Nov 06, 2008

「咲くということは贈り物」

塚越祐佳『雲がスクランブルエッグに見えた日』、水島英巳『樂府』を読み、それぞれにある種の思いを持った。『樂府』はfolk songと併記され、内表紙には「がふ」とルビがつけてある。中国語で諷刺を交えた歌謡を言うという。集中22篇のうち、最初から8番目の詩「山帽子」がダントツにすばらしい。始めから読んで来て、ここで、ふわっと意識が海上に飛翔した感覚を持った。哀しいほ澄み切った珊瑚礁の海に。「無断で生まれ、散策するように生きてきた…そういうものとは無縁に山帽子が門前に咲いている」。先日私は自分の詩の朗読会で1987年から2005年の18年間に5冊の詩集を刊行して95篇を発表した。今夜はそのうち良いと思うもの17篇を読みます。と言った。会の後の飲み会で、自分の詩を残したいと思うのか。と質問され、「17篇も残そうと思うなんて虫がいい」とからかわれた。さらに、今夜ウドーさんが読んだ中で、いま覚えているのは3つ位かな。あとはどんな詩だったかも覚えていないよ。と、これは、あさやけ3羽がらす中の1羽の有難いご意見だった。いま、このやり取りを思い出している。水島さんの22篇の中に1篇、ここに全部書き写したいほどの詩に出会うことが、自分が詩を書き、ひとの詩を読み続ける理由なのだ。あさやけのお兄様がたは、そうカンタンに他人を認める人たちではないから、あの厳しい物言いは、言いかえれば、今夜はご苦労、というオマージュなのだと信じている。『雲が…』は、若い人の詩にありがちな言葉自体の自己主張をあまり感じないという感触を持った。詩語に疎いのとはまた違う。言葉をコントロールする知性が作用するゆえの、ぎこちなさ。これは貴重だと思えた。
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