Oct 23, 2021

ピカソ、ニーナ・ハムネット

f4

マンスフィールドさん。
今回は?

そーねえ。
パブロ・ピカソと、ニーナ・ハムネットの肖像画
なんてどうかしら。


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これは、1916年にジャン・コクトーが
モンパルナス大通りで撮影した写真。
左からモディリアーニ、ピカソ、
アンドレ・サルモン。


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「ピカソの肖像」(1915)

「ピカソとはパリに出てまもなく
知り合ったと考えられるが、その肖像を
描いたのは絵画に専念するようになる
時期のことで、この作品を含めて2点が
確認されている。、、、。
画面の右下に「SAVOIR」、つまり
フランス語で「知」を意味する語が
描き込まれているのはその敬意の
現れであろうが、画家が画家を評する
言葉としてはシニカルなニュアンスも
こめられているかもしれない。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p30)


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「ピカソの肖像」(1914-1915)


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「アヴィニョンの娘たち」(1907)

これはピカソの有名な作品。

「ポール・アレクサンドルは、
モディリアーニに誘われてトロカデロ民族
誌博物館に足を運んだ時、彼が、
当時フランス領インドシナに併合されていた
アンコール地方(現カンボジア)に関する
展覧会を熱心に見ていたとの
証言を残している。
この博物館を同時期に足繁く訪れていた
ピカソが、その成果として時をおかず
生み出したのが「アヴィニョンの娘たち」
である。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p30)

この展覧会の時期が1907年頃だとすると、
モディリアーニが彫刻に専念する前だね。


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「座っているブロンドの少女」(1918)

この肖像画、日本語版wikiには、
ハムネットがモデルの作品として掲載されている。

wikiによると、
「ニーナ・ハムネットははイギリスの芸術家である。
第一次世界大戦まで、パリの芸術家たちの中で暮らし、
有名な画家の絵画のモデルとなった。 」
「、、、当時交流があった芸術家には、
アメデオ・モディリアーニ、ジャン・コクトー、
セルゲイ・ディアギレフやパブロ・ピカソらがいた。
自由奔放な生き方で、パリのボヘミアン・アーティストの
中で有名となり、多くの芸術家のモデルとなった。
ピカソは、カフェ・ド・ラ・ロトンドのテーブルの上で
裸で踊るのを見て、「ボヘミアンの女王」
(La reine Bohème)と呼んだ。」


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「ペンダントをつけた女性」(1918)

前の肖像画がニーナ・ハムネットを
描いたものだとすると、
同年に描かれているこの作品も
そうじゃないかな、と。


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「イブニングドレスの女」(1918)

この肖像画も同一人物のようにも見える。
でも三作が同一人物で、ニーナ・ハムネットだと
している解説は読んだことがないんだけど。

ともあれ、ニーナは、第一次大戦時の回想記も
書いているらしい。

「しばらくすると、モディリアーニは
着ている服を脱ぎはじめた。彼は、
ランスの労働者がするように、
長くて赤いスカーフを腰に巻いていた。
彼には服を脱ぎはじめる頃合いが
決まっており、誰でもそれを知っていた。
私たちは彼を押さえつけ、赤いスカーフを
結びなおして、座らせるのであった。
誰もが踊り、歌い、そして夜通し
愉快にすごすのだった。」
ニーナ・ハムネットは、こうしたパーティの
中心人物であり、自分でも裸になって
ダンスを楽しんだ。彼女の回想記「笑うトルソ」は、
戦時中の出来事を生き生きと描写した記録である。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p169)

パリが爆撃されたりして、灯火管制がはじまり、
絶望にかられた人々がモンパルナスの
「秘密クラブ」などに出かけて、
「あらゆるところで乱痴気騒ぎ」(同前)があった
とマンは評伝で書いている。


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「ニーナ・ハムネット」(1917)

これは、ロジャー・フライによる肖像画。


解説)
今回はパブロ・ピカソと
ニーナ・ハムネットの肖像画です。
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