Jun 24, 2016

実物のモーツァルトカレンダー

ネットで検索するとモーツアルトカレンダーがヒットしました。それも実物、つまりモーツァルトグッズや伝記でひと月分一枚を構成しようというもの、いや見ていないので単なる推測ですが……。だが待てよ、そちらは本物(実物)、こちらは嘘物(フィクション)つまり、同じタイトルでも、こちらは仮称、書き手の頭のなかにだけあるもの、実物として手にするものではない、イメージとして受け取るだけのもの。そこが怖いところ、実際と詩との違いがこれほど露わな例はないということです。だけど紛らわしいなあ……でもあり得ることではある!
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Jun 23, 2016

『モーツァルトカレンダー』を送らせていただいた方々から

おはがきをいただきました。

「全体が読者に向けて開けられている窓の様な印象です。ここには聞こえてくる音楽としてではなく、佇む詩人の身体を通して動体のモーツァルトが居ます。卓抜したエッセイ、一篇拝読いたしますたびにしばし沈黙の時を過ごします。」… (6月19日)

「モーツァルトの楽曲仕様の素晴しい読み応えのあるアンソロジイでした。gloxinia という語の語音に魅かれ、ロベール仏和大辞典を思わず検索し、1149P で出会いました――熱帯のけだるさに触れました。”Savinio”はやはりmy favorite poem です――引用のイタリア語とも絶妙に響き合っています。」…(5月24日)

「グレン・グールドは、ぼくも大好きです。それにしても、オセロのような碁盤のような表紙の放っている、白と黒の与えるイメージは本当に新鮮でした。モーツァルトは母が好きでした。小生はこのところはヴェルディの「リゴレット」を何度も聴いています。」…(5月23日)

元気をいただきました。ありがとうございます!
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Jun 19, 2016

モーツァルトを許さないグレングールド(2)

バッハのように弾き始めて、おやこれは?と違和感を覚える。いつものように昇って行けない?おや、おや? 少し焦る。いつもならさっと音楽の中に沈んでいける 、水の中に入って泳ぎ始める瞬間のように。だが、このソナタではそれがうまく…変ロ長調のソナタ…なんだか引き戻されるような感覚がある
音楽というのは作曲者じゃなくて、演奏家が創りだすものだ。楽器のように曲はきっかけに過ぎない、いやこれは言いすぎ。パソコンで言えばハード。音楽においてソフトは演奏家、彼が時代の創造者。しかもハードがソフトの質を左右する。だから、その時代を現に生きているいろんな国の演奏家によっていろんな時代の音楽が作り出される。演奏家が好きな作曲家の曲を選ぶのは、自分にあった好きなピアノを求めるのと同じだ。
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Jun 16, 2016

モーツァルトを許さないグレングールド

 グレングールドは音楽の本質に向かって、生涯をかけて深く沈潜していったピアニストだ。 その意味では、晩年のモーツァルトにその本質は共通する。モーツアルトは嫌いなのではない、もっと否定的だ、許し難いのだ。と語る。モーツアルトは早く死にすぎたのではない、死ぬのが遅すぎたのだ。「自分の資質に頼って増長して生きたために、二流に落ち込んでしまった」とまで貶す裏には、心配でしょうがない親心のようなものが垣間見える。おれはモーツアルトの二の舞は踏まないぞという自己に対する警告のようにも聞こえる。モーツアルトの妥協を入れない音楽活動に自分の活動の方向を見ていたのかもしれない。世間の風当たりが厳しくなればなるほど、モーツアルトには焦りの色が濃くなる。自分の音楽に対する顧慮と同時に、自分の持ち時間に対する焦りも感じはじめる。モーツアルトが作品ノートを付けはじめた時、自分の命の証しを確保したいという欲求も目覚めた。物凄く多忙だった、そうしなければ生きていけないフリーランスを余儀なくされていたにもかかわらず、これだけは譲れない、と自覚したのが、自分の音楽作品の拡散をなんとしても防がなければならないという自意識だったろう。自分の作品は自分自身の命の核から噴出してくる自分の命そのものだという自覚。生きることはその奔流をかたちにして見えるようにすること、そのことが唯一無二の自己証明だった。グレングールドもその点では共通している。ただモーツアルトのように生活に逼迫はしていない境遇だった、芸術家として恵まれていた、だからモーツアルトよりさらに深く本質的であることが許された。後代の音楽家の強みだろう。モーツァルトに足りなかったところ、そこをあやまたず的確に突いて、それを自分の音楽家としての指針にもしたのだろう。それほど嫌いな音楽をあれほど熱中して再創造し、まるで《情事の最中のように》身も世もなくさらけ出してしまう。まるで白と黒の鍵盤が清潔なベッドに見える、その上で求める人とする生殖行為、つまり生き物として、まっさらな新たな世代の生き物を創りだすための待ったなしの行為を、まるで創物の神に命令されたかのように素直に実行するのだから、いのちを遣う行為、をごまかさない、それがモーツアルトとグレングールドに要求された、生れてきた意味に従容として従うことが人間のなすべき唯一のことだ、という本質に最も近い人間=自然としての共通点だ。グールドはモーツアルトが挫折したところから立ち上がってさらに深く降りていった、それは時代が進んだからだともいえる。映像でみると痛々しくてひりひりする。
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Jun 01, 2016

『モーツァルトカレンダー』

音楽好きな若い詩人二人の力を借りてようやく私家版として出版にこぎつけました。今の私にできる精一杯の仕事でした。結果は、OKです。國峰照子さんから「有働さんの音楽の吸い込み口がよく分かる」との感想をいただきました。《吸い込み口》とはまさにぴったりな、ピアノを弾かれる國峰さんならではの表現ですね。編集の榎本櫻湖さん、表紙デザインのカニエ・ナハさん、爽やかなお仕事を感謝します。これでモーツァルトという最強の蜘蛛の捕虫網から脱出できるかな?あるいはこうやってひっかかったまま干乾びる? モーツァルトは はだか=スタンダール、モーツァルトは世界中に飛び散るタンポポの綿毛=有働薫、je seme a tout vent=ラルース辞典の標語(どんな風にも種を撒く)。モーツァルトはまた別の表現をすれば、ゴシック建築、バッハはロマネスク、グールドは自然、3人ともそれぞれの純血種……
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