)


e3

「ググリエルモ・ミケーレの自画像」

ググリエルモ・ミケーレは、
画家ジョヴァンニ・ファットーリの弟子で、
後期マッキアイオリ派に属していた、と
伝記にある。

マッキアとは色斑の意味で、
フランスのバルビゾン派の影響を受ける、
とされる。自然主義的な風景画や農民画を
写実的に描いた。


e4

「湖の風景」(1891)

これはミケーレによる風景画。

十四才から、十六才の時期、
モディリアーニが、「画塾の課題のため、
ラファエロ前派に関するエッセイを書いた」
ということや、
ミケーリが、モディリアーニのことを、
「超人」と呼んでいた、といった話が
残っている。
これは当時モディリアーニ少年が
ニーチェに傾倒していたらしいことの、
証しになっているエピソードだ。

その早熟ぶりに驚かされるが、
「叔母ラウラの影響で、
ボードレール、ニーチェ、ベルグソン、
クロポトキン、オスカー・ワイルドや
ダヌンツィオ等を愛読する。とりわけ、
ロートレアモンに熱中する。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」年譜)
というこの時期の解説もある。

「モディリアーニは、われわれが今日知的雰囲気
と呼ぶような環境の中で、成長し、
それに対して常に郷愁を持っていた。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p44)

「その友人で肖像画のモデルにもなった
ロシアの詩人、イリヤ・エレンブルグは、
「彼ほど詩を愛した画家はいない」として、
ダンテ、ヴィヨン、レオパルディ、
ボードレール、ランボーの詩句を
記憶して諳んじることができたと回想している。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p36)


e5

「カマイノの彫刻」

1901-02(十七才-十八才)肺結核にかかり、
転地療養。中部、南部イタリアを旅行する。
カプリ島、ナポリ、ローマ、
ミズリナ、フィレンツェ、ヴェネツアを
旅行する。ナポリ滞在中に、
ティノ・ディ・カマイノの墓碑彫刻に
感銘を受ける。


e6

「カマイノの彫刻」

「この時モディリアニは17歳、
美的印象の異常に強い年齢であった。
私の考えでは、この旅行で彼は、
はじめて偉大なイタリア派のある者の
影響を受けたのである。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p58)

このナポリ旅行での教会巡りで、
ティノ・ディ・カマイノの発見が、
彼の彫刻家志望を決定づけた、
というのがジャンヌ・モデリアニの主張。

なるほどねー。


e7

「ジョヴァンニ・ファットーリ 自画像」(1884)

1902年(十八才)5月フィレンツェで美術学校
「スクオラ・イベテ・ディ・ヌード」に学び、
人体クラスに登録する。

「この学校では、老ファットーリが、
暖房の悪い見すぼらしい建物の中で、
若い人々を自分の周りに集めていた。
その若い人々は、末期マッキアイオリ派の
沈滞した空気を逃れて、大家の教えを
直接受けたいと欲していた人々だった。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p58)

これまで習っていた先生の先生に
習い始めたってことだね。


e8

「藁積み」(1875)

これはファットーリの風景画だね。


1903年(十九才)ヴェネチアで国立美術研究所に入学。

「この学校に入るのに競争試験は不要だった
のである。他方、ヴェネチアにおける
モディリアニの友人たちが今日でも
覚えているように、彼はきちんと
講義に出席することをせず、カフェや
女郎屋でデッサンするのを好んでいたと
いうことは本当である。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p58)

当時の友人の証言から、このころ、
「心霊主義とハシシュの快楽」を覚えたとされる。
「麻薬の使用を発見するには
パリまで行くのを要しなかった」
とジャンヌの評伝は伝えている(p65)。

この時期の作品がみつからないことについて、
モディリアニ自身が不満な自作を毀したせいだとする
説が根強くあったようで、ジャンヌは、
「これらの青年期の作品は所有者の不注意や
美術史家の無関心のために失われた」と
異をとなえている(p67)。

そして、
1906年(22才)の1月、モディリアーニは
パリに姿をあらわす。


e9

「ジャンヌ・モディリアーニ」(50才の頃)

今回は、主に
このジャンヌ・モディリアーニの
「モディリアニ 人と神話」という
著作からの引用が多かったんだけど、
この人はモディリアーニ夫妻の遺児。
両親の死後、モディリアーニ家に引き取られて
祖母(モディリアーニの母)や親族に
接して育ったから、父親の育った
家庭環境をそのまま実感できたし、
それまでにファン・ゴッホの
研究者としても実績のあった彼女は、
モディリアニの研究者として最適の人だった。

「モディリアニ 人と神話」は
母親の日記という当時の新資料を使って、
事実関係を究明したという意味でも
モディリアーニ研究の「基本文献の一つ」
とされる本なんだけど、
面白いのは、いかに作家の「伝説」が
つくられていくか、その心理が分析されている
ところかな。

解説)
今回は、まとめてみて、
モディリアーニの描いた絵を
ひとつも紹介していないのに
気がつきました。
Posted at 21:39 in n/a | WriteBacks (0) | Edit
WriteBacks
TrackBack ping me at
http://www.haizara.net/~shimirin/blog/kirita/blosxom.cgi/20211024213838.trackback
Post a comment

writeback message: Ready to post a comment.